魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

春ですか

2017年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム

CNNニュースで、「暦の上では、あと一週間ほどで春ですが、また雪です」と言っていた。
日本で「暦の上では春ですが」と言う場合、2月始めの立春を指すが、欧米ではやはり、春分を春と考えるようだ。

確かに、実際の体感や自然の表情で、春の始まりを感じるのは春分だ。三月節も虫が顔を出す「啓蟄」で始まり、春分にはお彼岸の穏やかな陽気が漂う。
即物的な欧米人にとって、春分が春の始めなのは当たり前のことだろう。しかし、「気」を考える東洋人には、目に映る背景に潜む存在が無視できない。
極寒の最中に、春が芽生える立春を考え、猛暑の中に立秋を見る。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども・・・と、気配を感じ取ろうとする。

「運」も、そのような気配のことをいう。
欧米流ではfateやdestinyのような「定め」、「神の意志」のような捉え方をし、これは日本語で言えば、「宿命」、「天命」のような概念だ。
しかし、「運」あるいは「運命」という場合も、「運勢」「運気」のように、trendとして考え、定まった形を持たない「気」のことを意味する。
この「気」の考え方の無い欧米人にとっては、定めではない将来は語る対象にならず、たまたまのluckやFortuneとして語られる。

欧米流の占いと、東洋流の占いの大きな違いは、固定的な動かしようのない宿命と考えるか、気象のような気配として考えるかにあるといえるだろう。
したがって、西洋占星術の場合は、どこまでも緻密に考え、タロットのようなものは逆に、トコトン根拠を排除する。
一方、東洋占いでは、運の分析がアバウトであり、大筋を把握することを第一にし、逆に、易占のような気配占いでも、論理や分類で語ろうとする。つまり、それだけ、いい加減なもの、「気」のようなものの実在を、前提に考えている。

どちらが良いとも言えないのだが、西洋化された現代には、むしろ、「気」のようなアバウトな捉え方が必要なのではなかろうか。
データにもとづく緻密さは、一見、確実そうに見えるが、「木を見て森を見ず」に陥りやすくなる。昨今の日本企業の失態は、優等生の成れの果てが経営者になり、重箱の隅をつつくような、ミスだけを恐れる役人的経営をしているからではないのか。

アバウトこそが現実を把握し、勘が働く力となるが、経営学の基本は、「経験と勘を排除する」ところから始まる。
しかし、最初に経営学を提唱した人物こそが、実は、経験と勘で成功したのではなかったのだろうか。それを、西洋流に説明づけただけではないのだろうか。
日本の経営者が行き詰まらせた会社が、たたき上げの中国人の手に掛かったとたん甦生する。何とも情けない話だ。
中国流の経済学は乱暴で、訳が解らん論理だが、西洋流の論理づけには成らなくても、実践においては、皆しっかり「気」を読んでいるとしか思えない。

今日17日は、彼岸の入りだ。気も実も間違いなく春が来た。陽気もよろしいそうだから、墓参りに行けば、何か良いことがあるかも知れない。


年齢制限

2017年03月15日 | 日記・エッセイ・コラム

相変わらず免許の返納や、認知症検査の話が取りざたされている。
検査の仕方が不適当とか、返納奨励に特典を付けるとか、たった一つの法改正で解決することを、枝葉末節の問題をひねくり回して、話を余計ややこしくしている。

一刻も早く、「免許年齢の上限を60歳」にすべきだ。それ以上の年齢で運転する人は、改めて免許を取り直すようにすれば良い。
例えば、60歳以下の年齢と同様に運転できる免許を「高Ⅰ免許」とし、能力不足でも山間部など車が無ければ困る人が運転できる、特定仕様車の免許を「高Ⅱ免許」とするなどすれば、車が無ければ困る人も運転でき、自信の無い人は取らなければ良いし、本当に能力も必要も無い人は免許を持つことも無い。
こういう制度にしておけば、60歳になれば皆、「高Ⅰ免許」になると決まっているわけだから、何の不満も無いはずだ。そして、能力の無い人が免許を「取り上げられる」屈辱を受けることも無い。


誰の責任

2017年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

どのあたりでそういう意見があるのかよく知らないが、「韓国人は東洋のユダヤ人」だという見解があるそうだ。
これに対し当の韓国人は、「優秀なユダヤ人」と同一視されたことがまんざらでもないらしく、よくこの話を引用する。

今日、韓国ではパク大統領弾劾妥当の判決が出た。
これまでも、韓国の裁判の情緒判決はよく知られるところだが、今回も、77%の世論情緒と一致している。

2000年前、イエスを死刑にと叫ぶユダヤ人に対し、ローマのピラト総督は、この男には何の罪も見いだせないとして、死刑の責任はユダヤ人が負えと言い、死刑を言い渡す。
冷静な部外者には理解のできない罪でも、ユダヤ人の情緒は死刑を熱望した。

韓国人がどれほど優秀なのかよく知らない。
ただ、ユダヤ人の優秀さは、放浪の民の厳しい歴史の中から育まれたものではなかろうか。韓国人は、ユダヤ人が辿った苦難の歴史の道を2000年にわたり歩んでいくのだろうか。それとも、既に、充分優秀なのだろうか。幸多からんことを祈るのみだ。


盛土学園

2017年03月04日 | 占いばなし

申酉空亡の裏目もいよいよ佳境のようだ。
安倍首相も雲行きが怪しい。事の真相は知らないが、様相は星のままだ。
一白の「シーチョー」に加え、今年はタガの緩みが危機を招く一白中宮の年。申酉の安易さも出てしまった。昭恵夫人も申酉空亡だ。天秤座の夫婦問題も影響している。

一方、都構想の大阪は、東京都で「盛り土」が話題になったので、負けられないと思ったのだろうか、大阪版、盛り土問題まで出てきた。名は体を表す、問題の学校は「盛り土も学園」ときた。


孤独の人

2017年03月02日 | 兄弟関係

NHKの「ファミリー・ヒストリー」を観ていると、顕著に兄弟関係が表れる。
タレントやスポーツ選手の有名人の多くが弟妹だが、それだけに、家族の話しを聞かされると、ほとんどが知らなかったり、違う話を信じていたりする。
ところが、数少ない長子の出演者は、細かい話や遠い先祖の話には驚くものの、大体の系譜は知っている。実際、弟妹の出演者の場合、調査の過程でも、実の兄姉が語っていたりするから、やはり長子は、家族の歴史を把握している。

これは、長子と弟妹の年が違うからではない。物事への関心の持ち方が始めから違うからだ。親兄姉に早く追いつこうとする弟妹は、形を早く身につけようとするから、物事の拠って来たる成り立ちや、自らのアイデンティティの背景などには、関心が無い。
それもあってか、親への仕送りや介護、葬式など、良きにつけ悪しきにつけ、過剰に親子関係を保ちたがる。また、葬式や結婚式に参加したがるのも、弟妹の形・形式に対する関心の強さからだ。
逆に長子の多くは、できるだけ親子関係から離れたがる。介護も葬儀も、見るからに渋々で、弟妹からは無責任と非難される。自分の葬式も要らないと言い出すのも、長子に多い。

長子が、親子関係から離れたがるのは、親の生い立ちを知り、親を一個の人間として見るからだ。言わば対等の人間であり、その対等の人間に、特別に親として接しなければならない理由がない。親との関係は、対等の友達関係であり、友達に対する愛情は相手からの愛情に比例する。親子という道徳形式ではなく、人と人との付き合いだ。

親も長子なら、互いに尊重し合うが、親が弟妹の時には、長子の成長期に溝ができることがある。弟妹の親は、長子の成長過程が理解できず、可愛がっているつもりでも子供を追い詰め、やがて、子供の心が離れていく。
弟妹の親は子供が成長しても変わらない関係を期待するが、親が長子の場合、子供の自立を尊重しなるべく関わらないようにする。ただし、長女の中には、子供を自分の分身と考え、自己研鑽と混同し、過剰に干渉する場合がある。
なお、こうした、親の兄弟関係の生い立ちと、子供への接し方は、夫婦の関係にもよるので、一概に片方だけで決まるわけではない。

一か八かの有名人
ところで何故、弟妹の方が有名人になりやすいか。長子は自我が強いから自分を捨てて思い切ったことができない。常に、完成形なので、スケールを広げにくい。
弟妹は、外部対応で生きるから、中途半端なままでも他人や組織の力に乗りやすく、成り行きに乗りやすいから、社会的部品として、大きなスケールに関わり、時にはその先端部に位置する。これが有名人だが、他者に依存する立場は、逆に、スキャンダルにも巻き込まれやすい。波に乗って動けば振幅が大きく、成功もしやすければ、恥もかきやすいわけだ。
また、スポーツなど、外的な形や仕上げが重要な分野では、幼少期、兄姉がようやくたどり着いたレベルと、同じレベルでスタートできることが大きい。ことにサッカーなど、能力の勝る相手と対等に競い合っていると、それを出し抜く「勘」が身につく。これは長子にはできないことだ。

長子の気の毒なところは、常に自分に頼ろうとするため、甘え下手で、可愛げが無い。
これに対し、強者の下で育った弟妹は、生存のため自然に甘え上手になるから、実力者に気に入られることが多く、それだけチャンスが広がる。弟妹は、上手く話せない時から年長者に対応するため、泣いて訴える。このため、被害者意識が育ち、わざわざ誰かを加害者にしたり、自分の手柄をアピールする傾向がある。自分はひどい環境の中からこんなに頑張ったと、誰かに認めてもらいたい。この自己顕示も出世につながる。
今話題のトランプ大統領も、安倍総理も弟妹だ。ことに、抜け目ない中間児は、政治家で出世する。