昨年の木星→山羊座を振り返って、一つ忘れていたのは、61歳の秋元順子がデビューし、紅白に出場。オリコンチャート1位になった。
アラフォーに対抗して、アラ還の星なのだそうだ。
(いよいよ山羊座)
近頃、「中年」と言う言葉が消えたようだ。消える前には、「中年」とは何歳ぐらいか話題になった。
いつ頃から中年という言葉があるのか知らないが、昔は30代後半から50代中頃までを、そう呼んでいたように思う。
まさに、アラフォーのことだ。
ところが、中年の概念が崩れ始めると、むしろ、医学的には25歳から中年だと言われ、「25歳はお肌の曲がり角」のCMが出たりして、却って、「中年」の言葉が消えてしまった。
人生50年の時代なら、中年後期は老年だったわけだから、「中年」の言葉が出た頃は新しかったのだろう。
平均寿命が延びるにしたがい、世代の概念はどんどん変化する。
人生80年時代の今なら、単純に3等分すればやはり、27歳ぐらいから50代半ばを中年というのだろうが、中年という概念が無くなった今は、年齢で世代を区切るのが難しくなった。
子供、大人、年寄り
結局、この区別をどうつけるかなのだが、昔は単純に肉体年齢だったから、精神年齢も肉体に合わせての「自覚」が生まれた。
ところが、学校のように、年齢で画一的に成長度を決めつけるシステムでは、規格外が落ちこぼれ、天才の芽は摘まれた。
昔の大人は、親や親代わりに当たる人が、様子を見たり状況を見たりして、元服させた。
また、若衆宿などで、大まかに幼児と若者を別けて、先輩が判断しながら大人にしていった。
大正生まれから聞いた農村の風景は、「十四、六十、お背*仲間」と言って、十四歳になると、腰にキセル入れをぶら下げて歩いていたそうだ。
(*方言:古語の背や兄が残って大人という意味になったらしい)
アメリカの州によっては、結婚を14歳からに定めているところもあるし、「今まで生きてきた中で一番うれしい」と言った水泳の岩崎恭子ちゃんも14歳だったし、先日、京都女子駅伝で驚異の区間新記録を出した双児の久馬姉妹も中学生だった。
スポーツ選手が確実に14歳から大人に互すところを見ても、肉体の大人年齢は14歳だろう。
ところが、学生を未成人と見なす慣習が、高学歴化とともに未成人の高齢化を招き、世の中全体の未熟化が進んだ。
昔は、「学生気分が抜けてない」と叱られたものだが、世の中全体が「学生気分」になってしまった。
学生気分そのものは、思考の柔軟性や、タテ型排除の意味で大切にすべきものだと思うが、近頃の学生気分というのは、むしろ、遊びと幼児性の一方で、極端な効率主義になっている。
現実を直視しない夢追いと、学校を就職の手段とする現金さが同居し、そのままアラフォーまで成長してしまった。
その結果、世の中全体が自分を失い、他人の夢と他人の方法で生きながら「自分は本当はこんなはずじゃない」と不満を持つ。
これは子供の夢なのだが、それに気づかない。
大人とは、自分の置かれた境遇を受け入れ、その上で、より向上しようと努力するものだが、近頃は境遇を受け入れないための努力に満ちている。