魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

衰退文化

2013年02月28日 | 京都&ケンミン文化

中国のBBSで、中国人と日本人では、どちらが酒に強いかと議論していたそうだ。

これにかかわらず、何ごとにおいても、やはり中国は半世紀以上は遅れている。
昔は、日本でも「酒に強い」ことが自慢になった。
「♪ 酒は飲め飲め飲むならば~」の黒田節のように、「男、豪傑、酒」の三点セットとして称えられていた。

日本の場合は、「酒の上のこと」と、たいていの失敗が許されるが、中国の場合は、酒はスポーツのように、代理戦争や木剣試合の意味合いがあるようだ。酒の実力で人間を試したり、勝ち負けを決める。
そういう点では、黒田節に通じる実力テストだ。

酒に酔って我を忘れたり、能力を失ったりするのは、すなわち、戦う男として劣っており、そんな人間は尊重に値しないという、肉体至上主義の時代の原始的価値観だ。
その哲学は、日本の古事記にも至る所に表れている。

スサノウの八岐大蛇退治は、酒に酔わせて勝利し、ヤマトタケルは、やはり酒に酔った熊襲健をダマし討ちにする。
実戦でも、大和朝廷軍は蝦夷征伐でダマし討ちをしているし、信長の桶狭間では今川軍に酒を献上して急襲している。

酒で判断を誤るのは、その人間が無能だから悪い。だから、互いに、負けないように酒を飲む。酒の席は果たし合いであり、酒を拒むこと自体が、負けを認めることになる。

男としての価値が、肉体による闘争能力であった時代は、文人であっても、酒に強くなければならなかった。
浴びるように酒を飲みながら、詞を書いたと言われる李白が敬われたし、今日でも、ジャッキーチェンの「酔拳」のように、飲めば飲むほど強くなる、酒で能力が増す話が好まれる。

日本でもこの価値観が受け継がれてきたが、男の闘争能力より、人間としての知的能力が重視されるようになると、「酒に強い」ことが、自慢できるようなことではなくなってきた。

また、ネットや携帯で、肉体的に共同作業をする場が減少し、酒で人間関係をスムーズにする必要を感じなくなった。
そういうことも、若者の酒離れにつながってきている。
酒の味を変えたり、飲み方を提案しても、酒文化が無くなってくれば消費量が減少するのは当然だ。

遡る40年ほど前。着物文化も衰退を始め、祇園を支えていた呉服問屋の旦那衆がいなくなり、代わりに、京都には電子産業が育ち始めた。
しかし、この産業に従事する人達は、基本的に酒は飲まず、意味も無く人間関係をつくって群れることがないために、祇園を支える人脈にはならないと、花街の人を嘆かせていた。


心身冷却

2013年02月27日 | 占いばなし

不眠対策」の続きを話そう思ったのだが、どうにも不調で、ボーッとしているが、こちらの方が本論なので、とにかく書いてしまわなくては。

土星は苦労と悩みの惑星
土星の作用は、冷え、縮み、塊り、凝り・・・など、
山羊座や水瓶座の支配星だけに、冬の厳しさを連想させる。
土星が影響する人は、厳しさや、悲観、危機感などがあり、湯に入ったような極楽トンボの感性を嫌い、極めて現実的な視点と感性を持つ。

幸福であることを信じず、うまい話を嫌い、素直ではない考え方をするから、横恋慕のような恋心や、ガマンや涙を抱えた恋にハマってしまう。また、素直に信じられないから、気持ちより金、名誉より権力、心より肉体を重視する。

ところが、一方で、悲観的の裏返しとして、極めて現実離れした楽観人間になることがある。開放的で、KYで、虫の良い言動が人の度肝を抜くことがあるが、実はこれも、人間を信じられないことに原因がある。

もともと、人の心が解らず人間を信じられない、疑い深いタチの人が、「人間は信じられるものなんだ」と、教えられたり、ふとそう思い込んだりすると、今度は極端に無神経になる。いずれにしても、人の心を理解するのが苦手なことからくる。

山羊座にもノーテンキな人はいるが、星座の因果関係で言えば、山羊座が土星の疑い深さで、次の水瓶座は裏返しの無神経となる。
山羊座や水瓶座に小説家が多いのは、人の心が解らないから、よけい関心が沸くのだろう。

冷えは萎縮
こうした土星の現象は、星座にかかわらず、誰でも起こる。土星の影響があれば、何座であろうと、山羊座や水瓶座の特長が現れてくる。

さらに、占いと関係ないところでも、同じような現象が起きる。
身体が冷えると、土星の影響と同じことが起こる。土星の冷えは実際の身体の冷えと同じことだから、身体の冷えから逆に、土星の働きが理解できるかも知れない。

ここであげる身体の冷えとは、実際の体温もあるが、夏場でも起こるので、季節の体調に比較して冷える、体感温度に近い。

たとえ夏場でも、身体が冷えてくると、ふと不安になってくる。
夜、洗面所で歯を磨きながら、顔を上げて鏡を見ると、誰か後ろにいるんじゃないか・・・とか、いわれのない不安に襲われる。
真っ昼間の、太陽サンサンの時には、先ず思いつかない。
もっとも、そんな時に恐怖を感じるとすれば、むしろ、先天的な体質を心配しなければならない。

夜、眠れないことと、体温の関係が少なからずあるように、嫌なことを次々と思い出したり、、疑念が沸いてきたりするのは、無自覚のうちに、身体が冷えているのかも知れない。
そしてそれは、冷えと萎縮の土星の働きとも一致する。身体の萎縮は心の萎縮につながる。

すべてが冷えが原因というわけではないが、身体が冷えれば、あらゆる循環が悪くなる。
疑心暗鬼や悩みで、居たたまれなくなったり、眠られない時には、とりあえず身体を温めてみてはどうだろう。

狭い島国で、互いに気を遣いながら暮らす、日本人の大発明は、何と言っても、お風呂文化なのかも知れない。


不眠対策

2013年02月24日 | 生活の知恵

寝ようとすると、あれこれ考えて眠られなくなる。
明け方、目を覚ますとそれっきり眠られない。
中年を過ぎる頃から、そういうことが多くなり、今では、日常になった。
周囲に年寄りが増えたこともあって、こういう話をやたら聞く。

解決策
この対策の一つの方法として、誰にも効くのかは分からないが、
自分では布団乾燥機を使っている。

冷え性の人が足が冷えて眠れないという話から思いついた。
冷え性の対策として、テレビでは、足先をギューッと、反らしたり伸ばしたりすれば、足先に血が周り、眠られるという話だった。

体中に血が回れば、暖まるから、風呂上がりに寝る人が多い。ところが、風呂上がりに寝ると暑すぎて寝られない。かといって、さませば冷える。(個人的には風呂から布団に直行すると、翌朝、頭痛になる)

なにより、暖まって寝ても、目が覚めてから寝られない。
軽くアルコールを飲む人もいるが、これも目覚めてからが問題だ。
電気毛布は暖まるが、睡眠薬と同じで、身体の自律調整力を弱体化させ、悪循環に陥るような気がする。

要は、寝付くための補助だから、瞬間的に温めれば良いわけだが、起きて風呂に入り直すわけにも、アルコールを飲むわけにも行かない。

そこで、布団乾燥機の吹き出し口(ホース)を、直接、布団の中に入れてみた。
足を立てて横から膝の下辺りにホースを入れ温風を吹き込む。
直接当たると熱いが、足を開き加減にして、足下の方に当てると、かかとの辺りが暖かい。
そのまま続けていると、足下周辺全体が暖まると共に、温風が、上半身の方にも回ってくるので、全体が暖まり、ボーッと眠くなる。
ここで、スイッチを切る。大体4~5分ぐらいだ。
これで、ほぼ100%寝てしまう。

この秘策は、絶対に他人には勧められない
もし寝てしまったら、やけど、火事など、危険きわまりない。
自分でも、初めて試す時は、かなり慎重に始めた。人類で初めて牡蠣(カキ)を食べた人のことを思った。
しかし、世の中には、石油ストーブに布団を掛けてコタツ代わりにする人がいるというから、それよりは、遥かに安全だ。

乾燥機の場合。スイッチはタイマーになっているから、5分ぐらいにするという手もあるが、足を立てていられなくなるぐらい眠くなれば切るのが、一番分かりやすい。

小さな省エネ


保守革新

2013年02月23日 | 占いばなし

昔、ある地方の人に、「今度の知事選どうでしょうね」と聞かれた。
「革新が強い時期ですが」と言うと、
「うちの知事は革新系なので再選ですね」と言われて、何選目か尋ねると、もう20年近くになるとのこと、
「ああ、それじゃ対抗馬の方でしょうね」と言うと、
「ええ! 対抗馬は保守系ですよ」といぶかしがられ、説明した。

革新が強いという言い方には、やや語弊があったようだ。
「革新が起こる」と言うべきだったかも知れない。
天王星や木星が男性星座にいると、世の中に進取の気分が満ちて、新しいものを求めるようになる。すると、環境を改める冒険をしたくなる。その結果、それまでの体制を変えたくなる。

知事選が、どちらも初挑戦なら革新系になるかも知れないが、名目「革新系」の旧態が続いている土地では、名目「保守系」の革新が起こる。
つまり、環境の実体が改まる。それが事実としての革新だ。

言葉と裏腹
星の作用は現実に対してだから、革新や改革の名前でも、それが続けば保守になる。もし、絶え間ない革新が続けば、単なる混乱になる。

「惑星現象は名前と一致する」という説と、矛盾するように思われるかも知れないが、名前の出現は、一瞬の表象の話だ。
例えば、黄色いサングラスをした瞬間、世界が黄色くなるが、しばらくすると忘れてしまう。黄色が意味を持たなくなる。

「うわっ、黄色い」と思うインパクトが、惑星の象徴効果だ。
星の影響が、顕著なのは、作用が始まった瞬間や、何らかの刺激を受けた時であり、長期続いていると忘れられ、むしろ外した瞬間に気付く。
惑星が入宮した時は驚くが、しばらくすると当たり前になり、次の星座に移ると、別の新しいことに目を奪われる。

サングラスを掛けている間、黄色がずっと続いていたことは、時間が経ってから気づく。惑星が通過した時代、歴史は後で分かる。
「革新」という名前や、方法があったとしても、それが続けば停滞になる。黄色いサングラスを外すと、新しい世界が開けたと感じる。
(念のため言えば、革新系と言っても、名前の意味が案外、革新と関係ないこともあるし、名前と時節の相性が悪い時もある)

感情が動かす時代の中で
星の問題に限らず、現実対応とは、それが現れた一瞬の驚きに対応することではない。冷徹な直視によって、対応しなければならない。
また、慣れてしまっても、黄色い世界ははやはり黄色いのだ。
何ごとも、道を誤るのは、驚き、喜び、悲しみ、怒りにより、現実を忘れる、「感情的行動」だ。しかし、残念ながら人類の歴史は、結局はこれで動いてきた。

占いの価値は、驚きの現象を予め覚悟しておけることだ。
例えば、何時、死ぬと正確に分かれば、冷静な人は対策を打つかも知れないが、たいていはパニックになる。的中だけなら占いなど無用だ。

大体この頃に死にそうだということなら、慌てない程度の覚悟ができる。人間としての価値は、運命のスケジュールに従って生きることではない。心にゆとりを持って、何ごとをも受け入れ、かつ、運命に立ち向かっていくことではなかろうか。


複合現象

2013年02月20日 | 占いばなし

以前も書いたが、星の吉凶作用の話題として、もう一度。

吉凶二つ以上の要素が同居するとどうなるか
四柱推命などでは特によく言われるのだが、凶星があっても、それを打ち消す別の凶星や、あるいは、別の吉星が同居すれば、凶が打ち消されるという考え方が一般的にある。

例えば、「冲(180゜)があっても、空亡していれば凶が消える」などが典型だが、これではアバウトすぎる。

四柱推命を知らない人のため、少しだけ解説すると、
十二支が、子-午など真反対の位置に在る場合(惑星で言えば180゜のオポジション)。かつ、いずれかの支が空亡しているような場合。
空亡とは、巷で大殺界や天中殺で知られるもの。10干12支を順次組合せると、余る2つの十二支。(例:甲子で始まれば戌と亥が余る)
空亡は虚しく亡ぶ、その人本来の能力が失われるとされる十二支。

悪い配置があっても、空亡が悪い要素も削ぐので、凶が消えるという考え方は、「香水をまけば硫化水素が無くなる」みたいな話で、はなはだ危険だ。  臭いはごまかせても、毒性は消えないからだ。

確かに、火事と破産が同時に起これば、一度で済み、順番に起こるより、ダメージは少ないかも知れないが、どちらも確実に存在する。
悪いことが起こったら、寝ている方が良いみたいな話でもある。

どうせ悪いのだから、居直って寝てしまえば、良いか悪いか?
良い場合も悪い場合もあるが、起きていれば、少なくとも逃げることはできる。寝るとは空亡の例えだが、本当に寝込むのと、動物や忍者のように寝て起きているのとは、結果が多少違う。

通常、「冲」は、肉体、精神、行動が過剰反応し、不安定になり、破壊や不幸につながる。
「空亡」は、本来の能力や作用のウラ目の時だから、「冲」による動揺が100%では起こらない。
しかし、怒って刀を振り回せば怪我をするからと言って、寝とぼけて振り回すのなら、狙いが付かないから怪我をしないと言うことには成らない。

寝とぼけた人間が刀を振り回すのは、正気の人間が振り回すより、危険な場合もある。
二つの要素の同居によっても、相殺にならないのは、つまりこういうことだ。様子は違うが二つの要素は消えるわけではない。

もちろん、一つの要素だけの時とは様子が違うから、二つが組み合わさった場合の効果や結果は、双方の要素の「取り合わせ」として考えるべきものだ。塩とコショウを組み合わせると別のテーストになる。

あらゆる占いに、この組合せの変化を考慮しなければならないが、
何も占いだけではない。様々な機器や組織、人間の行動は、すべて、複合的な要素が絡み合っている。
物事すべて、単純な原因と結果で割り切れるものではない。

・・・と、こういう考え方は、日本人の得意とするところで、中国人は逆に、複雑な事象を陰陽論のように単純化して考える。
日本人から観れば、理解不能のバカげた行動パターンは、悠久の視点に立てば、大きく的を射ているのかも知れない。

野田前総理が「大局」を口にして、ますます中国政府を怒らせたが、中国人にしてみれば、大局とは人間のあずかり知るようなことでは無いからだ。
信じたことをする。後は天にまかせる。どうもそういうことらしい。


何だろう 補

2013年02月19日 | 星の流れに

「惑星現象」の補足

基本的に、木星以外の外惑星(火土天海冥)は凶星と言われている。
しかし、どんな占いでも、吉星、凶星の区別は単純ではない。
吉星と言っても守り神ではない。吉星とは、吉作用になりやすいだけで、組み合わせ次第では害にもなる。

どんな良薬でも、過ぎれば害になる。毒でも使い方によっては薬になる。これは何ごとにも言えることで、明るい性格も、度が過ぎると、他人に迷惑を掛けたり嫌われたりする。
惑星の働きはタイプによるから、どの惑星にも長所短所がある。

天王星
惑星の中でも劇的な作用があるのは、集中と爆発の星、天王星だ。
天王星は凶星だが、他の惑星や個人との相性が良い場合には、大人気や大成功になる。

しかし、その勢いを続けていると、憎まれたり大失敗に変わる。
もともと悪い要素を持っている人は、いきなり不幸に見舞われるが、その不幸もまた、衆目を浴びるような事態になる。
センセーションの天王星が影響すると、とにかく目立つ。

牡羊座に天王星が来たことで、目立っている有名人の典型的な例は、
レディー・ガガだ。
大ブームの最中の手術のように、天王星という興奮剤が効いて、ますます衆目を浴びるが、興奮による過激行動が事故や病気を併発する。

天王星による人気はトンガッているために、熱狂と同時に非難を浴びることが多い。
いかにも天王星の影響が表れている日本の有名人では、沢尻エリカや宮迫博之、島田紳助、田中好子・・・など、吉凶の「異変」に見舞われたが、今人気の綾瀬はるかなども要注意だ。

国ではEUが牡羊座で激変中だが、逆に、水瓶座のロシアや北海道は、水瓶座通過の激変期を経て、天王星が良好位置の牡羊座に移り、ようやく新しい芽が出始めている。

一方、その天王星が第10室にいるカニ座の中国は、国際的に「驚かれている」と同時に、職業の室だから、経済も不安定になっている。
カニ座の人も同様で、大阪の橋本市長も似たような状況と言える。

土星
土星は天王星の原石のような星だ。「時」を司り、ガマンを強いる。
何であれ、楽しいことは一瞬で、苦しいことは長く続く。あるいは長く感じる。どんなに良いことも、それができるまでの時間は、苦しいと感じる。裏を返せば、土星の吉作用とはジッと楽しみを持ち続けることだろう。ユーミンの「待ち伏せ」のような、横恋慕の「野心」もある。

土星は、ガマンし、縮こまり、冷える作用だが、これがついに成就する、爆発の瞬間が天王星だ。
土星が来た星座は、縮こまり、悲観的になり、頑張ろうとし、しなやかさを失い、自ら墓穴を掘る。3年間の日本がそうだった。
この時、中国は自宅を表す第4室に土星を迎えたわけで、領土に野心を持つことになった。

今土星はサソリ座で、朝鮮半島だが、水瓶座のロシアにとっては第10室であり、国際的な話題は増えるがパッとせず、経済は苦しい時期になる。個人なら失業の時期だ。日本の場合2002~05年に当たる。


何だろう

2013年02月18日 | 星の流れに

ロシアの隕石落下。これは占いと関係あるような無いような出来事なので、多少面倒くさい気もするが、森羅万象の一つとして、一応、触れておかなければならないだろう。

と言うのも、洋の東西、命理学では「星」という言葉を使うからだ。
もともと、星占いは惑星の運行より、日食、月食や彗星の出現など、天変に興味を持たれて、始まったものだから、彗星や隕石は星占いに直接関係すると言える。

しかし、毎度言うように、魯生の考えは、「惑星は周期律の指標」としか考えないから、彗星や隕石も、直接、何かに影響を与えるとは考えない。例えば、流れ星が誰か偉人の命を奪うとは考えない。
むしろ、周期律として起こる世相事件の一つとして考えられる。

恐竜を亡ばした隕石の出現が数千万年おきに起こるとすれば、それは天文学の問題であり、巨大隕石衝突周期と、「種の絶滅」の周期律は必ずしも一致しない。

この周期律の小さなものが、12年や30年、84年などの周期で、惑星も周期の一つの現れと考える。(占星学のコペルニクス的転回かも)
隕石の落下も、何らかの周期で起きた、「ロシアにおける災難」だ。

未知の周期律?
天文学的には、ちょうど地球をかすめて通った小惑星の影響が、落下隕石と関係するかしないかの問題が生じている。
きわどくかすった小惑星だが、1908年に起こった空中爆発事件の小惑星の推定サイズとほぼ同じぐらいだと見なされている。

それぞれ関係の無い、違う個体だが、周期律としては同じ事だ。
今回は通過したが、前回はたまたま衝突した。
そのうえ、通過した今回も、小型の代役によって、やはり衝突事件となり、現象は完璧に再現したことになる。

ただし何れであろうと、周期律的には、衝突しなくても「きわどい騒ぎ」が起きること自体が、既に、再現と考えられる。

では、この105年目の現象は何だろう。惑星的には共通する事は何もない。強いて、共通点を探せば、活動宮の90゜180゜(Tスクエア)ぐらいだが、ムリすぎる。

周期律の方にこだわって、あえて、更に105年を遡ってみると、
1908年と1803年の共通点は、世界の勢力図の変化に鍵がありそうだ。
1803年 ナポレオン戦争。アメリカは仏領ルイジアナを購入拡大。
1908年 清の溥儀即位→滅亡。アメリカFBI誕生、日系移民禁止。
2013年 ???
105年周期があるとすれば、過去二回から、今年はアメリカが漁夫の利を得そうな年だろうか ???

惑星現象
これとは別に、昨今の惑星の動きから、ロシアを考えてみると、天王星が水瓶座にいた1995~2003年の苦難から、近年ようやく牡羊座に移り、活気づき始めた時期と言えるが、月に群雲、花に風。土星がサソリ座に来てまた、他動的なややこしいことが頻発している。

これと全く同じ事は、水瓶座の北海道にも言える。
北海道は拓殖銀行、夕張、雪印と、いろいろな試練の後、近年は海外からも脚光を浴びているが、中国人客の停止など、いろいろ想定外が続いている。


かぶり物

2013年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

また、インプルエンザが大流行だ。
電車で、マスクをした女子高生がマスクが飛ぶほど咳き込み、
やはり、マスクの友達が心配そうに、「だいじょうぶかあ?」と訊く、
「だいじょうぶと、ちゃう」と言いながら降りていった。
基本的にマスクはしないのだが、見回すと乗客全員マスクをしている。さすがに、不安になった。

常にマスクをする人に言わせると、他人に迷惑を掛けてはいけないから、しなければならないそうだが、マスクをする人は帽子もかぶる人が多い。マスクは別としても、帽子というものは防御意識の表れだ。

帽子は本来、日射、寒風、ホコリ、落下物から、身を守るためにかぶる。ヘルメットとなるとさらに、強打から身を守る兜だ。
帽子好きの人は、オシャレに欠かせないものだと考えているが、それを美しい、完璧と感じる潜在意識には、安心感を「調和=美」と考える、自己防御意識が内在している。

もとより、衣類そのものが、身を守るために始まった物だから、防御意識を含んでいるのは当然だ。オシャレは自己防御の一つでもある。
しかし、冷暖房によって、衣類の必要が無くなってもやはり、身につけている。つまり、衣類によって守られているものは、肉体よりもむしろ、自意識や信念、あるいは本音や思想だとも言える。

髪の毛はもともと天然の帽子だから、髪型で顔のイメージを変えようとする人にも、帽子好きの人が多い。もっとも、帽子好きでも、整髪した時は、せっかく整えた髪型が崩れると嫌がる人もいる。
この場合は、髪型が帽子の代わりになっている。

頭にかぶるものを、身だしなみの必需品と考えるのは、自我を隠す手段だ。権威者が冠をかぶり、子供が大人になる証として烏帽子などの帽子をかぶる。あるいは、髪型を変える。これによって本音を隠し、逆に、無い自我を有るように見せ、大人としての「立場」を得る。

保守的な社会では、個を封じ込めることで、社会の形を守り、秩序を維持しようとする。
黒髪は女の命であるとか、女はベールをしなければならないとか、冠り物を奨励する社会は、発展を嫌い、どんどん停滞していく。イギリス紳士の山高帽やシルクハットなどもその例だ。

この逆に、フランス革命後に女性のショートカットが大流行したのは有名だ。進歩や発展、解放を求める時、人は冠り物をかなぐり捨てようとする。自分の内面や個性を発揮しようとすれば、自分を覆い隠す物、因習やルールめいた物がすべて邪魔になる。

出家の剃髪も元来、社会の縛りを捨てる象徴だったが、これも時間が経つと、逆に、冠り物と同じ因習の象徴になった。
社会風俗としての剃髪は、社会の因習を拒否する意志とは真逆だ。
先頃、「ボウズになって」詫びたタレントがいたが、あれなども、積極的に因習に従って見せた例であり、宣伝と見られても仕方がない。

春じゃ春じゃ
花粉、インフル、PM2.5と、近頃、ますますマスクが大流行だ。理由が何であれ、「マスクをする」こと、そのことが社会化している方が、日本社会の危機を感じる。

昔は、春先のオヤジのクシャミや眼病み鼻風邪ていどとして、花粉症など問題にしなかったし、1960年代の東京の太陽がおぼろ月のようになっていても、誰もマスクなどしなかったが、その当時の人間は皆、高齢者になるまで生きている。

花粉やPM2.5が危険ではないと言うのではない。危険の防御にばかり意識が行く風潮の広がりは、寒いと言ってコタツにもぐり込むのと同じだ。どんどん内向きになって、二度と立ち上がれなくなる。

マスクの大流行に誘われるように、近年はまた、帽子や傘が流行っている。
閉塞社会の江戸時代には、「眼病み女に風邪引き男」とか、「夜目遠目傘の内」のように、曖昧にして隠すことが魅力的とされた。それは、ファッションとは防御である、に通じる真実だが、閉じこもりの価値観であることには違いない。

日本人もそろそろ、冠り物をかなぐり捨て、コタツから立ち上がり、
外に出よう

 もうすぐ春~るですねえ 」


玉石混淆

2013年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

伊勢の活け魚料理店で、人懐っこいクエが、ペットになって可愛がられていた。
滋賀県では、うなぎ屋さんが仕入れたウナギの背中に、白いハートのマークを発見し、草津の琵琶湖博物館に寄贈して展示されることになった。

クエもウナギも、本当ならとっくに食べられていたはずだ。
色素異常のウナギは、商品としてはキズ物だが、たまたま、ハート型だったために、珍しがられて生き延びた。
クエは、鈍いのか、逃げ回らないので、可愛がられて懐いたそうだ。

どちらも、本来なら、まともではない落ちこぼれだ。
エリートや秀才は、あくまで集団内の尺度であり、その集団外の、それを良しとする人々がいない世界では、特別の価値はない。

それどころか、その集団の理想に特化しているために、集団の運命から逃れられない。集団が滅びる時、そこから逃れるすべを持たない。
ウナギもクエも、食用の特性ゆえに、捕らえられ食べられた。
ところが、集団の基準から外れた者は、別の価値や能力を持っている。

ハートマークは、ウナギには何の価値もないが、人間には特別の価値があったし、鈍くて逃げないクエなど、海で暮らせば命取りだが、生けすの中では、命拾いの能力になった。

原石は光らない
近年の遺伝学の進歩は、生命が、ただひたすら生命の持続だけを追い求めていることを、浮かび上がらせた。
DNAは無節操な野合を求め、ひたすら壮大なムダを生み出している。

たしかに、ある生物種からすれば、まさにムダな出来損ないであっても、生命全体の立場からすれば、有益も無益もない。最終的に生き残るものが有為なのだ。

集団が行き詰まった時、それを救えるのは、その集団のエリートではない。むしろ、その集団の全盛期には、無能や出来損ないとみなされていたような存在だ。
醜いアヒルの子、三年寝太郎など、落ちこぼれが、終いには恵まれたり、活躍する話は、意外と多い。

乱世、混迷の時代。幕末の下級武士や、戦国の農民や商人、戦後の闇市や町工場・・・、現代ではシリコンバレーや、ネット通販もそれだ。
いずれも、それまでの正統派ではない道から、頭角を現した。

今の日本企業が行き詰まっているのは、前世紀規準のエリートで固まっているからだが、高度成長期のビジネス環境は既に無い。
新時代に飛び込めるような人材も、古い社会や教育の中では、育っていない。かと言って、学歴抜きの人材を見抜く能力も勇気もない。
詰まるところが、外国人材だ。

外国人の採用は良いことだが、どうにも理解できないのは、なぜ、採用条件に、留学や海外ボランティアを入れないのか。これ自体が企業の硬直化であり、そんな企業が海外人材を使いこなせるとは思えない。
将来の企業は、日本人はすべて、外国人の下で働くことになるだろう。

現実問題


偽の栄光

2013年02月13日 | 新鎖国論

何度も言うことだが、オリンピック精神とか、フェアプレイとか、何故、日本人はこうも、「綺麗事のキャッチフレーズ」に弱いのだろう。

日本のスポーツ選手はオリンピックを信じ、そこを目標に、日夜、涙ぐましい鍛錬をしている。スポーツの精神は、人間の生み出した、あらゆる創造行為と同様、尊いものだ。
しかし、どの分野であれ、それが、何らかの組織によって「見世物」になると、創造行為は本来の創造の意義を失う。

もっとも、あらゆる創造行為と言うなら、「見世物」商売もまた、一つの創造行為には違いないが、これは芸術やスポーツと比べ、あくまで、金を稼ぐのが目的であり、食うための狩猟と同じことだ。

創造とは人類が成長するために必要な、試行錯誤であり、目的を持たない行為は、一見ムダに見える。そのムダを、見世物小屋の商品にすれば、有意義に見えるが、創造は商品価値だけに限定される。

美術であれ、文学であれ、美術展や文学賞となると、組織と審査員が決定する価値で選別され、逆に、そこからはみ出した価値や可能性は、無価値なものと決めつけられることになる。

これは、スポーツイベントも同じだ。勝ち負けのあるスポーツでは価値観など関係ないと思われるかも知れないが、ルールーを決めるのは、やはり見世物小屋の興行師だ。

純粋なものは、いずれ汚れる
古代オリンピック精神の復活をうたった近代オリンピックは、当初は確かに、高邁な精神で始まったかも知れないが、今や、完全に「見世物小屋」の商売だ。今や、オリンピックを経済抜きで語る人はいない。

商売は、農と武の徳川幕府が最も嫌ったように、物を作り自らの命を懸ける、士・農・工を食いものにする生き方だ。
他人のフンドシで金を稼ぐ、右のものを左にやって利ざやを稼ぐ、ハイエナか泥棒のような根性だ。(少なくとも徳川幕府はそう思った)

日本の文化が、「金儲け」を嫌うのは、徳川300年の武士文化によるものだが、これは、島国という、外敵に邪魔されない恵まれた環境で育まれたものであり、自己研鑽と相互信頼で成り立つ社会に、「銭」は不要だった。

しかし、他人を信じられない大陸では、金だけが頼りだ。金さえあれば、地位も力も手に入れることができる。
技など磨いている暇の無い大陸だが、金さえあれば技も手に入る。
その信念が、日本人から見れば、賄賂とパクリの「汚いやり方」、つまり、「商」の、泥棒ハイエナ根性としか映らない。

日本の中でも西の文化は大陸の影響が強く、この「商」の原理が浸透している。その商人のモットーは「汚く稼いで綺麗に使う」だが、綺麗かどうかは別にして、効果的な使い方に徹している。

ヨーロッパの貴族の道楽で始まったオリンピックは、結局は、世界の大原則である「儲け主義」に収まっている。
何から何まで金が物を言う世界の原理で動いていることは、今や論を待たない。

東京にオリンピックを再び招致しようというのも、結局は経済問題であり、カジノ建設と何も変わらない。
にもかかわらず、スポーツ団体あるいは日本人は、相変わらず精神的にとらえている。オリンピックは既に、日本人の思うような精神主義で動いてはいない。

昨日まで、韓国はテコンドーが競技種目から外れる心配をしていたが、フタを開けてみると、テコンドーが残り、代わりに日本が得意なレスリングが除外対象となっていた。
レスリング協会は、オリンピック精神の伝統レスリングは、切り離されないと信じていたが、まったく違う原理を突きつけられた。

一方、韓国サッカーの明らかなオリンピック憲章毀損に対し、IOCは「注意」だけで、事実上のお咎め無しだった。また、先の冬季オリンピックでも、不可解な採点が相次いだ。

日本や中国のように、自分の原理に拘る国は実に扱いやすい。
朝鮮半島のように、強国の狭間で鍛えられた国は、「生き残り」の技を徹底的に体得して世知辛い。北朝鮮と韓国は全く同一の民族であることを忘れてはいけない。国際組織において、韓国の進出は目覚ましい。

媚びずに惹きつける
日本人の夢見るような、オリンピック精神はとっくに死んでいる。
それでもまだ、日本人はIOCを信じ、東京にオリンピックを呼びたいのだろうか。

鎖国精神に基づく文化立国を目指す観点から、個人的には・・・
IOCの不条理を徹底的に糾弾して脱退し、日本にあらゆる競技施設を整え、各競技のワールドカップを毎年開催して欲しい。
ちょっとズレるが、相撲は日本だけの競技で成り立って、しかも内容的には国際化している。

柔道だって、外国に迎合するから、今回のような焦りに繋がる。日本本来のルールを貫き続ければいい。
外に押しつけない文化として、徹底的に護るべきだ。

知術貿易


B型A型(2)

2013年02月12日 | 占いばなし

B型A型(1)」←

東アジア全体がB型傾向が強いということは、モンゴリアンはB型的ということになる。

コーカソイドの大移動は、せいぜい、インドまでだが、
モンゴリアンは、アメリカ大陸、太平洋、北極まで広がり、歴史時代に入ってからも、ヨーロッパまで何度も進出した。ほぼ地球全域だ。
B型の、外へ外へと飛び出していく、好奇心と行動力を物語っている。

A型の欧米や中東では、内面的で緻密さを好み、音楽さえも理論化され、観念的な神を信じ、それを生きる指針にする世界をつくった。
ところが、即物的なB型の東アジアには、一神教のような観念的「神」は広がらなかった。

東洋哲学の中村元さんは、インドにはモンゴル系とコーカソイド系がいるが、長年の研究過程の中で、釈尊にはモンゴル系の印象が強いと吐露されていた。

その理由として、優しさをあげられていたが、恐らくそれだけではないだろう。
他にも多くの理由が考えられる。ことに、釈尊の「私は宗教の教祖ではない」という言葉は、神のような観念的な世界よりも、人間主義による、現世での救いを意図していたことを感じさせる。

しかし、釈尊の死後、コーカソイドの地域、インドから中東を経るうちに、釈尊自体が、観念的な神に変化していった。これは釈尊の責任ではない。
その後、その観念的に変質した仏教が持ち込まれた中国では、結局、深くは根付かなかった。

釈尊の現実的な人間救済が、観念論に変わり、それがまた、東アジアで即物的な御利益に変化した。
中国では、関羽さえ商売の神様になったように、仏教も願望成就のツールとして浸透したようだ。朝鮮半島などに至っては、護国仏教として、武力の一種のように考えられている。

もちろん、日本にもその種の仏教が入って来たが、面白いことに、日本ではまた、日本なりの発展をした。

B型地域の中国や朝鮮半島では、生き方の方法論を好むので、現実に役立たない観念論の仏教はあまり人気しなかったが、AB型の日本では、観念論でも処世術でもない、いわば、「システムとしての仏教」が成立した。

「システムとしての仏教」とは、神を信じるのでもなく、道具として用いるのでもなく、社会全体が「信仰と実用」で、仏教を憲法のように、うまく秩序の原則とする社会をつくつた。

日本の仏教は、大きな意味の作法となり、逆にすべての日常が、作法(道)という宗教に変わった。それに順うことが平和な社会をつくり、個人の幸せをつくると信じられている。

日本の仏教、日本の文化は、「システムに順う使命感」という、これもやはり、AB型的な姿になっている。
そして、A型の西洋において、基軸を観念的な「神」としたのに対し、AB型の日本は、基軸として、即物的に理解しやすい天皇を置いた。この辺りが、やはり、B型傾向の現れと言えるのだろう。


来てます

2013年02月11日 | 星の流れに

今年の年末から、火星が8ヶ月も天秤座に居座ることも心配だが、(火星通過)それまで大丈夫だ、というわけでもない。
火星が活動宮に入れば、そのつど、色々と危ない。

まず、3月12日の新月に、火星は牡羊座に入る。(~4月20日まで)
これは、天王星や太陽、金星、水星などとの同居で、色々起こるが、火星は牡羊座の支配星だから、そう悪い結果にはならないだろう。

ただし、年末から天秤座に起こることの暗示にはなる。日本に対する他動的な影響現象を、年末からは日本自ら起こす。

しかし、次に火星がカニ座に入る7月13日は、既に6月26日に木星がカニ座に入っている。太陽、水星などもいて、カニ座の季節だ。
当然、中国の大興奮が始まっている。

もし、現在の状況のまま、この時期を迎えれば、何が起こるか分からない。天秤座の日本や、牡羊座の欧州には極めて不利な状況だ。
何ごとも、できれば春のうちに、決着を付けてもらいたいものだ。


変わらん

2013年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム

1月30日、木星が双子座で順行を始めた。
水瓶座に太陽、火星、水星も通過中で、日本にとっては大チャンスの時だから、株もますます上昇した。
しかし、『それだけ?』と、拍子抜けしたが、5日になって発表された。中国軍艦のレーダー照射が、30日に起きていた。

とうとう、やってくれた。
相手が米軍なら、直ちに戦闘になっていただろう。
日本だから、ナメていた、ということだろう。
中国の体質は、100年以上経っても変わらないようだ。(暴走周期

案の定、中国政府は統制がとれていない。(イヤな話
もともと、中国政府とは名ばかりで、各地の軍閥、早い話が、戦国大名のような、怪しげな暴力団の集まりだ。せいぜい豊臣政権だ。

天安門事件の時、各地から、軍隊が移動して来たが、それぞれの軍がどう動くかが、事件の成り行きの不確定要素として、だれにも予測が付かなかった。
今回の動きも、国際的常識の外面である外交部は蚊帳の外だった。
中国軍の田舎者ぶりは、米中軍事交流さえ下品で本気だった。
本気の時

この、ゆゆしき事態は、国際常識から見れば、日本の主張キャンペーンには、またとないチャンスだろう。(ガマンだ
しかし、相手が相手だ、いくら国際的に批判されても、蛙の面に何とかだ。ホットラインなど、実用にはならない。
週回遅れの軍事暴走は、全く戦前の日本を見るようだ。(廻り灯籠

こうした世間知らずのすることは、いずれ挫折する。(中国の道

ところで7日、北方領土の日。ロシアが領空侵犯をした。
これまた、いかにもロシアらしい。北方領土の日が、気に入らないのは当然だが、常に漁夫の利を狙う国らしく、乗り遅れないように、「どうかな?」と、探りを入れてきた。
こちらは中国と違い、一貫した意思だろう。抗議に、「そんな事実はないはずだ」と来た。「え、何のこと?」と、始めからトボケるつもりだったのだろう。

そこに行くと、二者択一の中国は、認めた上で、「お前のせいだ」と来た。少なくとも、ロシアよりは正直だ。
毎度、毎度、どの国も、わかりやす過ぎ。

P.S.
これを上げた後、中国は、レーダー照射の事実を否定した。軍部の動き、かなり危ない。
やはり、ロシアのようには、トボケられない国だ。


子供言葉

2013年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

ハンカチ王子斎藤や、ゴルフの石川遼などが、10代のインタビューで、大人顔負けの優等生コメントをするので、どんな親だろうかとか、中に誰か入ってるんじゃないかとか、世の大人を驚かせた。

彼らだけではない。近頃、カメラやマイクを向けられると、たいていの子供が、そつの無い大人のようなことを言う。
大人は、「近頃の子供は賢くなった」と、ますます感心する。

半世紀以上前の創作落語で、子供に桃太郎の話をしてやろうとしたオヤジが、子供に桃太郎の学術的考察を解説され、寝てしまい、子供が、「近頃の大人は罪がないなあ」と、馬鹿にする噺がある。

これと同じ事だ。何も、子供の能力が進化したのではない。人間は置かれた環境に順応する。
昔の子供が無邪気だったのは、成長環境が限られた周囲の人間だけだったから、それ以上の知識や能力は身につかなかった。

この落語の場合は、子供が学校に通い出したことで、知識環境が大きく広がり、親を越えてしまった喜劇だが、ちょっと前までは、関西人から見ると、東京の子供は何と賢いんだろうと思えた。

話すことが知識豊富で理路整然としているからだ。態度も、「他人には干渉しない」が徹底している。関西の子供なら、「おっちゃん、何してんの」と、すぐ寄ってきた。
しかし近頃は、関西の子供も少し様子が変わってきた。昔と比べれば、妙によそよそしい。

とにかく近頃は、関西、関東に関わらず、どこの子であろうと、テレビ取材に、まるで、リハーサルをしてきたかのように、すらすらと、賢そうに答える。
このほんの少し前までなら、テレビが来れば、「ピース、ピース」と、とにかく写して貰おうとするだけだったが、最近はそれが進化した。

スポーツ選手や芸能人の、取材シーンを見て、自分が映る時のイメージトレーニンができているようだ。マイクを向けられると、大人が喋る喋り口調、そのままで答える。
斎藤や石川の時代には既に、スポーツマンに憧れる少年なら、インタビューの受け方までイメージして、スポーツ練習をしていたのだろう。

テレビの中は非日常空間と考えていたような時代の大人にとっては、映像が空気のような日常に暮らす子供の言動を、「賢い!」と思うのは無理もないが、これは近頃の子供にとっては普通の、「子供言葉」なのだ。

裏を返せば、子供の学習能力と順応性であり、そのことは同時に、洗脳されやすい、染まりやすい危うさをも表している。
戦時中は、十代の子供が予科練に志願し、大人顔負けの訓練をこなし、特効兵として死んだ。

テレビで、大人のコメントをする子供達を見ていると、なぜか、
岩崎恭子ちゃんの、「今まで生きてきた中で、一番幸せです」が、素直な表現の最後の記念碑のように、燦然と輝いて思い出されてくる。


鬼はそと

2013年02月03日 | 占いばなし

今日は節分。明日は立春。人生の秋にも春は来る・・・

明日から、いよいよ、五黄・癸巳の年が始まる。
五黄の年は、五黄殺と暗剣殺が無いから、多くの人の方位が開ける。
引っ越や転勤には良い年と言えるが、五黄の年は昔から、天災や戦争の年だと言われてきた。9年ごとにそんなことが起こったのではたまらんが、特に、五黄の寅年は戦争の年だと言われている。今年は巳年。

実際はどうだったか、五黄の年を振り返ると・・・
近いところから、
2004 甲申  中越地震・スマトラ地震
1995 乙亥  阪神大震災(六白)オーム事件・九重山噴火
1986 丙寅  三原山噴火・ハレー彗星
1977 丁巳  ダッカ事件・有珠山噴火
1968 戊申  文化大革命・プラハの春
1959 己亥  チベット蜂起・中ソ対立・伊勢湾台風・HIV発生
1950 庚寅  朝鮮戦
1941 辛巳  日米開戦
1932 壬申  5.15事件
1923 癸亥 関東大震災
1914 甲寅 第一次世界大戦

確かに、1950年以前の古い五黄ほど、歴史的な事件が起こっている。近年では、どれが重要か焦点が絞れないが、時が経つにつれ、エポックメーキングな事柄が、浮かび上がってくるのかも知れない。

まあ、こういう記録に、何も上がらないような年になって欲しいものだ。

おにはそと~、ふくはうち~