魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

因習脱却

2023年02月07日 | 結婚コン

首相秘書官が、LGBTや同性婚に対し嫌悪感を漏らして更迭された。
同性婚は生産性がない」と同様で、叩いても叩いても出てくる。慌てて更迭すること自体、この政府あるいは政治家の、欺瞞政治が現れている。心にもない政策を行っているから、覚られまいと慌てる。
秘書官の言葉は、政官界の共有する本音だから、オフレコで気を抜くと溜息のように普通に出てくる。もしかすると、報道関係者も「だよな」「だよね」と、日頃話していて、秘書官は思いがけない、寝首をかかれたのかも知れない。
また、裏読みすると、実は自分自身がLGBTで、それを覚られないために過剰な嫌悪感を語ったとも考えられる。表現の過激さからすると、こちらの方が解りやすい。過剰な抑圧環境が、その反対の現象を生むことは多々ある。

いずれにせよ、政官界の本音は硬直的な非多様性だ。
なぜ政官界に非多様性が根深いのかは、おそらく優等生が多いからだろう。優等生はその社会の伝統的価値観を最も体現する人だ。
多様性を改めて取り上げなければならないほど、日本の、と言うより世界の伝統的価値観は因習に偏っている。
この点で、復古を目指すタリバンは正直だが、人権を取り上げる人々が、身も心もジェンダーと無縁かと言えばそうではない。むしろ自身の中にある偏見と闘っているから熱心ではないのか。「まあ、いやらしい!」と言う人は、大体その人がいやらしい。

一夫一婦をマネする母系ハイブリッド日本
裸に無頓着な江戸に来た欧米人は、人前で授乳する母親や混浴に驚愕し、シュリーマンは外国人を見に銭湯から裸で出てきた人々に囲まれて困惑した。南の島に渡った宣教師は裸を禁じた。つまり、エデンの園から追われた欧米人は裸に対する羞恥心と妄想が根強く、イチジクの葉が無ければならなかった。だから、彼らにとって、トップレスやヌーディストのように、過激に裸になることは、神からの解放か、逆に本来の神への回帰を意味する。
それと同じように、人権や女性の権利を訴える人は、自分の中にある潜在的因習を社会に強制されていると受け止め、社会を改めようとする。一人自分が自信や納得で生きていれば良いものではない。だから他国に対しても、様々な注文をする。反戦とはまた異なる運動だ。アメリカが人権を叫ぶのも、内戦までして脱却しようとした奴隷大国の内的葛藤があるからだ。

日本の政官界は、中華の男尊女卑の伝統で、欧米の「イチジクの葉」の価値観を見習った優等生であり、氏族の伝統や帝国時代の法秩序の概念から抜けられるわけがない。
であるにもかかわらず、神からの解放を目指す欧米自身の人権トレンドを、ようやく帝国主義のモノマネが身についたばかりの優等生が表面面だけ合わせようとしている。
いかにマネしたら良いかだけを考えているから、夫婦別姓どころか、本音がボロボロ出てきて慌てる。このニュースに先進サミットの6カ国は、「やっぱり、日本は・・・(後進国だ)」と、改めて納得している。

マネするなら精神を理解し、欧米の先を行かないからバカにされる。一夫一婦の婚姻制度そのものを廃止し、税制も全く違う概念にしたらどうか。律令時代からの家族単位の個人所得税など止め、食以外を全面消費税にすれば、結婚がネックの少子化問題も解決し、税に関わるややこしい手間も減り、国が活性化する。(所得税計算に一体どれほど経済ロスがあるか専門家は一度、計算して欲しい)

しかし、まあ、絶対にそんなことはできないだろうし、思いも及ばないだろう。
であるなら逆に、あらゆる世界の秩序常識から離れ、原始日本の母系社会を再現し、母系による家督相続で税制を考えてはどうか。これも、少子化には確実に歯止めがかかる。中華思想の男系以前は、女が自由に子供を産んでいた。男系に拘ると行き詰まる。

欧米式人権の進歩にもついて行けず、原始日本にも帰れず、産業革命パラダイムの後遺症に悩み少子化対策を考える。
日本に本当の政治があるなら、高度成長の穴埋めに頭を悩ますより、少子化時代に対応するビジョンとは何かを考え、それを実現する政策を打ち出す・・・はずなのだが。


時代の歩

2022年10月31日 | 結婚コン

コロナで外出が減れば、出生率が上がると思ったら、反対に落ちた。
人間の性欲というものは、多様な刺激と共にあるらしい。
同じ男女だけで常に同じ所に同居していると、繁殖欲がなくなるのかも知れない。
ものすごく仲が良い何時もベッタリの夫婦は、何故か子供縁が無いことが多い。
これは、男女の関係ではなく、母子の関係になっているせいだと思っていたが、コロナ現象では、さらに、同族婚の忌避感覚も加わったのではないかと思う。

浮気は罪悪とされるが、近年、性欲はDNAの多様な交配欲であることが解ってきたことで、始めから避けられない衝動と認識されるようになった。
長期同居する男女が性欲を持てるのは、浮気をしないまでも、外で他の異性を見ることで刺激を受け、性欲そのものがリフレッシュされるからかも知れない。
コロナで閉じ込められた夫婦が繁殖に励むどころか、DVや過食に走り、出生率が減少したことと、つじつまが合う。

昔の出生率の高さは、それだけ死亡率が高かったからだろう。
黄泉比良坂で、毎日1000人殺すと言うイザナミに、イザナギは1500人産むと応酬する。
多死多産は、古代の常識だが、現代人は簡単に死ななくなった上に、一生同じ異性と暮らす立前があるから、DNA配合の更新意欲を失う。しかもその相手と長時間閉じ込められたら、よほど、妄想力や好奇心がない限り、興味を失い、不満しか見えなくなる。
それでも、それが結婚という束縛のない相手なら、まだ自由な妄想の対象になるだろうが、「縛られている」相手と顔をつきあわせていれば、心理と物理の両面から呼吸困難になり、近寄ろうとも思わなくなるのだろう。

出生率に拘るのは、産業革命パラダイムの思考だが、どうしても人口を必要だと思うなら、婚姻制度の抜本的見直しが必要だ。
統一教会に洗脳されたような、因習的でイヤらしい純血主義を掲げ、夫婦別姓さえ拒みながら、一方で、子供を増やそうとする政治家の矛盾。
しかし、労働力を求める産業革命パラダイムこそが、氏族的大家族を解体し、女性を解放した250年だった。現行の婚姻常識は、さらにその前の時代の遺物であり、未来には害にこそなれ、何の足しにもならない。

復古より先取りが現実的
ポスト産業革命後は、既に始まっている。先ず真っ先に改めなければならないのは婚姻制度だ。
教育、労働、財産など、全てが婚姻制度に繋がっている。社会基盤を氏族や婚姻においた古代の発想が、今や完全に通用しなくなっている。
未来は、氏族や家族ではなく、個人が基盤になる。個人のネットワーク社会には、婚姻は必要ない。実際に、墓や葬式や結婚式は廃れつつある。
個人が属する社会システムが、国か世界かはこれからの問題だが、子供は夫婦で育てるのではなく、親と社会で育てるものになるだろう。ほんの1世紀前まで、子供は一族で育てるのが常識だった。
「イクメン」などという言葉はいかにも新しそうだが、婚姻と家族を大前提とする復古主義の宣伝であり、夫婦別姓などの個人への流れを封じ込めようとする、おそらくは無自覚な、進歩への抵抗だ。
今、進みつつある「来たるべき時代」を先取りするためには、今の常識は捨てて考えるしかない。


日本政治

2021年03月09日 | 結婚コン

政治家が無報酬であるべきこと
選挙についてよく、「出たい人より出したい人を」と言われる(表現は多様)。
政治家になる動機に、利益や権力が含まれるようでは、政治がゆがみ、国民はいい迷惑だ。ただの欲で政治家になりたい人には、やってもらいたくない。
もし政治家が「うま味」のある職業でなくても、お金がなくても、ひたすら世の中をなんとかしなければと思う人が、政治をやろうとするなら、金銭的にそれを支える賛同者を募らなければならない。

主張と説得力が無ければ賛同者は現れない。賛同者がいるということは、既に、政治家としてのビジョンも能力もあることになる。
こういう人に政治をやってもらいたいと思う人が集まって、バックアップするなら、政治家に報酬は要らない。世の安寧を祈る宗教家にお布施をするようなもので、信者が生かし、信者が信者を集める。僧と同じで、政治家は本来、財には無縁だ。
政治は「政(まつりごと)」であり、皆の思いを集めるお祭りと同じで、賛同が集団をまとめる。神様を信じるように、ビジョンを信じるから人々が集まる。
人々の思いを代弁する人こそが「代議士」であり、思いのまとまらない人に、知名度で選ばせるのが選挙ではない。選挙の時だけ話す政見で、妥当な人を選べるわけがない。
こんな宣伝選挙だから、「選挙には金がかかる」のが当たり前になる。

金のかからない選挙とは、本来の民主主義のことで、皆が自腹を切り、市民一人一人の思いを結集していく草の根運動だ。
なんだかんだ言っても、アメリカはここから始まり、地域、地域の開拓村から政治家が現れてきた。戦争も自衛と独立から始まり、多くの古い国のように、当たり前のようにお上が駆り出す兵隊ではない。だからこそ、アメリカでは徴兵拒否が自然に起こる。
一人一人の意思が支える民主主義を、明治政府やアメリカという、お上から与えられた日本の民主主義は常に本末転倒だ。言葉は民主主義を論ずるが、心はお世継ぎや先生様に依存している。批判ばかりして、自分たちの手で、望ましい人を育て選ぶ意思がない。

また、批判や誹謗中傷するのが野党政治ではない。自分たちのビジョンを主張し広める布教活動こそが政治活動だ。古代からの権威主義思考で、権力だけが政治だと思っているから、ただ権力を中傷する。野党がだらしないのは、ただ一点、ビジョンが無いからだ。
この点で、共産党や公明党にはそれぞれのビジョンがあり、政党としての存在理由があるし、維新にも地域政党としての民主主義の根拠がある。

改めて、政治家は宗教家であること。政治家を食わせるのは信者である市民団体であること。この認識が無い限り、日本の選挙には金がかかる。そして、日本の民主主義は形だけで中身はぐちゃぐちゃだ。

 


ホスト国

2021年03月04日 | 結婚コン

NHKの日曜討論で、与野党の女性代表がジェンダー問題を話していた。
女性の立場から女性同士が語るということで、一般的な政治討論会とはずいぶん空気が違い、何かとても安らかな気持ちになった。
観ているうちに、「こりゃあ、もう、政治は全部女性にやってもらう方が良いな」と思ってしまった。
仕事、生活、子育てと、きめ細かく配慮が行き届き、日常的な問題が気持ちよく解決されそうな気がする。女性同士の共鳴が基調にあり、男性のように、「俺が、俺が」の無意味な喧騒が無く、市民感覚のニーズが、スムーズに整いそうだ。
自治体の議員は、知事に至るまで全て女性限定にすれば、くだらない、いざこざが減り、地方行政が行き届き、生活が穏やかになりそうだ。

しかし、そうなると、気持ち良すぎて、誰も布団から出たくなくなる。
人間の営みには、布団から飛び出す、「破」=生産も必要だ。地方議員を全部女性にする場合、男性だけの諮問機関を設置し、このメンバーも選挙する。つまり、決定権を女性にする。
その上で、国会議員だけ普通選挙にすれば、国民の本当の性差意識が現れる。
地方議員が全員、女性であれば、国政への進出も容易になるし、発言権も強力になる。
ただし、いずれの議員も委員も、基本的に無報酬とする。本当に意見がある人だけが関わればいい。報酬や利権があるから政治が ビジネスとして成り立ち、世襲議員が生まれる。
町内会や祭りの実行委員のように、持ち回りにするのも良いのかもしれない。

男の砦
バカげた話に聞こえるかもしれないが、日本の女性議員比率が少ない一因には、日本の民主主義が、欧米からの「借り物」であることが影響している。
しかも、それ以前の統治観も、中国からの借り物だった。
古代の女性天皇は、男系天皇のピンチヒッターに過ぎないと言われるが、少なくとも往古当時は、それを認める価値観があった。
当時生まれた神話や国史は、外来の中国価値観で整えられたものであり、それまでの価値観や状況を、後付けの父系価値観で説明づけ、つじつま合わせをしたものに過ぎないが、それを千年以上続けることで、表面上はすっかり中国のような男尊女卑の国になってしまった。
その上に、明治維新と、米国による占領で、欧米型の父系価値観の作法を身につけた。

つまり、日本という国は、縄文型母系の身体に、中国型父系の服を着て、欧米型父系の作法で生きている。
欧米型の民主主義は、神の下の平等と、女は男の一部でしかない根底的な男尊女卑の矛盾が、今も葛藤していて、「平等!」と言われれば、建前上、逆らえない。
ところが、西欧式に振る舞う、男装の日本に、「男の格好はダメだ、ジェンダーの衣を脱げ」と言われても、中国にもらった一張羅を脱いだら女であることがばれてしまう。
もし、日本の男どもが、今まで拠ってすがってきた「男の立場」を手放し、対等で日本の本体である女と向き合えば、実は不要であったとばれてしまう。うすうす解ってはいるが、信じたくないから服を脱げない。

平和な時代のリーダー
男装の麗人の日本が、本気で女を出せば、どの先進国にも負けない力を発揮する。
西欧の男は、ジェンダーフリーの立て前とポピュリズムに縛られて、力を失っているから、女原理での勝負なら、本物の女の底力を持つ日本が有利になる。
日本の女の強さは、西欧の女が九州女だとすれば、日本の女は京女だ。男原理の中で女が力を持っても男のまねしかできないが、京女は芯の強さと賢さと愛嬌を持っている。女として強く、女だから強い。

対決型の男原理が失われた現代では、中国のようなぬるい男原理でも大きな顔をしているが、もはや腕力の時代ではない。
ガーガーわめかない京女型の日本は、知らない間に周囲を仲間に引き込む、女原理の共感と調整が発揮できるはずだ。
米中の覇権争いは、男原理の名残だが、もはや日本は、こんな騒ぎに付き合うより、静かな共感を広げる「根回し外交」や文化外交に打ち込み、CPTTPのような実績を重ね、上げた拳を下ろせない米中のような覇権男を引き込む時だ。

これを実現するには、やはり、全地方自治を女性にし、その土壌の上に国会議員を選出すれば、今とは真逆に、男性議員を世界に顔を出すためのお飾りとして使える。
実際、これまでも首相がコロコロ変わっても、特に問題が起こったわけでもないし、長期政権は、調子のいい無責任男でなければ務まらなかった。
男によるいい加減な男リーダーなら、女によるお飾り男の方が様になる。世界の女性リーダーを手玉にとるような色男を首相にできるかもしれない。


自己矛盾 2

2021年02月28日 | 結婚コン

未来は人権に向かう
なぜ、ジェンダーが問題視されるようになったのか。これは時の流れ、時代の趨勢だ。
産業革命で労働の形が変わり、古代からの氏族家族による役割分担の生産秩序は、企業、国家による生産に替わり、単純労働で男女差が無くなった。兵士さえ、機械操作ができれば男女の差は無い。労働対価に差をつける根拠は何も無くなった。
わずかに残っていた性差の特性も、ロボットやAIで不要になりつつある。

にもかかわらず、企業や国家が、氏族からの家族を前提にしていることに矛盾がある。
産業革命の初期はそれが便利だったし、現在の日本の受験戦争のように、教育が労働生産性と直結するシステムも未だ健在だ。
生産の作業に当たる知識と、生産を管理する判断は、教育によって能力に差が出るから専門性の対価に差が出るのはやむを得ない。
だが、もはや、生産作業はロボットが、管理はAIが行える時代になった。人間に必要なのは価値観と創造性のみになり、「働かざる者食うべからず」の前提さえ失われた。

産業革命パラダイムを支えた教育は、人間を生産システムに組み込むためのものだったが、その必要が失われれば、教育の意味が変わり、読み書きソロバンの能力は不要となる。当然、現在の教育制度は、根本から組み立て直さなければならない。
宇宙的視野と生きることの意味や、好奇心と創造性を養う教育こそが、人類の次のステップに必要となる。個性と才能をそぎ落とす、工場や軍隊に入るための金型である学校を廃止し、学校を個性と発想を伸ばす遊びの場とすべきだ。哺乳類発展の最大要因は「遊び」であることを、今こそ世界中が再認識する時が来ている。
知識だけなら個別にいくらでも学べる環境が生まれているのだ。

こんな時代に足をかけている今、古代からの概念と枠組みが、巨大な壁になって立ちはだかっている。これがジェンダー問題の本質だ。

古代からの脱皮
オスの筋肉がメスの子育てを支える、野生からの古代家族社会が今も残っている。
しかし、人類の発達は、この野生の知恵を全く必要としない環境を生み出した。
性差や能力差にかかわらず、全ての人が対等に暮らせる道具を手に入れた今、それを実現するには、古い殻を脱ぎ捨てなければならない。
これを実現するのに、現在の殻で戦おうとするから、おかしな議論が横行し、無駄な葛藤を招いている。

各分野における男女比率の均等や、男性の育児休暇など、あたかも社会変化への道のように語られるが、まさに、魚の語る鳥の世界だ。
古代システムで、男が築いた男社会のまま、女を増やしたり、男に育児休暇を与えても余計不具合を生ずる。冬が来ても、夏着の上に重ね着をするようなものだ。
議会で選良が議論する、政治制度そのものが無意味になっているのに、無意味の比率をどう変えようが無意味なのだ。古代からの子育てのノウハウが失われている核家族で、男が子育てに当たっても、何も変わらない。

未来の技術・情報革新の中で、どんな社会が求められ、どうあるべきかを白紙から模索しない限り、壮大な無駄を積み上げるだけになる。
全ての人の生存保障と、差別の撤廃を前提とし、活力がある社会を維持して行くにはどうあるべきなのか、現在と未来の科学を組み込みながら、積み上げる心構えこそが、ジェンダーを考える必要の無い社会を育んでいくだろう。

自己矛盾 1


自己矛盾

2021年02月11日 | 結婚コン

東京オリ・パラの森会長の失言は、ジェンダー問題を全く理解していないからだろう。
これだけで、もう辞めるべきだ。首相までした人が、現代の社会常識のイロハに対応できないのでは、表に立つべきではない。
未来社会の入口に立つ今、性差別は世界的に大きな障害になっている。これを取り除くために、とにかく形から平等にしようという動きが盛んだ。
個々の理解より、形から入れば確かに、意識が付いてくることはある。シートベルトを強制したことで、今では、シートベルトが無ければ不安な人が多い。

しかし、数値目標や機会均等では、万人の納得と理想的な結果にはつながらない。アメリカの人種問題が、表面上の解決の裏で、根深い拒否反応があることは昨今の情勢を見ても明らかだ。
また、日本のように実質は母系文化でありながら、社会の仕組みを男社会にしているような、欧米人には理解できない社会で、単純に欧米式を強制すれば、どうなるのか。誰も分析を試みていない。その前に、日本が母系社会であることを、どれぐらいの人が理解しているのかもわからない。

そう遠くない昔、九州出身の国会議員が、「子供を産み育てるのが女の幸せだ」と言って問題になった。同世代の森会長は、古い日本のごく常識的な前提を、遠慮しながら言ったつもりだろう。単純に「女は出るな」とは言えないことだけは知っていた。70代の男が、飲み屋でわざわざ「女性」と言い直すようなものだ。形だけ気を遣う。
これは同時に、「女ではなく女性」だと主張する「女性」の中にも無自覚に棲み着いている、古い価値観と同じ意識だ。
古いタイプの女性運動家には、人権闘争を対男戦争と勘違いしている人がいる。それが自分の被害者意識、つまり、差別意識の裏返しであることに気づかない。
森発言に怒っている多くも、自分が女性だから怒っていることに気づいていない。

人権不在の不毛な喧騒
文化の違いにかかわらず、男女や年齢職業の違いにかかわらず、ジェンダー騒動には、先ず「人権」とは何かが抜けている。
人権は、表面的な肉体としての人ではない。存在そのものであり、仏教で言う仏性や西欧的な霊性のように、肉体とは別の存在と考えても良いのかもしれない。人たる根の存在には、肉体や立場における違いはなく、等しく尊い。ただ、仏性や霊性は全ての生き物、時には事物にまで広がるが、人権は人の話だ。ちなみに魂は、より肉体に近い個性を持っている。

基本の存在、人権で考えれば、どんな呼び方をしようが、どんな立場であろうが、それは仮の姿であり、この世の役割分担に過ぎず、こだわることではない。
真に人権次元の平等で考えるなら、逆に、ジェンダーは仮の姿に過ぎず、むしろ、あっても構わない。同じ野球チームに投手も外野もいるが、一人で試合はできず、ポジションは適性によるもので、メンバーに上下はない。
ジェンダーで差別する人間を非難することは、同次元に落ちることになる。もしポジションで差別するなら、そんなチームはやめればいい。
性差別をする会社や団体は相手にせず、ジェンダーフリーの人、あるいは女性だけの会社を立ち上げ、組織も顧客対象も賛同者だけにすれば、本質的に女性依存の日本の企業や団体など、たちどころに崩れ消滅する。

男女機会均等の発想は、一見、美しいが、1イニング毎に、投手を交代するチームのような話で、人権の平等と、能力の平等を取り違えた短絡だ。
機会均等や同率にせよの主張が、既存の男社会に甘えていることに気づかないかぎり、人権社会が来ることはない。
家事労働が幾らに換算されるとか、始めから男社会前提の話題には涙が出る。
本当に人権社会を目指すなら、家族前提の社会、婚姻前提の社会をゼロから考え直す必要があり、それは、今まで信じてきた、愛や絆の概念から変えなければならないことを意味している。
ジェンダーフリーは、「杜子春」の仙人願望のようなもので、本気で求めるなら、先ず自分自身を八つ裂きにしなければならない。それを求める動機そのものが、ジェンダーだからだ。


人類の曙

2020年12月16日 | 結婚コン
森は草原になった
コロナ後の経済構造転換の志は良いが、一方で、政府は妊活を応援している。これは見当違いの無駄金だ。GOTO同様、現状維持のための浪費と徒労は、前政権の後遺症なのかもしれない。

妊活支援は現状やむを得ないが、長期的にはロボットやAIで、人口による生産は終わる。大人口はむしろ障害になるだろう。
現代は、百年、二百年前とは、人間の関係性や価値観が全く変わってしまった。社会システムの根幹である婚姻制度を変える時が来ている。
明治に一夫一妻が固定化され、80年後の敗戦で大家族制が消滅した。その周期で見れば、今また、ちょうど大きく婚姻制度、家族の概念が変わる時だ。

妊活では、事実婚夫婦にも補助金を出すそうで、少しでも、現実に近づこうとする気持ちは涙ぐましい。折から、夫婦別姓の議論も、これまでになく積極的だ。
しかし、現実はそんな次元をとっくに超えている。
産業革命パラダイム250年で、古代から続く家族の森は失われ、人類は、新環境となる社会システムの草原に降り立つ時を迎えている。新人類の黎明が始まるのだ。

婚姻による出産、子を養育する親の義務と保護・・・この大前提をもとに構成される徴税と社会保障制度。これが全て、機能不全に陥っている。それが少子化の最大原因だ。
婚姻の歴史は、原始的な集団への組み込み、氏族の結合、文明社会の家=大家族を経て、近代の個人=核家族が生まれた。
これらは、いずれも、子孫を残すための装置だったが、生殖がDNAの配合のためにあると解った現代では、その配合のためだけの、婚姻の必然を感じなくなった。葬儀の縮小にも家の消滅が表れている。
「自分の血筋を残す」衝動より、漠然と、類的営みとしての認識が大きくなっている。

家族から個の社会へ
核家族が浸透すると、それ以前のような集団の束縛がなくなり、恋愛同様、簡単に離れる。
「結婚を前提に付き合って下さい」は結婚がゴールだが、現代の結婚は「離婚を前提に結婚してください」であり、独身が出発であり、ゴールだ。
個人意識の強い現代だから、古い社会の結婚による職業ハンデを負った上に、離別後の保証のない婚姻など、誰も望まない。特に女性は。
加えて、親が子供を養育することを大前提とする社会では、離婚後の保証のない結婚と出産は博打であり、生まれてくる子供への責任を考えると、ますます子供を産めない。
妊活しようと思う人は、よほど夫婦仲を信じるか、経済力に自信のある人だろう。

今の保育施設は、現行の婚姻制度が前提であり、核家族の補助だが、もはや、そんな時代ではない。
むしろ、社会による施設での保育を大前提として、自分で育てたい人、育てる余裕のある人が手元で育てる、逆転の発想でなければ間に合わない。
「育メン」などというトレンディ語に騙されてはいけない。これは、子供は男女だけで育てるものという古代幻想を守るためのマヤカシに過ぎない。男女で子供を育てる婚姻は、本来、役割分担を前提としていた。

これから、さらに個人主義が成熟すれば、子供は産んだ母親のものであり、社会全体でそれを無条件で保護すべきものだ。父親の存在意義があるのは父系社会であり、オスがメスを保護する、一般的な哺乳類の生態を引きずっている。
一匹のオスがメスを保護することを前提にしながら、同時に育児もするのは、基本的に不可能であり、その前に、男女関係と婚姻、社会そのものを変えなければならない。
オスがメス同様に育児をするには、総合的で豊かな社会生産の上に、オス同士の競争のない、恵まれた環境でなければならないが、生産環境は整ってきていても、社会慣習や通念に基づく婚姻制度が、まだ古代のままなのだ。

何か変だ

2020年01月01日 | 結婚コン
2019年のジェンダーギャップ指数が、日本は153カ国中の121位で、去年110位よりさらに下げた。最大の理由は政界、ことに閣僚の女性比率が少ないことが大きく足を引っ張ったそうだ。
おそらく、夫婦別姓さえも認めない長期保守政権の、男系天皇の国としては必然的な結果なのだろう。
保守党の家族観、父系をベースにする日本の婚姻制度には反対だが、この男女格差ランキングには全く賛同できない。
男女が対等であることと、機会均等に男女が同じ職業に就くことは全く別の問題だ。

男女は人権において対等だが、同じものではない。例えば、一部の例外を除けば、筋肉仕事は男性に向いているし、自然発生的には男性は子供を産めない。あるいは、女性の権利が叫ばれる現代で、逆に注目されるようになった、男性脳、女性脳のような適正の違いもある。
同等の人権のもと、違う両者が協力し合うことで、社会は良くなるが、その協力の形や度合いは、集団のベースになる歴史や文化で異なってくる。
男女の平等とは、一つの文化集団の価値観でランクをつけるようなものではない。こんなものに上下をつけること自体、独善的自己肯定、つまり、文化差別だ。

戦前、優生保護などと言う西欧の価値観が、当たり前のように基準視されたが、時が経てば、とんでもないことだった。
女性が政治に向いているかどうかは解らない。そもそも、政治とは何かの問題がある。ただ、男性脳、女性脳のような観点で見ると、仮に、女性だけで政治が行われれば、おそらく、平和で和やかな社会になるだろうが、変化には弱くなるのではなかろうか。
だからこそ、男女が協力して政治を行うべきとなるのだが、それが可能なのは、牧畜文化から生まれた、父系の一神教を背景とする欧米文化だからだ。
根本的に男尊女卑の文化だからこそ、協力が必要となり可能となる。

日本は、根本的には母系の海洋文化に、男女対等の農耕文化が重なり、その上に役割分担として、表面的には、男尊女卑の中華形式が出来上がっている。
政経分野で女性が少ないのは、こう言えば色々反論があるのは知っているが、女性自身が成りたがらないからだ。闘争の政治世界は、角を立てて張り合い、リスクとストレスが多い割には、女性としての幸福感が少ない。女性としての幸福感とは、ジェンダー由来のものではなく、女性脳を満足させる「なあなあ感覚」の世界、安定と平和だ。
役割分担として、闘争から遠ざかってきた日本の女性は、責任の無い場で文句を言うことに慣れきっている。しかも、表向きは支配されているようで、欧米とは違い、実質は男性を支配している。わざわざ、男性を押しのけて、責任を引き受けるようなバカを好まない。

日本の政財界で役職に就いている女性は、そう言っては語弊があるが、大方が、男社会に利用されている人ばかりで、女性で賢い人は表に出ず、日本のしくみを不服そうな顔で利用している。

事実、日本では欧米のように、命をかけて女性の権利を主張した人たちはいない。欧米はそれほど厳しい男性社会という事だろう。
しかし、日本人女性が欧米女性より弱いわけではない。むしろ、シンの強さは群を抜いている。スポーツなど、女性の戦いでは体力差があるにもかかわらず、常に上位にいるし、緒方貞子のように、日本の仕組みを離れた場では、任された仕事をやり通す。
日本女性は、欧米社会で這い上る女性のように、権力への闘争心を持たないだけで、むしろ行政管理能力は圧倒的に優れている。それは日本社会の底流が女性によって成り立っているからだ。欧米では、あまり内助の功の話を聞かないが、日本の権力者にまつわる話には、ほとんど妻の話が付きまとう。
欧米では、ファーストレディーはおまけ的存在だが、日本の権力者の妻は、夫を操る傀儡師と言って良い存在だ。

日本社会が女性に操られる表面上の男社会であることを理解できない、男尊女卑の欧米社会が、日本の現象を批判するのはやむを得ない。しかし、それをステレオタイプに受け継いだ日本の女性解放家が社会批判をしても、全く見当違いな漫談にしかならない。
日本の女性解放を主張する運動家は、女性中心で起業し、日本産業を支え、支配することを心がけることが先だろう。男性であっても、起業家は皆苦しんで起業してきた。
日本企業の多数が女性の起業になってこそ、真に対等の社会が訪れる。

余談だが、日本よりランクが上となった中国では、日本のことを馬鹿にする意見が多いが、中国こそ男尊女卑の本山だ。共産党中央の幹部には女性はいないし、偉くなると芸能人を妻とし、毛沢東のように、その妻が権力を振るうと政治混乱を引き起こした。また、現在の共産党の息で据えられた香港行政長官は、香港の混乱を自ら演出したと言って良い暗愚だ。つまり、選挙のない中国では絶対的に女性がトップに立つことがない。女性はただのお飾りと考えていることが明白だ。
これに引き換え、選挙のある台湾では女性が総統となり、果敢に中国に立ち向かっている。

日本源流

2018年08月06日 | 結婚コン

自民党の若手議員が「同性婚は生産性がない」と言って、党から指導を受けたとか。
夫婦別姓さえ反対している自民党がどんな指導をしたのか、想像するだけで、笑わずにはいられない。「選挙に影響するから、うかつなことを言っちゃ、アカン!」とでも、「指導」したのだろうか。

この短い発言には、多くの問題を含んでいる。LGBT、婚姻、産業、人権、国家など、どれ一つとっても、哲学的な問題であり、しかも、それをまとめて100年も遡るような価値観を、現代の「選良」が信じ込んでいる。三原順子の「八紘一宇」発言は問題にならなかったが、若手議員の時代錯誤は、社会全般の思考停止を露呈するものだ。

毎度言うことながら、婚姻制度の根源的な見直しが必要だ。日本の源流は母系だが、弥生以降、持ち込まれた男系の価値観で覆われたことで、常に矛盾が生まれる。ことさらに武士道が強調されるのも、ベースが女性社会だからだ。この武士道「精神」のイメージが男性社会の欧米で、彼らより男尊女卑とのイメージを焼き付けた。
現代日本のフェミニストは、この欧米視点のステレオタイプを受けて、かなりずれた、政治力学的な主張をしている。
日本の男女差別の是正に、父系西欧社会の男尊女卑是正を、そのまま持ち込むのは、銅板叩き出し加工で、陶器を叩いて直そうとするようなものだ。
日本の男女差別是正は、母系社会への回帰の視点でなければ、余計おかしくなるばかりで、日本人の納得がいく答えは出ない。

母系社会であれば、妻問い婚型の、自由恋愛がベースであり、改めて婚姻の自由や、LGBT 、政治の女性参加など考える必要も無い。ましてや、「女が男の犠牲になる」などという発想は始めから生まれてこない。
この母系感覚に近い例は、おばあや、ユタの地位が高い沖縄社会に見られ、本土にも巫女として形だけ残っている。
母系社会は、好戦的な男系社会によって征服され、表向きは消えているが、日本人の心情には脈々と流れている。

母系ベースの社会では、一夫一婦制も、税制も、全く別の概念体系が必要になるが、父系世界の道理で考えていたら、決して生まれてこない。
したがって、時代錯誤な政治によって、今直ちに母系社会に変えることは不可能だが、一方で、日本の実情は、日々刻々、日本人の手によって変えられつつある。
一昔前には、未婚の母は大事件だったが、産んで離婚の時代から、婚前出産ブームへと、社会感覚が変貌し続けている。政治が主導できない間にも、日本社会が母系社会に進んでいるのだ。
愚昧な政治家が少子化を嘆いている間に、母系の底力が、日本人をよみがえらせることだろう。


男の儚さ

2013年09月29日 | 結婚コン

京大、理化学研によると、遺伝子操作により、ほ乳類でも雄が雌になることが確認された。

これは人為的な操作の結果だが、偶発的にもそういうことが起こるという意味だろうか。そうだとすれば、かねがね考えていたことは、本当かも知れない。
雌雄のある生命の基本は雌であり、雄は試行錯誤のツールであると。

雄と雌の関係は、「飛ぶ」と「落ちる」の関係と同じで、雌は「落ちる」リスクを抱えた保守であり、雄は積極的に「落ちる」危険を冒して飛ぼうとする革新だ。

何ごとも、次のステップに進むためには、基礎、足場がなければならない。大地が有って木が生える。草食動物がいて肉食動物が発生する。
天変地異で草木が亡んでも、大地が残っていれば、また次の命が芽生えてくる。国破れて山河あり。

雌は大地であり、雄は草木だ。雌のお陰で成立している雄原理で、あたかも雄が偉いような顔をしているが、種そのものの危機が訪れると、雄はいなくなり、雌だけになる。原始的な生物ほどその傾向が現れるが、人間でも、その傾向はある。

男はオマケ
イスラム、中華のアジアを中心に、世界的に男系が重んじられる。
男が主導権を握れる世界は、女による基礎が出来て、その上で、自分達の集団を発展拡張する余裕があることを意味する。
男が威張っている社会には発展力があり、女が力を持っている社会は、安定社会かも知れないが、少なくとも発展力は無い。

社会が危機を迎えると女が増え。女によって安定すると、男が増えて、男が重んじられる社会になる。
もし男が増えて、冒険や社会拡張のための戦争を繰り返せば、最終的には男が滅び、異端社会の男が侵入してくる。

侵略により男が皆殺しにされても、女のDNAが残されるケースは多い。これは、男というものが、種のチャレンジのためにあることを表している。男同士はDNAを残す争いをし、自集団を広げようとする。
これが高じると、ジェノサイドになる。相手の男を憎むあまり、もう男女とも同じ種ではないと考えてしまう。

また、必ずしも戦争ではなくても、文化的侵略という現実もある。
近代以降、白人は美しい、カッコいいと思うようになっているのも、文化的DNAの売り込みに侵略されているからだ。

東洋占いの「子」
東洋の占いで、「子」とは、男の子のことを意味している。
男の産まれなかった家は、そこで亡んだことになる。
女は当たり前の子供で、男が産まれることだけを取り上げて、子供運があるという。つまり、その家系が発展するのは、新しい模索をするチャレンジ因子の男がいるからだという理屈だ。

もちろん、男中心の社会があるから、男だけを子と見なすのだと言う論理は良く解る。嫁ぐ女が家系を継げないのは、男社会故に起こる現象だ。
では何故、男社会になったのかと言えば、男は捨て石として、集団に新しい生き方をもたらす力になるからだ。
聖書の中でも、冒頭から男の系譜を綿綿と書き連ねる。これは、その種族の繁栄の証なのだろう。

山に木が生えれば動物がやって来る。岩山だけでは何も起こらない。
しかし、山さえあれば、やがて木はまた生える。その時、全然違う木が生えても、山にとっては繁栄だ。

男の儚さ、女のしぶとさ。
オレが死んだら女房子供はどうなる・・・ 全然心配は要らない。
そう思っているのは男だけ


未来憲法

2013年05月31日 | 結婚コン

夫婦別姓の権利は憲法で保障されていないという判決が出た。
日本はまだ、この程度のことでもめている。

時代の変化で近代法がうまく機能しなくなり、各国は、現代へ適合させるため、様々な試みをしている。
婚姻は、国家の構成と財源の根幹だが、国の成り立ちの違いが、対応の違いとなって現れる。

国民の意思によって生まれた国は、時代が変われば国民の法を変えていく。国民の意識が変われば、当然、それに合わせて法を変える。

一方、権力者が国の枠を定め、そこに国民を入れたと考える日本のような国は、国民の側を国のルールに従わせるのが当然と考える。
明治憲法は政権交代した武士階級が庶民に与えたものであり、新憲法はやはり戦勝国が与えたものだ。

自主憲法が叫ばれているが、国民を法に「従わせる」のが大前提の国だから、国民も天から賜ったありがたい憲法を変えたがらないし、国もすすんで時代に適合させる意思が無い。
今回の、夫婦別姓を拒否する判決なども、まさにその例だ。

時代が変わっても、形骸化した法に国民を従わせようとする国。
そんな国に、果たして本当に、「国民の総意」による自主憲法が生まれるのだろうか。

本当は母権の国
自主憲法をというなら、何条がどうのどころか、根本的に「日本人とは何か」を問い直さなければならないだろう。いかにして日本人が生まれ、どこに向かうのかを。

日本は父系の男尊女卑の国と自他共にそう思われているが、それは中国から伝わった価値観だ。

日本人の本当の体質は、海洋アジアの母系文化であり、渡来人が持ち込んだ父系の底には、今も、女頼りの社会がある。
男がエラそうにしていられるのは、根底が母性に依存しているからできることであり、実は、中国の父権も母性への甘えがある。

未来は、父系も母系も関係なくなるだろうが、個人財産を国家の礎にする間は、日本憲法のベースを母系の財産で考えてはどうだろう。これは、欧米にも中国にも無かった考え方だ。

古代日本のように、男は母親に奉仕し財産を預け、相続は娘がする。子供は女のものとし、男は基本的に母の子のまま、風来坊として暮らす。そんなバカなと思われるかも知れないが、妻が稼ぎを管理する日本特有の常識も、この意識から来ている。
もちろん、これに社会福祉が加わるから、古代と同じではないが、父系を基本とする社会や法律より、よほど単純で解りやすい。

この方式なら、当然、夫婦別姓であり、父系社会的な、貞操観念や離再婚の煩雑な手続きも要らない。当然、少子化どころか、増えて困るかもしれない。
男が財産権を持つ社会は、「種」と財産を一致させるため、貞操や結婚指輪が必要になる。

親子関係が不確かな父系社会では、女確保、財産確保のための争いが起こるが、母系なら大幅に低減し、戦争の種も減るだろう。
未来を先取りした平和憲法だが、母系主義の憲法は、温故知新で世界を導く、未来憲法になるかもしれない。


婚フリー(2)

2010年04月03日 | 結婚コン

現行の一夫一妻の婚姻制度は、ほぼ、グローバルスタンダードになっている。
250年の産業革命パラダイムを推進する根幹として、学校、会社、国家・・・と、あらゆる制度のベースになっている。
従って、国家間競争に打ち勝つために、そうでなかった国家も、一夫一婦制に整え直した。

そして、その中で生まれ育った人々にとっては、一夫一婦制がまるで、金科玉条、天地の理、自然の摂理のように思えるようになった。

しかし、一夫一婦制は、産業革命パラダイムのリーダーとなった、欧米キリスト教国の原理であり、アジアには、一夫多妻の原理はあっても、基本的に一夫一婦制はない。
と言えば、かなり語弊があるが、「一夫一婦で生涯添い遂げなければならない」神の教えがない。(現実には慣れた二人に収まるが)

欧米人から観れば「愛人」など、「あってはならない」概念であり、逆に古中国には金と権力に妾はつきもので、互いに相容れない。
その父系の両者から観て、さらに、日本や東南アジアなど母系の、「無秩序な婚姻」は、法もモラルもない「野蛮」とされた。

日本を含め、東南アジアの歌垣や、沖縄の毛遊びなどにあるような、適齢期の自由恋愛が、和歌や今日の合コンにまで続く、高度な文化や情緒を育んできた。しかし、父系的な「・・・ねばならぬ」のイデオロギー文化は、それを、野蛮と蔑視し、抹殺しようとしてきた。

母系の耀き
欧米の産革パラダイムを、急いで取り入れようとした明治日本も、古来の東南アジア的文化をやっきになって押さえ込み、さらに、敗戦によるアメリカナイズで、日本はすっかり欧米式に変貌した。
が、母系の日本的なるものは死んではいなかった。

クールジャパンと言われるものは、すべて、海洋、東南アジア的な情緒から生まれるものであり、欧米中韓のいずれにもない、蓬莱の島の繊細な美と快楽の耀きを、産革パラダイムのシステムを介して世界に発信している。

渡来人の侵略でばったり消えた縄文は、弥生の合理性の中に「様式美」と化して生き残った。そしてさらに、欧米の産革パラダイムの中に、今また、クールジャパンとして甦っている。

欧米中韓の父系原理は、固定的な婚姻をベースにした、侵略と収奪の産革パラダイムに行き着き、自制することができない。
一方、日本のような母系的な島国は、永遠の平和の中で、縄文土器のような無駄な美や娯楽を追求する。そこに、財の為の婚姻はいらない。

もちろん、日本は産革パラダイムの優等生となったが、その一因には他の先進国が持ち合わせない、母系の情緒があったからだろう。
日本の衰退は、もしかすると、欧米中韓のなしえない、大転換の先駆けなのかも知れない。(少子高齢化もその現れ)

来るべき、成長無き安定の時代には、南洋の島、蓬莱の島の生き方が価値を持つようになるはずであり、やはり、生産拡張原理の婚姻制度は無くさなければ、次の時代は始まらない。


婚フリー(1)

2010年04月02日 | 結婚コン

いつも、婚姻制度に異議を唱えていたら、ご提案を頂いた。
要は、
「一夫多妻の逆に、日本を一妻多夫にして、ラスベガスのように、日本に一妻多夫希望者の観光客を呼び寄せてはどうか」
という案だった。

思わず、吹いた (失礼) 

確かに、これまで主張してきた。鎖国的な観光立国、現行の婚姻制度解体などの意見を丸め、ポンと叩いたら、出てきそうな答えだ。
そうであっても一向にかまわないのだが・・・
意図していることとは、少々異なる。

婚姻の形体ではなく、婚姻そのものが無くなることを夢見ている。
経済システムと婚姻制度は一体であり、未来社会の実現は、現在の婚姻制度があるかぎり不可能だからだ。

理想的な未来社会とは、動物原理の因習から解放され、個人の平等が完全に保証される社会だ。それはユートピアにすぎないとしても、少なくとも、個人の自由が財によって縛られない社会のためには、
生存が、家族ではなく社会によって保証される必要がある。

核家族は、大家族や保障社会のように、大きなワクの中で個人が保証されるシステムではない。両者の過渡期の不完全なシステムだ。

保証社会は共産主義でなくとも、完璧な税システムがあれば可能であり、そういう社会であれば、子育てや老後に不安がなく、結婚による保証も不要になる。

婚姻が無くなれば、一夫一妻も一妻多夫も関係なく、恋愛は自由であり、子供は一族の子孫ではなく、基本的に社会の子になる。
現在の、ことに血統主義で考える日本人には、想像もつかない、バカげた話に聞こえるだろう。

しかし、核家族が成った今、結婚式も葬式も墓も要らないと思う人達が確実に増加している。福祉や税制も変わらざるを得ない。
これはまだ、保証社会に移行する過渡期の入り口に過ぎない。

現在は一妻多夫の国は無いが、
事実上、そういう文化の国や地域はいくらでもある。農耕文化に多く、日本でも、夫や妻が死んで、その弟や妹と結婚する例は今でもあり、立て前は家系維持だが、意識的には多夫多妻の名残だ。

こうした感覚は、儒教の中韓から見ればおぞましいとされるが、
易に帰妹卦があるように、嫁を売買と考える古い中国では嫁に妾のスペアを付けて嫁がせた。(ラストエンペラーも)
日本神話の中にも姉妹をセットで嫁がせたら、姉の石長比売がブサイクで手を付けなかった話があり、これは中国の影響だろう。

古代日本の場合、多夫多妻に近く、ごく近年まで、祭りの夜の乱交パーテイや、見境のない夜這いの習慣などがあり、今でも各地の祭りにその名残が見られる。(よその母ちゃんのケツ枕のしきたりなど)
農村の乱交パーティーは、多分に夫の不妊症の解決には有効と考えられ、村全体の生産には寄与したのかもしれない。
→(つづく


結婚の未来 2

2008年12月23日 | 結婚コン

結婚のパターンは、何よりも経済に影響される。
子供を産み育て、生きる方法を次の世代に受け渡ししなければならない。(命と文化の伝授)

狩猟、遊牧、農耕など、その生きる方法で文化は異なる。
食料環境が安定していれば、文化も安定し、結婚の形も固定する。

その安定した生活も、自然環境の変化や、異民族との交流、文化思想の伝搬によって、経済環境の変化や価値観の変化が起こり、結婚の形も変化する。

しかし、安定した一つの時代が何百年にもわたることもあり、その中で暮らす人は、先祖からの結婚形態が自然の摂理のように思い、守らなければならないものだと信じて暮らす。
人間の生活が、家族や地域の生産で営まれていた時代は、それで良かった。

ところが、産業革命で生産形態が変わり、家単位の生産が失われた。
給与生活によって家業から切り離された男女が、家業のための結婚ではなく、社会の維持のための核家族をつくり始めた。

それまで、家によってなされてきた子育てが、保育園や学校など、国家というシステムによってなされるようになった。
家の掟は国家の法に替わり、個々は国に帰属することになった。

ところが、さらに、経済のグローバル化や人々の大移動時代を迎え、従うべき国家や、守ってくれる国家の形が見えなくなってきた。

さらに、科学技術の発達により、子供を産み育てるということが、必ずしも男女の結びつきを必要としなくなってきた。

人間は宇宙には行かないのか
今はまだ、始まったばかりだが、これまで、人間が当然と考えてきたことは、一度、白紙にもどさなければならない。

神話や聖書の時代から、男と女は「産めよ増えよ地に満ちよ」の教えに従って生きてきた。その大前提が、本当は崩れている。
古典的なモラルを前提に、その動きを押しとどめているが、地球外に進出する技術は人間に、生き方の選択を迫っているのだ。

たとえ、今それを受け入れなくても、遅かれ早かれ、人間は母体から出産することを止めるだろう。それにともなう親子の愛情や人間観は、今、心配するほどたいした問題にはならないだろう。
問題は、現在の社会概念が全く役に立たなくなることだ。

人は一人で生きることはできないが、それが男と女や家族でなければならないのは、動物としての話だ。
今、世界的に騒がしい同性結婚も、国家の構成単位を古典的な婚姻を前提としているからだ。生活を共にするものが等しく守られる社会なら同性で「結婚」する必要はない。

これからの社会は、婚姻をベースにする社会では成り立たない。
大家族から、核家族になり、個人の社会になれば、個人の関係がどうであろうとも、個人が保障される社会でなければならないだろう。
そうなれば同時に、子育て教育は、親子を超えて保障されることになる。

現在の少子化、児童虐待や、赤ちゃんポスト、引きこもり、ニートなど様々な問題は、家族・親子で次の世代を育てる前提が崩れていることを物語っている。


結婚の未来 1

2008年10月01日 | 結婚コン

「やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
(みだれ髪:与謝野晶子 明治34・1901年)

これは女の歌だから良いが、男がこんな歌を詠めば色きちがいか、セクハラと言われる。今なら「きも~」昭和30年代なら「お下劣」

男の返歌のような歌に、
「熱き血潮の冷えぬ間に~いざ燃ゆる頬を君が頬に~君が柔手をわが肩に」(ゴンドラの唄:吉井勇 大正4・1915年)

・・・があるが、晶子によって慣らされていた言葉だから、すんなり受け入れられたのだろう。

なぜ男ならダメかと言えば、男は元来こういう言動をとるものと知られているからだ。
女の晶子が、男と同じ立場で詠んだことが新鮮で、インパクトがあったので、その後の女性解放運動などより、よほど突き抜けている。

この歌が出た当時は当然、破廉恥論争が起こったが、それは公、立て前の世界だからだ。晶子には学問以前の日本の女が生きていた。

農耕母系が底辺に流れる日本文化では、本来、女の主権は強く、開放的であり、男は看板に過ぎなかった。女が弱者であるという一方的見方は、欧米の認識が前提になった輸入学問だ。

漢学も男尊女卑であり、歴史の表は男系で一貫しているが、
ごく、近年まで「夜ばい」が存在した日本の男と女の関係は、本質的には女上位で、女が奴隷労働していたと言うより、女が家を支え、男を養っている「ライオン社会」と考える必要があるし、そう考える方がわかりやすい。

「足入れ」婚を女性蔑視の象徴とするが、それを実際に行ったのは、実権を握る女の「姑」であり、小家族制の価値観だけで考えれば人間の本質を見誤り、とんちんかんな「男」悪人説に陥ってしまう。
そして、人間、男女はどうあるべきかを考えることも出来なくなる。

女と女性①、 女と女性②、 男と女1、 男と女2