魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

末期仲間

2010年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

No.983

スーパーで、60代の女性二人の話しに、耳がダンボになった
二件隣りの、62歳の独り暮らしの女性が、心臓麻痺で亡くなっていたそうだ。おそらく、暑さもあったのだろう。

新聞屋さんが、不審に思って隣近所に聞いたが、みんな「昨日話をした」とか、「一昨日見かけた」とか言う。それでも、どうにも変なので警察を呼んで、開けたら、既に4、5日前に亡くなっていたそうだが、まだ見られる状態で良かった。
それにしても、人間の記憶はいい加減なもんだと、二人で納得していた。

『いやいや、それは、年のせいです』と思いながら聞いていたが、孤独死が普通になったことは、エライことだと思った。

死ぬのは、何も不思議ではない。高齢化社会になれば、ますます死人は増える。独り暮らしの高齢者は、ある程度、覚悟はできているだろう。問題は、死んだ後のことだ。

こうも、孤独死が増えると、死後、何日も発見されず、悲惨な状態になっていた話しは、うんざりするほど聞かされる。
死んだら終わりとはいえ、本人も哀れだし、何より周りの人は大迷惑だ。
「おくりびと」にもその話は出てくるが、事件や事故でなくとも、一般人には絶えられない現場だ。

病院に担ぎ込まれずに死ぬのは仕方ないとして、せめて、すぐ発見してもらいたいものだ。何よりも、周囲の人のためでもある。
異臭がし始めたら手遅れだ。大きなハエが飛び出したら万事休す。

孤独死を放置しないためには、何よりもコミュニティーの再構築が不可欠だが、大家族の頃には、こんなことを考える必要もなかった。
コミュニティーとまでいかなくても、自分だけでも、死んで他人に迷惑を掛けたくなければ、いくつか心がけが必要だと思った。

先ず、発見された時、連絡先と処理方法(臓器提供や直葬、埋葬先など)を書いた、身上メモを常に携帯しておく、できれば、戦時中のように胸に縫い付けておくと良いかもしれない。

次に、生存点呼の習慣を付ける。できることなら、知り合い同士、毎日訪ねるか、電話をする。それがうっとうしければ、毎朝、玄関やドアに、「営業中」をぶら下げるか、合図の傘立てでも出し入れする。
それをチェックしてくれる人もいなければ、新聞屋さんに頼んでおく。新聞を取っていなければ、市役所に相談してみる。

とにかく、異変にすぐ気づいてもらう工夫が必要だが、人に気づいてもらうより、自分が毎日、「お元気ですか」と声を掛けてまわれば、現れなくなった時には、人が心配してくれる。そいうものだが、これが難しいから孤独死になる。

戦後の日本は、若者社会、核家族、個食・・・と、求めて孤独社会にしてきたが、そういう世代が死を前にして、勝手には死ねないことに気づき始めた。
独り安らかに死ぬために、コミュニティーが必要になるとは、何とも皮肉なことではあるまいか。