魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

愛の魚座

2009年01月31日 | 星の流れに

今年の大河ドラマは直江兼続の話で、「愛」の兜が話題になっている。
これも天王星→魚座現象だ。

魚座は「愛」を表す(差別時代
原作は魚座時代の2006年発表の小説で、作者も「越の国」の出身。
魚座真っ盛り

内容的にも腹心の部下の話で、主従のどちらが本体か分からない魚座(双魚宮)のストーリーだ。
天王星→牡羊座の兆しがあるにせよ、来年は木星が魚座で、まだ、魚座真っ盛りには違いない。

そうそう、もう一つ忘れていた。
やはり山形だが、フグで七人(魚の数)がしびれた。これも魚座問題でもあるが、山羊座の「山」と、フグの水瓶座が絡んでいる。フグは膨らむことと付加価値食品ということでは水瓶座だ。
水瓶座的共通項:膨らむ、ハッタリ、付加価値、水増し


怒怒怒

2009年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

かんぽの宿を一万円で売却し、6000万円で社会福祉法人に売却していた。

なな、何と
もっとも好きな温泉施設が、TVに映し出されているではないか。
山陰で最高の泉質と言われ、山陰方面に行くたびに立ち寄っていた温泉だ。
泉質の良さから、通りがかりの観光バスも立ち寄って、飲用に汲んでいたぐらいだ。

しかし、一度、泊まったら、食事が最悪で、学食以下だった。
なにしろ、トンカツ屋さんでもあるまいに、シュレッダーで刻んだようなキャベツに、アジのフライがチョンチョンと並んで、横に市販のマヨネーズが盛ってある。感動するほど、工夫のない素人料理。
マツバガニもただ置いてあるだけだ。
食事さえ良ければ、流行るだろうにと惜しまれた。

以後、入浴だけなら500円で入れたので、通るたびに寄っていたが、浴室もまた、何の取り柄もない、フツーの風呂だった。
とはいえ、湯だけは評判どうり最高だ。
温泉と言えば、硫黄の臭いがしなければ入った気がしないと言う人もいるが、山陰に多い無色無臭でマッタリ、何のクセもない。
公式には硫酸塩泉だが、温泉は天然物だ、検査項目だけでは計り知れない。ラジュウム温泉で有名な三朝温泉も鳥取県だ。

何が入っているのか解らないのだが、入浴後の暖まり方が明らかに違う。1300年の歴史がある岩井温泉は、加熱も加水もしていない。

このところ
しばらく行っていなかったので、郵政民営化の後、どうなっているのか知らないでいた。
そこに、このニュースだ。
一万円で売ったことは、言語道断、徹底追求すべきだが、いかにも「ありそうなこと」で、いまさら驚かない。「どーせ・・・」の話だ。

何より残念なのは、老人ホームになってしまったことだ。
部外者は入浴できない。
かんぽの宿から民間経営に変われば、必ず利益が出せたはずだ。
それが、こんないい加減な処理によって、消えてしまった。
実に、いまいましい。 もう一度。いまいまし~い

話は変わるが、
水瓶座は文字通り「井」泉や温泉。(慰安施設は魚座)
北海道の「丸井今井」倒産のあと、岩井温泉が話題にでた。

P.S. 1月31日の地元紙(日本海新聞)によると、旧郵政は地元の自治体に購入を持ちかけたそうだが、断ったらしい。これをチャンスと受け止められない交付税頼みの乞食精神の結果なのだろう。


現実力

2009年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

大学を出てない人や、三流大学出の人が、経営者や上司として、一流大学出身者を雇ってあきれることがある。何でこんなにバカなんだと。

この理由は三つある。
●一つは、自分の学歴コンプレックスで、初めから高学歴をバカにしたい場合だ。実務経験で身につけた知識を、相手が持っていないことを取り上げては「何だ、こんなことも知らないのか」とバカにする。
「近頃の大学生は漢字も知らない」というやつだ。
これが権力を持つと怖い。戦前の軍隊では学徒兵が入隊してくると、さんざんいじめられた。この極端な例がポルポト政権の大虐殺だ。

●次に、能力の違いを互いに理解できない場合だ。
実務の世界で学習する思考方法と、学校の仮想訓練の思考方法は、方向性が逆だ。学校で優秀であることは「整合性」の追求、「つじつま合わせ」だが、実務では現実に対応する独創的な「知恵」と、失敗を恐れない「勇気」が必要になる。
実践社会で結果を出すには、数値や論理より、常に人知を越えた「現実」に立ち向かわなければならない。しかも、誰もそれを採点してくれない。結果だけが物を言う。

始めから実践で学習した人は、現実対応力は身に付きやすいが、「整合性」で学習した人はその概念がじゃまをする。よく言われる「会社に入っての再訓練」は、知識と現実の融合力訓練だ。
双方の言葉が通じないのは、整合性にこだわるバカと、整合性を理解しないバカの、「壁」だ。
映画「ルーキー」もそうだが、戦場では学校出の士官より、たたき上げの鬼軍曹の方が対応力がある。徳川家康と石田三成の差だ。

しかし、仮想訓練で優秀だった人は、現実に投げ込まれ、概念の崩壊に苦しんだ上で、再度立ち上がる能力を持っている場合が大半で、遅ればせながら、たたき上げの先輩より有能になる場合が多い。

●三番目は、本当にバカの場合だ。
学校という世界しか知らず、そこで優秀である自分は「人間として優秀だ」と思い込み、凝り固まってしまっている。
こういう人は、現実社会を受け入れられず、プライドに閉じこもって生きるかドロップアウトする。いわば壊れて、もう直らない。

ところが、直る可能性のある人でも、学校から→学校と同じ環境に入ると、つまり、役人社会のような「整合性」能力だけで評価されるような社会にいると、現実感を身につけることなく、プライドとつじつまの固まりに凝縮してしまう。

現実に生きる一般社会人からみると、役人は、何でこんなにバカなんだと思うのだが、彼らは大学生よりたちが悪い。
未来永劫、再訓練をする機会がないからだ。
彼ら自身も解っているから、役所の穴から出てこようとはしない。出る時は、役所の旗をしょった天下りしかできない。
役人は、もう治らない。

水瓶は膨らむもの


水瓶は膨らむもの

2009年01月26日 | 星の流れに

ベトナムでは渡し船が「転倒」した。
水瓶座の木星で、ロシアも興奮している。ガスを止めてみたり、輸入外車に関税をかけて閉め出してみたり、挙げ句の果てには、略奪同然にもぎ取った、サハリン2の天然ガス生産開始式典に、日本の総理大臣を招待してみたり。お得意のごり押しだ。
天然資源で強気に出ていたのが、経済ショックで相当慌てているのだろう。

木星は向上や解放を表す
水瓶座のロシアは境遇改善のために手を打ち出したわけだ。これは人間なら、具合悪いからと、とりあえずの手術だが、たいていの場合は、この手術自体が体調を狂わす。
成長していた癌を早期発見しての手術は「改善」につながるが、どうも具合悪いからと手術をすれば、命取りになる。
ロシアの行動は、とりあえずの手術だ。計画性がない。

日露間のあらゆることを話そうと言っている以上、北方領土問題がエサなのだろうが、ロシアは歴史的に紳士協定の相手にはならない国であることを、誰でも知っている。

しかし、この際、ロシアを信用するのではなく、信用したフリをして第三国を巻き込んだ、がんじがらめの協定を結ぶなら、天秤座の日本にとってはチャンスかも知れない。

泥臭いロシアに対して、精密機械の日本の官僚では対応できない。
戦前の軍部と官僚は「日ソ中立条約」のような額面上の条約をすっかり信用していた。
これに対し、日露戦争の推進者は明治維新の実戦現役世代で、ものごとの「現実」を見ていた。勝てない相手に負けないために戦争を始めた。
なにしろ、錦の御旗だけで形勢逆転をする知恵と、核心を見抜く目を持っていた連中だ。

今の官僚はパズルや将棋の秀才ばかりで、現実を見る目がない。
戦前の軍部とまるきり同じで、つじつま合わせが仕事だと思っている。
強い意向を「承って」見事に処理をする。
今までアメリカの意向を承って来たが、自分の意志やビジョンはないから、強い意志が乱れたら困ってしまう。こんな時に、ロシアや中国のような別のベクトルが動き出すと、どうして良いか解らなくなる。
政治家は論外だ、官僚のガキの使いに過ぎない。
戦前の軍部と、今の官僚の違いは、他人の言うことばかりを気にするか、まったく気にしないかの両極端だが、
どちらも、自分の目で現実を見ない。

水瓶座は天秤座にとって悪い相手ではないが、強引さとハッタリ精神に振り回される相手だ。こちらから要求することは逆手にとられる。向こうの出方を見てゆっくり態度を示せばいい。
水瓶座は天秤座から見て子供や恋人だ、欲目で見れば互いのタメにならない。


小さな省エネ 2

2009年01月25日 | 生活の知恵

ペットボトルの湯タンポは、ペットボトルが現れた時から使われているので誰でも知っている。
専用の湯タンポより便利なこともあって、寒い夜は使うことがあるが、湯を沸かすのは面倒くさい。

ふと思いついて、石油ストーブの吹き出し口に置いてみた。
2~30センチぐらい前に置いておくと、2時間ぐらいで充分使える温度になる。真ん前に置く必要はない。熱風が当たれば少し横でいい。

何より良いのは、中身を入れ替えなくても良いことだ。
できれば、布団から直接出したまま置いておけば冷めないので、暖まるのが早い。もちろん裸にして。

さらに
これで気づいたのだが、ペットボトルの中身を暖める時、たとえば飲料水を電気ポットに入れるような場合や、お湯にしてお茶などに使う場合。初めからストーブの前に置いておけば、水からわかす必要がない。
ある程度の温度にするのに、お風呂に入れておく人の話を聞いたが、これよりも早く、しかも温度が高くなる。拭く必要もなく衛生的だ。

ただし、あまりストーブに近づけ過ぎると何が起こるか解らない。
ご用心だ*

きっと、既にやっている人もあると思うが、今頃気がついた。

小さな省エネ(1)

*ペットボトルの周りに印刷用の膜が張ってあるものは必ず除去すること。これが縮んでボトルを変形させ爆発につながる。


ザンネーン!

2009年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム

NHKスペシャル「女と男」は、日頃このブログで言っていることとほぼ同じで、溜飲を下げた。

「女性」の乱用についても、
「男と女」「男性女性」「男女」「雄雌」を、きらびやかに使い分け、
「さすがNHK!」と・・・言いたかったのだが、「ザンネーン!」

初めは「男性と女性」の乱用をグチっているこのブログを読んでもらったんだろうかと思うほど、使い分けていることに驚いたのだが、聞いているうちに笑えてきた。

やたら使い分けているのだが、一貫性が全くない。
なぜ、脈絡もなく使い分けるのか考えながら見ていたのだが、おそらく制作スタッフ自身、「オンナ」と言う呼び方をすることに抵抗がありながら、すべてを「女性」と呼ぶことに対しても、論理的に釈然としない・・・そんな、中途半端な気分で制作していたのだろう。

これは、NHKの中で言葉の定義がシッカリできていないのだろう。
まあ、毎日、様々な立場から奇っ怪な抗議を受けているNHKの辛い立場はよくわかる。しかし、それなら、言葉オジサンのような番組で繰り返し、NHKの定義を周知していけば良いだろう。

こう思う
男と女:人間の雌雄がつくった社会の中での、雌雄の「立場」を呼ぶ呼び方。ジェンダーの雌雄。
男性女性:男と女の雌雄の部分。純粋に生態機能の「姿」を表す。
男女:男と女、男性女性、雌雄など、すべての異性「関係」の呼称。
雌雄:知性や文化と関係なく生態機能の違いを表す。オスメス。

この中で変容するのは「男と女」だけだ。
言葉が実体を定義するのではなく、実体が言葉を定義する。
「性」のような科学的な言葉は、言葉そのものが実体を説明するが、「男と女」のような、文化にともなう言葉は  文化の実体の変化にともなって定義が変わってゆく。

「男と女」を肯定的にするか否定的にするかは、使う人と時代によって決まってくる。そういう意味で、「男と女」という言葉を大切にしていきたいと思うのだ。

NHKの制作スタッフは、良く整理のつかないまま性差別を回避しようとしたのだろう。
ささやかな抵抗なのか、「男と女」を「女と男」のタイトルにしていた。


落下

2009年01月23日 | 星の流れに

微妙に・・・」で、水瓶座では「落ちる」に関することが起こると言ったばかりだが、造船所のタラップ落下事故が起こった。

天王星が水瓶座に入った1996年には、北海道の229号線の豊浜トンネルが崩落、木星も来た翌97年には、同じく白糸トンネルが崩落。
天王星の大惨事は、水瓶座の北海道で、しかも229号(=4)線で立て続けに起こった。

遡れば、他にも水瓶座の「落下」は色々ある。今年の場合は天王星ほどショッキングではないが、海王星同居で造船所など、海洋と関係する。
太陽・水瓶座中にまだあると思うが、次は獅子座の夏も危険だ。

この「落ちる」はハプニングの一つだが、人間も水瓶座の人にはよく起こる。年寄りの転倒や落下は、水瓶座の老人は特に注意だ。
水瓶座は観念的で、飛んでる人が多いからかも知れない。


こどもの国

2009年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

昨年の木星→山羊座を振り返って、一つ忘れていたのは、61歳の秋元順子がデビューし、紅白に出場。オリコンチャート1位になった。
アラフォーに対抗して、アラ還の星なのだそうだ。
いよいよ山羊座

近頃、「中年」と言う言葉が消えたようだ。消える前には、「中年」とは何歳ぐらいか話題になった。
いつ頃から中年という言葉があるのか知らないが、昔は30代後半から50代中頃までを、そう呼んでいたように思う。
まさに、アラフォーのことだ。

ところが、中年の概念が崩れ始めると、むしろ、医学的には25歳から中年だと言われ、「25歳はお肌の曲がり角」のCMが出たりして、却って、「中年」の言葉が消えてしまった。

人生50年の時代なら、中年後期は老年だったわけだから、「中年」の言葉が出た頃は新しかったのだろう。

平均寿命が延びるにしたがい、世代の概念はどんどん変化する。
人生80年時代の今なら、単純に3等分すればやはり、27歳ぐらいから50代半ばを中年というのだろうが、中年という概念が無くなった今は、年齢で世代を区切るのが難しくなった。

子供、大人、年寄り
結局、この区別をどうつけるかなのだが、昔は単純に肉体年齢だったから、精神年齢も肉体に合わせての「自覚」が生まれた。
ところが、学校のように、年齢で画一的に成長度を決めつけるシステムでは、規格外が落ちこぼれ、天才の芽は摘まれた。

昔の大人は、親や親代わりに当たる人が、様子を見たり状況を見たりして、元服させた。
また、若衆宿などで、大まかに幼児と若者を別けて、先輩が判断しながら大人にしていった。
大正生まれから聞いた農村の風景は、「十四、六十、お背*仲間」と言って、十四歳になると、腰にキセル入れをぶら下げて歩いていたそうだ。
(*方言:古語の背や兄が残って大人という意味になったらしい)

アメリカの州によっては、結婚を14歳からに定めているところもあるし、「今まで生きてきた中で一番うれしい」と言った水泳の岩崎恭子ちゃんも14歳だったし、先日、京都女子駅伝で驚異の区間新記録を出した双児の久馬姉妹も中学生だった。
スポーツ選手が確実に14歳から大人に互すところを見ても、肉体の大人年齢は14歳だろう。

ところが、学生を未成人と見なす慣習が、高学歴化とともに未成人の高齢化を招き、世の中全体の未熟化が進んだ。
昔は、「学生気分が抜けてない」と叱られたものだが、世の中全体が「学生気分」になってしまった。

学生気分そのものは、思考の柔軟性や、タテ型排除の意味で大切にすべきものだと思うが、近頃の学生気分というのは、むしろ、遊びと幼児性の一方で、極端な効率主義になっている。
現実を直視しない夢追いと、学校を就職の手段とする現金さが同居し、そのままアラフォーまで成長してしまった。

その結果、世の中全体が自分を失い、他人の夢と他人の方法で生きながら「自分は本当はこんなはずじゃない」と不満を持つ。
これは子供の夢なのだが、それに気づかない。

大人とは、自分の置かれた境遇を受け入れ、その上で、より向上しようと努力するものだが、近頃は境遇を受け入れないための努力に満ちている。


水瓶座&獅子座

2009年01月21日 | 占いばなし

もう「大寒」、太陽が水瓶座に入った。今年は水瓶座に木星も海王星もいる。
オバマ新大統領がついに誕生した。
水瓶座は獅子座の対角線上にあるから、獅子座のオバマにとってはピーク、目的達成に当たる。エネルギー最高の時で、対人に振り回される時。そのせいか、宣誓復唱で、トチったりしていたのはご愛敬だ。(リード側が言い間違えた)

なお、ビル・クリントンも獅子座だった。王権を表す獅子座の、最高潮の時である水瓶座が、アメリカ大統領の就任式の時に定められたのは自然の成り行きだったのか、占星術の影があったのか興味深いところだ。
王権を表す獅子座に対して、水瓶座は民意による権力を表す。
オバマが傾倒するリンカーン大統領は水瓶座だ。

この対角の関係は、表裏の関係であり、互いに欠けているものを補い合う関係だ。通常は仲が悪いが、上下関係が決まったり、男女のように欠けたるところを埋め合わせるような関係では、強く惹き合う。

獅子座の人は英雄気質だから、英雄にあこがれる。伝記が好きで、アメリカ人なら当然、大統領にあこがれる。クリントンはケネディーにあこがれ、オバマがリンカーンにあこがれて大統領になったのは、占星術的には必然だ。

獅子座は王の独裁権力だが、水瓶座は皆に慕われてこその権力だ。
したがって、獅子座が願うもの、あこがれるものは水瓶座の人気であり、水瓶座があこがれるものは王らしい権力だ。
しかし、実際にはそれぞれ本性が出てしまう。
リンカーンはアメリカ大統領最大の人気者であり、クリントンは王様ゲームの印象を残してしまった。

ちなみに、やはり人気の高かったロナルド・レーガンも水瓶座だった。
もう一つ、ちなみに言えば、ケネディーは双子座であり、やはり双子座のマリリン・モンローとともに、双子座アメリカの顔になった。


現場体験

2009年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

現実を体験したことがない人間は過激になる。

格闘技の達人のほとんどが、できれば喧嘩はしたくない。中には、喧嘩になったら逃げると言う人もいる。相手を怪我させてもまずいが、絶対に勝てるとは限らない。喧嘩をするのは格闘の怖さを知らない者のすることだと言う。

スポーツでも、第一線でやってきた選手は他の選手の失策を批判しないが、ファンは無責任な批判をする。
選手をボロクソに言って、自分ならできるような気になっている。選手になったつもりで観戦しているから、現実を忘れるのだろう。

どんなことでも、自分が実際に経験したことがなければ、妄想が無限にふくらみ、どんどん過激になる。

戦争も、戦場の経験がなければ過激になる。
司馬遼太郎は、戦前の日本軍部は、実際には辛勝の日清・日露戦争の伝説に酔って、現場を直視しなかったと言っていた。

ブッシュもクリントンも戦場には行っていない。
イラク戦に消極的だった国務長官コリン・パウエルは、ベトナム戦争を体験し、二度も負傷した。
そのパウエルが、国連安保理でブッシュの代弁をさせられたのは、見ていても気の毒だった。

中国も、革命実戦世代がいなくなったことが心配だ。
実戦経験のない軍事国家が、経済力をつけてどんどん武器を強化し、潜水艦で力を誇示したり、ついには空母まで建設する。
軍人にとって、実戦経験がないことは、童貞コンプレックスだ。
やってみたくてしかたがない。妄想が極限までふくれる。
どこの国でも、野戦経験のない参謀部は、現場を無視した戦略戦術に走る。

戦後生まれの田母神元航空幕僚長は、航空自衛隊では、高射運用が専門だったそうだが、戦闘機を操縦してスクランブル発進をしたことはあるのだろうか。

現実力


古代アメリカ(3)

2009年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム

日本を旅する時は、いつも、海を越えて「おおやしま」にたどり着いた渡来人になって景色を見る。

山を越え、川を渡る時、鬱蒼とした原始林の森や山、岩間を流れる清流・・・そんな景色を思い浮かべる。鉄橋も道路も家も無い。

「渡来人の目」が感動する光景の一つは、福井県の若狭湾から南に峠越えをして、滋賀県の琵琶湖が現れた瞬間だ。
川を辿り原生林の山を越え、突然、眼前に開けた海を、湖だとは思わなかっただろう。

大陸からの最初の渡来人は、おそらく、ようやくたどり着いたボートピープルだろう。そして、そこで出会った先住の縄文人に優しく迎えられたことだろう。
アメリカ大陸を発見したコロンブスの船員や、開拓初期のアメリカでも、最初の出会いはおおむね友好的だったようだ。
問題は、それを伝え聞いた母国の、欲にまみれた連中だ。

宝島を求めてゴールドラッシュが始まる。「宝」と言っても、当初は土地だ。
アメリカにやってきた連中が、我が物顔で土地を奪い合う、開拓時代の歴史には、先住民は危険な邪魔者としてしか出てこない。

全く同様に、日本列島に大挙して渡って来た農耕民は、じゃまな原始林を切り開くように、じゃまな先住狩猟民を駆逐した。近年の生々しい遺跡がそれを物語っている。

そうした、初期の渡来開拓者の、日本海側に直接来たグループは、太陽に向かって原生林の山に分け入っていった。
どれほどの土地なのか、想像もできないまま登っていくと、突然、海が開けた驚き。
おそらく、大海に続く入江だと思ったにちがいない。
そして、岸辺まで降りて真水であることを知った時、あらためて、この土地の大きさを実感したことだろう。

渡来人の末裔
日本中に、渡来人の歴史が刻まれている。
日本人は渡来人の末裔、移民の国だ。日本の独特の文化も移民が創り上げたものであり、流入と閉鎖を繰り返しながら、ミックスという個性を創ってきた。
明治以降、再び始まった流入は加速している。日本の個性的文化は流入という酸素がなければ活性化しない。

国際化と言いながら他文化を差別する閉塞より、鎖国の意識を持って流入と進出を活性化させたい。それが新鎖国論、ブレない日本の「共生活力」だ

それは、たとえば、古都京都の文化を守るということは、ほんの江戸時代からの町屋の「形」を守るような狭視野なことではなく、千年の都が持ち続けた進取の「精神」こそが守るものであり、進取の精神はむしろ古い形を壊すことを厭わないことでもある。
京都の現状を守ろうとする時、生きた京都文化は博物館の中に消えることになる。
本来の京都精神は、現在の東京のように、毎日変わっていくことを喜びとするものだったはずだ。

日本が、日本文化の既存の「形」にこだわり過ぎれば活力を失い、やがて世界の中では、新トレンドのエスニック素材にしかならなくなるだろう。

古代アメリカ(1)、古代アメリカ(2)


古代アメリカ(2)

2009年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

渡来と共存
寄り合い所帯の中で、さまざまな離合集散を重ねながら、一つの国家を作っていく過程は、似てくるのかもしれない。

地域集団の連合→中央権力の確立→権力闘争→全体を二分する大戦争

おそらく、中国大陸や西アジアでも遙か昔に起こったのだろうが、古代にしては舞台が広すぎた。連合政権より、支配被支配、駆逐逃亡の繰り返しが続いたようだ。
そのため、広い地域では、攻防の中でも意外に民族が残った。民族は生活文化を共有する集団であり、血統とは関係ない。

民族間の争いは、互いに人種が違うように信じているが、生活習慣や言語、宗教による文化の違いに過ぎない。
近年の遺伝学がそれを明らかにしているが、こういう知識が行き渡れば民族紛争の解決に繋がるように思うのだが、ことはそう単純ではないようだ。

古代日本とアメリカ合衆国に共通するのは、逃げ場のない閉じこめられた空間で、しかも外敵に強い。連合政権誕生は必然だった。
当然のことながら、民族意識は生き残れず、代わりに、「お国」(地域)意識が生まれ、日本は2000年にわたり、一つの民族として統一することはなく、現代アメリカのような合衆国意識を持つことになった。

アメリカは、国内の選手権をワールドシリーズと呼ぶ。
王朝以後の日本では、言葉の違う集団が「ナマリはお国の手形」と、民族紛争もなく「日の本」に共存した。
(戦国時代は民族闘争ではなく、権力闘争や地域紛争の拡大版)

これに似ているのは、古代ギリシャで、互いに争いながらも共存し、侵略者ペルシャには団結して対決した。
日本神話と、ギリシャ神話が似ているのは「多様な神々」であり、多様な集団の寄り合い所帯だったからだろう。
アメリカ神話は今、ハリウッドで生まれている。

アメリカが一国主義に走りやすいのは、日本と同じように自己完結型の「島国根性」だからだろう。

Back to the Future
2000年前の日本が今のアメリカなら、2000年後の地球は今の日本。
これも持論で、前にも何度か書いたのだが、狭い日本は狭い地球の究極の姿であり、それは同時に、アメリカ型の世界がこれからも広がっていくことを暗示している。
ややこしいが、未来世界はアメリカ型の連邦制になり、権力の一元化から分裂混乱を経て、ようやく統一される。現在は、アラモの砦もまだない時代だ。

ということは、アメリカ時代の終焉はアメリカの終わりではなく、アメリカの拡散に他ならない。
日本列島の2000年間にも、いろいろな歴史があったように、人類が長らえれば、これからもいろいろあるだろう。
知るよしもない2000年の未来だが、何とはなく、見えるような気がする。

古代アメリカ(1)、古代アメリカ(3)


古代アメリカ(1)

2009年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
「Voice」養老孟司・渡部昇一対談で、養老孟司が「日本はアメリカだったんじゃないか」と言っていた。
平和連邦」でも少し言ったが、30年来の持論と同じだったので、この際、「日本は2000年後のアメリカ」について追記したい。

科学的な裏付けは、まだこれからいくらでも出てくるだろうが、古代人の目で見れば、「おおやしま」日本は、緑の新大陸だった。
大きさの違いは「足」の違い。つまり、移動手段が違っても、移動にかかる時間が距離になるから、古代人にとっての日本列島はまさに、アメリカ大陸に匹敵する。
開拓時代の、先住民との争い、渡来集団どうしの争いと融合、権力闘争、その過程の言葉や文化の融合・・・
古代の伝説や神話、考古学的な遺物を俯瞰すると、開拓時代からのアメリカ400年と、弥生・古墳時代の日本には、きわめて共通性がある。
百済や伽耶との関係も、現在の国家主義や民族主義ではとうてい理解できない。
むしろ、アメリカ史の中に、2000年前の日本の景色が見えてくる。

アメリカはイギリスではない
新大陸アメリカは、ヨーロッパには植民の新天地とみなされたが、実際には、現地に渡った人間の土地となった。新大陸に渡った人々は本国とつながっていると思っていたが、結局は、独立国を造っていく。
古代日本の朝貢とは異なるが、独立の前段階は共通している。

アメリカ公用語は英語だが、アメリカ、カナダには戦争や飢餓の難民が何層にも渡って来て、多言語が混在し、いまなお融合を続けている。
日本古代に渡来してきた多くの集団も、戦火や飢餓を逃れてだった。
日本語の系統は今も辿ることができない。日本で融合したからだ。

アメリカはヨーロッパの戦争には関わりたくなかったが、要請によって参戦し、その後も駐留している。
日本の古代においても、朝鮮半島に出兵し滞在している。

アメリカにはアメリカ人が住んでいる
「若い移民の国アメリカ」のイメージも、もう400年もたつ。
アメリカには、既に「アメリカ人」が生まれ始めている。
態度や言動だけではない、明らかにアメリカ人の顔がある。文化的な表情もあるだろうが、さまざまな人種の混血は確実に起こっている。

今の日本が、日本人としての顔を持ち、同時に、地域の顔も残しているように、アメリカも、地域に固定した集団と全体的な混合とが、並行して進んでいくのだろう。

古代アメリカ(2)古代アメリカ(3)



微妙に・・・

2009年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

飛行船の話を書いたら、飛行機が落ちた。また、できすぎだ。
別に、昨日、飛行船の話を書く必要もなかったのに、ふと書いたらこれだ。
とにかく、全員無事で良かった。またも機長のファインプレーが光った。

ヒンデンブルグ号の爆発のことも書いたが、これもニューヨーク近郊のことだった。
毎日、星の動きを監視しているわけではないが、頭のどこかにあるのだろう。
4日の「2009年」では書かなかったが、木星→水瓶座の年には「落ちる」「倒れる」「転ぶ」に関係することが起きる。

ヒンデンブルグ号爆発(1937/5/6)は、木星はまだ山羊座だったが、27゜で、水瓶座の影響圏に入っていた。(牡羊座の土星も作用している)

スタンスとして、
霊感や直感を遠ざけていたが、こういうことが度々あると、もう少し素直になっても良いんじゃないか、と思うようになった。
それで、なるべく「思ったら」素直に動くようにしている。
しかし、「狙う」と外れる。狙いには欲が働くからだろう。

以前、通りかかった地味な宝くじ売り場で、ふと「なんかある!」と思ってバラで10枚買ったら、5番違いで外れていた。
悔しいので、わざわざ、その売り場まで見に行ったら、「3億円当選!」と書いてあった。
あることは感じても、手にすることはできなかったというわけだ。
もっと自分を信じて、感じたままに100枚でも買っていたら、当たっていたのかも知れない。

いや、結局、金運の問題なのだ。見えている魚が釣れるわけではない。