魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

バカ賢い

2015年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

何か言われた時に、いきなり反撃する人がいる。
相手が何を言いたいのかよく確かめないで、「だって、それは・・・」と、怒り出す。
あくまで個人の人格によるが、民族によってもそうした傾向がある。
民族的な差異は、おそらく、言語によるのだろうが、文化によっては、即断即決を好む文化もあれば、ああでもないこうでもないと議論したがる文化もある。

いきなり怒り出すのは、多元的な思考ができない人だ。目に見える一つの事実を全てと考えるか、そこに様々な可能性を想像できるかで、反応の仕方は変わってくる。
自分が理解したこと以外にも、とらえ方があるのかもしれないと思えば、
「それは、どういう意味ですか?」とか、「と、言いますと?」とか、とりあえず「ほーう」とか、「なるほど」とか言いながら、真意を知ろうとする。

すると、言い出した側が逆に、すぐ怒り出すようなタイプの場合、
「何だ、文句があるんか?」と、怒り出す。自分の考えを直ちに受け入れないからだが、相手の言うことに、いきなり怒り出す場合も、自分の考え以外を許容できないからだ。
つまり、これで、すぐ怒り出す人は、視野が狭く、知識と想像力の無い人で、自分の考えや立場が壊されることを恐れている人だ。

すぐ怒る人には、これとは真逆の人もいる。知識、想像力があり、洞察力にも優れているため、ほとんどの場合、ゆとりを持って正しい対応ができると、自信を持っている。ところが、その正解を何が何でも聴こうとしない人が現れた時、その人を説得しようとして深入りし、エネルギーに巻き込まれてしまい、ミイラ取りがミイラになる。

こういう自信家は、自分の思考を上回る概念がでてくると、感動し、多くはとりこになる。
自分の知識や論理で理解可能な範囲での、超越した結論を提示されると、
「ああ、そうだったのか!」と、恐れ入る。
自分の解けない問題の答えを知っている「尊師」だと錯覚する。

例えば、花が美しいのは色と形があるからだと思っている人に、あなたが見ている色と形は本当の花のものではない。本当の花の色と形は、実は私にしか見えないのだ。
そんなことを言われると、花と色と形の関係を知っている人の中には、「そうなのか!」と信じる人がいる。花の美しさについて始めから関心の無い人は、興味を持たないから信じない。

視野が狭くて理解力に自信の無い人、その逆に、自信家故に何でも無理に理解してしまう人。どちらが罪が大きいのかよく解らない。
他人に対して、とりあえず感情のままに無理難題をふっかける人。何でも相手のいうことを理解しようとする人。両者が存在するところに、トラブルが起こる。
しかも、この関係は、家族、友達、集団、国家・・・案外、どこにでも転がっている。
馬鹿すぎるのも賢すぎるのも、問題だ。


適性検査

2015年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

体力測定で、隠れたスポーツ才能を発掘しようとするビジネスの話をWBSでしていた。
体力と能力を徹底的に調べて、その子に適したスポーツを推奨するというものだが、発想が、何か大きく欠落しているように思う。

確かに、肉体的資質は、最も大きな要素だとは思うが、現代の思考方法全般に共通する、重大な欠陥があるような気がする。
能力だけを比較して、組み合わせを考えるゲームの発想だ。

スポーツは、肉体だけでするものではない。一定の資質を備えていれば、あとはほとんど精神、メンタルで決まる。
適正で言うなら、むしろ、性格や気質の方が大きい。

どの種目とは言わないが、
真っ直ぐでチームワークに優れた性質が向くもの、抜け目なくて個人プレイ自己顕示が活きるもの、集中力で戦うもの、瞬時に相手に反応する能力の必要なもの、読みと勘の必要なもの・・・実に千差万別だ。
応援されると能力が発揮されるものもあれば、集中力が崩れるものもある。怒れば強くなるものもあるし、脆くなるものもある。

いくら肉体に恵まれ、徹底的に鍛えても、心に問題が起これば、あっけなく負ける。
肉体の数値化を否定はしないが、気質や性格の適正の調査も絶対的に必要だ。

そして何より、子供たちに、これが一番良いなどと決めつけないことだ。
せいぜい、これらのグループの種目が向いている程度を、示すにとどめて欲しい。
適正はあるかもしれないが、子供の可能性は無限大だ。


思いの形

2015年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ上げた記事に、少々、補足を加えた。
春ですね」では、二十四節気。「私がする」では、「させていただきます」について。

言葉足らずかなと、気になっていたので付加した。時々、古い記事を読み返して、「P.S.」や「※」で補足することがある。
また、「Gooブログ」に移ってからは、過去記事の検索方法が違うので、リンクが張りにくい。その分、「同じようなことを書くな」と言われなくなって、気楽になった。

類似記事にリンクを張れば、「くどい」と思われるのは当然かもしれない。そうでなくても、視点がぶれないように意識しているから、「またか」と思われたら、喜ばしい。
絵や塑像を塗り重ねて描くのと同様で、思いは一言では表せない。
ああでもない、こうでもないと重ねていいけば、それぞれは矛盾していても、何となく全体像が見えてくるのではないかと思う。それが何であれだが。

もともと、表現は、目に見える結果が真実ではない。
言葉は、思いの衣服であり、思いは何者かの意志であり、何者かは、環境が生み出す形無き存在であり、環境は宇宙であり、宇宙は際限の無い絶対だ。
それを、神とするかしないかは、その人の人格による。人格はどこに立っているかで変わってくる。

だから、人は互いに自分がどこに立っているかを確認しようとする。語り、聴こうとする。
極端な例で言えば、無差別殺人をする人は、確認の手段を失った人だ。自分が解らないから、同等であるはずの他人を殺すことで自分を確認しようとする。
言動による、体感を通したコミュニケーションができないから、自分の消滅で、自分の存在を確認しようとする。自分の消滅手段として、自殺か殺人かの違いはあっても衝動の原点は同じだ。

若いうちは元気もあるし、自分を理解してもらうために、あるいは、自分自身を理解するために、多くの言葉を交わす。しかし、年を取れば、相手も自分も大体解っているから、あまり言葉を交わさなくなる。
年を取ると口数が少なくなるのは、言葉を超えたものが見えてくることもある。言葉のむなしさを体感するからでもある。

占いが視ようとするものも、この境地だ。言葉で説明のつかない存在。
時空を超えた悠久の大河。
まさに、「月日は百代の過客」「ゆく河の流れは絶えずして」だ。


腸内職場

2015年02月22日 | 占いばなし

今日はNHKで、腸内フローラの特集をしていた。腸内に棲息する細菌が人間を支配している話だった。

全体には、今更騒ぐようなことでもないだろうと思う。
占い的には、腸も脳も「水」であり、全ての根源だ。脳の働きが腸に影響することは昔からの常識であり、状況証拠的には当然のことだ。
それを具体的な影響作用を発見したのだから、それは素晴らしいことだが、驚くことではなく、思わず、「やっぱり」と、声が出るようなことだった。

脳の作用だけに注目している時代は、「心は胸にある」とか、「胆力」とか言う言葉が、無知で愚かに聞こえたが、人間の長い経験は、ちょっとした発見より、本質を突いていることが、ようやく見えてきているような気がする。

腸内フローラは、最近のトピックだが、いずれにしても免疫学の発展から出てきたものだろう。だが、全体的には共生説の延長のような概念に聞こえるし、それを広げると、結局は、人間は自然の一部に過ぎないという、仏教的世界に帰って行く。

その上で、このブームは何の影響だろうと考えてみると、腸は乙女座で、処理施設、工場、職場を表す。労組が元気になっているのもこの影響。
また余談だが、五行的には「水」だと言った腸は単純な水ではなく、「火」を含んでいる。古代の人が、水は火を含んでいると看破したのは恐るべき直感だと思う。

乙女座の腸が、注目されているのは、ちょうど、冥王星が山羊座に入ってからであり、海王星が魚座に入ってから、なおさら注目されているようだ。
冥王星や海王星の影響は漠然と働くから、注目度以上に、実際に社会に影響をもたらす。
乙女座にとっては好配置だから、本当に、医療通念が変わるかもしれない。

ただし、今年の夏から乙女座に木星が来るから、射手座の土星と相まって、過剰注目され、ガサネタが出るかもしれない。労組の勇み足もありそうだ。

 


私がする

2015年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム

先日たまたま、ネット上で、「若者の車離れ」の話題に怒っている若者のBBSを見かけた。
驚いたのは、全体に、「また、若者のせいにする」といった、共通認識だったことだ。

車が売れないのは自分たち大人の責任で、若者には関係ないのに、何でもかんでも俺たちのせいにする。
海外留学も車に興味ないのも、俺たちの勝手だろう。ほっといてくれ。
そんなムードが溢れていた。

全くその通りで、若者には若者の興味を引くこと、やりたいことがあるわけで、大人が自分たちの価値観で、こうあるべきだと言うのは、それこそ頑迷固陋というものだ。

ただ、驚いたのは、若者の受け止め方だ。
大人は何も、若者のせいにしているワケではない。もちろん「若者の」と言う場合は、若者を、大人と別けているから、その言い方だけで、何か、区別や差別をしているように聞こえるのかもしれないが、単純に、現状分析のために過去の消費者と比較しているだけだ。
「近頃は女性の間で、一眼がブームになっている」と言っても、特別に女性に感謝する意図は無い。

自分たちについて、何か言われると、『また何か、悪者にされるんじゃないか』と、思っているから、反発感情がわくのだろう。
裏を返せば、それこそ「近頃の若者」は、良い子にならなければならない、強迫観念があるのではなかろうか。自分のことを悪く思われたくないから、少しでもネガティブな響きがあると拒否反応を起こす。

若者のこうした感性や価値観は、大人が作り出したものだ。学校でも会社でも、責任回避が大前提になっている。言葉の一つ一つを「のかな?」とか、「と、言われています」のように、疑問形で結んだり、「させていただきます」*と、自分の意志を曖昧にしてしまう。
そして、何かと言えば、ハラスメントや、言葉狩りが横行し、個人の意志を封殺し、社会全体が、何もできない物も言えない空気で覆われている。

こんな社会で育つと、無自覚のうちに、少しでも責められることを避けようとし、非難されることを恐れるようになる。

社会秩序が破壊された、戦後の20年ほどは、若者に束縛は無かった。
太陽族から、ロックブームの頃まで、大人が「近頃の若者は」と言うのを、無視してせせら笑っていた。
大人の事情を思いやって、「自分たちが困った事を俺たちのせいにするな」と、怒る気などさらさら無かった。

社会の活力である若者の元気は、大人を無視するところから始まる。
若者にも、そういう無頼になって欲しいが、大人も、自分たちと比較せず、もっともっと、勝手きままに生きた方が、双方元気になるのかもしれない。
まずは何事も、「私がします」と、ハッキリした物言いをすることだ。

 


「させていただきます」の言い回しは、神様仏様、世の中に対する感謝の気持ちを込めた、謙虚な物言いのように思われているのだろうが、実は、他の存在によって認可されて行ったことを意味する。つまり、最終責任は自分には無いことを意味している。

レースで「1位にさせていただきました」と、いった不可思議な言い方が横行するのは、自分が勝ったと自惚れているわけではない、と表明して、周りからの妬みや風当たりを避けようとするものだ。それだけ社会が、足を引っ張り、出る杭を打とうとする空気に満ちているのだが、それが習慣化して、ますます、無責任な閉塞社会になっている。

「サ、サせていたダ、ダきました・・・」のような、ややこしい言い方を止めて、
勇気ある人から、「やったー」「がんばったー」と、胸を張って言って欲しい。


トリビア

2015年02月20日 | 占いばなし

今年の旧正月は最も遅いと書いたら、中国の新聞にもこのことが書かれていた。
やはり、お正月のトリビアとして、格好の話題だったのだろう。

Record Chinaによると、中国紙・新快報は、天文家の話として、
「今年の春節は1986年から2033年の間で最も遅い到来」であり、
昨年は、閏月があったために13ヶ月あり、(それに押されて)今年の春節(正月)が
遅くなった。次に遅くなるのは2034年と報じていたそうだ。

それはその通りなのだが、少しずれているような気がする。閏月があったから正月が遅くなったのではなく、あえて言えば、正月が遅くなるから閏月を置くことができた。と言うべきだろう。新聞記者か翻訳が誤解しているような気がする。

正月の設定は、雨水から新月を逆算するのだから、決まった日になる。それが今年は、わずか3分早かったと言うわけだ。もし、新月が8:51なら、正月は、1月20日になっていたし、そうなら、昨年は閏月を置けないことになる。

それにしても、中華圏には、未だに1年が13ヶ月の閏月がある。太陽暦に慣れてしまった日本人からすれば奇異な感じがするし、生年月日で占う場合も大いに不都合だが、農耕生活の中で、七夕を祝ったり名月を鑑賞するには、旧暦の方が都合の良いことが多い。


春ですね

2015年02月19日 | 占いばなし

今日は旧正月で、中華圏の国々では大いに祝っている。中国では春節として大々的な休暇となり、日本にも観光客が溢れている。
明治までは、日本もこれと同じ日を祝っていたが、明治6年より太陽暦に改めた。

暦は社会ルールの要であり、権力者が定める。今日が何の日か分からなければ、借金取りも月給も成り立たない。あくまで取り決めごとであり、本当は何時でも良いものだ。
だから、何に基づいて日付を決めるかは、その社会の価値観による。
つまり、正月もその社会の宗教的な儀式にすぎない。

日本は、明治6年以来、宗旨替えをしたわけだが、祝い方は昔のままの儀式を続けてきた。
学生の頃、夏休みにふらりと訪ねた温泉で空き部屋は無いと言われ、「盆正月に空き部屋なんか有るわけ無いだろう」と、叱られた。
いまでも、盆正月はどこの行楽地もいっぱいだが、休日の少なかった時代には、もっとハッキリしていた。

盆と正月をセットにするのは、いかにも日本的だ。盆は仏教で、正月は本来は農耕の年始めの意味を持っていたのだろうが、太陽暦にしてからは、むしろ、神道の鎮魂祭に近くなり、今日ではクリスマスの方が意味が大きくなり始めている。
いかにも何でもござれの、七福神が集まってできた国だ。

旧正月は、二十四節気*の「雨水」の前の新月だから、立春前後となる。今年は、それがちょうど重なって、今日の雨水が正月となった。最も遅い正月だ。
しかも、驚くべきは、今日の雨水は、8:50で、新月は8:47だ。つまり、3分差で、今日が正月になったわけだ。

ともあれ、
旧暦は季節感に合うようにできているから、正月は文字通り、「初春」になる。
今年はよく雪の降る冬だが、さすがに、旧正月を迎える頃には、日差しが春めいてきたようだ。

 


二十四節気は、春分点を0度として、太陽の黄道を二十四等分したもの。毎年、大きくずれる太陰暦に対し、太陽の位置で、毎年ほぼ同じ時期を示すが、太陽暦でも閏年などでずれるため、節日が違う日になることがある。
古代は冬至を太陽生命力の起点と考えたから、冬至を0度としていたようだが、天文学の発展で、春分を起点とするようになった。詳しくは解らないが、牡羊座を起点とする西欧思想が影響したのではなかろうか。


悟り社会

2015年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム

台湾の飛行機事故の映像には驚いたが、今回も、車載カメラに写ったものだった。ロシアの隕石衝突も、車載カメラだ。
事故の犠牲者への哀悼は別として、今や車載カメラ、あるいは、ウエアラブルカメラは宝くじだ。
意図せずして、狙っても撮れない映像が撮れる。

カメラを設置しているだけで、思いがけないお金が転がり込んでくるかもしれない。
ロシアの隕石衝突映像はウエブや使用料だけで、おそらく隕石を拾いに行った人より儲かっただろう。ただし、これも、宝くじ同様、狙って当たるものではない。

この先、ウエアラブルカメラが普及したり、もっと発展して、コンタクトカメラのようなものができれば、見ただけで記録するようになる。
昔、見ただけで記憶するスパイの話が有ったように思う。しかし今後は、文章だろうが図面だろうが見ただけで、誰でも記録するようになる。

そうなると逆に、「私は見ました」と言う嘘がつけなくなる。その一方で、映像加工技術が発達するだろうから、映像だけで、真偽の判断が出来なくなる。
映像が氾濫し、脳波を読んで人の考えも分かるような時代になると、逆に、真偽が分からないから、無感動になる。

年寄りの歳月が短いのは、何を見聞しても感動しなくなるからだ。どんな出来事も、経験と想定の範囲内であり、何事も珍しくない。
情報の氾濫するネット社会は、若者をも、そうした無感動人間に変えつつある。
近頃、話題のセックスレスも、タブーの無い日本社会が影響しているのかもしれない。

社会が自由になるほど、日本人は自己規制を始めた。
自由を国是とするフランス社会が、自己規制をしないのは、移民の異文化に対抗して、常に自分たちの文化主張を迫られるからだろう。
日本の場合は、国内に対抗する相手がほとんど無いので、文化創造が外より内に向かう。それが、自粛だ。

岡本太郎は、「芸術は爆発だ!」と言っていたが、日本の芸術は調和だ。
芸術は、本来、既成概念の破壊であり、保守派のひんしゅくを買うものだ。だから本来、国家から表彰されるような時点で、既に芸術ではなくなる。
日本の場合、世界的に評価される芸術は、浮世絵のように御法度の目をかいくぐったものが多い。ただ、仏像や建築、絵巻物のように、権力者の側から出たものも多く、日本社会の敷居の低さも大いに寄与している。そうした環境も、日本の調和芸術の背景になったのだろう。

焚書坑儒をやるような国には芸術は生まれないし、仏像の顔を削いで回った末裔が、平和主義とは聞いてあきれる。そういう狂信文化を取り入れようとしたことが、日本でも明治維新の廃仏毀釈として起こったが、すぐほとぼりが冷めた。

今、自分たちの心情を傷つけたと、世界中で互いに争っているが、これから始まる「相互お見通し」の社会では、相手に対して、「言ってはいけないこと」の礼儀が通用しなくなる。思ったことは皆、表に出て、知られてしまうからだ。
これからの社会は、「相手が何を思おうと」、許すことが礼儀になるのだろう。
まさに、慈悲と赦しの社会だ。


ピケティ

2015年02月16日 | 占いばなし

どんな流行も、渦中では近寄らないことにしている。

21世紀の試本
このところ話題の、ピケティ『21世紀の資本』とやらも、全く読む気がしない。
中身の是非より、ブームになっていることに拒否感がある。
何しろ、6000円もするそうだ(ゲームより安いが)。その内、ほとぼりが冷めて、ブックオフにでも出回れば、買うかもしれないが、村上春樹本の様に、拒絶反応で手にできないかもしれない。

子供の頃は読書三昧の健康要注意児童だったが、色々あって、読書を止めた。
それ以来、物事は先ず自分の目で様子を見てから、本は参考にする程度だ。
小説にも浸れないし、専門書やノウハウ本も情報収拾で、とにかく本を信用できない。

本は著者の排泄物に過ぎない。その人が何を食べ、どんな生活をしているかの方が本質で、それを知り、排泄物を見た時、本当は何を食べてどんな生活をすべきなのかが解る。
逆に、それを続けていると、化石になった排泄物からでも、在りし日の生き様が見えてくる。

物事の実態は、言葉や本ではない。車の運転も、法律だけを信じていては、事故に合う。違法駐車の影から飛び出す子供や、信号無視のバイクに、ブレーキの故障まで、何でも起こるのが現実だ。占いの視点は、「フォーチュン」どころか、冷徹なリアリストだ。
占いは現代の価値の体系とは無縁の存在だ。同時に、夢でもなければ、信仰の対象でもない。馬鹿にされようと罵られようと、建前に頼らず、占いの論理にさえ拘らず、ひたすら現実を見つめる。

そういう視点から見ると、ピケティ本も、ブームの実態の方に先に目が行く。
ピケティは格差論の総本山らしい。「持てる者と持たざる者」と言えば、すぐマルクスを思い浮かべる。
面白いことに、マルクスもピケティも2日違いの牡牛座だ。(1818/5/5、1971/5/7)
牡牛座は「所有」を表し、食べること、稼ぐことを考える。

すると、牡牛座の2人の発想の原点は、自分が食うことに始まっている。
そこから、「一体?世の中の人はどうやって食べているんだ」と、発展したのだろう。
マルクスが『資本論』を書いたのは40歳。ピケティの『21世紀の資本』は、30歳で発刊した、「フランス20世紀の高所得」とやらが基になって格差論が拡大し、今回の大当たり本は42歳で出ている。大体、同じ年代に業績を残したことになる。

それぞれの大家の主張は、専門家も争うぐらいだから、素人が論じることではない。
ただ、占い的人物像と時代背景だけ見てみたい。
マルクスが資本論を著した頃、天王星が牡牛座におり、現在、天王星はまた牡牛座に差しかかつている。そして、何より、海王星が同じ魚座にいる。

天王星は集中と爆発、革命の星でもある。
海王星は愛とエロス、鏡に映った虚像と実像だ。

天王星によって、牡牛座の集中力が、所得に関する革命的主張を生みだし、
海王星が社会心理の妄想を増幅し、一つの宗教を生み出した、あるいは生みだそうとしている。
さらに冥王星は資本論の頃は牡牛座で、労働と蓄積の問題が中心だったのに対し、山羊座にいる今は税制問題が中心になっている。

自動車人間では、マルクスはシャーシ。ピケティはハンドルだ。
どちらも意志の人、決めつけタイプだが、シャーシは思い込みを勢いと理屈で主張し、ハンドルは客観的事実で証明しようとする。

また、面白いのは空亡論で、いわゆる大殺界や天中殺で知られているものだが、
マルクスは戌亥空亡、ピケティは午未空亡だ。
戌亥空亡は、気位が高く、情緒的精神的でカリスマ性がある。
午未空亡は、悲観的で、現金な被害妄想が多く、「背に腹はかえられない」と考える。

ここから、マルクスが上から目線で経済の構造を考えたのに対し、ピケティは下から目線、貧者の被害妄想を証明するためにデータを集めた。・・・と、いうことになる。
つまり、マルクスの資本論は思想だが、ピケティの格差論は会計士の報告と考えられる。

中身のことは一切知らない。
だが、生物学を知らない子供にも、芋虫とミミズの違いが分かるのはなぜだろう。


列島の心

2015年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

先日、「豊かな国」で、婚姻と出産を別けて考えるべきだと書いたばかりで、渋谷区で同性の婚姻相当証明を出すニュースが出た。
理由は違うが、結果的に同じ主張で、まあ、賛同する。

大体、世界中で同性婚がたいそうな問題になるのも、婚姻が育児と一体と考えられているからだ。
確かに、動物の文化を法制化すれば、子供を育てる単位が、婚姻になるから、婚姻は子供を産み育てるための両性の単位でなければならないことになる。
ここで言う法制化とは、聖書などの「掟」に端を発するもので、宗教的で厳格な縛りを前提にしている。

そして、一神教の発展形としての現代文明では、事実上、徴税の単位でありながら、男女の性の概念から切り離せないでいる。(もちろん、徴税は社会保障と一体化しているのだが)
だから同性婚が大問題になる。結婚しなければ社会的に不利なのに、同性は拒否されているからだ。

しかし、一神教と関係の無い、日本のような海洋民族には、元来、西欧のような婚姻の概念が薄い。2人が一緒になってから結婚するのではなく、一緒になった2人が上手くやって行ければ、結果的にそれが一つの単位として周知され、認められていく。
別れるようなことになれば、女が引き取り、その親(祖父母)と面倒を見ていく。
こういう世界では、同性同士がわざわざ「結婚」する必要もない。

ただ、問題は、現代の国家がキリスト教の発展形で、このような、「いい加減な家族関係」を前提にしていないことだ。
ここが、何度も言う、日本独自の家族と社会のあり方のビジョンを必要とするところだ。

日本が、これから先の社会も、「国家」を前提に考えていくなら、夫婦や家族を単位とする徴税や社会保障の考え方を止めて、基本単位を個人とし、家族単位で発生していた義務と権利を、直接、国家との関係とすることだろう。
ただ、これは全体主義との区別がつきににくく、よほど高度な個の認識がなければ、極めて危険なあり方になりかねない。

日本の戦前の全体主義も、戦後の、最も上手く共産化した資本主義国と言われたのも、日本人の底流に、海洋民族的な島国共同体の体質が流れているからではなかろうか。


得てして

2015年02月13日 | 自動車人間学

九星で、現在の世界リーダーを見たが、実際にはそんな単純なものではない。
九星でも年干支や傾斜、神殺などもあり、細かく見れば実に多様だ。それでも、生まれ年の傾向は、やはり顕著に表れる。

さらに、占星術や四柱推命など、様々な角度から一つ一つ比較し始めれば、際限が無く、個々のリーダーの方向性や外交対応、相性など、言及すること自体に無理がある。
だから、逆に、単純な断面で考える方が、案外、全体の様相を的確に捉えることが出来る。

これもまた一つの断面だが、
自動車人間で見るとどうなっているだろう。

シャーシ 存在感= オバマ、安倍s、メルケルs
ボディー 人気取= オランドs、ポロシェンコ
エンジン 行動派= プーチン、習近平

こうしてみると、ハンドルがいない。ハンドルは策略やビジョンを考える部分だが、今の世界にはそれが無いことになる。
表向きはこの機能が出ていても、隠れた他の機能が補足する場合がある。サッチャーは表向きはシャーシだが、実際にはハンドルも強かった。逆に、ハンドルが強すぎて、おかしなことばかりしていたのが、金正日やブッシュだ。

ハンドルが無い政治家が動かす世界は、計画性が無く、悪意も無いから、良く言えば臨機応変だが、早い話、行き当たりバッタリだ。
状況次第、成り行き次第で対処するから、ビジョン、方向性が無く、どこに転がり出すか、誰にも分からない。
皆が善意で一生懸命やることが、とんでもない結果を招く。
世の中は、得てしてそういうことが多い。


まあまあ

2015年02月12日 | 占いばなし

ウクライナは、とりあえず停戦合意となった。
三碧一白の騒動に対し、ウクライナのポロシェンコ大統領は八白で、二黒の習近平と同類だから、五人組とは相性が悪い。
オバマにしてもプーチンにしても、三碧の「口から出任せ」の責任がとれなくなる。

オバマは、「イラク撤退」と言った手前で、とりあえずの無責任な撤退をしたために、イスラム国に繋がる混乱を招いてしまった。
プーチンは、「クリミアはロシア」の土地と言って支持が上がったが、親ロシア勢力をたきつけてしまった。
どちらも、軽々しい言動で引っ込みがつかず、中途半端な対処をして世界を混乱に陥れている。

そこに、独仏の「お為ごかし」一白コンビが、「まあまあ」と、なだめに出てきた。
一白と三碧は、その場の雰囲気さえ収まれば、それで事が終わると思っている。
ところが、「信念」の八白が、「冗談じゃない!」と、納得しない。一白や三碧からすれば、「融通の利かない奴」だ。
一白は「まあまあ、ここはそんな堅いことを言わずに・・・」と、ご機嫌を取るが、現実と原理にこだわる八白は怒り出す。三碧はハッタリを言うから、八白はさらに怒る。

八白、五黄、二黒の土星は、現実的だ。実際の物を見て判断する。
現在のオバマは、例外的に三碧の大統領だが、アメリカの大統領は元来、現実的な土星が多い。


歴代アメリカ大統領の九星
一白3人・二黒9人・三碧2人・四緑4人・五黄2人・六白4人・七赤7人・八白7人・九紫6人

二黒が圧倒的に多く、七赤・八白がつづく。
二黒は地味だが、エネルギッシュでバランスがとれた人格であり、
土星と金星が多数を占めるところが、いかにもアメリカ人の堅実性を物語っている。

特記すべき事は、今人気のオバマは三碧で、2人しかいない上に
両者とも、偶然性の強い大統領で、しかも、弾劾をうけたり党から除名されたりしている。(10代ジョン・タイラー、17代アンドリュー・ジョンソン)
三碧はアジテーターで宣伝上手だが脈絡が無く、指導者には不向き。

「男と女 2」(2008/2/14)より

 


豊かな国

2015年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム

東京一極集中や都会への人口集中で、地方が崩壊すると言われている。これは日本だけではなく、世界的な傾向だ。

これを何とかしなければならないと、いろいろな対策が出ているが、あまり効果的には思えない。
結局、原因は産業革命パラダイムだ。250年にわたり、世界はそれで動いてきた。部分的な解消はあっても、全体的には止められない流れだ。

大規模な生産消費は、システムとして行われる。大量生産には集中生産が効率が良いから、人、物、金は一カ所に集まる。そして、生産に携わる人間は教育されていなければならないから、技術知術を一貫して習得させる学校が必要になる。
教育された人間ほど仕事が得られるから、誰もが、学校教育を受けようとする。
学校教育を生かせる仕事は、都会に集中している。
学校も、職場も、都会に集中し、若者が集まり、ますます仕事は都会に集中し、地方に帰ろうにも帰れなくなる。それが現状だ。

国の生計を工業生産に頼れば、農業が廃れ土地は不要になり、地域に人がいなくなる。
豊かな国土を復活させようと思えば、大量生産を捨てて、近代以前の農業と家内工業の、地産地消社会にしなければならない。
むろん、情報と流通環境が全く違う現代では、農業や家内工業と言っても、昔と同じではない。地域と個人による、質と個性を重視した産業の展開が可能だ。

大規模生産は大企業の乱立を止め、大同団結で、一業種一企業に集約し、国際競争をしなければならない。国内企業同士が争っているような時代ではない。
そして、地産地消の農業を基本とする地方の再生を目指し、地域に根ざした特殊産業を育て、地方同士が競い合うようでなければ、国全体のエネルギーは復活しない。

少子化の解消
また、婚姻によらない出産育児を大前提に婚姻を考える。子供はどのような形でも産んでも良く、婚姻はそれとは別の問題とする。
もともと、出産育児は養育問題だが、婚姻は納税の基本だ。それを一体化させてきたから、結婚しなければ子供が産めないような常識が生まれた。

子供が社会の子供と認識されれば、親の状態にかかわらず、先ず、子供の養育が考えられるだろう。昔は、子供は家の子と考えられたから、夫婦が離婚しても、一家が育てるのが前提だった(母親にしてみれば奪われる)。これを、家ではなく社会と考えるわけだが、そうなると、親権の基本は母親の方が簡単だし、虐待などから、子供を守るのも容易になる。

社会による子育ては、法的な社会保障も必要だが、地域の活性化と、コミュニティーの構築の方が、より重要だ。
そのためにも、昔の農村のように、地域が一つの生産コアを成している方が結束が固くなる。「隣は何をする人ぞ」は、都会のことだ。
芸術村、職人村、農業村のように、職業による小さな集団を増やしていくのも、地方の活性化に繋がってくだろうし、もちろん、少子化対策になる。


マンガだ

2015年02月10日 | 占いばなし

三碧の年、三碧の人は要注意だ。去年から比較的好調なので、今年に入ると、調子に乗って評判を落とすことになる。

世界の三碧コンビは米露の大統領だ。
プーチンはウクライナ対応で、国内からは絶大な支持を得ている。
オバマは中間選挙には負けたが、経済は好調で、キューバ国交正常化を持ち出し、ハッピーエンドを画策している。

大国の大統領だから色々あるだろうが、少なくともこれまでは、うまくいったと言えるだろう。しかし今年後半はどうなるか分からない。既にその兆候は見え始めている。
プーチンは、ウクライナで譲らず、イスラム国問題もアサド政権を後押しして、全ては米国のせいだと言っている。

確かに、中途半端なことばかり続けて世界情勢をぐちゃぐちゃにしたのは、オバマだ。
こんどはまた、ウクライナに武器供与をしようとしているし、イスラム国ではヨルダン、イラク等のアラブ諸国を利用して戦争代行させようとしている。
口で理想を言う人間が、いかに信用できないかの見本みたいな人だ。
同じ三碧でも、プーチンの方が器が上だ。

この二人の三碧の火に油を注ぐのが、1954年生まれ一白の三人組、日本の安倍、ドイツのメルケル、フランスのオランドだ。この五人組と相性の悪いのが、二黒の習近平。
本当によくできていると、笑ってはいられない。


反射神経

2015年02月09日 | 占いばなし

もう立春も過ぎ、乙未、三碧の年になったというのに、どうも、その意識がない。
毎日、寒いせいかもしれない。
三碧の年は一白に新展開が始まる。一白の安倍ちゃんは支持率が上がったそうだ。
どこの国でも、危機になると、一般にリーダーの支持率が上がるが、
年末の選挙といい、今回の人質事件といい、機を見るに敏な、一白の才能を遺憾なく発揮している。

それにしても、冷静な日本人でも、今回の人質事件には感情が動いたらしい。他国ほどではないが、政府の対応を指示し、支持率が上昇している。この件も、北朝鮮拉致事件も、安倍総理のこだわりの分野だ。
歴史の目で俯瞰すれば、少数の人間の悲劇が、甚大な死を招いた例は枚挙にいとまがない。

一白は口説きの天才だ。口説きのテクニックとセールストークのテクニックには共通性がある。理性を感情で錯覚させることだ。
先ず相手の心に入り込み気持ちを察知し、寄り添い、感情を同期させて、それに導かれた感情で下す決断を、自分の理性によるものだと錯覚させる。

無難な例で言えば、ケーキを目の前に出して、相手が関心を持ったところで、
「わあーっ、ケーキだ!食べたいけどダイエットしてるし、あなたが食べてくれれば、私も少しは食べられるんだけど、一緒に食べてくれない?」と、あたかも、こちらが食べやすいように気を遣っているような言い回しで、二重、三重の気遣いをする。
気遣いとケーキの両方に感謝しながら食べてしまうと、それが実は毒ケーキと言うことが、ないとは言えない。

そうでなくても、運命の出会いや、常々優しい心遣いには、溺れてはいけない。物事には裏もある。

もの凄く優しい、人の心の琴線に触れる言動。それが嘘でなくても、心が揺さぶられる時は、意識をそこから遠ざけ、大きな目で、その結果を考えてみなければなければならない。
素早く饒舌な反応には、扇情的な言葉、「きれい事」の論理が見え隠れする。
それは考えての言葉ではなく、ムードメークのための反射的な言葉だからだ。