魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

有毒ガス

2017年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃の国内外の状況は、明らかに周期律を反映している。占いの目からは、何も驚くことでもないし、どうにもならない。
しかし、個人の感情はひたすら焦る。暗黒の昭和初期1930年代の再来を恐れ、一つ一つの動きに最悪の結果が思い浮かぶ。

この所、北朝鮮に目を奪われているが、  中国でまた、日本人6人ががスパイ容疑で拘束された。中国では、CIA関係者が大量に殺害されたという情報も飛び交っている。
国連はワケの解らない声明を出すかと思えば、肝心な場面では、大国の野合の場と化している。第二次大戦前、世界は戦争ばかりしていたわけではない。国際連盟やエスペラント運動のような、平和の理想も存在していた。各国の民間では、ワシントンの桜のように、友好の動きも盛んだった。

ヒトラーの掲げた主張は、第一次大戦のリベンジだったが、中国の主張こそは、日本を筆頭とする、西欧列強へのリベンジだ。
周期律で、まったく同じ事が繰り返されるわけではない。舞台を替え、役者を替えて演じられるのが歴史ドラマだ。

日本でも
国内で、最も懸念すべき事は、いわゆる「共謀罪」だ。誰も、悪意で進めているのではない。それを当然のことと思える、現在の空気は、治安維持法を当然のことと考えた時代の空気に似ていると言うことだ。人は徐々に変化する空気に、死に至る毒物が混じっていても気づかず、火山や温泉の有毒ガスで大量死する。

この「共謀罪」制定の最中、首相が突然、憲法改正を言い出し、物議を呼んでいるが、意図するしないにかかわらず、「共謀罪」審議の、目眩ましだ。
憲法改正は、国民投票もあり、そう簡単にできることでもなければ、直接的に国民の行為を縛るものでもない。しかし、「共謀罪」のようなものは、一度できてしまうと、現場の人間によってどの様にも変化する。
後にそう呼ばれる、あらゆる「悪法」は、すべて、現場の運用判断の誤りでそうなった。どんな立派な理想で定められたとしても、使うのは、しょせん人間だ。

戦争法と騒がれた「平和安全法制」は、家に持ち込まれたやっかい物だが、気に入らなければ運び出せる。「共謀罪」は、それを運び出す手足を縛るロープになる可能性がある。ロープは見た目、何も危険を感じないが、こちらの方が根本的に危険だ。
テロを口実にしているが、実際のテロは、必ずしも集団で行われるわけではない。実際に、ネットで刺激された単独自爆テロは起こっている。

テロが、オリンピックがと、目先の名目で、重大なことを押し切り、それに惑わされて従ってしまうとすれば、韓国の、慰安婦や政治壟断騒ぎで動いていく光景と、何が違うというのだろう。


マジメ車

2017年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム

自動車生活を止めて何年経ったのだろう。荷物の運搬以外は何の不自由もない。
四輪は止めたが、バイクは使っている。しばらく公共交通機関だけに頼っていたが、やはり不便なので、22年前に買って6000kmしか走っていなかった125CCを多用するようになった。
バイクの場合、運転を誤っても自分が死ぬだけだから、他人を傷つける心配は少ない。その意味では、自動車道しか走らないから、むしろ自転車よりも安全だ。

初めのうち、大きな幹線道路では、おっかなびっくりで乗っていたが、バイクというものは、おっかなびっくりで乗ると、かえって危険だ。
この危険は、車で言えば、初心者の高速道路合流のようなもので、躊躇していると、いつまで経っても合流できないし、周りの車も迷惑する。覚悟と自信と決断が要る。

バイクで複数車線の大通りを右折するには、身の危険も加わり、特攻隊のような気分になる。大型バイクなら何でもないが、50CCと大差ない125CCでは、心のどこかで、「おじゃまします、おじゃまします」と言っている。この気持ちを振り払って、「ええいッ」と車列に突入する。ここで横に並ぶ125CCは、たいてい若者だ。若者は怖い物知らずだから躊躇がない。同じことをしていてもこちらには、体力不安と迷いがある。これがいけない。危険があるとすれば、迷いと妙な遠慮だ。

一方で、近頃、若い頃憧れた大型バイクでツーリングする年寄りが増え、事故死が急増しているらしい。実際、幹線道路を走っていると、こういうグループをよく見かける。
金は得たが肝心なものを失った悲しきムスターファ達だ。(ムスターファがわかる人が、どれぐらいいるかな・・・♪遠い昔のトルコの国の~)
昔取った杵柄も、楽器では死なないが、バイクは棺桶にまたがっているようなモノだ。一瞬のミスが死に直結する。

棺桶で暮らす
しかし、バイクを日常的に使うようになって気づいたことがある。それは、小型バイクこそが老人用の乗り物だということだ。
毎日、ニュースになる、老人運転による大事故は、もしバイクなら起こっていない。
バイクは、判断力を含め、体力がなくなった時が運転できなくなる時だ。運転を止めるか死ぬか、選択は二つに一つ。自主引退しなければ、高齢社会緩和に貢献することになる。他人に迷惑をかけてだが。

老人の運転事故で目立つのは、「高速道路逆走」、「アクセルの踏み間違い」が多い。何れも判断ミスだが、スクーター・バイクなら極めて起こりにくいミスだ。
基本、小型バイクは高速を走れないが、自動車専用道は走れる。仮に出入り口で道がわからなくなっても、四輪よりも、道の脇で、全体を見渡しやすい。逆走を始めたとしても路肩を走れるし、路肩で方向を変えられる。また万一、正面衝突しても、相手が死ぬ確率は低い。
「アクセルの踏み間違い」にしても、スクーターの場合、少なくとも反対の手でブレーキを握れる。暴走しても、ビルの厚ガラスを破って奥の壁まで突っ走るのは難しい。その前に、運転者が飛ばされている。

老人や飲酒する人は、四輪自動車に乗るべきではない。屋根付き四輪車の快適空間は、運転不適格者であっても、運転を可能にする。
バイクでは、居眠りも体調不良も、運転できない。また、若者ならともかく、スマホ「ながら運転」などあり得ない。
真に運転可能な人だけが、命がけで運転しなければ走れないのがバイクであり、テレビを付けてスマホをいじり、時々キスして、居眠りをしながらでも走っているのが四輪車だ。しかも、互いがどんな状態で運転しているか視認できないから、突然の走行異変も予想できない。
老人が、どうしても自分で運転したいというなら、免許返納云々より、二輪で走れるうちだけ走れば良いだろう。論より証拠、元気でマメなうちだけ乗れる「マメ車」だ。

ところで、6000㎞しか走っていなかったバイク。このところ、1日100㎞ぐらい走ることが増えてきた。22年物にもかかわらず、エンジンはかえって絶好調だ。しかし、電気系統やタイヤの劣化が気になる。最近は、電子制御やLEDライトなど、バイクも様変わりしているらしい・・・そろそろ、バイク買おうかな


余談:
以前、マフラーを土蜂にやられたので、排気口にネットを取り付けたが、何となく出力が上がらないような気がしたので、面積を広げるために大型にしたところ、歴然とパワーが上がった。(下が前回。何れも、百均の台所用品を利用)


乱れるな

2017年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム

日本に対する、このところの中国の態度は、ほとんど「手のひら返し」だ。
中国の新聞がこぞって「日本は素晴らしい」、「日本に学ばなければ」と持ち上げ、中国国民は安心して、日本旅行やネットでの日本製爆買いに走っている。

二者択一の中国人にとっては、当然の行動だろうが、質にこだわる日本人は、笑顔を見せられても、「彼らの本質」が目に焼き付いて信じられなくなってしまった。
「漢(男)」の中国に対し、「和」の日本は女だ。男は熱し易く冷め易いが、女は熱しにくく冷めにくい。度重なる男の勝手気ままに、女は堪えに堪えて白けていく。

武士道を誇りにしている人には、日本が女とは納得いかないかも知れないが、古来、海洋民族の日本は母系社会であり、父系原理が入ってきたのは大陸からだ。本質が女性原理だからこそ、男らしさに憧れ、男らしいとは何かを過剰に説く。
実際、武士道が説かれたのは、過激な戦国時代ではなく、平安の江戸時代であり、支配階級の理想像としてだった。
生まれながらの金持ちはお金に無頓着であり、美人は美しくなりたいと思わないように、何事も、自分と反対のものを希求するのが人間だ。

中国の行動原理は、女から見た男と考えれば良く解る。相手を理解しようとせず、始めから自分を上と考え、力と物で懐柔できると信じている。実力さえ見せれば、相手が勝手になびいてくるものだと、懸命に努力する。それが上手くいかないと、「まったく何を考えているのか、女心と秋の空だ」と怒り、ぼやく。

近年、中国は日本に対して、腕力ずくで意思を通そうとしたら、上手くいかなかったので、今度はベタベタのご機嫌取りに出ている。まるで粗野な男が憧れの美女を何とか自分のモノにしたいと、醜態を晒すかのようだ。
一方、日本は、子供の頃からの許嫁だからと、好意を持って接したら、とんでもない粗野な態度を見せられて、辟易している状態だ。

これだけ機嫌を取ってきている中国だが、日本が気を許しさえすれば、当然とばかりに支配しようとするだろう。
実際、中国の古女房である朝鮮半島に対し、中国は横暴であり、同時に、嫌でも保護しようとする。韓国と北朝鮮への対応は、その両面が現れている。
中国と朝鮮半島は、互いに知り尽くしていて、最早、「別れろ切れろの」芸者ではないということだ。何だかんだと言いながら双方別れる気はなく、今では似たもの夫婦になっている。

一方、朝鮮と体質の似ている日本(意義もあろうが)は、中国にとって「得てしがな見てしがな」と色めき立つ、隣の花だ。「好き」と言ったり、「嫌い」と言ったり、何とか自分のモノにしたくて仕方がない。
しかし、だからこそ日本は、決して気を許してはならない。気を許せば、周辺国がそうであったように、中国の妾として扱われることになる。
むしろ、悪の越後屋の上前をはねる海千山千の芸者になって、気のあるそぶりで決してなびかず、相手が横暴になっても、「あら、そう、勝手にすれば」と言えるスタンスを保てる努力をしなければならない。

すっかり中国に頼った韓国は、THAADで、「もう金を入れないからな」と言われてオロオロしている。
中国が今、日本観光を奨励し日本製品を持ち上げているのは、同じことを考えているからだが、今の日本で、これに気を緩めるようなスジはいないと思う。しかし、男と女の駆け引きは、いつも微妙なものだ。すでに、このおだてに得意になっているネット右翼を見かけるし、中国への再投資を始める企業も出始めた。

♪ あなたのリードで島田も揺れる・・乱れる裾も恥ずかし嬉し・・これが苦労の始めでしょうか
(芸者ワルツ)


切磋琢磨

2017年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム

上海の「大江戸温泉物語」と、東京の本家との許諾論争が起こっていたが、その後どうなったのだろう。あれも、中国高速鉄道と日本の新幹線の話と同類のような気がする。
つまり、契約、協力段階での中国側の甘言に、日本側が「お人好し」理解で早とちりし、中途半端な対応をして、ソックリ持って行かれたことに、後から抗議しているのではないか。正しく抗議できないから「関係ない」としか言えなかったのではないか。中韓のパクリを非難する前に、「生き馬の目を抜く」とはどういうことか、日本人は心得なければならないだろう。

日本の東西は、東アジアの大陸と島国日本との関係に似ていると何度か書いた。
関東と関西の関係は、関東は保守的で義理人情で考えるが、関西は現金で情を口にしながら損得で考える。
日本の武士的官僚発想は関東のもので、商人的発想は関西の「大陸感覚」だ。東西がハッキリ分かれていた昔、と言っても戦後くらいまで続いたが、関東人は関西人の口達者を嫌い、関西人は関東人を文化の下流とバカにしていた。

漫才ブーム以後、関東人に関西好みが増えたが、これは日本人の韓流好みや中国かぶれのようなもので、よく解らないで、何となく乗せられている「お人好し」の感覚だ。こういう感覚は恋愛と同じで、異文化の刺激を自分に都合良く解釈して惚れ込み、実際に結婚したとたん、あるいは結婚しようとしたとたん、思い込みとのギャップに気づき、かえって憎悪に変わる。
実際、関西人が関東に行くと面白いように異性を口説ける。面白いと言うより理解に苦しむほどと言った方が良いかもしれない。(誰でもというわけではないが)

中韓などの大陸との関係は、この関東人と関西人との付き合いだ。
中韓に対する過剰な好意迎合から、一転、毛嫌いになる。中韓は、言われも無く日本をバカにしながら、儲かりそうなら絡みついてくる。
日本列島では弥生の昔から、これを繰り返してきた。これは、男と女の宿命のようなもので、これを繰り返すことで新しいDNAが生まれるのだから、しかたがない。