少子化対策が叫ばれて久しいが、この話を耳にするたびに、複雑な気持ちになる。
先ず、少子化を問題にすること自体が不可解だ。爆発する地球人口の不安の中で、経済発展のためだけに人口を求めるが、それは、過去250年の産業革命パラダイムの踏襲に過ぎない。しかも、その方法はすでに破綻している。
この250年、次々と地域文化を破壊し、好況と恐慌、そして戦争を繰り返し、その浮かれ騒ぎで地球資源を浪費し、環境を破壊して「発展」してきたが、そのフロンティアも、ネタ切れの崖に近づいている。
産革パラダイムは誰かの犠牲に基づいて成り立つ消費システムだから、犠牲が無くなる時が、大量生産の自転車操業が終わる時だ。
人口増加策は、その自転車操業を続けようという政策だ。
そこから脱却して人類の新しい生き方を模索する話ではなく、
カンダタの糸の奪い合いをして、地獄に墜ちようという話だ。
背に腹は代えられないではないかと言う声に、百歩譲って、
その人口増加の方法議論を聞けば、先ずは、手っ取り早く増やそうと移民の話が出てくる。
日本文化の活性化という点では、移民にやぶさかではないが、徹頭徹尾、安い労働力としか視ていない。移民を増やそうというなら、先ずは日本人の共生感覚の育成と、異邦人受け入れの環境整備が必要だろうが、自分達は変えることなく、使い捨て労働力としか考えていない。
一方で、日本に生まれる子供を増やす話となると、育児対策は後手後手だ。学童保育を含め、育児施設は全く足りていない。
せっかく生まれた子供さえ面倒を見られない現実では、子供を産みたくなるような意識環境は、いっこうに広がらない。
子供を産みたい人はたくさんいるが、子供を持つ条件を何時まで経っても緩和しない。子供を持つ条件を、現行の婚姻に限定している。
結婚をしなければ子供を持ってはいけないような、時代錯誤のきれい事を前提として、出生率を論じ、問題を結婚奨励にすり替える。
これら、言い出したらきりが無い矛盾した現状をおざなりにして、無いものねだりの人口増加論だ。
人口増加を望むなら、社会概念の根底的見直しを考えるしかない。
一夫一婦の婚姻も、家族や福祉の意味も、現状の固定概念を捨てて考え直してみる必要がある。
超大家族制度(発想の大転換)
古代から子供は大家族が養育してきた。一族という小さな社会だ。
それが、産業革命によって、国家や企業という、一族に代わる場が生まれ、大家族が崩壊し、個人単位の家族、核家族社会に変わってきた。
その核家族と国家の相互的繁栄が、国力を担った。
しかし、その核家族も、基本は古来の大家族の概念に基づくものだ。
今日では、家電や情報化などの環境変化によって、夫婦や親子の家族意識が消えかけている。その片鱗が、個食であったり、同性婚であったり、晩婚化や離婚の増加に表れている。
こういう時代に、それでもまだ国「家」を続けようと言うなら、
国家そのものが、超大家族になるしかない。
これは、全体主義でも共産主義でもなく、むしろその真逆で、個人のために国家がある。家族は国の礎ではなく、国が個の礎となる。
個人が国家に奉仕するのではなく、国家は個人の為にあり、それを支えるために、個人は直接、国家に納税などの対価を払う。
だから、国家の権限は個人に対して限定的で、婚姻や、家族関係に関知しない。日本で千年以上も続いた戸籍制度の縛りを解き、婚姻を前提とした財産や納税をなくし、個人相続も禁止する。
(ただし、一族の財産などは、法人として継続する道もある)
婚姻や親子関係のあり方は、好みに応じて自由に選択すればよい。
基本は重税高福祉だが、個人相続が無いので、空き家や老人の溜め込みが無くなり、経済が活性化する。
子供の養育や老後の介護は、基本的に国の施設で責任を持ち、自分で面倒を見るという人には、その分、逆に減税、あるいは還付する。
同様に、年金が要らないという人には、高額所得者以外は免税する。
国家が全面的に個人の面倒を見ることが前提だから、重税になるが、自分で責任を持つ人には事柄に応じて減税していく、減点法だ。
困った人を救うのではなく、始めから救命ボートに乗って出発し、自由を求め、やる気のある人は、どんどん降りる。逆の発想だ。
あらゆる縛りを逆転させる。結婚を前提で子供が生まれるのではなく、子供の面倒を見たい親は面倒を見、結婚したい人は結婚する。
基本は、親は子供の面倒を見ず、男女は結婚に関係なく子供を持つ。
そんなのは嫌だという人は、自分の家族、親子関係を作れば良い。
つまり、やる気のある人には個人の自由が保障され、能力気力を失えば、安全が保証される。
この先も、産革パラダイムを前提とした人口増大を望むなら、国家そのものが、こうした超大家族になるしかない。
超大家族社会は、古典的な人間関係の秩序が無いから、老若男女が対等の社会になる。
もともと、産革パラダイムは、伝統的な家族を崩壊させる仕組みであり、それは、歴史が人類に求めていたものなのだろう。
原始回帰か未来人類か
産革パラダイムによって、物質は享受したいが、古来の「人間らしい」生き方も守りたいと言うなら、人口増加とは真逆の、伝統的親子関係の秩序のまま、核家族で社会を支えていくことになるが、それでは産革パラダイムには、生き残れない。
一方でもし、古来の家族関係や秩序にこだわるなら、産革パラダイムから脱却するしかない。
労働力としての人口増加を求めず、5000万人を目標とし、新型の鎖国(文化鎖国)をし、農業中心の古代アルカディアを目指す。
スイスのように皆兵で、永世中立し、ブータンのように国民総幸福を目指し、循環型社会で文化学術のテーマパーク、ジパングになる。
海外資産をこれだけ持っている国なら、不可能ではなかろう。
超大家族社会であれ、古代アルカディアであれ、現状改革では決してあり得ない、ただの夢でしかないが、夢の実現を考えて踏み出さない限り、いずれ、全地球的、産革パラダイムの大崩壊と共に、砂となって吹き飛んでしまうだろう。
まあ、その前に、ジジイは風となって、消えているのだが