魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

長子と弟妹 5-④

2008年09月28日 | 兄弟関係

責任感
水の事故で、子供を助けようとした父親が溺れて死ぬことがよくある。
おそらく、愛情よりとっさの責任感だろう。両親がいても父親が死んでいる。
幼い兄弟が溺れて死ぬこともよくある。ほとんどのケースが、下の子を助けようとして上の子が死んでいる。もちろん両方とも死ぬこともある。

泳げる大人でも溺れるのに、まして、子供に子供は助けられない。
長子は、日頃から親にも言われるので、自分が親代わりに、弟妹を保護しなければならない責任感がしみこんでいる。
上の子を助けようと、弟妹が飛び込んだ事故は記憶にない。

親は、長子に、弟妹との能力差を考えて危険なところに連れて行かないことをよく言い聞かせておくとともに、親も長子に任せきりにしない。
親は長子をアテにすることが多く、その結果、起こった留守番事故なども多い。

また、弟妹の起こした事件で、安易に長子を叱らないことだ。
長子は一度でも叱られると、責任感が焼き付く。
叱るなら、とっさの時は、自分を守る責任が優先することも、教える必要がある。
みんな大切な子供だから、まず、あなたの身を守ることが大切だと。
そうでなければ、親は両方を失うことになるかも知れない。

長子は不器用
長子は何事も初めて、独り手探りで成長をするから、無鉄砲ではない。行動の前には色々に予測をし、対処法を用意する。
しかし、考えてもツブされる弟妹は用意をしない。対応だけで生きるから、計画も対処法もない。臨機応変の出たとこ勝負で、窮地に陥れば、たいてい誰かが助けてくれるので、頼り方を知っている。

長子は完璧主義だから、弟妹が思いがけない事を起こすと、自分だけで解決しようとする。臨機応変の弟妹は逃れかたを知っているが、長子は予測外の事態に最後まで関わり、討ち死にする。

失敗した時、打たれ弱く完璧主義の長子は失敗を認めたくないが、弟妹はまず身の安全を考える。
長子が自分のミスを認めないのは、利害より責任とプライドにこだわるからで、その分、最後まで「自分で何とかしよう」とする。

中国が、ミスを認めず、どんなに困っても他国に頼ろうとしないのは、立場メンツにこだわる、まさに長子型の国と言えるだろう。
互恵関係とは言っても、助けてくれとは言わない。まして、お前のせいだから助けるのが当然だ、助け方が足りないなどとは言わない。
一人っ子型の日本の場合、同じように自分にこだわるが、頑固ではない。他人に合わせて自分を変化させることで自分を守ろうとする。

現実的な弟妹は「プライドより身の安全」だ。謝っても、ゴマをすっても、第三者に泣きついても、何とか事態を逃れようとする。
実際、多くの場合、それで逃れる技を身につけているので、失敗では学習しない。何度でも繰り返す。

首相も、長子の橋本、福田の腹切り辞任と、弟妹の安倍の投げ出し辞任が同じではないことは話したが、麻生、小沢という長子対決、どうするか見ものだ。麻生も結局、承知で火中の栗を拾った。(福田と小沢は長子ではないようだ。姉?)

言い方と内容
「それが末っ子(中間児)の悪いクセだ」と言えば、弟妹型はたいてい怒り出すか、必死に反論する。(占いや血液型でも同じ)
しかし、長子に「それが長男の悪いクセだ」と言うと、考え込んだり笑い出したりする。時には「何が?」と意味を確認しようとする。

この違いは、弟妹型が言い方にこだわり、長子型が内容にこだわるからだ。

行動に原理を求め、それに従って計画し、動こうとする長子型は
「長男のクセ」とは、どんなことを言っているのか、それは正論か、を考え、自分でも納得すれば、笑い出したり、どこが違うかを正そうとする。また、その意味を自分の考え方に照らし合わせて理解した上で、逆に相手をからかったり、皮肉を言ったりする。
だから、言い方や勢いで攻撃した弟妹型にとっては、期待しない答えが出てくる。それが失言であったり、KYであったりする。
福田、麻生、橋本、小沢、石破

力関係で生きている弟妹型は、「末っ子のクセ」のような、「響きの悪い言葉」を認めれば、自分が貶められる、立場が悪くなると「感じ」て、即座に反発をする。
その反発の仕方も、意味を吟味するのではなく、反論の用意がなければ、相手に「長男のクセ」のような同じ言葉を投げかける。または、「そっくりあなたにお返しします」のように、内容より、力関係のバランスを取ろうとする。
さらに、負けないために、相手より上位に行こうとする。
「君子の交わり」のように、対等で互いに侵さない関係ではなく、親分子分や、指導者になろうとする。

そうした外見的な立場をつくるために、弟妹型は得た知識を教えたがり指導したがるが、(カンニングも弟妹型に多い)、
自意識の強い長子型は受け売りができないし、自分の発見した知識は独善かも知れないと知っているから積極的には教えたがらない。
しかし、それを信じて生きているから、本音としてポロリと出る。
状況を考慮しない長子の、自分の世界の言葉が、失言となる。

だから、弟妹型が、他人の失言を徹底的に責めるのに対し、長子型は「我関せず」の態度を取る。
面白いのは、弟妹型は、初めは何も気にしていない時でも、他人が失言だと騒げば、自分も一緒になって責め始める。
つまり、長子型が自分の価値観で判断するのに対し、弟妹型は状況や他人の価値観で判断する。            
周囲が黒いと言えば黒い。弟妹型はこの点で民主主義の政治家タイプと言える。
政治が行き詰まると、専制君主論や強いリーダー論が出てくるのは長子型が必要になると言うことだろうが、苦難の時を過ぎると、リーダーは必ず引きずりおろされる。

末っ子の建国
世界の神話の多くもそうだが、日本神話に至ってはすべて、末っ子が建国している。
国産み神話では最初の子は失敗作。スサノオは根の国をつくり、大国主は出雲を建国、神武天皇は大和を建国、ヤマトタケルは兄よりも英雄・・・すべて、弟か末っ子だ  <兄弟関係2


小泉丼

2008年09月25日 | 星の流れに

自民党の小泉郵政選挙の再来は、年金勝負しかないと言ったら、
当の山羊座の小泉元首相は、引退することにしたそうだ。
さすが、天才の嗅覚。
当然、年金勝負など出来ない自民党では、勝てないと判断した。
中間児の要領の良さでもある。

木星が来ている人は、一見、悪そうな好転をするのだが、まさに、そういうことだ。
冥王星も来ているから、ドンになるつもりなのだろう。

跡継ぎはやっぱり、長子ではなく次男

ところで、このところ「小」が目立つのは何だろう
小沢、小池、小泉、小渕


自民党の起死回生

2008年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

このまま行けば、自民党はどう転んでも負ける。
どうせ負けるなら、是非、一発勝負をして欲しい。

年金廃止→全額税方式に転換。
老後を路頭に迷わせません

小泉郵政選挙のような、「大勝負」になるだろう
憲法改正にも匹敵する日本改革になる。

マルチ詐欺のような年金システムをいじくり回している限り、
日本の政治は停滞し、老後不安で消費が減少していく。

この「大勝負」は、勝ちを期待している民主党には出来ない。


屋敷の中 8

2008年09月22日 | 結婚コン

だけど心はすぐ変わる
ボスのことを尊敬もしていなければ、好きでもない。日頃から、ただのおっさんだと思っていたとしよう。

そのおっさん。様子からして下心まる見えだ。出張とか言っているけど、何とかしようと思っているな、ぐらいのことは解っている。
しかし、仕事でもあり、断るのも意識しているようでシャクに障る。
フツーの顔で出張したら、案の定、何のかんのと言いながら迫ってきた。

頼みもしないのに、おみやげにとか言って色々買ってくれる。食事もお酒も、勝手に興奮している。一応、断ったが、
「遠慮しなくていいよ」とか言いながら、どんどん押しつける。
断れば、怒ったりショゲたりすることは、日頃の経験で知っているから、とりあえず我慢して受けた。

食事の後、部屋にいると「書類を持ってきてくれ」と言うから「明日じゃいけませんか」と言うと、「取りに行く」と言うから持って行った。
「説明してくれ」と言うから、やむなく中にはいると、案の定
後ろから抱きついてきた。
「何をするんですか、止めてください」

(ここで巻き戻し)
部屋に入るのは断れたが、角が立つ・・・と本人は思っているが、無自覚な本音は多少違う。
『おっさんがどうするか、ちょっと様子を見てやろう。調子に乗ってきたら、いつものようにガツンと言ってやればいい』

案の定、抱きついてきたから、ガツンと言ってやった。
ところが、いつもの低姿勢と違って、見たこともない形相をしている。
鼻息も荒く、ものも言わずにキスを迫る、服を引きちぎる・・・

で、通り相場の展開になった。

しかし、
これは、おっさんが、ただのおっさんの場合だ。

例えば、この際、若い女の予想に反して、この書類に関する猛烈な仕事を始めたとする。
ミスを発見し、
「明日に間に合わない!」と徹夜作業にかかった。
矢継ぎ早に猛烈な指示を出され、焦りと緊張で興奮状態になって朝まで作業を続け、ヘトヘトになりながらも、ようやく完成。
「やったー!」
モーローとしながら、二人で完成を喜び、シャンペンを入れて
「がんばったね、やっぱり君がいてくれて助かったよ」と、頭をなでながら軽く抱きしめ、髪に軽くキス
「ありがとう、少しでも寝てね」と、帰すそぶりで離れ際に、もう一度引き寄せて・・・

へたな小説を書く気はないので、これぐらいにするが、
展開が変われば、男女の仲というものはどう転ぶか解らないという話だ。

恋愛なら、互いの価値観や感覚をマッチングさせるには、確かめ合いながら徐々に調整するのが正統だが、あの手この手で、感性を麻痺させる手もあるというわけで、
もちろん、この例でも、もう一度引き寄せるか、そのまま帰すかの判断が、ベテランの極意というものだろうが。

実際の展開は、さらにもっとデリケートで、言葉の言い回し一つ、タッチ一つで、どのようにでも転んでしまう。そこが人間の複雑さだ。
始まる前の「つもり」と、展開による結果はほとんど関係ない。
「イヤよイヤよも好きのうち」と言うのも、このあたりの事だ。

犯されそう動
行きずりの、凶悪な強姦は別として、
顔見知りに「犯されそう」とは、犯されなかったから言えることで、犯されたら、犯されたのではなかったことにも成るかも知れないのだ。
それ故に、人権も男尊女卑も関係なく、男は掛かった以上、決して止めるわけにはいかない「決死隊」だ。
ところが、掛かっても出来なくなるのは男の方だ。
そうなった時の男の立場は、もう・・・「死ぬしかない」
女もはっきりその気だったら、まだ許される。
しかし、女が「そんな気はない」と思っている場合は、悲惨だ。
女は、そこにいたる自分の関わった責任プロセスを完全消滅したいから、一方的被害者として、罵り、わめき、吹聴する。
(未遂でも、現場にいた女が責められた昔なら、言わなかったが)

くだんの教授夫人の「犯されそう動」が実話とすれば、「じゃま」が入って未遂に終わった事件だから「犯されそう」だったのであって、相手の男だけでは飽きたらず、夫までも非難して、自分を完全な被害者だと、手記まで書いて、世間に訴えようとしている、のかも知れないのだ。
「犯されそう」だったのか「イヤよイヤよ」だったのか・・・
今となっては、教授夫人にも解らない、屋敷の中のことである。


屋敷の中 7

2008年09月21日 | 結婚コン

セクハラ社会
男女が密室に二人でいるからと言って、性行為が許るされるものではない。互いが関心のない場合は言うに及ばず、たとえ一方がその気でも、モラルという常識が双方を規制する。
一対一だろうが多人数だろうが、公の関係は同じなのだ。

男尊女卑の時代は、女は男に顔さえ見せてはいけなかった。
やや解放された時代になっても、夫以外の男と二人きりになるなど、もってのほかだった。
そういう時代や、そういう古い価値観が残る時代では、女が二人きりの場に来ること自体が「OK」の合図だった。

だから、平時に女が「犯される」ようなことがあると、女の方がモラルを破ったことになり恥とされ、非難された。
また、逆に、二人きりの状況にもかかわらず、手を出さない男は「据え膳食わぬは男の恥」とされ、その気でいる女に手を出さないのは、女に対して失礼だとさえ考えられた。
秩序モラルが安定していた時代は、とりあえず、解りやすかった。

女の権利が認められるようになっても、古い価値観はそう簡単には切り替わらず、「強姦か和姦か」の騒ぎが頻発した。
新憲法60年を経ても、警察のような古い体質モラルを始めとして「女にその気があったんだろう」という偏見があり、そういう価値観で痴漢検挙などをすれば、今度は逆に過剰な性悪説に走る。

これは、人権と男女の対等なあり方が理解されていないからだ。
〇〇ランドや〇〇サロと会社を行き来しているサラリーマンの感覚も大差ない。大なり小なり、金で女を買えると思うこと自体は同じだ。

もっと言えば、物をプレゼントし合うことが愛の証しになると考えることが、人権から遠いのだが、その大間違いが見過ごされている。
男女お互いが理解し合うのに、歌や言葉や手作りではなく、指輪やバッグでなければならないとすれば、羊何頭で嫁に貰った(嫁を買った)聖書の時代と何も変わらない。

人権論と人買いが、いまだに同居している現在。男女の駆け引きは錯乱だらけだ。

思いがけない展開
そんな社会の男と女が、公的立場で二人きりになれば、錯乱はピークに達する。
社長と秘書、教授と助手など、相思相愛の場合もないことはない。
力のあるオスに惹かれ、繁殖力のあるメスに惹かれるのは動物として自然だからだ。

しかし、人間の力は多様で、若い女がボスの実力を評価するとは限らない。公的立場は力関係に縛られているとしても、価値観は遙か遠くにいる。
にもかかわらず、ボスが公的力関係を人格支配と錯覚すれば、「手を出す」ことが許されると錯覚する。
もし、拒まれた時に立場・権力をちらつかせれば単純にセクハラだが、普通は搦め手で行く。

行動時間が共通である以上、飲食をともにする場合も多く、この段階ですでに、食事に誘う手間が省ける。
「食事がOKなら、全部OK」という大勘違いがある。
食事をともにするのは、互いの文化的確認や摺り合わせの側面はあっても、猫ならまだ「ワーオ」の段階だ。

それが解っていたとしても、いつも食事をして歓談していれば「いいムードになってるぞ」と、勝手にアクセルを踏み込み始める男がいる。(女もいる)

泊まりがけの出張を断らなかったりすれば、もう完全「OK」だと思いこむ。
部屋は二つ取っても、あの手この手で二人になり、いいムードのつもりで抱きついたりしたとたん、
「何をするんですか、止めてください」と言われ、
『またまた、そんなことを言ってじらして・・・』とばかりに続行しようとすると、
「ウギャギャギャギャ・※◎×△お代官様×※△◎」の大抵抗。
『もうこうなったらやってしまうしかない・・・』
あまりの血相に、女の方は怖くもあり、人を呼ぶのは気の毒とも思い、諦める。
すると男は『やっぱりそうじゃん』と悦にいる。

ここでまた一つ勘違いが起きる。気があるからスムーズにできたんだと男は思うが、恐怖と興奮でも可能になることもある。許していなくても。

そして、ある日「警察の者ですが」という人がやってくる。

これが通り相場の展開だ・・・しかし


屋敷の中 6

2008年09月20日 | 結婚コン

社会的規範と文化的規範(常識と個人の価値観)
互いの常識と価値観が一致すれば、初めて「和姦」が成立する。

猫の交尾の「ギャギャッ」という探り合いは、人間なら互いの社会常識の確認とマッチングで、最終段階の「ウギャギャギャギャ」は「手を出す」段階の価値観とフィーリングの調整だ。

この最終段階での失敗が増えたのは、男女が対等になり、個人の価値観が優先し、薄くなった常識が簡単に破られるようになったからだ。
「成田離婚」なども、最終段階の「ウギャギャギャギャ」で失敗した例といえる。(その前に充分コトは出来ていたとしても)

婚姻制度の崩壊
日本の民主化に伴い、「足入れ婚」というものが女性蔑視の象徴としてヤリ玉に挙がった時代があった。簡単に言うなら、労働力としての嫁の試用期間で、嫁ぎ先の家にそぐわなければ、「帰らせる」ことになる。
今から考えればとんでもないことのように思われるが、「成田離婚」の多くは女の方から「帰らせる」、逆の足入れ婚と言える。

「成田離婚」のようなものは、すでにその前からあった。
性の不一致が離婚理由として話題になる少し前から、恋愛結婚が主流になるに伴い、恋愛と見合いを両天秤にかけて結婚するケースが増えていた。

ラチのあかない恋愛から、打算的に見合い結婚をしたものの、やっぱり結婚相手では納得できない。
そういう事情から、女の方から何のかんのと理由をつけて離婚してしまう。
女の自立、経済的可能性が広がるにしたがい一般化していき、「成田離婚」にいたると、まったく女の側の「足入れ婚」に逆転した。

しかし、これはまだ、旧来の結婚が必要と信じられていた時のことで、今日の「里帰り離婚」のような時代になると、子育てのために安定した結婚が必須とはならなくなった。
そして、子育てや結婚のあり方は、現代のファッションのように百花繚乱。何でもありで、これでなければならないと言うことはない、掟破りの過渡期の時代になった。

結婚式をしても、実生活のアプローチで失敗する「成田離婚」時代から、しばらく結婚生活をしても簡単に離婚する時代になった。
もはや、結婚の概念は失われているにもかかわらず、法律はようやく、夫婦別姓や300日規定がどうのといっている。

医療や経済が、根底から激変している時代。未来を見越した、柔軟性のある子育てと結婚(保障)のあり方が議論されても良い頃だ。

アプローチ
猫の「ウギャギャギャギャ」は、人間の結婚、性を伴う実生活の合意の最終アプローチと考えることができる。
当然、結婚以前の男女の一対一のアプローチの方がもっと基本だ。

それを考える前に、男の本音は「誰とでもやりたい」ということを大前提としなければ、話しは始まらない。
男は口では色々ケチをつけるし、実際そう思いこんでいる人も多いが、究極の本音は、やれるなら「誰でもいい」。

「男の人って誰でも良いの!?」という女の驚きは、男を自分と同じとして考えるからだ。人権は対等でも、生理は違うと言うことを知る必要がある。(そう、男は誰でも良いのだ)
DNA選択において、女は失敗は許されないが、男は数打ちゃ当たる、後は野となれ山となれ・・・という、両性の衝動の違いがある。

もちろん、人間社会では、この本音はタブーになっている。
時代や地域によって違っても、秩序のための理想のモラルがある。
昔気質の九州の代議士が「女は家で子育てが一番幸せだ」と言ったことも、「育児協力のための男の子育て休暇」もそれぞれ正論だ。
しかし、これらは時代による衣装であり、裸の男女を隠している。

男女のアプローチはこのような、常識と文化の服を脱がせるのか着たままなのかによって、思わぬ展開をしてしまう。


屋敷の中 5

2008年09月19日 | 結婚コン

人間の交尾は、「愛」という、文化(価値観)の一体化で可能になる。
互いの文化が共存可能なら、子供を育てる環境が整うからだ。

しかしその前に、交尾による一体化も必要で、それが性の一致と言われるものなのだが、はたして性の一致とは何だろう。
性による満足や納得とは、アドレナリンやドーパミンの話ではない。

「愛」という文化の一致が無ければ、満足感は得られない。
どんなに興奮炸裂しても、満足しないこともあれば、何の成果も得られなくても納得することもある。
性的な興奮の後は誰でもしばらく体調が良くなり、気分は良くなる。
気分が良くなれば、不満にも耐えることができるから、互いの矛盾が解消したように錯覚する。だから、マメにしていれば、とりあえず夫婦円満の元と思われている。これはある種の麻薬効果だ。

しかし、マメだから価値観が変わるものでもない。確かに、麻薬効果で思考停止し、自分の価値観が失われていく場合もある。
その場合、逆に興奮度が低ければ麻薬効果が薄くなり、相互の文化のギャップが際立ち、つまり、アラが目に付き、溝は深まっていく。

この文化の不一致は、行為の最中に起こることもある。
人間の交尾は、性愛という知的同化を必要とするため、他の動物のように、交尾をゴールとして駆け引きが終了し、事後の子育ては必然的に行う、というわけではない。

人間の性愛の駆け引きとは、文化的な思い込みの確認だ。
様々なアプローチ、行為の過程で、「ちょっとちょっと、ちがうんじゃない」と思うのは、自分の持つ先入観が裏切られたと感じる時であり、逆に、全く同じ事を「こんなの初めて」と言う場合もある。

そういうギャップは、知力と知覚のすべてが織りなすマッチングの中にあるものだから、ケースで語るには無理があるし、語りはじめればまさに千夜一夜となるだろう。

オスの立場メスの立場
動物のメスが自ら交尾を求めないように、人間の場合も女の基本は「待ちと選択」にある。動物のオスは常に積極的だから、メスは地味に待っていれば良い。
ところが人間社会では、文化的規範があるので、男といえども見境無く働きかけるわけにはいかない。動物なら直接対決の勝ち負けで決まるが、人間の勝負は文化の中で多様な決着がある。
その複雑な文化的規範を乗り越えて、男が自分に言い寄ってくれなければ、女としては選ぶこともできない。
そこで、人間の女は動物のように地味に待っているわけにはいかず、男を刺激して働きかけさせようとする。それがオシャレの本質だ。

そうして誘惑しておきながらも、基本は「待ちと選択」だから、そう簡単には飛びつかない。よくよくにらんで良いDNAを得ようとする。
結局、動物と同じなのだが。これは、生理的にメスは子孫を残すチャンスが限られるからだろう。

また、一方で、人間の場合、女が男を追っかけ回すことがある。
(一応、ストーカーのような人格に起因するものは別として)
これは、「光源氏オットセイ現象」と言えばわかりやすいだろうか。

スターに憧れるのは、選良のDNAを残す方法として、経済的な心配さえなければ、「お種ちょうだい」のような衝動が働いている。
メスの卵子とオスの精子では、圧倒的にチャンスが違う。
「憧れ」は、本質的には経済保障の結婚願望はないのだが、夢のゴールとして一般的な「結婚」をイメージする場合はある。
では、憧れる選良のDNAとは何かという点では、何とも不思議な基準が多く、一概には言えない。

男にも追っかけがいるではないかと言われるかもしれない。それはそうだ。男は始めから追っかけが基本だから当然ではあるが、スターの追っかけはむしろ、オスの衝動より、ハチのような社会的な衝動が働いている。スターという追っかけられる存在を追っかけなければならない・・・という文化的思い込みからだろう。


屋敷の中 4

2008年09月18日 | 結婚コン

人間の交尾は愛の確認か
愛に対する考え方は、長い人類史の中で、最も複雑なものになっているが、単純と言えば単純だ。
早い話、愛とは自己愛であって、どこまでを自己と見なすかということだ。

アフリカの水飲み場で、ワニに襲われそうになった鹿をライオンが助ける映像があった(動物が何か記憶?)。
おそらく、この時、ライオンは陸の鹿を「自分側」と感じたのではなかろうか。

宗教が説く無償の愛は、他を自分と同一視しろということならわかりやすい。何しろ自分に報酬は要らない。
しかし、困ったことに、常に自分の中には他人がいる。
(自分というものは統合と崩壊のバランスで成っている。病気はそれが崩れる時)

郷土愛や愛国心も、環境をどこまで自分と同一視できるかということだが、地球環境や世界人類を自分と同一視すれば、愛国心とは相反することになる。

恋愛は、相手を自分と同一視するから、相手を求め、他人に取られることを拒否し、自分と一体化したいと思う。
この思いが恋であり、相手と認め合えば恋愛となり、相手と認め会えなければ、片思いやストーカーとなる。

お互いの恋心(思い込み)を融合させ、互いに同一の自分であると想えれば恋愛(一体化)成立で、交尾が可能になる。

しかし、相手を自分とする時、統合と崩壊が働く。プラス思考の統合は快楽を快楽と思い、マイナス思考の崩壊は、苦を快楽と思う。
多くは、そのバランスの中を互いに行き来するから、恋愛とは「ややこしく苦しい」ものになるし、パズルにハマるように没頭する。

性的快楽は、苦痛が快楽に変わる脳科学的な所産と言ってしまえばそれまでだが、恋愛過程においてもそういう変化があるのだから、性も愛も、ことはもっと複雑ではなかろうか。

恋愛とは誤解のこと
相手と一体になる。と言っても、単に肉体のことではない。
恋愛状態とは、互いの誤解が、うまくかみ合っていることだ。

相手と自分が統合し同じ理解をしていると思うなら、すでにその時点で、崩壊が始まっている。

愛を触媒とした子孫の生産を成功、発展させるには
お互いが、同じではないことを知ることで、はじめて、「異質の混在という安定」が生まれ、統合が生まれる。
相手との違いを受け入れ、楽しめる統合は生産的だが、相手が自分と同じはずだと誤解したままの統合は崩壊する。
(恋愛結婚がうまく行かない一つの理由)

個人と同じ事は、集団にも言える。民族や国家がいがみ合うのは、同質なら和合し、異質は相容れないという、思い込みがあるからだ。

だから、自分たちの方式に変えることが、相手にとって良いことだという勝者の思い込みが、アレキサンダーの昔から行われてきたが、支配力を失えば崩壊する。
ただし、思い込みで進めた日本の皇国化や、アメリカの民主化戦争と違い、アレキサンダー自身が現地に入り、郷に従いながら進めた同化は、少なからず融合の結果を残した。

1+1=3
個人でも集団でも、和合は異質の認め合いで可能になる。
「あなたと私は何でも一緒」・・・は不幸になる。

「愛」が相手を自分と見なすことだとすれば、単純に、自分と同じだと思いたい。しかし、他人が同じワケはない。
相手と自分が同じに成るためには<1+1=3>の論理が必要だ。
自分も相手もそのままで、もうひとつ大きな自分達という枠で考える。

恋愛結婚より見合いの方がうまく行くのは、互いに違うはずだと解っているからだ。かみ合わなくても当然と思い、良いことだけを発見する。
逆に恋愛は、悪いことだけを発見する減点法だ。最後には0点になる。

見合いがうまく行かない場合とは、見合いなのに、結婚に恋愛と同じ夢を見て「100点のはずだ」と思ってはじめるからだ。
見合いに「100点」を期待するのは、全く努力してない分だけ恋愛より悪い。


屋敷の中 3

2008年09月17日 | 結婚コン

教授夫人の言う「犯されそう」とは、何のことだろう。
古来、強姦と和姦の境目ほどムズかしいものはない。

猫の交尾を、二階から見ていたことがある。
朝からワーオ、ワーオとうるさいので、のぞいて見ると、コの字に囲った塀の上で、互いに距離を置いて鳴きあっている。
鳴いては所を替えながら、そうとう長い時間を経て、オスが徐々に近づき、やがて接触しようとすると、メスが「ギャギャッ」と抵抗して寄せ付けない。こんなことを何回も繰り返し、最後には大抵抗の「ウギャギャギャギャ」もかまわず、オスが乗りかかると、何のことはない、静かな時間を過ごしているのである。
これは、強姦だろうか和姦だろうか

自由恋愛型の猫に比べ、犬はお見合い型だ。
1973年の動物愛護法以後、犬が町を自由に歩けなくなった。
このため、犬のコミュニティーが無くなり、猫のように勝手に繁殖することができなくなった。

だから、子供の頃の記憶しかないのだが、
犬はグループ内の総意によって結婚が許可されるらしい。互いにOKでも、序列や合意があるらしく、終始、取り巻きが見張っている。
あまりに昔の記憶なので、実はしくみが良くわからない。

いずれにしても動物は、メスが積極的な交尾をすることはないようだ。
しかし、霊長類になると、猿などはメスの方から誘ったりすることもあるようだから、さらに複雑な利害がある人類では、文明的交尾方法として、双方の合意を条件とする。

猫が呼び交わし、一定の時間と空間を共有して、ことに及ぶのは、興奮レベルの調整をしているのではないかと思う。つまり、テクニックの問題だが、それ以前に、どの動物も発情確認をする。
発情をしてないメスに仕掛けようとすることは、まさに単なる暴行で、メスは死にものぐるいで抵抗するから、オスにとって何の得にもならない。動物はそんな不合理なことはしない。まして、共謀して輪姦などしない。哺乳動物は一対一だから、抵抗されては自分も危ない。

発情動物
人間の場合、常時、発情期状態だから、動物のように発情期を確認する必要はない。肉体的な絶対条件を超越しているから、性を手段とすることができる。目的に応じて自由に使うことができる。
売春、政略結婚、美人局、貞操と浮気・・・頭の切り替え次第だ。
(この点では、どうも女の方が明らかに有利のようだ)

猫の「ワーオ」の代わりに、人間は知的に理解をする。
様々な状況を理解し、必要と認めれば何時でも行為できるのだ。
そこで、社会秩序の維持のために、婚姻制度を設け、愛という触媒を生み出した。
もちろん、愛情そのものは結婚と関係なく存在するが、婚姻秩序を成り立たせるため、愛を理由としたにすぎない。

世間では、愛情の完成形として結婚があるように思われているが、愛情と性は一致しても、結婚は単なる秩序の一形式で、何ら関係ない。

母系の妻問い婚などの結婚は結果であって、結婚式などは後で加わった形式だろうと思われるが、定かではない。
重要なことは、男女が認め合い接近し、同じ空間を過ごす。
そして、その間に、互いにその空間を所有しあうことが出来るか確認する。相手がじゃまな存在でないか確認する。
その結果、相手を必要とするのではなく、相手との「空間」を大切なものとして必要とするようになれば、それが結婚ということになる。
「場」を最重要とするのが農耕民のあり方なのだろう。

これに対し、二人で移動していく遊牧民の結婚は、相手「個人」との結び付きが重要になる。それが今日の「愛してる」の確認を常に必要とする、恋愛、結婚の常識になっている。

戦後、アメリカから持ち込まれた、小家族法が核家族文化をうみ、今では、ほぼ完全にこれが常識化した。
しかし、日本の文化の根底には、農耕文化が根強く流れている。
それが、遊牧民的愛情表現で恋愛、結婚をしても、結局、農耕民的家族観で子育てをする「里帰り離婚」につながっていく。


地鳴りが聞こえる

2008年09月16日 | 星の流れに

仕切り直し」で心配したように、木星と冥王星が順行をはじめたとたん、一気に世の中が動き始めた。息のあった立ちあいだ。

金正日、三笠フーズ、リーマン・・・次々と大ニュースが飛び込む。
自民党の総裁選など霞んでしまった。

天王星が山羊座の時、日本でバブル崩壊が起こった。今回は、もっと大きな意味を持つ冥王星が山羊座にいる。しかし今年は木星が来ている。
1月の「乱高下」で、大恐慌は微妙にもう少し先ではないかと言ったように、今回のリーマンショックが大恐慌に直結するとは思えない。
しかし、それでも大津波は迫っている。

大転換


屋敷の中 2

2008年09月16日 | 結婚コン

さて、
家と言っても、昔の日本民家は密室性は無く、四方が開放的な造りで、常に近隣から監視されている。近所の人も勝手に上がり込んだりする。村や地域を一つの家とすれば、ただの部屋のようなものだった。
また、町屋のように、入り口に接客スペースが設けてある家では、女一人の時に奥に入れる必要はない。むろん武家の屋敷などは中にはいることすらできない。小間物屋などをのぞけばだが。

ところが、戦後の核家族化で、家の規模が小さくなり、家は夫婦とその子供のために造られ、密室性も高まった。
「親子三代」ではない核家族のマイホームとは、マイルームであり、卵を育てるだけの巣。ベッドルームになってしまった。
そういう空間に他人を入れることは、ベッドルームに入れることのような一般常識すら生まれてきた。
だから逆に、そんな空間に他人が入ってきただけで、住人自身も
「ちょっとだけよ~」みたいな、感覚になってしまうこともある。

セールスマンを上げてお茶を出す若い主婦は
昔の開放的な民家のもてなしと、核家族の家との区別が付かず、
お茶も出さないでは失礼と思い、上げるのだろうか。
まあ、近頃は事件が多いので減ったとは思うが、
それでも、二、三度来て顔なじみになると、「お茶も出さないで」は悪いような気になるのかも知れない。

責任の自覚
昔は、女は家に縛られ、男は社会に縛られていたが、その束縛がなくなると、建て前やルールではなく、それぞれが自分を律していかなければならなくなる。
浮気をしたら姦通罪で、二つに重ねてバッサリ・・・はなくなった。

人権社会では、互いの自覚。信頼や尊重だけが浮気を防ぐ方法だ。
つまり、昭和30年代、くだんの大学教授夫妻は、まさに、この問題が起こりつつある時代のトップランナーだったと言うわけだ。

対等な関係
何事もそうだが、ほとんどの人が旧概念から離れられないものだ。
「犯されそう動」の教授夫人も、自分の意識の旧態を棚に上げて、進歩派の夫に不満を言っている。
自分が招いた「かもしれない」失態を、夫に責任をとってくれ、守ってくれと言っている。

この事件を見ると、当時としてはこの夫は、妻をそうとう自由にさせている。保守的な男なら、男に飛びかかるかも知れないが、妻も許さない。第一、男が上がり込むような環境を許さない。

こういう自由な環境におかれた妻は、夫の信頼に応える自律心を期待されている。つまり、夫は対等な関係を理想としている。

自由であることは自分に責任を持つことだ。法治社会では、男に守って貰わなくとも、女も知恵と自覚で自分を守ることができる。
「強い男が女を守る」という美意識は、原始的な男社会のものだ。
自分は自由にしながらも、束縛を前提とする旧式の保護を求める矛盾に気がついていない。

結局、束縛されたいのか、それとも女王様になりたいのか。

こんな矛盾した話は、「女性の」権利を叫ぶ人達からよく聞かれる。
「か弱い女性に対する横暴」のような、被害妄想的な男権批判は、自分に内在する差別意識のあらわれだ。自分がか弱い女になりたがっているのだ。
何とか女史のような古いタイプの女性運動家は、その人こそがジェンダーの女であり、「男は強く女は弱い」という固定概念が根底にある。

現代の若い人にはこういう被害者意識はなくなったが、逆に、くだんの教授夫人のような、ご都合主義の「女と女性」を、上手に使い分けるようになった。
男に力や金を出させて、権利の主張では女王様になる。


屋敷の中 1

2008年09月15日 | 結婚コン

子供の頃、家にあった「婦人公論」を読んでいると、
「夫を許せない体験」のようなシリーズがあって、

家で、出入りの大工に犯されそうになっている最中に、大学教授の夫が帰ってきて、「きみきみ、やめたまえ」と物静かに言った。
ことは収まったが、その時の夫の態度が許せない。なぜ、相手の男に飛びかからないのか、自分に対する情熱がないからだ。
・・・
だいたい、そんな風なことが書いてあった。
これを読んで、小学生ながらに考えた。
今の言葉で言えば、
「何で?これって、逆ギレだろ!」

夫の目線で考えれば、
家に帰ってみると、妻が男ともみ合っている。
少なくとも屋外ではない。どういう理由にせよ玄関も開いており、家に押し入ったようでもない。顔見知りの人間だ。
となれば、何らかの、合意のもつれかも知れない。
男女が対等の権利を有するなら、妻は夫の所有物ではない。一個の人間たる妻が、何らかの意識を持って、こういう事態を招いているなら、必ずしも相手だけが悪いとは言い切れない。
しかしながら、自分はこの家の住人であり、家の秩序を乱すようなことには抗議できる。
そこで、事態が解らない以上、とりあえず「やめろ」と言った。
・・・
そういうことじゃないの? 何を怒っているのか解らない。
と、小学生は思った。

この設定は、様々な要因が絡んでいるので、読んで以来、ほとんど永遠のテーマになった。
ところで、ことわるまでもなく、婦人雑誌のこういう告白シリーズは、当時としては、現代の女性ポルノマンガに近い扇情記事だった。
だから、多少なりともネタがあるのか、全くの創作かはわからない。
とりあえずは、実在する主婦が事実にそって書いたと仮定する。

この話の奥の深さは
「藪の中」的な心理の面白さ。
人権、結婚、愛情、性欲、感性、知力・・・そういった諸々が複雑に絡み合っていることだ。

その後の理解
どこまでが事実か
こういう一方的な話は、常に逆を想定して、比較しながら聞く必要がある。誰の話にせよ、人の話とは常にそういうものだ。

「犯されそうになった」とはどういうことか。
まず状況的に、男を断固拒否するつもりなら、初めから、何事も込み入った話は「主人に聞かなければよく分かりません」と距離を置いておく。お茶を出して話し相手をしても、話に乗って自分の意見を言わない。「そうですか、大変ですね、よく分かりません」など相づちだけで充分だ。「へえー、どんなの、ですか」などと興味を示さない。
もちろん、できることなら、お茶は人目につくところで出す。
「ここに置いておきます」で、特に相手にする必要もない。
この逆をやれば、男は『お、もしかしたら脈がある』と思う。

セールスマンを上げて、お茶やお菓子を出す主婦が意外に多い。
どう言うつもりであれ、フツーの男なら臨戦態勢にはいる。
家庭訪問の先生でもいろいろと起こるのだから、なりふり信用を気にしない職業なら、銃を構えて飛び込んだコマンド隊員だ。瞬時に発射する。

昔から、家に上がり込む職業で、「間違い」が起こるのは、
家庭教師、職人、銀行員、個人レッスン、営業マン・・・が代表だろうか。職人は大工や植木屋で、銀行員は得意先回りの行員。営業マンは江戸時代なら、小間物屋と言ったところだが、戦後は、デモ指導するミシンのセールスマンなどがあった。さらに、信じられないような本当の話ではコンドームのセールスマン、実演付き。

少し、脱線すると、
昔、30代の頃、家に40ぐらいのオバハンが入ってくるなり、
「あの、恥ずかしいので閉めますね」と言いながら、後ろ手に戸を閉め、コンドームの営業だと言いながらモノを広げ始めた。
爆笑したいぐらい可笑しいのをこらえながら、帰ってもらった。
後で、どういう営業トークをやるのか聞いてみれば良かった、と思ったが、君子危うきに近寄らず、である。


悩みの元

2008年09月14日 | 結婚コン

いろいろな悩みを聞いていると、大なり小なり、直接間接に、「結婚」が元凶になっている。
それは、生命の根源に関わることだから当然なのかもしれない。

生命の直接の目的は「子孫を残す」ことだ。
しかし、子孫を残さなければ存在理由がないわけではない。むしろ、そういう人こそ人類には貴重だ。
多様な人間、一人一人の違いが、人類の知としなやかさを支えている。他の生物のように、子供を産むこと(DNAの展開)だけが、人類の使命ではないようだ。

子供を残さなくても、人間社会の知的活動に参加することが、人類の子孫のDNAにやがて影響する。
人間社会も、生命や地球、果ては宇宙の変遷に関わっている。それが人類の究極の使命なのではなかろうか。

多様な結婚
生物としての「子孫を残す」方法として、従来の人間社会では「結婚」という方法がとられてきた。
結婚は、地域や集団の秩序を作り、同時に、秩序を守るためにそれぞれの方法がとられる。

子供を確実に育てるために必要な、「安全と経済」を確保する方法としての結婚は、その社会に従い、その社会に守られる。

父系>移動を基本とする遊牧民には、男女の確実な結び付き、互いに所有し合うことが優先され、男が女を守る形式の核家族になった。
母系>定住を基本とする農耕民は、男女の結び付きより、土地の所有権が優先され、親子の関係の明らかな女を軸とする族集団になった。

実際には、双方の文化が入り交じり、アジアでは男を軸とする族集団が主流になったのは、遊牧民が支配した影響だろう。
日本では、立て前は父系だが、本音には古いアジアの母系が流れている。

結婚の形式は、これでなければならないと言うものは無い。
要は、いかに子孫を残すかであり、社会や時代が変われば当然、変わってくるものだ。
しかし、ほとんどすべての人が、現在の形式にとらわれている。

今、一夫一妻は当たり前だと思われているが、遊牧民の宗教に基づくもので、一夫多妻もその変形であり、男が女を守る、所有するという男尊女卑と切っても切れないものだ。女は家畜と同じとみなされた。

経済が違う農耕文化では、生産、豊穣に価値があるので、土地と女は同一視され、女が子供を産み育てる環境が重視される。
土地権のある女のもとに通ってくる男と、気が合いうまく行くなら同居を始め、ともに暮らしていくことが定着し、これを結婚とする。うまく行かなければ子供を残して男は去り、別な男がやってくる。男は種馬に過ぎない。

一夫一婦制は、男が絶対的権力を持ち、女を所有する場合は成り立つが、男女対等では成り立たない。その証明が、アメリカの離再婚だ。
アメリカは男社会である分だけ、法律で女を保護するから、離婚が容易になる。
日本の場合、本質的に母系文化でありながら、常に立て前は父系だった。それが、江戸時代の三行半社会であり、今日の、できちゃった結婚→「里帰り離婚*」となっている。
*法律的には一夫一婦に従い、親の元で育てる母系文化の再来

これから
人類が子孫を残すには必ずしも結婚を必要としない。
文化破壊を前提とする略奪レイプにしても、DNAの視点から見れば充分に一つの方法であり、遊牧騎馬民族が走り回った地域には、実に多様な顔が混在している。
同様に多様な顔が混在する日本列島は、中央アジアなどと比べれば、神話などを見ても、かなり平和的な融合が行われたのだろうと思われる。

いずれにしても、重要なことは結婚ではなく、子孫を残していくことであり、経済と科学が発展し、文化と社会が変遷していく将来は当然、別の方法が必要になってくる。
現在はまさにその過渡期と言えるだろう。

このサブジェクト「結婚コン」では、従来の結婚を考え、将来どうあるべきかを考えるために、男と女の悩みと面白さを再考したい。

※なお、結婚コンのコンは、困、懇、金、恨、混・・・等、諸々の意


大転換 4

2008年09月13日 | 世相史観

役立たずは、日本の政治家だけでもなさそうだ。
世界の<大転換がついに現実になってきた。
山羊座の威力に感心している間もなく
津波の前の引き潮のような状態になっている。

もう、次に起こることは、誰の目にも明らかになってきた。
自然環境、エネルギー、食糧・・・といった、
人類存亡の根源的な問題が
今そこにある危機」として、立ちはだかっているのだ。

まず、そのカギの一つである、世界経済の基軸通貨の転換が起こりつつある。
ドルが暴落するようなことがあると、胴元の破産で、世界中のばくち打ちが、木の葉のお札を握って立ちつくしてしまう。
抜け目ない中国は、早めに賭場から引き上げ始めているらしい。

お金のない社会が来る前には、世界が一度、破産するのだろうか。
資源の大量消費に悲鳴を上げた、ガイアの反撃かも知れない。

北朝鮮の先軍政治が、国民を飢えさせたことを笑えない。
進歩だ発展だ、経済だグローバルだと、自然の摂理を忘れた狂奔をしているうちに、人類の破綻がせまっている。
あんなことや、こんなことが出来るんだぞと得意になって、二度の大戦を招いた。
同じように今、経済戦争による、三回目の廃墟が生まれようとしている。

政治家は、ことに日本の政治家は、廃墟を見るまで事態が解らないらしい。口だけは解ったようなことを言っているが、やっていることを見ると何も解っていない。

今やるべきことは、予算がどうのとか、重箱の詰め方や、つじつま合わせではない。
現状打破と、せまり来る艱難に備えて、百年の計を語るべきだ。
大きな目標を掲げ、今日の一歩一歩を示すべきだ。

何かと言えば、「財源は、財源は」と言うが、それは戦後の安定した世界経済を前提にした空言だ。ドル破綻が起こったらどうするのか。
食糧危機、エネルギー危機の片鱗が見えて、不安が広がっている。
社会保障はすでに破綻している。

こんな時こそ、戦後の始まりのような、無からの出発を覚悟しなければならないし、そこからの脱出の道筋を、大きな夢で語る時ではないのか。

財源論議を超越するような、大きな夢を誰も語らない。
一つには、論議のもとが官僚のデータだからだ。彼らにはつじつま合わせしかできない。
問題の答えだけ出す学力テストの達人たちに、「夢のような話」はできないのだ。
データが全く当てにならない近未来に、必要なものはヒラメキだ。
明治の素人政治家達が、どんな「むちゃくちゃ」を重ねたかを検証してみれば、今、何が必要なのかが見えてくるだろう。

その気になれば出来るはずのこと。
・新エネルギー立国
・食糧自給率「目標」100%
・インチキ年金はご破算にして新福祉政策


牡羊座の兆候 3

2008年09月12日 | 星の流れに

911から7年。
7年前は、天王星が水瓶座時代から、魚座に移り始めた時だ。
つまり、同じように今は、魚座から牡羊座に移り始める時といえる。
魚座の7年間。どうも、ろくなことがなかった。
魚座は84年の総決算。未払い帳簿が何冊も出てきた。
(ドル経済、石油依存、南北格差、大国主義・・・の歪み)

そろそろ、次の84年の店開き、牡羊座の兆しが見え始める頃だ。
牡羊座の兆候は、牡羊座の名前や現象が世の中に多く現れる。

考えられる、牡羊座の名前は
漢字→赤、頭、先、始、芽、火、荒、武、刃、新、若・・・etc.
言葉→双葉、若者、冒険、探検、荒野、原始、指導者・・・etc.
これらの意味を持つカタカナ語
こんな名前がニュースに増えてきたら、牡羊座の到来だ。

また、正義のリーダーのような人や、その道の指導者が続出する。
新しいことに挑戦するのが、一つのブームになる。
若者の健全な生き方が話題になる。
行動オタクのようなものが現れる。
芸術的な話題が増えるが空騒ぎ。
こんな話題が増えてきたら、牡羊座の到来だ。

ただし、
2001年の同時多発テロから、実際に天王星が魚座にはいるまで、つまり、イラク攻撃まで2年かかったし、今から天王星が牡羊座にはいるまでに、やはり2年ある。注目すべきは、その2年間の変化の動きがどうだったかと言うことだ。