魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

雑感

2010年02月28日 | 兄弟関係

オリンピックに人生を掛けている人たちには申し訳ないが、美しい理想と実態のギャップを考えると、オリンピックそのものには、興味が持てない。
しかし、何を見ても、占いの尺度で見てしまう習い性で、オリンピックを見ると、フムフムと、星の関係など考えてしまう。

どちらかと言えば迷惑なオリンピック番組であっても、人生模様や世相を、星の影響と比較して見ているうちに、思わず選手の人生に入れ込んでしまって、昨日のようなことを書いてしまう。
純粋なスポーツファンとは、まったく関係のない視点で見ているので、かなりトンチンカンな感想だ。

浅田真央はソチオリンピックに挑戦すると言うが、これがまた、木星カニ座、オマケに天王星は牡羊座にいる。またまた日本に逆風だ。
参加することに意味があるのではなく、メダルメダルと言うのなら、日本は棄権した方が良いくらいだ。

日本はフィギアをスポーツと考え、極限に挑戦しているのに、
「最高技術」でもない適度な技術の「好印象」に負けてしまう。
工業製品もまったく同じ理屈で、やられっぱなしだ。「」「好機能

「らしく見せる」ワザは、弟妹型の得意とするところで、長子や一人っ子の苦手とするところだ。
弟妹型の、韓流や新興宗教、ハリウッド映画やiPod・・・
一人っ子日本は、完璧な「技」でのみ信頼され、長子中国は手っ取り早さで納得させる。どちらも「らしさ」ではない「実質」だ。

話は違うが、
昨日も体調が悪く、『また、地震でもあるのかな』と思い、ブログに体調のことを書こうかと思ったが、『なに、陽気のせいかも知れない、バカなことを書くな』と止めた。今朝、沖縄で結構大きな地震があったそうだ。朝起きたら、スッキリしていた。午後は、チリで相当大きな地震が起こったが、ハイチもチリも体調に影響はなかった。

こういう感受性があるとすれば、健常な大人ではなく、動物や子供や病人の方が影響を受けるのだろう。近年、自覚することが多いのは、年寄りになって、体力ギリギリで生きているからかも知れない。


サソリの毒

2010年02月27日 | 占いばなし

キム・ヨナはコマネチだ。ルーマニアもサソリ座だが、10点満点パーフェクトを連発した。(少なくともコマネチ自身がサソリ座)
キム・ヨナは大したものだが、毎度の突破ずれた得点は、まさにコマネチを想起させる。

真央がSPであれだけの演技をしても、5点近くも上の点を付けられた上に、目の前で150点という途方もない点を出されれば(聞こえなかったとは言っていたが)、どんなに強い心を持っていても、やる気を失うだろう。たとえパーフェクトの演技でも150点にはならないことは、誰でも解る。
浅田真央のミスは、直前の150点に殴り倒されたようなものだ。

サソリ座
サソリ座神話は、小さな虫が毒針で巨人オリオンを一撃で倒した。
「どんな巨人でも急所を突けば倒せる」それがサソリ座の哲学だ。
急所とは、戦車の操縦士、議会のロビー、企業秘密は従業員、戦争なら核であり、競技なら審判だ。

表の顔より裏にこそ急所、本体がある。
どんなに高尚なことを言っていても、結局、「人間は色と欲」だと言う信念がある。
自国が有利な時には絶対に口にしないが、少しでも不利になると、審判の不正や裏工作を持ち出して、あれだけ大騒ぎになる。
つまり、それだけ、常に裏の動きを考えている。

どんなに不可解であっても、裏工作だと言えば、同じレベルになる。
決して口にすべきではない。
しかし、相手が何者であるかは心得ておく必要がある。

ソウル五輪の招致活動と柔道、サッカーWC2002の招致活動とベストフォー・・・
今回も、カナダとISUで何が起こっていたのか・・・(調べてみるときっと面白いだろう)
オリンピックに照準を合わせたら、カナダに移り、カナダ人のコーチを付ける・・・
急所を徹底的に突くやり方は、ビジネスも政治もまったく同じだ。

ヨナと真央の対決は、木星と土星の対決であることを書こうと思っていたが、150点にあきれかえって、思わずこんなことを書いてしまった。
しかしそれにしても、やっぱり、土星の厄と言わざるを得ない。ロシアも、タラソワも水瓶座。水瓶座は天王星だが、本来は土星だ。カナダは射手座で、もちろん木星。


水の星座

2010年02月26日 | 星の流れに

昨日から月はカニ座で、日本にとって良い時ではない。
そんな逆境の中、フィギアスケートもトヨタ社長の公聴会も、良くやったと思う。

アメリカとしては、日本からわざわざ出てきたと言うことで、とりあえず「気」が済んだ。ガス抜きになったようだ。

豊田章男社長は「ティファニーで朝食を」の、おとなしいMr.Yunioshiのような顔をしている(失礼)。
アメリカ人の思う典型的な日本人イメージで、これがまた良かったかも知れない。いかにもの日本人が真摯に謝っている図に、納得しやすかったのではなかろうか。

もちろん、「アメリカでの実績と20万人の関係者」と、さすがに中国にとは言わなかったものの、暗に、アメリカも困ることになりませんかと、におわせた。

自動車人間、ボディーの「事なかれ」が対策を遅らせたのだと思うが、「外国での好印象」造りには成功したようだ。

魚座の木星、金星、天王星に太陽。さらにカニ座の月と来れば、絶対的に、サソリ座の韓国に有利で、ラッキー続きだが、相手が、カニ座の中国ではそうも行かなかったようだ。
中国だって水の星座で同じくラッキーだ。ショートトラックで勝ったと思った韓国は、中国の選手を妨害したとして失格し、中国が金になった。
お星様は面白い


雲南チベット

2010年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

「鳥取島根は日本のチベット」発言に、どこでも顔を出す宮崎県・東国原知事がさっそく「地方軽視だ」と声を上げた。
もちろん、鳥取県選出の自民党・石破茂議員も、ここぞとばかりに抗議し、県市長会も抗議声明を出した。
民主党・石井一議員の、ほめ言葉を強調する余計な一言だったようだが、反民主勢力が喜んで食いついた。

鳥取県人は最小県の価値や存在感を理解していないようだ
都会人は田舎を、大都会に住む自負の裏付けとしてバカにしながらも、実は、自然や人間性へのコンプレックスを感じている。

大都会は人工環境であり、そこで暮らす者には、常に心の底に『これは本当の自分ではない』という不安がつきまとう。
もちろん、若者が都会に憧れるのも、そこで自分の可能性を等身大以上に拡大してみたいからだ。

人工空間で暮らす不安は古代からあるようで、都人の「鄙の恋物語」も少なくない。文明は古今東西、いつも田舎に憧れる。

ところが、都会に住んでいない者は文明に憬れ、自分自身を文明の視点で評価しようとするが、文明の中心からの実感ではないから、都会人の辺境への憬れが解らない。

森進一の「襟裳岬」で「襟裳の春は何もない春です」に襟裳町の人は怒ったが、「襟裳岬」は大ヒットして、その結果、襟裳岬の観光客が増え、終いには歌碑まで建った。

早坂暁の「夢千代日記」はもともと、貝殻節の地元、鳥取の浜村温泉が舞台だったが、町に撮影依頼をしたところ、「暗い辺鄙な温泉のイメージは困る」と拒否され、結局、兵庫県の湯村温泉で撮影をした。
話の設定が漁港の温泉だから、山の温泉で漁船の遭難、などつじつまが合わない話が出てくる。しかし、結果は、貝殻節も湯村温泉も有名になった。一方で、浜村温泉はさらに辺鄙になった。

東京で田舎のイメージは北海道ではなく、岩手や山形だが、関西の田舎のイメージも九州ではなく鳥取・島根だ。
おそらく、これは、江戸以前の、認識範囲での辺境イメージがあるのだろう。
石井一議員は神戸だから、鳥取島根と言えばまさに「田舎」辺境の地だ。思わず、チベット、牛、馬が浮かんだのだろう。

しかし、話した通り、都会人の田舎蔑視は必ずしもバカにしているだけではない。都会人と対等に向き合うつもりなら、進んで田舎の顔を売り物にした方がいい。
それができないゆとりのなさこそが「田舎モン」なのだ。

以前、関西の駅で「日本の田舎 鳥取島根」という観光ポスターを見かけて感心したことがある。堂々と郷愁を前面に押し出したコンセプトは、おそらく都会の広告企画だと思うが、地元も納得したのだとすれば、夢千代日記を断ったり、市長会の抗議声明を出すような鳥取県ではなく、出雲「王国」の自信に満ちた島根県の肝いりだろう。

抗議より、チャンスと受け止めて、
「日本のチベット!山も海もあるでよ」
とでも言って、観光宣伝すればいいのに、ダメだなあ


無傷が傷(2)

2010年02月24日 | 兄弟関係

NHKクローズアップ現代で、30代の話をしていた。

今の30代は、自己責任論の叫ばれた時代に大人になったから、何があっても自分の責任だと思い、他人に「助けてとは言えない」そうだ。
しかし、そんな風にしたのは社会だから。自分一人じゃあないんだと解って欲しい。もっと他人を頼って欲しい・・・
と、九州のボランティアの人が懸命に働きかけていた。(九州は人間関係が濃い)

こういう番組を見ると、何時も、視点がズレているなあ、と思う。
せっかくの救済活動だが、「救済する」立場からの発想だ。
もちろん、そういう志は立派だと思うし、尊敬に値する。

一人っ子時代
番組を見ながら思ったのは、若い世代の「一人っ子化」現象だ。

長子、特に一人っ子は、何事も自己完結で思考する。
他人を意識する末っ子のように、誰かのせいにしたり、誰かに立ち向かったり、自慢したりする「人間関係」を、知らないで育つ。

友達など他人との付き合いも、何か問題が起こると、原因を先ず自分の中に求める。
兄弟で揉まれたことのない不用心な言動が、強い非難に合うと、自分が悪いのだと思う。かと言って、なかなか自分を変えることもできない。反撃に出会った時の、態度の取り方すら知らないからだ。

一人っ子の育つ環境は、みな大人だから、互いを尊重する。大人は優しく、理解しようとしてくれるから、自分も相手のことを理解しなければいけないと思って育つ。しかし、子供はそうではない。

愛想良く近づいてくる末っ子や、何も反論しない中間児と喜んで付き合っていると、ある時、突然、向こうの都合でコロリと態度が変わる。
弟妹型に悪気はないのだが、世渡りと対応で生きるのが当然と思っているから、いちいち一人っ子の「気持ち」など考えない。

うまくいっていると思っていたことが通用しなくなると、一人っ子はショックを受ける。弟妹型は困ったら周りを見渡すが、一人っ子は自分の足下を見る。

一人っ子化世代とは、一人っ子のことではない。
ゲームやパソコン、個室や自販機の環境に加え、「心のケア」とか、個々の気持ちやプライドを気に掛ける社会で育った世代は、一人っ子と似たような感性になる。
「互いに持ちつ持たれつ」の依存関係を知らず、そういう煩わしさを避けたいと思っている。レジ前で、一人一人が料金を払うような現象が、依存や信頼を知らない世代の出現を告げていた。

民主主義の進化?
救済活動をしている人を見ていると、この一人っ子型の心情がまったく解っていない。
「君一人じゃあないんだよ」と言われなくても、そんなことは初めから解っている。困ったら声を掛けてくれと親切に言われても、それは、いわゆる「上から目線」であり、一人っ子の世界に上下関係はない。

培養された自己完結のプライドを活かす鍵は「共に」やろうだ。
それも、同じ事をガンバルのではなく、プロジェクトの一員としてセクションを受け持てば、それなりに自己努力をする。
対等な関係で進行するソフト開発などが典型例だが、これは、甘えや無秩序と言うより、ネットワーク社会の始まりと考えるべきだろう。

何事にも、これまでのタテ型が通用しなくなっている。
民主主義の平等概念と、伝統的なヒエラルキー(△)意識とがぶつかり始めている。
これからの社会は、ネットワーク化しなければ機能しなくなるだろう。
上意下達ではなく、個人を尊重し合いながら生きて行く時代に、向かいつつあるのかも知れない。


無傷が傷(1)

2010年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

日本観光をした中国人のブログには、日本が至るところ清潔で日本人のマナーに驚いたようなことが書かれていたり、逆に、日本人が中韓の汚さやマナーの悪さをバカにしたりしている。

確かに今の日本しか知らない人には、そう思えるだろう。
しかし、ほんの30年ほど前まで、日本はこれほど清潔な国ではなかった。

道にタンやツバを吐いたり、立ち小便など、ごく普通だった。
だから今でも、立ち小便をされないように、古い町には塀の下に鳥居マークが貼ってある。
鳥居にション便をかけられない心は、日本の文化であり、今日の完璧なまでの、清潔と礼節の原点であることには違いない。

全国の道が舗装され、犬の放し飼いが禁止されて、公共機関が清掃をするようになって、軽犯罪法で事細かく禁止事項を規定してから、鳥居にション便をかけられない日本人の信仰心は、さらに、監視しあう意識に具体化し、「そんな恥ずかしいこと」はしなくなった。

それが今日の、驚くべき、日本の超クリーン社会を出現させた。
そして、日本人も、その完璧なまでの秩序社会を誇りにしている。

死後硬直
だが、このパラノイア的、超クリーン社会を成立させているものこそ、日本のすべての病根なのではなかろうか。

閉塞感、イジメ、産業の停滞、独立心と冒険心の喪失・・・
と、並べても、大方が、これすら認識できなくなっている。

「そんなことはない、やる気なんだ」と、言いながら、少しでも変わった人を見ると、非難する。他人のことを非難する声は、実は、自分を縛り付けている重圧から逃れたい、心の叫びだ。

他人を非難する声が高まるほど、社会の閉塞状況を表しているし、
ますます、それを打ち破る、個々の自由な意欲は失われていく。
さらに進めば、非難する意欲さえなくなる。

おそらく、戦争のような大破壊とモラルの喪失によってしか、この膠着は打ち破れないのだろう。

敗戦によって、無秩序から出発した戦後が、高度成長で生まれた新秩序と供に、活力を失い始め、バブル崩壊にまで至ったものの、いまだに、活力を取り戻せていない。それどころか、今や、死後硬直だ。

さとり教育
日本が活力を取り返すために、教育改革が叫ばれているが、
その前に、死生観を体得することの方が先のような気がする。

人は必ず死ぬものであること。(だから命は大切にしたい)
人間の敵も味方も自然であること。糧を得るのは就職ではないこと。社会こそが無人島であること・・・
など、自分が、「もともと」一人で生きていることに、気づくことで、初めて、優しさや信頼、自立心や冒険心が生まれてくるのではなかろうか。
誰かに見守られているハズだと思えばショックを受けるが、初めから一人なら、他人には何とかしてこちらから寄って行かなければならない。(閉じこもるのは、本来、誰かに保護されているはずだと思う潜在意識からだ)

誰かを守るとか、自分らしい生き方とか・・・そんな大それたゆとりなど、誰にもないのだと、先ず、悟る必要があるのだと思う。


「道」

2010年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

銅の高橋は「道」を演じた。
旅芸人ザンパノのアンソニー・クインは大好きな俳優で、「その男ゾルバ」など、映画が文芸作品だった頃を思い出す。共演のジュリエッタ・マシーナも大好きで、フェリーニと意気投合しただけのことはある。
俳優というものは、その人が出てくるだけで、駄作を秀作にしてしまう力を持っている。もちろん「道」は秀作だが、あの二人以外では考えられない。

オーラの半分は見る側の思い込みだと思うが、オーラとは別の、その人の資質が体現されていることがある。
本物のお笑い芸人は、その人が居るだけで、何も話さなくても笑ってしまう。高座で寝てしまった五代目志ん生を、客が喜んでみていた話は、寄席通いをした人ならよく解ると思う。

TVを通して見るのとは違う何かを醸し出しているから、何を言ってもおかしい。天性なのか体得したものか、おそらく体得した芸なのだろうが、資質そのものになっている。
できの悪い若手芸人が、何とか笑わそうと、ギャーギャーわめいていると腹が立ってくる。笑いの「間」をどう考えているのだろう。

芸人でも、俳優でも、あるいは、漫画でも映画でも、本体は「間」だ。
天地人は、天地があるから人が輝く。
名優は饒舌ではない。台本のせりふの量とは関係なく「沈黙」を感じさせる演技だ。
本木雅弘が良いのは、全体に「沈黙」がある。ブラッド・ピットや高倉健のような沈黙に、アイドル出身者の気負わない親しみやすさがある。
しかし、この「間」を、意図的に演技しようという俳優もいて、相当な名優と言われているベテランでも、いかにも、くさい俳優もいる。

役どころと、天性の資質がマッチすれば、はまり役と言うことになる。
アンソニー・クインは自動車人間のハンドルで、ザンパノやゾルバ、バラバなど、アウトサイダーや反骨者にピッタリだ。
高橋大輔もアンソニー・クインと同じハンドルで、氷上のザンパノが迫真の演技に繋がったのだろう。

フィギアは芸術かスポーツかという点で、日本はスポーツとして極めることが主流のようだが、フィギアスケートの始まりはヨーロッパの貴族趣味のようだから、本道は芸術と考えた方が良いのではなかろうか。


ちょうどこれを書いた後、浅田真央の特集をしていた。いかにも土星の来た天秤座らしく、重い曲で求道者のごとき挑戦をしていた。「金が欲しいです」という言葉を聞くのが辛い。
真央が金を取れば、金銀銅3個とも首にかける価値がある。


沈没(2)

2010年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム

高橋は本当は金だ
土星の影響で、やっぱり日本はついてない。様々な不運が重なって、失格や不本意な惨敗が続いている。
一方、木星がラッキーゾーンにある中韓、ことに韓国は全て僅差をものにし、絶好調だ。

もともと、冬季オリンピックは木星が水の星座にいる巡り合わせで、時期も魚座の季節だから、サソリ座の韓国は有利で、実際、何時も好成績だ。
長野オリンピックの栄光は天王星水瓶時代だったので、日本も好成績が上げられた。

日本初のメダル高橋の銅は、本人を含め日本中が喜んでいるが、ラッキーな時なら、おそらく、簡単に金になっただろう。織田もメダルだったかも知れない。
木星は凶角でも、土星が吉角の双子座アメリカは、技を押さえて金にした。
土星の萎縮が吉に働く例だ。

スポーツでも国運が解る
土星は、低温、萎縮、意固地、頑固、責任、そして不屈の野心だ。
木星が「イケイケどんどん」の楽観主義で、幸運を招くのに対し、
土星は、わざわざ「大リーグ養成ギブス」をはめてチャレンジする。
楽な道より茨の道を選ぶから、失敗率は高くなるが、本人はこれでこそ勝つ意味があるのだと哲学的(土星)になる。
高橋が銅になってしまったことより、4回転にチャレンジしたことを、日本中が喜んでいるようだ。

もちろん、苦労して得る成果は、精神的満足も加わり、喜びも大きいが、もし土星が来ていない時なら、4回転にチャレンジしなかっただろうし、しても成功していただろう。

日本中が「苦難に耐える」ムードに入っている。
木星の吉運では、虫の良いことだけ関わって、苦難は避けて通る。それが幸運を呼ぶ。
しかし土星に支配されると、苦境だからがんばろう。そう思いたがるから、よけい不幸に縁がある。

今は、日本中、不幸に酔いたがっているから、運の悪いことばかりが重なるようになる。弱り目は祟り目を呼ぶ。
壁に当たったら、別の道を探そうとするのではなく、無理によじ登ろうとする。それが、土星山羊座の意味する「山」だ。

日本は、これまでの技術立国を何とか修正して突破しようとしているが、一本道を極めて登山するより、別の道を歩むことに注力すべきだろう。韓国を見習うなどと言い出しているが、本末転倒だ。
後追いで付いてきた者を抜き返すために、二番煎じの、さらに三番煎じをやろうというのだが、牛はネズミを追い抜けない。
これこそが、ごり押し登山だ。
レースを終了させて、別のステージに進む時が来たと悟るべきだろう。


沈没(1)

2010年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

またやっちまった、織田信成君。
かわいそうで、思わずもらい泣きした。
靴ひもが切れて演技を止め、下を向いて足を出して見せている姿は見ていられなかった。
後で、涙をこらえながら、インタビューに懸命に答える姿には、
もらい泣きした、うん、うん・・・ヾ

ほとんど関係ないと思うのだが、これまでの信成君を観ていると、本当に、織田信長もこんな性格だったのではなかろうかと思えてくる。
純粋で、一途で、オッチョコチョイでお人好し・・・

歴史上のエピソードを、信成君に置き換えてみると、そのまま説明が付く。
もちろん、生い立ちも時代も立場も違うから、言動の振幅があることを考慮すればだが、最後の本能寺の変の謎も簡単に説明が付く。
靴のヒモが切れた経緯と同じ事だ。
慎重さより集中力で生きている。どこか、精神の自由さがある。

もしこれが、多少でも血筋の影響なら、信長の子孫は相当いるだろうから、集めてサッカーチームを結成したらいいかも知れない。

信長の精神は、サッカーにピッタリだと思う。
日本のサッカーがダメなのは、奔放さが無いことだ。
日本の文化は、とにかく奔放な精神を押さえ込もうとする。

萎縮し、自粛し、できることをできなくしてしまう。
それを片っ端から打ち破ったのが信長だ。

日本人は形を重んじる野球には向いているが、サッカーや、モーグルや、ハーフパイプなど、自由な発想は社会がつぶしてしまう。

失敗は許されない社会だから、失敗を恐れ、失敗したときの対応策がない。パラシュート無しで戦闘機に乗り、形勢が悪い戦争は玉砕しか思いつかない。
入試も就職も、それ以外に人生の道がないと考える。

日本人の創造力は「まともな」日本人からは出てこない。
マンガも、アニメも、本を正せば歌舞伎も漫才も、アウトサイダーの業績だ。

日本を維持する「まともな」人間が声を荒らげている限り
日本は沈没し続ける
「非国民!」


泣く子と

2010年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム

しかし、アメリカのトヨタ叩き。ますますヒートアップしてきた。
悪いのはトヨタだが、いまや完全にスケープゴートだ。

アメリカ国内の政争の具、政治ショーになっている。
高い教養のある人や、トヨタの恩恵を得ている人は別として、
いまや、誰がかっこよくトヨタを叩けるか、先陣争いだ。

アメリカは、いったん興奮してしまったら、もう収まらない。
しばらくは、気が済むようにやってもらうしかない。

で、それは良いのだが、この騒ぎで、日本全体にとばっちりが来ることだけは避けたい。
もしそうなったら、トヨタに腹を切ってもらうしかないだろう。

腹を切ると言っても、一体どうすれば良いのだろう???
わからない。
正面切って交渉しても、こうなったらもうダメだ。
アメリカは外交を、文化人類学に基づいてやっているようだから、こちらもそうした方が良いのではなかろうか。
でも、アメリカは寄り合い所帯だから、民俗学のような古来からの文化研究が適用できない。社会心理学の方が良いのかも知れない。

外交問題が発生するとき、何時も思うのは、日本には、相手国を類型化して考える論議が出てこない。「アメリカはこうだから・・・」程度の話は出るが、本気で観察して対応しようという話にはならない。
内輪ではやっているのかも知れないが、立て前として、現象対応で考えるべきで、決めつけは、相手に失礼だとか思うのだろうか。

しかし、文化人類学の大好きなアメリカは、実学として本気で応用する。それが、逆に、類型化の先入観でやりすぎになることがある。
ことに民主党にはその傾向が強い。

やり過ぎというのは、相手を決めつけてステレオタイプな対応をするのではなく、むしろ、本音は決めつけておきながら、それに対して(勝手に)大人の対応をする。だから、なにかの拍子に先入観の本音で判断してしまう。偽善者の善行が、うさんくさい理屈だ。
鳩山政権との不幸な始まりは、多分に、アメリカ側の先入観も影響している。

アメリカとの付き合いは、文化人類学など相手の先入観を知っておく必要があるが、
この際、
先方が持ち合わせていない指標として、血液型的人類学とか、兄弟関係人類学とかで分析してみれば、相手には、こちらの手の内の判断基準が解らないから、有利に牛耳れるかも知れない。

ちなみに、興奮中のO型国家アメリカは、別の分野から他の問題を提起して注意をそらすなど、ガス抜きをする方がいい。
また、自分の命に関わると思えば、直ちに方向転換するから、堂々と説明し、アメリカを愛しているから、中国に工場移転する様なことにならないように努力したいと、撤退をちらつかせてはどうだろう。あくまで、脅しではなく、悲しい顔で。
しかし、日本にできる得意技は、ひたすらガマン。叩かれ続けることだろう。


笑顔納税

2010年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム

また税金の季節がきた。
菅大臣が税制議論と言っただけで、
マスコミは「消費税導入か!」と、色めき立つ。
どの野党も、マスコミも、消費税を絶対悪として、消費税叩きが正義、錦の御旗、魔法の杖のように思っている。

最初に導入した政党が、消費税というものをよく周知させず、横暴なやり方で導入したことが、日本人のトラウマになってしまった。

いまだに、消費税を毛嫌いしている人は、
極めて幼稚な、「なまはげ」を怖がる子供と一緒だ。
消費税を、税金とは何なのかという観点から、考えたことのない人だろう。

先日、バラエティーに出演した政治家に、おバカキャラのタレントが「税金なくして下さい」と言って笑われていたが、笑うような問題ではないと思う。(笑われてナンボだが)

税金は必要だが、目の前で所持金からヌキ取られるのが嫌なのだ。
しかも、一人一人が、その取られるお金を計算しなければならない。
サラリーマンは自分が計算しないから、あまり深刻には受け止めないかも知れないが、個人のタレントにとっては大変な労力負担だ。

人間は誰でも死ぬが、わざわざ苦しんで死にたくはない。楽に死にたい。納税も、気づかない内に取って欲しいのだ。
サラリーマンは気にしなければ見ないで済む麻酔状態だが、
個人事業者は傷口に塩を塗られ、もしかしたら、申告ミスで、後からトドメさえ刺されるかも知れない。

所得税を撤廃して、完全に消費税や取得税だけにしてくれれば、笑いながら死ねる(納税できる)。脱税もなくなる。
今の税制はハイブリッド税制で、ややこしいからトラブルが起こる。
何事も、「シンプル・イズ・ベスト」なのだ。

消費税は経済規模に併せて発生するから、一方的に企業や金持ち優遇ではない。食品等をのぞけば、むしろ、貧乏人ほど有利になる。

消費税と聞いただけで、「3円」や「5円」を思い浮かべるようになってしまったのは、自民党が悪いので、消費税がかわいそうだ。

わからん


豊年満作

2010年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム

3年前の、天王星→牡羊座で、2年前には「乱高下」で、
2010~2013年について、大恐慌と比較してみた。
いよいよその時が来た。多少のズレはあるものの、大体そのような方向に向かっているようだ。恐ろしいことだ。

1929年の大恐慌は、天王星→牡羊座時代の最中だった。
大恐慌時、木星と土星が180゜になったのは、
木星が双子座=アメリカで、その対角線上に土星がいた。
しかし、
今年2010~11年は木星が牡羊座で、対角線上に土星がいる。
1929年がアメリカ発だったのに対し、今回は牡羊座=EUだ。

だが、グローバル化の現代。事態は1929年ほど単純では無さそうだ。
ヨーロッパがポキッと折れれば、中国がドシャッとつぶれ、一瞬のうちに世界中がドデスカデンの大惨事になる。
もう犯人捜しなどしていられない。

サブプライム以後、世界は、首の皮一枚でどうにか持ちこたえているものの、どんな小さな揺さぶりでも、総崩れになる。

結局、貿易依存度の高い国ほど、早く死ぬ。
他人の懐がアテに出来なくなる時。頼れるのは自分の懐だけだ。
切羽詰まれば、打ち壊しが起こる。平時の契約やルールが通用しなくなることを考えておかなければならない。
食糧確保のために他国の土地を買ってみたところで、いざとなれば腕力勝負になる。だからといって、軍拡してもきりがない。

どういう時でも、最後は自分の懐、食糧の自給自足こそが原点だ。
貿易立国はよいとしても、まずは食料を押さえておかなければ、経済大国も安全保障もあったものではない。

どんなお金持ちでも、終戦直後の食糧難の時には食べ物が手に入らず、都会の金持ちがリュックを背負って、農家に命乞いをした。
自給自足できない経済大国など、都会のお金持ちだ。

江戸時代まで、日本の食料人口は最大が4000万と言われたが、技術の進んだ現代なら、その倍ぐらいはいけるだろうから、何とか自給自足できるはずだ。

工業生産とひきかえに農業を捨てた時代を反省し、兼業農家や2ちゃん農業で、置き去りにしてきた農業政策を抜本的に改め、何が何でも「食べられる」安心の国にして欲しい。
そしてこれから日本は、思農興装の国、憬れの蓬莱の島になるといい。

今、日本がすべきことは、
春に向けて、目いっぱいの作付けをすることかも知れない。
豊作が喜べる国にもどりたい


気のせい

2010年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

くどいが、トヨタの「ブレーキは気のせい」会見は思い出すたびに笑ってしまう。いかにもいかにも技術バカだ。

自動車にコンピューターが入って20年以上経つと思うが、はからずも技術屋の感覚がいまだにアナログであることがうかがえた。
そして、それは良いことだと思うので安心もした。
ただ、世の中の常識がデジタル化してしまっていることが、今回の悲劇なのだろう。

古き良き時代
壊れた真空管ラジオが、叩けば鳴り出した時代。高級車でも、70マイルも出せばフワッと浮き上がった時代。機械の調整は職人の経験と勘だった。
人間国宝でなくても、ちょっとした整備工なら、コンマ以下のプラグ調整も自分の目でできた。(零戦さえ招集の整備兵がした)

そんな車に乗る人間も、生き物のような機械のクセに合わせて運転をした。機械とはそんなものだった。
ブレーキを踏んでも、常に同じ反応をするとは限らない。
「ギ、ギーッ」と効くものや、「キーッ」と効くもの、「グゥ~ギュッ」と効くもの、そのクセを覚えて運転するのが、ドライバーの腕であり、楽しみだった。それがアナログ時代だ。

ガラスの時代
コンピューター制御の時代になって、機械のクセはコンピュータが調整し、インターフェイスは一つの顔を見せることが可能になった。
誰でも運転でき、誰でも車に乗るようになった。ガソリンさえ入れれば車は走る。あり合わせのレンターカーにも不安なく乗れる時代。
車によってクセがあるなど想像も出来ない。

しかし現実の開発現場は、膨大な部品を開発し、吟味し、組み合わせ、相互関係を調整し、プログラム制御をする。
ソフト制御はキッチリ調整できるはずだが、プログラム開発と部品開発の現場の認識は、デジタルとアナログのズレがあり、アナログ技術者は、勘で開発する許容範囲の感覚でOKを出す。

さらに、アナログの常識では、アバウトな許容範囲であれば、トンでもない現象など起きないが、プログラムは「-」記号一つ欠けてもロケットが落ちるぐらい、致命的なバグが潜んでいることもある。
この文化ギャップによって、どちらも、「非常停止ボタン」を思いつかない。

アナログが戦争なら、デジタルは人為的なスポーツや将棋だ。
将棋に負けそうになったら、「盤ごとひっくり返せばチャラになる」という発想は、仮想デジタル世界で戦う棋士には無いし、
逆に、現実の戦場で戦う兵士にリセットはない。

その両者の感覚を合わせた現実対処が「非常停止ボタン」だ。
現実の自動車はアナログ世界を走る。だから、技術者がアナログ感覚であることは、最後の救いなのだ。


非難と萎縮

2010年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

天秤座日本、ますます暗い。スポーツも暗い。
華麗なパス回し儀式に徹する、お行儀の良い日本サッカー
欠けているものは、「おおらかさ」と「がむしゃらさ」ではないか
失敗と非難を恐れて萎縮している。スポーツだけではない。

朝青龍引退と国母の腰パン問題は、一言で言えば「悲しい」
と言っても、おそらく、同じ感想の人とは逆の観点だろうと思う。
だから、悲しい。

このことを語ろうと思えば、あまりにも色々なことを並べなければならないので、考えただけで息が詰まるから止めるが、切り口だけ並べると、

●国家と個人
●国家とスポーツ
●民族と国家
●軍事力とスポーツ
●文化とスポーツ
●興業とスポーツ
●秩序と実力
●講談と戦場
●宮本武蔵と吉岡一門
・・・と言ったことになろうか。

これだけで、解ってもらえる人には解ってもらえると思う。
解る人は、協会に抗議の電話をしたりしない人だと思うから、
傍観者の「情けなさ」を解ってもらえると思う。
抗議する人は、時が来れば間違いなく、「非国民!」と叫ぶ人だ。

なお、橋本聖子も天秤座。気の毒に・・・
(朝青龍も天秤座。国母は獅子座で火星がいる)


剣闘士

2010年02月14日 | 星の流れに

トヨタ問題が、木星による水瓶座での拡大路線の後始末だとすれば、これはトヨタ個別の問題で、しばらくすれば収まる。

しかし一方で、木星が魚座に来ている現象と考えれば、
これは、自動車、飛行機、鉄道など、輸送機器業界全体の問題となり、この一年で、世界的に生産方式など何らかの改善が起こるだろう。
(輸送機器は双子座と射手座で魚座と凶)

むしろ、日本にとって重大な問題は、猛威をふるい始めた、天秤座の土星だ。新政権がモタつくうちに始まったトヨタ問題が、日本全体に傷口を広げ、泥沼やイバラに捉まったように、動けば動くほど、日本の信用は失墜する。

いつも例にあげる、「産む機械」の柳沢元厚労大臣のように、土星が来れば「良かれ」と思うことが全て、逆に受け止められる。
シー・シェパードにしても、どんなに理不尽でも、今動いたら負けだ。

不平等条約、臥薪嘗胆・・・打たれているときは「じっと我慢の子」が、日本人の唯一の処世術。逆に、打って出たのが真珠湾だ。

これまで最も印象に残っている我慢は、加山雄三のお父さん上原謙が、マスコミの血祭りに上げられている最中、加山(池端)家は一切沈黙を保った。やがて沈静化し、加山雄三への同情論の方が広がった。
さすが芸能一家であり、やはり公家の流れを汲む、下衆対処法なのか、と感銘を受けた。

偉大なる下衆国家
民主主義国家アメリカとは、視点を変えれば、気品とは無縁な下衆国家だ。(もちろんそれは望ましいことだが)
アメリカは、下衆の井戸端会議で戦争まで始める。
1898年の米西戦争も、マスコミ(新聞)が飯の種にするために、国民を煽り立てた結果と言われている。その後もラジオ、TV、ネットと媒体は変わったが、戦争も撤退も、無責任な井戸端で決まる。

しかし、同じ日本的やり方でも、沈黙の公家と違い、実際に庶民と向かい合って政治をした武家の家康が、百姓(民)は「寄らしむべし、知らしむべからず」と言った教訓は今も生きている。
民の国アメリカで求められているものは、完全な情報公開よりも、実は信頼のパフォーマンス、「寄らしむ技」なのだ。

ただ、正直に情報を見せればいい、思ったことを正直に言えばいい、のではない。見せ方とタイミングの芝居心が必要だ。
アメリカの大衆は、闘技場の殺し合いを観たがっている。
闘技場で勝っても、次の剣闘士やライオンが出てくることもあれば、負けても助命されることもある。

主張する外交?」