魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

蛍の宿は:補足

2012年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

蛍の宿は」の補足になるが、
幽霊を信じていないのに、なぜ、恐怖に駆られたのだろう。

一つには、「幽霊は絶対にいない」とは思っていないからだ。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言う場合も、その時驚いたのはススキかも知れないが、幽霊を全面否定しているワケではない。
幽霊の存在は証明できないが、同時に否定もできない。
九分九厘否定していても、一厘は、どこかで否定し切れていない。

もう一つの理由として、驚きの定石にハマっていたからでもある。
丑三つ時の、真っ暗な霧に包まれた山中で、不可解な金色の輝きに不気味になっていたところに、既に怖がっている人の恐怖感が伝わり、たたみ掛けて、不可解なものが現れた。
静寂をつんざく「ギャーッ」の叫び声で、何かを判断するより、とにかく「避難だっ」 で、アドレナリンが全開した。

笑いや恐怖は、単発では盛り上がらない。少しずつ盛り上げておいて、一気に展開すると、爆発する。
落語でもそうだが、初め「前振り」で伏線を張り、先入観を植え付けておいて、忘れた頃に、先入観に火を付ける。 ドッカーン

理性を失うパニックも、そうして起こる。
1929年の「大恐慌」は、突然、初めて株が暴落したのではない。
それまで、何度も小さな暴落を繰り返し、「大暴落が起こったらどうしよう」と、疑心暗鬼が極限まで達した時に起こったもので、恐怖心に火を付けたことで、実態以上のパニックになった。

フクシマの原発事故の時も、安全神話で恐怖感の無い日本より、原発議論が盛んな国や、逆に全く無関心な国の方がパニックになった。
そして、日本国内でも、原発を信じ込んで暮らしていた人の方が、情報が増えるにつれ、過剰反応を起こし始めた。
そう言えば語弊があるが、放射能被害とは、幽霊のようなものだ。

幽霊の怖さは、本当のところよく解らない。
最大の能力と言えば、死の世界に引きずり込むことぐらいだろうが、人間は必ず死ぬのだから、その原因となると、いるかいないか解らないような幽霊より、街を走っている車や、台所にある包丁の方がよほど危険で、しかも、それを操る者は生きている人間だ。
自分を含めて、身の回りにいる人間の方が、よほど怖い。

何か相当、怖いらしいものが、「出たっ」と言うだけで、すべてを投げ打って逃げ出さなければならないほど、本当に怖いのかどうか、
「エライことが起こった」時には、よく考えてみる必要がある。

地震のように突発的でも、いつかかならず起こるものなら、予め心の準備をしておかなければならないし、政治や経済のように、どんなに突然でも、相当な予兆期間のあるものなら、その時、状況に振り回されないで、頭を上げて、辺りを見回し、歴史を振り返り、冷静な判断をしなければならない。

ところで、例の白装束の老人の件だが、もし幽霊や妖怪を信じる人ならどう考えるだろうか。
蛍の住む土地の主か呪縛霊が、可愛い蛍を捕ろうとする人間を懲らしめるために現れた・・・
きっと、そんな風に考えるかも知れない。

また、あの「金色の輝き」は、後に、「夜の闇で輝くのはヘビの眼だから気をつけろ」という話を聞いたことがあるので、ヘビだったのかも。
だとすると、白ヘビの精が、人間を獲って喰おうと現れたのかも知れない。
くわばら、くわばら


弟妹世界

2012年06月29日 | 兄弟関係

アメリカのあきれるほどの訴訟社会は、良く知られている。
近頃はアメリカ式正義を押しつけられた日本でも、いくぶんそういう傾向が出てきている。

しかし、日本の場合、喧嘩両成敗と言われるように、争いそのものが罪であると考えられてきた。「青洞門」の話など、アニメにして世界に無料で配布してほしいぐらいだ。(ことに、中東や東アジアなど)

これは、仏教と儒教を取り入れ、原産国以上に深化させた日本の文化による。

易経の「訟」では、「終われば凶なり」と説く。
訴え事は、誠意が通じない時に起こすものだから、白黒の決着をつけるものではない。先ずは自分自身を省みて自分の誠意を尽くし、それでも、相手が解ってくれない場合、いわば、防御策としてとる手段だ。

したがって、相手をたたきのめすための手段ではない以上、相手だけではなく、社会のみんなに解ってもらうことによって、波風を治める為のものだ。
最後の上爻では、「例え強引に勝訴しても、衆目が拒否すれば、何の意味もない」と説く。つまり、表面の正義より、社会全体との調和の方が本質だと教えている。

こうした教えが、発祥の地よりもむしろ日本の底流に根付いたのは、島国日本の環境が、喧嘩下手で、ひたすら自省で生きる「一人っ子」の風土だからであり、争いに明け暮れる世界の兄弟達には、理屈は解っても、自省するゆとりが無かったからだろう。

民主主義と訴訟社会
世界の基本は、やはり、弟妹型の原理で動いている。弟妹型とは、民主主義的な多数決の論理であり、みんなが良しとするものが「正しい」ことになる。

誰か偉い人の意向ではなく、直接間接に民衆に選出される、法とその専門家による判断で「合理的に」白黒をつける。
法秩序に対する信頼が、判決に合理性を持たせ、ボタンを押すと、ガチャンと白黒がつくような「便利な」社会が、民主主義の法治社会だ。

これは、いかに合理的であるかが主体で、いかに人道的であるかは忘れられている。

思惑の異なる者の対決を、いかに調和させるかではなく、どちらを排除するかの争い。
自分が正しいと信じ込み、第三者に判断して貰わなければならない両者には、自省や、歩み寄る気持ちは生まれない。

これは、親や長子からガッンと、やられるまで主張し続ける弟妹型の典型であり、アメリカ社会が訴訟から抜けられないのは、やはり、アメリカ文化が、弟妹型であることを表している。

今日の世界情勢の中で、長子型の中国や、長子一人っ子の日本が、協議や裁定の場で、上手く立ち回れないのは、多国間のコンセンサスを読む状況判断ができないからだろう。
この点、弟妹型の南北朝鮮などは、遥かに上手く立ち回っている。

長男中国が長年のクセで、命令を叫びまくるのは、放っておけば良いとして、不器用な一人っ子の日本は、他国と同じように権利を得ようと競っても決して得にならない。

従来通り、一歩引いて、賢くて可愛い人の印象を保ち続けるのが最良の策であり、出かけて行くより、お招きしてお持てなしをする方が、確実に生き残る道だろう。

ただし、ただの「素敵な人」では、いざという時、無視される。
お招きした人を各国のリーダーへ導く人材育成と後見。各国との利害を絡ませた個別の絆など。周到に育てていくことが肝要だ。


蛍の宿は

2012年06月28日 | 話の畑

蛍の季節も、もう終わりだろうか。
今年はどこにも蛍を観に行かなかった。

もう、三十年以上も昔になるが、ちょうど今ごろの季節だったと思う。
パーティーの後、山間の村に帰る人を送って行った。
前年、初めて送って行った時、漆黒の山道に無数の蛍が煌めいて、恒星間飛行をしているような体験をした。

「もう、蛍飛んでる?」と、たずねると、
「たぶん・・・」と、たいして興味が無い様子だった。珍しくもないのだろう。

「スゴい蛍が観られる」と言うと、参加者が2人増えた。
一時間ぐらい走って、国道から脇道に入ると、チラホラと蛍が光り始め、川沿いの道に出ると、夜霧の中がクリスマスのイルミネーションのように煌めいている。

幻想的な霧と光の中を抜けて、家まで送り届けると、再び霧の中に引き返した。

もう一時近くになっていたので、かなり減っているようだったが、それでも、あちこちで光っている。
少し獲って帰ろうと言うので車を駐め、1人を残して、2人、霧の道に降り立った。ライトを落とすと、真っ暗な雲海の中だ。

てんでに、道の端で光る蛍を捕りに行くと、大きな雑木の葉で源氏蛍が息をつくように光ったり消えたりしている。
簡単に捕まるので、ビニール袋に入れながら、ふと、見ると、やけに光が強いやつがいる。

『これはすごいな!』と、上に手を伸ばそうとして、ハタと止まってしまった。光が瞬かない!?
ジッと見据えるのだが、暗い上に深い霧で、蛍の姿がよく見えない。
しかも何か、蛍の柔らかな黄色の光とは違い、金色に輝いているのだ。

そのうち、なぜかワケも無く、不気味になってきたので、
「もう、帰ろう」と声を掛けて、車に乗り込んだ。

発進しようとしていると、助手席でジッとしていた一人が、
しぼり出すような、小さな声で
「あれ、何?」

言われて、窓越しに川の上を見ると、濃い霧の中に、白装束に白髭の、人らしきものが立っている。
何だろうと、目を凝らそうとすると、白い影が、すーっと近づいて来る。
「ギャーッ」と、後ろの席から声が上がったのをきっかけに、闇雲に発進すると、そのまま、5分ぐらい走り続け、街路灯の明かりがあるところまで、バックミラーも見なかった。
背筋が凍り付くとはこのことだ。体中がシビレて汗びっしょりだった。

三人とも、
「こっちに来たあ」と、放心状態になって、言い合った。

あまりのことだったので、翌日、明るいうちに、もう一度行ってみた。
(さすがに、そのままもう一度、引き返す気にはなれなかった)
霧の無い昼間に来てみると、何も存在しない川面の空間だ。
霧の塊がそう見えたのだろうが、それにしても、三人共が「白装束の老人」を見たと認識していたことだけは事実だ。

「霊」を感じるのは、体調のせいだと思っている。
体調が万全ではない時。成長期の子供や病人、健康障害のある人は、そういうものに遭遇しやすい。正常な大人でも、疲労や睡眠不足などで体調が崩れると、「霊体験」に遭遇する。(鏡に

蛍事件の時は、深夜、夏の霧の中で身体も冷えていたのだろう。
体調不全、体温低下などの時は、無自覚の不安感がとりつき、「霊」の世界が近くなる。

一人でPCのディスプレーに向かっていると集中し、いつしか、周囲と隔絶された世界に入り込んでいる。

今は

あなた一人ですか

あなたの後ろの人

誰ですか~


春雷の音

2012年06月27日 | 星の流れに

6月25日から、不幸の土星は天秤座の22゜で順行を始め、天秤座日本の苦難が再会した。日本漁船がロシアに拿捕されたり、台湾船が尖閣沖を航行したり、原発再開や消費税法案など、雲行きが怪しい。

日本の苦難と、民主党政権は奇しくも一致している。
2009年9月30日、民主党圧勝で政権交代が起こった。この時、木星は水瓶座で、日本には吉角であり、水瓶座の総理が誕生し、何か良いことが起こりそうな雰囲気はあったが、雰囲気だけで終わった。
その直後、10月30日に土星が天秤座入りし、翌1月に、木星が水瓶から去ると目も当てられない惨劇が始まった。

しかし、民主党政権誕生時は、土星はまだ乙女座の22゜であり、嵐の前の静けさに、水瓶の木星の陽が差していたが、やはり確実に、胎動は始まっていた。
今、天秤座の22゜で、日本は土星3年間の最終章が始まっているが、同時に、サソリ座への胎動も始まっている。

まもなくサソリに土星が移るが、天秤座の時ほどひどくない。天王星に揺さぶられているわけでも無いし、海王星や冥王星から目に見えない支援がある上、途中からカニ座の木星で大いに助けられる。
サソリ座は朝鮮半島だが、銀行やエネルギー、マンガや玩具、風俗産業、暴力団なども意味する。

土星は不幸の星だが、宗教や哲学の星でもある。
冬が無ければ春は来ない。寒さが蕾を開かせる。人間も試練があってこそ気づきがあり、哲学が芽生える。
日本企業は円高で再び体質強化したし、日本人は原発と政治の現実を知った。

7月3日、火星が天秤座に入り、短期的にではあるが、日本は言うに及ばず、再び世界中が混乱に巻き込まれる。木星の角度は悪くないから、せいぜいオリンピックの熱狂程度で終わって欲しいが、それだけでは済まないだろう。

この夏、まだ日本に春は来ないが、土星の冬が去れば、至る所で「サクラ」が咲き始める。

はーるよ来い


哀の賛歌

2012年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

懐メロと感じる歌は自分の親時代の歌だ。(港の上海
親の青春時代の歌は、潜在意識にある自分の「前世」のようなもので、確かに「どこかで聞いた懐かしさ」がある。
しかし、自分の青春時代に、ノスタルジーを感じる人はいない。
思い出ではあっても、ノスタルジアでは無い。

ノスタルジアは「郷愁」と訳されている。文字通り、故郷を懐かしく思う感情であり、それも、もう帰れない故郷のような、どちらかと言えば、少し悲しい。もっと言えば、「悲」しいより「哀」しいの方だ。
悲しみは、直接自分の感情だが、哀しみは、他者への思いやりの感情だ。
自分の昔は、自分の記憶の中に存在するが、「郷愁」の故郷は、確かに存在しながら、現実にも記憶にも無い、直接知らない他所だ。

自分が生まれる前や、定かな認識の無い幼児期に存在した時代であり、親や世の中を通して、「確かにあった」ことを否定できないが、体験することができない故郷であり、しかも、ぬぐいがたい自分の一部だ。

自分の体験していないものに「懐かしい」と思う気持ちは、知識や想像力によるのであり、幻の故郷への想いだ。
記憶も定かでは無いものに持つ気持ちは、それに関わる写真や歌で、揺り動かされる。特に歌は、あいまいな「感情」を直接刺激する。

諸々の人生
懐メロ番組は、年寄りのための青春歌として放送されるが、歴史番組であってこそ意味がある。(視聴率が稼げる)
一くくりに懐メロと言っても、実は、同世代の歌は少ない。5年ズレると、自分の歌ではなくなる。

にもかかわらず、それなりに視聴者がいるのは、ただ単に、懐かしいから聴いているのではないはずだ。
むしろ、どこかで聴いたような歌を、ある種の歴史物語のような興味で聴いている。
また、往年の歌手などが出て来ると、同世代の視聴者は「老けたなあ」とか「歌い方を変えたな」とか、同窓会のように楽しむが、これは決してノスタルジーでは無い。

自分の親世代の歌を聴く時、想像力の無い人は「こんなジジイの歌なんか止めろよ」と、思うだろうが、情緒のある人は、親の青春を想像しながら聴く。
しかし、自分の青春時代の歌は記憶が生々しすぎて、想像の余地は無い・・・

そう思っていたのだが、歳を取ったせいで、思いがけない発見をした。
もう既にベテランになった歌手が、次々とカバー曲を歌い、しかもそれが、年寄りにとっては、生々しい青春時代の歌なのだ。
自分の時代が、カバー曲となって、ノスタルジアになっている。

自分の時代が、歴史上の想像の対象になることによって、自分をも含めて、どの時代にも有り得た人生として相対化され、体験を客観的に感じることができるのだ。

理屈では解っていることなのだが、時代というものは、決して誰も見ることができない。
現役には客観性がなく、逆に、時が異なれば、想像や思い込みでしか見ることができない。

喜びも悲しみも抱えて生きる一人一人の人生を、人は誰も、共有し体験することはできない。例え同じ時代に生きていても、違う時代の人生への思いと同じで、本当のことは知ることはできない。
しかし、違う時代への思いやりを持てる想像力や情緒のある人のみが、隣人を思いやることができる人なのではなかろうか。


しょせん

2012年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカのアジア人比率が上がり、しかも、アジア人は進学熱心なので、社会の上層に占める比率が高いそうだ。
しかし、それでいながらアジア人自身は、指導層には上がれないと不満を持っているらしい。

アジア人とアメリカ人の学歴意識は、表面上かなり似ているが、根本が全く違う。
今やアメリカは学歴社会だ。先日も米ヤフーのトンプソンCEOが学歴詐称で辞任した。あると言った学歴が無かったことは、アメリカ人の正義感、不正に対する嫌悪感を刺激したこともあるが、学歴が職域にふさわしくないとされたことも大きな理由だ。

アメリカ人の学位に対するこだわりは、開拓の国アメリカのイメージからはほど遠く、不思議なくらいだ。

一方、アジア人が勉強熱心で、進学にこだわるのも、一見似ているように思える。しかし、両者には文化背景に大きな違いがある。

アジア人の勉強熱心は、中国の科挙制度の影響であり、「合格」は実力の証明より、階級アップの証明ととらえられる。
古代から続くタテ型のアジア社会では、唯一の階級離脱の方法として、科挙の合格があり、個人の出世と言うより、一族の命運がかっている。

だから、科挙の合格者を出すことは一族の誇りであり、同時に利権の獲得でもある。この意識があるから、中国や朝鮮では、誰かが出世すると必ず寄って「たかって」甘い汁を吸おうとする。これが、アジアで賄賂や汚職が断てない理由だ。日本も完全に断てたとはいえない。

この意識が、アメリカに行ってもアジア人が進学に熱心な理由だが、これに影響されたのか、アメリカも学歴社会になった。
だが、アメリカの場合、学歴は直接的に社会のステータスをあげるものではない。

科挙は指導層に入る試験だが、(今のところ)タテ社会ではないアメリカは、進学と学位は階級に直結しない。学位は資格のようなもので、実際の出世には実力(現実対応能力)も必要になる。
第一、それによって一族郎党が利権を得られる社会構造ではない。

ゆく河の流れは絶えずして
しかし、アジア系がこのまま増え続け、社会の上層部をアジア系がしめるようになり、貧困層が固定化すると、アメリカの価値観もタテ型に変化しないとは限らない。人類史を俯瞰すると、平等より動物的な階級に流れやすい。しかも動物のような力ずくではなく、「知的に」システム化される。

また、アジア的氏族(民族)意識を持った集団は、自由であればなおさら自分たちのテリトリー(タウン)を作り、坩堝のアメリカを再びモザイクに返し、しかも権益を争うようになるだろう。

その結果、集団同士が相容れない社会での平等のため、再び、科挙のような「機会均等な出世」を必要とするようになる。
すると、アメリカが中国化し、中国に混乱が起きれば、むしろ中国がアメリカ化しないとも限らない。

アメリカは中国化というより、むしろ日本化だろうが、人類が生き続ける限り、そう大きな変化が起こるとは思えない。歴史は同じではないが、やはり繰り返す。「また、もとの水にあらず」だ。
もし、人類の歴史が大きく変わるとすれば、生物としての生食と生殖をやめてからだろう。(生食とは命を奪って生きること)


超小型車

2012年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

国土交通省の肝いりで、「超小型車」が、いよいよ実現することになってきた。昔から、夢見ていたことなので、嬉しい
しかし、内容を見ていると、どうもおかしい。
むしろ、夢が壊れそうな話だ。

最大の問題は、基本的な交通政策をそのままにして、そのすき間に挟み込む形で、「高齢者専用」の乗物に特化していることだ。

高齢者が近所に買い物に行くためだから、低スピード、高速道路不可、電気のみ・・・と、シニアカーに毛が生えた程度の規格だ。

超小型車は弱者用の代用車と決め込んでいるから、「公道の邪魔者」のような中途半端な物しか生まれない。このまま世に送り出せば、単なる邪魔者として、必ず失敗して消えてしまう。つまりは、可能性まで奪ってしまうことになる。

高齢者がゆっくり走るのは高齢者が勝手に判断することだ。
小さいから街中専用と考えること自体、想像の貧困だ。
役人が音頭を取れば、何でもこうなってしまう典型例だろう。

小さいから危険だというのなら、バイクをどう説明するのだ。
中・大型は高速も走れて、スピードも出る。だが、シートベルトも付けることができない。
この、バイクだってゆっくり走れば高齢者も乗れる。

超小型自動車は、バイクの四輪車だと考えたら良い。
どう乗るかは、ユーザーが判断するのであり、それに合わせてメーカが売れる物をつくる。

役人は政治家と共に、国のヴィジョンに基づいた交通行政に合わせて、最低限の規制だけ考えていれば良い。
日本は、アメリカのように車で、「どこまーでも行こう」を前提にした交通行政がふさわしいのだろうか。先ず、そのことが先決だ。

車で大きく動くことが前提になっているから、すき間を走る超小型車が必要だの発想になる。

色々、親切な提案は嬉しいが、国民を指導するのではなく、国民の生活経済の発展をお手伝いするのが仕事だろう。
もちろん、同じように、お節介な「思いやり」で、がんじがらめの規制を掛けることも止めて欲しい。

超小型車の普及には、バイク並の走りができることが絶対条件だ。
日本企業の製品が売れないのは、客のニーズも聞かずに、勝手な思い込みで、ゴテゴテ付けた製品を作るからだが、政治行政にも同じことが言えるようだ。


白か黒か

2012年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

原発は、またも日本のお家芸、「なし崩し」で再稼働する。
原発には一貫して反対だが、現状の日本は原発ゼロではやれない。
何でもかんでも、ヒステリックに反対するのは反対だ。
感情的な対応は、得るものより失うものの方が大きい。

何ごとにおいても、日本人は是と非だけで考える。
昔から言われることだが、「ベター」の発想がない。
「一か八か」「ダメならいっそのこと」・・・と、現実的に得ることより、気持ちの上の100%を求める。

30%得られるとしても、「これっぽっち」なら、貰わない方がましだ、「要らない!」と突っぱね、「武士は食わねど高楊枝」と、餓死する方が美しいと考える。

「美しい日本」を、政治目標に掲げた人もいたが、日本人の考える美しさとは、こうした完璧主義だ。もとより、美しさとは精神的な問題だから、美しさを目標にすることは、実利を無視した精神主義だ。

日本人が精神主義に走りやすいのは、やはり、何と言っても、他者に冒されることのない、平和な島国で暮らしてきたからだろう。
自分一人が、ガマンや工夫をすれば、どうにかなってきた。完璧を目指して努力していれば、他人に妨げられることのない、一人っ子だったからだ。

精神を大切にすることは悪いことではない。(日系人)
しかし、他人同士の100%の思いがぶつかり合う「取引」や「駆け引き」は、一方が100%を通せば、一方は滅びる。
共に生き残るには、妥協こそが智恵であり、ガマンがあってこそ、次の可能性が開けてくる。

妥協による可能性とは、後のリベンジのことではない。両者の共存による、新しい考え方、生き方の創造が生まれるチャンスのことだ。
一方が滅びるような完璧は、えてして偏狭や思い込みであり、異質が共存する中で、想像もしなかった新しい世界が見えるようになる。

白黒決着は智恵を放棄すること
入試や就職が、これだけ社会問題化する日本は、「美しい日本」の文化に毒されている。合格の白黒決着こそが、有終の美だと思われる。

だから、入り口突破だけを考え、そこを突破すると、目的喪失で何もしなくなってしまう。
合格すれば大学生は勉強しないし、就職すれば、昔の企業は教育しなおし、今の新入社員はすぐ辞めてしまう。
就職や入試が最終目的だから、とにかく、そこから先が白紙になる。

入試や就職は完成ではなく、目的のプロセスに過ぎないことが理解できない。学問も仕事も、本気なら、多様な方法がある。

日本人は、交渉も、100%実現の「合格」だけしか考えない。
北方領土問題にせよ、四島一括しか答えが無いから何も始まらない。
原発反対が、結局、ズルズルと押し切られていくのは、「絶対反対」「即時停止」しか、頭にないからであり、100%を求めたせめぎ合いは、結局、力のある方が「なし崩し」で100%を得ることになる。

本当に原発を止めたいなら、智恵のある駆け引きをすべきだ。
今、稼働することは現実的にやむを得ないことを認め、交換条件として、確実な停止につながるルール設定を認めさせることだ。
譲ってこそ得るものがある。

売り場で「これじゃなきゃイヤだぁ!」と、ひっくり返ってみたところで、主権を握っている親は、行ってしまう。そして、買ってもらう約束もできない上に、二度と連れて来てもらえないかも知れない。

昨日まで、欲しがってもいなかった物を、店先で見た途端、泣き叫んで欲しがるのは、子供だ。
そう言えば、子供は「前から欲しかったんだモン」と、言うだろうが。


デルフォイ

2012年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

その村は、昔から喧嘩ばかりしていた。
村から出て行った若者が、遠くの町で大成功したと聞いて、村の有志が集まり、
「オレらも、いがみ合ってねえで、村が発展することを考えよう」
という話になった。

今までのような田畑の境界争いは止めて、村で一つの農業会社を経営しようと、村中の家に声を掛けた。

土地を会社に提供し、もとの土地を、自分の責任で耕して、応分の報酬を貰う。そうすれば、出来の良し悪しにかかわらず互いに助け合うことができる。

素晴らしい考えだと誰もが思った。
だが、いざ土地を提供するとなると、
「おら、ダマされねえぞ」と、言い出す家やら、
「おらんちは、そんなものに参加しなくても、困ってねえ」と、相手にしない家やら、簡単にはまとまらなかった。

それでも苦労して、どうにか話がまとまると、ろくな畑もない村外れの家まで、
「オレだって、同じ村の人間だべ」と、参加したがるまでになった。

予想外の希望者の多さに、メンバーの中には、
「おい、大丈夫か?何でも多けりゃええってもんでもねえぞ」と、いぶかる者もいたが、「おらが村」が、初めて一つになる思いで、ようやく農業会社はスタートすることになった。

事業を始めるに当たって、作付け資金を同じ割合で配分することにしたが、もともと富農だった家は持ち出しになり、面白くはなかったが、会社を成功させるためには仕方が無いとガマンして出した。

村外れの爺さんはヨイヨイで、石ころだらけの土地しか無かったが、昔は聡明で、今の村を築いた最大の功労者だったし、慕われてもいたので、いぶかる家もあったが、農業会社の一員になった。

ところが、いざ農作業が始まると、爺さんは全く働けない。
リュウマチ、腰痛、神経痛と、肝心な時になると動けない。
動けなくなるたびに、「いいよ、いいよ」と、村人が爺さんに替わって土地を引き受けたので、爺さんは作付け資金を返しもせず、毎日、酒を飲んで暮らしていた。

爺さんの土地を引き受けた家は、耕作地は大きくなったものの、石ころだらけの爺さんの土地は使い物にならなかった。それどころか、反って自分の土地まで耕す間が無くなってしまった。

刈り入れの時が来ると、どの家も収穫が激減していた。
慌てた村人が、爺さんに少しでも働いて貰おうとするが、
「無理なもんは、無理じゃ」と、平気な顔をしている。

それじゃあと、作付け資金を返して貰おうとすると
「お前らは、寄ってたかって年寄りをイジメるんか!わかった、ワシが死んだらこの借金は全部お前らが払ったらええんじゃ!」と、
昔、石ころだらけの土地で借りた、とんでもない借金を出してきた。

そして、そう言うなり、心臓発作を起こして倒れ込んでしまった。
爺さんに、今死なれたら、いきなり大借金を肩代わりしなければならなくなった村人は、爺さんの病状を、息を凝らして見守っている。

すると、遠くの町から村人に金を貸していた金貸しまで、我が身に及ぶ貸し倒れに青くなって、爺さんの病状が心配で心配で、これも心臓が止まりそうだ。
誰もが気にもしなかった100才爺さんが、今や、話題の中心だ。

17日の、ギリシャのやり直し選挙が、世界の命運を握っている。
デルフォイの神託は、世界で最も霊験あらたかである。


ベクトル

2012年06月14日 | 星の流れに

自衛隊の街頭訓練があった。42年ぶりだという。
震災出動による自衛隊支持90%以上のムードの中で、これが可能になった。
占いの視点からは、42年ぶりという点が非常に興味深い。

30年周期で天秤座の日本に土星が来るたびに、日本は軍事環境を変えてきたことは繰り返し述べている。(運命の星1
朝鮮戦争以来、三度目の土星で、国民の認知を得て完全な軍隊になる。
自衛官出身の防衛大臣まで登場。 ホップ、ステップ、ジャンプ

土星の天秤座到来と、42年ぶりの市街訓練とが一致していることに、運命周期の恐ろしさを感じる。土星と天王星、二つの周期の交差だ。
42年前と言えば、70年安保更新の年で、この時からさらに42年遡れば、1928年で昭和3年、張作霖爆殺事件の年だ。

満州国建設を目論む関東軍が引き起こした事件は、軍部暴走の契機とも言える。つまり今年は、その84年周期の始まりの年に当たる。

もちろん時代も背景も違うから、同じ事は起こらない。
しかし、今、世界を動かすベクトルは、確実に似たような様相を呈している。

軍事問題とは限らない。中国大陸を巡る世界の思惑が、経済面で渦巻く様は、まるで往時の、軍事支援で権益を狙う諸外国のように、企業と国家による、熾烈な駆け引きが展開している。


I Wanna Be

2012年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム

日本在住の中国留学生のブログで、恋人同士の割り勘は、みっともないと書いていた。日本のバブル世代も同じ意見だろう。

彼女の考えでは、食事など男が当然払うもので、近頃は収入に男女差が無いから、やむを得ないとしても、それなら、人前では男が払って後で精算すれば良い、結婚できないのも男気がないせいだ、とまで言っていた。

これは、大きな勘違いだ。
中国人や、バブル世代以前の人が、男が払うと考えるのが間違いというわけではない。世界的にも、奢ったり奢られたりするのが主流で、男が女に奢るのは当然だ。日本でも昔はそうだった。

では、なぜ、日本の若い世代は割り勘にするのか。これには二つの理由がある。
一つは、確かに、収入の男女差が無くなり、男が必ず奢るものだとすれば、デートの回数が半分になるか、恋愛成就までに男が逝ってしまう。
もう一つの理由は、日本が先進国中の先進国だからだ。

女護ヶ島
世界のイメージでは、日本は男尊女卑で、女は奴隷のように男に奉仕していると思われている。しかし、実際の日本の伝統は、女に支えられ牛耳られている母系社会だ。

アメリカナイズされる過程で、男性社会のアメリカ人が理想とした「人権における性の平等」を、アッサリ実現してしまった。少なくとも、アメリカより女の力が強い。これは、日本の女が「守られる存在」ではなかったからだ。むしろ、始めから「おふくろさん」の国だった。

「東男に京女」の図式は、「アメリカ男に日本女」と置き換えることができるだろう。芯の強さが魅力の京女は、「男はん、男はん」と立てながら実権を握る、「委せて安心」なマネージャーだ。
よそ者が見ると、何でも男の言う通りで、ひたすら奉仕しているように見えるが、しっかり男を掌握して、思いのままに操る。

島国の母系社会に、大陸から来た男尊女卑を1500年掛けて融合させた日本は、表面とは裏腹に、一貫して男と女の意識の差は無かった。
一方、これと比べれば、大陸や欧米は意識の根底が男尊女卑だった。

中国は、倭は男女が共に飲食をする蛮族だと蔑視したし、アメリカは「女は男のあばら骨から作られた」とするキリスト教徒の建てた国だ。いかに男女平等の形を試みても、根底的な平等感覚はそう簡単には得られない。平等ではないからこそ、「女性の権利」が必要になる。

I Wanna Be
男が女に奢るべきなのは、男が女より、力、権力、金と、有利だからであり、女が、男の所有物に過ぎないならば当然のことだ。
男尊女卑社会での男の能力は、家畜やペットを飼育できる能力であり、それを甲斐性と呼ぶ。

今、日本の若い世代の男が、割り勘にするのは、そういう意味の甲斐性を失っていることもあるが、それ以上に、世界の先進国のどこにもないぐらい、男女平等意識を持ち、女を尊重しているからだろう。

男女の割り勘をみっともないと感じるのは、人権を理解できない男尊女卑の価値観であり、男が払うべきと思う女の人は、家畜やペットになることが理想なのだろう。


風が吹く

2012年06月12日 | 星の流れに

今日から木星が双子座入りした。
双子座と180゜で、相手に振り回される関係にある射手座スペインは、既に、欧州からの半強制的支援を受け入れることにした。
一方、双子座のアメリカは、自ら状況改善を図ろうとするだろう。

惑星の動きは、それぞれの国にどう影響するのか。
先ず、射手のスペインと双子のアメリカは、未だに、乙女座の火星と魚座の海王星に羽交い締めにされており、すぐには解放されないが、6月25日の土星順行や、7月3日の火星天秤座でかなり解放される。
天秤座の日本にとっては、それが試練の追い打ちになるが、双子座の木星は、努力次第でチャンスに変えてくれる。

外交面でのチャンス
日本、ロシア、アメリカは、相互に風の星座の吉角であり、過剰な期待をしなければ、本来、良い友達になれる関係だ。
天秤から見て水瓶ロシアは第5室で恋人。双子アメリカは第9室で先生。また、アメリカからロシアは先生で、ロシアからアメリカは恋人。

先生の意味は、そこに至りたい遥かな憧れを指す。
日本は黒船以来アメリカに学び、ロシアは東方を目指し、アメリカは意外にもロシア好きだ。(ロシアが舞台の映画も多い)

恋人の意味は、子供や投機も表し、夢や可能性の対象だ。。
日本はシベリアに資源や開拓の夢を見たり、ロシア民謡がブームになったりするし、アメリカは日本に過剰な期待をしたり、フジヤマ芸者や日本料理を宣伝してくれた。同じようにロシアはアメリカ音楽に影響される。

双子座に木星が来て、風の星座に風が吹き始めた
プーチン再選で、ロシアは活発な外交に動き始めている。
アメリカは既に対中政策を変え、大統領選を控えて経済対策を打たなければならない。
日本は苦難からの脱出をしなければならない。

覇権を狙う中国や、先進国古老EUのぐらつきに、一丸となって対処しなければならない時が来ている。
いまこそ、日米露が連携して危機に当たる時であり、それがまた、日本にとってのチャンスになる。

ロシアを嫌わず、アメリカに頼り過ぎず、何が日本にとって世界にとって必要なのか、大局に立った判断と妥協をしなければならないだろう。

ここでは具体的なことを書くゆとりは無いが、すべてに於いて、少なくとも「引き分け」なら上首尾と腹をくくって当たる必要があり、それができれば、日本の道は開けるだろう。できればだが。


死仏生仏

2012年06月11日 | 兄弟関係

両親が高齢離婚して、独居した父親が同じ町で病死したが、離婚した母親同様、闘病中も死ぬまで一切関わらなかった三兄弟の長男が、仏壇位牌を持ち帰って、墓守をすることにした。

父親と特に不仲だったわけでもないのに、近くに居ながら、闘病中に死ぬまで病院に顔を出さなかったのは、母親に同調して嫌ってか、遠慮してのことだろう。
30才を過ぎても、親に言いくるめられている例は少なくない。
自分が実際に体験したわけでもないのに、親の言い分を真に受けるのは、反日教育と同じ事だ。

大人になって自分の判断力を持った人なら、親がどう言おうと、客観的事実を考える。
反日の中国でも、政府の言い分を信用していない人は少なくない。(韓国の場合、政府批判は、北の立場に替わるだけだから、反日への疑問は起こらない)

兄弟関係で言えば、長子の方が弟妹より客観的だが、国家でも中韓のような差になって現れるのは面白い。
中国人が政府の立場通りの反日ではないからと言って、愛国心が無いわけではないように、親の言い分を信じなくても、親を愛する気持ちが失われるわけではない。

親でも国でも友達でも、あるいは恋人でも、相手を本当に愛することは、その人(の言い分)を信じることではない。
冷静に客観的に見ながらも、その人の為になることを考えることだ。

糖分を摂り過ぎてはいけない人が、「ケーキを食べさせてくれないのか」と怒っても与えないのが愛情であり、同じ人が死にかけて欲しがっているなら、与えるのも愛情だ。その判断ができるのが大人の判断力というものだ。

敬虔な墓守
冒頭の長男が、なぜ、実父のいまわの際まで会いに行かなかったのか分からない。そんなことも無いとは思うが、実父が望まなかったのかも知れない。
事情は分からないが、最後まで会いに行かなかった父方の、位牌や墓の面倒を見ようという話は、一面の理屈だが、大局を見失っている。

兄弟そろって母に従い、父に会わなかったが、弟達とは違い、「長男」の意識があったのだろう。
大家族時代の家系を守る責任意識が、誰もが拒否する、父方の墓守をしなければならないと思わせたのだろう。そこまでは一面の理屈だ。

しかし、家系を守る責任者(今はそんなものは無いのだが)であるならば、どういう事情であれ、父の看取りをするのも責任のうちだ。
看取りは父の親族にまかせて、祭祀権だけ行使するのは、責任意識では無く自我意識だ。

父は三男で、祭祀権者でもなく、墓も位牌も生前、自分で建てたものであり、それを守ることは、一族の家系を守ることではなく、父に始まる家系を守ることになる。
父の家系を守るなら、父を生前から守るべきではないか。母の言い分に従いながら、死んでから守ろうとするのは、自分のルーツだけしか関心が無いわけであり、究極の自己中だ。

ここで言いたいのは、墓を誰が守るかとか、親孝行をすべきだという話ではない。
形骸化した家系や葬儀にとらわれて、人間としての判断力を失うのでは情けないという話だ。

世の中には、葬儀や墓参りには熱心だが、仏の生前には一切関心が無かったり、争っていたりする例は少なくない。
歴史的にも日本の場合、政権を取った側が、滅ぼした亡霊に恨まれないように、神社を建てたり、厚く供養する。

墓参りに熱心な人は、あたかも仏を敬愛しているように見えるが、実は、そうしないではいられない事情を抱えた、自己中の表れかも知れない。
人への敬慕は生きている時にこそ意味がある。
死に仏より生き仏


新天動説

2012年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

ニュートリノが光より早く飛ぶという、相対性理論に反する測定結果が、測定ミスと発表された。
物理学の根底が揺るがされる大事件は、これにて一件落着。
世界の科学者はガッカリしながらも安堵したようだ。

こんな難しい話はさっぱり解らない。
解らないから、ゲスの勘ぐりが湧いてくる。 『もしかして?』

ギリシャ時代、地動説が無かったわけでもないのに、その後のプトレマイオスによる天動説体系が、あまりにも完璧なため、宗教観とも結びつき、千年以上にわたって覆されることが無かった。
この絶対常識を覆すために、コペルニクスや、ガリレオがどれだけ苦労したかは、小学生でも知っている歴史だ。

千年もの間、人間がバカだったわけではない。天動説に疑いを持った人も多くいただろうが、宗教的な願望や思い込みには勝てなかった。学者も生まれつき宗教世界の中にいた時代だ。

結局、天動説を覆したのは、観測機器の進歩であり、思い込みの論理を覆したのは観測による「事実」だった。しかし、事実さえあれば簡単に思い込みが覆せるわけでもないことは、逆に、ガリレオが証明した。

科学史における、17世紀のガリレオ維新から、観測と実験の時代になった。科学のもたらした、この400年の人類の躍進は、それ以前の世界を、あたかも闇の原始時代のようにしてしまった。

原始時代から
農業で豊になった人類は、知識、技術が飽和状態になった2500年前から、四大聖人が現れ、その後の2000年を支配する哲学が生まれた。
この間、戦争と交易で得た知識と技術が、400年前頃から視野の拡大と世界観の変化をもたらし、体験も、生き方も、価値観も変えた。
さらに、アインシュタイン以降は、人類の存在理由さえ解らないくらいの世界に突入した。

今、もしかすると人類は、相対性理論による世界観のもと、新しい宗教の世界に入ろうとしているのではなかろうか。
プトレマイオスの天動説のように、アインシュタインの相対性理論が人類を精神的な安寧に閉じ込め、あらゆるものが、認識の破壊より裏付けを求める。

どちらとも言えないような与件を見れば、無意識のうちに、破壊的な情報を排除しようとする。もちろん、データを積み重ね論理的に検証していく過程に於いて、小さな一つ一つのデータの選択の中でそれはおこる。

今回、ニュートリノが光より早いという測定結果は、光ケーブル接続部の1.5ミリの緩みという犯人が見つかり、間違いであったと決着した。おそらく、次からは何度やっても相対性理論に反する結果は出ないだろう。例え出たとしても、また、何らかの原因が必ず発見される。
そして、期待されない結果は出るたびに、信用を失うようになる。

プトレマイオスの説は決してデタラメでは無かったために、それを覆す技術が現れるまでには、1500年かかった。そして、その間、人類は天動説だからといって、何も困らなかった。


傾国美女

2012年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は天安門事件から23年目だが、
中華圏では、チャン・ツィイーが売春していたと大騒ぎらしい。
事の次第は良く知らないが、いかにも中華圏らしいスキャンダルで、6分4分で、ありそうなことだ。いや、7分3分くらいかも知れない。

チャン・ツィイーは、自動車人間では強力なガソリンタイプで、世間の常識にこだわらない。その上、水瓶座で、因習的な性から最も遠い。

生命活動の根源である性は、古今東西、所有の争奪や嫉妬、あらゆる欲望の絡んだ因習にがんじがらめになっている。そしてまた多くの人が、その因習に囚われた目から、興奮や満足を得ている。
禁を犯す興奮や、あるべき姿の完成による満足など、性を因習にからめて感じている。

ところが、水瓶座の性は、多くの人が、原始的な因習の中でうごめいているのに対し、人間の営みの「有り様」そのものを求める。
性にこだわりが無いのは、射手座と水瓶座だが、射手座がまだ動物としての好奇心で相手を求めるのに対し、水瓶座は、もはや次元の違う高みから、人間そのものに好奇心を持っている。

水瓶座以外の人にはよく解らないことだが、例えば、動物の観察者が、動物を愛するあまり、自分もその動物になったようなつもりで、参加するようなものだ。観察者は動物以上に動物の性に詳しい。
次の星座の魚座で、同性愛などが多いのは、水瓶座の好奇心が本気になったものと言える。(天王星・魚座時代に同性愛が普及した)

チャン・ツィイーの場合、セックスを表す火星が水瓶座で太陽と同化しており、この傾向はさらに強い。性は学術的知識と好奇心そのもので、恥や畏れとは一切関係ない。

中華メルヘン
中国の古典に出て来る男女の話は、直接的でアッサリしているかと思えば、やたらテクニカルな話題で、何か現実味に欠ける。
ギリシャ神話で女神の太ももに精液を掛けたとか、日本の神話にも通じるような具体的な感覚とは感性が違う。メルヘンチックなのだ。

チャン・ツィイーに売春話があったとしても、もちろん本人から始まったことではないだろう。何しろ1回、1億円と言うから、それを望んだ男達にとって、目的は肉体的衝動では無い。中国人としてのステータスの確認だろう。江戸の花魁(傾城)を求めた男達と同じ心境だ。

金や権力で欲望を満たすだけなら、韓流スキャンダルや、どこかのテレビ局の職員のように、安直に目的を果たせる。
チャン・ツィイーを求めた人達は、普通の人では上れぬ世界に達したかったのだ。

中国人は、「仙郷」のようなメルヘンの世界を夢見る傾向があるようだ。現実離れした物があると考え、それがあれば、仙人のような次元に至れるという神話に弱い。何ごとにも、ちょっとした事で完璧世界を夢見てしまう。

中国人の極端な一辺倒は、武術で近代列強を打ち破れると考えた義和団の乱や、ドイツ製の戦艦「定遠」で、強国になったと思い込んだことなどにも見られるし、日本人は優秀だと残留孤児を育てたり、日本が極端に先進国だと思ったり、その逆に、南京事件や反日のような思い込みも簡単に起こる。
今また、海洋進出が当然のように振る舞うのも、こうしたメルヘン思考の表れの一つだろう。

中国人のメルヘン思考は、むしろ、中国人が極めて現実的だから起こることだ。現実的が高じると超現実になる。
見たまんまの現実を100%と考えると、一つ間違えば、逆の現実が100%になる。中間が無いと言うことは、現実思考ゆえに、反って全体像(現実)を見失うことになる。(大陸

チャン・ツィイーという「最上級の女」にステイタスを夢見る成功者。性より権力や名誉という人間社会に興味がある水瓶座。
世の中とは、どうせそういうもの(金)だと思っている庶民。

それらの中国的常識と思いが渦巻いて起こっているスキャンダルであり、例えば、アメリカでは、金、権力、有名女優という設定自体に庶民が興味を示さないだろう。金がらみはあり得ないと思うからだ。
マリリン・モンローやモニカ・ルインスキーの例も売春ではない。

売春スキャンダルは、事実かどうかより、中国のいびつな金権発展の象徴だ。