CNNニュースで、「暦の上では、あと一週間ほどで春ですが、また雪です」と言っていた。
日本で「暦の上では春ですが」と言う場合、2月始めの立春を指すが、欧米ではやはり、春分を春と考えるようだ。
確かに、実際の体感や自然の表情で、春の始まりを感じるのは春分だ。三月節も虫が顔を出す「啓蟄」で始まり、春分にはお彼岸の穏やかな陽気が漂う。
即物的な欧米人にとって、春分が春の始めなのは当たり前のことだろう。しかし、「気」を考える東洋人には、目に映る背景に潜む存在が無視できない。
極寒の最中に、春が芽生える立春を考え、猛暑の中に立秋を見る。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども・・・と、気配を感じ取ろうとする。
「運」も、そのような気配のことをいう。
欧米流ではfateやdestinyのような「定め」、「神の意志」のような捉え方をし、これは日本語で言えば、「宿命」、「天命」のような概念だ。
しかし、「運」あるいは「運命」という場合も、「運勢」「運気」のように、trendとして考え、定まった形を持たない「気」のことを意味する。
この「気」の考え方の無い欧米人にとっては、定めではない将来は語る対象にならず、たまたまのluckやFortuneとして語られる。
欧米流の占いと、東洋流の占いの大きな違いは、固定的な動かしようのない宿命と考えるか、気象のような気配として考えるかにあるといえるだろう。
したがって、西洋占星術の場合は、どこまでも緻密に考え、タロットのようなものは逆に、トコトン根拠を排除する。
一方、東洋占いでは、運の分析がアバウトであり、大筋を把握することを第一にし、逆に、易占のような気配占いでも、論理や分類で語ろうとする。つまり、それだけ、いい加減なもの、「気」のようなものの実在を、前提に考えている。
どちらが良いとも言えないのだが、西洋化された現代には、むしろ、「気」のようなアバウトな捉え方が必要なのではなかろうか。
データにもとづく緻密さは、一見、確実そうに見えるが、「木を見て森を見ず」に陥りやすくなる。昨今の日本企業の失態は、優等生の成れの果てが経営者になり、重箱の隅をつつくような、ミスだけを恐れる役人的経営をしているからではないのか。
アバウトこそが現実を把握し、勘が働く力となるが、経営学の基本は、「経験と勘を排除する」ところから始まる。
しかし、最初に経営学を提唱した人物こそが、実は、経験と勘で成功したのではなかったのだろうか。それを、西洋流に説明づけただけではないのだろうか。
日本の経営者が行き詰まらせた会社が、たたき上げの中国人の手に掛かったとたん甦生する。何とも情けない話だ。
中国流の経済学は乱暴で、訳が解らん論理だが、西洋流の論理づけには成らなくても、実践においては、皆しっかり「気」を読んでいるとしか思えない。
今日17日は、彼岸の入りだ。気も実も間違いなく春が来た。陽気もよろしいそうだから、墓参りに行けば、何か良いことがあるかも知れない。