昔買った、40Wの手元スタンドをLEDに替えた。使わなかった理由は、すぐ熱くなって触れないからだったが、LEDに替えたら全く熱くならないので、安心して使える。その上、電気代は1/10だ。
日本の家庭に電灯が普及したのは、やはり、84年を遡る昭和初期で、1927年には普及率87%とある。1928年生まれの小学校の先生の生家は山奥で、子供の頃に家に電灯が点いた時の感動を話してくれた。
昨年来の電力不足で、省エネ対策にLEDが奨励されている。先生が電気の話をしてくれたのも、白熱電球と蛍光灯の違いの話からだった。
その当時も、やはり、省エネ対策で蛍光灯に替えることが奨励された。それから、40年以上も経つだろうか。
社会を変えるような機器も、84年ぐらいで大きく変わる。
だから、特に早いわけでは無いのだろうが、IT機器の変化はめまぐるしくて、今や「もうだまされないぞ」が口癖になった。それでも、結局は、買い換えなければ、一般生活ができない。
30年前、マイコン時代の記憶装置、フロッピードライブは、5インチ2連で30万円だった。なんと、286kbyte!
今、4GのSDは500円しないが、え-っと何倍だっけ???
歌にもなったポケベルが、あっという間に消え、カセット、CD、MDまで、だんだん見かけなくなった。
古いオープンリールのテープをダビングしたくて機器を探すのだが、録音スタジオにでも行かなければ、どこにも無い。
血族を越えて
戦国時代のように、父譲りの刀で初陣するようなことはなくなった。祖母の形見の着物を仕立て直して着ようにも職人が見つからない。親と子の暮らしがつながらなくなった。それどころか、人生で出会う物が、次々とガラクタに変わっていく。
ファッションに追われて、片付けができない女子でなくとも、油断をするとガラクタの山に囲まれる。
「断捨離」などと、大層な言い方をしなくても、物に未練を持ち続けることができなくなっている。捨て方が難しいだけだ。
大量生産大量消費の時代が、反って「生きること」と物との関係を希薄にし、お釈迦さんが説いた「こだわるな」執着するなを、実現させているのかも知れない。
結婚も子供もいらない。家も車も、葬式も墓もいらない。面倒な物は何もいらない。
親にとって大切だったものが、子供にも大切とは限らない。
そんな激しく変わる時代に、人は、何に生き、どこに向かうのだろう。
ミレニアムの今、人は情報に生きている。過渡期ではあるが、人間そのものが情報化している。
原始集団の一員になる成人儀礼のような感覚は、近年の徴兵検査にも生きていたし、今日の就活もその延長だろう。
しかし今や、身近な集団に参加する時代から、形の見えないSNSやBBSなどの情報集団に参加する時代に移りつつある。
グローバル化に国家は要らない。情報がつくる集団には、古代の「しがらみ」は、すべて無意味になる。
物からの離脱は、ヒッピー文化の時代に始まったが、情報化によって、ますます深化している。ブランドに狂奔した空しさの後で、大量生産大量消費が、物の価値を失わせるとすれば、皮肉なことだ。