魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

本州九州

2010年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

No.969

九州の自己主張は、いわゆる日本人のイメージとは距離がある。
自己主張のない日本人と言われるが、関西と九州は例外だ。明るく積極的で、アピール上手だ。

おそらく、交易による外国との交流が多く、異民族との付き合いの必然が生んだ文化なのだろう。
しかし、だとすれば、九州と浪速は、外国と違う付き合い方をしていたということだ。
九州が自己主張と地域の結束を主とするのに対し、浪速は駆け引きと和合に重きを置く。

九州は人の話を聴くより、自分の言いたいことを先ず言い切ろうとする。これは、沖縄、九州、朝鮮半島に、共通する文化だ。会話をする時、相手の言動が見えた瞬間、ヤッキになってストレートに自分の言い分を言い出す。(言葉も早く語気も強い)
これに対し、浪速は、相手をよく確かめた上で、揚げ足を取りながら、相手の勢いをそぎ、自分の言い分を通そうとする突っ込み型だ。
流儀は違うが、自己主張は共通している。

九州の交易は倭寇など、異民族集団の直接の関わりであり、力の結束が必要だったが、浪速の交易は、内海の奥深くで、商人が智恵と社交で平和的な取引をしていたからではないかと思う。

九州の自己主張は、付加価値を付ける売り込み上手で、初めから価値あるものとして振る舞う。
「東男に京女」は評判から生まれたものだろうが、「九州男児」の始まりは、「男児」という自賛の響きからして、自称で始まったと思われる。これは「韓流」に通ずる「ふれ込み効果」だ。

本州人、ことに関東以北の人が面食らうのは、九州人の朗々とした言動だ。何を言うにも自分のことを「すばらしいもの」のように言う。
しかし、明治以降、九州文化がすっかり馴染んだ東京は、クールにではあるが、自分を照れずに主張する。関西人からすると、逆にこれに呆れる。
「ちったあ、謙遜せえ!」と思うからだが、最近また、関西文化が行き渡った東京では、「させていただきます」とか、「じゃないですか」とか、自分を殺す言い回しが流行っている。

九州流の自己主張が効果を発揮している例が、九州出身の芸能人の多さや焼酎のCMの上手さだ。(電通創業者も熊本)
九州の中では、東側の大分や宮崎は比較的、中国四国に近く、穏やかな印象があったが、やはり、九州は九州だ。

今回、口蹄疫問題で、あたかも大変な被害者のように振る舞っているが、いつから話しは逆転したのだろう。

確かに、大打撃を被った被害者であることは事実であり、気の毒なことこの上ないが、国のせいにして怒る立場ではないはずだ。

初期対応のまずさは、国にもあったが、他の全県から抗議文を送られるほど、明らかに現地の県の責任が大きい。
にもかかわらず、自己中心的な感情論を前面に出して、損害を出した事実だけで、いつの間にか、国のせいにして被害者になっている。
怒っている知事は、種牛を残したいなら、隔離保存、精子保存、DNA保存等の様々な提案をしたのだろうか。

鳥インフルエンザの時も養鶏産業は泣く泣く処分したが、宮崎のような態度は取らなかった。

東西の日本