魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日本の絆

2010年07月15日 | 日記・エッセイ・コラム

No.964

若い女の子が二人、腕を組んで歩いていた。
一人が一方的に絡めていたが、信号を渡り始めると、今度は、絡められていた方が、手を引っ張って走り始めた。

今の子でもこういうことをするんだ。と、何か妙な感慨があった。
昔、「男女七歳にして席を同じゅうせず」の頃は、男女が別れて行動していたから、男女とも同性同士のスキンシップが多かった。

女同士が腕を組む一方、男同士は、何かと言えば肩を組んでいた。
もちろん今でも、酔っぱらって、男同士で肩を組んでいる人を見かける。しかし、昔ほど、男同士が肩を組む光景が見られなくなった。

昭和15年の西条八十作詞「誰か故郷を思わざる」にも・・・

花摘む野辺に日は落ちて
みんなで肩を組みながら
唄を歌った帰り道
幼馴染のあの友この友
ああ誰か故郷を想わざる

・・・と、歌われているが、もちろん男同士のことだ。
出典を思い出せないが、外国人が日本人について書いた本にも、男同士が頻繁に肩を組む、と、特殊なことのように書いていた。

よくわからないが、確かに外国では、ラグビーのスクラムのような、目的のある機能以外では、あまり肩を組む光景を見ないような気がする。

肩を組むことによる一体感は、日本人の場合、特に強く影響する。
汗と熱を避けたい南方系の文化のせいだと思うが、日常的にキスや抱擁のスキンシップが薄い。それだけに、日本人は身体が触れあい、互いの力や体温を感じることに、強いインパクトを感じるようだ。
逆に北方系は、抱擁やほおずりをしながら、平気で暗殺する。

日本式のスポーツとなった「野球」では、頻繁に円陣を組むが、サッカーでは少なかったそうで、今回は念入りに円陣を組んだことがチームワークの要になったということだった。

サムライブルーが復活した鍵は、チーム一丸になったことだった。
日本の特質は、良くも悪くも一体感だ。近年の日本の衰退は、一体感の喪失にある。今更、年功序列や終身雇用は復活できないとしても、企業、学校、地域、それぞれの集団でチーム固めの道はあるはずだ。

おそらく、肩を組むようなスキンシップとして、様々な「だらしない」付き合いが必要なのだと思う。ともに、飲み食いをしたり、集団同志が競争をする祭りのような・・・「同じ釜の飯を食う」付き合いが

チーム