魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

幸くあれ

2014年12月27日 | スタンス

今日は、米倉涼子と杏の結婚発表があった。米倉は一般人で、杏の方は共演した東出昌大で、どちらも年下だ。
杏は牡羊座で米倉は獅子座。木星が獅子座に来たから結婚するのだろうが、土星が射手座に来た、このタイミングは、一種の「悟り(年貢の納め時)」の心境だろう。
東出昌大は水瓶座だから、やや、振り回されている感がある。

今日はもう、細かく鑑定する元気は無いが、惑星はいずれも穏やかな状況だから良い結婚だろう。木星が去ってから、もっと言えば、土星が射手座を去ってからも続けば、大丈夫だ。
幸多からんことを・・・

ああ、眠い


獅子水瓶

2014年12月10日 | スタンス

火星が水瓶座に入った。獅子座の木星と180゜になる。
さらに、月が獅子座に入った10日、株が暴落した。こういう時は、専門家はもっともらしい理由で、いろいろ解説するが、別にそれが今日でなければならないようなことでもなく、始めから潜在的に有ったような背景がしばしばだ。つまり、ムリからの後付けだ。
実のところ、本当の動機など有って無いようなものなのだ。だから、「相場は相場に聞け」の格言が有る。

ところが、世相ムードに直接影響する星の動きは正直だ。獅子座はギャンブルや投機を表す。つまり、基本的には投機の始まりを表すから、上がっていたものは下がり、下がっていたものは上りのトレンドが始まる。
1989年末のピークを境に下がり始めた株価は、持ち直すかに見えた翌1990年、午年の8月、木星が獅子座に入ったとたん、イラクのクウェート侵攻を機に、一気に転げ落ちた。

この時は土星も水瓶座に来た上、それが抜ける頃には入れ替わって天王星が来た。
土星3年+天王星7年、失われた10年だった。

一般には獅子座が底で、対角線上の水瓶座が天だが、必ずしもそうとも限らない。
他の惑星との関係で、不測の動きをするし、銘柄によっても逆の動きをすることが有る。
いずれにしても、水瓶と獅子の緊張関係があるか無いかによって変わる。
今回は火星と月だから、それほど大きな動きではない。むしろ、土星がサソリ座から抜ければ、落ち着く。


因縁話

2010年04月11日 | スタンス

母は霊や因縁を語る人だった。父は科学信仰の信者だった。
父は、母が語る神秘や霊をことごとくバカにしていた。

結婚当時、母の実家に親戚中が集まって寝ていた時、母が、庭に誰かいると言うので、父や伯父達が気負って家中を探したが、誰もいなかった。物心ついてからも、父はこの騒ぎを笑い、母はその月夜の不思議な人影をほんとうに見たのだと言い張っていた。

山里の母の実家には、母が生まれる以前から様々な因縁話があった。
隣家の一族が病気で死に絶え、最後に残った息子は腹を切って死んだ。
その後、その当時の曾祖母が寝ている隣の部屋を、腰に荒縄を巻いた見知らぬ人が通り過ぎて行くと、しきりに息子に訴えるので、始めはバカにしていた息子が、行き先の部屋の押し入れを開けたところ、行李の中に、腹を切って死んだ息子が持ってきた、形見分けの帯があった。

そんな家で育った母には、何事にも因縁がつきまとっていた。
父が30代の頃、遠く離れた父の友人が突然、病死して電報が来た。
落胆する父の横で、母が「どおりで、夕べから体調が悪かった。きっと、OOさんの苦しみが乗り移っていたんだ」と同情していた。
母の体調が悪くて苦しんでいたのは事実だが、子供心に、そりゃ、我田引水だろうと思った。(我田引水という言葉は知らなかったが)

不可解を語る人と、合理性しか認めない人との間で育ったためか、不可解を合理的に理解しようとするようになった。それが、ここまで占いに取り憑かれた理由だと思う。だから、どちらの信者でもない。

父の友人の死が母に伝わったことを否定するのではなく、「何が起こっていたのか」を考えれば、あり得ない話ではない。

長年、占い思考をして来た今は、こう考える・・・
人間の身体や精神にも影響を与える「何らかの力」があるとすれば、死ぬほど弱っている人は死に到り、脆弱な人は病気になる。
普通の人なら、判断ミスや不機嫌になり、世の中に事故トラブルが多発する・・・
だとすれば、父の友人が死んだ時、一方で母が苦しんでいたことは、何の不思議もない。

因縁とは、ものごとにはすべて原因と結果があるという、合理性を説くものだと思うのだが、(だから良い行いをしろと)
因縁話となると、多様な可能性を考えず、手近な知識を短絡的に結びつける合理化を言う。科学の名においてときどき、その時代の知識のみで結論を出す人がいるが、これは科学的因縁話と言える。

また頭痛
先日、4月5日の深夜また突然、頭痛になった。頭痛体験と地震の関係のことを以前書いたが、自分では信じていないから、体調不良の原因を考えながらも、『地震かな』とも考えながら寝た。翌日起きたら快調だったが、メキシコで大きな地震が起きていた。

やはり、7日の深夜、また突然、頭痛になった。5日は右前頭部だったが、今度は左後頭部だ。寝ようと思ったが、5日のこともあり、前回よりひどいので、よほどブログに書こうかなと思ったが、何しろ自分の体調だから、ディスプレーの見過ぎだろう、アホなことは書くなと思って寝たものの、こんなに痛いのはもしかして?と気になり、起きて、財布の入ったジャケットを枕元に持ってきて寝た。
起きるとすっきりウソのようだったが、スマトラで大きな地震が起きていた。

仮にもし、地震が関係あるとすれば、プレートの反対側にもストレスがかかって、その磁気?の影響を受けるのかも知れない。
実際、地震学ではどうなのか知らないが、最近多発する大地震は地球のあちこちで圧力バランスが崩れているのかも知れない。

自分としては常に、まず自分の体調と考えるが、可能性として排除しているわけでもない。しかし、宣言するようなものでもない。
とにかく、何でも、我田引水に因縁話で考えるべきではないと思っている。
言うまでもなく、昨日のUFO写真もUFOとは思っていない。

P.S.
2ヶ月後。UFO?の正体が判明した。車で撮った写真は別にあって、該当写真は、やはり、屋内のホールで写したものだった。
UFOはシーリングライト。写真だけ見ればすぐ解ることなのに、自分の記憶(ミス)があるから、思い込みで事実を直視できなくなる。
UFOの正体見たりハゲ頭


情報占い

2010年03月24日 | スタンス

昨日は、放送記念日とやらで、NHKの座談会「テレビ新聞の未来」を観た。『何を今頃』と思った。

新聞テレビの代表はご老人で、ネット代表が若手で、仲を取り持つ中年の組み合わせだった。
ご老人達は、若いネット代表が「マスメディアとネットは別の国だと思ってください」と言う意味も解らなかった。

座談会の様子は、そのまま現在の情報構造を表しているようで、可笑しくもあり、情けなくも思った。
マスコミ批判の中年と、ネット側の若手は、『この人等に何を言ってもムダ』という顔をして、さしたる議論にもならなかった。

最後に、一杯寄せられた意見を、「全部お伝えできなくて申し訳ありません」と、言いながら終わった。
『だから、それをネットで伝えればいいじゃん』と、オチに笑った。

テレビ新聞のご老人は、まだまだ若いもんには負けんと、年寄りの空元気のように、マスコミの権威を言いつのっていた。
学者のおばちゃんは、友人の知識人が、最近、新聞を止めたがどうもなかったと言ったのを聞いて、ショックを受けたと言った。

今日から日経電子版が鳴り物入りで始まったが、4000円は常識はずれだろう。紙の新聞と同じつもりでいる。ダメだコリャ Ψ

占いの方法
新聞は前世紀末の10年以上前に止めた。年賀状は新世紀をきっかけに止めた。(新聞

18歳の時、将来を聞かれて「浅く広く勉強します」と言ってしまった。「幅広く」のつもりが、言い間違えた。
が、しかし、それはある意味で、正しかったと思う。

占いのように「漠然とした真実」を把握するには、掘り下げた勉強より、適当に知る方がいい。

根拠ある確かな情報や学問は、現実社会には必要だが、
占いは、現実生活の行間を知り、全体像を知ろうとするから、つじつまの合わないところに、実像を求める。飛び交う知識の中に、論理では説明できない、実体を発見しようとする。

例えば、占学の場合でも、膨大な知識は聞き流す。古い知識は互いに矛盾している断片だから、その言わんとするところの共通性に着目して、原理を発見する。

世の中を飛び交う情報も、矛盾している。それを、取捨選択して論理的に組み合わせるのではなく、全部まとめて聞き流すと、おぼろげな実体が見えてくる。いわば、平均値の中にはシンプルな実体があり、それに基づいて、情報の信憑性を判断する。

この、占いの方法は、ネット情報との付き合い方に、ピッタリ役に立つと思っている。
新聞の記事を読むより、関連記事10本の見出しを読む方が、より実体が見えてくる。


別の目

2010年03月21日 | スタンス

占いでものを考えていると、アウトサイダーの目になる。
人間の決めたルール。好悪や善悪などの感情や主義。国家や民族のような枠組み。敵や味方。信仰と無信仰。

そうした、人間が生み出した文化の姿を取り去って、改めてその意味を考えてみる。モノの姿を考えるにはモノのないところから考えてみると良い。

人の世はすべて虚構であり、様々な苦悩は、元々は意に留める必要のないものだが、社会的な人間としては、その虚構から完全に離れては生きていけない。

自分の顔が気に入らないからと言って、首を切り落とすわけにはいかない。顔の善し悪しの基準に囚われ無ければ良いのだが、それを気に掛けて、初めて社会の一員であることを自覚できる。
若いうちは、自我を確立するために、自他を峻別したがり、社会を気にする。他人が許せなかったり、逆に自分が許せなくなる。

しかし、歳をとると、社会に対し、いい加減でなければ生きられないことが、だんだん解ってくるから「丸くなる」。

ところが、歳をとっても、根が真面目な人は、相変わらず色々な「許せないモノ」を持ち続ける。あれはケシカラン、こうであってはイケナイ、とこだわり続ける。
だが、実際は、自分自身を含めて、事実をそのように保ち続けることなどできない。だから、真剣でとんがった若者からは、うるさいことを言うだけの、二枚舌と反発される。

根が真面目でなくても、社会の立て前を代弁する立場についた人は、本当に二枚舌を使う。様々な「肩書き」のついた人は、肩書きの立て前において、いい加減になることができない。

宗教は、既存の社会規範に対して、別の規範を示すことで、既成概念に囚われた人を救おうとする。

しかし、占いで考えていると、その別な規範もバカげて見える。
だから、うるさいタイプの宗教は占いを排除しようとするのだろう。

老若男女にかかわらず、悩みに囚われた人には、悩みの元の社会規範から離れた視点「占い」思考をおすすめする。
宗教でもなければ、救いの特効薬でもないし、未来を的中させて一儲けしようと言うのでもない。

そもそも、「この状況は何なのだ」と考え直してみるのに、
占いの目は役に立つ。
また、「占い」は、そのように考えて関わって欲しい。


処女宮

2009年08月24日 | スタンス

今年は23日から乙女座。占星術では正しくは黄道の処女宮(Virgo)0度のことで、実際の乙女座の星座の位置とはずれている。
二十四節気では「処暑」と呼ぶ。

処女宮は「しょじょきゅう」と読むが、処暑の「しょしょ」とは全く関係がないのに、似たような読みになっているから、偶然はおもしろい。
なお、処女宮を乙女座から「おとめきゅう」と読む場合もある。

むかし、
印刷屋さんに占い関連の印刷物を発注したさい、「天宮図」と書いていたら、印刷屋さんが鬼の首を取ったように、
「あの~、辞書に[天球]は有りますが[天宮]は無いんですが・・・」
と慇懃に言う。

確かに、印刷屋さんの国語辞典には無かったので、英和辞典を出してもらい「horoscope」を見ると「天宮図」があったので、「あ、これです」と、さりげなく見せた。
すると、極端に恐縮していたが、見ないふりをして、話題を変えた。

この印刷屋さんが、初めから、二十歳そこそこの若造が占いをすることを不愉快に思いバカにしていることが、言葉の端々で分かっていたので、内心、極めて不愉快だったが、あらためて、占いの立場を確認したできごとだった。

金を儲けたくて占いをする人がいる。他人を指導したくて占いをする人がいる。
占い師に対する悪感情の多くは、大方がそういうところにあるのだろうが、占い師に強く敵意を持つ人の多くが、自分自身にそういう衝動がある人なのではなかろうか。(アホ言うもんがアホ

確かに、そういう汚れた動機の占い師は多いし、純粋であっても、盲信して常識を逸脱している占い師もいる。
しかし、真面目に占いに取り組んでいる人達も決して少なくない。

占いそのものの存在がケシカランと言われば、これはもう宗教論で、言葉がないのだが。


占い手帳

2009年03月18日 | スタンス

先日、TVを付けたら何の番組か、ちょうど
「血液型を信じるか」の問いに、20人の医師が全員
「信じない」とあげている所だった。
太田光が、「それでも、血液型はあるだろう」と食い下がっていた。

その後のことだが、これも、たまたま見たTVの国会中継で、誰か忘れたが、自民党の議員が質問しながら、
「アメリカは楽天的なO型が多いそうで、経済見通しが」云々、と場を和ませながら質問をしていた。
多少のヤジはあったが、とりたてて非難する声もなかった。

血液型でも、占いでも、この程度に扱われるのがちょうど良い。

占いと科学
現代の天文学者には、星占いを目の敵にする人たちがいる。
また、医師が血液型を信じるなどと言えば、医師生命を失うだろう。

それは、当然のことだ。
現代の天文学は、占星術の呪縛を断ち切って生まれた。死んだはずの亡霊がつきまとってきたら放置できない。(殊に発祥の欧州では)

また、血液型の何たるかを知る医師からすれば、
宇宙ロケットのビスの一つで、ロケットの性能が分かるかのような話など、あり得ない馬鹿馬鹿しさだ。

こういうことを、重々理解したうえで、
星占いや血液型占いとは何なのかを、考えてみる必要がある。

「てれすこ」という落語に、イカは干したらスルメになるという噺がある。
同じ素材でも、扱い方が違えば別のものになるというたとえ話だ。

繊維を造る技術者と、ファッション・デザイナーは、全く違う価値観の中に生きている。
繊維技術者が生涯を賭ける繊維の質や完成度は、ファッション・デザイナーにとっては、手段でしかない。
繊維も紙も金属も、ファッション価値を生み出す素材のひとつだ。

技術者とデザイナー。製造業と流通業・・・同じものに関わりながら相反する立場にいるが、これらは互いに依存する関係であり、協力が成果を生む。

しかし、天文学者や医師にとって占い師は、得るものは何もないうえ、いい加減な知識で学問を汚し、世の中に害毒を流す。殊に天文学者にとっては、成果にまとわりつく蚊やダニにでしかない。
駆除したくなるのは当然だ。

ただ、心理学者にとっては、占い師という人格そのものが、研究対象にはなるかも知れない。

いずれにしても、科学領域には微塵も容認できない存在なのだ。

占いは宗教ゲリラ
では、占いなど禁止して、完全に無くしてしまえば良さそうなものだが、そうならないのはなぜか。
キリスト教では、強く禁止しているが、二千年経っても結局、なくならない。

一つには、キリスト自身が呪術や占いを行っていた可能性もあり、占いを聞いてはいけないということ自体が、異端排除だったとも考えられる。
また、一神教の真理崇拝が、科学の真理追究原則の生みの親ともなったこともあり、いくら占い撲滅をしようとしても、科学に潜む宗教性による、異端排除でしかなかった、ということもあるのかも知れない。(科学信仰の矛盾の結果ということか)

さらに、科学が発達し、不確定性原理のようなものが発見されることにより、一神教の流れをくむ科学から、多神教的な「関係性」の可能性が見直されるようになってきた。

ステレオタイプな専門職は別として、真摯な学問を追究する学者の多くが、あらゆる可能性を排除することが無くなってきた。
それだけ、西欧科学が成長したということだろう。

西欧の科学者とくらべ、日本の科学者には一神教の呪縛がない。
西欧化が盛んな頃は、科学的でないものは「迷信」として、すべて否定されていた。その末裔が、躍起になって迷信撲滅をする、何とか教授(名前を忘れた)だが、まさに前世紀の遺物となった。

西欧文明自身の変節もあって、西欧コンプレックスが薄れるにつれ、新世代の日本の学者は、仏教文化の柔軟な感覚をますます発揮することになるだろう。(仏教の因縁と日本の多神教的柔軟性)

話が脱線したが、迷信と言われるものに対する科学の姿勢が変化したからといって、占いが市民権を取り返したわけではない。
占いが、無くならないのは、真理探究や技術発展のためではないからだ。

占い手帳
占いの存在理由は、一言で言えば「癒し」だ。
現実に対する不安や恐れを少しでも取り除きたい。
何が起こるか知らないより、たとえ悪いことであっても、少しでも知っていれば、覚悟や対策が考えられる。そう思うことで安心ができる。

そうした人間の欲求がある限り、占いは無くならない。
何があっても神様の思し召しと、身をゆだねる宗教に対し、自分で何とかしようと思う、ある意味では宗教よりも積極的な生き方であり、また、ある意味では救いのない生き方でもある。

そしてまた、その心理につけ込んで、人を支配しようと思ったり、金を巻き上げてやろうと考える「悪魔」が何時の時代にもいる。
だから、悪魔の手に落ちないように救おうとする神がいるのだが、その神も、悪魔の化身かもしれないのだ。

占いを行う者は、こうした認識のもとに、誠実であるべきだ。
占い師は神でも悪魔でもない。指導者でもサービス業でもない。

占いの論理が本当かウソか、当たるか当たらないかは解らない。
しかし、求める人に少しでも良かれと、その知識と知恵を駆使し、求められているものに答えようとする。それしかない。
自己顕示や荒稼ぎのために占いをすべきではない。

だから、
求められてもいないのに、目の前の人を占わない。
残酷な運命を、何の救いもなく語らない。
人気取りのために、相手の喜ぶ話ばかりしない。

たとえ、恨まれるようなことがあっても
「あなたに幸あれ」が、究極の目的でなければならない。

そう思っている


占いの神様

2009年02月01日 | スタンス

むかし、占いを始めた頃には「的中」が仕事だと思っていた。
いかに的中させるかに全力を集中した。その手段として卜星相を何でも試してみた。それなりに「的中」することもあり、依頼も増えた。

しかし、「的中」する時もあれば「外れ」る時もある。
第一、何をもって的中というのか。的中して何の役に立つのか。
すぐに、これでは意味がないと思い始めた。

何のために占うのかを考えるには、依頼者の求めているものを知ることが先だ。
ところが、依頼者自身が、占いに何を求めているのか自覚がない。
となると、こちらが判断するしかない。

「あなたは今夜、死にます」と言われたくて、占いを聞く人はいない。
かと言って、ただ喜ばせるため、文字通りの「fortune telling」では芸人だ。

原点は祈り
確かに、有史以前は占い師や医者や芸人は同じものだった。
医者と芸人がなぜ同じなのか、と驚かれるかも知れないが、神の御業の仲介をするシャーマンとして、人でもなく神でもない存在が人々に「生気」をもたらす。
たとえば、神楽とは神に奉納する芸だが、神は人の想像の結晶。つまりは人に奉納し、人を喜ばすものだ。
食物を得る以外の、人間に生気をもたらす文化的行為にあたるものがシャーマンであり、芸能、芸術、祭儀、治療・・・すべて「祈り」と一体だった。
やがて、職能の分離が起こり、術となり、術は学に支えられるようになった。
学が技を生むようになると、それぞれの大系が生まれ、それぞれが神になった。
芸の道に学はないが、必要とあれば生まれる。
占いは古典的な学によっていたが、科学に淘汰された。今はひたすら科学にこびる存在となっている。

炭火焼きの方がうまいものもある
しかしもし、占いが古代の姿のまま生きようとする時、それは全く価値のないものだろうか。
科学的には証明できなくても、人知を越えた摂理があるとすれば、それはどこかで、人が生きるために役立つはずだ。

摂理の流れをさまよう、木の葉のような人の人生に役立つとすれば、少しでも正しい自分の位置を知ることだろう。
しかし、占いは科学ではない。運命が証明されているわけでもないし、証明のためにあるものでもない。
運命は見えたとしても、漠然と、闇をうかがうようにしか見えないものだ。
そういう心得で占うことにした。

当てものではなく、役に立つ情報の提供には、
「ここだ」ではなく「この辺だ」の方が、一か八かではなく、ベターな対策を考えることができる。
風速何十メートルの台風かよりも、大きい台風が来ると言う方が役に立つ。
25メートルの対策をしていたら、30メートルで吹っ飛ぶことがあるが、漠然と大きいなら最大限の対策を打ち、それで15メートルでも、「なあんだ」と文句を言えるゆとりが残る。

経済学は科学的な体裁を持って、経済論や予測をするが、はたして占いより優れた神と言えるのだろうか。


休めない

2008年11月12日 | スタンス

しばらく休もうと思っていたら、
気になるニュースがあったのでチョット一言。

岐阜で、車が転落して、運転していた人が3日目に助けられた。
その捜査をしている最中、100mほど離れたところに別の車が転落していて、やはり死後10日ほど経った人が見つかった。

こういう事件があると、転落死した人の霊が、道連れを引っ張ろうとしたとか、自分を見つけて欲しくて呼んだのだとか、
すぐ、因縁話にして人をおどしたり、ついでに便乗して、金儲けのネタにする「怪しげな」人が出てくる。

こういう偶然は、いかにも不思議で、
何らかの必然的な力があったに違いない、と思いたいものだ。

これは、現象に隠された原理を解明したい、科学につながる人間の論理思考のあらわれだが、
何もわからない古代の人は、「霊」や「神」の力でそれを説明しようとした。

思い込みを排除して、事実の積み重ねで原理を解明する科学が発達してからは、霊や神の影が薄くなっていたが、
あまりにも高度になった科学に、ついて行けなくなった人々の中に、スピリチャリズムが息を吹き返してきた。

必ず答えを求めようとするのは、子供の「なんで、どうして」と同じで、悪いことではないが、科学的視点では「分からないものは分からないもの」として残しておくものだ。

偶然に起こった不思議なことを、「霊」の仕業にすれば手っ取り早い。お祓いをすれば問題が解決すると思えるからだ。
理由が分からないままにしておくと、また災いが起こるのでは、と不安になるからだ。そこで、その不安につけ込んで儲ける人が出てくる。

神の声
転落事故は、偶然かも知れないし、必然かも知れない。
しかし、「霊」とするのは短絡的すぎる。
事故の連続は、道路の形状や季節的条件、気候的状況が重なって起こったとしても不思議ではない。ただし、これを科学的に解明するのは容易ではない。

これと同じように、身の回りで起こる不思議なこと、不安なことにつけ込み、「お祓い」で解決しようと言う人がいれば、
これは「振り込め詐欺」とまったく同じ手口だ。無いものを有ると言ってお金を出させようとしているからだ。

こんなことを、占い師が言うのはおかしいと思われるだろう。
それは、占いと称して、「振り込め詐欺」のようなことをしている連中があまりにも多く。世間一般常識として、占いと、拝み屋が同じものと思われているからだ。

占いは、霊との因果関係を説明するものではない。
拝んで運を変えられるものでもない。
森羅万象を動かす原理に従って生きようとするものだ。

占い原理で考えれば、岐阜海津市南濃町で、起こるであろうことが起こるべくして起こったと考える。

科学が、積み重ねで原理を見いだそうとするのに対して、
原理を想定して現象を見て行こうとする、科学の真反対にいるものだが、神の声を求める心では同類のものだ。そうありたい。

ここで言う「神」とは、願いを聞いてくれたり、お告げを下したりする「霊」的な「神さん」のことではない。

運命予報


人間的な霊とは違い、「神」は科学の上にでも存在することができる。
人間と霊は対等だが、すべてを超越した存在を「神」と呼ぶからだ。
ついでに、あえて「仏」について言えば、神を知る存在だろうか。


運命予報

2008年11月02日 | スタンス

占いを利用して悪質な金儲けをする連中が後を絶たない。
占いを愛する者としては、占い嫌いの人より怒っている。
恋人が女郎屋で働かされているようなものだ。

占いをよく解らなくても、インチキ商売はできる。
むしろよく知らない方が、一般の人と同じレベルで占いを利用できる。

占いに対する誤解
○運命は絶対である
○運命は変えることができる
大まかに言えば、この矛盾する認識だ。

運命は絶対→コワイ→助けて
→運命を変える方法がありますよ→変えて下さい
→そんな大変なワザには当然、大金が必要です。

これが素人どうしの、欺しの会話だ。

占いに絶対はない
運命は絶対かもしれないが、占うのは人間だ。
人間が解るとすれば、可能性までだ。
可能性を、良くするも悪くするもないものだ。
名前や印鑑を替えれば運命が変わるとか、壺を置けば運が良くなるとか、祈祷で運を変えるとか・・・そんなことは始めから無い。

こういう考え方は、「人頼み」だ。
自分は変わらないで、服やバッグを持てば人格が向上すると思うのと同じだ。
金権主義の横行で、運を買えると思う人が増えてきた。
近頃の「スピリチャリズム」というのは、ほとんど運をガチャポンだと思っている。金さえ出せばネットで買えると思っている。

占いの効用は
可能性を知り、自分が変わることだ
占いは、天気予報のようなものと考えたらいい。
雨が降るなら、洗濯はやめて、傘を持って出かける。
雨が降ると分かっていても、洗濯物がたまって、傘がなければどうするか。濡れてしまったらどうするか・・・
ここから先は、人生相談やカウンセリングだ。
天気に合わせて対策を考えることは、自分を変えることだ。

運を良くするのは、天気に合わせて自分を変えることであって、天気を変えることではない。
運命という公共の乗り物を、自分のためだけに止めたり、方向や形を変えられると思う自己中が増えてきた。
守護霊が守ってくれたり、悪霊が憑いたり、前世の定めでどうにもならなかったり・・・こういう考え方は全て「依存」だ。

占い活用とは、もっと「主体的な意志」のためにある。


名前も現象

2008年03月17日 | スタンス

運命は絶対だが、人間は可能性に生きている
矛盾するように聞こえるこの考え方を、運命論者にも、否定論者にも解ってもらいたい。

人間のドラマは、個人の意志と情熱が創り出す。地上の人間がすべて寝太郎のように何もしないで寝ていれば、人類は10日もあれば滅ぶ。
努力しなければ何も生まれないが、いかに努力しても報われないこともある。

運命を信じなくても成功する人はいる。しかし、努力しても報われないとすれば、運命というものを考えてみてはどうだろう。
西に向かう船で、東に行くことはできない。
つまり、努力が報われないのは「敵と己」、「時勢と適性」を知らないからだ。ドンキホーテは愛すべき人ではあっても賢明とはいえない。

われわれは地球上で生きるように、運命という船に乗っている。
日頃はそれを意識することもないし必要もない。時の流れに逆らわなければ、人間はどのように生きることも許される。
しかし、時の進む方向に逆らえば、生きていくことはできない。いかなる高邁な思想も努力もはかなく消えていく。

だが、その時代に逆らうことが、時の流れに逆らうことではない。
時代は生き物だから、常に姿を変えていく。今の時代に逆らうことはむしろ、時の流れに乗ることであるかもしれない。

惑星も星座も干支も
運命学とは、運命の姿を仮想し、あるいは気配を察知しようとすることだ。だから、仮想する運命の本体も、実際の現象も、共時的につながっていると考える。

その指標である惑星も星座も干支も、地上に現れる姿も形も名前も、すべてつながっているのだ。
星が運命や名前を決めるのではなく、名前が運命を紡ぐわけでもない。

名前も星も、ただ運命の共時的「現れ」に過ぎない。
惑星や星座の動きと、名前や現象は一致する。それは相互作用ではなく、各々が金太郎飴の断面だ。
それを前提として、バロメーターである惑星の動きから時の流れを推し量り、名前や姿で現象の本体を探り、来るべき現象を予測する。

「秋きぬと目にはさやかに見えねども・・・」星や名前は季節を告げる、風の音となる。

流行の名前や、世間を騒がす名前には「今」が現れ、惑星の動きからは、やがて現れるであろう名前がイメージできる。
予言書に現れる名前が、後世、現実に現れた名前に似てはいるが一致しないのは、予言があくまでイメージに基づくものだからだ。

星と名前
「スタンス」「世相史観」「星の流れに」「競馬の星」を通し、一貫して、名前は運命現象として考えている。

実際にどの名前が、どの星と関係するのかは、いまだ途上にある。
星の動きと、実際に現れる名前を常に考察していく必要があるだろう。
「競馬」はマウス実験のように、手近な研究素材と考えている。

現在考えている基準としては、惑星と星座の表す意味を優先しているが、固定化しない心がけが重要だ。

その上で、名前が表す星(惑星と星座)は、意味の一致を重視する。
名前に数字が入っていても、それが総合して別の意味を表すなら、重複と考える必要がある。

一郎をイチロー、ICHIROとすれば、「一」から離れて固有の意味を持つ。
「1」は太陽・獅子座の数だが、イチローはスポーツ選手で木星・射手座であり、野球は水星・乙女座と見る。

赤は火星・牡羊座、冥王星・サソリ座の色だが、赤城とすれば、山=土星・山羊座であり、戦艦・魚座でもある。逆に、赤城山は火星の山ともいえる。

つまり、名前が現象の一部である以上、実際の意味を解釈する場合、総合的判断が必要になる。


何にでも当てはまる ?

2006年09月11日 | スタンス

ノストラダムスの予言が示していたのはこれだ、という諸説に、そんなことを言い出したら何でも当てはまる、という否定論が多く出た。その通りだと思う。

問題は色々あるが、ノストラダムスの言葉は正しいという前提に立った、こじつけが問題なのだ。運命を肯定するとしても、神(運命)と巫女が逆転した話しだ。

占いは暗喩だが、その言語は言葉ではなく現象だ。しかし、それを伝えたものは言葉でしかない。言葉は限定されるから意味の矮小が起こり、現象を語る言葉を文字通りに解釈すると意味不明になる。
西洋占星術で「火星と太陽の合」という現象は暗喩であって、戦争や怪我や精力に限定された個々を語るものではない。

それでも、易経などは言葉そのもので語られているが、この場合も言葉は暗喩でしかない。そして、これらの暗喩は世界経済からポチの病気まで解き明かす。
まさに、何にでも当てはまってしまうのだ。インチキとしか考えようがない。しかし、占いはアナグラムや後付の予言研究とは目的も手法も180度違う。

運気とは「時空を貫く串」であり、おそらく、ユングの言う共時性と同質のものだろう。
運気は宇宙を覆っているから、巨大から極小まで同じ色に染まっている。その色世界の内にいる者には見えないのだが、占いはその色を内から見る手段だ。
見いだした色は、山も犬も染めている。
山が噴火する現象は、犬が吠えて噛みつく現象かも知れない。つまり、多様な現象も同じ背景が影響していると考える。だから、一つの現象から別の現象を察知することは、論理的に可能なわけだ。
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」は、単なる比喩かも知れないが、星の流れ、雲の流れに世相を悟るのは「観天望気」と言い、占いでは重要な心得だ。


占いタイム

2006年09月11日 | スタンス

昔、アメリカ人から「世間の連中はステレオタイプだ」と聞いた時、そのジェスチャーもあって、笑ってしまった。
両手を両目からパーにしながら突き出し、「見たまんま、聞いたまんまを信じ込んでいる」と言う。
実はその時、初めて聞いた「ステレオタイプ」という言葉。ステレオ音声から来たものだと思っていた。だが、ステレオには当然、語源があるわけで、どうも「確固たる具現=リアリティー」の意味から、印刷銅版のステレオタイプとなり、そこから固定概念を表すようになったらしい。

固定概念、決めつけ、先入観。科学的証明法を持たない占いは、そうした迷信の親玉のように思われているし、事実、予言的な言葉は常に、聞き手によって固定化される。
しかし、占いの言葉は元来、詩的な象徴句、暗喩であり固定的な意味を持つものではない。

では実体がないのかと言えば、そうでもない。大まかな方向性と的確な真理をついている。
その「いい加減にして真なるところ」は諺に似ている。「急がば回れ」と聞けば、証明法があるわけでもないが、大筋、だれもが真理を納得する。そしてまた、諺も固定概念を増幅させる点では同じ弊害がある。ただ、曖昧ではあっても、信者だけを納得させるエセ教祖の言葉とは大きく異なる。諺には漠然とした普遍性がある。

諺は傾向と考えれば、生活の知恵として有意義なものだが、占いは、信じる人には拘束力があり、危険性すらある。
しかし、本来、占いの言葉は信じさせるためではなく、考えさせるためにある。スポ-ツの試合で、追い込まれて取るタイムのようなものだ。
頭を冷やし、「だからどうすべきか、どう生きるか」と考え直す発想転換のティータイムと考えてはどうだろう。


いい加減が良い加減 3

2006年09月09日 | スタンス

四柱推命の「通変」という資質概念には、正と偏の分類がある。
正が標準的であるのに対し、偏とは偏(かたよ)って極端なものとされる。したがって正が順調な発展をするのに比べ、偏は一か八かになりやすい。

偏の能力を活かすには極端なエネルギーを上手にコントロールする必要がある。正が火薬なら、偏は原子力のようなものだ。人間ならば、常識的な正当派と独善的な異端児というところ。正は常識に素直で、善意にあふれ温厚だが、偏は常識を嫌い、過激で親しみにくい。ところが意外にも、目立った異常行動は正の方に現れる。

失敗体験の多い偏は、何とか普通になりたいと思っているが、失敗経験の少ない正は学ぶ機会がないので、行き詰まると「反対」をやれば良いと思い込む。芸術・芸能など個性を求められると、単に過激な言動のことだと勘違いする。
もっとも、同じ正の人にはそれが個性的に見えるから、需要と供給はみたされるわけだが、新機軸が生まれたわけではない。偏のように始めから常識はずれのものは一般受けしないが、うまく常識になじむことを学べば、むしろ有用な創造性を発揮する。

余談:正と偏の関係は、血液型の正統派A型と非常識のB型にも似ていて、A型の女優が売れなくなるとすぐ脱ぐが、意外とB型は脱がない。

物事の理解は知識を学習することではない。
単なる優等生は独創性を失い教条主義に陥り本質を理解しないが、遊び体験から学んだものは本質を悟る。
学問は40歳過ぎてからでも遅くはないが、幼児期の体で覚える遊び体験は、理解と創造には重要だとつくづく思う。

近頃は、世の中全体が情報のつじつま合わせにとらわれて、あらゆる分野に「いい加減さ」が無くなっている。恐ろしいことだ。
緻密な論理で全体をコントロールできると思う傲りは、ボルト一本折れても、「,」一つ欠けても、大爆発につながる。


いい加減が良い加減 2

2006年09月09日 | スタンス

アナログ的であるべきものをデジタル的に理解すると、現実離れのマンガになるのだが、バーチャル世界にいる人は全く気づかない。

宗教にせよ、哲学にせよ、古聖賢の教えはアナログ的であるゆえに、広く深い理解が可能になる。
しかし、言葉通りデジタル理解すると、膨大な単語知識のつじつま合わせになってしまう。しかもそんなメモリー人間を操るのは簡単だ。言葉尻を曖昧な単語でつなぐ「機知」があればいいのだ。知識と論理はあってもそれを意味的につなぎ合わせることのできない「優等生」ほど御しやすい。 (これは膨大なネット情報の中に生きる人にも通じる問題だ)

知的ナルシストは鏡を見せれば納得する。新興宗教に優秀と「される」人々が心酔するワケはここにある。
独善を曖昧な言葉で補強する人間(=自分に都合の良いことを言う人間)を『すばらしい!』と思う。つまり、自分の影を至高の叡智と認め崇めるわけだ。

古聖賢のアナログな教えは、実体をぼかして比喩的に表現したものだが、エセ教祖の「教え」なるものは、信者の妄念を確信に変えるための曖昧な言葉で、中身はない。
これを占いでは「合わせ鑑定」という。言葉だけがミョウに明確なところも似ている。「言語明瞭意味不明」とも言うやつだ。(独善を保護する緩衝材としての言葉使い)

物理的理解による近代の科学、産業の成功が、何ごとにおいても曖昧さを排斥し、当面の論理性だけを偏重した結果、「不可思議領域」を容認するトータルバランスを失ってしまった。
(断言的に言うほど信頼される「インチキ」を受け入れる社会の誕生)

真理に近づくには、「いい加減さ」も必要であり、何よりも、四択にできないもの(=答えを出せないもの)があることを知ることが第一歩だ。