魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

冬眠

2008年12月28日 | 星の流れに

きょうは山羊座の新月だが、それだけではない。併せて6っつの星が山羊座に集まっている。

土星で表すユダヤ人の国、つまり山羊座のイスラエルはガザに大規模空襲で死者多数。同じく山羊座の印パは軍事衝突寸前。

いよいよ、とんでもないことが起こりそうだが、ブログも過激なことを書いてしまったので没にした。天王星と土星でうまく取り持っているから、印パも衝突は納めてほしいな。

心配してもどうなるものでもないから
このまま冬眠いたします zzzzz
(時々起き出すプークマかも)


100年vs250年 2

2008年12月27日 | 星の流れに

干支の60年、天王星の84年、冥王星の約250年
世紀や時代に関わるサイクルとは実際、どんなものなのか。

干支60年は、
土星30年と木星12年の最小公倍数だから、人間の記憶にある時代だ。年寄りに聞けば、証言を聞くことができるから、実感することができる。現代人も共有できる昔だ。
80歳の人に聞けば、20歳の大人の感想を聞くこともできる。

天王星の84年は、
生の記録が残っている時代だ。ほとんど、証言してくれる人はいないが、手紙や証文、公文書など、かなり正確に残っている。現代なら、新聞や映像、音声などの生々しい資料を簡単に見ることができる。その気さえあれば、自分で時代を想像しイメージできる世界だ。

一世紀以上の時間が経つと、資料も断片的になっていく。ある程度、意図的に集められた資料か、歴史家の努力で発掘されるような資料しかない。
つまり、一世紀以上経つと、何らかのバイアスがかかった資料で知ることになる。だから、歴史的知識や常識は、鵜呑みにするわけにはいかない。歴史的事柄の情報は、情報を全部並べて、情報そのものの信憑性すら考えなければならない。

しかし、火のないところに煙は立たない。歴史に残るような話は、歴史通りではなかったとしても、何らかの「そのようなこと」があったと考えるべきだろう。

冥王星の周期、約250年となると、かなり確かな歴史とはいえ、実体はわからない。
1760年代。七年戦争による国際関係の変化、ワットの蒸気機関など、それまでの経済と国際秩序が大きく変わっていったわけだが、細かな経緯は本当のところよくわからない。「大転換」が起こったことだけがわかる。ワットの蒸気機関の1769年に、ナポレオンが生まれているのは象徴的だ。

「何となく」大転換が始まったんだなあと、前後の歴史を見れば思えるが、まさに「後にして思えば」の話だ。

冥王星に象徴されるような時代は、歴史家が定義する時代に匹敵するが、過去250年を見ると、江戸時代とか明治時代とかに関係なく、むしろ歴然と、地球経済、人類の生き様が浮かび上がる。

徳川三百年というが、江戸時代はざっと250年、他の様々な王朝権力の寿命もこれぐらいのスパンが多い。
日本で江戸時代と言われる時代も、実際には、やはり中期ぐらいから産業、経済、文化に変革が始まっている。
徳川の鎖国時代も、地球規模の変革にはしっかり組み込まれていたわけだ。

今の、大転換も、本当のところ、現代人には見えない。
目に映るのは60年や84年の繰り返しだけだが、もっと大きな意味があることを意識した方が良いだろう。


えらい

2008年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム

関西で「あんたはエライ」「エライこっちゃ」、関東なら「たいしたモンだ」「たいへんだ」は、小さくないことを言う。

「偉い」というのは「人と違う」意味合いがある。
「偉」は、偉人、偉丈夫など「大きくて立派な」と言う意味だが、
漢和辞典によると「偉」や「違」の「なめしがわ部」というのは、なめした革がピンと反り返る姿、背き合う姿を表すのだそうで、もとは、守衛が門前で、シャンと立っている姿なのだそうだ。

しかし、小さい人でも「偉い人」は多い。むしろ、偉人が大柄の場合、わざわざ、大柄だったと付け加えるぐらい珍しい。
言うまでもないが、「偉人」の目立つ立派なこととは、生き方や業績が「大きくて立派」なことだ。

だが、偉人も初めから「大きくて立派」だったわけではなく、結果を見て他人がそう決める。
では、偉人が偉人になる要素は何だったのかと考えると、むしろ、「反り返り背く」姿勢こそが偉人の資質ということになる。

小さく、小さく、小さくな~れ
学力低下でゆとり教育を止めて、また教科書が分厚くなるそうだが、学校の存在意義自体を根本から問い直すことなく、何度、手直しをしても、そこから偉人は育たない。

教育が学力をつけることではなく、人をつくることであることが、もう、ほぼまったく消えてしまった。

「人並みにできない子供」を無くそうという発想自体が、人(格)殺しの発想だ。

後世、偉人と言われる人に、近代学校の優等生はきわめて少ない。
変わっている、人に和さない、いじめられっ子、落第生・・・ほとんどそんな子供だった。
中には、神童のまま天才・偉人になる人がいるが、たまたま、地域や社会がそれを受け入れる状態だったり、別格扱いをして丁寧に扱った場合だ。(たまたま変人が保護された)

健全な好奇心さえ育てば、大人になってからでも専門家になれるし、幼児期からの訓練が必要な分野では、仕込むより、能力を見抜いて伸ばすことの方が必要だ。
均質な人間をつくるのではなく、個々の能力が生かせる教育をするには、年齢で別けたり、大学入試を目的にする教育システムを、まず無くさなければ、偉人の卵は全部壊れてしまう。


高齢者

2008年12月25日 | 星の流れに

射手座の木星の時、スペインで67歳の超高齢出産でビックリ。
今年、山羊座に木星が来たら、インドで70歳が記録更新。
こもごも07/01
スペインは独身で子供がほしかった、インドは男の跡継ぎがほしかった、いずれも体外受精。何ともすごい執念だ。
おもしろいのは、いずれも不可能だとは思っていなかったことだ。
志あるところ産道あり。

これは若い頃から思っているのだが、体力と気力は反比例する。
50歳ぐらいから徐々に、気力が生命力を上回り始め、80歳ぐらいを過ぎると、ほとんど気力だけが生きている。
気力だけ生きているのではない、気力だけ生きている。

宇野千代だったか、高齢になって「わたし死なないんです」と言っていたそうだが、高齢者のひとつの心境だろう。
金さん銀さんなどを見ていると、まるで気力の入れ物のような気がする。もう肉体を超越しているのだ。

今度の最高齢、宮崎の113歳の田鍋友時さんには仰天感動した。
これまでの最高齢とはまったく様子が違う。下手なことを言うと叱られそうなぐらい眼光が鋭く、カクシャクとしている。しかも可愛い。
高齢者の気力は、体力から出てくると言うより、肉体は外界とコミュニケーションをとる仮の姿と考えた方が良いようだ。
まさに、仙人なのだ。

仙人も妖怪も、年を経て形の無い「存在」になる。90歳ぐらいになるとかなり近い心境になって「死なない」と感じるのだろう。
しかし、これぐらいになると、本当に生死の境目の自覚がないようで、スッと死ねる。こういうのを大往生というのだろう。あやかりたい。

老人の星は土星と海王星だが、寝たきりや介護に関しては海王星。老獪パワー、年寄りの知恵などは土星。
今年は木星が山羊座(土星)で、元気老人の話が多かった。
「後期高齢者」が話題になったのは、怒る元気老人が増えたから、土星が海王星と一緒にするなと声を上げたと言うことだ。
ところで、アラフォーは、前期高齢者なのだが。これも怒るだろうなあ


100年vs250年

2008年12月24日 | 星の流れに

麻生総理は「100年に一度の危機だから」と繰り返す。
その心意気は良いのだが、「100年に一度?」で言ったように、250年に一度の地殻変動だから、単なる経済サイクルの大津波のつもりでどんな対策を打っても無駄金だ、大転換の大陸移動の狭間に飲み込まれてしまうだけだ。

現状対策はやむを得ないが、むしろ来年は効き過ぎてしまうかも知れない。
日本の場合、世界不況の余波は心理的なパニックの方が大きいから、過剰な対策は、一時的に歪んだ活況を生み、そのあとガクンと落ちる危険がある。

と言うのも、年明け早々、木星が水瓶座に入り、天秤座の日本には良さそうな風が吹くが、秋には土星が天秤座にくる。ここで急転直下になる可能性が高い。
「可能性」と言うのは、事柄によって、やりようによっては土星が吉作用をもたらすこともあるからだ。

水瓶座の木星が、天秤座の土星と良い角度になるのは約60年ぶりだ。
天秤座に土星がくれば、日本は本来は不幸になるが、木星が良い角度にいると、むしろ土星が役に立つ。つまり、「厄もって福となす」。

60年
干支と木星は少しずれているが、だいたい60年前。1949年、木星が今年と同じ山羊座にいる年に、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞し、日本中がわいた。
今年のノーベル賞は日本人、日系人、併せて4人と「かつて無い」年になった。なかでも話題になったのが益川氏だったことは、湯川→益川と、いつも言う占いの現象イメージに合致している。

来年は干支はずれるが、60年前と同じ「木星水瓶座△土星天秤座」となる。
1950年=昭和25年、朝鮮戦争による危機から、特需、国際社会復帰と、厄転じて福となったが、その後の不可思議な国際情勢に組み込まれていくことになった。

250年を考える
こういう現実によって世相、世界は動いていくが、冥王星は直接手を下さず、この時代はなんだったのかを意味づけていく。
そういう、「時代の意味」や名前の転換が起こる時には、その大きさを意識した柔軟な対応が必要だ。
大量生産時代、化石エネルギー時代、大量消費時代・・・そう呼ばれるものが終わる。
生き方と価値観が変わることを考えて、政策を先取りしなければ、全てが無駄な努力になる


結婚の未来 2

2008年12月23日 | 結婚コン

結婚のパターンは、何よりも経済に影響される。
子供を産み育て、生きる方法を次の世代に受け渡ししなければならない。(命と文化の伝授)

狩猟、遊牧、農耕など、その生きる方法で文化は異なる。
食料環境が安定していれば、文化も安定し、結婚の形も固定する。

その安定した生活も、自然環境の変化や、異民族との交流、文化思想の伝搬によって、経済環境の変化や価値観の変化が起こり、結婚の形も変化する。

しかし、安定した一つの時代が何百年にもわたることもあり、その中で暮らす人は、先祖からの結婚形態が自然の摂理のように思い、守らなければならないものだと信じて暮らす。
人間の生活が、家族や地域の生産で営まれていた時代は、それで良かった。

ところが、産業革命で生産形態が変わり、家単位の生産が失われた。
給与生活によって家業から切り離された男女が、家業のための結婚ではなく、社会の維持のための核家族をつくり始めた。

それまで、家によってなされてきた子育てが、保育園や学校など、国家というシステムによってなされるようになった。
家の掟は国家の法に替わり、個々は国に帰属することになった。

ところが、さらに、経済のグローバル化や人々の大移動時代を迎え、従うべき国家や、守ってくれる国家の形が見えなくなってきた。

さらに、科学技術の発達により、子供を産み育てるということが、必ずしも男女の結びつきを必要としなくなってきた。

人間は宇宙には行かないのか
今はまだ、始まったばかりだが、これまで、人間が当然と考えてきたことは、一度、白紙にもどさなければならない。

神話や聖書の時代から、男と女は「産めよ増えよ地に満ちよ」の教えに従って生きてきた。その大前提が、本当は崩れている。
古典的なモラルを前提に、その動きを押しとどめているが、地球外に進出する技術は人間に、生き方の選択を迫っているのだ。

たとえ、今それを受け入れなくても、遅かれ早かれ、人間は母体から出産することを止めるだろう。それにともなう親子の愛情や人間観は、今、心配するほどたいした問題にはならないだろう。
問題は、現在の社会概念が全く役に立たなくなることだ。

人は一人で生きることはできないが、それが男と女や家族でなければならないのは、動物としての話だ。
今、世界的に騒がしい同性結婚も、国家の構成単位を古典的な婚姻を前提としているからだ。生活を共にするものが等しく守られる社会なら同性で「結婚」する必要はない。

これからの社会は、婚姻をベースにする社会では成り立たない。
大家族から、核家族になり、個人の社会になれば、個人の関係がどうであろうとも、個人が保障される社会でなければならないだろう。
そうなれば同時に、子育て教育は、親子を超えて保障されることになる。

現在の少子化、児童虐待や、赤ちゃんポスト、引きこもり、ニートなど様々な問題は、家族・親子で次の世代を育てる前提が崩れていることを物語っている。


日本に仕事はないのか

2008年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

バブル崩壊で懲りていた日本企業は、アメリカ発のショックで直ちに予防策を打った。
それはそれでやむを得ないが、猫が飛び出して踏んだパニック・ブレーキで、車内はグチャグチャだ。

国内の下請け、雇用が、グチャグチャになった、国民もバブルの記憶が生々しいから、一斉に家計引き締めの守備体制にはいる。その状態が直ちに国中を覆って、一気に不景気が押し寄せた。

想像妊娠というのはあるが、想像不況で日本中、もう本当に死にかけている。
政府が始めから無能なのはあきらめているが、日本の実体である企業が慌てすぎたのではなかろうか。

しかし、慌てるのもムリはない。バブル崩壊で後れをとったと、前にも増して輸出をスピードアップしていたからだ。
だから、猫にハンドルを切っている間がなかった。

本当は、バブル崩壊に懲りたら、その時からハンドルを切って、産業転換を始めるべきだった。ところが、同じ道で、なりふり構わぬスピードアップのために、車を軽量化しようと、安定雇用をどんどん窓から投げ捨てて、派遣雇用に依存した。

生き残りのラストチャンス
グローバル化とか言いながら、派手に物と金を回すアメリカ金融に、体よく利用されていたからこんなことになった。
今から産業転換をはかっても、決して遅くない。
車作りを急に止めるわけにもいかないだろうから、未来社会を想定して、3世代ぐらい先の形を、世界に提案してはどうだろう。(プリウスは1世代先だったが)
また、車産業はそのまま新エネルギー産業に転換しやすい側面もある。

雇用創出
雇用対策は将来を見据えた「雇用創出」でなければ解決しない。
輸出体質を維持するための、職業研修などやっても仕方がない。

雇用創出の一つとして
過疎化対策と雇用対策で、国産食品を食べれば一挙三得だ。
国レベルでも地方レベルでも、あるいは企業や個人でもいい。
過疎の村に失業者を移し、休耕地を借りて作付けを増やし、農業による自立を図る。
企業単位でやる方法もあれば、2チャン農業の便利屋手伝いのようなやり方もあるし、失業者同士で会社をつくり、地元の年寄りの指導を受けながら、生産と勉強をしていく。
問題はいろいろあるだろうが、やる気がなければ何も解決しない。
国や自治体の支援があれば、かなりスムーズにいくだろう。
農業とは限らない、漁業も林業も同じ事だ。これが動けば次の産業も生まれてくる。(輸出しようとするから食物を買わされる。日本は元来、農業漁業に恵まれた環境だ。)

占いで見れば
60干支なら昭和23~4年にあたる。まさに、引き揚げ者の仕事と住む場所を確保するために、全国に開拓村が生まれた頃だ。
農村、漁村、山村に希望を見いだそうとして地方が輝いていた。だから、干拓事業が盛んに行われた。
ところがその後、輸出工業にシフトして、若者を都会に集め、農水業が見捨てられた結果、過疎や自給率、福祉、家族、出生率など、歪みによる、今日のあらゆる問題が生まれてきた。

都会に出て仕事も住むところもない今こそ、帰農の道を辿るときだ。
今度こそ、無責任な方向転換が起こらないように、本当の地方分権が必要になる。


アメリカ産

2008年12月21日 | 星の流れに

自動車業界は、次々とレース撤退を決定した。発表する人は皆涙ぐんでいた。
不況でやむを得ず撤退ということだが、そんな単純なことではないだろう。自動車産業の転換期の象徴だ。

もう、何年も前から自動車の存在理由が変わっていた。
スピードや馬力の腕力競争から、生活用具としての機能や堅実性が求められるようになっていた。
車社会も馬力一辺倒の青年期から、大人の気品、そして老成の質実の時代に入った。
車はもう、ニューファッションやステータスシンボルではなく、毎日使う鍋と同じ道具になった。毎日使って使い心地が良く、頑丈で簡単には壊れないリーゾナブルな信頼性で選ばれるようになった。もちろん、外食中心の人に鍋は要らない。

そういうことは、自動車産業の当事者が一番解っていたはずだ。
だから、ある意味で、これを機会に撤退したのではなかろうか。
意図的に撤退するにしても、愛着もあれば郷愁もある。涙ぐむのは当然だ。自分は乗らない鉄道でさえ、廃線になると聞けば駆けつけて「止めないでくれ~!」と泣くのが人情だ。

射手座を通り過ぎた冥王星
自動車、飛行機という双子座、射手座の乗り物が、冥王星が射手座を通過していた過去20年の間に、大きく姿と意味が変わった。
アメリカ産業の象徴だった乗り物の生産が世界に拡散し、もう一つの象徴であるコンピューターも拡散した。

同時に、そうした工業製品の持つ核心部分も分散し変質した。
アメリカの車が売れなくなったのは、ギラギラの青年期のままだったからであり、コンピューターはまだ始まったばかりとはいえ、アメリカ方式の独占に拘りすぎることで、権益を失うだろう。(OSとネット)

面白いことに、アメリカの象徴とも言える、飛行機、自動車は、いずれもアメリカ原産ではない。しかし、コンピューターはアメリカ原産と言えるだろう。
つまり、画期的発明は経済的に元気のあるところから生まれるが、それをうまく活用した方が儲けることができる。
何事もそうだが、長子より弟妹の方が余録が多く、二番煎じの方が儲けが多い。
携帯の実用は日本が最初だったが、実際に儲けたのは日本ではなかった。

飛行機と自動車で儲けたアメリカは、コンピューターではおそらく他の地域を潤すことになるのだろう。
もう一つ言えば、太陽電池もアメリカだ。


タブー(3)

2008年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

タブーを破るには勇気と情熱、あるいは無知と狂気が必要だ。
だから、タブー破りは若者しかできない。

大阪の橋下知事は若い。次々とタブー破りの「暴言」を吐いて、現代のシャーマンであるマスコミの餌食になり、シャーマンの信者達のリンチに合っている。
若気の至りと言うこともあるだろう。しかし、リーダーたる者が声を上げて突撃しなければ、何も解決しない。

学校への携帯持ち込み禁止は、結局、中央政治も後追いを始めた。
携帯の功罪はわからない。ただ、これまで、携帯普及をズルズルと容認してきた社会に、活を入れたことは事実だ。

これだけ携帯がらみの犯罪が青少年を腐敗させているにもかかわらず、小手先の対策を言うばかりで、根本的に「必要か?」という問題には一切触れなかった。

根本に触れずに、二階から目薬と言うか、布団の上から愛撫と言うか、もう、まったく何の役にも立たない、「やめてくれッ!」と怒鳴りたくなるような、無意味な政治が日本中を覆っている。

携帯の例でも、携帯業界の猿回しのサルには、自分の口から「禁止」など言えないのだろう。つまり政治家のタブーだ。
その状況を「問題ですな」と解ったような顔をしながら、携帯で番組に投票を呼びかけるTVマスコミこそ、実は、張本人のシャーマンだ。

マスコミ・シャーマンは、自分が定めたタブー破りを許さない。
少しでも変わったことを言うと、あたかも掟破りの異端のように非難し、「みんなで石を投げてやれ」と焚き付ける。
ところが、異論が多数意見に変わってくると、「そうじゃ、それでこそ優秀な我が民じゃ」と便乗して指導者ぶる。

だからと言って、自分が何一つ役に立つことを言うわけではない。
騒ぎが大きくなりさえすれば、飯の種がふえる。ただ、そのためだけに人のミスを捜し回っている。ことに近年はたちが悪い。

否定的情報を流し、異論異形の芽を摘むタブー流し。
もしかしたら、今、維新のために倒す相手とは、マスコミ幕府なのかもしれない。
その新政権とは当面、インターネットということになるのだろうが、烏合の衆をまとめるリーダーシップがどのように確立できるのか、いまだ見えていない。
画期的な方法を生み出す天才が現れるのか、流れの中で偶然生まれるのか・・・
いずれにしても、情報維新、ネット維新が必要だ。
そのためには、おそらく匿名性が最大の分かれ道になるのだろう。
匿名性は、ネット自体のタブーを生むからだ。


タブー(2)

2008年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

タブーの仕掛け人はマスコミだ。世論の仕掛け人となり、なろうとする。

今は、派遣切りを取り上げて、世論作りをしているが、これに
「なんか、おかしいんじゃないか」などと言おうものなら、たちまち、またマスコミの飯の種にされてしまうだろう。
マスコミに反論することが、タブーになってしまうのだ。

今の、派遣切りの問題も、派遣切りをする会社よりも、それを可能にした「法律に問題がある」にもかかわらず、その法律ができた時には、さしたる声も上げず、時には派遣の応援をするような風潮までつくった。ある意味で、最大の責任者はマスコミだ。

そのマスコミが企業を悪者にしようとするのは、後ろめたさを隠すための大声としか思えない。いや、それすらも気づいていない。
もし、誠意があるなら、法律の問題を暴き、政治家の責任を追及すべきだろう。

マスコミはあらゆるタブーを垂れ流している。タブーに覆われた社会に、変革はない。外圧内圧による破壊を待つだけだ。
「タブーを垂れ流す」とは、悪いことを騒ぎ立てるだけで、何ら解決策を提示しない恐怖と畏れの媒介者であることだ。
その一方で、ちゃらちゃらとお茶を濁して問題意識を奪ってしまう麻薬でもある。

現代のシャーマン
こういうことを占い師が言うのはおかしいと思われるかもしれない。
占いは元来、シャーマンなどタブーの側だからだ。
だからこそ、現代的な「占いの活用」を考える立場からは、因習やタブーのそぎ落としが重要になる。

運命という、どうしようもないように見えるものから、可能性を探るにはどう考えれば良いのか。不幸の種はどこにあるのか。
そんなことを考えていると、現代の因習やタブーは、マスコミが担っていることに気づく。
それは、安易な占い師が、古代の因習の代弁者になっていることと同じだ。

解決策のない可能性を考えても意味がない。
可能性を考えることが、同時に対策を考えることでなければ、始めから未来など考えない方が良い。
たとえ、その対策をうまくやれなくても、良い知恵が出なくても、できる限りの知恵を絞る。それが知ろうとする者の責任だ。

マスコミとインチキ占い師は、人を恐れさせてタブーを仕掛けるのが商売だ。結果など考えていない。マスコミは現代のシャーマンだ。

ところで、このブログが、惑星の動きや将来を予測するのは、恐れさせるためではない。対策を考えるためだ。可能性としての未来を予測し、読んだ人それぞれに打開策を考えてもらい、自分も考える。
だからどうしても、世の中の動きに一言、言いたくなる。


タブー(1)

2008年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、タブーの香りを初めて知った時、「なんだ、おばあさんの臭いだ」と思った。
タブーという言葉の響きから妄想していたわりには、拍子抜けした。
日本では昔から匂い袋や上等の線香などで親しみがある、古めかしい臭いだった。
しかし、欧米人からすれば、香木系の香りは神秘的だったのだろう。
東洋の神秘性を感じさせる「タブー」は、音楽にもなり、確か、加藤茶の「ちょっとだけよ~」のテーマ曲もこれだった。

神秘
命というものは本当に不思議なものだと思う。
すべては化学変化で成り立っていると思うと、その単純さにあきれ、なおさらに不思議になる。
繁殖という唯一の目的だけで、コンピューターソフトの中でも似たような動きが起こることを見ていると、単純の持つ偉大さと危うさを思い知らされる。

すべての複雑な出来事は単純の集積であり、逆に、その複雑な出来事をいかに集積しても、単純な一つの答え=形しか出てこない。
そして、さらにまた、その単純な答えである形は、捉えようでさまざまなに意味づけられる。

このような単純にして複雑、複雑にして単純な世界を、陰陽五行で説明した古代人は偉大だと思い、しかしまた、現代人も似たような答えに至ることを考えると、人間の文化など、所詮その程度、との思いもわいてくる。

だがそうは思っても、複雑怪奇に絡みついた現実は、人間一人一人を、逃れようもないしがらみと運命の糸に絡めとり、苦しめる。
この綾なす糸の浮き世は、ほとんどすべて、人間自身が創り出した厄介物だ。
生きることの難儀は、人間が一人で生きられない存在だからだ。
互いに頼り合わなければ生きていけない者同士が、我慢を分け合って生きている。
その我慢を形にしたのが「タブー」と言われる暗黙の掟だ。

タブー破り
目の前の人を我慢の理由にしないために、生まれてくるタブー。
我慢を強いるタブー(してはならない禁忌)は、権力で押さえつけるものではない。どこかに集団の力の恐怖を感じながらも、実は、自分自身が、共感し自分自身で押さえ込んでしまう。自粛のガイドラインだ。

そのタブーの世界に、人が惹かれるのは、タブーを犯したいからだ。
自分自身が捉えられているタブーを打ち破って、自由の世界で自己実現をしたい。あるいは、他人がとらわれているタブーを犯して、その人を自分の世界に引き込みたい。
それが、「だめよ、いやよ、いけません」と言われることに、よけい情熱を燃やす。

未成年の喫煙、学生の大麻、万引き、不倫、人妻好き、露出狂・・・
いずれもタブー破りの快感を求めてだが、結局のところ、この動機は社会依存の強さにある。

甘えている子供ほど親に文句を言う。自信があれば親に反抗するより適当にあしらって、さっさと自分の道を行く。
社会に規制され、それを「守らなければならないと思う」ほど、破りたくなる。

近年、不倫ブームの頃から、社会全体がタブーだらけになって来た。
放送禁止用語、バカ丁寧な言い回し、くどい礼儀作法・・・。
そして、タブーの闇の中で陰湿なイジメや自殺。逆にタブー破りのモンスターや、無差別殺人・・・・

閉塞を生むタブーと、社会破壊は表裏の間系にある。
社会がシステム化するほど、社会に依存しなければ生きられない。
それが、自活の道より依存の生き方を選び、タブーと不平の社会を生む。
学校、就職、結婚・・・に、絡め取られて、独自の道を考えられず、「自ら創り出したタブー」破りに情熱を燃やす社会。
もう、壊れ始めている。


魚座時代乱れ咲き

2008年12月17日 | 星の流れに

天王星がまだ水瓶座にいるうちに、911から魚座時代は動き始めた。
そろそろ牡羊座も動く頃とはいえ、まだまだ、魚座は真っ盛り。

16日のニュースだけ見ても
イラクの記者の靴投げ。地下鉄乗務員のタバコ騒動。ヤミ金の亀井と7人の容疑者。自民党から公明党離縁の話。派遣切りとセーフティーネット。中国産タケノコの偽装たけ乃子屋。
いずれも魚座現象だ。

また、このところの世相も、サブプライム、ポニョ、豊田(愛知)の絶好調から不況、石油高騰から大暴落、鮨ブームからマグロの漁獲削減、越前クラゲ大量発生から消滅、捕れない鮭に変わってニシンの大豊漁、トキの死、振り込め詐欺などあらゆる詐欺事件、映画ではヒーローまで詐欺師、大麻騒ぎ、タバコカード・・・・

全部と言いたくなるぐらい魚座色だ。
これらが、なぜ魚座かはこれまで何度も説明しているので、もう良くおわかりと思うが、「イラクの靴投げ」について少し。

靴は人体の末端のさらに外に着ける物。
この魚座時代に注目を浴びた福助足袋の再生や、五本指靴下、地下足袋靴、さらにネールなど。いずれも魚座の「末端」、外部との接点を表す。

日本でも「人を足蹴にする」など、頭髪を「カミ」(神・上)と呼ぶのと反対に「アシ」(悪し)のニュアンスを持つ言葉を使う。
自ら土に着く土下座や五体投地と反対に、他人を土に着けさせる「顔に泥を塗る」象徴として、足蹴や靴がある。
五体投地と同様、宗教的象徴だから、石を投げるのと同様に、あるいはそれ以上の、意味と気持ちが込められていた。

ブッシュはこの時期に、どの面下げてイラクに行けるのかと誰でも思うだろうし、靴を投げたイラク人の気持ちはよくわかる。
ただ、ブッシュにしてみれば、大失敗をしたイラク戦争へのせめてもの責任のつもりで顔を出したのだろう。

ブッシュは素早く避けて運動神経の良いところを披露したのだから、
靴を投げた記者を許すメッセージぐらい出したら、ささやかな詫びの意思表示になるだろうに・・・そうもいかないか。


わざわざの壁

2008年12月16日 | 日記・エッセイ・コラム

テレビで「歴史の陰に女あり」を「歴史の陰に女性あり」と言い換えていた。慣用句さえ言い換えている。
いつの間に、日本語を翻訳する外国になったのだろう。
わざわざ言い換えることによって、ますます「女」という言葉の差別性を固定化していることが解らないのだろうか。
つまりは、言い換える人間自身に差別意識があることを、無意識に隠そうとしているのだ。
「女」という日本語が持つ、奥深い文化が失われていくことに、無性に腹が立ち、涙さえわいてくる。
篤姫で「女性の道は一本道」と言ったら、情けないドラマになる。

「女」という言葉に抗議してくる視聴者。使えば差別しているのではないかと恐れるマスコミ業界人。
みんな「アホ言うモンがアホ」だ。

人間は、自分にやましいところがあると、そこに拘る。
犯人は現場に帰ってくる。展覧会の裸婦を覆った警官。フラダンスを止めさせた宣教師。悪書追放運動・・・みな同じ事だ。
自分の目が濁っているから覆い隠そうとする。

善に導くには、悪い物を禁止するより、良い物を奨励する方が効果的だと思うのだが、スネに傷のある人は禁止しようとする。
それは、自分を戒める気持ちを他人に押しつけているのだ。

何事もそうだが、あるがまま、なすがままの自然体を基本にしなければ弊害の方が大きい。圧力だけをかけると爆発する。
どんな経済政策でも開放の方が総体的にうまくいく。「制御」は必要だが、禁止や圧力は弊害ばかりだ。

いつまでたっても麻薬を撲滅できないのは禁止だけを考えるからだ。
禁酒法の大失敗はカポネを歴史に残し、酒を禁じたイスラム圏には麻薬を広めた。
タバコでも、結局、禁止よりお断り運動の方が効果があった。
売春防止法・・・これは話せば長く長~くなる。

なお、このブログでも何度か「禁止」と言う言葉を使うが、本当に禁止しろという意味ではない。それぐらい強い気持ちとの表現だ。

人間の向上にも「禁止」は役立たないし、できるものでもない。
いずれにしても、ほどほどのバランスが大切だ。

ところで冒頭の人権話だが、先日も、女性の地位向上、男女共同参画について解説している教授は、女子大の女性教授だった。
何で、女子大が今でもあるのか、何が男女共同参画なのか、まったく解せない。


100年に一度?(3)

2008年12月15日 | 世相史観

」で「化石燃料の積極的放棄」に向けて、徹底的な社会改造をしなければ、世界の負け組になると言ったが、実際には、この大転換の後、世界に現在のような「国家」が存在しているのかが疑わしい。

現在の形の近代国家そのものが、産業革命後のパラダイムであり、食うか食われるかの生産競争の装置として存在してきた。

売りつける相手を求め続けた250年。売りつける相手が同じ生産能力を持てば勝負は成り立たなくなる。
高いところから低いところに流れ続けた水は、もう平地から海に出る。

産業革命後の近代パラダイムは「行き詰まる」運命にあった。
それは、二者択一、盛者必勝の西欧的な哲学によって成り立っているからだ。
一神教的な論理は対立するしかなく。自分か相手が間違っているから滅ぼすしかない。力を持った者が力のない者から奪う。
生産した者が売りつける。金を持った者が無い者をこき使う。
本当の意味でのWIN-WINや、三方良しなどあり得ない。
だから、近代は国家戦争の連続だった。
しかし、もう何事も、循環しないものは成り立たなくなった。

神から離れ人間として生きる
東洋の哲学は始めから「循環」を前提にしている。
生々流転、輪廻転生、諸行無常、盛者必衰・・・極まれば転ずる

工業生産は、消費が止まればガラクタの山ができる。
あふれる高級品も、買いすぎた百均の商品も、まったく同じだ。
この工業製品の不毛に気づけば、悟りの花が開き、次のパラダイムが健全に成長する。

蓮の花は、泥沼の中から花を開かせる仏教の象徴だ。
仏教に神はない。人間が成仏する。
人間は仏にはなれないが、みなそれをめざす菩薩だ。

この250年のどん欲時代が、瓦解すれば、目覚めた人間が、新しいパラダイムの花を咲かせる・・・と、期待したい。


100年に一度?(2)

2008年12月14日 | 世相史観

大量諸費
今年は大手スーパーで、早々と3割から半額販売をするそうだ。
消費激減が見込まれるので、今から、在庫処分を始めるのだろう。
ブランド品はいくら安くしても売れないそうだ。

現代はあふれる工業製品を消費しなければ回らない。
われわれは生産と消費の自転車操業のために、学校に行き働き消費する。
その歯車として生きることに、喜びや目的を見いだし、地位や持ち物に得意になったり自慢したりして、また、そのために消費する。

それを天から与えられた世界のように思って生きてきたが、それが全て人間の業であり、はかない砂上の楼閣でしかないことを、大転換の中で思い知らされる。
幸か不幸か現代人は、その大崩壊の波に翻弄される巡り合わせだ。

更生
しかし、これまでの生き方を捨てれば、活路がないことはない。
工業製品に頼らない生き方。意識して工業製品を使わない生き方。
かといって、かつてのヒッピーや竹林の七賢人のような極端な宗教的
生き方では、単なる、近代信仰からの宗旨替えにすぎない。

工業化に振り回されないためには、「生きる」ということを改めて考えたうえで、その範囲で工業力を活用することだろう。

工業生産中心の社会は、軍国主義の社会と同じだ。
その中にいると、大将や名誉の戦死にあこがれる。社会の道具であるはずの軍隊が、人生の目的になってしまう。
工業社会では、工業製品を使うことがステータスや、あこがれになったりする。
ブランド品から自動車や家まで、工業製品すべてが、実は、小さな胸の勲章に過ぎない。
起きて半畳寝て一畳。無くても暮らせる物ばかりだ。

こういう、虚構を捨て、人間にとっての「物」を考える。
軍隊が社会のためにあるように、工業生産もまず人間のためにある。
付加価値や珍しさで、必要のないものまで買わされる愚かしさから目覚めて、人間のために物をつくる・・・そういう社会ならば活路は開ける。

造る側の論理から、使う側の論理に
10年も持たない物を、次々と買うようなことは止めて、何年でも使い続けられる物を選べば、製造を合わせざるを得ない。
近年、企業側はそれに気づいて、方向転換をさまざまに模索しているが、消費側の頭が切り替わっていない。
すぐ陳腐化してしまう工業製品に怒りながらも、新モデルに乗せられる。

しかし、こういう不況の大ショックが起きると、ガーンと目覚める。
『買わなければ』と思っていた物が、実は無くてもすむ物だったことに気づく。「買えない」と嘆くより、ムダの発見を楽しめばいい。

生産消費の輪廻から解脱すれば、新しい世界が開け、成仏する。
経済成長や人口増加とは、近代パラダイムの煩悩なのだ。