魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

山羊座禍

2020年10月30日 | 星の流れに
木星、土星が順行を始めると、世界に再びコロナ禍が帰ってきた。(→逆行の間
欧州では、相次いで行動の再制限の動きがみられる。
一方で、夏場に回復した経済指標で、先行きに希望が見えてきた。
2020は山羊座の年だ。年を表す木星も土星も山羊座にいて、株価は乱高下。メディアは言わないが、投資家の中には大儲けした人もいるだろう。山羊座は投機や財政を表し、不幸の土星と幸運の木星が同居している。

山羊座は恐怖と牢獄を表し世界中の人が囚われた。また、墓や骨も表し、死者数などの数値も表す。どういう死か、意味は何かと関係なく、無味乾燥な数値に特化される。
コロナ死者数に、悲観して自殺した人まで加算されたのは極端だが、コロナに感染していたというだけで、他の死因もコロナに含められたケースは少なくないだろう。
若い人もと強調されるが、ほとんどが高齢者であることの意味も、改めて考慮すれば、死者数が異常に強調されていると言える。地球全体の死者数も言うべきだ。
山羊座は高齢者も表し、そこに不幸の土星が来ている。老人の不幸も今年の世相の一つだ。とにかく、占い的観察では、山羊座現象の「恐怖」「脅し」が世界を覆った年ということになる。
今年の漢字は何になるのか知らないが、「禍」意外は考えられない。

能力向上

2020年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
ジョギングやウォーキングをするような真面目人間ではないので、代わりに、スーパーに出かける。
スーパーに行くと、最低でも3000歩は歩く。大型モールなどに行けば、時には一万歩を超えて驚く。ついでにどこかに足を伸ばすと、結構な運動量になる。
足は公共交通か自転車で行く。電車もなるべく座らない。
散歩の一万歩は時間がかかるが、スーパーはあっという間に歩いてしまう。
新商品チェックや値段の比較など飽きることがないし、マンウオッチングも面白い。散歩もそれなりに見るものはあるが、スーパーの比ではない。

ところが、コロナでこれが難しくなった。
電車もバスもスーパーも、マスク無しでは行かれない。
コロナに感染したトランプの息が、苦しそうだったと報道されたが、見ているとマスクを外した瞬間のことだ。年寄りなら誰でもそうなる。
マスクをして、息が苦しくならない人は、よほど肺機能の良い人だろう。じっとしている時は耐えられるが、少しガンバルと苦しくなる。屋外に出て、マスクを外した時の清涼感は例えようがない。たとえ、砂ボコりの中でも、深呼吸したくなるほどだ。
だから、屋外でマスクしている人は信じられない。ジョギングする時さえマスクをしている。
世界中の人がマスクをするようになったことで、人類の肺が鍛えられる。
今後、世界のスポーツ記録は、軒並み向上するに違いない。

幕末現代

2020年10月27日 | 大転換
14年前、このブログを始めた時から心配していた幕末の再来が、顕現しているようだ。
現在、時代を動かす大周期惑星の海王星、天王星が、幕末とほぼ同じ配置にある。
大転換2
幕末維新は日本だけで起こったことではない。日本も激動の19世紀の一員だった。

今再び、幕末ドラマが、絶賛公演中だ。
違う役者が、同じ芝居をうつ時には当然、演出や意味づけの違いはあるが、テーマとあらすじは変わらない。
大英帝国が演じた役は米国が演じることになった。清朝が中国共産党に変わったのは同じ役者なのか襲名なのか、とにかく同じ配役だ。

19世紀、尊大な清朝は、英国を甘く見て、負ける喧嘩で権威を失った。そこから始まったアジアの混乱は、結局、ロシア革命、日本の敗戦、中国共産党政権の樹立まで続いた。
そして現在に至るまで、天王星は一周し、既に二周目を終えようとしている。一方、海王星は一周した、つまり、これは海王星周期の物語だ、

「幕末」公演、第二部
経済力を得た中国は再び尊大な帝国の姿を現し、周辺国を従わせようとしている。現代仕立ての舞台では国際協調を装いながら、都合悪くなれば、「こんなものは紙くずだ!」と、ルールを平然と無視する傲慢さだ。

「幕末」キャストの性格。血液型の国際関係。
中国が尊大なのは、デリカシーに欠ける文化ゆえだろう。
血液型のタイプで考えると、欧州のA型、インドや日本のAB型に対し、中国はB型の本家だ。
A型やAB型が、繋がりや滑らかさを重視する水のような感性なのに対し、B型は、構造やサイズに注目する金属のような感性だから、かみ合わない。
中国のやり方は露骨で、鉄柵や金網のように存在感があるが、欧米は水のように簡単にすり抜ける。欧米から見ると、立派な鉄柵の存在感は虎のように見えるが、ザルのように間抜けなところが張り子の虎に思える。
中国から見れば、欧米は氷にも雲にも変わる不思議をもたらす存在で、その実態のなさが、魅力的でもあり信用ならぬ存在でもある。

清朝の没落は、徳川幕府同様に体制の老化もあったが、中国の文化的弱点につけ込まれたと言えるだろう。着想や集中力はあるが価値観が雑で、何事にも一辺倒になり、関心のないものに対して注意力や気配りが無い。
欧米の緻密な観察でスキを見抜かれ、アヘンを注入され、弱点を衝かれて制御不能に陥った。
日本の場合、徳川幕府は一元的な帝国ではなく、連合政権のような幕藩体制が幸いした。これは、B型の中国と異なり、AB型の多元的な調和文化の幸運といえる。

A型とB型は互いに誤解するが、AB型はどちらも理解できる。強いて言えば、B型のことはやや見えない。
欧米は、中国の存在を過大評価したり蔑視したりして、真の理解をしないが、日本の感性には共感するところが多く、同じではないが、日欧は互いに尊重できる。
「法」のようなルールは、形のないA型の観念世界の産物であり、B型の中国にとっては利用価値の有無でしか理解できない。
AB型の日本は、「法」の精神を、生きるための方法として理解するのではなく、尊重と利用をする。スポーツのルールを変えられても、ひたすらそれに合わせて努力する。横断歩道で全く車が来なくても渡らない。「法」は信仰の対象で、生活道具としての理解が無い。

ドラマ「幕末」の幕は上がっている
「幕末」第二部の一幕は、既に終盤にさしかかっている。
傲慢な中華帝国の攻勢にかき乱された自由連合は、各地で抵抗のノロシを上げた。
自ら帝国の虜になった米国が、真っ先に危機を叫ぶ。米国に追随して虜になった日本は、「やっぱり!」と言いながらも、まだ帝国内に留まっている。帝国を敵とするのか味方とするのか、攘夷と開国、武士と商人の間で国論は割れている。
抵抗主力の米国も戦術論で手間取り、さらに、欧州勢との探り合いで、反撃の体制が定まらない。
このスキに、中華帝国の大攻勢が始まった。
(幕)
このシュミレーションゲームは、いかなる可能性、いかなる展開、結末を迎えるのか
後は、プレイヤーの腕次第???

いますぐ

2020年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
コロナによる社会環境の変化で、交通運輸業界は苦境に陥り、この先も回復は難しいと言われている。すべての業界が変わる時が来た。飛行機や鉄道が無くなるわけではないが、使い方は変わるだろう。発想の転換が必要だ。
運輸業は環境面で、輸送機器そのものが変化するが、戦後成長した運輸業のように個別機器の利用拡大ではなく、鉄道、船舶などの連携利用で、合理的な輸送システムが発展するだろう。
人手不足解消に、自動運転トラックの長距離キャラバンが注目されているが、環境とコスパの面で総合的に見て、鉄道とどちらが合理的か、疑問が残る。

また、物流に関して、飛行機は環境的に別物にしたほうが良いような気がする。これこそ、飛行船キャラバンではないかと思う。電気飛行機が進化すれば、さらに可能性が開ける。

今できる改革、発想の転換
こんな夢の話ではなく、今あるものを使ってそのまま出来る改善は、自転車との連携だ。
自転車は、健康面でも環境面でも、世界的に見直されている。現在、自転車で鉄道に乗るのは日本の場合想定外なので、輪行バッグに包むなど、相当な手間を強いられる。
これは、鉄道は人か貨物を運ぶものという固定概念があるからだ。
日本でも、渡し船やフェリーなどはそのまま乗れるが、鉄道も、役割を考え直す時だ。
一畑鉄道は有名だが、全国の鉄道も、「乗客本位の意味」から考え直してほしい。

乗客にすれば、駅までと駅からが、必要なことだ。多くの人は、駅まで自転車で行って、駅から自転車で動きたい。
鉄道側は、これまで、いかに乗っている間を楽しませるかを考えてきたが、それはサービスを提供する側の自己満足だ。
日本人の凝り性はいつでも独りよがりで、日本の電気製品が売れなくなったのも、技術者=提供者の視点で作っているからだ。創業時の電気製品や自動車が売れたのは、物の無い時代、製作者自身の「利用」願望が強かったからだ。
鉄道も、鉄道マニアが動かしているから、何が客のニーズかの発想が無い。
地方で廃線が続くのは、料金や快適ばかり考えて、「鉄道は駅から駅の渡し船」の発想が無いからだ。「便利さの意味」の追求が無い。
鉄道を降りてから何で動くか考えると、家から車で行ってしまおうと、誰でも考える。

観光路線に趣味の輪行客を乗せる電車が出来たことも、客サイドの考えではなく、イベント客寄せの発想で、無理に需要を作り出す、鉄道マニアの発想だ。
鉄道は基本、生活インフラのはずだ。自転車移動のお手伝いをする発想なら、ママチャリのおばちゃんも隣町まで気軽に行ける。
鉄道は自転車のまま乗れる環境を作り、採算が合わないというのなら、別料金を取ればいい。長距離の場合、車まで乗せる発想も必要だ。どうしても自分の車で動きたい人は少なくない。燃費、高速料金、そして運転の労力と安全を考えれば、鉄道側も元が取れる。
これからは、移動する人はどうしても少なくなる。人だけが収入源の発想は、今日からやめた方がいい。

命びろい

2020年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
深夜、6車線道路の交差点で横断歩道を渡っていた。もちろん、信号青で。
すると、交差する4車線道路の後方から来て、右折するワンボックスが、歩道手前10mぐらいの所で右折し始めたが、こちらは既にそのコース上にいたので、当然、止まるだろうとそのまま歩いていた。ところが、3~4mまで接近して、完全に車の前にいるのに全く止まる様子がない!
たぶん、20kmぐらいのスピードだったと思うが、慌てて走った。
思わず「ワーッ!」と、叫んでいた。ほぼ、背中をかすったが、セーフ
ジジイに、こんな瞬発力があったことに驚く。牛爺丸だ

路上でボー然としていると、行きすぎた車が次の信号で止まりながら、運転手がこちらを振り返って、「すみませーん」とでも言っているのか、手を上げるシルエットが見える。
「飲酒運転か!?」と思ったら、手の先でスマホが光っていた。
『いいから、前を見ろ!』

恐怖から冷めると、猛烈に腹が立ってきたが、轢かれない限りどこにも証拠がない。
スマホ片手にチラリと行く先を見て、後方から来る歩行者を見落としていたのだろう。
交通ルールを純粋に信じる小学生なら完全に轢かれていた。(小学生は滅多に深夜歩かないが)
ルールが有ることは、かえって危ない。
おのおの方も、ご油断召されるな

次の時代

2020年10月18日 | 大転換
国勢調査の回答が半数にもならないという見出しを目にした。オーバーな気もするが、東京などを思えば、本当なのかもしれない。
日本はデジタル化に周回遅れだ。時代に付いて行くためには、時代の先を行くつもりでなければ追いつけない。オンライン投票などから始めても良いかも知れない。

今どき、庚午年籍でもあるまいに、全戸の国勢調査など、必要があるのだろうか。AIによるビッグデータ解析なら、ウソ申告よりもはるかに正確な行政資料になる。中国のような監視社会でなくても、あらゆる方法で実勢調査はできる。
デジタル化の第一歩は、ハンコやマイナンバーではなく、発想の転換だ。物ではなく、どういう社会をイメージするかの問題だ。
それとも、古代律令のように、共産党人民監視システムを、ありがたく導入したほうが良いのだろうか。

コロナは引き金
コロナは、病気そのものが怖いのではない。怖い病気はいくらでもある。
「コロナだッ!」の、叫びが引き起こしたパニックの方が怖いのだ。コロナパニックが、産業革命パラダイムの楼閣を打ち崩した。生産消費の伸びきった戦線が、コロナを引き金に、将棋崩しのように、一瞬で崩れてしまったのだ。
大転換の門は開かれた。今や、崩れたものを再び積み上げる時ではない。全てはゼロから始まる。
幸か不幸か、全世界が同じスタート地点に立った。習近平もこれをチャンスと見て先進国を出し抜こうとしている。デジタル化に周回遅れの日本も、千載一遇の挽回チャンスに恵まれたのだ。

全員が一から始めるなら、失うものの無い者が勝ちだが、
日本は、高度成長の遺産が足かせになり、大借金とデジタル化の遅れを招いた。今こそ、終戦直後の焼野原に立ち返り、前例や成功体験の夢から覚めなければならない。
先ず、政治に必要なのは、ビジョンの提示だ。
細かいことはどうでも良い。これから、どんな社会にするのか、可能性に満ちたイメージを映し出し、国民の意思統一を図れば、みなが前を向く。それが無いから混乱が起きる。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と、諭してもらったほうが良いのかもしれない。

新時代プロローグ
明治に生まれた19世紀の社会システムに固執する日本だが、その師である欧米は、既に変り始めている。
今や、「製造と消費」の産業革命パラダイム250年が終わり、「情報と納得」の時代が始まろうとしている。
ハンコ廃止騒動もその一つだ。日本のハンコ偏重は江戸の経済発展の名残で、明治政府もこれを廃止できず、印鑑証明制度まで生まれた。産業革命250年の、日本なりの歩みであり、時代の象徴でもあった。

ハンコが消える一方で、個人の認証技術はますます発達する。もしかすれば、認証の必要さえなくなるかもしれない。今後のデジタル発展で、あまりにもプライバシーが無くなれば、かえって、個を特定する必要が無くなる。
国家共同体にとって最も重要な徴税も、個々の所得から徴収する発想そのものが無くなるかもしれないからだ。
例えば、ベーシックインカムと消費税100%のようなシステムであれば、個別徴税の必要が無い。個々の儲けの上前ではなく、総生産の剰余から共同体運営を賄う社会なら、個人を特定する必要が無い。納税申告のような無駄な徒労も要らなくなる。

どんな未来であれ、郵便や印刷、学校や役所など、これまで当たり前と思い込んでいたものを、一度、無いものとして考えなければ始まらない。
投票所に行く選挙、郵便やハンコによる証明、人集めの式典・・・そして、通貨。こんなものは、すべて、「物」が前提になっている。
これからは、「在る」ことさえ認識できれば、それで良い時代になる。つまり、いかに「納得」できるかが重要になる。形で確認する前提を、捨てなければならない。
断捨離の流行も、シェアブームも、そのプロローグだ。「物」の世界との別れに、みな慣れようとしているのだ。

この半世紀、次の時代への舞台装置が次々と生まれてきた。DNAの発見、共生の認識、情報化社会・・・など、アイデンティティの根拠が大きく崩れていった。これは、進化論に匹敵する認識の革命だ。
われわれの存在理由が、個ではない、類やガイアの概念で捉えられるものであることが、高等教育とともに世界的に広まって、ジェンダーや、物質文明への批判が高まっていた。そこに起こったのが、コロナショックだ。
機は熟していた。小さな針の一突きで、250年の産業革命パラダイムの夢が吹き飛んだ。
幕が上がったのだ。

牡牛時代

2020年10月11日 | 星の流れに
今、天王星は牡牛座にいる。美と快楽が求められる時代だが、物質的で古風な伝統美が好まれる。同じ金星が支配星でも、天秤座時代は観念的で革新的な美が求められる。
前回の天王星・牡牛座時代は1934~41年で、独裁と第二次大戦の時だった。ヒトラー、スターリン、ムッソリーニと、大衆が強いリーダーシップを求めた結果、独裁者が暴走を始めた時代といえる。
一方、天王星・天秤座は1968~74年で、平和や自由の未来志向的な美が求められた。

再び牡牛座の現在も、習近平、トランプ、プーチンなど、似たような様相を帯びているが、核の時代では、いくら何でもノンキに大戦争は始められない。
しかし、経済と情報の大戦争は、既に始まっている。天王星回帰による歴史の再来は、ナチスや、皇国日本の民族至上主義のように、中華民族至上主義となって蘇った。中国の行状を見ていると、戦前の日本を、改めて反省させられる。何れも、よかれと思ってやっていることだから、思いとどまれない。

同化政策ほど野蛮はない。民族浄化と同じ、野獣の「同族以外はみな獲物」の発想だ。
他人に自分好みの服を着せるのは愛ではない、「同族になれ」は、極めて迷惑な行為だ。
国家的ナルシズムであるナショナリズムは、カニ座のものだ。月を意味するカニ座は母性の保護、囲い込みの感情で、母親は自分の好みで子供に服を着せるのが、当然だと思っている。星座で表すカニ座の国は、まさに中国だ。
中華文明の末裔の日本が、アジアの復興と皇国の拡大を取り違えた過ちを、本家の中国が今再び繰り返そうとしている。天王星が再び巡ってくれば、別の役者が同じ役を演ずる。
自分の信条を認めてもらおうと思うなら、相手の喜ぶことをすべきだろう。
自我の希薄なアメリカは、中国のように信念を持った同化政策はとらなかったが、今や世界の共通語は英語になった。
これをどう解釈してか、国家戦略とする韓国の韓流は、同じパクリでも、中国より遙かに効率的だ。

牡牛座のエゴ
天王星がカニ座ではなく、牡牛座の時になぜナショナリズムが拡大するのか、いささか不思議な気がするが、これはアーリア民族、大和民族など、復古的美意識と、自分さえ食えればの、渇望感が増すからだろう。気候変動や経済サイクルの破綻によって、不安が増し、何としても生き延びようとする「われ先」を正当化する。
牡牛座は、子供の乳離れや自活を表し、「食う」ことを意味する。自分たちが生き残るためなら他の連中を殺しても当然、の感情が強い。また、死と再生を意味するサソリ座の反対として、誰かが死ねば誰かが生き残る、裏の事実も含んでいる。

とにかく、今は「美」が求められる時代ではあるが現実にこだわりすぎる時代でもある。未来志向よりも、具体策のない、人種差別反対や核廃絶など、怨念の解消や既存物の除去に目が行き、むしろ新たな対立を生む時代でもある。コロナもまさに、束縛だけに目が向けられる、「不毛の浄化」時代の象徴だろう。

火星活躍

2020年10月05日 | 星の流れに
火星が10月6日に大接近するが、それよりも、牡羊座で強まる火星が長期滞在していることで、様々な事が起こっている。
その火星に対し、太陽は180゜の天秤座で、さらに、10月1~3日は、牡羊座に月が来て満月になった。火星、月、地球、太陽がほぼ直線に並んだわけだ。
この間、
1日には、東証がシステム障害で終日売買停止。     
2日には、トランプ大統領がコロナ感染で株価下落。
まるで取って付けたように、事件の連続だ。
この星の状況がプラスになるのは、双子座と射手座だが、双子座はトランプ、習近平、アメリカ。射手座は菅総理、惜しいのはバイデン(サソリ座27゜)。トランプ感染は、意外な結果になる。
これが不都合なのは活動宮。また、水瓶座に土星が掛かり、天王星が牡牛座にいる定着宮も苦しい。
日本学術会議会員任命拒否が明らかになったのも1日だが、菅総理の射手座が関わる、教育、哲学、法律、外国等の問題で、結果的に問題提起となったのはおもしろい。

酔い言葉

2020年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム
文化庁は、在留外国人のために、医療などの現場で、「やさしい日本語」の普及を進めている。
日常は、当たり前の言い方が、日本語に慣れない外国人にはほとんど理解できない。
ごく当たり前の「仰向け」も外国人には解らないが、「上を向いて」と言えば解る。

「やさしい言葉」とは、幼稚な言葉のことではない。
相手を尊重することは、丁寧な言い方や、くどくどしい態度だと思われがちだが、実は、これは自分の保身が動機で、非難されたくないからだ。この度が過ぎれば慇懃無礼だが、悪意ではなくても、決して相手のためではない。

しかし、盲目的な親心が過保護になるように、世間の作法、ことに日本のような閉鎖社会では、丁寧は上塗りされて、漆のように固まっていく。
過保護は親の独善で、子のためではない。日本のがんじがらめの規制も全く同じ、親切ごかしの悪循環だ。
近年、非難されたくないがための、くどくどしい、「させていただく」敬語や、「ヒザつき」接客など、誰かが始めればどんどんエスカレートして、もう、誰にも手が付けられない。
その一方で、スポーツ選手は、「客に感動を『与える』」を、良い言葉だと思っている。気持ちとしては「皆さんに感動して『もらえる(いただける)』」と言いたいのだろう。

一方で、文化庁調べでは、近年、日本語が乱れていると思う人が激減しているそうだ。ネットの普及で、寛容になっているとみられているが、それだけ、乱れが普通になっているということでもある。
個人的には、日本語の活性化で良いことだと思うが、この乱れた日本語を正しいと信じて、他人の言動を非難する人が増えているのは困ったことだ。
文章の公人名に敬称を付けろとか、前地方創生相の「ほらを吹いて回った」を非難するなど、国語知識も会話センスもない。しかも、「ほら」にケチをつけたのはメディアだから、責任あるプロさえ言語センスが無い。

先日の「所さん大変です」で、高齢者同士が「ほとんど年金泥棒の集団です」と言ったのを
「ところさん」が、「イイねえ!」と誉めていた。これは、「ほらを吹いて回った」と同じセンスで、自負のある謙遜だ。つまり、それだけ膨らみのある会話なのだが、これが理解できない。
くどいが、あえて、前大臣の「ほら」の解説をすると、大声で吹聴して回った、つまり、自分のような力の無い者が、大上段に構えて正論を言ったと、謙遜しているのだ。

日本語で酔っ払う
近年の歌の歌詞は、漢語が当たり前になった。感覚に幅のある和語が減り、代わりにカタカナ語でぼかす。言わば、デジタル日本語だ。
だから、「やさしい日本語」で話そうとしても、どう話して良いか解らない。肌感覚の和語を使わない今どきの人には、気持ちの伝達がむずかしい。
逆に、ワクチン「vaccineバクシン」を日本語だと思い、「病気にならない薬」などと言い換えようと苦労する。
「仰向け」を漢字で考えるから言い換えが難しいが、「あおぎみるかたをむく」の実感があれば、自然に「うえをむく」になる。

教育レベルは高くなったが、用語の丸覚えが前提なので、肌感覚での理解に遠く、他人に説明したり、実生活での応用ができなくなる。専門家が素人に説明できないのも、実は、肌感覚の平らな理解をしてないからだが、何か、秘密結社の特権のように、優越感にさえなっている。
若者が、仲間内だけで使える言葉を好むのも、そうした差別意識で自分を特別なものと思いたいからだが、閉鎖的な日本社会で大人になると、これを拡大し、非日常的な言葉を好んで使う。すると、それを聞いた人も、秘密結社の制服か、「忍法、言霊!」のように真似をする。当然、間違った用法も横行し、曖昧なカタカナ語や漢語が、酔っ払いの大声のように、社会をなんとなく成立させている。
その結果、日本社会は、大木の無い蔦蔓のジャングルになり、そこに入り込んだ部外者だけではなく、生息する日本人さえも、自分の思考や立ち位置が見えなくなっている。
やさしく誰にでも解るように話せないのは、自分自身が解っていないからだ。
五段活用の意味を、小学一年生に説明できるだろうか。「なぜ、未然って言うの?」