魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

時代先取

2011年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

東京モーターショーを前に、車の話題が相次いでいる。
個人的に一番価値がある話題は、いよいよ、超小型車が実用段階に入ったことだが、産業界では、PHVが一番注目を浴びている。
EVとHVの橋渡しとしては、現実路線なのだろう。

確かに、EVには暖房に問題があるし、充電施設の問題も考えれば、PHVのような形が当分続くのではないかと思う。
おそらく、50才以上の世代には最後の車になるのだろう。

一方、自動車業界は、何とか、若者を自動車離れから呼び戻そうと、「車の楽しさ」をアピールするため、こぞってスポーツカーに力を入れているのだそうだ。何とも涙ぐましい。
だが、気の毒だが、それが、車離れの原因であることが解ってない。

もちろん何時の時代にもマニアはいる。今の時代にも、鉄道マニアはいるが、鉄道を支えているのはマニアではなく、一般乗客であり、鉄道で旅行を盛り上げる観光業界だ。

自動車産業発展時代の若者が、感動を覚えた体験が自動車のスピードなら、今の若者が求める感動は、知的世界のスピード体験だ。

今の若者には、自動車のスピード体験など新鮮ではない。それならジェットコースターで充分だ。
今の若者が求める新体験は、物理世界の広がりではなく、情報世界の広がりだ。「こんなことができるんだ」という驚きを、知的世界に求めている。

車で出かけて行って人と知り合うより、情報を通して人と知り合う。
もはや、「前世紀の驚き」をいかに演出しても、今の若者の興味は誘わない。「こんなに面白いのになあ」と言っているのは、オヤジだけだ。

自動車産業のオヤジ達は、自分達の青春の夢を、若者に強いるより、時代が移ったことを直視し、生活道具としての自動車を発展させるべきだ。

自動車は道具だ
自動車は「運転する」為にあるのではない。自動車は「人間を解放する」為にある。自由に早く安全に「移動する」為にある。
この目的の原点を忘れて、やむを得ずしていた「運転」を目的にするなど、時代に囚われた、「時代の子」の発想だ。

高齢化社会で、自動車に乗る人が減る・・・アホか
高齢化社会であればなおさら、高度な自動操縦の車が必要になるのだ。
IT技術が発展する社会で、いつまで人間をハンドルに縛り付けておくつもりだ。

日本人は技術改善能力があっても、発想転換能力に欠けている。
「車は運転しない物」「目的地までお茶して寝ていく物」
今の技術でも可能なはずなのに、いまだに「運転」に囚われている。
グダグダ言っている間に、技術パクリ国に、実用で先を越されるぜ

先ずは、若者に免許を取らせよう???  あ~あ、泣けてくる


浪速維新

2011年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

橋下圧勝は予定通りだったが、府知事の方は疑問だった。
「松井イチロー?」メジャー帰りのような名前だが、何とも見た目が迫力無い。

『あんなんで府知事になれるのか』と興味があったが、二倍近い得票での圧勝だ。既成政党、既成勢力が束になってかかっての大敗北だ。
選挙民は人ではなく「維新の会」という勢力を支持した。

もうハッキリした
国民は現在の国家の仕組みに「ノー」を突きつけたのだ。
これは大阪の地方選挙ではない。都構想という、明らかに国家の仕組みに異議を唱えた「ビジョン」を支持したのであり、
国家制度を食い物にする、政治家、官僚、それにたかる利権屋・・・
それら、国民を蝕み、害毒を流すばかりで、国難の前に、全く無能な「抵抗勢力」を成敗すべしと、国民の怒りが爆発した。

「地方選挙での敗北は政権党の敗北」とする既成政党の「憲政の常道」とやらは、この事態をどう反省するのか。

星は今、幕末だ。
各地で蜂起した反幕勢力が、様々な局面から力を出し始めている。
国政の場でも、「都構想」を越えて・・・
「首相公選」「議員・役人削減」「道州制」「憲法改正」などの、国家改編の、単一大命題を掲げた政党が、既成政党を「抵抗勢力」と断じて、全国で蜂起すれば、圧勝するだろう。

それと知って、早くも、維新の会に媚びを売り始めた政治屋もいる。

幕末が天王星の2周期前なら、1周期前は昭和初期
天王星牡羊座
橋下徹、維新の会代表は、自動車人間では天才「ガソリン」だ。
ガソリンの政治家と言えば、小泉純一郎、ヒトラー。
いずれも選挙の達人、演説の達人で、橋下氏は小泉純一郎に似ていると言われている。

ガソリンは良くも悪くも子供の星であり、一途だから、思い込んだら、後に引かない。「良識のある」大人には出来ないことをする。
そこが天才なのだが、ガソリンにはその感性が表情に出ている。

天才が靴下の組合せを間違えたり、同じシャツばかり着たりする話がある。反面、身だしなみに対するこだわりには、不自然な所がある。
ガソリン手塚治虫がベレー帽にこだわったこともそうだが、
小泉純一郎とヒトラーの「個性的」な髪型は、橋下徹の髪型にも共通性がある。

それだけではない、三者に共通する「目つきと表情」は、良く言えば純粋で、穿って見れば「虚ろ」だ。これは子供独特の目で、状況に目一杯順応しようと考えている。
自分の固まった考えを持たない柔軟性の反面、どう変わるか解らない危険性もある。

橋下氏は弁護士でもあり、健全な生い立ちでもあるから、ヒトラーのような危険性はないだろうが、行くところまで行かずにはおかないだろう。
それがどのようなものであるかは、小泉改革の「その時とその後」が参考になる。


毒も薬に

2011年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

由紀さおりが海外で大ブレーク。サソリ座の微妙な現象だ。
木星が180゜の牡牛座に来れば「外国との縁」「人気・評判」になる。同時に、今から、土星がサソリ座に影響を及ぼし始めることで、古いものとの縁が出て来る。

この現象は、去年からの日本への注目や、松嶋菜々子の例のように、「暗いことでの注目」の現象とも言える。「夜明けのスキャット」など、「寂しい」歌が「癒し系」として人気することや、「年寄り」の歌手の意味も含んでいる。

また、期待したいのは、天王星が相変わらず天秤座と180゜だから、このことで、短期ではあるが、日本のPOP(J-POPと言うには古いかも)が人気するかも知れない。

日本の歌謡曲は、日本人自身が認めていないし、世界には、ほぼ知られていないが、シャンソンやファドのように、そのまま民俗歌謡としての価値があると思う。

日本の童謡や唱歌、民謡や演歌、歌謡曲は、俳句や短歌と合わせて紹介されれば、それなりの支持層が生まれるような気がする。


冬の到来

2011年11月26日 | 新鎖国論

いよいよ、冬らしくなってきた。
この、4、5日不調で、こんどこそ風邪かなと思っていたら、久々に余震が続いた。今日は天気も良くスッキリしているので、このまま、何事もなければいいのだが。

しばらくニュースを見てなかったが、ますます、世界は波高しだ。
大きな波が押し寄せても、相変わらず、コップの嵐に明け暮れている人々もいる。

オリンパスは魚座で、東京巨人は乙女座。どちらも土星・天王星が去った後で、嵐の後ガラガラと家が崩れるような事態だ。
解任されたマイケル・ウッドフォード社長や清武代表の顔と、菊川剛オリンパス元会長や桃井恒和球団社長、渡辺会長の顔を見れば、
人相を見ただけで、くまのプーさんのようなウッドフォード氏や、清武代表に軍配をあげてしまう。二人とも善良の見本のようだ。
顔に年のハンデはあるかも知れないが、新時代の公開棒で突ついたら、古狸や狢が、穴の中で大騒ぎだ。

菊川剛氏は愛媛生まれの愛知育ち、大王製紙の井川意高社長も愛媛育ち。愛の魚座の縁だろうか。薄膜のティッシュや紙も魚座。
なお、井川社長はギャンブルの獅子座のうえ、自動車人間では、負けず嫌いのシャーシ。

オリンパス問題が、日本企業の信用に関わると言っても、ソブリンリスクほどの問題ではない。ソブリンリスクのソブリン(sovereign)は国家主権者の意味で、国や王様が保証する金や国債のことを指すが、その信用が危なくなっている。国家破綻の危機だ。

ソビエト連邦の「Soviet」は、忠告や評議会(Cовет)のことだそうで、一見関係ないように見えるが、「上から」目線でものを言う意味だから、同じ語源だろうか。

あれだけ大きく怖い存在の、ソビエト連邦も崩壊した。
世界に冠たる国々が崩壊しない保証はない。
借金世界一の日本は、自国民からの借金だから大丈夫と高をくくっているが、近代国家破綻の大波は、油断している人から襲ってくる。

性能の良い車が安全とは限らない。幼稚園生が運転したら崖から落ちる。肉食獣が狙うのは、先ず子供からだ。
世界中がマネー獣に狙われているが、マネーを殺せば逆に国家が困る。

資源消費の自転車操業=産業革命パラダイムの虚構が、マネーの姿で、国家を滅ぼし、国民を滅ぼす。
何度も言うが、産革パラダイムはグローバル・カジノだ。負けた奴から巻き上げて、勝っているつもりの奴も、結局は、勝ち逃げは出来ない。賢いはずの仕組みなど信用できない。大王製紙の社長を笑えない。

子孫達のためにと言うなら、賢明な道は、経済永世中立だ。
島国日本なら不可能ではない。


覚覚然然

2011年11月24日 | 大転換

このブログを始めたのが2006年秋で、その最初から大転換と、それに臨む覚悟のことを言ってきた。(「覚悟しろ」)

今年に入って「覚悟」が大流行だが、いまだに、覚悟の出来ていない、と言うより、何を覚悟しなければならないのか、どう覚悟しなければならないのかが、さっぱり解っていない。「覚醒」していない人ばかりだ。

年金を減らすとか、伸ばすとか、税金を上げるとか・・・そんな国内レベルの問題ではないことが、誰も解っていないようだ。

そんな議論が出来ているのも今のうちだ。嵐がやって来る。
何を「覚悟」しなければならないのか、早く「覚醒」して、驚天動地の時代転換を先取りしなければならない。

年金や生活保護は廃止して、全額税による最終的な命の保証にすべきだ。そして、働ける人は何歳でも働けるようにしなければならないし、仕事のない若者は、農水業で働けるように再訓練し、それが嫌なら、海外留学や海外就職をすべきだ。

要は、怠け者を保証するニセの社会福祉を止め、本当に必要な人だけ、必ず救う「安心保証」をし、働くことで、生活の保障と自己実現を満たす社会にすれば、筋肉質で溌剌とした社会になり、より国民総幸福度が向上する。

これまでの工業国からの体質転換を、抜本的に行う「覚悟」が求められている。
産業革命パラダイムから脱却する「覚悟」だ。

牡羊座の流行語で、今年の漢字一文字は新、生」か「哲」、あるいは「荒」と思っていたら、木星が感覚の牡牛座に移ったら、どうも、「覚」の方が出てきたようだ。

ただ、「新、生、荒」は同じ状態で、「哲、覚、悟」も智では同類。いずれも、牡羊座の「荒野に立つリーダーシップや自覚」を表している。

今年の漢字に関しては、以前「災」があったような気がするので、今年は「厄」または「水」かな。本当に「厄年」だ。


バカの勝

2011年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、学生なのに、説教調で話す人がいて、すごく不思議だった。
観察していると、どうも、その人の頭の中は、タテ型の秩序が固まっているらしく、年齢立場に応じ、知識に応じ、自分より上と見た人に対しては、賢明で従順な目下としての態度を守り、何事にも「拝聴」する態度を崩さない。

目下と見た人には、頭から「教え諭す」態度で話す。
「いいかね、物事はこういうものなんだよ・・・」
こんな調子だから、とても同世代には見えず、決まって姿勢も良いから、どこかの会社の万年課長のようで、滑稽だった。

こういう人は、案外どこにでもいて、たいていは小柄で、頭が小さく、身だしなみ髪型も、常にカッチリ決まっていた。

歳をとるにつれ、同世代の多くも、こんな雰囲気にできあがっていったが、それでも、全部が全部そうなるわけでもなく、いわゆる万年書生、学生気分が抜けきらない連中も相当いた。

多くは、自由業や自営業で、セラリーマンにもいることはいるが、学生気分では、あまり出世できない。

バカは勝つ
40才過ぎた頃から、どこでも若手批判を聞き始めた。いわゆる「近頃の若い奴は」だが、この頃から、同世代の風貌が、見る見る、二分化し始めた。実年齢に遅れ始める人と、どんどん進んでいく人だ。

若手批判をする人が、必ずしも老けるわけではない。若手と対決している人は老けないが、グチっている人は老ける。
若手批判をしない人の場合。若手に興味を持って面白がっている人は老けないが、自らものわかりの良い上司になっている人は老ける。

仕事をしている女性は男性と同じだが、専業主婦の場合、ほとんど同じで、美容に気をつけている人は、見た目はごまかせても、亭主や子供に明け暮れて太っていく人は大体ワンパターンで、趣味や遊びに打ち込んでいる人は、なかなか老けない。

この結果がはっきり出て来るのは、還暦過ぎで、極端な場合、20才ぐらいの実年齢差が出る人もいる。この差は、自らの老け込みだ。

年の功で、若い人を指導できると思っている人は、自ら老け込むし、若い人に何でも迎合する人も、やはり老け込む。
要するに、年齢を気にしたり、社会的立場を気にする人は老け込むわけで、そういうことが念頭にない人は老けない。
やはり、昔の人が言う「バカは老けない」は正解だ。

ところで、登録もしないのに、「シルバー会員様特別ご優待」とメールを送りつけて来られると、思わず「大きなお世話だ」と、ムカッと来るが、その度に歳に気づいて、そうとう賢くなってしまった。

それがシャクだから言うのだが、
年寄りに「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼びかける人や、「シルバー様」などと平気で言うような人は、必ず早く老ける。自分が年取った時、ショックを受けるからだ。

そういう「VAKAMONO」にジジイが教えてやろう。
「お子様にも、お婆さんにも、人には名前も立場もある」
(名前を知らなくても、あなた、君、先輩、大将、ご主人、奥さん、お父さん、お姐さん、ボク・・・歳と関係ない呼び方は腐るほどある)


沸き立つ

2011年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

東日本大震災の後、「上を向いて歩こう」が再ヒットしているそうだ。
東日本大震災を「戦後」のように、「災後」と呼んで、復興景気を呼ぼうという話もあるが、今の状況を見ると、とても望めないような気がする。

終戦直後、日本は、ほとんど無政府状態になり、国民の間で、「何でもあり」の気分があふれていた。
それを表すのが、当時の歌謡曲だが、
「リンゴの歌」「東京の花売り娘」「東京ブギウギ」「青い山脈」「芸者ワルツ」・・・など、もちろん暗い悲しい歌もあったが、開放感あふれる、明るく爽やかな歌から、ノー天気でハチャメチャな歌まで、

暗い世相をはね飛ばすような「沸き立つ」歌が、戦後を知る人の脳裏には、焼き付いているのではなかろうか。
また、戦中から戦後まで、映画や芸能は喜劇一色だった。

東日本大震災が、「涙の癒し」文化の東日本であることが、「上を向いて歩こう」のヒット理由かも知れないが、もしかすれば、日本人全体として、まだ事態の重大性を実感していないのかも知れない。

人間は、本当に悲惨な状態になると、「笑うしかない」。
敗戦前後の、究極の放心状態に、現実離れした明るい歌が流行ったことは、日本人全体が、居直りと開放感の中で、本当に「上を向こう」と思っていたからだ。

「上を向いて歩こう」がヒットしたのは、決して暗い時代ではない。むしろ、高度成長の真っ最中だった。ゆとりがあったから、感傷を受け入れることができた。

「災後」の深刻な現実が、だんだん心に蓄積されてくれば、もうセンチメンタルな歌を歌えなくなるだろう。
今必要なのは、心の沸き立つような「応援歌」だ。だからと言って、何でも騒がしければ良いというものではない。

「そうだ、今日より暗い明日はないんだ」と気づかせ、「希望の未来に向かって歩いて行こう」という気持ちにさせる、誰でも口ずさめる歌が必要だ。

音楽が、高度に技巧的になり、イヤホンで聴くプライベートな物になったことで、世代を超えて同じ場で口ずさめる歌が無くなった。
無縁社会と言われるような状況は、ひとつには、街に流れる歌さえ、お店の歌など、商戦目的で、誰もが口ずさめる歌では無くなったことと、関係あるような気がする。

年の瀬に流れるクリスマスソングも良いけれど、
「♪こんにちは~こんにちは~」とか、「♪はぁ~れたそら~」とか、
聞けば、誰でも顔がほころぶような、ノー天気で明るくなる歌を、歌作りに関わる人にお願いしたい。

お金を寄付するより、技巧も気負いも捨てて、今こそ日本全国に、競って「応援歌」をプレゼントして欲しい。


子は親の

2011年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム

歩いていたら、人混みなので、何だろうと思いながら通り過ぎようとすると、私服警官が
「あ、そっちよりこっちの方が良く見えます。こっち来て下さい」と、いつの間にか人混みに入れられた。

周りの人に聞くと、ブータン国王が来るのだという。横にテレビ局のカメラも待機している。
『ゲッ、こんなのに撮られたらたまらんな』と、人混みから離れた。

でも、せっかくだから、少し離れた目立たない所で観ていると、
80過ぎのおばさんが、人混みを見て「何ですか」と尋ねてきた。
「ブータン国王が来るそうです」と言うと、耳に手を当てて「はあ?」
「ブータン国王が来るそうです」・・・「はあ?」

もう、やけくそで、 >>> ブータン国王 ! <<<

しばらくすると、警備の車両を先頭に、黒塗りの行列がやってきて、後方の車の窓ガラスが開いていて、中で手を振っているブータン国王夫妻が見えた。

子供の頃遊んでいた学君のことを、「まなぶ」から、「ぶーたん」と呼んでいた。小学校で「ブータン」と言う国があることを知って、名前だけで親近感を持った。

その頃から、親日国で、日本も大変親近感を持っていると聞いたし、
照葉樹林文化の共通性が多く、日本人のルーツだとも言われていた。

ずっと不思議だったのは、
チベットまでも呑み込んだ中国に接しながら、「なんであんな小さな国が独立国でいられたんだろう」と言うことだった。

この度、来日したブータン国王は、普通に英語を話している。インドと関係の深いブータンが、インドと同じように公用語を英語にしていることを知った。

なるほど、インドと中国の、緩衝地帯としての存在意義があるのか。
それにしても、インド系緩衝地帯のブータンと、中国系の北朝鮮では、真反対の生き方をしている。

「子は親の鏡」が、こんな所にも表れているようだ。


求む臥竜

2011年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム

日本がTPP交渉参加を打ち出した途端、環太平洋が音を立てて動き出した。だから、前に進むべきなのだ。
(「山に進む」)

アメリカの言うグローバル経済とは異なるが、近代国家、経済障壁などの解消は、時の趨勢であり、大転換時代の必然だ。
TPPに反対する人は、津波警報を聞きながら家に止まっている人だ。今はとにかく、全ての事情を置いて家を飛び出すしかない。

実際に飛び出してみると、満を持していた状況が、大きな音を立てて目の前に出現した。

カナダやメキシコが参加表明し、韓国が騒ぎ出した。
何よりも大きなことは、中国が焦って、態度を変えたことだ。
日本を含むアジア諸国を、古代の夢で見下して、横柄な態度を取り始めていた中国が、急に低姿勢になった。

日本は、日本が思っている以上に、大きな存在であり、同時に、一国で中国を相手に出来るほどの、腕力はない。
今、正に、「経済三国志」が始まったのだ。

TPPは、単なる経済問題ではない。少なくとも米中は「覇権」を争っているのであり、日本も死活の崖っぷちに立っている。
アメリカとの交渉は、甘くはない。厳しいことは初めから分かっている。しかし、だからと言って、中華帝国の過酷な支配に隷属するのか。中国の正体は、もうハッキリ見てしまった。

TPPだけに依らず、中国の譲歩を引き出し、アジアから世界までをバランスの取れた秩序に導くための重要な役割が、日本にかかっている。これは誇大妄想でも驕りでもない、現実だ。
米中の中に立てるのは日本であり、それ以上に、ASEANなどの弱小国だ。そして、武力に依らないことを立前とする日本こそが、その弱小国と連帯することが出来る。

250年目の大異変、大転換の中で、国内事情に合わせて、対外交渉をするようなゆとりは既に無いのだ。
国内事情は、外的な状況に無理にでも合わせるしかない。農業や福祉など、個別の問題から考えるのではなく、これから先、日本はどんな姿で生きていくのかの覚悟を定め、それに合わせて、構造を変えていく。今ある物が無くなる議論をしている余裕は無い。

占い的に観れば、小さな朗報?がある。
中国は、ヤギ座の冥王星の影響で、アメリカがテロ戦争で消耗し弱体化したように、10年内に弱体化する。
また、アメリカも80年代のように、日本にゴリ押しできる立場でもない。
しかも、最悪状況の日本からは、まもなく疫病神の土星が去っていく。


豊穣の国

2011年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム

松茸、栗、芋・・・炊き込みご飯の季節だ。
東京に出た頃、鳥、竹の子、五目と、何かと言えば炊き込みご飯を炊いていたら、江戸っ子に「田舎モンは何でも混ぜ飯にするんだな」と、バカにされた。

何でバカにされるのか解らなかったが、竹で割ったような、江戸っ子には、ゴチャゴチャしたものは気に入らないのかな、ぐらいにしか思わなかった。
そうでなくても、江戸っ子というのは、二言目には「田舎モン」と言いたがる。

だから、悪意ではなく、自分が面白がれば、相手も面白がるだろうという、ユーモアのつもりではないかと、江戸っ子の単細胞や、粗野さに呆れ、いくぶん微笑ましさも感じていた。

その後、江戸というものが多少解ってくると、江戸が、巨大な米の集積場で、玉川の水で産湯を使い、白米の飯を食うという江戸っ子の自慢は、むしろ、米しか無かった現実であり、江戸前の新鮮な魚を白米に乗せる「にぎり鮨」の発生も、必然かつ、やむを得なかった事情からだろうと見えてきた。

それでも、江戸っ子にとっては、白米のくえねえ田舎モンは、混ぜ物をして、米を節約するんだろう、可哀相に・・・ぐらいにしか思えなかったのかも知れない。

確かに、米を年貢に供出する田舎にとっては米は貴重で、大根メシや雑炊は、米の節約ではあったが、芥川の「芋がゆ」ではないが、ふんだんに入れるものがあると言うことは、田舎の豊かさでもある。

江戸の風土病と言われた脚気は、白米ばかり食っていたからで、雑食をしていた田舎の方が、気候異変がない限り、健康的で豊に暮らしていたのかも知れない。

昭和になっても、裕福な農家は白い餅を搗いたが、あわ餅や、ひえ餅の家も多く、実際にはその方が美味しいので、友達に替えてもらったと、裕福な育ちの人が話していた。

年を取るほど、日本人のDNAが騒ぐのか、白いメシの美味さに幸せを感じるのだが、それだけになおさら、季節ごとの旬の炊き込みが嬉しい。

今では、日本中探しても、そうそう松茸も採れなくなったし、採れても、流通で都会に出てしまい、地方の口には入らなくなった。
地産地消の昔は、何処の地方にもそれぞれに、その土地ならではの海の幸山の幸いろいろな物が採れて、風土の生活を楽しんでいた。

子供の頃、おばさん達の世間話で、
松茸をもらったので、嫁いできたばかりのお嫁さんに、「今日は松茸ご飯にしよう」と頼んで、「おかあさん、炊けました」と言われて、フタを開けたら、松茸が一本、白ご飯の上にゴロリと寝ていた・・・
と、大笑いをしていた。

お嫁さんにすれば、嫁いびり話になるかも知れないが、子供心に聞いている限り、愛情一杯の姑のように思えた。


攪乱情報(3)

2011年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム

ムード作りは、宣伝上手であり、電通の始まりも九州人だが、近頃はそれも飛び越えて、韓国の宣伝攻勢も激しい。

韓国の商法は、とにかく「知られてなんぼ」で、大看板や悪態合戦で振り向かせ、「今や大評判です」とムード作りをして、時代の主流と錯覚させ「あなた、まだ知らないんですか」と無関心な人を焦らせ追い込む。

これが、韓国流ビジネスの、どんなに出費がかさんでも良いから、先ず「シェア」を取ろうとする商法だ。
シェアさえ取れば、「これだけの人が認めている」と、内容の善し悪しにかかわらず、みんなが認めた「良い商品」と、錯覚させることが出来る。

日本流の「良い製品さえ作っていれば、必ず認められる」の、まったく逆だ。内容がそこそこであれば、「宣伝でどうにでもなる」という信念がある。事実、少なからず成功している。

それは、全国至る所に「韓国料理」や「焼き肉」の大看板を並べ、テレビで「今や大流行」と騒ぎ立てる品の無さに、最初は顔をしかめた人まで、何か当然のような「ムード」に巻き込まれている。

その最たるものが、「韓流」で、最初にテレビに表れた時は、
ニュースショウのキャスターが、「あなたも韓流ファンですか」と、互いに語り合う所から始まった。その時まで、「韓流」という言葉さえ知らなかったものが、いきなり、「もう、大ブームですね」のムードから入った。

こういう調子で、人気報道番組で始めれば、何の先入観もない人は、
「え、知らなかった、早く観なければ」と言うことになる。
実際に観れば、どこか馴染みのある昔懐かしいドラマに抵抗感はない。

それが評判だというのなら、自分も時代の先端を行っていると、そこに浸ることに何の抵抗もなく、自分でもフアンだと錯覚する。
当然、一定程度の人気が出るから、「今や、大ブームです」と、また宣伝に使う。

その、状況作りに乗せられた、メディアや芸能産業が、さらに金の臭いに群がって、いまやあらゆる流行を「韓流」が席巻している。
これが、韓国が好んで叫ぶ「日本攻略」の凱歌であり、正に日本人は手もなく「攻略洗脳」されてしまっている。

しかも、これが、宣伝作戦の突破口で、最終目標は、日本そのものではなく、「あの日本でも大評判」の看板で、日本に憧れるアジアを取り込むことが最終目標となっている。つまり日本は「道具」として都合が良く、しかも、極めて扱いやすい国だ。

こういう状況に、日本には「嫌韓」が増殖しているのだが、嫌韓などと言う感情論で、これに対処するのは、これもまた思うつぼだ。
「騒ぎ」になれば、とりあえず「とりつく島」が出来るので、どのようにも料理できる。
情報宣伝、情報攪乱を目論む者にとって、最も不都合なことは、関心を持たれないことだ。

日本で流れる、韓国製品のCMに共通する特徴は、商品の性能に関する説明が一切無いことだ。日本製品は、どのように優れているかを知らせようとするのに対し、韓国製品は
「うん、なんとなく、ね」とか、「これだよね」とか、「みんなが夢中」の雰囲気映像ばかりだ。もう既に「認められている」の、ムードを出そうとする。

韓国に近い九州でさえ、焼酎の宣伝にも、ストーリー性というテーマを見せ、客の判断を尊重しているが、韓国の宣伝はいきなり「みんなが夢中です」の、ムードに巻き込もうとする。

だって、みんなも・・・


攪乱情報(2)

2011年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

支持率という妖怪は、清涼殿で啼く「ぬえ(鵺)」だ。
為政者を必ず滅ぼさずにはおかない。

メディアは、政権下ろしをタレントのスキャンダルと同じ手法で扱っている。
何でも良いからアラ探しをして、人間としてごく普通の行動を、何かトンでもない行状のように騒ぎ立て、それに、取り合っても取り合わなくても、その対応をまた騒ぎ立てる。そして、世間が反応すると、国民の総意のように、さらに叩き続ける。

要するに、自分で火を付けて、自分で煽り、騒ぎを大きくして飯の種にする。タレントなど潰れようが死のうがどうでも良いと思っているから、全く人格や人権を無視して、好き放題にしゃぶり尽くす。

政治家にも、これと全く同じ手法が通じることは、これまで世間の良く知る所だが、問題は、政治を良くしようという正義や善意や哲学がどこにもないと言うことだ。その上、言い方は正義の味方のような口調だから、なおたちが悪い。

タレントを飯の種として蔑視している態度が、そのまま政治家蔑視であり、そのことは、根本的に国民を蔑視していることになる。
そうした行為の中で、メディアは、教祖のように国民をどうにでも牛耳れると驕り高ぶって、自分が見えなくなっている。
記者会見で暴言を吐く記者などもその例だ。

タレントも政治家も、人気商売だから、悪い評判を立てられると仕事が出来なくなる。その弱点を突いて、メディアの好き放題だ。
しかし、政治家をタレントと同一視して、くだらないイチャ文に同調する国民であれば、メディアにナメられても仕方がない。

だって、みんなも・・・
このメディアの手法は、正しい情報や、論理的な解説で納得させるものではない。ムード作りによって、自分の目的や願望が、あたかも正しいかのように錯覚させるものだ。

子供が、何かを買ってもらいたい時、「だって、みんなも持っているよ」と、自分自身の欲望が、さも社会的必然かのように訴える。もちろん本人もそう信じ込んでいる。
すると、親が「みんなって誰のこと」と詰問すると、実は隣のケンちゃんだけだったりする。

メディアはこれと似たような、ウソではないけれど実態ではない、ムードを醸しだして、どちらでもなかった人まで、乗り遅れるなとばかりに、自分サイドに引き込み、石を握らせる。
メディアという公器が「だって、みんなも」と支持率を挙げてみせれば、多くの市民が、「支持率ってどんなもの」とは詰問しない。

論理ではなく感情操作による、ムード作りは、歌や物語の世界であり、それを得意とするのは、西日本に多く、九州には歌手や作家に憬れる人も多ければ、実際、その道で成功する人も多い。

確たる数字を知らないのだが、目立つという点では、九州出身のメディア関係者やライターも少なくない。これは誰かに検証をしてもらいたいところだ。


攪乱情報(1)

2011年11月15日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の首相の激しい交代理由の一つとして、メディアの支持率報道があると言われている。
政府がやることを100%気に入る人などいないわけで、「賛成、反対、わからない」の三つに別ければ、基本的には1/3は反対だ。

政治家が賛成できることをやっても、それは当然で、良くやったとまでは思わない。しかし、気に入らないことを一度やると、なかなか、「支持する」と思うまで、人心は回復しない。

つまり、普通の政治家であれば、基本的に1/3には支持されず、さらに、1/3は「わからない」の立場であり、気に入らないことがあるたびに「支持」が減り、「支持しない」だけが増えていく。

内閣成立時点では、「何もしていない+期待」だけで、半数以上の支持率があるように見えるが、実際の支持はやはりコアの1/3だ。
そして内閣が動き始めて、やるべき事を何かやるたびに、不支持が増えていき、コアの1/3も目減りしていく。

支持率が上がる内閣や指導者とは、潜在不支持層の1/3を動かすのだから、何らかの形で錯覚がなければならない。
支持率が60%を越えるような内閣は、「わからない」はずの層を「わかった」ような気にさせるので、考えての合理的な判断ではない。
派手なパフォーマンスやバラマキなどのポピュリズムが、多くは後の災いのもととなる。

さらに、不支持層の1/3までもが支持する「支持率80%」近くになるような状況は、内閣とは関係なく、戦争など、その場の感情だ。そうでなければ、初めから経済的に恵まれた国で、何もしていないリーダーだろう。

支持率という猫だまし
このように、初めから上がらない仕組みになっている支持率を、頻繁に報道するのは、メディアが社会を操ろうとする無自覚な陰謀だ。

メディアが使命として、市民に正しい情報を提供し、真に政治を支えるのではなく、支持率という猫だましを用いて、社会のムード作りをすることは、市民を愚弄し、自らが社会を牛耳ろうとする不遜の表れだ。

しかも、支持率はその感情誘導した市民の反応なのだから、自分が躾けた子供に、「うちの子はブランドしか着ないって言うんですよ」と言いいながら、ブランド品を買い与える母親のようなものだ。

もちろん、メデイアに翻弄される市民に最大の責任があるのだが、
ナチの宣伝や大本営発表、近くは中国の報道を見ても、大多数の市民が公の顔をした情報を信じるのはやむを得ない事かも知れない。

だからこそ、メディアには政治家以上の責任がある。しかし、自らを市民の立場という安全圏に置いて、政治家という責任者をどのように攻撃しても、自分達を攻撃する天敵はいなかった。

卑怯さを自覚せずに、やりたい放題やって来たメディアは、天敵がいないことで、単なるイチャ文マシンに成り下がり、信頼性は政治不信と共に地に墜ちた。

しかし、ここに来て、ネットという第四の権力が、それを許さなくし始めている。メデイアが存続できるか否かは、メデイア自身の自己変革にかかっている。


返しわざ

2011年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム

一度も見ていないから、実際はどうなのか知らないが、松嶋菜々子の「家政婦のミタ」が人気上昇中だそうだ。
ネット上の評論からするに、正に土星を逆手に取ったようだ。

松嶋菜々子は天秤座で、土星が来ているから不調で、その上、第七室に天王星だから、夫も不調。
絶対的な人気を誇っていたロシアのプーチンでさえ、このところ支持率が落ちているぐらいだから、天秤座の不調は推して知るべしだ。

松下奈々子は夫の不調で、自分がやらなくてはと、出演料を下げてまで、営業をしていたそうだが、努力が実って、久々のドラマ出演が、ヒットの兆しなのだそうだ。

昔の「家政婦は見た」をもじったことも、古いものを意味する土星の効果だが、徹底的に金と仕事に徹する、非人間性もヤギ座のものだ。
「笑わない」のを売りにしているようだが、天秤座の象徴である笑顔に土星が来たことで、その逆が売りになると言うのも面白い。

松嶋自身、このところの窮状に(少なくとも本人はそう感じて)、仕事を求めて回る事が、土星の苦境や努力を表している。

天秤座の日本も、いまだに苦境が続いているが、土星が来たと言うことは、日本に投機マネーが寄って来ているわけで、円高は土星の仕業だから、松嶋菜々子のように逆手に取れば、それはそれで役に立つ。

円売りドル買いの正攻法より、高い円で世界を脅す方が、よほど効果的なのだが、なんで日本人はこんなに融通が利かないのだろう。
と言っても、博打精神のない役人まかせなのだから、どうしようもないのだが。


蟹の季節

2011年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

どうも、中国という国は、外国、ことに日本のようなコンパクトに固まった国からすると、国の概念には、当たらないような気がする。

枠組みだけにはこだわるが、まるで大きな風呂敷に、何でもかんでも放り込んだようなもので、運ぼうとすると、ちょっとしたバランスの偏りで、右にガラガラ、左にガラガラと、崩れだして、とても動かせない。あっちやこっちで、突き出したり、転げ出したりして、まとめて担ぐことも、動かすことも出来ない。

指導部と言われる人々は、風呂敷が破れないようにするのが精一杯で、中身の整理など、とても手が回らない。結局、何時の時代も、永遠の張り子の虎ではないのだろうか。

近年の、軍部の暴走らしき状況も、軍部が国を掌握するわけではなく、相変わらず、軍閥の勝手な動きで、朝鮮戦争当時のように、共産党軍が完全掌握した直後の、まとまった動きではないのかも知れない。

尖閣問題や南沙諸島の問題も、一部軍閥の勝手な動きで、指導部との葛藤が起こっている。そう考えると、このところの、何を言いたいのか解らないような、報道の論調のつじつまが合う。

星占術では、中国はカニ座なのだが、そうであるならば、これは当たっているのかも知れない。カニは甲羅は立派だが、中身はフニャフニャぐちゃぐちゃだ。

中国人がこだわる面子とは甲羅のことか
残飯整理で生計を立てるカニは、外見は強そうで、ハサミを振り上げてみせるが、鉄棒で甲羅を突かれたら一溜まりもない。

自分でもそれが良く解っていて、強そうな態度のわりには、ちょっとヤバイと、サッと穴に逃げ込む。
正面切って相手にすると、ハサミに挟まれる。だから、正面の顔「面子」を守ろうとするが、形勢不利と見ると、ころりと態度を変える。

周辺国が、カニのハサミを恐れて連携すると、太刀打ちできないと焦り、「何をする、何をする」と、わめき散らしながら、片足は逃げる体制に入る。

巨大な国境線を抱えていれば、高速鉄道のような軍事輸送路線を確保したとしても、多正面戦争などとてもできない。そんなことは解っているはずなのに、海洋進出を試みる。明らかに行動が、バラバラだ。

中国が、恐れながらも頼りにしているのはロシアだから、日本は経済面も含めて、ロシアを利用すべきなのだが、北方四島の筋道論にこだわって、全く動けない。

その点で中国は、日本を外交的に完全にナメきっている。
また、ナメられても仕方ないだけの、情けない日本外交の過去がある。

ズワイガニのシーズンになった。カニは美味しいが、面倒くさい。