魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

循環社会

2012年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃、親戚の農家に行くと、裏山を横堀して貯蔵庫にしてあった。
跡継ぎの長男が掘ったもので、夏は涼しいから、ここで昼寝をすると言うので、夏に行って寝てみると、本当に涼しかった。
終戦後は、防空壕の跡など、どこでも、穴が掘られていた。竜巻や落雷が多い近頃の気候変動には、役に立つかも知れない。

省エネ技術として、海岸地帯の都市で、海水から冷暖房を得る話を聞いた時、例の横穴を思い出して、地下はどうなんだろうと思った。
すると、先日、「クローズアップ現代」の、排熱利用の話の中で、地熱を冷暖房に利用する話があった。

『あ、やっぱり使えるんだ』と納得する一方、日本の新エネルギー技術の高さや、豊富さに改めて感動した。
これだけの技術がありながら、原発既得権でがんじがらめの日本は、ほぼ全く無視してきた。

せめて10年前からでも、原発や石油に頼らない技術の実用化に向かっていれば、今ごろは・・・と、悔しさや怒りがこみ上げる。
「資源の少ない日本は原発に頼るしか無いのです」と、まことしやかに国民をたぶらかしていた陰で、これだけの技術が葬られていた。

ワットの蒸気機関以来、250年目の大転換は、消費から循環であり、これもまた、島国精神が役に立つ。
今からでも遅くない。次の250年。人類統合の第三幕は始まったばかりだ。目先の利を捨て30年を見据え、脱燃焼、脱消費の循環社会を目指し、狭くなる世界に、循環技術を発信するクリーンのメッカになろう。
クール・ジャパンより、クリーン・ジャパンだ。

その気になれば
今も、原発を押し通そうとする既得権勢力が、徐々に勢いを盛り返しつつある。
原発再稼働はやむを得ないとしても、あくまで緊急避難であり、時間を区切った全廃約束と引き替えにすべきであり、同時に、新エネルギー推進のための、あらゆる施策が必要だ。

その際、原発既得権勢力にも、気持ちよく更生して貰うため、新産業への転換には優遇すべきだ。金さえ儲かれば文句は無いだろう。
原発技術が何に転換できるのか、具体的にはよく解らないが、軍需技術を民生用に転換した例は限りなくある。小水力発電や海流発電など、すぐ転換できそうな気がするのだが。


広い世界

2012年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

日曜の夜、寝ようと思ったら、サッカーU23のオリンピック前哨戦、トゥーロン国際のエジプト戦が始まった。
この前のオランダ戦に勝った試合を観ていたので、『まあ、エジプトなら勝てるだろう。寝なくては』と、観るつもりは無かったが、テレビを消す前に試合が始まった。

5分ほど見ていると、『ありゃ、エジプト強いぞ』と、思わずテレビに釘付け。しかも、前半は「0-2」の絶体絶命で終了した。
とても、寝ているような場合では無い

後半が始まった途端。宇佐見の2ゴールで、同点。
『何だ、本気を出せばできるじゃないか』と、安心したが、どうも雲行きが怪しい。結局、「2-3」で負けてしまった。時計を見たら3時だ。
『何のこっちゃ』 どっと疲れた。

負けて不愉快ではあったが、ある意味、面白かった。
エジプトもやっぱり中東だ。これが本戦なら煮えくりかえっているかも知れない。モロッコの審判とエジプト選手の、息の合った「妙技」には、思わず笑ってしまった。

日本のファールを取る審判のテクは、一見、エジプトのファールとバランスを取っているようで、ここ一番のポイントが違う。エジプトの選手の「転がり」テクも、さすが、駆け引きの本場。中東だ。

後半、日本が勢いづき始めた途端に、転がった選手は、そのまま起きてこない。ワールドカップクラスの審判なら、いい加減に起きろと指示するのだが、駆け寄って、担架を持ってこさせる。
ここで大きく流れが切れた。

中東の常識は「本気のウソ演技」だ。世界中に「駆け引き」というものはあるが、中東ほどウソを本気でやる文化は少ないだろう。見え見えのウソは、アランビアンナイトの大ボラ話のような文化であり、欧米式の騎士道精神からすれば、卑怯千万な文化だ。

中東で買い物をした人達が話す笑い話で、
ひどい吹っ掛けがしてあるから、こちらも1/10ぐらいで値切り始める。すると、店のオヤジは、カンカンになって怒り出し「話にならん、帰れ!」と、怒鳴る。
「それじゃあ」と、帰ろうとすると、間口に足が掛かったとたん、
「ちょっと待て、いくらなら買うんだ?」と声が掛かる。
しばらく押し問答をして、何度か間口まで行ったり来たりしながら、値段が決まる。

間口に足のかかる、声掛けの絶妙のタイミングが、面白いところだ。
日本でも関西などの値段交渉は買い物の楽しみだが、中東は遥かに芝居がかっていて、見え見えのウソを、互いに解った上で暮らしている。

「勝負事をすれば人がわかる」と言うように、スポーツの国際試合の面白さは、その国の文化が見えるところだ。

今回、予選最下位のエジプトは日本に勝てば、トーナメントの可能性が残っていた。それに対し、引き分けても可能性が残っていた日本は、オランダに勝って、楽勝ムードもあったのかも知れない。

しかし、エジプトの試合ぶりを見ていて、19年前のドーハを思い出した。日本はあと一勝でワールドカップ出場が決まる試合を、ロスタイムで失点して出場を逸した。

出場の可能性が全くないイラクが、予想外にも、死力を尽くして戦かった。今回のエジプト同様、試合中に、2人も3人も倒れたまま起き上がらない選手を、あきれて笑って観ていたが、最後の最後に失点した。

ドーハの悲劇と呼ぶのは日本の甘えであって、あれがサッカーであると気づいた日本は、その後、強くなった。
エジプト戦も、若いチームには良い教訓になったのではなかろうか。

外交音痴の日本が教訓とすべきは、サッカーだけではあるまい。


伝説の人

2012年05月27日 | 占いばなし

本当に全く、国会には興味が湧かない。嫌悪感すらある。
消費税UPは、外圧に押された役人に、さらに押された、つじつま合わせであり、その外圧も、果たして正しい判断か、怪しいものだ。
そこに、ポピュリズムの政局王、小沢「耕耘機」が入り込んで耕し始めたから、もう、ゴミの山をひっくり返したように、腐臭プンプンだ。

現代の西郷隆盛
この、小沢一郎という人は、自動車人間で言えば、典型的なシャーシで、思想の一貫性が無い。また、星占いでも、太陽が天王星と土星と同じ位置にあり、強烈な個性を表している。

プライドが高く、権力欲が強いため、生まれつき、頭を下げるようなことはできない。また、金運が悪いため、政治家としては金策に相当苦労しているはずだ。師匠が金満家の角さんだったのは気の毒だ。

近頃、日本の問題は、強いリーダーがいないことだと言われている。
しかし、リーダーシップなら、この小沢ほど迫力のある人はいないが、問題は、「それしか無い」ということだ。

シャーシと言えば西郷隆盛を思い出す。小沢は現代の西郷隆盛だ。
一体、何をしたいのか良く解らない。
シャーシは、ただ存在を誇示したいだけで動くから、周囲の人が魅力(存在感)だけで、幻想を見るからだ。思想的な実体は無いが、直接会った人は、それぞれが素晴らしい人だと勝手に解釈してしまう。

西郷隆盛という人も、本当のところ、どういう人だったのかよく解らない。原理原則ではなく、直談判でコロリと方向が変わる。
だから、直接会った人は皆、そのオーラに惹かれ心酔し、伝説を残す。
しかし、直接会わない人によって人物像が形成される、情報社会の現代では、言動の矛盾から、むしろ小沢不信が生まれる。
小沢一郎という人も、歴史にその存在だけを残す、偉大な「無」だ。

武市半平太?ヒトラー?
5月23日、ワシントンポストが橋下徹大阪市長の特集をした。
国民の政治不信が第三勢力を押し上げているとして、暗に、戦前の全体主義の萌芽を語っているようだった。
20年の不況に喘ぐ中で大災害を受けた日本は、誰が見ても「危うい」。

歴史を知る人なら思わずデジャブを見るが、占いから見ても当然だ。
橋本市長個人の問題では無い。時代がそこに向かうのだ。しかも、それは、日本だけではない。不況の中で世界的な政治不信が起こっている。

人が時代を創るのではない。時代が人を創るのだ。(実像創造
橋本市長を意図的にヒトラーになぞらえる人もいるが、ヒトラーと比べれば、弁護士でもあり政治家としての素養もあるし、人間としても客観性がある。
とは言え、占いで見ると、両者ともガソリンだ。

ただし、ヒトラーが、ガソリンの塊で、タンクローリーのような危険物なのに対し、橋下はすべての機能を備えたバランスの取れた車だ。
いくぶん荒い運転をする俗っぽい面もあるが、モラリストだ。

両者ともシャーシが無いので、西郷、小沢と逆に、信念や自省心が無く、風向き次第でどこに舞い上がるか解らない。
ヒトラーの場合は大爆発をしたわけだが、橋下は常識が邪魔をして、敵に囲まれ頓挫する。

もう少し言えば、ヒトラーは手塚治虫に似ているが、橋下は麻原彰晃型だ。
手塚治虫は完全にファンタジーの世界だが、麻原彰晃は自分のファンタジーを現実世界と調和させようとした。人に認めて貰おうとした。

ヒトラーが現実(人の思惑)を無視して突っ走ったのに対し、橋下は既存の政治や社会を、自分の考えで直そうとする。謀略では無く選挙に訴えようとする。
ここが、天才と凡人の違いだ。(狂人と天才は紙一重)


文化商品

2012年05月22日 | 新鎖国論

今日は東京スカイツリーが開業したニュースで賑わっている。
地震国である東京都心の建造物としては、大変な高さであり、デザインも美しいが、「世界一、世界一」と、連呼するのは恥ずかしい。

確かに、タワーでは世界一かも知れないが、建造物としては、UAEのブルージュ・ハリーファーに遥かに及ばない。中東では、かつてのニューヨークのように、高層ビル競争が起こっているほどだ。

昔、外国を回っている人が、「華厳滝とか那智の滝とか言うけど、ナイアガラのあるアメリカ人には笑われるだろうなあ」と言っていた。
それは全くその通りで、その時は特に言う言葉が無かった。小国日本は、何であれ、スケールで競って、勝てるわけが無い。

しかし、日本の価値は「質」であることが、内外ともに認知されてきた。
盆栽のように、むしろ、コンパクトな中に価値を詰め込んでいるのが日本であり、日本のものなら、サイズを言わない方が値打ちがある。

サイズだけでは無い、技術が飽和状態になった今では、ハイテク高性能を、新興国の工場で簡単に実現できる。
サイズや性能では勝てなくなった日本だが、サービスやセンスでは未だに存在価値があり、今後とも、劣ることは無いだろう。

文化商品
アニメや日本食など、高度成長で日本人が忘れていた、日本の文化力に、むしろ世界が注目するようになった。
すると今度は、それで商売しようと、政治家や役人が色気を出した。

ところで、今日はまた、ダルビッシュがイチローに完敗したそうだ。
WBCの韓国戦、メジャーデビュー戦、イチローとの対決と、ダルビッシュと言えども、意識すると実力が発揮でき無くなる。

日本人が自分達の生き方に合わせて、作り出したものが持つ価値は、日本人のためにだけあり、それを珍しがる外国人に、「それなら、これなどいかがでしょう」と、売りつけようとしても、それはもう「日本」の価値を失ってしまう。

「名物に美味いもの無し」は、生活風土を切り離して商品化されているからだ。売らんがために、防腐剤を加えて真空パックをすれば、もう、元の味はしない。
日本のものが「クール」なのは、日本人のためにあるからだ。日本のサービス、日本のアニメ、日本の味は、日本に来なければ味わえないのであり、そのまま海外に出しても受け入れられないし、迎合して姿を変えたものも受け入れられない。

日本式サービスもアニメも料理も、現地で現地化してこそ受け入れられてきた。その上で、初めて「本物」の価値が出る。

商売は恋愛術と同じだ。相手に知ってもらい、興味を持ってもらい、惹きつける。
韓国のように、騒ぎまくり裏から手を回し既成事実化するのも一つの方法だが、箱入り日本はそんなテクを持ち合わせていない。

そっと近づき、知ってもらい、黙って誠意をアピールして相手に選んでもらい、精一杯サービスする。
それこそが、実質の魅力を磨く、地産地消の鎖国精神だ。
憬れのマドンナに、厚化粧でナンパしてこられたら、誰でも興ざめするというものだ。

東京スカイツリーは「世界一」を口にすべきでは無い。
招待された王さんも、「世界一だから」が、言いにくそうだった。
大坂の通天閣ではないが、あくまで「エリア」の象徴として文化を生み出す媒体とすべきであり、場合によっては、東京タワーとセットで、「東京姉妹」物語をプロデュースしてはどうだろう。色々面白いことができそうだ。


低視聴率

2012年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

NHK大河「平清盛」が絶不調らしい。
始まる前から、天皇家を「王家」と表現したと非難が始まった。
韓国が日本を貶めるために、天皇を「日王」と呼ぶことに嫌悪感を持っている人達が反応したようで、低視聴率は当然だと囃されている。

この件は、中世史の観点で妥当かどうかともめているが、専門家では無いから、何とも解らない。
ただ、これまで普通に「王朝文化」とか使われてきたことを考えると、「王家」に引っかかる人は、むしろ逆に、韓国の挑発に巻き込まれているのでは無かろうか。

「平清盛」の人気が無いのは、NHKが気負い過ぎているからかも知れない。
このところ、NHKは韓流ドラマに刺激されたのか、ドラマに力を入れているようだ。出来や評判はともあれ、ガンバリは評価に値すると思う。

韓流ドラマに対抗意識を燃やしたと思われるのは、「蒼穹の昴」や「テンペスト」で、さらにオリジナリティとリアリティを追求した「龍馬伝」。現代劇でも終戦当時の荒廃から立ち上がるドラマが多く、「梅ちゃん先生」は大ヒットしているようだ。

「平清盛」は、「龍馬伝」の2匹目のドジョウを狙ったようだが、残念ながら、超難易度の歴史劇に挑戦したようだ。
低視聴率は、ある意味で、これまでのNHKの責任でもある。
大河歴史劇で、ほとんど扱ってこなかった時代だ。大河と言えば、戦国と明治維新だけを繰り返してきた。

確かに源平も、幾つか取り上げたが、大衆に馴染みの深い義経や将門で、歴史劇と言うより、あくまで絵巻や歌舞伎の派手な世界だけだった。

700年の時代転換
時代の大パラダイムが700年間とすれば、武家社会が終わる明治維新を遡る大転換は、王朝社会が終わる12世紀頃であり、源平の争乱こそが維新だった。
ちなみに、これを700年遡れば6世紀。まさに、日本の王朝が始まる時に当たる。

「平清盛」の人気がないのは、源平出現の背景が複雑過ぎ、その上、王朝時代の社会常識に馴染みがない。
明治維新の背景である、江戸時代の価値観や常識は、多くの時代劇で日本人はよく知っているような気になれるが、平安時代は全く外国のような世界だ。

当時の結婚観や恋愛観が、現代と全く異なるように、政治権力のあり方も想像がつかない。長く続いた社会秩序を前提に、腐敗して縺れた権力抗争は、楽しんでドラマを見たい人には「ワケが解らない」。

「平清盛」は明治維新と全く同じテーマのドラマであり、現在の政局混乱の日本とも軌を一にする問題だ。
大転換の時、旧態を変えることができない人々は、まったく違う勢力によって駆逐される。そのことを訴えたいあまり、リアリティーにこだわりすぎて、夢が無くなってしまった。

「龍馬伝」では、納得できた古い写真のような世界が、「王朝という夢」にはふさわしくないと抵抗感が生まれる。
韓流歴史ドラマのように、あり得ない美しさの方が、ファンタジーとして、宝塚劇のような夢に浸れるのだろう。

平安時代の現実を知れば、千年の夢も覚めてしまうが、「平清盛」製作の目的が、「夢から覚めよ」ならば、視聴率にこだわらない番組作りという点でも、成功していると言えるのではなかろうか。


星座現象

2012年05月16日 | 星の流れに

月は引き金
惑星が次ぎの星座に与える影響は25度からと言われている。
つまり、まだ次の星座に入っていない、5度前から影響が現れる。
しかし、実際、観察していると、もう少し前の8度前、先の星座の22度ぐらいから始まるようだ。

現在、土星は天秤座の23度ぐらいで、6月末の22度まで逆行中だが、既に次のサソリ座への影響は起こっている。一方で、天秤座への影響も厳然と存在している。特に天秤座の後半、10月20日前後生まれの人には今が最も影響が強い。

3年近く滞在する土星の影響は、1年前ぐらいから出始めるが、3日弱ぐらいで通過する月は、半日ぐらい前から始まる。
月は「感情」だから、興奮する人や、落ち込む人など様々だが、人の感情は、事故や株価などにも影響するからバカにならない。
月は、他の惑星による環境を、現実化する引き金だ。

4月半ば、火星が乙女座で順行を始めて以来、変容宮の事件事故が続いている。
13日、朝7時過ぎに、広島の福山でラブホテル火災があり、7人が死亡した(中国人4人含む)。翌14日の夜8時頃、福島の温泉ホテルでやはり火災が起こり、こちらは幸いにも死傷者は無かった。

13日の朝は、月はまだ水瓶座だったが、23度で、既に魚座の傾向が出始めている。したがって二つの火災は、月が魚座で引き金を引いたとみて良いだろう。この時、月は「慰安、観光、数字の7」を表す魚座の海王星に重なり、乙女座の火星と、180゜になった。(愛や福も魚座

星座と地名
地域と星座を考察する上で、広島と福島で同じ事件が起こったことは、全くの偶然とは考えない方がいいだろう。
HIROSIMAとFUKUSIMAの音が、外国に与えた印象は強かったと思うが、それと星座の関係は、また別問題だ。

だが意味的にも、少なくとも「島」という日本語の名称は共通しており、島は土星のヤギ座を表す。
また、「広」は「大」であり、水瓶座の事柄だから、月がまだ水瓶座にいた時に火事が起こったこととも関係がある。
しかし、広島県とは言え、実際は福山市だから、福島市と全く意味が重なる。

「福や愛」は印象は良いが、実は、夢を表す魚座の言葉で、魚座の海王星ネプチューンはポセイドン、海と災害の神だ。日本で言えばスサノオがこれに当たる。何れもお人好しだが、激情で理不尽なことをしでかす神だ。
福や幸の言葉は、そうでは無い人が好むものであり、あくまで夢だ。
また、愛には理が無く、愛が情に絡むと災いとなる。

魚座の「福」に、ヤギ座の「山や島」が合体すれば、あまり、福のある地名とはいえない。その魚座を火星が刺激している時に、月が来れば、火事、戦争、殺傷など荒々しい火星の事件が起こる。

今回の火事は、火星が真反対の180゜で他動的だが、「3.11」には、火星は魚座そのものにおり、原因が内在することを表している。
なお、広島原爆投下の時、火星は天王星とともにアメリカを表す双子座にいて、アメリカの興奮と実行を表している。
また、水瓶座の反対180゜の獅子座には、核エネルギーを表す冥王星と太陽がいた。(この点でも、広島は水瓶座と考えられる)

ちなみに、現在、冥王星はヤギ座にいるが、山や島に存在する核を表している。(北朝鮮の核施設や、福島などの他、中国内陸やインドなど)
問題になりやすい山や島の名前の日本の原発は、福島の他は、島根、柏崎、浜岡、(高浜、小高も)


箸と軍拡

2012年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム

ショッピングモールのフードコートで、20人ほどのアメリカの団体観光客が、讃岐うどんを食べていた。全員、箸を普通に使っている。
中華料理店では、昔からアメリカ人も箸を使っていたが、和食ブームで、箸がさらに普及しているようだ。今時、日本で西洋人に「箸使えますか?」と聞く日本人も減ってきた。

高校の時、世間に出て恥をかかないようにと、洋食のマナーを教えられたらしい。色々な人と話していると、私学ではホテルのレストランで、実際に食事しながら指導されたそうだが、公立高校では、ただナイフとホークを並べて、使い方の手順だけ習ったそうだ。
よく覚えていないのは、公立高校だったから、おそらく手順だけだったのだろう。それとも、天性、作法に興味がないからかも知れない。

公式の席では、今でも厳格にルール通りなのだろうが、そういう席には縁が無いし、あっても、決して行かないから、好きこのんでナイフやフォークを使おうとは思わない。まともに持てないくせに、国内であれば、どこでも箸を出してもらう。ステーキの塊でも出されない限り、箸で十分だ。しかも、その方が美味い。

洋式のナイフやフォークなど、たかだか16世紀からで、それまでは手づかみで、手や口をベタベタにして食べていた。狩猟民などは、口に肉をくわえてナイフで切りながら食べるが、ほとんどそれと変わらなかったわけで、そんな蛮族が、ようやく手を汚さずに食べる方法を思いついたのが洋式食器だ。
フィンガーボールやナプキンも、手づかみ時代の名残りだろう。

洋食器が生まれた16世紀には、日本人はとっくに箸を使っていたから、料理も、箸だけで食べられるように考えられていた。
そもそも、日本の食事の仕方は、中国とも違い、銘々膳だから、さらに小口にして盛る必要があった。また、最大の料理はせいぜい尾頭付きだから、これも十分箸で裁ける。

これが、日本人の繊細さのもとになったのか、元々、繊細だから、こういう食べ方になったのかは解らないが、腹八分目と言われ、目で食べる日本料理は、限られた環境で、分かち合いながら生きてきたこととも関係しているように思われる。

中国の知日家は、中国で失われた古代の知恵が、むしろ、日本で実践されていると驚く。分をわきまえる意味の知足が、足るを知るとして、日本では食事にまで取り入れられ、日本料理の質素さになっている。
ところが、アメリカ人どころか、中国人まで、日本料理は腹の足しにならないとバカにする。

布教
だが、この「欲望のおもむくままに腹を満たす」生き方が、絶え間ない争いを生んできたのだ。
そう言えば、日本だって侵略戦争をしたではないかと言われるだろうが、ナチスと日本の違いは、民族浄化と皇国史観であり、民族闘争とイデオロギー闘争の違いがあった。
決して日本の侵略戦争を擁護するものではないが、日本は「種」では無く、日本式の「生き方」を広めようとした。

そういう意味で言えば、現在の米中ともに、「生き方」を広めようという点では、ナチスとは違う「善意?」があるが、東洋中国は皇国日本と同類の古代式秩序を広げようとしている。これではやがて日本と同じ壁に当たることになるだろう。

なんであれ、産業革命パラダイムは、人間の欲望を増幅させた。
富はやがて力の支配を求め、我欲の衝突が、巨大な戦争になる。
先進国が懲りた大戦争だが、初めて富を得た新興国は、懲りていない。
工業汚染も過去の悲惨な戦災も、被害者としか受け止めていない。

先進国の富による被害を受けただけだから、自らが富を得れば、被害者になることは無い。加害者は被害を受けることは無いと錯覚しやすい。つまり、富を持てば自由に軍事力で支配できると、どこかで思い込んでしまう。中国の態度を見ていると、そんな疑いが湧いてくる。

箸を生んだ東洋が、洋式ナイフに憧れる。その結果が日本の敗戦であり、中国が冒そうとしている過ちだ。
西洋人が箸を使い出した今ごろ、蛮族のナイフなど使う必要は無い。中国も軍拡より、日本とともに、西洋料理を箸で食べる「文化」の布教をしてはどうだろう。フランス人は日本の「洋食」を賞賛している。


辰年竜巻

2012年05月12日 | 占いばなし

今年は辰年のせいなのか、竜巻が話題になっている。被害に遭った人からすれば、「話題」どころでは無いのだが、世相という観点から見れば、そう言うしか無い。

世の中に、災害災難は、常に多様に発生しているが、話題になりやすい事柄と、そうで無い事柄がある。それも、同じ出来事でも、集中的に話題になる時と、全く見向きもされない時がある。
それが、世相というものだ。

子供の頃、病院から帰ってきて、「鼻が悪い人って多いなあ」と言うと、父が「お前、耳鼻科に行ってきたんだろ」と大笑いした。
一部だけを見ていれば、世の中すべてをそうだと思ってしまうものだと諭された。

世相は、この耳鼻科の待合室のようなものだ。何か特殊な事柄に目が行くと、世の中の「話題」が、それ一辺倒になってしまい、他のことが忘れられてしまう。
「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬に噛みつけばニュースになる」と、探し回るマスコミは、人と犬がいるだけで、「犬を咬むぞ」と騒ぎ立てる。

もともと、井戸端会議と言うように、恣意的な理解をしたがるのが人の常だ。それがシステム化したのが、マスコミであり、さらに、近年のネット社会は巨大な井戸端だ。「話題」は常に、稲穂を渡る風のように、どこかに関心が集中して動いていく。
竜巻は正に空気の集中だが、世相とは人々の意識を渡る竜巻だ。

神話は竜巻
人が、恣意的な理解をしたがるのは、五官で生きている動物から、思想を持って行動する人間になったからで、「こうだから、こうする」と、行動の根拠となる観念を求める。

原始的で視野が狭いほど、考慮する事が少ないから、簡単に結論を出す。知識の少ない原始時代、行動と納得のために神話が生まれた。神話は、少ない知識で世界を理解する智恵であり、妄想でもある。
現代でも、五官や感情で生きる人は、早く結論を「感じ」たいから、最初に出てきた現象や事情が、簡単に先入観という神話になる。

そういう人が集まっているところに、「実はこうだ」と、解説や動機付けの神話を投げ込めば、それで、わっと騒ぎが巻き起こる。
日頃は知的な人でも、情報を遮断され、自分の世界を失うと、噂という神話に取り込まれることもある。

そのような知識人は、始めからその集団の神話に共鳴し洗脳されている「その世界の知識人」であって、実は、日頃の見識も集団のものであり、確固たる自分の定見に基づいているわけではない。

集団の神話は、オームのようなカルトだけでは無い。戦前の日本や、今日の情報操作国の秀才もそうであるし、あるいは、一つの時代のパラダイムに取り込まれた我々、時代の子も、そうなのかも知れない。

もっとも、必ずしも、神話が害毒ばかりとは限らない。
大災害の中で途方に暮れ、ともすれば、生きる意欲を失いそうになる時、互いに感じ合い励まし合って、支えとするものも、神話だ。
いま、日本を支えている「絆」という意識は、知識も論理も関係ない、「我々は一つ」という思いから生まれた神話だ。

論理も根拠も無い意識の塊が、世相を作り上げる。
今年は辰年だが、「辰」とは振るわすもの。音や光はあっても実体のないもの。あるいは言葉を生む唇を表す。
目にも見えない空気が作用する風や竜巻は、家を吹き飛ばせば電気も起こす。口は災いの元とも言えば、口八丁は労せずして富も築く。
口一つが世界の運命を変えることもある。

無数の口が世相をつくり神話を語る。何の実体も無い神話が竜巻より遥かに大きな世界を動かしていく。辰は世界を振るわせ震撼させる。


横暴長子

2012年05月10日 | 兄弟関係

遙か昔の若い頃。美味しいカレー屋さんがあるから驕ると言う40代の人とその友人に連れられてカレーを食べに行った。カレーが出るなり、その人は、目にも留まらぬ早業でソースを全員に掛けた。

思わず「あ、あっ!」と、声を出してしまった。
その人の友人は、様子を見て、顔をしかめながら、
「あんた、そんな勝手なことをしたら・・・」と、嫌そうに言う。
本人は、意味が解らず、「・・・」キョトンとしている。

ソースを掛けた人は、O型、6人兄弟の長子長女。
たしなめた友人は、兄と弟妹がいるA型、中間児長女。
自動車人間では、ご本人がエンジン。友人はボディー。

今にして思えば、絵に描いたような情景だ。
6人兄弟の長女などというものは、どれほど専横が必要だったか想像に難くない。一々、幼い弟妹の意向など、聞いていられない。
すべて、「こうする」「こうしなさい」でなければ何も解決しない。

まして、O型となれば、リーダーシップを存分に振るってきたはずだ。その上、エンジンは、「前へ、前へ」「やるやる主義」だから、あっという間の、ソース事件となった。
中間児の友人は、いつも、こんな調子でも、とりあえず事が前に進むから都合が良く、付き合いやすい。だからこその友達だ。

一方で、エンジンとボディーの関係は、「勝手とガマン」。O型とA型も同じ、「強引とフォロー」の関係だ。
この場合、一方的に、弟妹型の友達の方が損をしているように見えるが、実は逆で、気持ちは損しているようでも、結果的に、実利は友達の方にある。兄弟姉妹も、実際こんな関係が成り立っている。

変な例えだが、嫌な客の相手をしている飲み屋と、良い気分で帰る客は、どっちが得をするか、のような話だ。
ガマンにはそれだけの利益があるが、お客様は神様と言われながら、客の多くはたいてい陰で嫌われているものだ。

大陸兄弟と一人っ子
長子中国は横暴で、冊封国には、常に怖くて嫌な国と言われながら、援軍を頼まれると、我がこととして出かけていく。
しかも、その結果、中国の王朝が衰退した例は少なくない。

今、日本で、中国に対する好感度が非常に悪くなっているのは、餃子事件と尖閣問題だが、一人っ子日本は、「黙って言うことを聞け」の態度に慣れていない。また、中国は相手を尊重することに慣れていない。
古代ならいざ知らず、どうにも、日本を冊封国と勘違いしている。

面白いことに、歴史的に冊封国として中国と付き合ってきた朝鮮半島は、この辺りの逆らい方のコツを心得ている。加減を見ながら逆らってみせても、決して虎の尾は踏まない。(これは正に兄弟関係だ)

ところが日本は、韓国が押せば押すほど引いてくれる。始めは加減を見ていた韓国も、日本があまりにも引くので、すっかり馬鹿にして、ライバルだと言いながら良いカモにしている。
挙げ句の果てに、その日本自体が、いつの間にか韓国に巻き込まれて、韓国をライバルだと言い出した。

これでは、韓国はもとより、中国が日本を完全に「旧冊封国」扱いしても仕方がない。旧冊封国なら、生意気に逆らうなと言うのも当然だ。

事実がどうであれ、歴史から現在の国家関係を見ること自体がおかしいのだが、少なくとも大陸の「古い国々」は、そこから頭が離れないようだ。


黒船時代

2012年05月08日 | 大転換

国際人材育成について、産学会議があったそうで、秋入学や、通年採用を拡充したりする話をしたそうだ。一方で、企業は即戦力として、海外からの留学生の採用を広げている。

時代というものは、こうして徐々に動いていくものなのか、そうしても間に合わず、ある時ドカンとドンデン返しが起こるものなのか。
歴史を見ていると、たいてい、間に合わずに、ある日、突然ひっくり返るもののようだ。

犬は、興奮したり緊張したりすると、残っていた餌を食べたり、それが無いと、器を舐めたりすることがある。脳科学的な仕組みは解らないが、緊張を、日常行為で緩和させようとしているのだろう。

人間も犬も大して変わらない。非常事態が起きると、多くの人は、逃げたり立ち向かったりするよりも、反って、日常を続けようとする。
平和な日常感覚を感じることで、安心しようとするのだろう。

今、時代は、明らかな「大転換」の中にある。過去とはまったく違う時代に入ろうとしている。しかし、異常事態は解っても、「ゼロからの出発」は、誰も考えられないようだ。国際人育成の意味も目的も解らず、過去の手直しをしようとしても、砂上の楼閣に終わる。
一度、裸にならなければ、冬物の上に夏物は着られないのだ。

黒船を前にして
84年周期の3倍の、250年の大転換の意味が解らないから、産業革命パラダイムの枠の中での、手直しの議論しか始まらない。
幕末の幕府にバカが集まっていたわけでは無い。選りすぐられた秀才がいたはずだ。しかし、徳川幕府250年の仕組みの中から出た秀才であり、仕組みそのものの老朽化の結果だった。

産学会議のメンバーも、現代の秀才達だが、それを生んだ学校も企業も、産革パラダイム250年の仕組みであり、それが全く通用しない時代を前にして、何をして良いのか分からない。
だから、今までのように、入学時期や採用基準をひねるばかりだ。
滑稽であり、憐れであり、悲惨である・・・としか言いようが無い。

極論すれば、今や、大学も企業も解体するしか無いのだ。
産学何れも、産革パラダイムに適応して来た形態であることを悟り、来たるべき新パラダイムを見据えて、そこから逆に、組織を組み直し、その組織にマッチする人材を求めるしか無いのだ。
今までの、冬物のボタンを後ろにつけても夏物にはならない。

今から始まる、250年の新パラダイムは、
大航海時代に始まる、「人類再統合」の千年(750年)の最終章だ。
順風、波乱、如何なるプロセスにせよ、民族や地域国家の枠は完全に無くなる。近年のナショナリズムの高まりも、消滅前の最後の輝きだ。

産学が大転換の動きを無視した、状況対応の手直しでお茶を濁していたとしても、就職難は若者の意識を変えつつある。
産業界が軸足を海外に移せば、自動的に、過去の就職システムが機能しなくなる。

面白いことに、産学協同で歩いてきた大学が、再び、真の学問の場になることを迫られている。
象牙の塔でも無ければ、企業の予備校でも無い。新パラダイムの世界に送り出す人材育成であり、大学は最も国際化したカオスにならなければならない。

産業のグローバル化に平行して、学術の同時カオス化があり、その一方で、文化の徹底した地域化(新鎖国主義)が必要になる。

産革パラダイムの中で、すべてが一体化してきたかに見えるものが、実は今からは、むしろ、それぞれのスタンスを鮮明化しなければ、人類としての一体的な発展が無いことを告げている。


五月の雨

2012年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム

原発の絶えて日本になき朝は五月の雨も清々しきかな

スリーマイル島以来30年夢に見た、原発全面停止だが、今このまま全面停止は現実的では無いと思っている。
10年ぐらい掛けて、全力で代替エネルギーを構築し、その間に廃炉を進めていくしか無いと思う。

返す返すも悔しいのは、せめてもう10年前に、原発政策を転換していれば、今ごろは、産業としても世界をリードできていたかも知れないし、フクシマの惨事と汚名を被ることも無かったろうにということだ。

ただ、過ちては則ち改むるに憚ることなかれ・・・だから、あくまで、原発は全廃が道理だ。
日本だけ全廃したところで、風上の中韓が推進すれば、何の意味も無いが、日本が脱原発に成功し、経済的にも成功すれば、中韓はパクリの本領を発揮するから、やはり日本の問題として専念すれば良い。

改むるに・・・と言っても、何が何でも今すぐ全面停止は、感情論だ。
「今すぐ止めてくれ」と言う気持ちは良く解る。

そう言っている人には、解ってもらえると思う。
30年そう思いながら、耐えてきた気持ちがどんなものか。

思わず」、「原発反対


地観天観

2012年05月05日 | 占いばなし

「地相天相」など、ここで、事相と星の関係を、あれこれ言っているのは、「後付けで、最もらしいことを言う」ためでは無い。

星が示す周期律の信憑性を考察し、未来のレーダーである星の読み方を解ってもらおうとしてのことだ。
過去の歴史や今の星の動きを見ていれば、将来どのようなことが起こるかは簡単に想像できる。

しかし、それはあくまで予測や想像であって、事実では無い。しかも、それは、モザイクが掛かったように、焦点が定まっていない。
時には「見えた!」と思うことがあっても、錯覚かも知れない。

ただ、重要なことは、赤い実像が青く見えることは無いと言うことだ。
そのものズバリではなくても、「大体そこに何があるか」が分かれば、備えることができる。
「この2、3年に日本に巨大な災いが起きる」と公に分かっていれば、東日本大震災のような悲惨なことは、あらかじめ回避できたはずだ。

占いや予言と言えば、ほとんどの人が、何時何処で何が起きるかをズバリ当てることだと思っている。しかし、こういう「予言」はハッキリ言えば「当たらない」。
たまに当たることもあるが、それは恒常的に出せる結果では無い。
これは信仰であって、科学では無い。

占いが科学では無い?そんなの当たり前じゃ無いか。と思われるかも知れない。確かに、外れても厚かましく、次々とズバリ予言するから、結局は、「占いとはいい加減なものだ」ということになってしまう。

ズバリ予言は偶然だが、トレンド、傾向の予測なら、全くのデタラメとは言い難いことを、何とか解ってもらおうとしている。
無限にある将来の可能性から、一つの傾向に絞り込んでも、決して占いでは「的中」したことにはならない。しかし逆に、何らかの「実体の存在」なら、浮かび上がらせることになるかも知れない。

そこに確かに、何かが存在していることさえ解ってもらえれば、そこから「学」が始まるかも知れない。そんな淡い期待もある。
絞り込んだ可能性から、さらに一点に絞り込むことは、あまり意味が無い。

モザイクの向こうに見えるものが、ウナギか穴子かを当てれば、人をビックリさせることはできるかも知れないが、外れれば、「何か長いものが見える」こと自体が信じてもらえなくなる。そういうことだ。

だから、例え見えたとしても、決して軽々しく「当てっこ遊び」をしてはいけないと考えている。

今現在、あるいは歴史の事実と星が、いかに相関関係があるか。そこを解ってもらえれば、個々の人が将来を予測することができるはずであるし、それが一般的なコンセンサスを生めば、やがて、周期律の認識や研究が発展し、人類に役に立つ時が訪れるのではないか。

そのためには、占いに関わる者は、売名や金儲けに占いを使ってはならないと思っている。(金儲けとは余剰金のこと)


地相天相 追記2

2012年05月04日 | 星の流れに

日本だけではない。世界中で事故が起こっている。
関越自動車道の事故も不可解な事故だ。
「火星180゜海王星」の影響は、社会現象としては「地相天相」「地相天相追記」の通りだが、東京に近いせいで報道合戦が大きい。

この事故に絡む名前を見てみると、これもやはり星を語っている。
関越、河野化山、陸援隊、ハーヴェストツアー、犠牲者7人・・・

「関」も「越」も魚座。関東は大和朝廷の「東の守りの関所」以東の意味で端境を表すから当然、「魚座」。(「越」→魚座真っ盛り

河野は魚座と乙女座がミックスした名前。化山の「化」も当然魚座。
「陸援隊」は「海援隊」をもじったものだろうから、魚座か、その反対の乙女座。ハーヴェストは「収穫」だから、当然、農業の乙女座。「7」は魚座・海王星の数。

こうしてみても、乙女座と魚座の名前、事柄に集中しており、この事故が、乙女座の火星、魚座の海王星の事故であることが解るが、このことの裏には、職業、医療と観光の問題が隠れていることも暗示している。
また、魚座は「ある世界から別の世界の境界」だから、国籍問題も表している。

なお、ノルウェーの水泳選手の急死なども魚座(水泳)の事件だが、個人的な運も関係しているようだ。


ウグイス

2012年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム

引っ越してきた頃、裏に竹藪があって、年中ウグイスが鳴いていた。
『うわーっ、自然がいっぱいだあ!』と、喜んだ。

そのうち、竹藪の向こう側から造成でだんだん竹藪が無くなり、
『ウグイスの宿、大丈夫かなあ?』と気を揉んでいるうち、とうとう、その竹藪も無くなり、新築の家が建った。
裏が竹藪だと何となく不安だったが、人が住むようになって、とりあえず不安は解消した。

ウグイスの宿を心配していたが、やはり、竹藪より梅なのだろうか?相変わらず、毎年鳴いている。大きな竹藪が無くなり、定まった舞台が無くなったものだから、「流し」になったようで、あちこち、どこからでも聞こえてくる。

ウグイスは毎年、春から鳴く練習を始めて、秋頃には絶頂になり、冬を過ぎるとまた忘れて、春、改めて練習を始めるのだそうだ。
だから、春になると、朝から晩まで練習をしている。
毎日、鳴きっぷりが違い、確かに、日増しに上手くなっているような気がする。

これだけしょっちゅう鳴いているのに、姿を見たことがない。
ウグイスによく似たメジロは、杏の花が咲くと群れを成してやってきて、2mくらいまで近寄っても、夢中で花をついばんでいる。
しかし、ウグイスのように美しい鳴き声は聞けない。

今朝6時頃、寝ていたら、ウグイスの鳴き声で目が覚めた。
閉め切っている窓の外にいるらしく、まるで枕元で鳴いているように聞こえる。
まだ、へたくそな鳴き声を調整中なのか、
ケ、ケ、ケキョ、ケキョ、キョ、キョキョ、ホー、ホー、キョ、ケキョ、ケキョ、ホー、ホケ、キョ、キョ、キョ・・・

まだ寝ている頭の中が、ガシャガシャで、ケキョケキョになって、もう寝ていられない。河原のトランペット練習どころではない。

とうとう、諦めて、起きてしまった。
ウグイスのおかげで早起きだ。これからは早起きをしよう。
あー、眠い