魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

思い違い

2016年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

「君の名は。」の異常なまでのヒットの理由は、制作者サイドでもよく解らないらしい。
クローズアップ現代でも取り上げて、色々考察していたが、どれも皮相に過ぎる。
意外に中高年の客が多いことから、初めて観る中高年を集めて、反応と感想を聞いていた。涙する中高年も多く、訳を聞くと、自分の過去の恋愛風景を思い出したと語っていた。

確かに、物語は恋愛を軸に進められているので、感情を自分の恋愛に結びつけて考えたのだろう。しかし、そうした記憶は誰でも持っているし、恋愛物語は世の中に溢れている。にもかかわらず、いい年をしたオッサンやオバハンが、涙するまで扇情されるのは、単純に恋愛感情だけが理由とは言い難い。

ヒットの理由を、作戦とテクニックがハマったからだと思う制作者もいるが、それを否定はしないものの、生活にすり切れたオッサンやオバハンに、それほど効果があるとも思えない。

思い違い
今、韓国では、異常なほどにデモが盛り上がっているが、当然、参加者は大統領に対する怒りから行動していると、確信している。
しかし、社会背景、歴史背景から、客観的に考えると、今更、それほど怒ることのようにも思えない。にもかかわらず、あれだけの感情行動が起きるのは、別の隠れた理由があるからだ。それは、個々の問題をハッキリ認識できないままに、経済の不調と不安が募っているからだ。

人間の感情行動は、自分が認識している理由と、本当の理由は異なることが多い。
感情にまかせた行動が危険なのは、本当の理由を認識、解決しないままに、別な理由を見つけて行動するからだ。何を解決すべきか出口のないままに発散すると、「これが解決したら納得」とは行かないから、止まるところが無くなってしまう。
そういう意味で、韓国のデモと、イスラムテロ、あるいは、ブレグジットやトランプ現象まで、見当違いの暴走という点で、同類のものだ。
ぐずっている子供は、終いには何を言っても治まらなくなる。

本当の衝動と自分の認識がズレるのは、人間の常であり、だからこそ、社会学や人類学のような、客観的認識が必要になる。
そうした客観的な眼で、「君の名は。」現象を観ると、恋愛物語に隠れた、社会背景を無視できない。
それは、先日「君の名は」で考察した、災後の喪失感だ。クロ現では、恋愛と絡めて「結び」の件を解説していたが、むしろ、東日本大震災後の「絆」と重なるものだ。
クロ現の中高年の反応から、大ヒットの理由が、日本人が抱いている心の傷と確信した。
時が過ぎても、全ての日本人の心に、忘れることのできない思いが渦巻いているのだ。
「忘れ得ずして、忘却を誓う心の悲しさよ」


起承転結

2016年11月28日 | 星の流れに

天王星84周期の半分は42年。これは、84年の一回りで別の物語が始まるとすれば、一つの周期の中での、答えが出るクライマックスの年に当たる。
天王星の84年周期

42年前と言えば、2016-42=1974年。つまり、中国がベトナム戦争のドサクサの最中、西沙諸島を奪取した年であり、ウオーターゲート事件でニクソンが辞任した年でもある。
2016年。南シナ海での中国の行動に、国際法的には一つの答えが出た。また、次期大統領とみなされていたクリントンが、メール問題で敗北し、トランプが大統領に選ばれた。
任期中と選挙戦の違いはあるが、「職務中の情報に関するスキャンダル」での、信用失墜という点で同義に当たる。また、ウオーターゲートと言えば、韓国の大統領スキャンダルも、韓国ではそう呼ばれている。

来年、2017年は1975年に当たり、アメリカがベトナム戦争に完敗し、撤退した年であり、アメリカには挫折感と内向き志向が広がった。
ある年は、一つのことが始まる年でもあり、折り返しの年でもある。
中国の南シナ海問題も、アメリカの動向も、42年前の延長であり、同時に、新しい動向の芽生えでもある。もちろん、世界も日本も、同じ事が言える。

今起こっていること、それによって起こることは、二面的に考えなければならない。
42年前の折り返し点として収束に向かう面と、それによってこれから始まる、新しい方向性だ。
中国の、南シナ海領有権争いは収束に向かうが、同時に、新しい方策が試みられることになる。何の方策かと言えば、冥王星や海王星の大周期の中での動向、アジアの失地回復であり、それは、インドや日本も含めた、それぞれのエネルギーの切磋琢磨の中で進展していく。

アメリカも、帝国主義的な覇権争いから撤退し、グローバルな観点での、立場固めに向かうだろう。洋の東西と言われる視点が無意味になり、おそらくは、移民の国アメリカは地球の肝臓のような機能を果たすようになるのではなかろうか。
これからの人類史上の地球は、全体として、一つの人体のような存在になると考えれば解りやすいし、統一しやすいだろう。どこか一つの部位が主権を握るのではない。持ちつ持たれつの関係だ。ちなみに、脳になる国は存在しない。強いて言えば、サイバー空間だろうか。


依存社会

2016年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

11月22日、久々に大きい地震で津波警報が出ると、皆が避難したのは良かったが、5年前、多くの死者を出した教訓にもかかわらず、車で逃げる人で、また道が渋滞した。
これは、このところ続いている、高齢ドライバーの事故と、根は全く同じだ。
車と自分が一体化していて、状況にかかわらず、それから離れられない。
車社会と言うより、車依存症の人間で満たされている社会だ。

痴呆老人に運転を止めさせようとしても、隠れて運転したり、終いには暴力までふるい出す。法律で規制されていないから、本人は運転する権利があると考える。
同じ事は、災害避難に車の運転が規制されてないことにも言える。

災害時の避難に使える車は限定しておくべきだ。一般車両は全面規制し、バスやトラックに乗り合って逃げるとか、距離によっては全車通行止めにし、徒歩や車椅子だけが通れるように指定しておくべきだろう。そうした制度さえあれば、日本人は忠実に守る。
運転年齢の上限が決まっていれば、痴呆であっても多くの人は納得する。

依存症は判断力の喪失
スーパーの仕出し物の売れ残り商品を見ると、面白いことに、どんなに美味しそうなものでも、新商品は必ず売れ残っている。もちろん、何でも目新しい物が好きな人は買うが、ほとんどの人が、食べたことの無い物には手を出さないことが解る。
何日も出ているうちに、だんだん売れるようになると、一気に完売するようになる。
結局、人が食べているなら、きっと美味しいのだろうと思うことで、自分も食べてみようと思うのだろう。

多くの人は様々なものに依存して生きている。社会の慣習や、自分の習慣に依存することで、考えずに生きている。新しい行動を起こすとき、自分で考えて判断しない人は、他者の行動に付いていくか、強制に従って生きようとする。
新しい商品を判断したり、試してみようとする勇気が無い人の方が大半だから、売り手は、もう既に社会に認知されているものだと思わせるために、「今評判の」とか、「有名な誰々さんも愛用」とか、「知らないなんて恥ずかしい」のようなことを言って、安心させようとする。行列もその一つだ。

車とかスマホは、一度身についてしまうと、三度の食事のように、それが無ければ生きていけないような物になり、生活の一部、自分自身の一部のように錯覚してしまう。
人間は絶対に三食食べなければならないことはない。六食でも一食でも死ぬことはない。実際、朝食抜きで過ごしている人は相当いる。
いずれも習慣の問題なのだから、いざという時、食事と同じように車やスマホと離れても、死ぬことはない。

ところが、それと離れるべき時であっても、自分で判断できない人が、大半であることは、津波避難の車の渋滞を見れば明らかだ。

車で避難しないことが、社会常識として認知されることも必要だが、依存症の自覚が無い人には通用しない。
災害時の車使用を、あらかじめ規制しておくことは、運転年齢の上限を定めることと同様に、急がれる。
これは、東日本より、むしろ、エネルギーをため込んでいる、南海・東南海地域の方が切実だ。

ところで先日、運転年齢の上限を、少なくとも80歳と書いたが、あくまで「少なくとも」であって、本当は60歳から別制度にすべきだと思っている。
自動運転やアシスト機能付きとか、走行可能地域・時間自動判断車とかの、特殊車限定の免許にするか、走行記録提出を義務化の条件を付ける。異常走行の有無をコンピューター解析できるようにしておく。そうした規制が嫌なら運転を止めれば良いだけの話だ。


土星問題

2016年11月15日 | 星の流れに

アメリカ大統領選挙は大番狂わせと言われているが、狂ったのはメディアの判断であり、教養人の思い込みだ。思いの破れた学生達はヒステリー・デモをしている。
メディア、教養、高等教育、IT・・・いずれも射手座だ。
このところ、高齢者の自動車事故が連発し、問題になっているが、交通機関や法律も射手座だ。

射手座の土星は、古い固定概念や老人が、射手座の良いところを破壊することを表している。
マスメディアも、高等教育も社会に必要だが、何事も日々、進化し変貌しなければ、かえって弊害になり、場合によっては、自らの死を招く。
高齢者の移動手段は必要だが、自分で運転することを前提とした自動車社会には限界が来ている。

双子座のトランプとアメリカは、対人に土星を据えた。つまり、アメリカの古いものを相手にすることで、一つの結果を導き出した。アメリカの目指す理想が、オバマ大統領で現実を通り越したことによって、揺り戻しが起きたのだ。当然、将来また、この揺り戻しが起きる。物事は常に、両極に振れながら、大局的には一つの道を進んでいく。

年寄りと子供
老人の運転による事故が多発しているが、今後、超高齢化社会を迎えるにあたり、老人の運転を法律で制限すべき時が来ている。
運転免許には下限があるのに、何故、上限がないのか。上限がないのなら、下限だって廃止すれば良い理屈になる。運転さえ出来れば、9歳の子供に運転免許を与えても良いだろうか。

子供に免許を与えないのは、体格も社会常識も不十分だからだろう。同じ事なら、高齢者にも言える。体力、判断力の衰えに加え、痴呆などの社会不適合が懸念される。
ただ、同じレベルなら、高齢者の方が、社会経験という点で、操車中の判断力に期待できる。
しかし、一定程度の年齢を過ぎれば、明らかに子供レベルに能力が低下する。
実際、評判の良かった70代の医師が、駐車場で事故を起こし、自分の妻を死亡させるという悲劇があった。運転能力は人格の問題ではない。

少なくとも、免許の上限を80歳ぐらいにすべきだ。それ以後でも運転をしたい人のためには別途、特別な制度を設け、改めて試験をするようにすれば、運転できる人もいるかも知れない。とにかく急がれる。

一方で、高齢化社会では逆に、高齢者の移動手段が欠かせなくなる。コミュニティ・バスタクシーや、Uberのような簡易タクシーの制度で、簡便に足を確保する必要がある。
本当なら、助け合い運動として、老人のヒッチハイクを根付かせるのも良いのだが、安全や責任の問題も難しい。

一刻も早く、自動運転社会になって、子供でも「おばあちゃんのおうち」と言っただけで運んでくれるような時代が来ることを夢見ている。


TRAP

2016年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

HTTP     (♪PPAP)
He is Hitler.  He is Trump.
Umm.... HiTrump
He is Trump. He is Putin.
Umm.... TramPutin
He is HiTrump. He is TramPutin.
Umm....  HiTrumPutin put a pen (penitentiary)
HiTrumPutin put a pen

Hitler-Trump-Trump-Putin
HTTP
He ... TTP
                   by Tacotaro

トランプ大統領になったことで、株は乱高下。世界が混乱している。
株価の解説をしていた証券会社の担当者が、「トラップ政権」と言い間違えた。乱高下に関わっている本音が、思わず出たのだろうか。

かねてより、商売人トランプ大統領なら自国が有利になると期待していた中国と、プーチンのロシアは、笑いが止まらない状況だ。
しかし、中露が期待するほど上手くはいかない。
ロシアは疑り深く、用心深いところがあるが、単細胞の中国は短絡的に勝手に期待した上で、確認のための行動に出るだろう。日本は、巻き込まれないように徹底的に備えておく必要がある。

偉大なトラップ
トランプとは何者なのか。メディアも政治家も、全く理解していないようだ。
結論的に言えば、「教祖」だ。
「自動車人間」で言えば「ボディー」。それも特大でピカピカの、ボディーだけの車で、中身は何も無い。少し見劣りはするが、フィリピンのドゥテルテ大統領も大型ボディーだ。

ボディー人間は、他人にどう観られるかを意識し、外見だけで生きている。普通のボディー人間は他の要素も持ち合わせ、目的意識や主義主張も持っているものだが、中には徹底してボディーだけの人がいる。こういう人は、ボディーの性質が極端に出る。

ボディーの能力は、他人に自分をイメージづけることと自己防御、それと、トータル利益の勘だ。そして、他人の能力を活用するのが上手い。
くれぐれも注意したいのは、他人の能力を活かすのではなく、「自分のために」活用することが上手いということだ。

車のボディーはメカを助けるわけではなく、いいとこ取りするのがボディーの役目だ。だから、通常、政治家や教師など、先生家業に向いている。自分が何かを生み出すわけではなく、他人の業績を、さも自分のもののような顔をする。
ボディーは「象徴」だから、名前やマークを表す、車なら一目で分かるエンブレムだ。トランプが事業物件に、やたら自分の名前をつけるのは、それ自体が目的になっているからだ。

結果だけ、いいとこ取りするボディーは、目的のための手段やプロセスは関係ない。
目的のためなら、その場その場で、適当に最も効果的な言動に出る。状況次第で豹変する。
ボディー人間はとにかく人に好かれたい。尊敬されたい。このことは一方で、誰かを崇拝もする。時には人であったり、時には権威であったり、既存の「偉大なもの」に従順だ。
人気取りのボディーである、ドゥテルテやトランプの悪態は、それを喜ぶ人が確実に存在することを知っているからだ。自分の信念を表明しているわけではない。
民主主義のようにイメージが支配する政治では、ボディーの人間が人気する。(田中角栄もボディー)

ヒトラーとの違い
ボディーは自分自身が尊敬されるレジェンドになりたい。つまり「教祖」になりたい人だが、一方、よく似ているガソリンは「扇動家」だ。他人の評価を気にするボディーに対し、ガソリンはヒトラーのように自分の直感と直情で、人の心を突き動かす。
ヒトラーの人気は、発想に皆が感動したことにあるが、トランプやドゥテルテは、皆の思いを代弁している。
つまり、どちらも脈絡がなく、予測不能のことを言い出すが、ボディーは状況を見て発言し、ガソリンは状況を打ち壊す発言をする。

ガソリンの能力が「直感」なのに対し、ボディーは「勘」だ。「直感」は刺激に対する反応だが、「勘」は全体状況を把握した上での判断だ。ガソリンは損得ではなく情熱で動くが、ボディーは自分を守り、生き残るために動く。ボディーは常に状況を観察し、ギリギリの選択で生きている。

現代の巨頭達
天王星の回帰によって、時代は1930年代のニューリーダー出現の様相を帯びてきた。
ここで再確認すると、プーチンも習近平もエンジンだ。現金なエンジンは、ボディーの自尊心や用心深さに気づかない。エンジンはパワーこそが車の価値だと思っている。しかし、多くの人は外見で判断する。エンジンは、どんどん仕掛けて、表面上ボディーが引けば、上手くいったと思い込むが、実体は、思わぬ方向に動いていることが多い。

エンジンに対し、この逆の立場に当たるのがシャーシであり、オバマも安倍もシャーシだ。つまり、プーチンも習近平も、内心、押し一方のオバマを苦手としてきたが、実体はオバマの意図せぬ方向に動いて行った。

エンジンに押されるボディーの大統領の出現によって、今後の中露とアメリカの関係は逆転するわけだが、そうであれば、アメリカにとって、決して悪いことにはならない。
中露が思うように行っていると錯覚しているうちに、アメリカは実利を得るだろう。ドゥテルテもまた、抜け目なく中国をあしらうことになるだろう。
一方、ボディーのトランプは、シャーシの安倍を盛り立てるから、日本にとっても損にはならないはずだ。

いずれにしても、第二次大戦前夜の様相を帯びてきたことは確かだ。大量の情報と核の存在の中で、再び同じ事はできるはずがないのだが・・・


再び敗北

2016年11月09日 | 星の流れに

トランプ大統領が出現した。
やっぱり、アメリカは男社会であることが再確認された。
前回も今回も、究極の選択なら、「男」を選ぶということだ。(男と女
同時に、世界は立前を守り切れなくなったことを表している。
英国のEU離脱、フィリピンのドゥテルテ、中露の法規無視・・・すでに、第二次大戦後に築かれてきた理想は霧散しているが、アメリカ大統領選挙が最終宣言となった。(祭の季節

世界は既に、天王星・牡牛座の様相を示し始めている。牡牛座は「食うため」を表す。
これからの世界は、本音だけがルールになる。
きれい事ではない、熾烈な「取引」で考えなければ、生き残れなくなる。本当の実利とは何かを考えて、「相手の欲しいものを察知して利を得る」ギリギリの外交をしなければならない。

日本政治でも、スキャンダルや失言追求のイメージ戦略は通用しなくなることを、野党も知らなければならない。与党も、実績を示せなければ、失脚することを肝に銘ずる必要がある。
牡牛座2018~2025」、「ゾンビ脳


沈黙の間

2016年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム

「間」をどう読むか。「ま」「かん」「あいだ」、他にも「はざま」「あい」など、色々に読まれるが、一般的には前者の三通りだろう。同じ漢字でも、読みの違いは、多くの場合、意味の違いとしても認識されている。また、人や状況によっても違ってくる。

大ざっぱに、「かん」と読まれる場合は、二点の存在があって存在するものを表し、どちらかと言えば、基点となる二点への注目度が高い。
「あいだ」も、ほぼ「かん」と同じだが、二点よりもやや「間」の存在が意識されるようになる。おそらく、漢語の発生と和語の応用の差として、着眼点がずれたのではなかろうか。

さらに、「ま」となると、これはもう、全く別の存在になっている。
二点によって生まれるものではあるが、「ま」は、一つの独立した存在になる。
「ま」をつくる、「ま」が持てないなど、それ自体が意味や形を持っているかのように語られ、意識されるものだ。日本では仕切られた空間に存在する「空気」を意識するからか、部屋のことも「ま」と呼ぶ。

どうしたの?
ノーベル文学賞に選ばれたボブ・ディランが、しばらく音信不通になった。
あれこれ憶測が飛んだ後、半月の沈黙を破って「あまりの栄誉に言葉を失った」と説明し、喜んで受け入れる意向を伝えたという。
石も転がり続けると丸くなる。さすがのディランも、大人の対応をしたようだ。

あくまで憶測ながら、かなり確信できるのは、ディランが即答しなかった半月の経緯だ。
その前に、ノーベル賞選考側の今回の選定は、それなりの快挙だろう。ノーベル文学賞の枠を文化賞に広げて、広く世界に影響を与えたメッセージを顕彰しようとしたのだろう。ただのベストセラー作家には出さないぞという意思表示なのかも知れない。
これは快挙ではあるが、それがまた、ノーベル賞の愚挙でもある。

ディランが何の反応も示さないことに、選考委員から「ディラン氏は無礼で傲慢だ」の言まで飛び出した。ディランが反応しなかった理由はまさにここにある。
人というものは自分の基準で発言する。「無礼で傲慢だ」と言う人こそ傲慢なのだ。
賞を与えてやっているのに何の反応もしないと、苛立つ心こそが、まさに傲慢であることに気づかない。

物をやったのに、何の礼もしない、嬉しそうな顔さえしないと怒る人が少なからずいる。こういう人は、人に与えることで従わせようとしている自分に気づかない傲慢な人だ。
賞というものは、有り体に言えば、誰かの業績にタカって、その人よりも自分の立場を良くしようとする卑しさを秘めている。
その狡猾さに気づかない一般大衆は、賞を与えられることに感謝し、賞を出す側を権威づけ、ありがたがるようになる。自分も是非欲しいと思うようになる。

時々、受賞を断る人がいると、世間では、「何様だ」「傲慢だ」「無礼だ」と、非難の声が起こる。今回のディランも「気むずかしい人」だからと言われていた。変人や奇人に定義することで、社会から排除したり、例外扱いをしてしまおうとしていたのだ。
しかし、賞を素直に受けない人の多くは、物事を「真面目に」考える人だ。一体これは何なのだと。

ディランは、賞そのものを受けないわけではない。過去にも色々受けている。しかし、ノーベル賞に限って何故、即答しなかったのか。それが、選考委員の言葉、「傲慢」に表れている。
近年、特に言われていることだが、ノーベル平和賞などでは、あからさまな意図が表れる。社会正義とはこういうものであるという価値観を元に、実績に関係なく、選考委員会が賞を授与して奨励する、つまり、影響力を行使しようとする「傲慢」がある。

これにより、賞を受けた側は、一つの価値観の側に立つことになり、以後の行動が直接間接に縛られる。いわば、ノーベル賞の子分になってしまうのだ。
これは、自由の情熱で生きる人にとっては、基本的には受け入れがたいことだ。
同好の人々からの、拍手のような他の賞とは違い、一つの意図から自分を縛るような、ムリからの賞は、風のように自由な心で生きるディランとは、相容れない。

ディランの沈黙と、垣間見える反応から、相当の葛藤と逡巡が窺える。
しかし、仲間内からの祝福や、おそらくは説得もあって、ここは受けておこうと言うことになったのだろう。大げさな社交辞令的な言い訳の言葉にも、それが表れている。

この半月の「間」が、ディランの葛藤の時間(かん)なのか、意図的な「ま」なのか、
答えはやはり、風の中にあるのだろうか。