魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

発祥の地

2010年05月31日 | 占いばなし

No.915

今日のサッカー、イングランド戦は、気持ちの良い試合だった。
親善試合とは言え、相手を本気にさせながら、紳士のスポーツの爽やかさを見せてもらった。

前回の韓国戦とは打って変わって、近代サッカー発祥の地を相手に、日本チームも真面目にやっていた。
喧嘩とスポーツの区別が付かないような韓国戦で、怪我をしたのでは始まらないが、互いに親善試合をわきまえた、楽しい試合だった。

先制した日本は、良い展開をしていたが、本戦の相手を意識したのか、
2オウンゴールで負けておくとは・・・日本も、ニクイね ???
超越思考

それにしても、天王星→牡羊座で、やっぱりイギリスは少し変だ。
伝統の二大政党が崩れた後、新閣僚が同性愛の恋人の家賃料問題から17日で辞任。
デタラメ発言で、すっかり腐らせた日本の豆鉄砲首相よりよほどましだが、サッカーも、親善試合とはいえ何かおかしかった。

沢尻エリカも、半ケツやセミヌードで頑張っているが、インパクトがきつすぎたのか、賛否両論で、ケツ叩きの刑を受けているようだ。
見た目を気にするA型は、ここ一番に「裸」が効果的だと思いやすい。「いい加減が良い加減3
加えて、牡羊座は「生まれたての赤ん坊」だから、裸を見せたがる。
牡羊座時代に入ると、映画も雑誌も、牡羊座の象徴人物「ターザン」が話題になるかも知れない。

ターザンと言えば、荒野、人類発祥の地という点で、アフリカも混乱と改革で話題になるだろうが、将来の変貌の出発点になる。


邪馬台国

2010年05月30日 | 占いばなし

No.914

占いで、金運、結婚運のように個別の運として語られるものは、実は、独立しているわけではない。

人間の身体と運は同じで、バランスのとれたタイプと偏ったタイプがあり、何事もほどほどにある人と、一つのことに秀でていても、何かが欠ける人がいる。

有名でも金がない。大成功しても子供に苦労するとか、親が死んだ日に金メダルとか・・・ということも、よく聞く。
また、昔から、佳人薄命、才子短命と言うが、実際そういう傾向があるから、「長生きするよ」と、バカにされる。
運を語ることは、体質、体調を語ることと同じだ。

子供運について、よく「子供運がない」と言われたと、心配する人がいる。しかし、多くは、それを気にする性質自体が、子供運を遠ざける運だったりする。

朝から晩まで「金、金、金」と思っている人は、大抵、金運がない。
ようやく貯めたと思ったら、大病で全部使ったり、ダマされたりする。
なぜそうなのか、と言えば、それぞれ、説明は付くが、大変長く、ヤヤコシイ話になる。
一言で言えば、何事もほどほどのバランスを欠けば、無になる。
五大栄養素の話や、急上昇による失速、山高ければ谷深しのようなことだ。

また、これとは別に、どう評価するかの問題もある。
先日、手相観タレントが「総理にむいているのは東国原宮崎県知事」と、言っていたので、爆笑した。
どう言えば適当か解らないが、「木を見て森を見ず」とでも言おうか、確かに良い手相だが、比較論として、東国原知事は既に成就していると観るべきだ。手相は変わる。基本的には過去を表すものだ。

歴史上、思いがけない大出世は色々あるが、実力と背景も考慮しなければならない。秀吉も、角栄も、劉邦も明治の元勲達も、いずれも、長い時間をかけて、その世界の「勘どころ」を学習している。
上に責任者がいる中間管理職としての人気者だけでは、一国の総理は務まらないという例は、現在進行形だ。

運の評価という点で、子供運について言えば、
「子供運がない」とは、子供が生まれないということではない。
儒教思想の後を継ぐ「子」のことで、男の子のことを言う。
次に、後を継いでくれる子供がいないことを言う。生まれても後を継がせることができないという意味だ。

したがって、女の子なら、十分可能性があるわけで、儒教思想が薄れるに従い、昨今は、女の子の方が喜ばれるようになった。
しかし、女の子しか生まれないということは、「家」の思想で言えば、その家は滅んでいることになる。養子というのは、実は新しい家系が始まっている。(家の思想なら)

動物の多くは、滅びが近くなると、雌しか生まれなくなる。
女の子が喜ばれるからと言って、日本が滅びに近づいたというわけではない。新しい家系、新しい日本の哲学が必要になっていることを表しているのではなかろうか。

日本は母系社会の発想で、ミレニアムを卑弥呼の邪馬台国からスタートする方が、生き残れると思う。


難行苦行

2010年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

No.913

いよいよ今日から牡羊座時代と言うことだが、実際はそんなにキッチリ始まるものではなく、昨年あたりから、とっくに牡羊座時代だ。

昨日のニュースでも、近頃、女性が「理髪店」を利用するようになったと特集していた。これも、「頭部」の牡羊座現象だ。
面白いのは、牡羊座の裏に当たる、天王星→天秤座時代には、長髪が流行して、男性の美容室利用が流行っていた。

当時、理髪店の友達の家は、客がバッタリ途絶えて、もう廃業するしかないと言っていた。
今度は美容室の廃業が相次ぐことになりそうだが、当然、様々な努力があるだろうから、やっぱり、ヘアーファッションの話題が増えるだろう。

しかし、20年前から丸刈りの、こちとらには関係がない。
初めは理髪店で刈ってもらっていたが、ノビの目立つ丸刈りは、普通の髪型より頻繁に刈る必要がある。散髪代は同じなので、数倍の散髪代と、時間があほくさくなって、自分でやることにした。

電気バリカンにホースを付けて、掃除機に繋いで刈る優れものだったが、途中で面倒くさくなって、バリカンのみで刈ることにした。
洗面台を背中にして、片手に鏡を持ち、片手でバリカンを持ちながら刈る。
そのうち、それも、面倒くさくなって、風呂場で適当にやって流すようになった。
安全カミソリで剃ればもっと簡単だが、剃ってしまうと、ひげそりと同じで、毎日剃らなければならなくなる。

髪の手入れの手間を省くために丸刈りにしたら、確かに櫛やドライヤーは要らなくなったが、頻繁に刈らなければならなくなった。

食う、出す、寝る・・・さえ面倒くさいのに、生身で生きるのは、誠に誠に、苦行そのものだ。


革新判決

2010年05月28日 | 星の流れに

No.912

惑星が男性星座に入ると、世の中が革新的になり、訴訟に画期的な判決が出ることが多い。

厚労省・村木元局長の、郵便料金不正事件で、検察調書全てを裁判所が証拠不採用とし、ほぼ無罪となりそうだ。
検察捜査の信頼性にメスが入ったのは画期的。

また、京都地裁では、「顔」後遺症の補償に男女差は違憲、の判断がでた。男性差別が認められる社会になった。

今日28日、天王星はいよいよ牡羊座入りするが、すでに、裁判も次々と革新的な判断をしている。
法と正義を測るのは天秤座だが、正義を主張するのは牡羊座だ。
180゜の両星座は表裏の関係で、ともに男性星座。

左右


やぶ睨み

2010年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム

No.911

このところ、「へのこ」「へのこ」と恥ずかしい。

江戸川柳には
「へのこには 手こずっている ひとり者」
「湯気の立つ へのこを見せて 七両半」
・・・のような艶笑ものも多い

沖縄の辺野古の意味語源は何か解らないが、たぶん川柳の「へのこ」と通じる意味ではないかと思う。

半島や尖塔を表す「peninsula」と「penis」のような関係で、
古語の「へ」は「へり」「へさき」など、端っこや、縁などを表すから、岬などもそれにあたる。
辺野古は辺野古崎のことだから、とんがった尖端で、男子のそれと発想は同じだろう。

逆に、川柳の「へのこ」は、「屁の子」ではないと言うことだろう。
もっとも、「屁」も半端なものを意味する「へ」なのかも知れない。もっと言うと、「へ」の語源が「P」の可能性もあるので、そうなると、「半端な余り物」的な音イメージは、世界的に同源だったかも知れない。

宮崎も
大変なことになっている。これも気の毒としか言いようがない。
しかし、これが九州でなくて、東北や北海道で起こっていたら、ムードがまったく違っていただろうし、別の展開をしただろう。
東西の日本1

今年の
春は寒かったので、桜は長く咲いていたが、少しも春を感じることができなかった。寒い寒いと思っているうちに、もう、夏だ。

このパターンは、1980年と同じで、冷夏が予想されるそうだ。
1980年と言えば、まさに、前回の土星→天秤座の年だ。
(土星は冷たく萎縮するもの)


川柳の意味
「ひとり者」については説明の必要はないだろう。
「見せて七両半」とは、姦通現場を押さえたら「二人とも」(片方はダメ)殺してもお咎め無しだったが、手荒なことのできない町人は、大家などの証人に見せて、賠償金相場の七両半で手を打った。


民主敬語

2010年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

№910

先日、たまたま観たNHKの「みんなでニホンGO」という番組で、何でも「様」をつければ敬語だと思っている悪例の、オチが、「お客様は何様ですか」で笑った。

その中で、医療をサービス業と考える一環として、「患者様」の是非が話題になった。

大体、昔から、口語で「様」レベルの言葉を聞くのが嫌いだった。
「神様」「上様」「お殿様」・・・のように、厳然たる階級があった社会を、民主主義は否定しようとしてきたのではないのか。
美しい日本、美しい日本語・・・と言う時、ほとんどが、古典的秩序を維持する「形」のことを言っている。

民主主義を広めることと、旧秩序を維持することは矛盾する。
旧秩序が一概に悪いわけではない。旧秩序には堅苦しさとともに、立場に甘んずることの気楽さもあった。上下関係がハッキリしていれば「様」で呼び、呼ばれる関係は、解りやすい約束事だった。

しかし、人権と人格を認め合う民主主義には、機能や立場の上下はあっても、人に上下はない。
にもかかわらず、旧秩序で使われていた尊敬や謙譲を使うことが、美しい日本語だと考えるから、おかしなことになる。
今日の実体にない仮想の階級を作り上げて、古社会のように使うから無理になる。

立場上の上下と、階級の上下はまったく違うものだ。
客商売の、売り手と買い手は、立場であって階級ではない。
階級は入れ替わることはないが、客の立場は何時でも入れ替わる。
立場上の上下は仮想階級であって、相対的だから、尊敬語や謙譲語もあくまで仮のものであり、気持ちのこもらない浮いたものになる。

「様」呼びには、この「嘘」が同居している。
民主主義社会での敬語とは、階級につけるものではなく、人格につけるものだろう。
「様」は社会形式の呼称であり、本当に、相手の人格を見つめ、尊重して発する言葉なら、むしろ「さん」の方が、口語として真実の敬意が籠もるように思う。

「様」と呼びかけられれば、どこか身構えるが、「さん」と呼びかけられれば、だれでも、素直な気持ちになるのではなかろうか。

お医者様
「患者様」はおかしいと言っていた、自他共に知識人と認めているであろう人が
「お医者様は、技術を持って明らかに患者の上なのだからおかしくない」と言っていたので、『やっぱりか』と思った。

ずっと以前から、この「お医者様」には違和感を感じていた。
「様」は、前述のように、階級的な尊敬語だと思うので、民主主義の時代では、どのような職能にも、基本的に敬称は付ける必要はないと思う。
医師、または医者であり、先生も職能の代名詞として問題ないと思う。
あえて敬称を付けたいなら、人格を尊重する「お医者さん」だろう。

「お医者様」という言い方は、ハイソサエティーと自認する人達の中での「ざあます」的な標準語のようで、以前、TVでノーベル賞作家が、「ちゃんと、お医者様にみて頂きます」のような使い方をしていたので、『おいおい、言葉の専門家がそれはないだろう』と呆れた。
今回も、案の定、知識人と自負している人の口から「お医者様」が出た。

「お医者様」は、いかにも尊敬しているように聞こえるが、実は逆だ。
誰の言うこともきく気の無いような自信家が、背に腹は替えられず、医者に掛からなければならなくなった時、自分を納得させるために使う呪文だ。
医師という職能の人間に従うのではなく、「お医者様」や「神様」という、初めから上の階級に従わざるを得ないのだと、自分を納得させるための「言ワザ」として、好んで使っている。そう思える。

「先生様」が変に聞こえるのは、敬称に敬称を付けるからではなく、職能(代名詞)を階級化しているからではないだろうか。


超越思考

2010年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム

№909

今日のサッカー日韓戦は笑った。明らかにやる気がない。
今日の日本代表が本気で戦っていたとすれば、もう、ワールドカップなど棄権した方がいい。

しかし、いくら何でも、日本の実力はあそこまで酷くはないだろうから、どう考えても無駄な争いを避けて、怪我の無いように選手を温存したとしか考えられない。
何しろ、相手が相手だけに、こちらが本気で行けば、その何倍も燃えて、ハングル精神・・・じゃなかった、ハングリー精神をむき出してくる。本番直前に、親善試合で怪我をしたのでは始まらない。

第一、ワールドカップは、アンケートでも、90%が日本のトーナメント進出を信じていないぐらい強豪揃いだ。その相手に、なおさら安心させておくというメリットもある。

岡田ジャパン。恐るべし ???

魂胆
岡田ジャパンの上手を行く策士は、我らがポッポ総理かも知れない。
初めからこの結論を意図して、時間稼ぎをしながら、諸事を進め、時間をかけたことで、あたかも悩んで苦労したような顔をして、元のまま納めようということだった・・・。
そう考えれば、「Trast me」とは、このことだったと言うことか。

しかし、そうではないか、と思った人も、まさかまさか、そんなバカなことを考えているとは信じられなかった。
いや、バカなことではないかも知れない。常人を超越したスーパー思考なのかも知れない。何しろ、宇宙人なのだから。


まさかの

2010年05月24日 | 星の流れに

№908

このところ惑星は、ほとんど、90゜180゜のグランドクロス状態が続いている。
これに絡んだ土星が逆行して、乙女座に帰っているので、東国原知事ものっぴきならないし、松坂大輔も良いのか悪いのかワケがわからない状態だ。

しかし、全体には牡羊座や天秤座の、活動宮がらみの星座の方が強い影響力を持っているので、アメリカよりEUや中国の方が苦しい。もちろん日本については言うまでもない。

中国は朝鮮半島情勢に、相当苦々しい思いでいるだろう。
鳩山総理は、基地問題の言い訳になると、韓国の言い分に積極支持の姿勢を打ち出したが、これもまた、その場逃れの定見のない言動で、基地問題より、むしろ、よほど重大で危険な行為だ。
(都合の良いものにすぐ乗り替わるボディーの短所)

本当に、カエルのコウノトリの王様ではないが、自分の気分やエエカッコで、定見もなく国民を泥沼に引きずり込んでいく。
せっかくの政権交代を、すっかり、ポッポッポにしてしまった。

寄せ集め野党の長は、これぐらい無責任でなければ、引き受け手がなかったということだろうが、与党になったら、風呂敷ではなく中身で勝負しなければいけないが、風呂敷の方で勝手に破れてしまった。

鳩山総理の善意は信じる。しかし、世の中や人生は
賢い悪人より、バカな善人の方が危険」だ。まして一国の総理だ。

グランドクロスは、諸勢力の乱戦だが、政治の方も、結局そういうことになりそうだ。

運命というものは、信じられないような結末に、まさかまさかの展開の積み重ねで、本当にそうなっていく。

どの立場の人でも、鳩山総理という人物が、まさかここまでのポッポとは信じられなかっただろう。否定しながらも、もしかして、何か考えているのかも知れない・・・と、信じたかったにちがいない。


セピア色

2010年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

№907

電車続きでもう一つ。
時間ぎりぎりで、特急券を買ったら、喫煙車を買ったらしく、ナンバーを探して歩いていると、あっちでもこっちでも、座った途端、火を付け始めた。

自分は吸わないが、気にしないので、『あ、間違えたな、ま、いいか』と思って、席に着いた。しかし、それにしても、ものすごい煙だ。

「やっぱり、喫煙車はいいねえー!」
突然、横で大きな声が聞こえたので見ると、70代の男性が、煙を吐き出しながら、前の席に話しかけている。
前の席には、金髪に染めた髪をロックシンガーのベティさんみたいに咲かせて、真っ黒なバタフライ・サングラスをかけ、白のアラブ服のような衣装の70代の女性と、アロハの40代の男性がいる。

このベティさんは、どうかすると、すぐ英語でしゃべり出す。
6~7人のグループらしいが、バラバラに座って互いに大きな声でしゃべっている。

最初の男性が、隣の40代の男性に、「OO君は××家の子孫だってねえ、やっぱり、あのお屋敷には行くのかね」
ここから始まって、学歴や家柄の話などが延々と続く・・・

良く解らないが、何か映画関係のグループらしい。最初の男性が立場が上らしいが、相当なコンプレックスだ。他の人は適当にお相手をしている。

何か、とても懐かしい雰囲気が、煙とともに漂っている。
30年ぐらい前の世界だ。

たばこそのものは、吸いたい人は吸えばいいと思う。受動喫煙とか言うような玉ではない。
ただ、たばこの煙には、セピア色の時代が漂っている。古き良き時代かも知れず、古い因習の時代かも知れない。

タバコの時代には、銃殺の前に一服付けたり、火を貸して下さいと話しかけたり、目上の人に火を付けたり、ベットでたばこを吸わないでと甘えたり・・・
一つの、常識や秩序、コミュニケーションがあった。
そして同時に、その秩序ゆえの、コンプレックスや悩みがあった。

タバコの臭いがしなくなるにしたがい、雲が晴れるように、古い秩序や悩みが消えていくように思う。
しかし、雲が晴れると、何でも見えるような気がするのか、細かなことまで気にして、うるさく言う人が増えてきた。

世界禁煙デー


電車遠足

2010年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム

№906

電車で、小学校高学年の遠足に出会った。言い渡されているらしく、一般客が座っている時は、みな無理に座ろうとせず、立っている。
おばさんが、自分の席を詰めて、座るように勧めても座らない。

それでも小学生。とてもじっとしていることなど出来ない。
休憩時間の廊下のように、思い思いに、ふざけ合っている。

ひょうきん者らしい男の子が、誰かのキャップを取って、自分のキャップに重ねると、取られた子は、取り返そうとしたが、何を思ったか、近くの友達のキャップを取って、逆にその子の頭に重ねた。
すると、それを見ていた友達が、我先に自分のキャップを重ね始めた。

黄色のキャップの「ひさし」がぐるりと取り巻いて、花びらのようになったのを見て、女の子が「兵隊の帽子みたいだ」と笑ったので、
『あー、そんなことまで知っているんだ』と、驚いたが、妙に安心した。

どういう印象を持っているかは別として、歴史の風景として戦争の記憶を受け継いでいることに、感心した。
と、言っても、この子らにとっては、生まれる半世紀以上も昔のことだ。この子らの祖父母にとっての日露戦争よりも昔なのだ。

身近な印象と歴史の事柄とが混在した、どうにでも理解の変わる知識なのだろう。
今現在どう理解しているかは別として、知識があればやがて、自分が学ぼうと思へば、とりあえず、とりつく島になる。
反面、その知識を逆手に取られて洗脳されることもある。

が、何にせよ、外国人に日本のことが説明できないようでは困るのだから、善悪云々より、知識だけは豊富にして欲しい。
同時に、外国ではそれをどう教えているのかという、客観的な知識も持っておくべきだろう。それが、公平で科学的な歴史観を育てることにもなるはずだ。。。。。。。

さっきの男の子の帽子は、それぞれ自分の名前を確かめながらかぶり直した。最後に、最初の子がキャップを取り返そうとすると、
ひょうきん者の子は、二つのキャップの「ひさし」を左右に分けて、耳に押し当てながら

「ダンボだぞー」


散り始め

2010年05月21日 | 星の流れに

№905

魚座の末期症状と言えば、家畜の口蹄疫問題を忘れていた。
また、宮崎だ。魚座の「」も極まれりと言うところだろうか。

その前から、目と鼻の先の韓国で大騒ぎになっていたのに、獣医がそれを考慮しなかったというのは、重大なミスだが、獣医の問題だけではない。国や県の、あるいは国民全体の、危機意識の欠如だ。

家畜やペットは、当然、魚座だが、今回の事件の背景には、ペットブームによる獣医師不足があるという。獣医がみなペット病院を希望し、肝心な、畜産の獣医師が大幅に不足しているのだそうだ。

極まれば転ずる
何事であれ、ブームは大切なことを押しのけてしまう。
宮崎県は魚座時代に入って、常に話題を提供してきたが、ペットブームや、韓流ブームも岐路に到ったということだろう。

韓流ブームは、国家戦略による映像コンテンツの売り込みに、苦境に立つテレビ局が攻略されて飛びついた結果であり、これも魚座現象だ。

また、魚座が意味する「境界線」のトラブルが、世界中で続いてきたが、ついに、韓国では南北の停戦ラインで大事件が起こり、一方で、日韓の国境を越えて、口蹄疫が入ってきた。

ムード的な友好の陰で、危機意識が欠落すれば、背中から撃たれるようなことはないとしても、何が入り込んでくるか解らないということの証明ではないだろうか。

もし日韓が一元的な政治管理の下にあれば、韓国で流行中の口蹄疫に対しても一元的な対策を打てるが、よその国で起こっていることという認識によって、(逆説的に)現場意識が欠落する。
つまり、友好ムードであっても、厳然たる外国であるという厳しい認識が、危機管理には必要だということではなかろうか。

仲が良くても、隣の家の子がおたふく風邪にかかれば、隣に怒鳴り込みはしないが、自分の家は気をつけるのが普通だ。

口蹄疫によって、ペット、畜産、検疫、国境、ワクチン・・・と、
魚座問題が一気に吹き出した格好だ。

もう一つ、魚座的な倒錯心理として、殺すために飼育している家畜の処分に、カワイソウと言いながら処分する・・・誰がカワイソウ?


ギリシャ

2010年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

№904

タイでは、とうとう、デモの強制排除に動き出した。
タイのデモは、今年の木星→魚座現象だが、まもなく、木星が牡羊座に抜ける、末期症状だ。
短期的な現象として目立っているが、本当は、天王星→魚座の末期症状も絡んでいる。

天王星→魚座の時代の末期症状は、天王星→牡羊座の前兆現象とともに、重なって現れているわけだが、過去十年近い歳月は、ちょうど21世紀の動きとも言える。
新世紀の十年は、魚座の時代だったために、世紀末の様相をおびていたが、新世紀の牡羊座の動きも確かに見え始めた。

魚座の総決算は、魚座の事柄に、様々な決着をもたらす。
ジェネリック薬と新薬会社の再編。化粧品の販売法と対象の変化。写真は一眼デジカメで銀塩から完全にデジタルに移行した。映画は3Dが話題だが、大画面でメガネ無しが結論だろう。
ファンド暴走で規制が始まる・・・昨今の話題、ほとんど全てだ。

ギリシャ
ここで、ギリシャは何座か考えたい。
水辺のカニ座はイタリアだが、ギリシャはヨーロッパの故郷であり、生まれたばかりの姿とキリシャ彫刻のイメージもあって、牡羊座と考えることが出来る。

そうすると、今の混乱は牡羊座の洗礼かと考えれば、内容的には、むしろ、過去のつけが回って起こった現象だ。と言うことは、魚座と見るべきだろう。

ギリシャを魚座と考えると、確かに、牡羊座より魚座の方がふさわしい。
何よりも、地形的に、地中海の島々で構成されている。
他の魚座の国や地域と言えば、インドネシアやタイ、フィリピンなど、東南アジアの海洋国であり、日本の中では沖縄が魚座になる。

島国日本との違いは、日本が地勢的に、「行き止まり」なのに対し、他の地域は「通過点」で、魚座の意味を体現している。
ギリシャも海洋貿易と、民族の通過点でもあった。

ギリシャと言えばポリス国家だが、その後の国家のイメージからすれば、むしろ、村の寄り集まりであり、主客がハッキリしない。それでいて全体が統合していた。

そして、何よりも神話の国、神の国だ。ポリスごとに守護神があり、ポリスの争いは神々の争いでもある。ギリシャの学術はエジプト、メソポタミアを基礎としながら、鋭いインスピレーションによって開花した。ギリシャ文明は、やがて、ローマ、イスラム、ヨーロッパに受け渡していく「中継点」と言えるかも知れない。

日本神話とギリシャ神話は、実によく似ているが、残念ながら、日本神話が意図的に改編されているのに対し、ギリシャ神話の神々は自由奔放だ。論理的な天秤座の日本に対し、感情や心理の描写が個性的でいかにも魚座の複雑さがある。

EU加盟にあたり、ギリシャが粉飾決算を報告していたことは、ヨーロッパ諸国には信じられないことだった。
嘘はつかない立前の牡羊座のヨーロッパに対し、「虚実も実」の魚座のギリシャとの関係。

ギリシャは魚座確定で良いだろう。


定説では裏(180゜)の乙女座になっている


変身(2)

2010年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

№903

世界が変貌している最中には、変貌の結果は見えない。
しかし、歴史を振り返ると「OO時代」のように、始めからそういう絵姿があったように、くっきり見える。

未来の姿をイメージしても、そのイメージに進む過程では、全く信じられない。「まさか、まさか」だ。
50年後はこんな世界と、イメージしても、今日の世界の動きを見ていると「ホントにそうなるのかなあ?やっぱり違うのかなあ?」と、
一喜一憂ではないが、およそ、イメージに逆行することが起これば、「あ、やっぱり違うんだ」と考え直したりする。

しかし、紆余曲折しながらも、時代はやっぱり、一つのベクトルに向かう。

十代の頃。これからアメリカには大宗教がうまれ、芸術の発信地になると思った。
当時はまだ、ファッション、芸術と言えば、おフランスの時代で、ヨーロッパ映画に比べれば、ハリウッドなどは、ノーテンキなハッピーエンドの娯楽映画ばかりだった。英語留学と言えばロンドンで、音楽はクラッシクやシャンソンなど、ヨーロッパの時代だった。

十代にイメージした通りとは言えないが、アメリカ文化に世界が同化され、文化の発信地になっていることは確かだろう。
大宗教に関しては、まだこれからで、おそらくアメリカの衰退とともに姿を現してくるのだろう。アメリカの起こした「宗教戦争」によって、カオスが生まれ、やがて何らかの「種(タネ)」が生まれる。
古代インドで起こったようなことが起こりうる。

半世紀前にイメージしたアメリカが、大まかにその通りになったように、50年後、百年後の世界は、大まかに今イメージしているようになるのではないかと思う。

自慢したいのではない。今の政治家に言いたいのだ。
当たっている外れているの問題ではない。

それぞれのイメージする未来は違うだろう。しかし、多くの人を導いていく政治家なら、自分の信念としての未来イメージを持ち、それを語り、そこに向かって為政をして欲しい。

百年後の未来から、今の政治をして欲しいのだ。
百年後にはこうなる。だから今、こうしなければいけない・・・と。


変身(1)

2010年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム

№902

肉食獣の狩りは、強い者を狙うのは効率が悪いから、子供や怪我をした者など、一番弱い者を狙う。

EUの通貨危機に、マネーが襲いかかろうとしている。
マネーは、経済連鎖で生まれた肉食獣だ。
誰か一人の金ではない。資本家とか労働者とか、そういう解りやすい次元を超えて進化した、ティラノザウルスだ。

世界中の人間から、投資信託などで集めた金が、その投資した人間の住む地域や国の経済を、喰いあさる。
グローバル化の定義はよく解らないが、企業やマネーが、国家を破壊しようとしている。

破壊と言えば聞こえが悪いが、国家を基準とした、産業革命パラダイムの中から生まれた、企業やマネーの活動が、国家の枠を無意味化し、そのことが、産革パラダイムを解体する。
これは、人体をむさぼり尽くして姿を現すエイリアンのようなものだ。

この、パラダイムシフトが始まっていることは、誰でも解っている。
にもかかわらず、いまだに産革パラダイムに生きなければならない現代人は、どうして良いのか解らなくなっている。

国家だけではない、マネーそのものに対する不安がある。
つまり、投機そのものに対する不安が有りながら、それでもマネーしか生きる術を持たない。
投資家は完全に、ロシアンルーレットをやっている心境だ。
ビクビクしながら引き金に手を掛けている。

その結果、株が乱高下し、金が上がる。

自然の摂理は、肉食獣が増えすぎると、餌が無くなり、肉食獣が減ってバランスがとれる。しかし、マネーという、限度を知らない人間のような種は、次々と絶滅させ、やがて自分自身が突然死する。

マネーの暴走は、マネー自身を滅ぼす。
パラダイムシフトの先には、通貨、為替、国家の絶滅か、変身が待っている。
おそらくそれは、望ましいことで、産革パラダイムゆえの、現代人の悩みはすべて解消する。

しかし、産みの苦しみは耐え難いものであり、今の姿で考える限り、エイリアンに生まれ変わることなど、とても容認できるものではないだろう。


神に感謝

2010年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム

№901

あちこちで菜の花が自生して咲いている。中州やどぶ川も満開だ。
食糧難の時代は、誰でも野草を摘んで食料にしていたから、
子供でも「これは食べられる、これを食べたら死ぬ」などと言いながら遊んでいた。
風も水も透き通っていた。

学校でも、椎の実拾いの行事があった。おそらくそれを体験した最後の学年だったと思う。
椎の実は、煎って食べるととても美味しい。今でも都市の公園や神社の森に落ちているが、誰も拾わない。
年寄りは、銀杏や椎の実を拾う人もいるが、若い人はいないだろう。

ありがたいことに、日本は北朝鮮のような状態ではないし、自然環境も湿潤で、自生する植物も豊富だ。かなりの食糧難になっても、耐えられそうだが、江戸時代の飢饉の話を聞くと、天候不順になれば、自生の植物も育たないということだろう。

それでも、藩単位の経済ではないから、現代では、日本全体でかなり補い合えるのではないかと思う。
飢饉による餓死は、ほとんどが藩の失政によるもので、戦時中の国内の食糧難も、軍が本土決戦に備えて放出しなかったことが大きいと言われている。農村では、とりあえず食べることはできていたし、敗戦とともに、一時的に軍の食料が町にあふれた。

敗戦前後の経済がどうなっていたのか、よく解らないのだが、無政府状態による流通の滞りが、都市の食糧難や闇市を生んだので、買い出しが可能だったことは、農村はそれほど傷んでいなかったことを表している。

地球規模の気候変動が起きれば、どうしようもないのだが、その気になれば、日本の自給率は100%を上回るはずだし、多少の不作は、現在は食べないような野草や穀物でまかなえる。
そういう意味では、日本列島の自然は本当に恵まれている。

ただ、農村の人は今でも、山菜採りを日常的にしているが、都会の人間では、物珍しい趣味と考えられている「野草を食べる会」にでも教えてもらわなければ、何が食べられて何が食べられないのか、判らなくなった。

最近は共同体を再構築しようと、祭りの復活も盛んだが、ほとんどの祭りは、山の神、田の神、海の神への感謝だ。
食料生産とともに、食物を大切にする心を育む意味でも、身の回りの野草を集め、魚を釣って食べるような活動を進めてはどうだろう。

これは、リリースをするような釣りとは真逆の発想だ。魚は玩具ではないのだ。