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占いという もう一つの眼

老成米国

2024年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム

バイデン大統領が上手く話せなくて、身内からの撤退論が噴出。
バイデンを支持しているわけでもないし、年寄りをかばうわけでもないが、集団を率いていく上で大切なことは何か、改めて考えさせられる。
先ず、言えることは、アメリカのような政治システムでは体力のおぼつかない大統領は成り立たない。そしてそのことが、アメリカが愚行を繰り返す原因でもある。

元気いっぱいで言葉に力があり、集団を感動させるカリスマ性。そんなリーダーが率いるのはスポーツチームか戦国軍団だ。
国民を納得させ、国の安定を図り、世界と調和し、平和の維持を真っ先に考えるには哲学や大局観がなければならない。しかし、そうした知恵や大局観を体得した頃には人は動けない。
スポーツチームにはリーダーが必要だが、監督と兼ねるのは難しい。大方の監督は元選手で豊富な経験値を持っているが、自分の体は動けない。ヨボヨボで体がついて行かなくても大局を観て集団の采配をしたり、選手に声をかけることはできる。

世界の政治も、文化に応じて長老が監督として影響力を持っている。
文化の古い国ほど長老の存在が大きいが、アメリカのような変化の激しい新しい国は長老に意味がない。大統領経験者が時々、日本の皇室のような役割をするが、制度としての長老は無いし、国民もそう思うから見た目や言動が頼りないと大統領にはなれないと考える。
日本にも長老制度はないが、総理経験者や、いわゆるキングメーカーが事実上の発言権を持っていたり、天皇が古来の精神的なよりどころとしての機能を果たしている。

今昔物語や日本昔話の「姥捨て山」のように、アジアの日本では年寄りの知恵を尊重する。昔の西部劇では、先住民、いわゆるインディアンの長老会議を不可解な情景として扱っていたが、近年の映画では徐々に老師のようなものが尊重され始めた。ただ、それでもオビ・ワンもヨーダも戦って強い。
老いて力なくても、顧問的な存在が制度としてあれば、深い経験値が社会に還元されるはずだが、実際には、イランの最高指導者のように王に代わる事実上の独裁者だったり、中国のように長老がいても独裁者が封じ込めてしまう例もある。

長老を重んじ過ぎると動きがとれなくなり、独裁に転じやすい。しかし、人によっては100歳を超しても判断力が確かな人もおり、貴重な経験資産を用いなければ浅はかな空騒ぎを繰り返す集団になる。それがこれまでのアメリカだが、結局、国としての老成が求められる現実が、老人大統領を生んだのだろう。しかし、チームリーダーと監督顧問の複層のシステムがなければ、今回のバイデンのように「役立たず」でお払い箱になってしまう。アメリカにもそろそろ、機能する長老システムが必要になったのかもしれない。


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