魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

百周記念

2024年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

甲子園100周年に韓国系の京都国際高校が優勝し、韓国では大統領を始め国全体で祝福の声が上がった。ハングルの校歌をめぐり物議が起こったが、これを良しとするかどうかは、高野連の考え方次第だろう。昔から、英語が入った校歌は少なからずある。校歌の問題ではない。
日本の高校と限定するのか、この年代の学校の野球とするのか、括り方一つで是非は変わってくる。

日本の高校と限定するなら、定義の問題が残り、狭い論争が起こるだろうが、この年代の学校と考えれば何も問題はない。むしろ甲子園100年をもって、世界大会に切り替えれば、これからの時代にふさわしいものになるだろう。
WBSCのワールドカップやオリンピックとは別に、日本の高校野球に参加して貰う形なら、海外出身の力士がいる相撲のように、日本方式の野球を広めることができるし、日本が少年野球のメッカになり、WBSCに影響を与えることができるかもしれない。

ワールドカップと違うところは、高校単位で毎年だから、国選抜とは違い、クラブチームのような面白さと、教育交流にもなる。しかも基本的には、徹底したアマチアリズムだから、ワールドカップのように、金に汚染されることも少ないだろう。
韓国は国策として芸能輸出に成功したが、日本は膨大なサブカルチャーコンテンツを持ちながら、政治は尻馬に乗るだけで、本質的なバックアップをする気がない。何かすればバカな規制を掛けるぐらいだ。

アメリカ発祥の野球も、日本球界はリスペクトするばかりで日本野球を世界に広めることなど考えもつかない。
柔道は今やフランスのものになっており、本家日本はそれに従っている。世界は本家方式をリスペクトなどしない。日本は競技も無くなるかもしれないようなオリンピックには参加せず、独自の世界大会で本来の日本柔道を世界に広めてはどうか。

ワールド甲子園
逆説的に、日本の野球もフランス柔道のように、あるいは韓国芸能のように、見習ったものでも積極的に自分のものとして広め、世界の高校に高校野球の門戸を開くべきだろう。輸入していた自動車も鉄道も海外に売っているではないか。
国家代表1校に来て貰うことにして、初めは希望各国から1校招待でも良い。始まれば、我も我もと参加してくるだろう。第1回大会参加中学校は10校だった。

これに成功すれば、メジャーの球質だって変わるかもしれないし、高校野球ももっと合理的になるかもしれない。温暖化の真夏に「♪雲はわき~」と歌っている場合ではない。基本の設定から変える時だ。
最もネックになるのは、またも日本の利権組織、高野連だろうが。


4040

2024年08月26日 | 自動車人間学

大谷翔平がまたも偉業「40ー40」を、40号サヨナラ満塁弾で決めた。
しかし、「大谷翔平はチャンスに弱い」の反証とは言えない。むしろ、エンジンは「流れの中で活躍する」の証明になる。
同点、9回裏2アウト満塁でホームランは、チャンスでの大仕事だが、実はプロで初めてだった。本人はとっくに経験していると思っていて、初めてと聞かされ驚いていた。
もし、これまでの通常の試合なら、打てていたかどうかわからない。

この日、大谷は40-40の掛かる試合で、一方の課題40盗塁を決めたばかりで、勢いに乗っていた。そこで迎えた9回の打席は、絶好のチャンスだが、仮に三振しても負ける訳ではなく幾分気楽なうえ、自分自身は勢いのまま、40-40を決めてやろうと集中していた。つまり、これが流れの中の勢いで活躍するエンジンだ。さらに、誰かが打ったりすると、「オレも!」と続くのもエンジンだ。
エンジンは「集中して頑張る」のが信条で、アクセルやブレーキやハンドルさばきなど考えていない。責任や各方面の思惑などを考えた途端、神通力を失う。
周りは色々に語るだろうが、大谷本人は「ガンバった、良かった!」以外のことは考えないだろう。エンジンは英雄ではなく好漢だ。

勢いに乗る大谷は、翌日も早々にホームランを打ったが、延長10回、タイブレークで2点先行されて、3塁1アウト、起死回生の1打同点の場面ではフライに倒れた。


おNHK

2024年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

NHKの中国語放送で、中国人担当者が中国主張通りの愛国発言をして大問題になった。
この責任はNHKにあるが、当の中国人に責任はない。「漢」の国の中国人として信条を貫いただけだ。NHKの責任は日本の放送局として認識と判断を誤ったことにある。
NHKは正論のリーダーと自負しているが、これは、おごりと盲目、裸の王様になる。
かなり以前、NHKラジオの建築相談コーナーの担当者の経歴詐称を全く確かめずに採用していたことがあった。京都大学建築科出身は真っ赤な嘘で、それを確かめなかった経緯は分からずじまいだったが、今回の事件に通じるところがある。

最大の原因は外注にあるのだろうが、NHKに入局を志す人の価値観から始まっている。どう取り繕おうと、放送「局」のNHKには国営放送のイメージがあり、そこに入りたい人の多くには潜在的な権威志向があるのだろう。「お堅い」NHKはその「官」意識の反映で、しかも官ではないのだから、どうしてもエセ官のいやらしさ「かまとと」だけが目立つようになる。
放送においても、世相に乗り遅れまいと、様々なトレンドを取り入れようとするが、在野の視点は無く、定見も無くアメリカメディアの視点などを情報権威として追随し、ただの代理人、旗振り役になる。分断や格差、人種問題、障害者やLGBTなど、トレンドに対する評価ではなく、トレンドの解説や奨励番組を流し周知に務めて、トレンドの権威、情報の「官」のつもりでいる。

どの程度の人が感じているか知らないが、NHKドラマの中では、唐突に同性愛や人種問題、障害者問題が頻繁に出てくる。それを否定するわけではないが、それが鼻につくのは、やはり、善意とトレンドの権威を自負する「おNHK様」の「かまとと」なのだろう。
NHKカラーとも言える「駄じゃれ」も、思考停止の象徴で、意見の無い人、あるいは意見の持てない時代は、しゃれや掛詞で埋め尽くされる。和歌のうまさと言われる掛詞は萬葉以前には少なく、平安の古今集以後に盛んになった。江戸時代になると物語にいたるまで、読む気が失せるほどに埋め尽くされている。同じ事は、中国の西遊記などもすべての言葉運びに陰陽五行が絡んでいる。
余談だが、近年のファクトとエビデンス至上主義も、西遊記時代の陰陽五行に似た、ある種の思考停止と言えるだろう。

表現に、しゃれや掛詞、権威の常套句を絡ませるのは、礼儀作法と同じく、感性や意思に反比例することで、何の意見も実体も無い「道具」揃えの駄文になる。駄じゃれをオヤジギャグと呼ぶのは、ウイットの無いただの知識遊びに無駄を感じ、居ても居なくても良いような、主張の枯渇したオヤジにふさわしいからだろう。
駄じゃれNHKは、定見の無い発信の象徴で、それが見識ぶると、外国メディアの受け売りを熱心に発信する。

今回の、中国の愛国者に発信の場を提供したNHKも、「国際感覚」エリートの自負が、逆に、外国人が持つナショナリズムに盲目であったことの結果だ。NHKの国際至上主義が「外国人性善説」となり、契約が無視されることは無いと信じ込んでいた。これは、京都大学建築科卒と聞いただけで、その実態を調査する意思を持たない、権威主義から出たものだ。


外交の具

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

卓球の早田ひなのことはよく知らないが、特攻資料館に行きたいと言ったら、それまで親しくしていた中国の選手陣から、フォロワーを外すなど、一斉に拒否された。早田のみならず、日本の卓球選手が「中国共産党が戦犯指定している」神社に参ったことなどを理由に、やはり拒否された。
特攻資料館や神社の些細や卓球選手の思想信条がどうであれ、
「中国共産党指定」に反するとして中国人選手が一斉に拒否し、中国国内から非難されるという状況は、今に始まったことではないが、スポーツ選手、あるいは国民が、共産党の下に完全管理、あるいは洗脳されていることを、改めて確認させるできごとだ。

中国人の価値観では、国民が国を愛するのは当たり前だから、中国人が中国を愛するように、日本人が日本国を愛することは当然で、それ自体を否定するのではなく、共産党が定義した「軍国日本」を愛する日本人は、仲間ではないと言う論理なのだろう。
この論理で、終戦時、売国中国人と思われていた李香蘭は、日本人と判明して命拾いをした。

中国共産党が、日本の国会議員の靖国参拝に抗議することは、政治家だから容認できる。しかし、言論が自由な国の「民間」のスポーツ選手の思想信条に関わる問題にまで、専制国家の中国基準に正そうとする中国の圧力は断じて受け入れるべきではない。
選手が可哀そうとか、どちらが正しいとかではない。国家があるかぎり主権の問題だ。

中国はピンポン外交やパンダ外交で世界に接近した。つまりは、卓球選手もパンダも中国共産党の「道具」であることを、この際、世界の人々は再確認し、重く受け止めるべきで、彼らが昨日まで親しげにしていた日本選手を、本人から何の説明も聞かずバッサリと拒絶したように、明確な政治の具であるパンダは、熨斗を付けて早々に送り返すべきだろう。ハニートラップは人間だけではない。


夢の再生

2024年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

日本は海外初の金20個、3位の快挙を遂げた。オリンピック大好きな努力の国日本ならではのご褒美だ。しかし、ロシアは参加していない。
マスコミの盛り上げる賑わいから離れ、冷静に見渡せば、
今回のオリンピック、パリ大会は笑うほどのグダグダ大会、百年の総決算だった。
料理や施設の不備、ドブ川セーヌ、ワケの解らない判定や教会の抗議。ミュンヘン大会のような悲劇は無いものの、ドタバタ、チグハグの様は、東京大会に続く「やらずもがな」大会となった。
選手は人生をかけ、神聖な気持ちで臨んでいるが、興行主は儲かれば何でも良い。取引相手の地元施主やスポンサーこそが商売相手だ。選手は替えの効く商品に過ぎない。

日本人は小学校の頃からオリンピック精神を聞かされ、オリンピックに惚れ込んでいる。しかし、クーベルタンの理想が存在したのは成立までだ。1924年の第2回パリ大会以後はマラソンの距離も定まり、「使える」ようになったオリンピックは、金と政治の道具と化していった。戦争を止める理想とは逆に、戦争で中止やボイコットをした時点で理想は失われた。その後は、国威発揚、経済利用のための種目やルールの変更、選手を使い捨てる利権の興行に化していき、百年目のパリに、俗悪の雪だるまとなって帰ってきた。

俗悪興行に堕落した最大の理由は、国家対抗戦だ。
平和を求める理想は、国を超越し、人類の発展と個人の尊厳を見いだすことにあったはずだ。さらに言えば、科学などの道具によらない純粋素朴な肉体の発露で、ドーピングなど論外だ。科学と国は、近代戦争と環境破壊の根本要因であり、科学技術の発展が国家競争をもたらした。
当然のことながら、国家対抗戦には代理戦争として、科学と金がつぎ込まれ、オリンピックは産業革命パラダイムのゴミ溜めと化した。メダル数を喜ぶ日本からも「オリンピックは参加することに意味がある」の掛け声は聞こえなくなった。

夢の再生
ギリシャ時代のオリンピックは、ポリス国家共通の神、ゼウスに捧げる神事だったから、戦争さえ中断することができた。しかし、今の国際社会に共通の神などない。クーベルタンも時代の子、始めから前提を間違えていたのは責められない。しかし、2世紀も経て、間違いのままゾンビ興行に化したオリンピックに、もはや、拘るべきではないだろう。
クーベルタンの夢をかなえるには、国家と無縁の、素朴な個人競技からやり直すしかない。
現在の国際組織はそのままで良いとして、
もう一度、ゼロから、国家を超えたスポーツ人有志の交流会のような、素朴な運動会を、ギリシャか小さな島国など「固定の場所」(願わくば日本)で、質素に始めれば、小さな種も大きく育つだろう。

ネットによるスポーツ版のLiveAidとして、スポーツバラエティ番組のように、記録より面白さ楽しさ中心の競技でネット配信すれば、いきなり大きな大会を、意味のあるAidやチャリティーとして開催することも可能かもしれない。
個人参加を基本とし、団体競技も同好クラブで、人間の判断レベルの判定にとどめ、見た目が同時なら同着とするような、情熱や努力を尊重する人間の祭典だ。
0.0・・・で着順を決めたり、VAR判定やデジタルスロットなど、人間が科学に操られるのでは、本来の「人間性回帰」の真逆だ。

一応、エリア別の予選をしても、国対抗ではなく、他エリアからの予選参加も可とすれば、実力別の上位者が残りやすいだろう。
こうした、グローバル時代の脱国際の祭典なら、初めは冗談に見えても。必ず、意義のある大きな大会に成長していき、新しい時代の価値観にもマッチするのではなかろうか。

未来社会の人類共通の神が何かは解らないが、科学による宇宙認識が新しい神だろう。科学も神の真理を求めるところから生まれた。
宇宙観に基づく神は、森羅万象へ敬意をこめた「固とネットワーク」の醸す力であり、科学を超える生命崇拝、人間崇拝の極致となるかもしれない。


知の蒙昧

2024年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム

8月8日夕刻、宮崎県沖の日向灘でM7.1の地震が起こったことで、気象庁は南海トラフ「巨大地震注意」を初めて発表した。
この新事態での気象庁とメディアのやりとりを聞いていて、笑い事ではないのだが、笑ってしまった。
科学信仰の、ファクトやエビデンスへの拘りが、数値なくしては納得できない、現代の不毛をさらけ出していた。

気象庁は「南海トラフがいよいよ安心できなくなったかも」と言いたいのだが、そんな言い方では誰も納得してくれない。なんとか科学的語法で説明しようとするのだが、悲しいかな、そこまで予知技術が発達しているわけでもない。あくまで危険の「漠然度」の説明しかできない。期待の言葉を聞けないメディアは「何が言いたいんだ」とばかり詰め寄るが、自分たちの理解力が無くなっていることに気づいていない。

知の蒙昧
現代人は数値がなければ納得できない。逆に、数値を聞かされると解ったような気がするが、ただ納得するだけで、却って何も見えなくなっている。
巧妙な詐欺はファクトとエビデンスと数値を羅列する。一度も会ったこともない有名人が「実際に」メールや電話をしてくると間単に信じる人がいるのは、社会インフラとしてのメディアを、自然環境のように信じているからだ。
そんな人を笑う教養人も、自分の知識にある「確かな」情報と思えば信じ込む。成績優秀な人がオウムを信じたのも、自分の信じる知識を、想定外の論理で展開する麻原のデタラメな「新しい」知に魅了されたからであり、これが詐欺の世界だ。

情報社会では、知識こそが真実の入り口だと信じられている。
歴史が繰り返す理由の一つに、社会認識の老化による思考停止がある。情報飽和の中で知識の認識法が定まると、その社会は他の視点や進んだ視点を持てなくなり、やがて老化した常識を超える現実によって崩壊し、再びゼロから認識を築くことを繰り返す。

こうした思考停止への警鐘が「色即是空」であり、情報飽和による停滞は古代から繰り返されてきた。真理は情報や価値観の外、「無」にあると言うのだが、情報社会に埋没した現代人は、科学的に説明できない「無」は、理解も納得もできない。
ちなみに、生老病死の苦の受け止め方も、価値観によって変わる。欲を捨てよとは、価値観が誘発する欲のことであって、基本的な生命欲のことではない。

地震という苦から、情報と科学で逃れようとする欲は、現代の煩悩であり、コロナワクチン同様の科学信仰の免罪符だ。科学の成果は偉大だが、その前に大切なことは、自然災害やパンデミックへの悟りと姿勢だ。先ず、逃れられないものを受け入れ、その上で、向上への営みを続ける。

生老病死から逃れられないように、自然災害からも逃れられない。その認識こそが科学的努力を生み、災害への対処を生む。
科学が何とかしてくれると偶像化するのは、雨乞いとかわらない。個々は自分の認識と判断で行動する覚悟を持ってこそ救われる。科学の最前線にある人はそれを認識しているが、科学の成果だけを求める人は、ネットで買い物をするように答えと救いを求め、期待外れだと己の欲を忘れ怒り出す。

周章狼狽
気象庁の気持ちが伝わらなかった日本社会は、心がけではなく処置をした。
テレビは24時間災害テロップを映し、首相は出国を止め、電車は運転を見合わせ、催しは中止された。さらに悪いことに、伊豆や北海道で大きめの地震が続いた。この状況に震え上がった人々は、旅行、宿泊のキャンセルをし、膨大な経済損失を出す結果になった。
この責任はメディアの蒙昧にあるが、厚顔メディアは不都合になれば科学者たたきに変わるだけだ。

日本は災害列島だ。一時たりとも地震から逃れられないが、日頃はそれを忘れて暮らしている。日夜地震と向かい合っている科学者が首をかしげただけで、突然、地震だと騒ぎ出す。警戒をすることは良いことだが、あたかも、今だけ特別な事態になったように騒ぐのは、日頃、いかに現実に目を背けているかということだ。それが、原発災害や多くの死者をだした。
日本列島は大ナマズだ、何時どこで動くかより、何時動かれても振り落とされない常在戦場の心がけがなければ、日本列島にはとうてい住めない。


AI対話 2

2024年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム

AI対話」で蘇とチーズのつながりの可能性を問い、かなり手応えを感じたので、十代から抱き続けてきた疑問を問うてみた。長くなるので結論だけ言うと・・・

<疑問>
日本語の「櫂」と「カヤック」の語源は同じで、水や、その上を渡ること、それにまつわるものは「ka」や「ca」と言ったのではないか(ka ke ca ce sa se)。
さらに、「sea」や「sail」の語源とも超太古でつながつていたのではないか。
・・・
この疑問についてChatGPTと対話を繰り返し、ほぼ確信に至った。

<概要>
少なくとも環太平洋地域では、水上を渡るものは、カヌーやカヤックなど、「ka」や「ca」「qa」、「か」の音のイメージで伝わってきた。
また、印欧語の「s」が、他言語で「k」に対応することもあり、「sea」が「ka」に対応する可能性は否定できない。
このことから、個人的独断として、海と舟は超古代に人類が海に出遭い、それを渡った時から、変わらぬイメージとして生きてきた。


以下、ChatGPTに提示された単語。(※は私的注釈)
環太平洋地域の言語
1. 日本語
 櫂(kai): 船を進めるための道具。※舵、掻く、漕ぐ等も
 海(umi): 海洋。
 舟(fune): 水上を移動するための乗り物。
  ※umiは、うつろなど、とりとめのないものを指す「u」の音感?
   funeは出自不明だが、umiやukuと関連?

2. ポリネシア諸語
 カヌー(Canoe): 伝統的な舟。
 マオリ語(ニュージーランド): waka - 舟。
 ハワイ語: waʻa - カヌー。
  ※日本の古語では海を(wada、wata。渡るも関連)
   wakaは wada+ka ?
3. アボリジニ諸語(オーストラリア)
 カヤック(Kayak): 小型の舟。
 ユランダジ語: yuk - カヌー。※Kayakの訛り
4. アステカ語(ナワトル語)
 アトラカ(Atlaca): 水を渡る人(舟で渡ることを指す)。
 アトル(Atl): 水。
    ※大西洋の語源はラテン語Atlanticus aquaラテン語の水
     古代米大陸とヨーロッパのつながりを連想させる
5. インドネシア語
 Kapal: 船。
 Kano: カヌー。
6. フィリピン諸語(タガログ語)
 Bangka: ボート。
 Sakay: 乗る(船に乗ることを含む)。
7. マレー語
 Perahu: ボート、舟。
 Sampan: 小舟。
8. 韓国語
 배 (Bae): 舟、船。
    ※出自不明。ロシア語では水をвода (voda)。タガログ語Bangka
その他の地域の関連単語
9. エスキモー・アレウト語族(イヌピアック語)
 Qajaq: カヤック。


持ってる

2024年08月05日 | 星の流れに

オリンピックのサッカー、スペイン戦で、細谷真大の劇的同点弾がVAR判定で取り消され、「三苫の1ミリ」との対比で「細谷の1ミリ」と言われた。
細谷は確かに良い選手のようだし、それだけの実績と信頼があるのだろう。ずっと使い続けられてきた。しかし、今回の大会、何かと不運だ。
生年月日を観て、「やっぱり!」と嘆息した。乙女座だった。

このところ、ことあるごとに書いているが、変容宮はちぐはぐな不運に見舞われる。
魚座の土星、双子座の木星、火星、それに天王星の影響まで加わり、好事魔多しのようなことばかりになる。中でも乙女座は、これまで牡牛座の天王星と山羊座の冥王星に支えられ、幸運に恵まれてきただけに、その神通力が無くなり、不運が目立つことになる。

天王星が来た星座は大いに目立つが、それが通り過ぎるといつの間にか消えていく。このところ女子サッカーで牡牛座が目立ってきたように、10年前の天王星・牡羊座時代は男子サッカーでは監督のザッケローニを始め、牡羊座が目立っていた。
天王星通過の星座は異常に目立つが、その星座と好相性の星座は幸運に恵まれ、努力次第で、実力+αの結果が出せる。これまで乙女座がそうだったが、今は天秤座に入れ替わった。日本は天秤座だ。

占星術の観点からは、実績は必ずしもアテにできない。ラッキーボーイやシンデレラは惑星が来た「持ってる」人物の中から生まれる。
選手起用には占いも加味すれば良いのだが、科学時代だから証明できない基準などありえない。事件捜査など人権が絡む問題には決して用いてはならないが、勝負事などには、一つの余興として考えても良いのではなかろうか。