魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

山の向こうは谷

2009年07月31日 | 星の流れに

世相の流れは、最も賑わっているものは、大抵、既に実体が無くなっている。

株価も、実体経済より早く動く反面、賑わう時には高値掴みの危険がある。

これまで、世相の動きを予測して、実際に、その時が来ると、
「あれ、間違ったかな」と、思うことが少なくない。
滅びるはずの時に、ずいぶん賑わっていることが少なくないからだ。

東国原宮崎県知事が出てきた時、大変になると予測したが、その時期は、ますます人気絶頂だった。今、その期間の終わりが近づいているが、今頃、色々問題がはっきりしてきた。

クロックス・サンダルはもう終わりだと、言ったのに、それからもずいぶん出回っている。
「あれ、またか」と思ったら、会社は倒産寸前で、今出回っているのはほとんど偽物か模造品なのだそうだ。

今、最盛期だから、疑った方が良い物・・・
書こうと思ったが、当然、世の中はファンだらけだから、止めておく。
ヤバイ、ヤバイ

自民党は村山内閣で完全に終わっていたのに、郵政選挙で大勝利した。
日本の失われた歳月とは、自民党という腐った鯛の陳列期間だ。

だから、当然、民主党が圧勝するだろう
だが、もし、民主党の人気が、今、ピークだったとしたら・・・


わかゾウ物語

2009年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム

じじいのことを話していたら、今日は、わかぞうの話が出てきた。
成人年齢を18歳にする法制審議会の答申が出たそうだ。

賛否両論あるが、聞いていると、反対意見は現状を前提にしている。
実際にそうなった時の、環境変化はまったく計算に入っていない。
だいたい、どんなことでも、反対意見とはそういうものだ。

水は器に従う。環境が変われば、考え方も生き方も変わってくる。
変化に反対する人は、既得権のある人か、変化に立ち向かう勇気のない人だ。こういう人は漫然と行き詰まりを待ち、沈没に慌てるか、船とともに沈む。

成人の低年齢化が良いと思うわけではない。
様々な魂胆がかいま見えるからだ。
しかし、長寿社会や高学歴化の中で、ふぬけて来た社会(自分も)を引き締めるには、効果的な方法かも知れないとも思う。

各論を言い出せば、切りのない話になるが、
考え方の重要なポイントは
社会構成を大人か子供かだけで考えない」と言うことだろう。

世代別、年代別の複層的な社会を前提にした上で、
成人と青年のような、二段階の責任層を設定してはどうだろう。
年寄り組と若衆組だ。
選挙権20歳、衆院被選挙権25歳、参院被選挙権30歳・・・
のように、成熟度を前提とした分け方も、既になじみがある。

若者が、早くから社会参加の意志を持ち、同時に、年寄りがそれを支えるような、
若者のパワーと、老人の知恵を活かす」社会を構想する必要がある。

回る回る、世界は回る


じじい放談(2)

2009年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

「おじいちゃん」や「お年寄り」がNGなら、どう呼べばいいのだと思う人がいるかも知れない。

あえて例を挙げれば、「OOさん」と名前を呼ぶか、普通の大人の呼称「おじさん」でもいい。「お年寄り」は「高齢者」や「先輩」と呼び替えてもいいだろう。

なぜ、「おじいちゃん」や「お年寄り」がNGなのか。この説明は、一筋縄ではいかない。

何よりも、日本社会が大きく変質してしまったことがある。
江戸時代のように、年寄りが尊敬される社会では、「年寄り」は敬語だった。
「年寄り=偉い人」と、誰でも思っていた。大老、老中など、大臣や賢人会のような敬称としても使われていた。

そういう時代の「お年寄り」や「おじいちゃん」を、現代も敬語のつもりで使うと、逆効果になる。

今や、経験や知恵より、若者パワーだ。戦後のアメリカナイズで、年寄りの価値は地に落ちた。成果主義、実力主義の時代だ。

衰えた、ひ弱い年寄りと思われては、のけ者にされる。ヤバイ!
シワだらけの、小汚い年寄りと思われては、嫌われる。ヤバイ!

元気そうに飛び回り、体の構造を変え、若者に色目を使い、喧嘩を売る。まだまだ負けんぞ、と、金をばらまき、昔の自慢をする。
そんな、現代の年寄りに「お年寄り」などと気を遣おうものなら
「誰が、年寄りだって!?」
と、優先席で逆上されることさえある。

若者社会で、立て前の敬老は成り立たない。
封建時代のように、タテ社会の頂点に、長老が居たような時代ではない。
妙に「先輩・後輩」の序列にこだわったり、「お年寄りを大切に」と言ってみたところで、ますます、実力との差が強調されるだけだ。

その本音が、後期高齢者や、若者の年金への不満となって現れる。
(実力もないお荷物のくせに、と)

もう、立て前の「偉い年寄り」など存在しない。
「わかぞう」とか「おいぼれ」のように、人を年齢などの社会的な立場で呼ぶ時代は終わった。現代は、個人の人格で付き合う時代になった。

だから、歳にかかわらず、その人の固有名詞で呼ぶのが、良いのだろう。要するに、欧米化したのだ。

その個人を特定する「課長」や「部長」はアリだが、「先生」や「おじいちゃん」のように、社会的立場を表す呼称は人格無視につながるのだろう。気分を害する人がいる。
「おまえに、立場を決めてもらわなくていい!」 という気がするのかも知れない。

先日、90歳の「隣のオトウサン」のことを話した。これは、関西的な呼称だと思うが、なかなか、うまい呼び方だ。
名前がわからない時に、年寄り扱いではなく敬意を払った、個人を特定する呼び方だ。「ご主人」では親しみが薄い。
「オトウサン」は実力があり、「オジイチャン」に代わる社会的存在にもなるかも知れない。


じじい放談(1)

2009年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム

自称「じじい」は止めろ、と言ってくれる人がいた。
しかし、歳はまぎれのない「じじい」だ。

かなり多くの人が「じじい」「ばばあ」と呼ばれることを嫌がる。
中には、自分の孫にまで、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばせない人がいる。

この呼称を嫌がる人は、自分自身が、この言葉に差別意識を持っている。年寄りは半人前と考えている自分に、気づかない。
だから、こういう人に限って、若い時には、優しいつもりで、他人に「おじいちゃん」と呼びかける。「お年寄り」と呼ぶのも同じことだ。

こういう人は、人間の価値を、動物的な原始力でしか解らない。
年齢や、見た目で決めている。若いエネルギーを過信し、それが人間の全ての価値だと思いこんでいる。

そういう人は、自分がその年になると、慌てる。
人間の価値の多様性を理解しないから、見てくれが衰え、物理力が無くなると、懸命にそれを隠し、否定しようとする。
ポジションを奪われまいと権力を誇示したり、魅力を失うまいと化粧に取り憑かれる。可愛いと言えば可愛い人だ。

人間の価値は力や美貌ではない。
人間の価値は「生き様」だ。若かろうと、年寄りだろうと、どんなに恵まれない環境だろうと、自分を持った人はそれだけで価値がある。

自分を持つということは、頑固なことでも、物知りなことでもない。
どんな立派な経歴も関係ない。
「これでいいのか」と、自問し続ける姿勢の中に、自分がある。
そういう生き方は、態度、姿、言葉に自然に現れる。

外見から言えば、ごくフツーの人だ。他人にどう思われるかより、自分の生き方を大切にしているから、無難な格好をしている。
良くも悪くも、他人に特別な印象を持たれないように心がけ、柳に風で生きている。

立場や年齢や風貌で、どう思われようと、他人の思惑には逆らわない。
宮仕えであれば、役職を終えると、存在を消してしまうような、
一見、何の取り柄もない、市井の哲人。

そういう人に憬れてはいるが、とても、悟りが足りない。
せめて、己の置かれた環境を、積極的に受け入れようと思う。
万人平等の環境である年齢ぐらい、喜んで身にまとおう。

じじいの”やつし”は、実は、かなり楽しい。
わかる人には呼んでもらいたい、「こら、じじい」と


意地を見たい

2009年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

「麻生首相また失言」と言うから、読んでみると、
「やる気のある元気な高齢者を労働力として社会に活かそう」
と言おうとして、「今の年寄りは働くことしか能がない」と言ったというのだ。

日本の政治を悪くしているのはマスコミだと、あらためて思った。
政治家のミスばかり探して、その志には蓋をしようとする。

政治家がボンクラばかりだとしても、どんなささやかでも、みなそれなりに意見を持っている。
多くの人の意見を代表して出てきているのだから、その人がアホでも、推した人々の志のカケラぐらいは抱えている。

歩き方がおかしい、顔がおかしい、言葉がおかしい・・・と、くだらないイチャ文ばかり見つけ出しては飯の種にする。
マスコミのすることは、政治家の志を国民に伝えることだろう。
何も、宣伝屋になれと言うのではない。どの立場の動向であれ、正しく伝える、それだけだ。

麻生のファンでも、自民党支持でもないが、今回の意見は正論だと思う。つい先日、「ロウ・エネ」でも、言ったばかりだ。

「働くことしか能がない」と言うのは、働くことにおいて、誰にも負けない優秀な実績を残してきた。という意味の、逆説的なホメ言葉だ。

そういう、言葉の色を全く汲もうとせず、言葉の表面的な意味だけ取り上げて非難するのは、国語教育の貧困であり、社会全体の思考力の疲弊だ。
NHKの台湾に関するドキュメントで、言葉尻をことさらに強調して、真意を歪曲しようとした態度と、全く同じレベルであり、
それを聞いて同調する国民もまた、同レベルに低下している。

マスコミを敵視しているのではない。滅び行くオピニオンリーダーに意地を見せて欲しいのだ。


専守防衛

2009年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

米上院はF22の追加調達を削除した。
金回りが悪くなれば、アメリカといえども軍備を切りつめるし、金さえあれば、覇権体質の中国の軍事費は拡大する。

戦後日本の経済発展は、軍事負担が少なかったことも大きい。

これまで、アメリカは、ドガジャガ生産をしてきた。
力任せ、金任せの製造で、自動車産業もとうとう行き詰まったが、当然、軍需産業も同じラインの上にあると考えるべきだろう。

見てくれと仕組みは大層だが、効率や機能性を真剣に考えているとは思えない。物量と科学技術におぼれた、知恵のない「雑な兵器」だ。
それを、言い値でいくらでも買う日本に売りつけてきた。
こんなにうまい商売はない。

ところが、アメリカ自身、自分の台所に火が点いたら、もうこんな高い物は使っていられないと、中止した。
せっぱ詰まれば、自分でも止めるような物を売りつけてきたわけだ。

冷静に考えれば、世界最高の兵器とは、「アメ車」ではなかろうか。

今回の「世界最高の最新鋭ステルス戦闘機F22」にしても、ミサイル防衛システムにしても、何か、根本的に間違っているような気がする。

戦争は互いに生き残りを賭けて知恵を絞る。
物量と、戦闘員の数が勝敗を分けるのではない。集団の文化が勝敗を分ける。

アメリカの発想は、押し一辺倒だ。
ミサイルを防ぐのに、ミサイルで撃ち落とすという発想。
矛盾どころではない。 矛、矛、矛の矛だ。

南北戦争の激戦地ゲティスバーグに、空中で衝突して、一つになって落ちた銃弾が陳列されているそうだ(見たことはない)。
そういう、アメリカ伝説が、アメリカ人の脳裏にはあるのではなかろうか。

兵器も文化の結晶だが、
一方で、極めて現実的な対応をとるアメリカは、特攻機に対処するのに、弾のバリアを張って、以後ほとんど寄せ付けなかった。もちろん、先手を打つ情報戦では、大きな戦果をもたらした。
結局、実際の戦争で、もしアメリカが受け身に回れば、そういう動きをするだろう。

現実を前にすれば、兵器より知恵と発想で対応するアメリカの兵器は、始めからでくの坊で、そんな物を売りつけるのは、純粋に戦争ビジネスだ。

逆に、臨機応変の戦い方が下手な日本は、作戦や兵器の企画では結構、優秀だ。
専守防衛の兵器や作戦は、むしろ、日本こそ得意とするものかも知れない。


カエルの歌

2009年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム

去年、プランターで、稲を作ったら結構うまくいったので、調子に乗って、6個にした。水を抜こうとしたら、なんと、カエルがドボーンと飛び込んだ、中から目を出してこちらを窺っている。
かまわず水を抜くと、2匹もいた。たぶんトノサマガエルだ。

たぶん、と言うのは、カエルが嫌いで、良く知らないからだ。
できれば、近寄りたくない。
面白いやつだとは思うのだが、あのヌルッとした感触が嫌いで、突然飛びつかれたりしたら、叫びまくるだろう。

子供の時にはそれほどでもなかったのに、理科の解剖で嫌いになったのかも知れない。

プランターの底の栓を抜いて、水が抜けるのを待つ間、カエルがプランターの縁に片足と片手をかけて、半身の形で、じっとしている。
どうするか途方に暮れているようすで、辺りを窺っている。

水が抜けきると、ぴょんと跳んで、草の中に消えた。追わない。

知る限りでは、100メートル四方に、池など無い。カエルはそんなに遠くに移動してくるものだろうか。
下水を辿って来たのかも知れない。おどろいた。

プランターの横に作っていたナスは、カラスにきれいに食べられてしまったのに、あんな小さな水たまりで、よく見つかりもせず、2匹も暮らしていたものだ。 生き残りかな・・・
来年は、プランターを止めて、畳ぐらいの田んぼをつくろうかなあ


ドツボの連鎖

2009年07月24日 | 占いばなし

また、千葉の事件でいささか食傷気味だが、足取りの方位が面白いのでメモしたい。

18日、東北自動車道を北に栃木県の佐野に向かっている。
19日は、羽田を経て南西の那覇に行った。
どちらも、日の方位は「五黄」に向かっている。

五黄は「無」の方位。五黄殺と呼ばれる。
自ら、いい加減なことをして、健康や財を失う方位だ。
事件の犯人は暗剣殺に逃げると言われるが、反対の五黄殺も同じだ。
いい加減なことをして・・・と言うより、初めからいい加減なことをして来ている人物だ。

五黄殺に向かうとは、反対の暗剣殺から来るわけだから、まさに犯人の現れる方から、来たことになる。

日の方位の根拠というものは、かなり曖昧なのだが、実際に試したり、見たりしていると、あるとしか思えないことが多い。

誰でも、一度、五黄殺に動き始めると、なぜか、次から次に五黄をハシゴして動くことになる。
これに気づいたら、自分の思惑や都合を一度、捨てて、あえて方位を変えて、五黄の連鎖を断ち切る方が良い。できればの話だが・・・
それができないこと自体が、既に、ドツボにはまっている。


三分の理

2009年07月23日 | 兄弟関係

千葉のストーカー殺人。犯人がつかまり次女が保護された。
これも、下の子に振り回された事件だ。
「被害者はいつでも正義」とは限らない。何で逃げなかったのかと言う疑問に、それだけ恐怖心がすり込まれていたからだろうということになっているが、それ以前の問題があることは誰も見ようとしない。

出会い系で出会い、同棲し、暴力から逃げ出し、親に頼り、兄姉に頼り、警察に頼り、それでいて、周りのアドバイスに従って、兄姉の所や、避難場所には移らず、与えられていたGPSを身につけていたわけでもない。連れ回られて逃げるチャンスがありながら、逃げなかった。一番の被害者は家族だ。

被害者を責める気は毛頭無い。また、責めてはいけない。
被害者は被害者だ。

ただ、一般論として、「泥棒にも三分の理」の逆説として、被害者がいつも完全に正義とは限らないこともある。
「罪作り」と言う言葉は、冗談のように使われるが、「責められはしないがあんたも悪いですよ」と婉曲に言うものだ。

長子の場合、逆に、全部自分で始末しようとして、事態を悪化させてしまうことがあるが、下の子は自分で始めたことを、困れば、周囲に持ち込み、周囲が尻ぬぐいをさせられることが少なくない。
(反省や感謝はないが、助けてくれなかった場合は恨む)

今回なども、次女にとっては自身の、痴情のもつれレベルの事件だったのだろう。もちろん、そうは認識していない。
客観性が無いから、常に自分は「大変なこと」に必死だからだ。

総裁選ショー


竜が理由ではない

2009年07月22日 | 占いばなし

風水や家相で「気」がどうのこうのと、色々神秘的な難しい名前で言われることは、元来、常識で考えればわかる単純なことだ。

家相で何よりも大切なことは、立地条件だ。どんな立派な家も、大ナマズの背中に建てたのでは、必ず破壊される運命にある。

「竜が出入りする」とか考える前に、町や地域の地図や航空写真を見れば一瞬で解ってしまう。

砂遊びの山や谷に、水を流せばどう流れるか、そこに風が吹けば、砂がどう飛ぶか、子供でも解る。
ごく当たり前の動きをするのだが、その山や谷に、アリになって這い回る人間になると、山や谷の動きが見えず、想像もつかなくなってしまうらしい。

今回も、土石流被害にあった防府真尾の老人ホーム。
一目見れば初めから、何であんな所に建てるんだ?という立地条件だ。

どう見ても扇状地だ。必ず水の災害が起きる。と言うより、土石流によってできた土地だ。
建てた時は、川の上に建てたわけではなかったかも知れないが、両サイドに流れている川で想像がつくし、実際、今回、土石流は一直線になだれ込んでいる。

老人ホームは全国的に、人里離れた「閑静な」山の中や、「風光明媚な」山腹に建てられている。つまり土地が安いからだ。
土地が安い、普通は家を建てないような所には、それなりの理由がある。建てても遙か昔に破壊されたか、どういう所か土地の人は知っていて、建てない様な所だ。

危険な土地には、多くは名前に記憶が残っている。
出水、川原、岩沼など、誰が聞いてもわかるものから、竜OOとかのように、よく考えればそうかも知れないと言うものまで、結構ある。

真尾(まなお)の名前の由来は良くわからないようだが、
おそらく・・・真菜とは魚のことだから、魚の捕れる所という意味があるのではなかろうか。

※なお、古事記の天照大神と須佐之男命が「誓(うけい)」して占った、天の安の河の聖水は真名井という。「まな」が接頭語であれば、「お」に意味があるのだが、そうだとすれば、何か解らなくなる。


雨が好き

2009年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は朝から雨だ。天気予報も傘マークが並んでいる。
雨男ではないが、どちらかと言えば雨が好きだ。
雨が好きというと、怪訝な顔をされるが、奇をてらっているわけではない。

何で雨が好きなのか、あまりちゃんと考えたこともないし、うまく説明できない。

もちろん嫌なこともある。
首筋に伝う雨の滴。あちこち少しずつ湿った書類。じくじく濡れている靴。
そういう、うっとうしい感触は嫌いだ。
洗濯や、自転車での外出もままならない。

いいところのないように見える、雨降りだが、雨が降る日はとても落ち着く。
薄暗い窓の外。部屋に灯りを付けて本を読む。録画を再生する。
かんかん照りの休日には、とても、落ち着いてはできないことだ。
雨という諦めがあるから、気持ちが落ち着き、集中できる。

外の露地に上がる雨のしぶきが、小さくなったり激しくなったりするのを見るのも、見飽きることがない。
流れる水が、集まり別れて行く様子を、大河の生成のように見ていた子供の頃。そんな気持ちがよみがえる。

激しい雨の中、車で出かけるのも得難い時だ。
自動車という文明の利器がなかった昔には、決して体験することができなかった感覚だろう。
雨が滝のように流れる窓ガラスを、ワイパーのすき間を覗きながら走る。水族館の魚のような気持ちで外を見ていると、水の世界がどんどん動いて行く。

映画では、この感覚を様々な形で表現している。シェルブールの雨傘はその通りだが、多くの監督が多くの場面で、雨ににじむ車窓を、意識や時間の異相に使っている。ワイプという手法もあるから、映画という光と影の芸術に、近しいものがあるのだろう。

運転免許を取って、初めて運転したのは、友達のうちの軽トラックだった。二人で車の少ないダムの方まで走って行ったのだが、雨が降り始めたので、あわてて引き返した。
川沿いに山端を走っていくと、雨がどんどん激しくなり、雷が近づいてきた。近すぎる雷は光より音の方が先だ。
「ガ・シャーン」
と来る。「ガ」が音で、「シャーン」は光だ。
「ガ・シャーン」、「ガ・シャーン」の中を走っていると、
前方、10mぐらいのところに、突然、右上から、直径、1mぐらいの岩が、道の真ん中にドーンと落ちて来て、そのまま弾いて、反対側の川の方に落ちて行った。
「わーっ」と言ったと思うのだが、記憶にない。
しばらく、二人とも「ファーッ」「ファーッ」と、叫び続けていた。


日々是事件

2009年07月20日 | 星の流れに

マドンナ
同年同月生まれのマイケル・ジャクソンの死に続き、マドンナのショーで事故が起こり、中止になった。
土星が来ている乙女座のマイケルが、自分の身の上に災いが起こったのに対し、獅子座のマドンナは、水瓶座の木星と海王星の影響を受けた。
直接に自分のことではなく、関係者の事故死という「とばっちり」が自分の問題になった。
事故は、
外国(木星)のマルセイユ(港・海王星)の競技場(木星)で、「四つのクレーン」の一つが「落下」して死者が出た。全て水瓶座現象。
その結果、獅子座のマドンナのコンサートは中止。

三碧・六白・九紫の話題は、悪いことだけではないが、まだ、いろいろ続く。
六白・乙女座

高齢運転
二歳の幼児をひき逃げした、幼稚園長が捕まった。77歳だと言うが、もし、まだ誕生日が来てないなら六白だ。

ひいた後、車を替えて運転していたというから、ボケてはいない。
しかし、60も過ぎれば、自分の五官の衰えは、常に念頭に置かなければならない。

大型ベンツで事故を起こしたそうだが、高齢運転は、我が身の安全や快適より、他人の安全を優先すべきだ。
死角の多い大型乗用車より、視点の高い小型車の方がいい。
疲れると言うなら、そんなに長時間、乗るなということだ。
それが嫌なら、運転手付きか公共交通機関にしたらいいだろう。

園児達、そこのけそこのけ高齢ベンツ

小さい車は危険だと言う人がいるが、こういう人は他人の危険など考えていない。
そもそも、運転者の安全を優先する設計や法律はおかしい。自分の命を危険にさらせば、安全運転をするだろう。シートベルトも、クラクションも、エアバッグも要らない。小さな事故でも即死するようにすれば、危険ドライバーが減る・・・それでは車が売れなくなるか。

ストーカー
またストーカー殺人。容疑者は28歳、中央大学教授殺人の犯人と同い年だ。2年前の京都の親族殺人も同い年。二黒か一白だが、おそらく一白だろう。
犯罪はだれでも犯すが、犯罪のパターンには星による共通性がある。一白は思い込み犯罪。
情は仇なす(後)九星と犯罪


占いな日々

2009年07月19日 | 占いばなし

水瓶座もたけなわ
木星→水瓶座の年も、獅子座の季節が近づき、いよいよピークだ。
政治の混乱は、組織の離合集散に進んでいる。
橋下知事「自民党は賞味期限が切れた」←消費期限だろう。
飛行機の墜落、地震、落下・・・年初の事象が再来し始めている。
2009

北海道は水瓶座。その水瓶座で、気象災害を表す海王星と、旅行やスポーツを表す木星が合(同居)している。
月が凶角90゜の牡牛座に入った16日に大事故。世相としては必然だった。大雪山(水瓶座は大寒)、トムラウシ(花の多く咲く所)

北海道で何が起こるとか、そんなことは一々占わないが、もしツアー参加を相談されたら、止めはしないが反対しただろう。

NOはつらい
占いの相談は、ほとんどの場合、反対しなければならない。
占ってみようと考えること自体、既に迷っている。
無自覚のうちに、願望と合理的な否定が葛藤しているからだ。
だから、占いのせいにしてあきらめたり、あわよくば、お墨付きを貰って、元本保証のバクチをしよう・・・そう思って占って貰おうと思う。
だから、話を聴くと、たいていは初めから「ムリ」な話なのだ。
実際、占っても必ずと言うほど、悪い結果が出る。

しかし、日頃から、占いを参考として考える人は、必ずしもムリな話を持ち込まない。自分で合理的な判断をした上の、別視点の確認だ。こういう時は、たいていは賛成できるので、こちらも心からうれしい。

まれに、不合理な話なのに、良い結果が出る場合がある。これはたいてい、本人の欲望を超えた結果が待っている場合だ。
例えば、無理な受験を占い、吉が出たのに不合格。海外に行って現地で進学し職業的に成功。とか、受験を止めて、職人で成功。などのように、考えてもいなかった、展開が待っているような場合で、こういう時は、悪いと解っていることを、あえてやってみる。
ツバメの滝くぐり。滝の背後に別世界が待っている。というやつだ。

そんなわけで、占いを真面目に考えれば、気分を害されることの方が多い。だから、反対はしても、無理に止めない。
止めても、やる人はやる。それが運命というものだろう。

占いで反対すると、占い師を説得すれば、凶を吉に転ずることができると勘違いする人がいる。おみくじを何度も引く人だ。
自問自答の代わりに、占い師と議論するのは、まんざら、無益でもないが、
もともと、自問自答の習慣のない人は、キレてしまう。

昔から、占い師が、暴行されたり殺されたりすることは少なくない。
占い師も、人を指導する、などと勘違いしない方が良い。


生き物パック

2009年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

北海道、大雪山系で大事故が起こった。詳細はわからない。
犠牲者のご冥福を祈りたい。

遺族の人が「事故が起こらない方が良いのだから、中止して欲しかった」と言っていた。気持ちはわかるが、事故が起こったから言えることで、全国から前金で集まった客に、天気が悪くなる「かも知れないから」中止するとは、なかなか言えないだろう。

登山ツアーは知らなかったが、これを企画した会社の問題以前に、
根本には、社会現象としての「パック・ツアー」の問題がある。

パック・ツアー
宇宙ツアーまである時代だから、どんなツアーがあっても不思議ではないし、そのお蔭で、普通はできないような体験を、誰でも手軽にできるようになった。
しかし、これは手作りの体験ではない。産業革命パラダイムの、量産規格品の体験だ。
量産社会のインフラである学校の、修学旅行と同じものだ。
知識は身に付くが、知恵が身に付くとは限らない。

本来、未知の体験をするには、先ず「覚悟」をしなければならない。
その覚悟の上で、情報を収集し、どう備えるか考えながら準備をして踏み出す。一つ一つの状況に全身全霊を集中させて、取捨選択しながら行動を決定していく。すべて自分の責任だ。

ところが、パック・ツアーはこれを全て専門家にゆだねる。自分は居眠りをしていても、言われるとうりに動いていれば、行って帰ってこられるのだ。何か問題が起これば、専門家の責任を追及すればいい。
乗り物や建物を利用するパック・ツアーなら、それも可能だろう。

しかし、個人の肉体と天候という、「生き物」を対象にした規格品まで可能だと思うのは、産業革命パラダイムに冒された現代人の、自然と生命に対する感覚麻痺だ。
経験上級者限定だったというが、その「経験」とは、もしかして、やはり「ツアー経験」のことだろうか。

どんなパック・ツアーを、何度体験しても、自分の頭で考える、知恵と現実感は身に付かない。可愛い子にさせるのは旅であって、「旅行」ではない。

業務上過失致死
先日、ポン太ナビのおかげで、十王峠、闇の中陰体験をしてきたばかりだ。しかし、ナビの道案内はツアーではない。行程の一つ一つは自分で判断しながら行動する。ナビは天候やドライバーの健康状態を判断するわけではない。地図と同じ、ただのツールに過ぎない。

誤って崖から落ちても、ナビを業務上過失で起訴できないだろうし、
仮に崖から飛び出す指示をすれば、製造責任も発生するかも知れないが、そんな責任を考えている間に、自分で自分の命を守る方が先だろう。


十王峠

2009年07月17日 | 探訪・紀行

先日の、「嵐の暗夜行路」十王峠は、かなり大冒険だったらしい。
地図の位置を確かめようと、検索をすると、色々なブログに、その難所ぶりが書かれている。

天気の良い昼間通った人が、「運転に自信のない人は行かない方が良い」と書いていたり、バイクで難所を行く人たちの定番コースだったりするらしい。

知らぬこととは言え、嵐の闇夜に、落ちた枝で埋もれた「けもの道」を、よくまあ、無事で生還できたものだ。

名前が「十王峠」と知って大爆笑した。
十王とは、閻魔さんを始めとする地獄の裁判官達のことだから、
あの峠は地獄の関所で、一つ一つお裁きを受けながら巡っていたわけだ。
あれを抜ければ、中陰(霊)になって49日を巡ったことになる。
帰ってきたところをみると、まだこの世の修行が足りないらしい。

昔の人が、あそこを歩きながらそんな思いに駆られたのかも知れないが、歩くより車の方が怖いだろう。
自動車社会の黎明期は、ああいう道が普通にあったから、
「崖っぷちをすれ違う時は、左右反対にすれ違う」なんていう運転術が書いてあった。

十王峠では、千日回峰は出来なくても、中陰体験ができる。
志ある人は是非お試しあれ。
志の高い人は、さらに、夜、歩いて・・・

でも、たまたま同じような人がいて、向こうから歩いてきたら・・・
腰抜かすなぁ