魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

実像虚像

2010年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム

No.980

ワールドカップ。本戦前の日本代表に対する評価は散々だった。
90%以上の人が予選敗退と思い、岡田監督叩きは最高潮に達した。
しかし、結果は、あの通りで、「岡ちゃんゴメンね」の嵐になった。

結果が真反対だったから、国民は手のひらを返したように賞賛した。
こういう光景を見るたびに、多数意見は、裏読みした方が良いと思う。

競馬の穴狙いの一つの方法として、「倍率1近い◎は切れ」という常識がある。確かに、支持率1倍代の本命が1着に来る率は高いが、それが来なかった場合の方が、配当利益は有利になるからだ。

重要なことは、極端な偏りは実体を反映しないということだ。
多くの人がそう思えば、実態以上にムードが生まれる。深く考えない人は、周囲の意見を自分の考えだと思い込む。

株でも、株価が上昇し始めると、電車に乗り遅れるなとばかり、我も我もと買い手が増え、さらに上昇する。こうなると、まことしやかな値上がりの理屈がつき始めるが、プロはこの時、売り抜ける。
ムードで飛びついて損をした人は、「株屋にだまされた」と言い出す。

自分で考えない人ほど、自分の失敗を他人のせいにし、スケープゴートを探す。他人を攻撃すれば、自分の失敗を見ないで済むからだ。
そして、自分を被害者とすることで、反省しないから、また同じように、状況に流されて生きることになる。

「救い」には二つの道がある。苦難から脱出する思考方法を説く道と、気持ちを強くする癒しの道だ。
ところが、「救われない人」というのは、直接、結果を与えてもらうことだけを願う。カンニング精神だ。
「神は自ら助くる者を助く」自分で何とかしようとする人を「救う」ことはできても、努力無しで、結果だけ待つ人は救えない。

正攻法と派生法(邪道)は、実像と影のようなものだ。実体がなければ、影はないのだが、影があるから、実体の価値が上がる。しかし、時に、影の方が巨大になると、影が価値あるもののようにふるまう。

世の中の認識、世論というものは、ほとんど影だと思ってもいい。
巨大な影に「おまえはただの影だ」と言えば、影はそうは思っていないから、よってたかって否定される。「非国民!」と叫ばれる。

だから、真実に気づいても、うかつに口にしてはいけない。
しかし、気づいた者には、集団の一員として、何とか気づかせようとする義務がある。そして、一方では、気づいたと思っている自分も、間違っているのかも知れない。

全てを疑いながら、漠然とした真実を見据え、それを解ってもらうには、間接的な真実、たとえ話が一番良いのだろう。

お釈迦さんは、尋ねられても答えを口にしなかったという。全てたとえ話で諭して聞かせた。だから誰もが納得した。理解するのは、結局、一人一人、その人次第だからということだろう。

勝っても