魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

博打精神(3)

2010年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

No.955

肉食獣から、ハイエナ、コンドル、山犬にまで、
博打打ちどもの「くいもの」にされている草食動物、ニッポン。

「立ち上がれ」と言っても、もう、手も足も食いちぎられている。
今や、最後の時が迫っている。
生き物は、最後の時には、分散して生き延びる。

世界に飛び出し、遺伝子を残せるものは残せ
逃れられない本体は、死んだふりで、変身せよ

新鎖国主義
鎖国じゃあ、鎖国じゃあ・・・
(隣の生徒にのぞかせるな)

生産販売は外国で、日本DNAは列島の奥深く、埋めて秘めるべし。
表向きは美しい観光ニッポン、国際会議、国際観光の中心地。
内では、研究開発、芸術文化の醸成・・・
スイスやフランスが、美しい表情の内側で、黙々としっかり技術開発をしてきたように、老成先進国としての、高機能コンパクト化だ。

美しい観光ニッポンと、農業立国とは両立する。自給率100%以上。
奥深く醸成される、日本のコアな成果は、海外で活躍する日系グローバル企業の核心技術として使う。
学術研究の場の充実はアメリカ方式を見習う。

肉食博打打ちのグローバル世界で、生き延びるには
肉食獣にも草食獣にもならないことだ。
いち早く、第三の生物に進化する。恐竜から鳥になる。

物を作って売るのではなく、金融で稼ぐのでもなく、

知の発信国、美の発信国、社交の場になろう。
世界中から人を呼んで、価値観のカオスを目指す。

物作りから、いかに早く脱出するかが、日本の生き残りに掛かっている。


博打精神(2)

2010年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

No.954

狩猟・遊牧民族の博打精神=泥棒精神とは、肉食獣の生き方だ。
草食動物が植物を化学変化させて成長した身体を、そのまま、横取りする。

草食動物は、常時食べ続ける。歩き続け、噛み続け、長い腸にためておく。要領は要らない。黙々と真面目にしか生きられない。
肉食獣は毎日食べる必要はない。その代わりチャンスは逃さない。草食獣が太るのを待って餌食にする。

狩猟民は肉食獣そのままだが、遊牧民は、さらに効率よく太らせる技術を持っている。
食べるためにうまく飼育する、それが植民地主義だ。

ところが、逃げた家畜が野生化した種族というのがある。
山に行くと、オオカミより怖いのが山犬の群れだ。人間に飼われていただけに、人間の怖さと弱点を熟知している。だから、狼のようにひたすら避けるわけではない。隙あらば襲いかかろうと狙っている。

人で言えば、強大国の周辺で、征服されたり解放されたりを繰り返してきた民族だ。そういう歴史の中で生き延びた民族性は、家畜のような顔をしていたかと思うと、突如、山犬になって襲いかかってくる。

中国は、この征服と被征服を繰り返してきた。その結果、あらゆる種類の動物が一つの囲いの中で、家畜として大人しく暮らしているかと思えば、柵が朽ちれば大混乱になる。

日本は、逃げた山羊が大繁殖した小笠原のような島だ。
次々と逃げてくる集団が、小競り合いの後、また、昔から仲間のような顔をして暮らしている、主のいない良質の牧場だった。

ところが、山犬にとっては、これほど入りやすい島はない。
「僕は無害な牧羊犬ですよ~♪」
そんなこ顔をして、島に上がり込んでくると、突然、牙をむき始めた。
2000年前に起こったことだが、今では、すっかり入り交じって、犬も山羊も解らない。お互いを食べる対象とは思わない極楽島になった。

こんな美味しい島はないから、19世紀、肉食獣が奪い合った。おかげで、かえって救われた。

肉食獣到来の黒船以降、一致団結して、肉食獣のマネをしてみたが、やっぱり、コツコツ地道な草食暮らしが一番だと思うようになった。
コツコツ草をはんで、みな丸々太った頃。突然、待っていた肉食獣に襲いかかられた。
プラザ合意→円高バブル→バブル崩壊→失われた20年

極楽島の山羊は、根こそぎ肉食獣の餌食になり、横で虎視眈々狙っていたハイエナ山犬までもが襲いかかり、ボロボロになりかけている。


博打精神(1)

2010年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

No.953

相撲相撲、賭博賭博と、うんざりだ。そんなに大事なことだろうか。
何よりも、「相撲が国技」とされていることが話がややこしくなる原因だ。プロレスだったら、ここまでの騒ぎにはならなかっただろう。

先日、當麻寺に行ったら、行く途中に蹶速塚と相撲館があった。
ご当地、当麻の豪傑=当麻蹶速は、垂仁天皇の前で、出雲の野見宿禰と戦い、蹴り殺されてしまう。勝った野見宿禰は蹶速の土地をもらい、そのまま垂仁天皇の直属になる。しかし、地元の人にとっては蹶速は、やはり英雄で、今も、相撲の祖として祭られている。
それはそれで素晴らしい。勝者と敗者がいるから勝負は成り立つ。

その後、野見宿禰は、殉死を止めたい垂仁天皇の意を汲んで、埴輪を提案し、土部連(土師)の祖になったと日本書紀には書かれている。

この話は、あくまで日本書記に書かれた話で、信憑性は定かではない。
しかし、多分、確かであろうことは、相撲は蹴りが中心の殺し合いの格闘技であったということだ。K-1デスマッチと言うことだろうか。

現在の相撲の姿とは相当違う。今の相撲は明らかに興業だ。しかも、江戸から続く古いタイプの興業だから、ヤクザや賭博はセットで発展したものであり、いまさら言われてもと、関係者全員面食らっているだろう。
改めて言うが「国技」前提であれこれ騒ぐことが、ナンセンスなのであり、たいそうな事件のような、ニュースの騒ぎはうんざりだ。

一方、日本人にとって「賭博」は絶対悪だ
農耕民族は、真面目にコツコツ耕して、働いただけの報酬を得る。
そうすれば、お天道様は裏切らない。誰かの持っているものを巻き上げる発想は、問答無用で「悪いこと」

しかし、そうなら、誰でも知っている賭博「パチンコ」が、なぜ大っぴらに一等地で営業をしているのだ。しかも、パチンコ屋が不景気になると、何で韓国の大統領が、日本の首相に「何とかしてくれ」と言ってくるのか。

正直者日本人の立て前は、とっくの昔に消されている。
それどころではない。日本人が博打精神を封印しているうちに、世界中の博打打ちに、日本人がコツコツ育てた、基礎技術で博打を打たれ、
いつの間にか、日本の資産で大金持ちになる博打打ちが現れた。

博打精神は、他人の財産を巻き上げる泥棒精神だ。
狩猟民族、遊牧民族の得意とするところだ。

日本のビジネスが負け続けているのは、手先の技術を争う時代から、情報利用の効率性を争う時代になったからだ。
手先の技術はマネできないが、情報技術は生まれた瞬間、マネされる。
後は、勘と騙しと度胸物量の勝負になる。まさに博打の世界だ。

日本人の中で、唯一、博打精神を持っているのは漁民だが、それも養殖に移り、漁業従事者も減りつつある。