魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

夢から真

2014年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

少子化対策が叫ばれて久しいが、この話を耳にするたびに、複雑な気持ちになる。

先ず、少子化を問題にすること自体が不可解だ。爆発する地球人口の不安の中で、経済発展のためだけに人口を求めるが、それは、過去250年の産業革命パラダイムの踏襲に過ぎない。しかも、その方法はすでに破綻している。

この250年、次々と地域文化を破壊し、好況と恐慌、そして戦争を繰り返し、その浮かれ騒ぎで地球資源を浪費し、環境を破壊して「発展」してきたが、そのフロンティアも、ネタ切れの崖に近づいている。

産革パラダイムは誰かの犠牲に基づいて成り立つ消費システムだから、犠牲が無くなる時が、大量生産の自転車操業が終わる時だ。
人口増加策は、その自転車操業を続けようという政策だ。
そこから脱却して人類の新しい生き方を模索する話ではなく、
カンダタの糸の奪い合いをして、地獄に墜ちようという話だ。

背に腹は代えられないではないかと言う声に、百歩譲って、
その人口増加の方法議論を聞けば、先ずは、手っ取り早く増やそうと移民の話が出てくる。
日本文化の活性化という点では、移民にやぶさかではないが、徹頭徹尾、安い労働力としか視ていない。移民を増やそうというなら、先ずは日本人の共生感覚の育成と、異邦人受け入れの環境整備が必要だろうが、自分達は変えることなく、使い捨て労働力としか考えていない。

一方で、日本に生まれる子供を増やす話となると、育児対策は後手後手だ。学童保育を含め、育児施設は全く足りていない。
せっかく生まれた子供さえ面倒を見られない現実では、子供を産みたくなるような意識環境は、いっこうに広がらない。

子供を産みたい人はたくさんいるが、子供を持つ条件を何時まで経っても緩和しない。子供を持つ条件を、現行の婚姻に限定している。
結婚をしなければ子供を持ってはいけないような、時代錯誤のきれい事を前提として、出生率を論じ、問題を結婚奨励にすり替える。

これら、言い出したらきりが無い矛盾した現状をおざなりにして、無いものねだりの人口増加論だ。

人口増加を望むなら、社会概念の根底的見直しを考えるしかない。
一夫一婦の婚姻も、家族や福祉の意味も、現状の固定概念を捨てて考え直してみる必要がある。

超大家族制度(発想の大転換)
古代から子供は大家族が養育してきた。一族という小さな社会だ。
それが、産業革命によって、国家や企業という、一族に代わる場が生まれ、大家族が崩壊し、個人単位の家族、核家族社会に変わってきた。
その核家族と国家の相互的繁栄が、国力を担った。

しかし、その核家族も、基本は古来の大家族の概念に基づくものだ。
今日では、家電や情報化などの環境変化によって、夫婦や親子の家族意識が消えかけている。その片鱗が、個食であったり、同性婚であったり、晩婚化や離婚の増加に表れている。

こういう時代に、それでもまだ国「家」を続けようと言うなら、
国家そのものが、超大家族になるしかない。
これは、全体主義でも共産主義でもなく、むしろその真逆で、個人のために国家がある。家族は国の礎ではなく、国が個の礎となる。
個人が国家に奉仕するのではなく、国家は個人の為にあり、それを支えるために、個人は直接、国家に納税などの対価を払う。

だから、国家の権限は個人に対して限定的で、婚姻や、家族関係に関知しない。日本で千年以上も続いた戸籍制度の縛りを解き、婚姻を前提とした財産や納税をなくし、個人相続も禁止する。
(ただし、一族の財産などは、法人として継続する道もある)
婚姻や親子関係のあり方は、好みに応じて自由に選択すればよい。

基本は重税高福祉だが、個人相続が無いので、空き家や老人の溜め込みが無くなり、経済が活性化する。
子供の養育や老後の介護は、基本的に国の施設で責任を持ち、自分で面倒を見るという人には、その分、逆に減税、あるいは還付する。
同様に、年金が要らないという人には、高額所得者以外は免税する。

国家が全面的に個人の面倒を見ることが前提だから、重税になるが、自分で責任を持つ人には事柄に応じて減税していく、減点法だ。
困った人を救うのではなく、始めから救命ボートに乗って出発し、自由を求め、やる気のある人は、どんどん降りる。逆の発想だ。

あらゆる縛りを逆転させる。結婚を前提で子供が生まれるのではなく、子供の面倒を見たい親は面倒を見、結婚したい人は結婚する。
基本は、親は子供の面倒を見ず、男女は結婚に関係なく子供を持つ。
そんなのは嫌だという人は、自分の家族、親子関係を作れば良い。
つまり、やる気のある人には個人の自由が保障され、能力気力を失えば、安全が保証される。

この先も、産革パラダイムを前提とした人口増大を望むなら、国家そのものが、こうした超大家族になるしかない。
超大家族社会は、古典的な人間関係の秩序が無いから、老若男女が対等の社会になる。
もともと、産革パラダイムは、伝統的な家族を崩壊させる仕組みであり、それは、歴史が人類に求めていたものなのだろう。

原始回帰か未来人類か
産革パラダイムによって、物質は享受したいが、古来の「人間らしい」生き方も守りたいと言うなら、人口増加とは真逆の、伝統的親子関係の秩序のまま、核家族で社会を支えていくことになるが、それでは産革パラダイムには、生き残れない。

一方でもし、古来の家族関係や秩序にこだわるなら、産革パラダイムから脱却するしかない。
労働力としての人口増加を求めず、5000万人を目標とし、新型の鎖国(文化鎖国)をし、農業中心の古代アルカディアを目指す。
スイスのように皆兵で、永世中立し、ブータンのように国民総幸福を目指し、循環型社会で文化学術のテーマパーク、ジパングになる。
海外資産をこれだけ持っている国なら、不可能ではなかろう。

超大家族社会であれ、古代アルカディアであれ、現状改革では決してあり得ない、ただの夢でしかないが、夢の実現を考えて踏み出さない限り、いずれ、全地球的、産革パラダイムの大崩壊と共に、砂となって吹き飛んでしまうだろう。
まあ、その前に、ジジイは風となって、消えているのだが


親の神話

2014年04月28日 | 兄弟関係

兄弟関係による人格の影響として、案外、重要な問題は、親子関係に及ぼす兄弟関係だ。職場などの上下関係にも通じる。
これは、親が子供の兄弟関係に及ぼす影響のことでは無い。

親子であっても、兄弟の関係が生ずる。
例えば、親が末っ子として育った場合、子供の長子にとっては、末っ子に対するのと同じになる。問題は、その末っ子が親としての権力を持っていると言うことだ。職場の上下関係においてもしかり。

末っ子は、長子への憧れから、親分ぶりたがる。長子の責任感や用心深さが無いのに、大言壮語や命令だけは強力に発し、逆らうと激怒する。子供の時なら、間違った主張をしても、無視されるか、押さえられるか、諭されるので、結果的に、それは撤回されることになるが、親や上司としての発言は、止める者がいない。

この被害者になるのが長子だ。
言われた意見の中身を吟味する長子は、反応が鈍い。空気を見ないで考えてしまう。しかし、弟妹型は「親分が白いと言えばカラスも白い」と対応した方が、その場を上手くこなせることを知っている。

こうしたことの繰り返しの中で、親は子供の長子を付き合いにくい、むずかしいヤツだと思い、長子はある時期まで何とか従おうとした結果、突然、大人になり、親を見限る。
一方、弟妹は、「地震、雷、火事、親父」の言葉通り、オヤジを恐れ尊敬し、母親を恋い慕う。あるいは、恐れないまでも、親に従う。

親が長子の場合は、弟妹にはさして影響は無いが、長子には、「君子の交わり」として、良い友達関係になる。対等の話ができる様になる。
子供が親を尊敬する場合も、長子と弟妹では意味が違う。

長子は親の短所も理解した上で、友達を見直すかの様に尊敬する。
弟妹は、氏神の神社を拝む様に尊敬する。つまり、始めから偉い人だから尊敬すべきだから奉る。

このスタンスの違いが、親から聞いた話に対して、懐疑的か妄信的かの違いになる。
例えば、第三者から、「昔、おまえのオヤジに騙された」と言われた時、弟妹なら、その第三者を頭から否定するが、長子は、あり得る話として、「それはどういうことですか?」と、確かめようとする。
中間児も、似た様な反応をするが、内心は親を信じているので、相手が何を言いたいのかと、沈黙して様子を見る。

ただし、当の親が、子供の頃からそういうことばかりしてきて、周囲からも常に、批難されたり、からかわれたりしていたのなら、簡単に認める。それは面白い話だからだ。
弟妹が、面白ければ良いと思うのは、それが、人の和を作り、生きやすい環境を作ることだと思うからで、筋を通すことより、生き残ることの方が大切であると心得ているからだ。

親の教え
親の教えは正しく、有り難いものだと思うのは弟妹型で、守るべきものだと思っている。ただし、実際には、弟妹は外部の人間関係にも影響されやすいので、それを破ることが多い。
逆に長子は、親の教えを疑いながら聞き、常に批判的だが、結果は、曲がり曲がって同じような結論で生きることが多い。

長子であれ、弟妹であれ、子供は、親の過去を知るよしも無いから、親の昔語りを真に受けてしまう。これは、死ぬまで信じていることの方が多い。

しかし、人間は誰でも自分に都合の良い、思い込みの世界で生きているから、子供は、親の言うことは話半分で聞いた方が良いし、できれば、客観的事実に照らして自分なりに再確認しておく方が良いだろう。たとえその結果、受け入れがたい事実に出遭ったとしても。

親の話は、子供にとっては神話だ。しかし、神話と史実は違うという事であり、自分の人生を誤らないためには、史実に基づいて考える必要があるからだ。


聞き流し

2014年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム

25日のニュースでは、三つの話題があった。
TPPと、福知山線事故と、オバマ大統領だ。
労働力不足と働き方の話もあったが、これもTPPと絡んだ話だ。

硬直化
福知山線事故から9年。前日の国際共同制作ドキュメントでも、日本文化が生んだ事故だと指摘していた。韓国とはまさに真反対の、クソ真面目故に起こった、これも「文災」だ。

JR西日本は、遡れば、日本軍崩壊の道を彷彿させる。合理性を無視した、おごりと精神論は、日本の大組織を常に蝕み麻痺させる。
今あふれるリタイア組の言うことを聞いていると、果たして日本企業は復活できるだろうかと、不安になる。彼らが退職しても、企業の体質は成功体験を払拭できない。ますます硬直化している様な気がする。

ビジョン認識
TPP交渉が動かないが、どうも、日本政府は大きな勘違いをしているようだ。TPPを、単なるFTAの延長、国家間の問題だと思っている。
むろん、アメリカも国益のために動いている。しかし、少なくとも発起人のアメリカはTPPの大義名分を良く理解し、交渉のツールとして、貿易障壁の撤廃を掲げ、日本に圧力をかけている。

一方、日本は関税の数値ばかりに翻弄されている。国内対策も後手だが、何より、TPPの構図を良く理解していないために、関税よりも重要な、ISDS条項のような、支配権問題が全くおろそかになっている。

TPPが近代国家間の経済戦争を超越するビジョンに基づくものであるという大義でアメリカが押してくる時に、支配権を譲らない為には、その大義を逆手にとることが必要だ。
超国家経済ならば、関税の様な各論より、何のルールに基づくのかこそが骨であり、アメリカは関税という「肉」を切らせて、支配権の「骨」を切ろうとしている。

日本が守らなければならないのは「骨」であり、そのためには、「肉」を全く捨てても、「骨」を切ろうとする相手の刃の先に、支配権の逆提案という鋭い刃で切り込まなければならない。関税妥協で喜んでいては根こそぎやられる。それは、TPPのビジョンが理解できていないからだ。

TPP理解を前提で、「関税は撤廃しましょう、しかし、超国家物流というなら、それを仕切る共同の機関が必要でしょう」と、相手の言い分の先を行き、支配権を譲らないことだ。
日本は、果たして、このスタンスをとれるのだろうか。

オバマ大統領
訪日で「尖閣」を土産にし、訪韓で「慰安婦」を土産にしたオバマ大統領。相変わらずの「Yes We Can」だ。口から生まれた口太郎。

三碧のアメリカ大統領の二人までもが、グダグダで一期のみだった。間違って二期を勤めて、世界中をグダグダにしている第三の男。
三碧の大統領が務まらないことが逆に、アメリカという国が、思われているよりも堅実な国であることを表している。
現実と結果を重んずるアメリカ人は、もはや、オバマに失望している。
むろん世界中が、その軽さに浮き足立っている。

「尖閣」も「慰安婦」も、その場その場の受け狙いでしかない。こんな言葉を真に受けて動いた者が、一番の被害者になる。
それでも、スピーカーから流れてくるのは「アメリカ大統領」のお言葉だ。この言葉の軽さを承知の上で、自己責任において活用するなら、まんざら無意味ではないのだろう。


賢しい人(2)

2014年04月25日 | 兄弟関係

韓国(朝鮮半島)の国家行動は、兄弟関係の末っ子とあまりにも一致するので、逆に、末っ子の人格を考えるのに、韓国を観察する方が早い様な気さえしてくる。

元気は良いが、自己責任、自己コントロールの意識が希薄で、何かまずいことがあったら、誰か止めるだろう、助けてくれるだろうと、何でも思いっきりやる。顔色を見るのは早いが、自分で頃合いを見ながらということが無い。
この点中国は、様子が悪ければ、自分で止める。

長子から見ると、信じられない様な大事故にしょっちゅう遭いながら、常に九死に一生を得ている。そして実際、助からない事件や事故に遭って命を落とす人も少なくない。

それを見かねた長子が、止めたり助けに入ったりすると、むしろ、その長子の方が命を落とし、弟妹はころりと生き延び、被害者の様な顔をしている。長子の例は、オウム事件の仮谷さん、朝鮮戦争の中国だ。

末っ子は目的に対して方法を考えない。状況に反応して動くから、価値の比較、優先順位などは無い。目にする物すべてに同レベルで反応する。目的よりその場の喜怒哀楽の方が重要で、他人にもそれを求める。

現象の振幅が激しい方が解りやすいから、愛憎表現が事の本質だと思い、反応が鈍い人間は、冷たい人か、バカだと思う。
人の反応で生きる末っ子は、人に笑われることが、結果として有利であることを知っているから、「憎めない」人となり、お笑い芸人も圧倒的に末っ子が多い。

本質よりも表面で考えるから、傑出した人や事に対し、
「やはり、優勝して誇らしいでしょう」とか、「流石ですね」と声をかける。もちろん、自分が業績を上げるとたいそう得意になるし、おだてられると素直に喜ぶ。しかし、喜んで調子に乗り、たしなめられた経験から、今度は、褒められたら謙遜するものだと思い込む。
さんまの「謙遜せえ!」が、それだ。

また、自分がしかるべき役職に就いたりすると、「あいつは今、何をしているんだ」と、旧知と比較しようとする。これは、自分をも含めて、何事も相対的にとらえるから、比較対象が無ければ、自分の成果のレベルを確認できないからだ。

これに対し長子は、自分の中の目的に向かって生きている。結果が出ても出なくても、他との比較ではないから、「流石ですね」とか言われても返答に困る。「流石」は客観的な既成事実だから、自分の内面の問題を、他人事にされても実感がわかない。

中国は長子であり、日本は一人っ子の長子だから、韓国から感心されたり、目標にされたりすると、対応に戸惑ってしまい、何か欲しいのかと思い、「お一つどうぞ」と、頼まれてもいないマンジュウを別けてしまう。これは日本だけでなく、中国も韓国と競争する気はない。

長子から見ると、末っ子が自慢に来ても、少しも悔しくない。大抵キョトンとして、内心、人格を軽蔑する。自分の世界とは違うと強く感じるからだ。
ところが、末っ子に自慢された末っ子は、負けん気を起こして直ちに反撃し、舌戦になる。末っ子の好位置を奪われた窓際の中間児は、ストレートに反撃に出ず、具体的に引きずり下ろそうとする。
バシッと、グーの根も出ないことを言うか、裏工作をする。

中間児の国はロシアだが、アメリカは中間児と末っ子の両方の要素を持っている。
アメリカの訴訟社会は、長子的な自戒自重が無いからであり、韓国の泣き騒ぎの訴えと原点は同じだ。

訴訟を良しとしない儒教的発想は、賢者の存在を前提としているが、実際には権力による抑圧であり、独善的な長子の国には馴染むが、朝鮮半島では泣き叫んで訴えるデモクラシーに変化した。
なお、どこでも見かけるが、家族連れで泣いている子はほとんど末っ子だ。


賢しい人(1)

2014年04月22日 | 兄弟関係

道をたずねた時、事細かに説明をする人がいる。
それを一生懸命聞いていると、憶えきれなくなり、何処に行けば良いか解らなくなる。
最後に問い直す。
「ようするに、この方角ですね?」と、指を指す。
「・・・あ、さあ・・・え、ええ、そうですね」と、面食らった返事が返ってくる。

細かい説明をする人の多くは、自分の皮膚感と記憶だけで、場所を憶えており、その体験を再現しながらでなければ道筋を説明できない。時には、曲がり角に繋がれた白い犬まで出てくる。
すごく良く知っている様に聞こえるし、自分でもそう思っている。

こういう人は、基本的に方角オンチだ。空間感覚が無いから方角も無い。だから、目的地を目指す重要ポイントが解らない。
事柄を並べた道順は前後左右の二次元的視野であり、方角は上からの視線で見る三次元の俯瞰視野だ。

人生の道も、二次元で歩む人と、三次元で歩む人がいる。
目の前の現象と知識で生きる人は二次元であり、方法論の把握で生きる人は三次元だ。
二次元人の言動は、微に入り細に入り、漏れがなく、美しく極めて聡明に見える。逆に、三次元人の言動は、言葉がでたらめで行動も失敗だらけ、いい加減で、バカに見える。

兄姉の鏡
同じように事実を無視をする中韓だが、その立ち位置は異なる。
中国はやることなすこと、笑えるほどバカに見える。
一方、韓国の言動は、韓国の立場で聞くと、何でも早耳で良く知っている様な気がしてくる。行動も早い。
しかし、これこそが方向感覚の有無。二次元と三次元の違いだ。

中国のおバカ行動は、受け狙いではない。方向感覚に基づくあの手この手の試行錯誤だ。極端でバカげた行動をとり、失敗すると他の手を試す。領海侵入も、レアアースも、反日キャンペーンも、船舶差し押さえも、みな試行錯誤だ。
笑って見ているうちに、壺に填まるとそこを一気に押してくる。期限など無い。悠久の時間感覚を持って、方向性は一貫している。

一方、韓国は世界の情報に敏感で、常にトレンドを目指し、いかにそれを取り入れ同期しているかに集中する。常に優等生になりたがる。
しかし、先例の無い事や地味な事例には関心が無いから、想定外の事態には何もできない。大騒ぎをして誰かが助けてくれるのを待つ。
そして、どうすべきか解らないから自分からは頼めない。だから、助けてもらっても頼んだ覚えは無いから、感謝しないどころか、そのやり方に不満を持つ。注射をされて痛かったと。

この行動パターンは、まさに兄弟関係そのものだが、
韓国の行動は、兄姉の後追いをする末っ子行動で、世界の大国行動のモノマネでもあり、「子は親の鏡」でもある。
中国、日本、アメリカ・・・、日本も韓国の行動を見て、反省すべき事が少なくなさそうだ。


総すくみ

2014年04月20日 | 星の流れに

4月14日、天秤座の火星が地球に最接近し、加えて15日には天秤座の月の満月になった。言うまでもないが、苦難の大十字(グランドクロス)が続いている。

天秤座のプーチンも渦中の人だが、日本も、中国も、EUも、楽な状態ではない。
世界のあちこちで大きな地震が続いているし、月がサソリ座に移ったとたん韓国ではこの事故だ。

今の状態、誰も苦しい。ある意味で、ガマン比べのバランス状態で、むしろ、これが崩れた時の方が危険だ。
短期的には、太陽や水星が動く今から小さな崩れが起きるが、大きく動くのは、木星が獅子座に移る7月だろう。

天秤座や牡羊座など男性宮には好転で、女性宮にはプラスにならず、動き次第ではマイナスになる。
ただし、男性宮であっても、水瓶座や獅子座には危険な時になる。
国で言えば、EUや日本、米国にはプラスに働き、ロシアは危険な時になる。
中国も舵取りが難しい時であり、韓国にはマイナスだ。

何座であろうと、誰であろうと、今のような時は、目先に翻弄されず、遠い将来を見据えた動きを心がける時だろう。
そういう意味では、中国の経済政策は正しいと言える。ただし、足下をすくわれたのでは意味が無い。


ご近所は

2014年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

16日朝、韓国で客船事故が起こった。事故の経緯やその後の対応を見ていると、人災を通り越して、文化的な災害、「文災」という言葉が浮かんでくる。

災害はどこでも起きるが、対応の仕方は文化と教育によって異なる。
日本で災害が起きるたびに、不手際に腹を立てていたが、今回の韓国の例を見ていると、次元が違う様な気がする。

阪神、東日本大震災で、あれだけの死者が出てしまったことに怒っていたが、あれがもし、韓国で起こっていたらどれだけの死者が出ていたのだろう。
10倍以上の死者を出したスマトラ地震の例などと比較しても、日本は、これでもまだ、防災先進国だと言うべきなのかも知れない

今回の韓国の事故は、日本の洞爺丸の様なドサクサ時代の台風災害でもなく、ゆとりの中で起こった放漫事故であり、しかも、晴天下で丸一日、救助もできない。
それだけではない、救助努力の前に、マスコミは全員死亡を前提で責任問題ばかり取り上げ、ネット上ではデマが飛び交う。
(洞爺丸:青函連絡船。昭和29(1954)年の台風で転覆。1155名死亡)

今回の韓国船の転覆は、もはや事件だ。一人や二人の死亡事件では、日本でもネットやマスコミで、愚かしい誹謗やデマが起こるが、さすがにこれだけの事件になると、そんな声は上がらない。

その日本でさえ、原発に関わる問題は、終始、混乱しているが、現在でも日本よりずさんな、韓国で原発事故が起こったらと思うと、風下の日本は、全く人ごとではない。ぞっとする。

ご近所づきあい
歴史問題を掲げてタッグを組み、日本叩きをしている中韓で、相次いで、観光運輸の大事故が起こった。そして、その対応が、そろいもそろって、人命よりも、国のメンツや軍事を優先している。
マレーシア機捜索に、中国はあからさまに海軍を誇示し、韓国は他国の援助を断った。

これまでの災害対応を見ていれば、今更、言う様な問題でもないが、中韓は大災害時に、必ず、政治の都合で対応する。徹頭徹尾メンツと格式にこだわり、人命などその道具に過ぎない。
その両国が掲げる、日本の人権や人命に関わる過去とは、一体何なのか。自明の理だ。

それでも、中国は横暴粗雑なだけで、こちらの対応次第で話は可能だが、朝鮮半島に関わるとろくな結果にならない。
朝鮮半島への認識が、変わり始めたのは、大韓航空機事件頃の不可解な連続事件で信用できなくなり、決定的に変わったのは、浮島丸事件を知ってからだった。

日本の悪意によるものとする事故原因の主張は、どんなに日本軍が悪辣であったとしても、あり得ない必然性であり、ここまでの想像力は、むしろ、彼ら自身の価値観と気質を暴露しているとしか、考えようがなくなった。

今回の事件後、韓国マスコミは真っ先に、日本製の船だと言い出した。日本で20年何事もなく運航し、韓国で改造したという事実で、今のところ静まってはいるが、韓国の錬金術にかかると、いつの間にか謝罪と補償を要求されかねない。

純粋な気持ちで、行方不明者の無事を祈るだけでいられなくなるのが、このお隣の事情だ。


頭痛の種

2014年04月17日 | 占いばなし

頭痛の度に、今日こそ「ただ今、頭痛中です」と書こうと思うが、思いとどまっている。どうしても書きたくなるほどキツイ時は、大体、8~9割ぐらい、M4以上の地震が、最大24時間以内くらいで起きる。
しかし、逆に言えば、1~2割は起こらないと言うことだ。

頭痛と地震の関係を調べる研究なら、相当、有効な数字だと思うが、たいていの人が、ズバリ的中以外無意味だと思っているから、実際に披露すれば頭ごなしに否定するか、盲信するか、どっちかになるだろう。

いつも断っているように、ここは、客寄せの予言ショーではない。占いの有効利用や可能性について、考えてもらいたいから書いている。
当たった外れたではなく、占いで予測できる事象や、その原理。
また、超能力とまで行かなくても、体調と自然のような、人間の可能性についても、寛容で真面目な目を向けてもらいたいからだ。

だから、結果だけが注目されるようなことは、言わないことにしている。(だから面白くないのだが)
世相、事相について語るのも、当て物の後出しジャンケンではない。
それが起こる占い的原理を説明することで、占いの有効性を知ってもらい、また、そこから個々に、事の成り行きを考えてもらいたいからだ。時々、予想のようなことにもなるが、これは予言ではない。

頭痛に関しては、実際、小さな脳障害が起こっているのかも知れないが、理由は何であれ、もし地震と関連するとすれば、むしろ障害の方が地震と関係あると言えるのかも知れない。
飛行機墜落の原因が精神異常の操縦士だから、星とは関係ないとは言えない。精神異常そのものが、星の作用かも知れないのだから。

科学的に原因がハッキリしているのだから、占いなど下らないことを言うな。そういう、意見もあるだろう。
確かに、占いは死滅した生物だが、化石が科学の目で意味を持つこともあるし、神の御業や天動説が絶対的に信じられた時代もあった。

現代は、科学時代だが、科学は万能ではない。それを一番知っているのは、おそらく、最先端の科学者だろう。
錬金術や占星術万能の時代に、科学の道を開いたのは、錬金術や星占術の最先端にいた人たちだった。

今や占いは化石だが、迷信と言われるものにも玉石が混ざっている。ここでは、原石を並べているだけだから、金と黄銅鉱の違いを、見極めてもらいたい。
そのためにも、宝石箱に入れて付加価値をつけず、思い込みによる予断や断定を極力避けるよう勤めている。思い込みの産物の占いを、可能性の視点で考えてもらいたいからだ。


歌う様に

2014年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム

小保方さんの会見を途中から観た。予想通りというか、残念ながら、やる気と誠意だけの、世間知らずの学生という印象だった。
大人や社会のおかげで自分が成り立っていることを意識していない。
だから、大人が保証してくれることに安心して乗る。

自分が社会と対峙して、自分で責任とらなければならない、と思うのが大人だが、大人が責任をとってくれると思って行動するのは子供だ。だから、科学の世界での大人の基本ができていなかった。
科学者としての、自分の行為の証明が、全く念頭に無かったようだ。

STAP細胞の存在を祈る。しかし、どうであれ、今回の「騒動」の真犯人は小保方さんではない。
もう、ハッキリ言おう。人の業績にちゃっかり便乗しようとした笹井某だ。理研の重席だから、それをかばうために早々に尻尾切り?梯子外しをしたのだろう。

しかし、これが通常の、もっと悪意のある人間なら、研究を横取りしただろうし、そうであれば、むしろ、自分の責任において精査しただろう。そんな筋金入りの悪人ではないから、こういうドタバタになった。

小学生が、河原で化石を拾ったと、専門家に観て貰ったらとんでもない発見だった。自分が鑑定した「大発見だ」と言いたい一心で、よく確かめもせず「小学生大発見」と発表したら、小学生のお爺さんが観光旅行で買ってきた物だった。
そして、その小学生を少年院に送ろうとしている。
そういうドタバタだ。

日本の教育
昔、カナダ人との会話の中で、科学とは何かと言う話になったとたん
「何時でも何処でも誰が何度やっても同じ結果が得られること」と、歌う様に答えた。彼は科学者ではない、フツーの人だ。

欧米ではおそらく初等教育で、かけ算の九九を暗記するように、科学の基礎がたたき込まれるのではないかと思った。
日本では、実用的な九九や漢字を憶えることは熱心だが、抽象的な原理や原則を取り上げることには関心が薄い。

近頃、明治の教育勅語の原本が発見されたというニュースがあったが、憲法改正や靖国尊重のタイミングで、また何の魂胆だろうと不可解な印象があった。
日本の子供が、国のために死ぬ心得を丸暗記させられていた頃すでに、欧米では科学とは何かが、たたき込まれていたのだろう。

科学立国とか言われる昨今の日本だが、時には、博士号をとったような人さえ、科学の基礎が理解できていない現実が露呈した。
契約と科学の概念は、近年ようやく日本で当たり前に語られるようになったが、絶対神との対峙が無い日本社会では、未だに浸透しにくい概念のようだ。

小学生が皆そうであるように、解っても解らなくても先ず、科学や契約の原則を、丸暗記させてはどうだろう。

ところで、何度も言うが、占いは科学ではない。


建国時代

2014年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム

木星カニ座で、ナショナリズムの嵐が吹き荒れている。
カニ座の中国は毎度のことだが、ウクライナとロシアも、ナショナリズム問題だ。人ごとではない、日本も中韓との対立が激しい。

ナショナリズムは感情だ。
感情的反応は思考の整理が付かない時に起こる。論理的に考えようとして、その論理に矛盾する意見があれば、他者の悪意の妨害と受け止める。だから、それを除去するエネルギーが必要になり、意識を集中させる。それが感情反応だ。

この時、自分の論理を考え直したり、多様性を理解すれば、排除など考えないから、感情的にはならない。
知識が豊富で、様々な視点を知っていれば、そのゆとりが生まれるが、偏狭な視野は、自分の論理だけを信じ、異見を除去しなければならないと考える。

貧困が紛争を招くのは、生きることに追われて、寛容性が無くなるからでもあるが、教養を身につける機会が少ないからでもある。
しかし、貧困でなくても、感情的な思考に陥る。
それは「伝統」だ。
宗教や国家のような集団が、伝統的な旧態を守ろうとするのは、その方が、秩序の維持が簡単だからだ。

元々、集団は困難を切り抜けるために生まれる。
いかなる集団も、楽しくて集団をつくるのではない。物と心の欠乏感から徒党を組み始める。一人で満ち足りているなら何も、気を遣いながら他人と寄り集まる必要は無い。
大災害の中で心に響いた「絆」も、感情的一体感であり、苦しい状態で人を結びつけるのは感情だ。

苦難を克服する結束感で生まれた集団は、やがて窮地から脱し、豊になり、教養をつければ、多様性が生まれ結束が乱れる。
これを引き留め秩序を守ろうとする支配者は、原点の、苦しい時のあり方を伝統として強調し、他の価値観を否定する。

つまり、ナショナリズムは、必ずしも極貧から起こるのではない。むしろ、ゆとりを知ってから起こる。
ヒトラー支持は経済成功の後であり、中国も、韓国も、ロシアも、一度経済を盛り上げて、衰退に向かい始めてからの方がきつい。

父よあなたは強かった
苦難から生まれた一神教が、異端を排除しようとするように、独裁者は、伝統を掲げて国をまとめようとする。秩序維持に不都合な、多様な価値観を排斥したいからだ。
新しい価値観に導く自信の無い指導者は、多様性より秩序維持に走る。その最も簡単な方法が、国家の由来や伝統の前例にならうことだ。

建国の故事や起源を掲げ、そこに帰ることを美化し、その論理に不都合なものを敵とする。
国や集団の草創期の記憶とは、感情が支配した時代のことであり、他者を理解する公平や寛容とは真反対のものだ。

ウクライナに対するロシアの主張は、ロシアの起源の聖なる地であり、ウクライナにとってもまた、我らが大地だ。
エルサレムは誰のものかのように、起源にこだわれば現在の平安を失うことになる。

中韓が過去にこだわるのも、建国に関わるからであり、国家の起源神話を、日本が否定するから不都合なのだ。しかも、その創世記の記憶は当然、感情論であり、相手にすればするほど、感情を刺激する。

尖閣にせよ竹島にせよ、中韓の都合で勝手に思い込んでいるまでは良かったが、日本が「それはおかしい」と言ってから、今日の事態に陥っている。
子供が「うちの父ちゃんは偉いんだぞ」と自慢し合っている姿は、大人には恥ずかしい。子供が、本当の親の姿など知るはずが無いからだ。

感情は感情を呼び、日本にも伝統を掲げる政権が生まれ、すっかり火が回ってしまった。
火事というものは、手に負えなくなると、燃え尽きるのを待つしか無い。無理に消そうとすれば死人が出る。


人ごとか

2014年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム

韓国で、北朝鮮製の無人機が続々発見され、大騒ぎになっている。
「やっぱり」という感じで、面白い。

近年、アメリカ製の無人偵察機の話題が多かったが、ミサイル迎撃装置と同じで、いかにもアメリカらしい、ピントの外れた道楽兵器だ。
と言うより、アメ車と同じ、ゴリ押し商法なのかも知れない。
専守防衛

アメリカはO型文化の国だが、日本でもO型は家電マニアが多い。
人好きで即物的なO型と、矛盾するように思えるかも知れないが、即物的で解りやすいことの好きなO型は、「手応えのある効果」に反応する。

掃除や洗濯を、結果として「いかに仕上げるか」ではなく、「いかなる効果」を持った家電か。つまり、その機械を手に入れれば、どんなパワーを得られるかに関心が働く。

奥歯に挟まったものをとる為に、マイクロ超合金の超音波除去装置が発売されたと聞けば、是非、その「魔法の力」が欲しくなる。
AB型なら、爪楊枝の達人になる修行方法を試したくなるところだ。

アメリカのピントの外れた道楽兵器とは、手段が目的化した兵器であって、目的達成のために、最も効率的な方法を探るのではなく、
最初に思いついた方法に凝ることで生まれる、巨大なデクノボウ兵器のことだ。一つ、故障したら、原始人の棍棒にかなわない。

アメリカの道楽兵器の本質的な弱点を見抜いた、B型中国は、GPS衛星を何時でも破壊できるぞと、衛星破壊をして見せた。
新型家電の電源を抜いて見せたのだ。

創意工夫の知恵
戦時中、物も金も無くなり、B29の大編隊の下で、追い詰められた日本は、風船爆弾をジェット気流に託した。担当者たちは、その成果を知ることは無かったから、これは五寸釘の祈りと同じだった。
しかし戦時中、北米では原因不明の山火事が相次ぎ、後にその原因が風船爆弾とわかった。アイデアそのものは正解だったわけだ。

兵器や戦法と文化は、別けて考えられない。戦争は文明の衝突と言われるが、むしろ、文化の衝突だ。戦争という極限状態は、その文化の本質をさらけ出す。

古代には、戦闘部隊の先頭に祈祷集団がいたそうだが、日本は信仰心で戦争するようなところがある。
大和魂や千人針から神風、風船爆弾まで、すべて基本は信仰心であり、戦果を挙げた航空部隊より、巨艦巨砲の戦艦大和に精力を傾けた。

北朝鮮が戦前の日本と同じだという意見に怒る人もあるが、同じではないとしても、模倣していることは確かだろう。
その北朝鮮が、物も金も無くなっても核兵器に精力を傾けている一方で、アメリカの無人兵器のアイデアを模倣して、ラジコンを飛ばしていた。

風船爆弾は模倣ではなく、奇想天外なアイデアで、もし、戦艦大和一隻分でも風船爆弾を飛ばしていたら、アメリカの銃後に大混乱を起こしていたかも知れない。
戦争で忘れがちなことの一つは、兵站と戦意だが、北米中で山火事が起これば、経済的な損失と混乱、さらに民心の戦意にも相当な影響が出る。

アメリカがベトナム戦争に勝てなかった最大の原因は、大義と戦意だろう。そして、また、抜け穴や罠や落とし穴などの、科学や物量の裏をかく人の知恵が、アメリカの道楽殺人兵器に勝ったと言うことだ。

北朝鮮のラジコン作戦も、まさに、現代兵器へのアンチテーゼであり、韓国は、このオモチャ兵器に、打つ手が無くてオタオタしている。
しかし、日本は、韓国を笑っていられない。

ちょうど一年前に書いたことが、まさに現実になってきた。
北朝鮮の工作員にパクパクを読まれたのだろうか。
アブアナイ、アブナイ

守れない


可愛い子

2014年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の若者が大挙アメリカに渡った70年代。若者が口をそろえて言っていたのは、「アメリカは面白い」だった。日本の概念が全く通用しない、多様で自由な大地。大都会もあれば、日本のことなど全く知らない村もある。若者の好奇心と冒険心をかき立てる一方で、求めれば静寂もある。

同じように、面白がられたのが、インドだった。これは、もう、アメリカのような、人工的な文明概念をごっそりひっくり返す、人間とは何かと、根源を問いかける世界だった。

アメリカやインド、そしてアフリカ、南米、こうした「大陸」世界は、小さな島国で育った若者には衝撃だった。
「・・・であるべき」のような、薄っぺらな卵の殻が、一瞬にして吹き飛んでしまう。

大陸は、日本人を孵化させる。1500年封じ込められた、日本人の開拓魂が眠りから覚めるのだ。
70年代80年代の日本のエネルギーを担ったのは、世界に飛び込んで目覚めた、日本人の開拓魂だった。明治維新を推進したのも、海外留学生や商人の視点だ。

失われた20年と言われる歳月の中で、日本の若者は島国にこもり、再び殻に閉じこもってしまった。
しかし、時が来れば、ヤドカリは別の殻を探さなければならない。
傷つきやすい柔な腹を、命がけで外気に晒してみれば、根性が入れ替わる。大陸に渡り、生身で異文化に接することで、日本人の開拓魂が目覚めるだろう。また、それしか生き残れない。

中韓も大陸だ
アメリカやインド、アフリカとは、全く違うが、中韓も大陸だ。
日本人は、同じ東洋の、中韓のことを解っているつもりになりやすいが、他の大陸同様、日本人の尺度で理解できるような世界ではない。
思考原理が全く違うのだ。

日本人の常識で中韓を考えていると、激突するしか無い。
どこであれ、日本人の若者が、大陸に飛び込まなければならない理由は、飛び込めば、郷に入れば郷に従うしかないからだ。
自分の小さな世界で、批判したり憤っている余裕は無い。とにかくその世界を動かしている価値観を体験して、考えてみるしか無い。

半年も過ごせば、その世界が見えてくる、と同時に、自分が見えてくる。山ごもりをして3年滝に打たれるより、よほど確かな修行だ。
日本の、凝り固まった、受験や就職システムで考えていては、どんどん視野が狭くなる。その結果が、現在の内向き志向だ。

・・・と、書きながら、ニュースを観ると、もう入学式だ。
近頃の大学入学式は、親どころか、一家そろって付いてくるそうだ。
付いてきた親が、「次は就職が気になります」と言っている。

昔、「坂の上の雲」でも描かれていたが、大学とは大人の世界、大人のすることだった。そこに親が付いてきて、就職の心配をすることを、異常だと思っていない。こういう親の世代が、経営する企業、そしてそこに就職する若者。

日本が負け組になったのは、円高のせいだけではなかった。
もう、いくら、日本の心配をしても、無駄な気がしてきた。


光が差す

2014年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム

「笑っていいとも」が終わったらしい。ニュースは盛り上がっていたようだが、どうでも良いから読んでもいない。
始まってしばらく、観るのが癖になった事があるが、面白いから観ていたワケではなかった。ある種、イラ立たせるから観てしまっていた。

30年以上も続いていたと言うから、驚くとともに納得もした。
観始めたときにイラ立ったのは、徹底した楽屋落ちの世界だったからだ。
こんなものを、日本中が喜んで観ていて良いのだろうか。
バブルの絶頂期に始まって、瞬く間にブームとなったのは、今にして思えば、経済成功で日本人が、ハングリー精神を失っていたからだ。

人間は窮地に追い詰められると、打開策を求めて周りを見渡す。
丘に登って遠くを見渡し、どこか逃げるところはないかと情報収集を始める。
人類がアフリカを出たのも、食料に窮し、木の上から眺めて行く先を探し、歩き始めてからだ。
ハングリー精神と情報収集は一体だが、食料に恵まれた森では、外の世界に関心が無くなる。

バブルに浮かれ、現状に満足し、森の中しか関心が無くなり、バブルが崩壊しても、外を見ようとしなかった。それが日本の30年だ。
失われた歳月は、突然始まったのではない。すでにバブルから始まっていた。結局、「笑っていいとも」は、その象徴だった。

30年トレンド
物事の消長を、干支60年が表すとすれば、昇りの30年と、下りの30年がある。「笑っていいとも」の30年は、ちょうど下りの30年だった。
それが反転し始める現在は、バブル以後の内向きから、日本人の意識が、ようやく外に向かい始め、水面に顔を出す。

「笑っていいとも」が終わったことは、日本人が目を覚まし、頭を上げて外の世界に関心を持ち始める、その潮時を告げている。
コップの中の就職システムに苦しんできた若者も、外の世界に目を向けるだろう。雇用論議など無意味だ。すでに、起業と冒険しか道は残されていない。それに気づいた若者だけが生き残る。

今は、天王星の示す昭和初期と、60干支の示す高度成長の始まりと重なっている。暗雲と景気上昇が混在している時代だ。
若者の夢は、目指せ満蒙であり、海外派遣に憧れた時代でもある。
それが成功となるか悲劇となるかは、国策に乗るか、自分の判断で行動するかだ。

自ら求めて、留学や海外就職をめざす若者には道が開かれ、それが日本を救う。今の時代はまた、明治維新の再来でもある。
「笑っていいとも」に浸っていた日本人は取り残され、目が覚めた人には、朝の光が差してくる。サングラス番組の不自然に、やがて気づくだろう。

紅白歌合戦は「笑っていいとも」の2倍の歳月を巡ったが、やはり、上昇の30年と低迷の30年だった。紅白の上昇は日本の好景気と重なっていた。紅白も、このあたりで廃止するか、全く新しいコンセプトで始める時だろう。ポイントは、これからの日本人と歳時のあり方だ。


とっぽい

2014年04月02日 | 占いばなし

以前、信じてもらえない話を書いたが、実は、もっと信じてもらえないような体験談がある。普段なら絶対に信じてもらえない話なので、エイプリルフールに、嘘話として書いてみた。 (犬の人生

しかし、読み返してみると、嘘にしてはリアルで、かと言って、普段これを話したとしても、信じてもらえない。
「事実は小説よりも奇なり」と言うが、一方で、嘘話はその奇より奇でなければならないという事だろう。 取りあえず、没にした。

ホラ(嘘話)と小説の間に奇があり、バラエティーで言う「つくったやろ」の領域は、この奇の領域だ。
整理すると、
日常事実の次に、事実を模写した小説があり、奇は事実の限界、非常に確率の低い事実だ。そして、ホラは明らかに自然界に存在しない現象の、最も事実に近い限界だ。
   事実>小説>作り話=奇 / ホラ

よく、エイプリルフールでも、それはアカンやろと言われる嘘がある。権威ある報道機関などによる、パニックを招くような嘘だ。
どう考えてもあり得ないような大ボラでも、報道機関の権威が「異常であっても、真実に違いない」と信じさせる。信じるしかない。

日頃、報道機関を批判する人でも、「まさか」と思いながらも、取りあえず真実として聞く。その上で、エイプリルフールを思い出し、笑顔になる。しかし、それがリアリティのある嘘だと、例えエイプリルフールでも、信じるしかない。

人が犬に噛みつきましたは笑えるが、犬が人に噛みつきましたは、エイプリルフールでも、信じるしかない。
元々、当たり前の話を嘘として話されても、笑い事ではないからだ。

この話を書いているうちに、頭が混乱してきた。嘘と、笑いと、意表を突く「奇」のボーダーは、プロでも難しい。

五月の鯉の吹き流し
嘘と言えば、理研は案の定、小保方さんだけに責任をかぶせてきた。
先日も書いたように、この事件は、人の業績に「ちゃっかり便乗」しようとした、三碧が元凶だと思う。
若い小保方さんが頼りにする当の先達が、小保方さんの業績らしきものに便乗しようとすれば、これで良いんだとルーキーは安心する。

初めて当の三碧の写真を見たが、いかにも三碧独特の「とっぽい」顔をしている。悪意は無い、悪意は無いが・・・「とっぽい」
オバマも、プーチンも、やはり「とっぽい」顔だ。

この「とっぽい」と言う関東弁は、おそらく、「突拍子もない」からきているのだろうが、重みや責任感のリアリティーが無く、調子が良い。
良く言えば、可愛らしく爽やかだ。
三碧は雷であり、雷は凄まじいが実体は無い。江戸っ子のようなものだ。「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し大口を叩けどはらわたは無し」

しかし、この大口を真に受けると、取り返しのつかない事になる。
小保方さんだけではない。クリミア問題もオバマ、プーチンに任せておけばそれなりに落としどころを見つけるが、その他の国が真に受けて動き出せば、世界史問題になりかねない。


嘘の38

2014年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム

百均に行って、電池をワンパック買って並んだ。
「フクロは要りません」と言って、ちょうど用意したお金を出した。
「1点で、108円です」と言われて、
「あっ、そうだ」と、慌ててもう一度、財布を出し、小銭を覗くと、10円に混じって運良く、1円がちょうど3枚見えた。焦っているので、なかなか掴めない。後ろの人も、ごそごそやり出した。
ようやく、3円追加して。レシートをもらった。

3円上がって、8円。何とも中途半端な増税だ。
安倍政権の勝負だが、どうせ勝負するんだったら、始めから10円にして欲しかった。
段階を追うことで、気休めになるかも知れないし、手数が増え、陰の経済効果もあるかも知れないが、今回も、一白の、ムードムードのお為ごかしだ。

3円の8円、「ウソの三八」だ。初めての時も3円だった。消費税がいかに根拠なく決められているかの、本音が透けて見える。
もっとも、1949年の1ドル360円も、円周360度で決めたものだと言うから、値頃感はあったとしても、具体的な数字が出るときは、案外、そんなものかもしれない。