魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

厳として

2010年11月30日 | 星の流れに

このところのダイナミックな動きは
「歴史とは、このように展開するものなのか」と、感動させられる。

日本に土星が来るたびに、軍事体制が強化されて来たわけだが、昨年の土星到来で、民主党政権ができた。それが、何で、逆の軍事強化になるんだろうと、星の示すことと、反対のような気がして、やや、不思議な気がした。(それでも星を信じていたが)

ところが、現実を無視した平和主義が、返って戦争を引き起こすという、英国のチェンバレンの例もあるように、ハトのたった一つの糞がきっかけで、平和の門が崩れ落ちる連鎖反応が始まった。

もちろん、そこに到るまでの状況があったから、一気に動き始めたのではあるが、ついに、民主党政権をして、武器輸出三原則を見直さざるを得なくなった。

願うだけ、言うだけでは平和は来ないと、改めて思い知ることになった。

星は恐ろしい
この上は、逆ブレの行き過ぎにならぬことを、祈るばかりだ。

仏の顔も三度」、「84年と60年


デスマス

2010年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログを書きながら、常に不安なことがある。
文章の冗長を避け、明瞭にしようと、断言調で書いているが、嫌悪感をもたれて、のっけから拒否されるのではないかと、不安になる。
「巧言令色すくなし仁」とは言うが、日本の政治状況をみていても、世相の人物評価をみていても、「巧言令色」が好まれるようだ。
ことに近年、その傾向が強い。

同じ文章が、「です、ます」調ならどう変わるか、昨日の文章をそのまま言い換えてみた。

「人間不在」
ほんとに、今の世相は心配になります。
柳田法相辞任の失言について、世間の多くの方が「失言」だとお考えのようで、何かそら恐ろしさを感じます。
何度も言わせていただきますが、日本人の「人間力」が薄くなってはいないでしょうか。
精密機械、ガラスの国民による国家は、小石の一撃で崩壊します。

柳田法相の「失言」は、面白くはなくても、冗談でしょう。
冗談にはうまいもヘタもあります。冗談で済まない冗談もあるでしょう。
それでも、それが冗談で言われたことか、そうではないかを解った上で、むしろ下手な冗談を笑いものにするぐらいの度量があれば、人間力がより機能して、良い判断ができるのではないでしょうか。

冗談の揚げ足を取って、攻撃のネタにする野党も野党ですが、不都合だからと言って、すぐ詰め腹を切らせる与党も与党ではありませんか。
また、それを見て、マスコミ、国民の方々も、冗談は許さないのが当然だとお考えのようです。

これは、戦前の「非国民だ!」「敵性英語を使うな!」と、同じような、ゆとりの無さではないでしょうか。
「ただの冗談じゃないか」と、表だって口にすることができなくなっている時代ではないかと心配になります。

国民の人間性が衰退しているとすれば、それは「人間性」が努力目標にされた時から始まったのではないでしょうか。
「差別をするな」、「弱者優先」・・・など、人間性が絶対正義にされた時から、何かが欠落し始めたような気がします。

人間性とは、そんな単純なものでしょうか。人間性を、単純な比較論だけで考えれば、それはそうかも知れません。もしそうだとすれば、弱者優先の逆差別が起こったとしても無理からぬことでしょう。

良い例えではないかもしれませんが・・・、
身長の高低を優劣の尺度として、背の低い人に合わせることにしたとしましょう。大きい靴の生産は後回しにして、先ず、「不遇な」小さい人のサイズから生産しなければならない・・・

そんなルールが世の中の基準になっていれば、いつのまにか、身長の高い人は悪い人のような雰囲気になってしまうかも知れません。
たがいの違いを優劣として考えると、そんなことも起こらないとも限らりません。
人は心も形も多様です。幅広い理解があってこそ、人間力が育つのではないでしょうか。

劣等者とされていた人を、単純に逆の立場にしてあげることが、人間の尊重でしょうか、単に立場が逆転しただけでは、新たな差別、つまり、逆差別が生まれるだけなのではないでしょうか。

人権は平等でなければならないとしても、人間には多様な個性があります、それぞれに、別な能力があるでしょう。
例えそれが、社会にマッチしない能力であったとしても、排除されてはなりませんし、最も必要にされる能力であっても、その方が全能な人と言うわけでもないでしょう。

社会を強くするのは、違いを認め合い、助け合う「理解」ではないでしょうか、
戦後の機械的な平等主義は、そうした「人の絆」を裁ち切ったようです。
糸の切れた人々は、不安で、寛容と結束が出来ない烏合の衆のようになり、スキさえあれば、たがいに非難やイジメに走るようになりました。悲しいことです。

烏合の衆と化した人々は、付和雷同することがあります。
言葉尻や、小さなミスを攻撃するようなことは、だれでも「卑怯」なこと解りますが、
今の日本では、マスコミは小さな欠点探しが仕事のようになり、ネットでは、炎上や個人情報の暴露などが、毎日話題になり、お祭りのようです。

そうして、日本の世論はいつも西に東に揺れ動き、その度に首相が替わり、大臣が更迭されます。

日本は、首相がクルクル変わり、国民は恥ずかしいことと思っていますが、そうなったのは、冗談嫌いで真面目な、日本国民の総意とは言えないのでしょうか。

・・・・・・ あ~、やっぱり、断言調で行こう (^^;) 


人間不在

2010年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

ほとほと、世相にあきれ返っている。
柳田法相辞任の失言について、世間の大半が「失言」だと思っていることに、そら恐ろしさを感じる。
何度も言うのだが、日本人の「人間力」が薄っぺらになっている。
精密機械、ガラスの国民による国家は、小石の一撃で崩壊する。

柳田法相の「失言」は、面白くはないが冗談だ。冗談にはうまいもヘタもある。冗談で済まない冗談もある。
しかし、それが冗談で言われたことか、そうでないかぐらい理解して、むしろ下手な冗談を笑いものにするぐらいの度量がなければ、人間力が機能しない。正常な判断ができなくなる。

冗談の揚げ足を取って、攻撃のネタにする野党も野党だが、不都合だからと言って、すぐ詰め腹を切らせる与党も与党で、それを見ている、マスコミ、国民も、冗談を許さないのが当然だと思っている。

これは、「非国民だ!」「敵性英語を使うな!」と、同レベルの、ゆとりの無さだ。
「ただの冗談じゃないか」と、表だって言えなくなっているのだ。

国民の人間性の衰退は、「人間性」を努力目標にした時から始まった。
「差別をするな」、「弱者優先」・・・など、人間性を絶対正義にした時から、何かが欠落し始めた。

人間性というものは、単純なものではない。にもかかわらず、人間性を、単純な比較論だけで考えるから、弱者優先の逆差別が起こった。

例えて言えば、身長の高低を優劣の尺度として、背の低い人に合わせなければならない。大きい靴の生産は後回しにして、先ず、小さいサイズから生産しなければならない・・・

そんなルールがまかり通っていると、いつのまにか、身長の高い人は悪であるかのような雰囲気ができあがる。
たがいの違いを優劣として捉えれば、こういう「差別」が生まれる。人間は心も形も多様であり、それが理解できるのが人間力だ。

劣等者とされていた概念を、単純に逆の立場にすることが、人間尊重だと勘違いするから、単なる立場の逆転、逆差別になる。

人権は平等でも、人間には多様な個性があり、それぞれに、別な能力を持っている。
例えそれが、社会にマッチしない能力であっても排除されるべきではないし、最も必要にされる能力だからと言って、その人が全能な人と言うわけではない。

社会を強くするのは、違いを認め合い、助け合う「理解」だが、
戦後の機械的な平等主義が、そうした「人の絆」を裁ち切った。
糸の切れた個人は、不安で、寛容と結束が出来ない烏合の衆となり、スキあらば、たがいに非難やイジメに走るようになった。

烏合の衆は付和雷同する。
言葉尻や、小さなミスを攻撃することが「卑怯」とは、誰も思わなくなった日本では、マスコミは小さな欠点をほじくり出し、ネットはハイエナのように個人攻撃をする。

そうして、世論が西に東に群れ動くたびに、首相が替わり、大臣が更迭される。

国民は、首相がクルクル変わり、恥ずかしいと思っているが、そうしているのは、冗談すら通用しない国民なのだ。


名残の春

2010年11月24日 | 星の流れに

11月19日、木星が順行を始めたので、危ないなと思っていたが、目先の世相にあきれ返っているうちに、また、北朝鮮がやってくれた。

天王星と木星が、牡羊座と魚座を行ったり来たりする2010年は、何とも先が読めない、予想外の連発する年なのだが、本当にそうなってきたようだ。

以下はヤヤコシイ話なので、結論から言えば、中国共産党の終わりの始まりが始まったと言うことだろう。悠久の中国時間ではあるが。

経緯(木星・天王星)
8月半ば、逆行の天王星が魚座に帰り、同じく9月の始めに木星も魚座に帰った。日中間に何が起こったかは、今さら言うまでもない。
さらに、木星が順行を始めたとたんの半島有事だ。

この半島有事は、占い的には紛れもない、第二次朝鮮戦争と言える。
3月26日の哨戒艇沈没事件と、11月23日の延坪島砲撃は、天王星と木星が魚座にいて、牡羊座に向かっている。
3月の木星は深いところにいたので、北朝鮮と中国は、してやったりだったが、今回は浅く、ほとんど牡羊座に抜ける状態だ。

それでも、10日ほどすれば天王星も魚座で順行を始め、中朝にとっては、まだ春が残っている。
しかし、来年2011年早々1月末、木星は牡羊座に入り、3月には天王星が完全に牡羊座に入る。

牡羊座に「木・天」、天秤座に「土」、山羊座に「冥」・・・かに座の中国は窮地に立たされるが、そこに4月、海王星が魚座入りする。
これは不幸中の幸い、気休めではあるが、中国が爆発するよりましだ。
この、海王星はすでに2年ほど前から魚座に影響を与えているので、中朝韓は実体のない夢を見る。(イベント、芸能、為替が有利に)

2003年頃からの天王星→魚座が、中韓の爆発的発展に寄与し、北朝鮮には核化をもたらした。
魚座は、アメリカにとっては苦難であり、そのスキに中朝韓が鬼の居ぬ間の洗濯をしたわけだ。

変容宮・双子座のアメリカに入れ替わり、活動宮である中国に苦難がやってくる。もちろん日本にも苦難だが、日本は自分が変われば避けられる苦労だ。
日本が苦難から逃れるには、相手に振り回されないことが重要だ。
つまり、独自の生き方を探り、外的状況には一歩引いて対応する。

しかし、現在の「処置と対応のエンジン政権」では処置無しだ。
これが運命というものなのだろう。


あさり~

2010年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃、「日本人は世界一器用だ」「日本人は頭が良い」と言う会話を、ほとんど毎日聞いていたような気がする。
おそらく、戦前からの、「大和民族」、「大和魂」の、民族主義がそのまま続いていたのだろう。

敗戦の失意の中で、日本人を奮い立たせるには、きっと、大いに役に立った自負心だったにちがいない。
何もかも失った焼け野原で、たった一つ頼れるものは、己のアイデンティティーしかなかったからだ。
破綻した古い時代の概念も、無から有を生み出す大きな力となった。

近頃、不況続きで経済戦争にも負け続けている中で、「日本のもの作りの伝統」とか、「日本のブランド力」とか、やはり、毎日のように聞こえてくる。
戦後、聞いた、何かに頼ろうとする言葉に似ているが、これは反対に、墓穴を掘る言葉だ。

己の「能力」を鼓舞する言葉と、「所有物」に頼ろうとする言葉とでは、祭りの宵宮と、祭りの後ほど違う。
「伝統」や「ブランド」は、先人の遺産であり、それは、現在を生きる人間が、今と戦い創造しながら、はじめて残していけるものだ。

焼け野原なのだ
ノーベル賞や日本ブームなど、今、日本が享受しているものは、過去の遺産であり、同時に、負け続けているのも、重厚長大な過去の産業システムと、そこに埋没しているマインドのためだ。

「就職難」という現象は、高度成長期の右肩上がりの大企業信仰に、企業も国民(学生)も埋没しているからだ。

先代が優秀であるほど、跡継ぎは難しい。
戦中世代が、死にものぐるいで切り開いた戦後経済を、戦後派の二代目が何とか引き継いできたものの、
「売り家と唐様で書く三代目」が、家屋敷を売り払おうとしている。

もう、売り食いもできないところまで来て、それでもなお、過去の栄光を夢見ている。
老後の優雅な年金暮らしや、個別保証のバラマキ政策など、本来、とっくに出来なくなっているのに、だれも、止めることが出来ない。
事業仕分けなど、ただの、延命処置に過ぎない。
「目を覚ませ!」と、空蔵をたたき壊すことを誰もしない以上、
黒船がたたき潰してくれるまで、待つしかないのだろうか。

「就職」する、企業もなくなれば、「夢をかなえる」などと言っていられなくなる。
食うためには、何でもやらなければならなくなるだろう。

「あさり~、しじみ~」は、起業の原点だ。


暴力装置

2010年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム

18日の国会で仙石官房長官が自衛隊を「暴力装置」と言ったことに抗議されて、謝罪したが、もう、何から何までメチャクチャだ。

「暴力装置」と言ったことが、メチャクチャなのではない。
すぐ、謝る態度の方がメチャクチャなのだ。
問題が起これば、すぐ対処する。取り敢えずのことを、先ず、しようとする。(まさにこれが、エンジンなのだが)
そういう態度が、立て続けの失敗を積み重ねている原因だ。

「綸言汗のごとし」と言う、古代的価値観の日本を含むアジアでは、為政者が簡単に言葉を翻したり、謝ったりするだけで、失格とみなされる。
アメリカのように、民主主義の本家では、訂正や謝罪は悪いことではないし、日本もそうあるべきだが、アジア的価値観はいまだに厳然と存在している。

だからと言って、トコトン突っ張れと言うのではない。
自分の言葉は、意を尽くしてトコトン説明をすることも責任だ。

他の失言はともあれ、「軍隊は暴力装置」であることは事実だ。
響きの悪い言葉だからと言って、間違っている訳ではない。
戦争はスポーツの試合ではない。戦争は暴力の応酬であり、それを引き受け、歯に歯を用いる役目をするのが軍隊であり、暴力装置である。それぐらい強くなければ困る。
国民が、それをコントロールするからこそ「軍」という機能が働く。

質問していた、丸川議員が「シビリアンコントロールする資格がない」と言っていたが、まったく逆だ。
暴力装置と心得るからこそ、「コントロール」できるのではないか。

軍が、内部規律の延長線上で自ら最終コントロールするとすれば、それは軍事国家だ。

たとえて言えば、腰の刀を「人きり包丁」と言う心がけこそが、抜かない意志を固める。
刀に惚れ込み美化していれば、何時、正宗が村正に変わるかも知れない。威力とはそういうものだ。

何かちょっとしたことで、すぐ態度を変える(謝る)様なことをせず、
「暴力装置をシビリアンコントロールしてこそ軍事力たり得る」
と、答えないから、話しがどんどんややこしくなる。

内政外交共に、ハチャメチャになっているのは、突っ張る「覚悟」がないエンジン政権だからだ。


ギャクに

2010年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

ツイッターはやらないので、よく知らないのだが、「~なう」という言い方が流行っているようだ。

状況コメントの後に「~なう」と入れるのは、英語の「now」をそのまま日本語にしたのだろうから、日本語の感覚なら、「今、~」となるところで、配列的にも「新鮮さ」を感じるから、ウケるのだろう。

しかし、ツイッターをやったとしても、「なう」は使わないだろう。
どうも、日本語の音の響きとして好きになれない。
昔、「ナウい」という言葉が登場した時にも、嫌悪感を感じた。

「なう」も「ナウい」も、同じ線上にあるのではないかと思う。
内輪だけの、ちょっとした言葉遊び的な流行としては面白くても、それをマネして、およそ関係なさそうな人間が言えば、何となくイヤミになる言葉ではないか。

だから、「ナウい」も、世間に知られたとたん、廃れ、その上、死語の代表として記憶されている。
ただ、「~なう」の場合は、もう一つ、民謡の間の手「ハイハイ」「ハ、よいしょ」的な、無用の用の存在感があるのかもしれない。

もう一つ、気になる流行語で、「ギャクに」がある。
この「逆に」は、本来、物事の多面性を語る時に使われる言葉だが、当然の事ながら、「逆に」が使われる話はややこしい。

そんな、ややこしい話しについて行けない人は、話す人の表情や、言葉尻ばかりに関心を持ち、
「話をもっともらしくするには“逆に”と言えばカッコイイ」と受け止め、話法として「ギャクに」を連発する。
すると、同類の仲間が、そのトンチンカンな話に食いついて
「逆じゃないし~」と突っ込み、ギャグにする。

終いには、本当に真面目な話の最中、「逆に」と言ったとたん、
「逆じゃないし~」と、突っ込んで茶化し、話にならなくなる。
そんな現象まで起きている。

真面目で、ギャグやしゃれが解らないコチコチ頭も困るが、何でもギャグで茶化してしまう風潮にも、日本の行く末が案じられる。
もうかなり、来るところまで来ているのだが・・・


どさくさ

2010年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

尖閣について書くのはもう止めようと思ったが、あまりにも酷い混乱に、また、ぼやきたくなった。

詳細はめんどくさい。結論から言えば、
全ては・・・「国外、少なくとも県外」から始まった。
せっかくの「政権交代」を、割れた茶碗に砂をかけて盛りつけた。

もしかしたら、鳩山由紀夫という人は、自民党が深慮遠謀として放った、いざというときの布石の隠密だったのではないか。
仮に、落城しても、先に乗り込んで井戸に毒を放り込む為に、敵方の参謀として潜り込んだタイトロープだったのではないか。
・・・そう考えたくなるぐらい、決定的なダメージを新政権に与えた。

鳩山の後、主力小沢派と戦った菅政権は、若手中堅に頼らざるを得なくなり、次々と起こる失態の対処に追われ、身動きがとれなくなった。

映像漏洩では、現職の馬淵大臣が責任追及されている。
確かに現職中に起こった漏洩ではあるが、発端は前職前原大臣であり、逮捕したのなら、直ちに映像を公開すべきだった。
(しかも、ずさんな管理で放置したのは、むしろ前原時代だ)
司法手続き云々と言うだろうが、これがつじつま合わせ思考であり、事件を大局的に捉えずに、事柄別にしか見ずに決行する。

前原方式は今回も、ことごとく外れているにもかかわらず、威勢のいい言動が、あたかも、正義の人のように、持ち上げられている。

そこに、ネット映像という、大転換の波が襲った。

情報化時代、もう、あらゆる秘密は無くなったと考えるべきだ。
プライバシーという概念を、ようやく身につけた日本人にとっては,何とも皮肉なことだが、ヘソのホクロも、脳内さえも見られてしまう時が来た。(まる見え1

秘密や機密を前提にして、「知らしむべからず」でする政治はもう通用しなくなった。
もし軍事機密が不可能になれば、戦争も不可能になる。
例えば、そんな時代が押し寄せてきている。

ネットに接している者なら、容易に想像が付くこの感覚を持ち合わせない、前時代の「政治家」という種族が、見せろ見せない、漏らした、責任とれ、と騒いでいるが、全く持って井の中の蛙。カエルのお父さんの、お腹パンク騒動だ。

言論の自由の日本でさえこの騒ぎだから、中国で報道管制の堰が切れたら、一体、如何なることに成りますやら・・・
もはや、時間の問題なのだが

集めるな

まほろば(7)ゾンビ
(まさに問題発生時点で書いていたら、日本で起こっていた)


弟妹能力

2010年11月12日 | 兄弟関係

アジア大会サッカー予選で、中国が日本に惨敗し、ゴールキーパーがツイッターでぼやいたのが、騒ぎになって中国でもめている。

AB型指向の中国は球技に向いているはずだが、当分、サッカーはダメだろう。

球技にも様々なタイプがある。球扱いだけが勝敗を分ける競技と、チームプレイがものを言う競技がある。
チームプレイと言っても、野球のように攻守が入れ替わる秩序型と、サッカーのようにリアルタイムの無秩序型があり、無秩序な世界に強いのは弟妹だ。

元々、スポーツ全般は弟妹に有利だが、中でもサッカーは、断然、弟妹型のスポーツだ。サッカーのスターのほとんどが、長子ではない。
「こうにちがいない、こうであるべきだ、こんなはずはない・・・」
そんなことを考えていては、弟妹はやっていられない。
親兄姉の横暴に、恒に対応しなければならない生い立ちだからだ。

時間的にも空間的にも「思いがけない」ことの連続するサッカーは、
頭の切り替え、素早い対応が勝負になる、まさに弟妹のためのスポーツだ。

国の兄弟型と言うことも相当影響するだろうが、その国の青年の現在の感性が、長子型か弟妹型かということがもっと重要だ。
中国は長年、一人っ子政策を続けてきた。仮に個々の選手は弟妹であっても、若者全体の感性は長子、それも一人っ子型になっている、としてもおかしくない。

極端な話し、一人っ子だけ集めたサッカーチームなど、想像もつかないほど滑稽だ。
個人の技術は素晴らしいのに、試合になるとバタバタになる。チームプレーがまったくできないからだ。トレーニングを重ねて、連携プレーができるようになっても、遠慮し合って、ゴールが決まらない。
・・・日本のチームが、まさにこれだった。

日本のこの傾向は、いまだに解消されたわけではない。
セットプレーと華麗なパス回しは、流れの中で、臨機応変にゴールに突進するサッカーの醍醐味とはほど遠い。
しかし、どんな形であれ、国の特性を活かせば、それなりに戦える。
このところ日本が強くなっているのは、守りを軸にしているからなのかも知れない。

また、もしかすると、不景気が続いているせいなのかも知れない。
どうも、サッカーは、発展途上国や貧乏国の方が強いような気がする。


動物園

2010年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム

大型スーパーで、親子連れを見るのは楽しい。
行楽と違い、家族の日常がそのまま見られるからだ。
家族関係、親子関係、兄弟関係の観察には最適で、大して買う物が無い時でも、わざわざ出かけていく。

1歳ぐらいの弟を抱いたお母さんに代わって、一生懸命、袋詰めをする10歳ぐらいの長女。

家族から離れて行ったり来たりしながら、おどけて笑わせようとする末っ子。無視して歩く両親と長男。

訳のわからないことで、終始、泣き続けている末っ子。

弟の失態で叱られる長男、長女。

カートの下に乗り込んだ長男、僕も乗りたいと泣く弟。困って長男を叱る母親。泣きながら替わって乗り込む弟。

マン・ウオッチングほど面白いものはない。
動物園も、水族館も、バードウオッチングも目ではない。
旅行をしても、景色などほとんど見ない。
人とその造形、営みこそが面白い。

チンパンジーの権力抗争に人間を見ると言うが、
世の中の権力抗争こそがチンパンジーだ。

街行く人を、ちょっと引いて眺めると、滑稽で不気味な猿の群れだ。
毎日、ワケのわからないものを身にまとい、他の動物の肉を喰らい、餌も探さず飯を食い、隙あらば交尾しようと朝から晩まで考えている。
そんな猿が群れをなして、交差点を行き来しているのだ。

人間が猿だとは知っていても、本当に人間を猿としてみるのは、案外、難しい。でも、頭を切り換えて、街の人が本当に猿に見えるようになると、強烈なショックを体験する。
(地球は青かったどころではない。今そこにある猿の惑星だ)
そこから頭を冷やして、もう一度、自分をも含めたこの世を考えると、何とも異常で恐ろしく、しかも、穏やかな気持ちになれるから不思議だ。

動物園に行こう。入園料なしで、一日中楽しめる動物園に


黙っていられない

2010年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

またも、中国で沖縄独立論が出た。
今度はネットではない。政府系の「環球時報」で
「被抑圧民族を解放する」というスローガンを掲げている。
それも、かなり酷い捏造を前提にした記事だ。
どこかの軍国主義国家が、昔掲げた大義名分と同じ
時代錯誤の、とんでもない侵略主義だ。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1110&f=politics_1110_010.shtml

沖縄独立論を理解しているつもりの者として、到底見逃せない。
怒、怒、怒・・・だ

沖縄が独立するかどうかは、沖縄の人が勝手に決める問題だ。
どこかのお節介なジャイアンに、決めてもらう必要は毛頭無い。
逆にもし、沖縄の人が独立するというなら、止めるべきでもない。

もし、沖縄の人々が、中国の支配下に入りたいのでなければ、
県議会は、「開放してもらいたい」か、直ちに、アンケート調査をして、中国に強く反論抗議し、そして世界に大々的に広報すべきだ。
このまま放置すれば、中国の勝手な思い込みが拡大しないとも限らない。

チベット、ウイグルを始めとする、悲劇を目の当たりにすれば、
座して、傍観していられるような時ではないはずだ。

これは日本政府が反論すべき問題でもないし、すれば、むしろ中国の暴論を助ける思うつぼになる。

また、沖縄の独立論者も、「中国に手伝ってもらいたい」のか、ハッキリさせるべきだ。

いずれにせよ、今は、当事者の出る番だ。


暴走列車

2010年11月07日 | 日記・エッセイ・コラム

もう、あれこれ気を揉んでも仕方がない。
政治も、経済も、何もかも星の通りに進んでいく。
世の喧噪を載せたまま、今日も列車はひた走る。

頭に来た時ほど、戦をせまられた時ほど、
相手の立場に立って考えてみる必要がある。
自分の立場からの、怒りにまかせた言動は、何一つプラスにならない。

相手の立場に立つと言っても、自分が見た相手の立場では、なお悪い。

日中双方とも、自分の価値観から推し量る論調に被われている。
日本は、中国の覇権主義だけに着目し、
中国は、日米が、中国台頭を邪魔しようとしていると見る。

つまり、どちらも悪意はないのに、双方とも相手の悪意だと受け止める。これが、諍(イサカ)いの始まりだ。

読み違い
流出ビデオを見て、「船長は、やっぱり政府の回し者だ」と思う人が多いようだが、先のハノイの日中首脳会談ドタキャンの前に、前原外相と会談した中国外相・楊潔チー氏の表情をどう見ただろう。
あの時のTV報道を見た瞬間、「あれっ!」と、思った。

ほんの一瞬だったが、前原外相と向かい合う楊潔チー氏の表情が、いつものぶっきらぼうではなく、異常に愛想が良いのだ。
にもかかわらず、その直後の前原外相は、大成功かのごとき記者会見をした。・・・そして、ドタキャンだ。

人の表情を読む専門家でなくても、多少世慣れた人なら、『おかしいぞ。要警戒だ』と思うはずだが、現場の前原外相を筆頭に、誰も相手の腹を読めず、ドタキャンに、ただ驚き、アレコレと妄想する。
これが、人間力の欠如というものであり、今の日本を被っている。

疑心暗鬼の時代だからこそ、たとえどのように編集された映像からでも、個々が実体を見抜く力を持たなければならない時が来ている。
(真実は嘘の中にある)

漁船は陰謀的なものではない。ただし、これを利用しようという意志はある。この違いをハッキリ区別しなければ、対応を誤るし、間違った世論が形成されていく。
そして、実際そうなっていくだろうから、もう、何も言う気にもならないのだ。


重箱掃除

2010年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム

「前原誠司」は歴史に残る人になった。
小さな石でも、池に投げれば、広がる波紋は大きい。
前原がコチコチの小石でも、
中国が日本の人事に口を出し始めた以上、辞めさせるわけには行かない。
無理が通れば道理が引っ込む、とはこのことだ。

中国の出方は、大人げないが、それ以上に大人げないのは日本だ。
このところの失敗の上塗りは、大局観のない、軽挙妄動に始まり、益々それに終始している。

もう、あれこれ言うのも、アホ臭い。
土星が来れば、こうなると言うことだ。(能力萎縮・思考停止

少なくとも100年先、できることなら300年先から、現在の状況を歴史の局面として、どう対処すべきか考えてみたらいいだろう。

領土に焦点を当てて、外交を行うことが、近代パラダイム大転換の時代に、いかにバカげた、後ろ向きの消耗かがわかるだろう。

やじろべえ(天秤)の端に止まったコバエを追い払おうとして、全体をひっくり返してしまう・・・
それが、マニュアル机上論者の「つじつま合わせ」重箱掃除だ。

大局から、何を為すべきなのかが、全く見えていない。

嗚呼、何をか言わんや ・・・・  天を仰ぐ


兄弟世界

2010年11月02日 | 兄弟関係

国際関係を兄弟関係で観ると、本当に面白い。
1日、ロシア大統領が北方領土を訪問した。
またまた出てきた中間児。

日頃は、意思表明せず、状況を見て、ドサクサに紛れて「ちゃっかり」いいとこ取りする・・・これが猛獣使い中間児だ。

他国が大喧嘩しているスキに、漁夫の利をあげる。
元々、北方領土侵略は終戦のドサクサに紛れてやったことで、
今回も、日本と中国がせめぎ合い、日本の立場が苦しいと見て、
ドサクサ紛れに、中国の蔭に隠れて訪問を決定した。

今回、長子中国と一人っ子日本が大喧嘩していると、日頃は強気で罵りまくっている末っ子朝鮮半島は、妙に大人しくなって、どっちに付こうかオタオタしている。

一人っ子日本の駐車場を借りている、末っ子長者のアメリカは、取引相手の長子中国とはもめたくはないし、当面、日本に代わる駐車場もない。

末っ子のアメリカも朝鮮も、長子対決の理由が理解できない。
「何を、得にもならない喧嘩をしているんだろう?」という所だし、
中間児ロシアは「しめた!」と、実利をあげようとする。

一人っ子も長子だ。長子同志の争いは、実利に関係のない立場とプライドの争いだが、末っ子は長子のプライドが全く理解できない。
だから逆に、何かと言えば韓国は「プライド」を連呼する。

アメリカもロシアも弟妹型の国だから、強権の父兄がいなければ自制できず、結局、東西冷戦となった。
しかし、中国とアメリカは、長子と弟妹だから、案外、落としどころがある。長子は自分で引くことができるし、アメリカは機嫌の取り方を知っている。だから、中米の「冷戦」が起きることはない。

日本とアメリカ、中国とアメリカが戦争したのは、アメリカが、日中のプライドを刺激したからだが、アメリカは利害問題だと思っている。

日本への経済封鎖、中国への国境ライン進入は、どちらも力によるゴリ押しだった。日中とも最終的に、勝ち負け(損得)よりプライドにかけて、強敵アメリカと決死の戦争をした。

日中戦争は、世間知らず日本の独りよがりもあるが、中国が盤石の時なら、むしろ戦争にならなかっただろう。
長子同士は、互いに一歩引いた付き合いをすれば、(つまり、暗黙のテリトリーの認め合い)むやみに争うことはない。

日中に共通の言語は、信、義、徳・・・など、古き良き人間主義だったはずだが、西欧化の中でそれが壊れてしまった。
日中間の最近の葛藤は、帝国主義時代の頭でいる人々と、法治主義の理屈だけ身につけて、人間性を忘れた人々が、引き起こしている。