魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

風の音さえ

2009年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム

また、「音」殺人が起こった。
ピアノ殺人のような事件は昔から後を絶たない。何でそれぐらいで?と思うから、社会がすさんでいるからだとか、自己中のせいだとか、色々言われるが、どうも、肝心なことが見落とされている。

音については、学生の頃、友人の下宿で、話していると、突然、部屋の戸が開いて、「うるさい!」と、鬼のような形相で、隣室の住人が立っている。
友人が、目で『逆らうな』と合図するので、黙っていた。

その時も、そう大きな声で話していたわけではないのだが、友人の話では、ほとんど一切の音に怒鳴り込んでくるらしい。
この時、友人は隣室の住人が出かけていると思っていたのだが、途中で帰ってきたようだった。

その後、身近にも似たような人がいたり、世間でもピアノ殺人が起こったりするので、考えてみたのだが、これは病気だ。

体力が弱ってくると、些細な音でも、体にビンビン響く。体が痛いぐらいに感じる。健康な時にはわからないのだが、病気でヨレヨレの時に、何度かそういう感覚を体験したことがある。

音に異常にうるさい人は、自分が体力の限界で生きていることに気づかず、おそらく、他の人にはわからない苦しみの中で生きているのではなかろうか。

生まれた時から、そういう人もいるし、途中からそうなる人もいるだろうが、自分が他の人とは違うとは気づかないから、一般の生活音が、攻撃的な音に聞こえる。もちろん、他人はその人の体験はできないから、「何でこれぐらいで?」と思う。

音がうるさいのは、出しているヤツが悪いからだ。と思うから、自分の病気など疑わない。当然、病院にも行かないだろうし、仮に、病院に行っても、現在のところ「処置無し」だろう。

しかし、「音がうるさい」と異常に訴える人はどこでもいる。
音に抗議する人に困ったり、非難する前に、病気ではないかと考えた方が良いと思う。

で、次が重要なことだが、
社会的な対策を講ずるべきだと思う。DVや幼児虐待、セクハラは、アメリカからの流行りで、社会的に認識されたが、音を異常にうるさく言う人も、ある程度、強制的に治療「保護」できる環境を整えたらどうだろう。

その方が、本人のためでもあり、コミュニティーのためでもある。
音のトラブルは、殺人事件まで行くことが多い。セクハラなどより、よほど緊急を要すると思うのだが。

占い的には
音は五行の「水」。水は知と嗅覚、脳と泌尿器を表す。
水は人間の根源で、始まりと終わりに関係する。胎児には音が聞こえ、死ぬ時には音だけが最後まで聞こえると言われる。
嗅覚もこれに準じて、臭いによって記憶や情景が浮かび、歌によって記憶が蘇ったりする。
また、知能と生殖にも関係するので、頭の良さと好色は意外と比例する。


バクシッシ

2009年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

今は知らないが、昔、インドや中東の街を歩くと、至る所で「バクシッシ」「バクシッシ」と声をかけられた。
「お恵みを」という意味だが、いちいち応えていたのでは財布が持たない。無視するが、それでもしつこく言われる。

西に行くにしたがい、だんだん裕福になり、そういう人がいなくなってきた。イランから西のトルコに抜ける国境で、役人からパスポートの提示を求められ、提示すると、「バクシッシ」と、小さな声で言う。

中東などでは、公機能がまともに機能していない。郵送物が消えたり、役人が賄賂を求めるのは常識だ。
こういう時の対応は、極めて難しい。ハナから、拒否するとどんな目に遭わされるかわからない。かと言って、いちいち言うなりになっていたのでは、どこまで要求されるかわからない。

そこで、「言葉の意味がわかりませ~ん?」という態度で、目を点にして、靴を脱いで見せたり、上着の内側を見せたりした。
役人はそのつど、「バクシッシ」、「バクシッシ!」と、だんだん声が大きくなり、終いには、笑いながら地団駄を踏み、「バクシッシ!」と言って、荷物に手を突っ込み、書類を取り出した。

予防接種の書類だった。

イエローカードと言われる予防接種証明書は、黄熱病ワクチンが始まりらしい。
ワクチンはドイツ語から来ているのだろうが、英語ではvaccine. バクシン。だから、「vaccine. 」と言う役人の言葉が「バクシッシ恐怖症」の耳には「バクシッシ」に聞こえた。

イランやトルコは立派な文明国です。お役人様、ごめんなさい。

ところで
インフルエンザ騒動で、ワクチン問題がわき起こっている。
日本では過去のワクチン事故で、ワクチンがアンタッチャブルになっていて、世界情勢から相当遅れているのだそうだ。

インフルエンザ騒動で、ワクチンが急がれているが、冬の大流行までに間に合うかどうか解らないし、ぴったり効果的なものになるかも解らない。(土星の来る天秤座の日本は危険地帯だが)

病院好きの人に、よく、「ちゃんとワクチンはしてますか」と言われるが、これまで、一度もインフルエンザワクチンを受けたことはない。
自分を守るのは結局、栄養、睡眠、それに、手洗いうがいだと思っている。(不眠が死に病になりそうだ)

5、6年前にひどい熱と咳で寝込んだのは、たぶんインフルエンザだったのだろう。病院に行かないからわからない。
その時から、うがいマニアになり、幸いその後、一度も風邪らしい風邪も引いてない。
2、3日、危険な状態になったことはあるが、鬼うがいで助かっているようだ。
ちなみに、好きなうがい薬は、「コルゲンコーワうがいぐすり」。透明で、スッとして気持ちいい。何でもない時でも、ガラガラっとやる。


オキアミ 2

2009年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

要職にあった人物が、不正を追及されれば、一方的な非難の大合唱が起こり、死ねば急転直下、不正が不問に付される。
死がすべてを超越する理由になる。
そんな、ミソクソ一緒の社会を外から見れば、バカげて見える。

しかし、金権政治や増税問題で国民の批判を浴び、崩壊寸前の自民党が、大平首相の突然の死により、「弔い選挙」の大合唱で圧勝した。
あれから30年も、自民党は生き延びた。

皇太子夫妻二人が殺されて始まった第一次大戦は、4千万人の死傷者を出すことになった。

命は尊い。しかし、死というエモーショナルな出来事に目を奪われ、集団が道を誤ることもしばしばある。
弱い動物が群れるのは、犠牲によって、群れを守るためだ。
もちろん人間は、シマウマやヌーではないが、一人も犠牲者がいない社会など無い。

一人の犠牲者も出さないと、口で言うのは簡単だが、群れて生きる動物は、何らかの犠牲を前提にして群れている。
病死が減り、最長寿社会が生まれた時には、膨らみきった風船のような危機が迫ってくる。
群れから遅れた幼い子供をライオンから守るため、群れが協力して救える時もなくはない。しかし移動を止めれば集団は飢えて死ぬ。

皇太子が殺されて、戦争が起こったのは、国のメンツがツブされたからだ。共同体への挑戦を放置しておけば、枠組みの破壊を容認することになる、と感じるからだが、死のショックは大きい。状況が違うとはいえ、もし、大津事件でロシアの皇太子が死んでいたら、どうなっていただろう。

死亡というセンセーションには、問答無用の感情行動が起こる。
911に対して、アメリカは始めから貧困対策のような賢明な行動をとることはできなかっただろう。しかし、多くの死者を出し、興奮が冷めてみれば、むしろ逆の行動の方が、有効だったのではないかと、解ってくる。

生と同様に、死ほど日常的なことはない。にもかかわらず、死と聞いただけで思考停止するのは、自分の生に引き当てて、重大事と感じるからだ。その自分をも含むはずの、マスの認識が消えてしまうからだ。

歌謡曲の歌詞に、死や自殺を扱うのは、作詞家としては安易すぎる、下の下だが、ほとんど必ずヒットする。

情に浸るための歌謡曲ならそれで良いだろう。
しかし、集団や世界を考える時には、かぎられた死や、犠牲の悲劇に目を奪われて、それよりもはるかに重大な「滅び」を選ぶわけにはいかないはずだ。


オキアミ 1

2009年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム

大量のオキアミが発生する海に、大量の魚たちがそれを食べるため集まり、その魚を食べるためにイルカなどの大型動物が集まる。

子供の頃、塩アミが大好物だった。ちっちゃいエビだと思っていたが、全然違うものらしい。
体質が変わった今では、塩辛くてとても食べられない。

オキアミをよく見ると、ちゃんと複雑な体の形が整って、活発に動いている。かなり高度な生物だ。
オキアミの食べ物は、さらに小さなプランクトン。そのプランクトンもちゃんと生きて活動している。

バクテリアに至るまで・・・命って何だろう、と改めて思う。
食い食われる食物連鎖の中に、一つ一つの命があり、一生がある。

食物連鎖の頂点と思い上がっている人間も、細菌や、ウイルス、ガンなどにあっけなく冒されてしまう。
自然災害には、なすすべもない。

四苦と言われる人の生老病死など、オキアミの一瞬の命と比べてどれほどの違いがあろうか。

己の命の頼りなさ。
それを知ってこそ、命を大切なものと考えることができる。
命がこの世で一番大切と思う人こそが、命を粗末にする。

多くの人は逆だと思うかも知れない。
しかし、自分の命が世界の中心にあると思う人は、自分の命をどう扱おうと自分の責任であり、自分の勝手だと思う。当然、他人の命などその次だ。

そういう人は、少しでも自分の存在が不確かや、無意味に思えると、耐えられない。
命そのものへの不信となり、あっけなく人を殺したり、自殺する。
しかも、死を拒む自分の肉体を欺くために、他人に依存する集団自殺に頼ったり、他者への殺人で自分の死の代償にする人までいる。

命は、はかなく頼りないもの、自分の思い通りにならないものと知れば・・・、
自分の命が、自分を超える、大きな力によって支えられているものと知れば・・・、
死も生も、自然の一環、一部であると知れば・・・、
死を終着点とは考えない。
究極の選択に「死」を選ばない。
むしろ苦しい「生」を選ぶだろう。

死も生も同じものだと言って、死を選ぶとすれば、究極、自分のことしか考えていないからだ。


ハゲに朗報?

2009年05月26日 | 星の流れに

今日、脱毛・薄毛の遺伝子が発見されたニュースが出た。
国立遺伝学研究所の相賀裕美子教授らによる発見だそうだ。

男性ホルモンと関係ない、薄毛治療に役立ちそうな話だが、そろそろ、いよいよ、天王星→牡羊座の足音が聞こえてきた。
これが直接、ハゲ治療に役立つかはわからないが、欲で動く世の中、たちまち、遺伝子レベルのハゲ治療や、発毛技術に火が点くだろう。
次々と新発見も生まれてくる。

牡羊座の兆候1牡羊座2010~2018年


情は仇なす(後)

2009年05月25日 | 占いばなし

世の中には、犯人もかわいそうな事件が多い。
しかし、中央大の高窪教授の事件は、どちらがかわいそうと言うより、因果のようなものを感じる。

昨年は、「一白」の年で、事件は今年の一月、まだ昨年中だ。
犯人も被害者も「一白」だった。
TVで科学捜査の成果のようなことを言っていたが、怨恨で考えれば簡単にわかる事件だろう。
問題はどういう怨恨なのかだが、本当のことは当事者以外にはわからない。いや、当事者にも良く解らないことだと思う。

一白は情の星だ
情というものは「あなたのすることみんな好き」で、その裏は絶対の嫌悪=恨みになる。
一白には極めて緻密な思考をする人が多い。緻密すぎる思考は現実感から遠くなる。
何時も言うことだが、偽物は複雑だ。森羅万象、無限に複雑な世界は、単純な原理が支配している。複雑に終始する話には単純な「騙し」が潜んでいることを疑った方がいい。

一白の人は、表と裏の道があれば裏の道に惹かれる。一白の複雑思考からだ。単純な現実より複雑不可解な観念世界、ミステリーに惹きつけられる。

恋愛でも、「僕とつきあってください」などと単純なことは言わない。よく調べて、通り道で待ち伏せ、運命の偶然を装う。仕組みや仕掛けにとらわれる。

一白には絶対的なファンを生む作家が多い。
人生色々といったスタンスの作家とは違い、「宿命的に」逃れられない悲劇の主人公に読者がつかまってしまう。
仕組みの中に、読者を完全にはめてしまう。その束縛感が快感になる。つまり、一白の束縛感を追体験する。読者は作家の世界の信者になる。

そういう一白の「自己束縛」は、自分をものすごい良い人に仕上げたり、人を恨んだりすることになる。それはどちらも、自分に対する客観性が無いからだ。自分が悪い人でなければ、不幸の原因は他人か運命だ。

この一白の「思い込み」は、取り調べの警官や検事をも同情させる。
他人から見ると、ワケの解らない殺人事件の多くは、一白の思い込みに因ることが多い。それも、何となくの無差別殺人ではなく、ハッキリ恨みの対象がある。

中央大の事件の真相は、わからない
しかし、「一白同士の師弟関係」で、「推察」すれば、逃れられない運命的な状況が浮かび上がってくる。

「優しさ」を至上のものと考える一白同士が、最初は良い出会いをしたが、出来ることと出来ないことがある、という現実を忘れて、情の付き合いをした。
もし教授が冷たい人、現実的な人だったら、教え子側もそれほど期待しなかっただろうが、おそらくは、オールマイティーのように期待した。つまり良いことも悪いことも教授のせい、ならば、不満はすべて教授のせい、に変わっていく。
もちろん、一白の誰でもがそうなるわけではない。病的性向があったからだろう。

占い的なもう一つの要因として、
射手座の教授と魚座の教え子ということも見逃せない。
もともと、射手座と魚座は90゜の、ややこしい関係だ。どちらかと言えば射手座が魚座に惹かれるが、射手座は、昨年で冥王星も去り、神通力が薄れた(小室哲哉、舛添要一、鴻池etc.)
一方で、魚座も天王星が末期症状を起こし、無理が通用しなくなり、そこで、さらに無理をしようとする。
(実現できない思いを、別の形で実現しようとする)
魚座の主客逆転の錯覚については、長くなるし、何度か話したので割愛する。(ポイント:自分の問題は鏡に映っている像のせい)

同じように見える事件でも、関わる星が違えば、違った動機によって起こっている。

では、どうすれば避けられたのかと言えば、教授が一人で良い人になりきらず、早い段階で冷たくしていれば、恨まれても、こうはならなかった。
しかし、一白の質としては、やはり、そうはできなかったのだろう。教授の立場では相談する人もいなかっただろうし、一白独特の秘密主義と、過剰な抱え込みがアダになった。


情は仇なす(前)

2009年05月24日 | 占いばなし

事件が起こるたびに、被害者も加害者も気の毒になる。

先日、何の記事だったか、中国人は日本のドラマを見ていると吐き気がする、という記事を読んで、その理由を知り、納得した。

中国人の感覚からすると、悪いヤツは悪い。同情の余地や悪人の立場など無い。にもかかわらず、日本のドラマでは、犯行の場で、そこに至った犯人の事情を、くどくどとフラッシュバックなどで説明する。
中国人からすれば、悪いヤツを弁護していること自体が我慢ならない。

中国陰陽の二者択一や単純言語の文化のせいか、それとも、中国社会が勧善懲悪のレベルなのか、とにかく、複層的で多様な、不確定性原理のような日本の文化が理解できないのだろう。

泥棒にも三分の理、と言う諺はどうも、日本オリジナルらしい。
大陸のように、「立場の違う者は追い払う」ことで、異論が共存しない世界と違い、日本のような狭い島国の寄り合い所帯では、立場の違う者が共存共生していく文化を培った。
(何かあると一辺倒になるのも、実は、共生の方法)

これは、世界でも珍しい、かなり高度な文化だ。地球が狭くなって、ようやく、文明国でも理解され始めたような段階だ。
どちらの立場も認めるには、知識収集と想像力が必要だからだ。

占いでものを考えるには、先ずこれが必要だと痛感する。
大局観は、さらにこの上にある。
すべてが見えると、白黒をつけられなくなるから、決断力が無くなる。
インテリの優柔不断、と言われるものも同じものだろう。
しかし、大局観の上に、行動がなければ、休むに似たりの考えだ。

三分の理があっても、犯罪は犯罪と取り決めなければ、秩序は生まれない。
その上で、「ゆるし」が生まれる


夜目遠目

2009年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

夜目、遠目、傘の内
昔から、美人に見える三条件とされる
近頃は、「車の中」も加わった。
よく見えないから、何となく、美人ではないかと妄想をかき立てられる。

もう一つ
目病み女に、風邪引き男
これは色っぽい姿といわれる。
理由は良く解らないのだが、どちらも、意志力が弱まるからではないかと思われる。

目でものを言う「女の目」が、眼帯で半分隠れていると、本音がますます見えなくなり、ミステリアスで、ドアを叩いてみたくなる。
生命力の象徴の「男の口」が、マスクで隠されていると、底に隠れたエネルギーを想像する。
また、少し、気力のない男の方が母性本能をくすぐられるから、かも知れない。

もっと、あけすけに考えれば、行為の最中、「一般に」女は目を閉じ、男は無言になる・・・からなのかも知れない。

しかし、近頃の女は「口でものを言う」ようになった。
そうだとすれば、マスク女も、色っぽいのかも知れない。
みなさんの感想は、どうでしょう?




もしかして
こんな街では、強盗が増えるかも知れない。
犯人はマスクをしていました・・・と言ってもねえ
ATMにも堂々と行けるし・・・

もしかして
満員電車で、マスクをせずに咳のマネをしたら、周りの人がワッと逃げるかも知れないが、迷惑条例で逮捕されるかも

もしかして
マスクが無くて困っている人に、朗報!
防塵マスクなら、透明でカッコ良いし、百均に余ってますよー
普通のマスクより完璧?


変わらぬもの

2009年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム

インフルも、みんなでかかれば怖くない。

もう、日本インフル列島だ。
ホンマモンの、恐怖の大魔王登場の予行演習として、実に効果的であったことは間違いない。多くの問題点が浮かび上がってきた。

いまのところ毒性は軽そうだということもあり、経済的視点からも、普通の対応に向かっている。
これだけ蔓延すれば、もう、どうしようもない。
だから、普通の対応にしようと言うのは、本末転倒だ。
「みんなでかかれば怖くない」の論理だ。

どだい、最初に「対策パフォーマンス」が先行し過ぎた。
専門家が過度に敏感になるのは当然のことだが、それを真に受けるのではなく、情報を見極めて判断し、指示を出すのが政治家の仕事だ。

風林火山
疾きこと風のごとく、徐なること林のごとく、侵し掠めること火のごとく、動かざること山のごとし・・・であるべき政治家が、
「風(インフル)と聞いて林に火を付け山を火事にしてしまった」

この分だと逆に、ホンマモンが登場したとき、今回に懲りて、経済対策に目を奪われ、手遅れにしてしまう可能性がある。
政治家の、腹が据わってないからだ。

それにしても、このマスク・サティアンはどうだ
マスクが便宜的な予防策であるにもかかわらず、企業などがイメージ戦略もあって、マスク出勤を義務づけたりしたことで、マスクが踏み絵のようになってしまった。

多くのカルト集団に見られる異様な姿は、外から見れば全く、アホで異様な行動だが、当人達にはちゃんとした理由があって、真剣そのものだ。

戦時中、日本国民は本気で勝てると思っていた。新型爆弾の放射能には白衣で対応した。そのすべてが、戦争が終わって見れば、「何だったんだ!」と、ボーゼンとした。

文化や民族性というものは、非常時に現れる
善し悪しは別にして、日本人の本質は、変わっていないようだ。


亀は尊い

2009年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム

占いは科学ではない。統計学でもない。方法や結果を証明することはできない。

しかし、証明できなければ無用かと言えば、
漢方は最近ようやく検証され始めているし、経験と勘で建てた古代建築は今も残っている。また、名将や商家の家訓は、経済学以上の真理や方法を説いていることもある。
むしろ、科学が古代の叡智研究から始まる場合も少なくない。

古代の叡智は、自然の中で生きる人間が、自然人として残した結果であり、言わば、自然現象そのものだから、研究対象の価値があるのかも知れない。

占いの方法は、経験と勘だ。
占いは科学とは無縁の独立した存在だ。占学の理解は、言葉通りに習得するより、その言わんとするところを体得することで、言葉を残した人になりきる。そうして、術を再現する。

「論語読みの論語知らず」とは、知識と論理は正確でも、その趣旨を理解しないことだが、現代教育は趣旨の体得をまったくと言っていいくらい無視している。
だから、「優秀」な人ほど、現実対応ができない。
その優秀な人の城が中央官庁だ。

先日、
車の「ABS」ランプが点灯した。車屋さんに半日預けたら、電子チェッカー?で全部検査したが異常がない。いくぶんバッテリーレベルが低いのでバッテリーを替えましょうかと言うことだった。
バッテリーを替えてもらって走っているが、相変わらず点灯している。
もうすぐ、車検なので、それまで気にしないことにした。
これで事故が起こったら誰の責任なんだろう???

日本の車産業の黎明期?昭和40年代以前は、メカも単純だったから、検査する機械など無かった。
町のモーター屋さんで買った中古のべレットのエンジン・ロッドが折れて持って行くと、申し訳ないと、別のエンジンを載せ替えてくれた。これが改造のツインキャブで、パワーはアップしたが、走っているとバランスがズレるので、エンジン音を聞きながら自分でネジを調整した。今のインドやロシアのような段階で、楽しい時代だった。

しかし、車にコンピューターが組み込まれるようになって以来、遠出で故障しても、素人では直せなくなった。
世の中全てが、専門化と言えば聞こえがいいが、パーツ化した。
チャップリンのモダンタイムスで暗示したことが、社会システム全体に浸透しているのだ。

占いに夢中になっている頃、きっとコンピュータを使えば占えると思った。コンピューターの発達で、確かにある程度の占いはできるようになった。しかし、人や自然、社会などの現実に対する実占は、実に「意味的」だ。少なくとも、人間について考えるだけでも答えは単純ではない。
人間の行動はパターン的であり、同時に、無限に多様だ。チェスや将棋ではない。
少なくとも当分は、コンピューターの出る幕はなさそうだ。

アナログが良いと言い訳をする原始人になるつもりはないが、現代は、人間の叡智を捨てて、あまりにも電脳の奴隷に成り下がってはいないだろうか。

また、易経から
山雷頤、初爻
舎爾霊亀、観我朶頤。凶。
爾の霊亀を捨て、我を観て頤をたる。凶なり。
自分の明徳を捨てて、本来、自分が養う相手に頼ろうとすれば凶。

道具に使われている、現代社会は間違っている。


歴史は芸術?

2009年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

面白おかしく、フランス語やドイツ語の物まねをしても、日本人には日本語の物まねはできない。日本語の内側にいると、日本語とはどんな響きで、どんな風に聞こえているかが解らないからだ。

同じように、
感情論で語る人は、自分が感情論で語っていることに気づかない。
こういう人に、「それは感情論ですよ」と言っても、何を言われているのか解らないから、単に、バカにされたとか無視されたと、感情的に受け止める。

言葉の生む誤解はそのようなものだ。

論理的な会話をする人たちにしても、同じことだ。自分たちだけが知っている単語とその定義で会話をしていると、自分たちだけは解ったつもりになっていても、他の人たちを納得させることができなければ、感情論と同じ事だ。

また、似たような言葉世界では、ソースを明らかにしろ。資料を見せろ。と言うのがある。一見、確かな議論をするための必須条件のように聞こえるが、その資料が本物であっても、話の総体やテーマの創出には、量的質的に、さしたる意味を持たない場合もある。
にもかかわらず、そこにばかりこだわるやり取りは、子供の罵り合いと大差ない。

科学的な検証では重要な、論理や物証が、人生や芸術の理解には障害になることもある。

これと同じように、歴史も、資料やデータをいくら並べても、どうにも理解し合えないものの一つだ。
歴史の同じ現場にいた人さえ、違う解釈をする。
歴史でなくても、人の「解釈」は、百人百様だ。

歴史というものは、どうも、本質的には芸術や哲学のようなもので、今日を生きるために意味があるのであって、どこまで行っても、科学的ではあり得ないらしい。
科学的な歴史があるとすれば、「有史以前」と言う、人間の意志が関わらない地質学ぐらいだろうか。

互いの歴史を前提に今を語り合うことは、巨大な不毛だ。
生まれる以前の過去は、誇ることでも卑下することでもない。
前世はあやなす糸、因縁の世界だ。何事も、どこかで深く関わり合っていて、当然だ。
先代の付け払いを持ち出されても
「ああ、そうですか」
それ以上でも、それ以下でもない

やっきになって否定しようとすれば、払わなくても良いような先代の借金を、新しい売掛帳に書き直されてしまうだけだ。

ところで、
星の動きで歴史を考えることは、そのような個々の立場から離れた視点で歴史を見ることになるが、星の論理で観ることはまた、一つのファンタジーであることにかわりない。
大きな違いがあるとすれば、過去も未来も同列に観る、未来志向と言うことだろうか。
ただ、明るいことばかりが見えないのが残念なところだ。


マス・クスクス

2009年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

今や、マスクをしないで歩いていたら非国民のように見られる。
絶対におかしい!
と言っても、日本人の集団性向は恐ろしい。どうにもならない。

テレビで、「マスクの正しい付け方」までやれば、
「付けなければならないもの」と、思う人がほとんどだ。

日本人の規制好きは Mだ。
おそらく、江戸時代の徹底した規制社会のせいだろう。
自由と束縛の道があると、不満を言いながら束縛を選ぶ。
明治から戦前までの、兵役に対する従順さも、国民国家意識より、お上への忠誠心(実は束縛)によるものだ。
今日では、選挙「権」すら、国民の義務だと思っている。

マスクの効果は疑問視されている。
しないよりした方が良いだろうが、していない人を白い目で見るような、狂奔に陥っている。
「人に迷惑をかけてはいけませんから」
と言って、マスクをしている人が多いということは、その人達は、してない人を「迷惑をかける人」と見ているということだ。

一番に言いたいことは、
それならば、あの最中、海外に送り出した国と、遊びに出かけた人たちには、何のペナルティーも無いのか。と言うことだ。

いや、誤解があっては困る。
ペナルティーを課せという、規制の話をしたいのではない。
矛盾した規制束縛や非難の目で、互いに窮屈な社会にしないようにして欲しい。ということだ。

そうは言っても、日本人。
そのうち、こんなことを言うこと自体が、非難されることになるのだろう。

あ~あ、当分、外には出んとこ


車が無くても

2009年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム

自動車離れが深刻で、自動車産業が焦っている。
マイカーのない社会を理想とする者にとっては喜ばしいことだが、産業の現実を考えれば、ざまー見ろ、とも言っていられない。
現に、自分もまだマイカーに乗っている。

マイカーが無くても暮らせる。公共交通機関で間に合う社会を、あらゆる角度から考えて欲しい。
生きているうちには来ないだろうが。

マイカーを売りつける自動車産業でなくても、公共インフラとしての乗り物製造は無くならないはずだ。

移動手段としての乗り物を、個々が持つ必要はない。
目的地に、体一つが移動すれば、荷物も着いている。それは、いまも実現しているが、それをクリーンに効率よくできるはずだ。
また、マイカーの持つ、グループ移動の楽しみも、公共交通で可能なはずだ。

マイカーと言うより、マイコンテナのようなBOXで、「幹線」*に乗れば好みのコースで目的地に移動できる。運転の必要はない。いわば専用のコンパートメントだ。
交通違反も事故もなくなる。

国も企業も、そういう根本的な交通文明から構想して欲しい。

だが、
そうは言っても、これは、21世紀前半に実現するような話ではない。
当面の自動車産業は、何とか個人に買ってもらわなければならないし、買う側は、罪悪感のないクリーンな車に乗りたい。

電気自動車のような本当に「賢い」車が急がれるし、企業も賢くならなければ滅亡する。

自動車会社に言いたい。
自動車免許ぐらい、無料サービスをしなければ、乗り手はいなくなる。

※「幹線」=貨物列車や交通管制システム


不信列島

2009年05月17日 | 星の流れに

1973年。オイルショックのトイレットペーパー騒ぎは、世界中の物笑いになった。
今、新インフルエンザ・ショックでマスクを買いあさっているのは、発生地のメキシコをのぞけば日本だけだろう。

マスクは仮面だから魚座。
この七年、花粉から鳥インフルと、大流行で、マスク屋さんは特需で大もうけだが、このあたりで逆転が起きるから、事業撤退の準備をしておいた方がいい。

今年は1973年と同じ木星→水瓶座の年だ。天秤座の日本にとって悪い年ではないが、あいにく、土星が12室の乙女座から天秤座に入る。
1973年はカニ座で、やはり、悪い年だったが他動的な原因が大きかった。今回は、日本自体の不幸を暗示しているから、秋から大流行するかも知れない。

しかし、
新インフルエンザ騒ぎは、土星が現在、乙女座(医療)にいることで、医療関係者がことさらに悲観的になることも影響している。
過剰反応によるパニックだ。
加えて、担当大臣が医療の乙女座と相性の悪い射手座の舛添大臣。
矛盾だらけの対応で、日本中がパニックになった。

今回、あれだけ大げさに騒ぎながら、ゴールデンウイークに大挙、送り出した結果、日本は完全に汚染地帯になった。
今頃になって、「毒性は弱いので」と言っても、パニックはそう簡単には収まらない。
初めの騒ぎようといい、大騒ぎになってからのなだめようといい、
中途半端ばかりで、逆効果もいいところだ。

死亡率云々と最初に脅したことで引っ込みがつかなくなり、一般の風邪や、猛暑とどれだけ違うのか、といった具体的な説明ができなくなっている。

無責任なマスコミや政府は、相変わらず、信用ならない。
一人一人が自分の常識に頼った方がいい。

今回の対応は
新手のインフルエンザが流行ってますから気をつけましょうね
ぐらいで良さそうだ。

むしろ、今回のチグハグだらけの対応で、
本物が登場した時には、「トンデモナイ!」ことになることが、良くわかった。


人犬問題

2009年05月16日 | 動物

CNNで、川に落ちた犬と飼い主が救助されたニュースをやっていた。
これぞ「人が犬にかみついたら」ニュースだ。

ニュースはもっぱら犬のことばかりで、最後に「飼い主も無事救助されました」と付け加えていた。

生きとし生けるもの皆平等、ではあるけれど、人間の文明は先ず人間を第一にして成り立っている。
動物は弱い立場だから、人間の優越感もあって「かわいい」。
哀れそうな目つきも、よけいかわいらしく見える。

そうして、弱い者を可愛がっていると、いつの間にか主客が逆転してしまう。
「弱いのだから大切にしてやらなければ」が、「大切なものは自分より大切」になってしまう。

奇しくも同じ日、和歌山の港にクジラが迷い込んで死にそうになっていて助けられないと、みんなが心配しているニュースがあった。

和歌山では昔、こういうクジラは天の授かり物と、喜んで捕まえて食べた。日本の文化としてイルカもクジラも食用にしていた。
古事記には、福井の敦賀の名前の由来は「血浦」で、神様からの授かり物のイルカが大量に浜に押し寄せ、イルカの血でくさくなったからとある。

アメリカの動物愛護が日本にも行き渡り、イルカやクジラは愛護の対象で、食用などとんでもないというムードが広がっているようだ。
しかし、牛、豚、鶏のことは忘れている。
偏った愛護には、必ず被害者がいる。

愛護はバランスのとれた仁愛なら良いが、大方は感情的な偏愛となる。
本当に相手のためを思う愛は、必ずしも喜ばれないが、自己愛の裏返しである、相手に喜ばれたい一心の盲目の愛は、ただの感情だ。

犬を可愛がりすぎて、「お犬様の館」になっている家庭がある。
猫や鳥では、大将になるほどの知恵は回らないようだが、知能が高くなるほど「支配権」を行使し始める。

弱いものを大切にすることが、盲目の溺愛になると、誰のためにもならない。
飼い主がペットのために生活崩壊したら、ペットは死ぬしかない。

弱者保護は先ず、保護する人間の保護からだ。