魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

火地風水

2012年10月30日 | 占いばなし

天秤座は、「何となく運の良い星座」だと言われている。
愛の金星に守られているからだ。もう一つの理由は、黄道十二宮のスタートの牡羊座から目指す、180度のピークの位置だからでもある。

天秤座は結婚を表すが、人が生まれて目標とするのは、やはり結婚なのだろうか。
一人の人間が完成すれば、次の世代を残せるようになるから、到達点の結婚により、複数の人生が始まる。

「結婚は人生の墓場」とは、複数の人生の始まりは、一人の人間にとっての死と言うことだろう。
つまり、絶好調の時に、次の苦労が始まるわけだが、何はともあれ、最高潮だから、何となく「運が良い」印象を生む。

天秤座は、外から見ればヘラヘラと「運の良い奴」と思われやすい。
金星で世界から愛される日本は、カニ座の中国やサソリ座の朝鮮半島から見れば、苦労もせずに「運の良い奴だ」と思われる。

宝くじに当たった奴は、分け前を出すのは当然だと信じる人がいる。
宝くじに当たっても、分け前を出す義務はないのだが、どういうワケか、これを当然と考える人がおり、くすねても、何の罪悪感もない。

歴史問題は口実だ
もともと、カニ座は親の保護下の幼児期を表す。可愛がられるのが当然だと思っているから、人生は大変な苦労だと受け止める。
だから、他人に、人生は甘くないと口うるさく指導しようとするし、他人が上手く行くと(そんなハズは無い)「けしからん」と思う。

一方、サソリ座は相続を表し、受け継ぐ(貰う)ことが人生だ。
だから、有力者に従うことを重視し、貰えることを当然と考える。
他に同じ条件で貰えそうな人が現れると死活問題と焦る。(嫉妬)
また、与えてくれる先達が死ななければ貰えないので、恩人であるハズの人を潜在的に恨み敵視する。
(姑や師匠のために苦労したと言う)
韓国の、中日米に対する反感は、それを最も頼ってきたからだ。

今日の日本があるのは、宝くじが当たったわけではない。隔離された島国という多少の幸運はあるが、営々と努力を重ねてきた結果だ。
もとより、日本は、中韓の指導者でも保護者でも無い。
ただ、天秤座の悪い癖は、「無い袖を振る」ことだ。金が無くても人に貸したり、イヤなことをハッキリ「イヤ」と言えない八方美人だ。

お体裁屋の天秤座、日本が苦労の無さそうな顔をしていると、
カニやサソリが、羽振り良しと見て、あらゆる関わりを口実に、「分け前を出すのは当然だろう」と、日本に因縁を付けて強請する。
歴史問題が無いとは言わないが、この態度は明らかに因縁だ。

強請だけなら我慢できるのだが、わざわざ後足で砂を掛ける。
出どころがハッキリしているものは、スネに傷があるから、元々自分の物だと言わなければ居られないのだ。

カニ座やサソリ座の、情の水の星座は、理性の風の星座である天秤座の日本が最も苦手とする星座で、同じく風のアメリカやロシアとは原理が違うし、欧州などの火の星座とも違う。
ところが面白いことに、この苦手の星座とは必ず隣り合っている。どこか似たもの同士であり、縁が深いのだ。

人間は精神だけでは生きられない。毎日食べて出す面倒な肉体があってこそ精神が生まれる。精神があってこそ肉体を維持できる。
上手く付き合う方が互いのためなのだ。

ところで、
「何となく運の良い星座」天秤座の日本は、戦争に負けて繁栄を築いたように、この対中葛藤も、怪我の功名で、どうもプラスになりそうだ。
日本が対中投資を控えざるを得ない状況は、世界の戦場から早々に離れて大崩壊を逃れ、より安全な世界に、離脱できるのかもしれない。
リーマンショックの時も、バブル崩壊で投資ができなかった日本は、被害を免れた。
関ヶ原のような混戦の戦場では、武力温存こそが勝者になる。


親不孝者

2012年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

「日本海側にもメタンハイドレートを発見
良いニュースなのかなあ???

学者は、自分の手柄を発表したいだろうし、資源の無い日本が、足下を見られて燃料を高く売りつけられている状況では、対抗カードになるのかも知れない。
だが、中国が尖閣に色気を出したのは、埋蔵石油発見のニュースからだったし、メタンハイドレートは、竹島周辺にもあるそうだ。
また、また、事態が複雑化する。

それだけではない。石油高騰の苦し紛れに、食物からエタノールを造っていたアメリカは、オイルシェールをメインエネルギーに据えて、「シェール革命」だと囃し立てている。
確かにこれで、エネルギーによる世界のパワーバランスは変わるかも知れない。しかし、環境問題はさらに悪化する。

オイルシェールにしろ、メタンハイドレートにしろ、「燃やす」かぎり、排ガスは増える。もちろん、原発はあの通りだ。
人類が太陽系を離れる時には、原子力のようなエネルギーは必ず必要になるが、今日も、そして、おそらく人類滅亡の時までも、人類がこうして暮らしていられるのは太陽のお陰だ。

無尽蔵のエネルギー源である太陽こそ、人類が頼るべき母だ。
海を前にしての水問題。太陽の下でのエネルギー問題。
人類は、なんと親不孝者なのだろう。

親が与える食事を摂ろうとせず、お菓子ばかり食べて、身体を壊すような不詳の子供も、
そろそろ大人になって、親の言うことを聞いても良い頃だ。

太陽エネルギーの取り入れ方は、その気になれば、無尽蔵にある。
風力や潮流も、広い意味で太陽エネルギーだが、宇宙発電所や月面発電所も、今や現実になってきた。後は、世界の認識と政策に掛かっている。

開発途上国が言うように、排ガスは先進国の責任だから、太陽エネルギーの活用は先進国の責務でもある。
地球資源によらない、エネルギー利用を示せば、途上国は一斉に飛びつき、石油もガスも原発も捨てて後に続くだろう。
無意味な領土争いも緩和されるかも知れない。

最大の安全保障は、ミサイルでも核でもなく、
人類が共有できる、イノベーションだ。


マドンナ

2012年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム

漱石の「坊っちゃん」の中で、美女をマドンナと呼んだことから、日本の昔ながらの「小町」が、マドンナと呼ばれるようになった。

男女共学になって、戦後、どこの学校にもマドンナが現れた。
元来は、聖母マリアのことだが、キリスト教徒ではない日本人にとって、憧れの女性は「小町」だから、同じ意味で使い出した。

昔から、日本では美女を小野小町になぞらえて、小町と呼ぶが、男にはあまり該当するようなものは無い。強いて言えば、光源氏の光君ぐらいだろうか。

しかし、この小町という存在は、日本独特のような気がする。あるいは東アジア、東南アジアもそうかも知れない。
美人伝説もあるが、小野小町が知られているのは、歌によってであり、スター的存在であったにもかかわらず、具体的な容貌は伝わっていない。

歌垣の風習が残る日本古代の恋愛は、歌を交わすことで惹かれ合うので、上層階級は、顔などよく確かめていなかったと思われる。
庶民なら、実際に外で見知った者同士が声を掛け合ったのだろうが、小野小町あたりは、せいぜい周囲の噂程度で、歌だけが一人歩きしていたのだろう。

良く知りもしないのに憧れる。こういう片思いパターンは、日本の王朝など、身分制度が厳しいところで発生し、アラブのようなベールで顔を覆っていた世界でも有っただろう。

ただ、アラブのように、女をヒツジ同様の財産と見なしていたような世界では、商品価値として考えられただろうが、日本の王朝の場合は、純粋に恋愛対象としての、憧れになった。

ダンスを重視する欧米の場合は、見もしない者に妄想を膨らませるような、恋愛パターンはないと思うが、
男女七歳にして席を同じゅうせずの、儒教的価値観で営まれてきた日本の中等教育が、戦後いきなり共学になったことで、恋愛を奨励された少年達の戸惑いがマドンナを生んだ。

毎日顔を見る機会があっても、ストレートに声を掛ける習慣が身についていない日本の少年達が、同性同士で噂をし合って妄想を膨らませた結果、見た目だけで祭り上げられる、スターのような存在ができあがった。

しかし、アメリカ的な文化が根付いた平成頃になると、男女の関係が特別ではなくなり、異性に対して妄想する必要が無くなってきた。
このため、憧れと妄想のマドンナは過去のものとなり、キャンパス・アイドルやクイーンのように、「小町」は、自ら名乗り出る、実在の人間になった。

阿久悠の「♪好きな誰かを想い続ける~」は、本当に「時代遅れ」になったわけだ。
が、しかし、日本人はそう簡単には消滅しないし、人の思いもそれほどアッサリ割り切れるものでも無い。
好きでも、上手く想いを伝えられなかった人や、ふられたことで、諦めきれない想いが募るのは、古今東西そう変わらない、それが人の心というものではなかろうか。


言語感覚

2012年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム

トリンプで同じ名前のキャンペーガールが「偶然」選ばれたと話題になっている。
「渡辺アリサ」と「ALISA」だそうだ。
占いの目から見ると、当然というか、「なるほど」だ。

「ALISA」という名前はエキゾチックだが、実際は、かなり日本的な名前のようだ。これに近いのは「Alice」で、日本語なら「ARISU」となる。

「ALISA」がエキゾチックなのは、「ARISA」ではなく、「ALISA」だからだろう。「ELISA」みたいで欧風だ。
しかし、「ALISA」は、印欧語風に聞こえるとは言っても、ロシアやインドのような、かなり古い訛の雰囲気を持っている。

言語学というのは、今や複雑で膨大な体系で、素人が何か言えば叱られるだろうが、感覚的認識もありではなかろうか。
言語学者が難しい議論を始める遙か昔から、人類は言葉の分離と融合を繰り返していたわけで、文法に従って言葉が交わされるのではないように、言葉の命は、先ず感覚だろう。

元々、言語は叫び声から始まったと想像できるから、どんな音で始まるかの方が重要だと思う。
細かい正確な比較より、感覚的類似の方に意味がある。

日本「NIPPON」が→[GIAPPONE]→[JAPON]→[JAPAN]となり、それが、それぞれの地域の読み方で、ハポン、ヤーパンなどになっていったように、細かい比較より、全体的な雰囲気の方が本質を表している。

たぶん初めて「ニッポン」と聞いたヨーロッパ人には「ジッポン」と聞こえたのではなかろうか。(ゴジラ→GODZILLA)
こうして伝わって行った単語とは別に、人類のDNAに刻み込まれた感覚で生まれる単語もあると思う。

水、花、昼、夜、寒、暖、人、是、非・・・のような普遍的な言葉は、世界的に共通している
ネガティブな言葉の多くは「N」で始まるし、陽気で騒がしいものは「S」、明らかなものや物事の始まりは「A」・・・

例えば、「水」は「aqua」系や「water」系があるが、日本語では「みず」で全然関係ないように見える。おそらく「うみ」や「いずみ」など「み」が水を意味するのだろう。しかし、「うみ」とは別の言葉で海を表す「わた」があり、これも水に関係している。

すると、「aqua」と「water」と「wata」は、遙か昔に繋がっていたのではなかろうか。これは、人間の水に対するイメージの共通性まで遡れば、苦しい中で、ホットする感覚を感じる。

いずれも、「うー、わっ」と口を開く感覚だ。喉が渇いているときに、水にありつく感覚がある。三者を原始人になったつもりで、叫ぶように発音してもらいたい。

占い的な同質性
こうした潜在的な感覚で言葉を捉えるとき、「ALISAアリサ」は「ARIESエリーズ牡羊座」と同質と言える。ALISA=ALICE≒ARIES
意味も、
ALISAに近いALIENが、エーリアン=異邦人
ARIESは牡羊座で、ARIDITYが不毛。ARIELが空気(AIR)の精となり、
「異邦、不毛、何もない空気」など、共通のイメージがある。

牡羊座は12星座の始めであり、荒野と不毛、原始を表すから、
天王星→牡羊座時代に「アリサ」や「アリス」が目立つのは、ごく自然のことだ。
(ただし、物語「不思議の国のアリス」は代表的な乙女座の話)


宗教時代

2012年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム

クローズアップ現代で、SNS依存症の話をしていた。
依存症と凝ることとは違う。拘ることでもない。
依存症は、生活習慣として欠かせなくなる状態で、それが無ければ苦しくなり、止めたくても止められない。いわゆる「中毒」だ。

SNS依存の前から、ネット依存症は存在していた。
ネット依存とはどんな概念かよく解らないが、おそらく、ただ、見たり読んだりするだけではなく、投稿やメールを含めて、直接、関わりを持つことを前提とするのだろう。

それが、さらに発展して、SNS依存症が生まれたわけだが、これはまた、違う種類の依存症となったようだ。
個人開示の安心感で、応答が気楽になったものの、これが逆に、互いに知っているという、「縁故」意識となり、かえって、逃げられない「義理」の意識となっているのではなかろうか。

匿名の時には無責任でいられたものも、何となく、無視したり勝手に止めるわけにはいかなくなる。
SNSの関係は、コンサート会場で隣り合わせたぐらいの感覚だと思う。知らない人でも、同じ志で居合わせたのだから、仲間には違いない。

その場で顔を合わせていれば失礼はできない。なるべく喧嘩しないように振る舞うから、お互いに気持ち良い。それがコンサートのノリだ。
お互いに甘やかし合う、「酔っ払いの意気投合」になりやすい。

アメリカの大統領選に見るような支持者の集会や、企業トップのプレゼン、新製品の発売など、中国の反日デモと変わらない「祭のノリ」が世界を覆っている。

こういう光景が、何か、好ましい状態のような空気が世界に広がっている。ネット上でも、「いいね」「いいね」とクリックする。
世界中がコンサート会場だ。みな、思考停止をしたがっている。

世界がそれまでの思考方式を越えて複雑になり過ぎると、社会は単純な答えを求める。知識の飽和状態に求められるのは、考えることより信じられることであり、癒やしが求められるようになる。
そういう時代、つまり大転換の時代には、宗教が生まれる。
さもなくば、「ハイル・ヒットラー」だ。

黙って考える


10月20日

2012年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は10.20(頭髪)の日だそうだ。誰が決めたのか、おそらく養毛関連の業会だろうが、ムリからだ。
昨夜の『ニュース9』で取り上げていた。男は気にするが女はさほど気にしない・・・とのこと

ちょうど先日の「砂掻き足」で話したばかりだが、男は視覚で欲情するから、女からの視覚ウケが大事だと考える。しかし、これは、男の思い込みに過ぎない。

もちろん、「ハゲ、デブはイヤ」と、口では言うに決まっている。
しかし、ここでは「イヤよ、イヤよも好きのうち」を思い出すべきだ。
女の言っていることを真に受けたら、とんでもないことになる。

「ハゲ、デブはイヤ」は、自分でも気づいていない文化的刷り込みであり、いわば意識の衣服、ファッションだ。衣服とファッションで、自分は美しいと思う口が言わせているのだ。
意識が裸になれば、ガラリと豹変する。(げに恐ろしきは・・・)

女が見るのは外見ではなく、能力だ。そういう意味では外見も大切だが、能力をアピールしなければ、あまり意味が無い。
ただし、「選ぶ」段階と「始める」段階は、また別の問題だ。

昨今のように、女が強くなり、自活の自信で「選ぶ」必然が薄れてくると、「始める」条件の方が重視され、それが文化的刷り込みになる。
しかし、元来、「選ぶ」ことを重視する「女性」の生理は、スイッチが入ったら同じ事だ。その先までは考えていない。

スイッチに手が掛かる瞬間の、目を閉じても存在する、聴覚、嗅覚、触覚の「雰囲気」は重要だが、視覚は関係ない、自覚の世界となる。
この辺りが、作業中も外敵を警戒し、作業経過を観察しなければならない、男とは違うところだ。

・・・まあ、たいがいは、この程度に収まる男女の仲を、
頭が薄いから、結婚できないと、ウジウジしている、その態度こそが、能力の劣等を感じさせていることに、気づくべきだ。

バーコードやズラが馬鹿にされるのは、薄いからではない。中身より外見を気にする、女々しさが馬鹿にされているのだ。
(もちろん、女々しいは外見を気にするジェンダーの女のこと)

『ニュース9』でも、若はげの人が、ショートにして生まれ変わった話をしていた。当然だ。

昔からの自論は、「薄毛は刈れ、禿は剃れ」だ。
ついでに言えば、カツラは帽子。男女とも、気分次第でかぶるべし。
育毛・養毛商人のカモになるのはバカげている。

10.20は、それを思い出す日。  とおに〇ハゲ(とおに丸坊主)の日


土星かな

2012年10月20日 | 星の流れに

土星がサソリ座に入って2週間。何も起こってないように見えるが、
月がサソリ座を通過した翌日のニュースは・・・

エマニュエル夫人と若松孝二監督の訃報。韓国が非常任理事国に選出。ニューズウィークが紙媒体を廃止。
さらに、このところのニュースは、尼崎大量殺人や、ネットウイルス誤認逮捕に、森口氏のiPS細胞臨床パラダイス・・・

政治話は毎日報道されているが、これはもう、どうでもいい。
選挙区〇増〇減? 宦官の権力争いなど、勝手にやってくれ
世を動かすより、世に便乗して糊するだけなら宦官だ。
議員数半減など、ウソでも言えないだろう。
ああ、また、ぼやいてしまった

ニューズウィークが、80年の歴史に幕を降ろした。これも天王星周期の必然であることは言うまでもない。
これ以外は、いかにもサソリ座のニュース

サソリ座の土星現象
エマニュエル夫人は、1974年の天王星サソリ座時代の大ヒット。
若松孝二監督は暴力とセックスで当てた人。サソリ座の「赤」にも縁がある。
シルビア・クリステルは天秤座で土星が来て病んでいた。
一方、若松監督は牡羊座で、天王星による思いがけない事故死。

個人の運勢による死に方と、社会現象としての死が重なった例だ。

朝鮮半島サソリ座の韓国は、二度目の非常任理事国に選出され、大喜びしているが、むしろこれは災いになるだろう。
天秤座に土星が入ったとき、民主党の政権交代で、日本中が、あるいは海外までも、期待したが、むしろ逆だった。

前回、韓国が初めて常任理事国になったのは1996~97年。この97年にアジア通貨危機が起こり、IMF管理になった。

尼崎大量殺人の詳細は、ウンザリしそうな話なので興味が無いが、大量殺人自体がサソリ座現象である上、色々、サソリ現象が絡んでいそうだ、詳しくはテレビに譲る。なお、「身内」も、サソリ座現象の一つ。

ネットウイルス誤認逮捕も、サソリ座「警察・検察」の土星現象だ。

森口氏のiPS細胞臨床騒ぎは、「iPS細胞」自体が再生で、サソリ座だが、この話題を、真面目に事件として扱っていることにあきれる。
この人は精神病患者だ。にもかかわらず、マスコミの都合で、引っ張りまくっている。東大が懲戒解雇にしたのは立場上解らなくもないが、早く保護してあげるべきだ。


索敵行動

2012年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム

06から掛かってくる電話。出ると切れるが、しつっこく何度も掛かってくる。
ネットの電話番号検索サイトで見てみると、みなほとんど同じ現象に悩まされている。

たいていの人が、イタズラ電話か嫌がらせ電話と受け止め、
「ひまなやつだ」、「何が面白いんだろう」の感想を語っている。
かけ直した人は通じないとも言っている。
エロ電話や広告電話でもないようだ。

あちこちに、これだけ掛かってくるということは、ロボットソフトで掛けていることは間違いない。

以前、チェーン店のクレジットカードを強要され(加入しなければ極めて高い値段)、記入項目を見たら異常に詳しい個人データを要求する。頭にきて、カードは作らず、その店では買わないことにした。
(結局、その大手チェーンは、倒産したが)

20年前だったが、既にその当時、集めようと思えば、マーケティングに必要な顧客データは、簡易ポイントカードで、購買行動を計測できたはずだ。詳細な個人情報を直接申告させようとする、時代遅れな発想が、倒産の原因だろう。

今や、コンピューター計測によって、個人情報はまる見え状態だが、もし、ロボットでランダムに電話を掛けてきているのだとすれば、
これは、泥棒の索敵行動ではなかろうか。

電話を掛ける相手の反応を、機械的に計測し、不在の家や在宅の状態を浮かび上がらせ、泥棒ターゲットを絞り込んでいく。その上で、条件の良い家を調査して仕事をすれば、安全で効率が良い。

海外から遠征してくる犯罪集団にとっては、日本は生けすの掴み取り状態だろう。それでも、無駄足を踏まずに効率よく仕事をするためには、コンピュータで計測しておくぐらいは、たやすい作業だ。

電話でなくとも、何で観察されているか分からない時代だ。
プライバシーという言葉も、今や死語になった。


四本の手

2012年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

サッカー。ブラジルとの親善試合は、気持ちいいほどの完敗だった。
組織力で挑む日本は、一つ狂いが出るとバタバタになる好例だろう。戦争も、経済戦も、思い当たる節がある。
ジャパン・サッカー道遠しの観はあるものの、なかなかいいところまで来たのではなかろうか。新しい課題を発見できたのも、努力好きの日本人には励みになる。

フランスにも、圧倒的に押されていたが、かろうじて勝った。
予想外の敗戦にフランスのテレビが、川島の好セーブを評して「原発事故の影響で手が四本あるのでは」と言ったことを、日本はまた政府レベルで抗議して、テレビ局が謝罪した。

昨年、イギリスのテレビで、やはり被爆者を冗談に扱ったことに抗議した。被爆国の日本が過剰反応しなければ、どこが言うのか、という思いは日本人として解らなくはないが、原発事故は100%日本の自己責任だ。アメリカのせいだと言える原爆とは、まったく違う。

そして、何であれ、イギリスもフランスも、悪趣味とは言え、決して悪意ではなく、どちらかと言えば好意的な冗談だ。
イギリスの、二度の被爆に堪えた日本人に対する敬意や、フランスは川島に対する賞賛が前提になっている。

こうした冗談に抗議するような日本は、決して「クールジャパン」とは思われない。冗談には冗談で返すのが文明国だ。
モハメッドやコーランの扱いにテロまで起こすイスラム教徒と、大差ない国と思われる。
テレビ局は謝罪はしたが、日本の狭量を再認識しただろう。
日本が皮肉と冗談で返せば、恐れ入った上、改めて日本に同情しただろう。

どんな冗談が良いかは、なかなか難しいが、
ドゴールの鼻が曲がっていたのは、サハラの核実験のせいだったのか・・・とか、
フランスの大量原発は、ミュータント選手をつくる魂胆に違いない・・・とか、
得意のマンガで返せば、一目置かれただろうに、情けない。

それだけではない、原爆も原発事故も、根本は政治家や官僚の責任であるにもかかわらず、震災を絡めて他者への抗議の雰囲気をつくり、自分達の為政責任をすり替えている。

日本人は、真面目なことは良いのだが、為政者に良いように操られて悲惨な結果を招き、それでもまた、外に目を向けさせられている。

マンガもアニメも浮世絵もスシも、日本文化は為政者の手柄ではない。日本の政治や外交より、庶民文化の方が評価されているのだ。
為政者に踊らされたり、利用されたりせず、庶民文化のレベルの高さを独自にアピールした方が、よほど日本のためというものだ。

ほどほど


ネギ坊主

2012年10月16日 | 話の畑

地下鉄に乗ると、優先席だけガラガラで、平服の僧侶風70才ぐらいが一人、奥に腰を掛けている。同じ駅で乗り込んだ20代のサラリーマンと女子学生風と並んで座ることになった。

次の駅で停まると、80代の、むしられたニワトリのような白髪と髭でボサボサの爺さんが乗ってきた。なにやら文句を言っている。
色白で神経質な左卜全か、ヤワラのお爺ちゃん、ヨレた猪熊滋悟郎のような顔をして、何か文句を言っていたかと思うと、
「えーっと、何処にやったかな? あ、あった、あった」
と言いながら、ポケットから、やおら、S字フックを取り出し、優先席の手すりに掛け、ビニール袋の手荷物をそれにかけると、緑のナップサックを背中にしたまま、向かいの優先席に腰掛けた。

座るなり、また何か言い始める
「人間にはな、毛が生えるもんや・・・毛が生えてどこがオカシイんじゃ。そういう当たり前のこともワカランと、そのうちケツの毛までむしられるぞ・・・」

「ケツの毛をむしられるゆうても、近頃の若いもんは、意味もワカリよらへん・・・ワカリよらへんやろなあ・・・」

「日本は、このままでは、ぜーんぶ、イカれてまうぞ・・・戦争に負けてな、なにもかも、アメリカに抜かれてもうたんや・・・」
そう言いながら、ふと頭を上げて、
「ああ、アメリカ人か・・・オカシイか? 嬉しそうにワロウとる。嬉しかったらワロウたらええ。誰にも遠慮はいらん」
上を見ると、英会話学校のポスターで白人が笑っている。

駅に着くと、優先席に座っていた他の乗客は一斉に立ち上がって行った。降りたのか席を移ったのかわからないが、爺さん一人になった。もちろん、見ているもう一人がここにいるのだが。

そこに、小綺麗にした、70代の商家のおかみさん風の人が入ってきて、爺さんの隣りに腰掛けた。
電車が走り出しても、爺さんは相変わらずしゃべっている。
隣に座ったおかみさんは、何か話しかけられたと思い
「はあ?」
と問い返すと、爺さんにエンジンが掛かった。

「そうや、おまへんか・・・日本は、このままでは、エライことになりまっせ・・・戦争は誰でもイヤや。戦争には莫大な金が掛かるよって、アメリカかて、しんどうなってしもうた。そやから、戦争を止める言うたら大統領になれたんや・・・そやのに、なんや、日本はどうするつもりなんや・・・」

事態が呑み込めたおかみさん、『えらいもんに、関わってしもうた』と思ったが、立つにも立てない。電車は走る。ただ、うなずくばかりだ。

「日本はどうなるんや。このあいだの映画は、中学生のホームレスの話や・・・ホームレス言うたら早い話、乞食や。中学生やで・・・戦争で焼け野原になってしもうて、よーけ、浮浪児ができた時代に逆戻りや・・・近頃の連中は戦争を知らん・・・まあ、ワシも行ったわけではないが・・・もう世の中ぐちゃぐちゃや・・・日本はのうなってしもうた」
「なあ、姉さんらの年なら、わかりますやろ。嫁姑の秩序っちゅうもんが。今ごろは姑の前で、昼の日中から嫁が手枕で寝てさらしよるんでっせ・・・」
おかみさんは、うなずくしかない。

「どいつもこいつも解っとらん。もう、やられっぱなしや・・・年寄りがおらんようになったら、ぜーんぶ、やられてまうぞ・・・」

電車が京都駅に着いてみんな立ち上がった。おかみさんはサッといなくなった。

人混みの中を、ヨレた猪熊滋悟郎の後を付いて歩いた。休まずしゃべっている。エスカレーターを上がると、改札を出て、JRに入り、東海道大阪方面に消えた。

一人暮らしで、テレビと会話しているのだろうか、ナップサックの緑の上で、ネギ坊主のように白いボサボサ頭が、目に焼き付いた。

このブログも、ネギ坊主のボヤキなのかも知れない


長子外れ(4)

2012年10月15日 | 兄弟関係

長子と弟妹型の間には、どうにもならない大きな溝がある。景色を見る位置が真反対なのだが、互いに同じ景色を見ていると思うから、トラブルになる。

弟妹にとって、長子は生まれたときからある自然環境のような存在だが、長子には、弟妹はいつの間にか現れた存在で、運命的とは思えない。できれば関わりたくない相手だ。大人しいうちは気ままに面倒を見ようと思うが、あまり噛みつかれるようだと、逃げたくなる。

「兄弟のような親子」の例えがあるが、長子と弟妹の関係には親子のような側面がある。特に、3~4才以上離れた兄弟に、この傾向が強い。

昔、10人兄弟がざらにいたような大家族の中では、長子は貴重な存在だった。何しろ、孤独な長子の視点をもつ長子体験は、たった一人しかできない。2~30人いる一族の中では、三代で3人しか居ない。

弟妹が環境対応型の考え方をするのに対し、唯一、長子のみが独創的な発想を育むチャンスがある。
誤解の無いように付け加えれば、あくまでチャンスであって、誰でも独創が身につくわけではないし、弟妹型でも、大人数の中でたまたま一人孤独な育ちかたをする子もないことはない。

が、それにしても、一般的に長子は、状況に流されない視点、常に自問自答する反省心、夢想妄想する独創性によって、他人に影響されない自我意識が育つ。

他人の評価を気にしない自立心は、空気が読めない、反応が鈍い昼行灯、総領の甚六のそしりを受けるが、誰も経験したことがない事態が発生した時に、底力を発揮する。

困った時、弟妹型は相談する相手を探すが、長子は黙って考える。あるいは皆の意見を聞こうとする。相談することと、意見を聞くことは似ているが、実は真反対だ。

人の意見を自分の行動の裏付けにしようとすることと、参考にしようとすることの違いであり、裏付けにするとは、他人の意見が正しいことを前提に従うことだが、参考にするのは先ず自分の指針があり、それに加減するための資料付加だ。

昔の氏族の大家族には、如何に長子が重要だったか判るが、今日のような小家族で少子化の民主主義時代には、長子の独自性はむしろ、非協調性となり、「困った存在」と、みなされやすい。
氏族や長老からは守られず、平等な制度の中で、テンポの鈍い長子は疎外されやすい。

民主主義制度を持ち込んだアメリカの場合、平等と同時にリーダーシップが重視されるから、長子発想が尊重される環境が共存するが、何ごとも制度重視の日本のマインドの中では、機会均等の中に、個性やリーダーシップが埋もれてしまう。

今日の、リーダー不在の日本社会は、形式民主主義によって、長子の立場と能力が抹殺されたことに、大きく起因していると考えられる。
家督制度の復活が良いとは思わないが、ノロマでボンクラと思われがちな長子を見直す目は、必要ではなかろうか。


長子外れ(3)

2012年10月14日 | 兄弟関係

兄弟関係による、性格や行動原理は、逆の立場にも常に存在する。

中間児の母親が、娘の長女に困り果てていた。
三人娘の、中間児や末っ子とは上手く行くし、話も通じるのだが、長女とはどうにも話がかみ合わない。
長女は結婚して他府県で暮らしているから、日頃はあまり顔を合わさないが、下の娘達は結婚して近所に暮らしている。

あるとき、長女一家が帰省したので、家族全員が集まって食事をした。
すると、長女の娘の箸の持ち方がおかしい。
次女三女の子供達が一斉に、「箸の持ち方が違う!」と言うと、祖母も母親達も、それを指摘して、長女に、ちゃんと躾けなければと言った。

なるべく自由放任で育てようとしていた長女だったが、全員に指摘された長女の娘がショックを受けて泣き出し、長女は怒って、その場で夫と娘を連れて帰ってしまった。
祖母である母親は「あの子は難しい」と嘆いている。

長子の立場やものの見方は、多くの場合が少数派だ。従って、世間一般常識も、弟妹の価値観に流れる。
外見的な形から入るのは、弟妹型の価値観で、考え方を学ばせようとするのは長子型の価値観だ。

教育においても、形を身につけさせようとする弟妹型の親に比べ、体験から自主性や考え方を学ばせようとするから、なるべく口を入れない。

祖父母となる両親は、父親も末っ子で、弟妹の価値観で育てられた長女にとっては、おそらく、子供の頃から親の言うことがうるさくて仕方なかったことだろう。
従って、おそらく早い時期から、親の言うことを無視するようになってしまった。

そこに加えて、中間児である母親は、日頃うるさく言う割りには、いざ、決断の時には、自分からは結論を出せない。大人になるに従い、ほとんどの決断を長女がするようになる。
決断には責任が掛かってくるが、中間児はトコトン責任を避けようとするのに対し、長女は、生まれたときから、責任を取るのは自分しかいないと信じ込んでいる。

こうして成長する過程で、この親子は、長女と次女の関係となり、長女は母親に対し「何も言わせない」、母親は長女に対し「何も言えない」関係ができあがってしまった。しかし、双方とも立場が逆転していることに気づいていない。
母親は「難しい子だ」と思い、長女は「うるさいことを言うだけの親」と思っている。

長女の夫は一人っ子で、結局、この一家で長子の立場を知るのは、長女一家しかいない。世間の常識に従い、全員の総意で暮らしている親や妹達とは、全くかみ合わない。
ところが、それでも、一家に重大事が起こったときは、結局は、長女に相談することを、祖母である母親も認めている。


長子外れ(2)

2012年10月13日 | 兄弟関係

下の子にとって長子は、不当に特権を許されている抑圧者であり、長子にとって、下の子は自分の足を引っ張る邪魔者だ。

長子は、前例のない中で、大人を見習いながら、一歩一歩、道を切り開いてきたので、無茶をする弟妹に、自分が発見した道を教えてやれば、歩きやすかろうと、説明したり説得したりしたくなる。だから、親のように説教したりするが、これは無駄なことだ。

始めから先人のいる下の子にとっては、自分で切り開いたり、歩き方を教わったりするより、どれに乗っかれば一番早くて楽かを見極め、選択することしか関心が無い。創意工夫より、活用の判断だ。

無から有を生む方法など教わっても意味が無い。成果を自慢することには関心があるが、実際に自分が手を出すより、そこに自分が関わることの方に関心がある。

前例のないことを手がけるのは、バカとまでは言わないとしても、結果が出るまでは関心が無い。
その代わり、その人が成果を上げたり、成功しそうな時には、極めて敏感で目ざとい。真っ先に、協力者や応援団になる。

隣家の兄弟
こうして、兄弟関係を書くうちに、また、どうしても国家がダブってくる。
日本人は、中韓のことをパクリだと言うが、これは、生き方の違いに基づくもので、兄弟関係による必然的な立場の違いと同じ事だ。
何が生きるために重要か、生き方の違いから来るものだ。

そして、日本から見れば、同じようにパクリかも知れないが、長子中国と弟妹型の朝鮮半島とでは、これもまた、行動原理がまったく違う。
弟妹型が、鵜の目鷹の目で接近して、他人の成果を観察しているのに対し、長子は、して欲しければ協力してやると構えて、相手が近寄ってくるのを待っている。

一人っ子が、自宅でコツコツつくった模型を、遊びに来た隣の弟が、
「うわー凄いな、ちょっと貸して」と、学校に持って行って自慢しまくっているのを見ていたその兄が、
「ウッホン、ウッホン」と、咳払いしながら、「近頃、何か凄い物を作ったそうじゃないか、うん?」と、暗に見てやろうと促す。
一人っ子は、評価されたのが嬉しくて、持って行って作り方を説明すると、
「ホー、確かに凄いが、この程度なら、俺でも作れるぞ、想定内だな」と、結局は、自分の方が凄い話にしてしまう。

それだけなら、まだ良いのだが、この兄弟は、一人っ子は甘やかされ放題で、何でも買ってもらえるから、ああいう模型が作れるんだと、
如何に一人っ子がダメ人間かを、友達に言いふらすネタにする。そして、常に一人っ子を、自分達の励みの原動力にして育つ。

これは、実際にある話だが、日中韓の関係にピッタリ当てはまるから、応用の観点から見ても、兄弟関係は本当に面白い。


長子外れ(1)

2012年10月12日 | 兄弟関係

長子は下の子に、解ってもらおうと説得してはならない。
恨まれるか、馬鹿にされるだけだ。

特に一人っ子は、下の子の考え方、動きを体験したことがないから、決して心を許してはいけない。
下の子は、実に当たりがよく、あの手この手で近寄ってくるが、一人っ子にとっては、想像を絶する結果になる。

長子は、生い立ちの中で、下の子の生態を直接知っているから、扱い方を心得ているが、それでも、対等の大人になると、問題が起こる。
兄は抑えが効かなくなり、姉は面倒を見きれなくなる。
そうなると、面倒な弟妹を離れて遠くに行きたくなる。

一人っ子は、精神誠意相手に尽くせば、仲の良い下の子は、いずれ義理を果たしてくれると期待するが、下の子は風任せであることが理解できない。恋愛でも、一人っ子には下の子が寄ってくるが、簡単に逃げられる。

何年も交流のなかった友人との関係は、原則論の長子に取っては、たまたま連絡が無かっただけで、全く同様に続いているが、出たとこ勝負の下の子にとっては、その時の都合次第だ。

下の子にとっては、昔の友人は、新しい出会いだ。懐かしかったり、お近づきになりたい偉い人だったり、自慢する相手であったりする。
つまり、連絡が取れなくなった時点で、一端、切れている。
久々にあった相手が、自分に不都合なら、付き合わない。
しかし、長子にとっては、懐かしくもなければ、立場の上下を意識する相手でも無い。関係は昔のままだ。

腐れ縁
専業主婦の長子長女が、会社を始めた8人姉弟の末っ子に、会社が苦しくなるたびに無心され、預金や、夫の会社から金を借りてお金を回していた。そうしながらも、弟は豪邸に暮らし、また経営が苦しくなるたびに無心に来る。

もう、夫も定年退職して20年近くにもなるが、また、弟が来た。これまでも、ほとんどまともに返したことはない。
さすがに、体力的にも無理であり、断った。すると、親族の葬式にも出てこなくなり、兄姉のことをボロクソに言って回っているとのことだった。

これは極端な例かも知れないが、末っ子は、して貰うのが当たり前なので、してくれなかった相手を恨む。
姉弟だからやむを得なかったが、これは普通の現象であり、始めから関わらなければ、恨まれることもない。

長子、特に一人っ子は、下の子と付き合うときには、決して金銭物品の貸し借りをしてはいけない。また、地位や能力をちやほや言ってくるときにも、必ずお株を奪われると考えておいた方が良い。

下の子が気前良いのは、どこかから都合してきたものである事も念頭に置くべきだ。これは下の子がケチだというわけではない。どこかから調達すること自体が、下の子にとっては能力であり、努力なのだ。


経験と勘

2012年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム

昔なので、記憶は定かではないのだが、
戦後のアメリカ人が、「日本人は何でもにやにや笑っている」と、日本人の笑いに腹を立てていた。自分の従業員が、「親が死にました」と言いながら、にやにや笑っていたと驚き、日本人の非人情とバカさ加減、さらに、不気味で信用ならないことを枚挙していた。

一方、これはハーンだったと思うが、不幸に遭いながらも、日本人は微笑みを絶やさないと、絶賛していた。

アメリカ人の場合は、戦争で憎んでいた日本人と付き合うことになった偏見に溢れているが、逆にハーンの方は、恋人のように何でも日本人を好意的に見ようとしている。

何を笑うかは、文化、価値観そのものだ。今では少なくなった、昔の日本人の「不幸の時の笑い」も、相手に心配を掛けまいとする気遣いであり、相手もまた、それを知って黙って思いやる。そういう文化世界が成立していた。

異文化に対して人間は、ほとんどの場合、正しく見ることはできない。と言うより、正しいことなど始めから存在しない。
文化は人格と同じで、複雑で多様な要因で成り立っているから、こうといった定まった形はない。

国家間の葛藤を見ていると、人間同士の偏見が、具体的な形になって現れることが大きい。
人間同士の場合、人は実感で考えるから、実際に付き合っていると、良いところも悪いところも見えてくるが、国家は人間ではない。

国家の意思は、総合的で漠然とした情報に基づき、社会に漠然とした判断が生まれ、それに基づいて、国家が単一の確固たる結論を出し、それがまた、漠然とした社会の規範となって、社会正義となる。
そうした社会正義同士が、やがて戦争を始める。

戦争は、相手の事情を理解しないことから始まる。相手の情報不足と、自分側の反省不足だ。しかも、たいていの場合、個々の人間は、社会正義という、何も考える必要の無いレールに従って突き進む。

このような、敵も知らず己も知らずの行動は、双方が敗北する。これが、戦争には勝者がない実体だ。

相手だけではない
今回の中国の動きを見ていると、まさに眼の無い巨人が暴れ回っているようで、戦争が生まれる実験室のようだが、この程度の実験なら、何時でも自在に演じて見せられるという、中国共産党の自信に満ちた火遊びだ。「日本は火遊びを止めろ」と言っていたのも印象深い。

しかし、国民の目を覆って、情報不足、反省不足状態で、自在に操れるのも、もう限界だ。
一方的な情報にすればするほど、人は真実の情報と思われるものの方を信用しようとする。この情報時代の中で、一度、堰が切れると、大きな反作用が起こるだろう。

逆に、自由な情報が溢れる世界でも、やはり、人は「真実の情報と思われるもの」を求める。
定説や、誰でも知っている「普通の情報」より、常識を覆すような刺激的な「真実」を信じようとする。
あまりにも直観的で、明々白々なことは、むしろ信じたくない。

単純な仕組みの洗脳であれ、逆説的な形の洗脳であれ、何かを信じ込んでいること、そのことが危険なのだ。
そして同様に、何でも疑うことも、信じ込むことの裏返しに過ぎない。

情報漬けの現代に大切なことは、むしろ、自分の皮膚感で、自分の経験と勘で、考えることなのかも知れない。