魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

異形の力

2011年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

野田佳彦新総理が生まれた。
以前、書きかけのメモに、
「野田佳彦と小沢一郎は同じ種類の顔をしている」
と、書いていた。

野田はかねてより政界では評判が良かった。初めて見た時、日本ではこういう顔が人気するんだろうなあと思ったが、尤もらしさの割に、言っていることは、当たり障りのないほとんどどうでも良いようなことだったから、まさか本当に首相になるとは思わなかった。

今回、自分のことを「どじょう」と卑下しながら、やる気を強調したのだが、英国の新聞は首相たる者が、自分を「どじょう」などと言ってはいけないと批判的だった。
日本人の好む「泥臭さ」は、英国紳士には理解されないようだ。

日本はやはり、潜在的にアジアの神秘性を好む。巨大な力は大自然にあり、人並み外れた力の持ち主は、人間離れをした顔をしている。
そんな「信仰」が、異形の人物には能力があると信じさせる。

兜町の風雲児とかオウム麻原のような風貌だと、教養のあるはずの人が簡単に信じてしまう。
髪もひげもボウボウにした姿を、秘境の仙人のように思うらしい。
敗残日本兵と同じ姿なのだが。

小沢批判をしてきたマスコミは、小沢の能力を信じ恐れている。だから、批判する。そのことが、むしろ小沢神話を膨らませ、小沢に付き従うものを増やし、それがまた力となってきた。偶像が偶像を生むスター神話。小沢は政界の光源氏なのだ。

そうした背景には、異形の顔の効果が大きい。小沢一郎の顔は怖そうだ。そして、野田佳彦もまた、異形であり、「どじょう」より雄鶏に近いが、小沢、野田ともに5月生まれだ。
野田は牡牛座で、木星が牡牛座に来た効果とも言えるが、前原も牡牛座なので、他の要因が影響している。

野田と小沢は、牡牛と双児だが、誕生日で言えば4日違い。(占いの要因は区切りで変わるものではなく、全体状況が影響する)
二人とも、若いときにはごく普通の顔をしているのに、40を過ぎるとみるみる変化して(それは誰でもだが)、二人とも立派な「異形」が完成した。

政界で活動するうちに、日本政治のエッセンスを吸収した結果が、あの顔を造り上げたのだろう。ある意味で、順応能力の高さを表すものだが、同時に、日本政治というものを象徴する顔とも言える。
今回の選挙演説でも、野田の言ったことは政策ではなく人情論だった。小沢も政策演説が上手くない。

異形とムニャムニャ言語。日本の政界はムード政治だ。言語明瞭は排斥されるから、「言ったような顔で何も言わない」で、ここぞと言うときに威嚇したり、標語を繰り返し叫ぶことが政治を動かす。
政治をしているような顔をしていることが、日本の政治家の仕事だ。

西の政治が苦境の日本を動かすと言ったのだが、政界好みは、また千葉だ。


オタク国(3)

2011年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の標語に「新生興国」はどうかと挙げたが、どうもインパクトが弱い。それと、NHKに「日本新生」という番組があった。
もっと良い標語がないものか、もう少し考えてみよう。

「新生」<SHINSEI>と言えば、戦後の復興の気運の中から生まれたタバコの名称だ。やはり、こういう荒廃状況では、誰でも「新生」という言葉を思いつくものらしい。当時は「新世界」という名称も好まれた。

したがって、これしかないピッタリの名称なのだが、タバコの<SHINSEI>は後に、安タバコの代名詞になった。
物不足の戦後に生まれたから、質も価格も相対的に安くなるのは当然だが、同じ大衆タバコでも明治生まれの「ゴールデンバット」には何故か安物感がない。

紙芝居のヒーロー「黄金バット」の名前の由来は知らないが、おそらく「ゴールデンバット」が影響しているのではなかろうか。作者がたばこを吸いながら思いついたとか・・・。
経緯はどうあれ、「ゴールデンバット」には、それなりのインパクトがある。

誕生が明治39年だから、日露戦争終結の翌年で、日本中が高揚感に沸いていた時代であり、いかにもそれらしい名前と言える。
しかも、意味だけではない。何よりも「響き」が豪華だ。

「しんせい」には濁音が無く、破裂音もなく、美しくピュアーだが重厚感とインパクトがない。
子供の名前に「しんいち」や「しんじ」のように「しん」を付ける親の気持ちには、無条件の愛情と喜びが溢れている。こういう名前の人は、特に母親に可愛がられたことが想像できる。(本人がどう受け止めていようと、親に縁がなかろうと)

「ゴールデンバット」は逆に、濁音と破裂音と「R」まで入っているから、極めてインパクトがあり、あくが強く、勢いがあり、強そうな響きだ。

「B」や「V」、日本語で「バ行」には高級で豪華な響きがある。
バン、ビューティフル、ビデオ、ブルーレイ、ベンツ、ブティック、ボーグ・・・
ところで、「お床入り」と言うと、かび臭くてイヤらしいイメージだが、「ベッドイン」と言うと、何か、豪華で素敵なことのような響きがある。もとより、外国語のごまかし効果もある。

戦後のアメリカ一色の時に、「新生」という日本語が使われ、日露戦争勝利に沸き立つときに「ゴールデンバット」という英語が使われた。
これは、日本人のバランス感覚の表れとみることもできるが、日露戦争に米英の助けがあったことへの、米英びいきなのかも知れない。

ずいぶん話が飛んでしまったが、
「ゴールデンバット」のように音も内容も響きが良いもので、幕末以降、最も印象に残る標語は
「尊皇攘夷」「文明開化」「富国強兵」「所得倍増」「列島改造」だが、中でも「B」の字が入るのは「文明開化」と「所得倍増」だ。
これを参考にして、「新生興国」を言い換えて、
文化立国」「文明創世」など、どうだろう。


オタク国(2)

2011年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

もう一つ、秋元康が言ったことと、これまた、以前から主張してきたことが一致した。
「日本に必要なことは解りやすい言葉だ」
その例として上げた「所得倍増」「列島改造」まで同じだった。

ビジョン(1)」、「言霊立国」、「言葉の御旗

言葉無視の菅エンジン政権は論外だが、近年、日本中が一丸になれる標語がない。
大震災で出てきた「がんばろうニッポン」は、「欲しがりません勝つまでは」のように、抑圧的で後ろ向きの標語であり、いつまでも続かない。しかし、「所得倍増」や「列島改造」のような発展的な言葉には、誰でも乗りたくなる。

「がんばる」は、苦しいことに堪えることだ。土星が来た日本に重くのしかかる、いかにも土星らしい言葉だ。
(土星は苦を表し、山や壁を表す)

ところが、「増」や「改」には、新しいことが始まる希望がある。
今の日本に切実に必要なスローガンは「ガンバロウ!」ではなく、血が沸き立つような、胸が空くような、高く大きく強い言葉だ。

不況、大震災、原発と追い詰められた日本には、すべてを始めからやり直したい気運が満ちている。
政治家は国民に、これから明日に向かって立ち上がる勇気と希望を与えなければならない。

新生興国」を標語にしてはどうだろう。
エネルギー、産業構造、社会構造を、抜本的に改めて、次の世紀に向かうビジョンとする、そんな政治家は現れないのだろうか。


オタク国(1)

2011年08月27日 | 兄弟関係

WBSで、秋元康が「日本はもっと自信を持って、徹底して自分達の興味を追求したら世界にアピールできる」と言っていた。賛成だ。

まさに、「新鎖国主義」で繰り返し言ってきたことだ。
他国がどうであろうと構わない。歴史的に一人っ子の日本は、自分の生き方に専念することが、唯一、生き残る道だ。

一人っ子は、どんなに上手く人づきあい(外交)をしようとしても、兄弟関係の原理が解らない。
人間に、それぞれ特技があるように、国家集団にも特技がある。
立ち回りの上手さで生きる人もいれば、リーダーシップで生きる人もいる。黙々と従う人がいれば、アドバイス上手の人もいる。

一人っ子の特技は、独創性だ。周囲の人や物を観察して独自のものを作り上げる。観察、洞察、創造に長けているが、主張も説得もできない。

周囲の人が驚くようなものを作っても、自分では「他人と比較」すれば大変なものだと言うことに気づかないから、売り込む気がない。能力もない。
また逆に、何か人の気に入るものを作ろうとしても、他人が何を望んでいるかが解らないから、喜んでもらえない。

独創的なものをつくっても、その価値に気づかないから、それを見た素早い奴に持って行かれる。売ろうとしても手遅れになる。
こういう、素早い泥棒から守るのは、盗まれないことより、盗めないようにすることだ。特許ではなく人材だ。

形にすれば盗まれるが、「能力」そのものは盗めない。
売ろうとして、形にすれば盗まれるが、人間国宝は盗めない。人間国宝には尊重してお願いするしかない。
ものを作って売ることより、ノウハウを作るシステムを独自に構築する。つまり、誰の助けもアテにしない、新鎖国主義だ。
ウインドーズではなくアップルの生き方だ。

世界の動きから孤立して、独自の部屋に立てこもる。オタク国家になれば、「あそこに行けば何かがある」と、認知され尊重される。

一人っ子の能力は、良いマネージャーで活かされる
「能力」をうまく商品化してくれる人、この場合は、国であり、文化経済の場だから、アメリカは最良のマネージャーだったし、歴史的に最良の目利きはフランスだった。

中国のように、巨大なブラックホールは、阿倍仲麻呂の昔から、文物才能を飲み込んでも、還元はしてくれない。
フランスは日本と距離があったから、独立した文化と認め、アメリカはローマ的なグローバル観で世界を自分の領域と考えるから、特に「自分のもの」にする必要は無かった。

古代帝国中国の台頭に際し、フランスやアメリカのように、横型の公平な相手だと思って媚びを売っては、すべてを失う。欧米とは哲学が違うことをわきまえる必要がある。

世界がどのように展開しようとも、まずは、日本が中立的に独立できる、自覚と哲学をもっことだ。

グローバル化の中で、われわれ日本人は要領よく立ち回れないことを悟り、徹底してオタクを磨く。
面白いこと不思議なワザが欲しければ、日本に来いと。


西の風か

2011年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

政局の話題はうんざりだが、民主党代表戦の前原立候補は、少し興味深い。
出ないと言っていたが、世論で断トツの一番人気だった為、出ることになったのだろう。

首相にふさわしい国会議員で、石破と前原が、甲乙付けがたい人気になっている。今回は民主党代表選だから当然、前原が一番人気だ。

この二人、いずれも鳥取の人間だ。前原は京都生まれの京都育ちだが、両親とも鳥取で、本人の性格も、およそ京都人とは言い難い。まったく融通が利かない。
石破も、条理一辺倒で、まめにテレビに出て柔らかいところを見せているが、辞書に「融通」など無さそうだ。

今、なぜこの二人が、人気しているのかが、世相を反映している。
二人とも条理一辺倒で、言葉に遊びがない。
言葉に遊びが無いから、現実に直面すると、実現不可能に出会い、言葉とは裏腹に、矛盾した行動や曖昧な結果になる。

石破の場合は離党復党や、イージス艦事故の不手際などがあるし、
前原の場合はあまりに多いが、代表例として、尖閣対応がある。

それでも、現実無視の「言葉の美しさ」に、国民が引かれるのは、
20年の停滞・閉塞に、国民のガマンが限界に来ているからだろう。
何でも良いから、「いい話」を聞きたい。ヒトラーに惹きつけられたドイツ国民にも、通じるところがある。

この二人の正義感を、まったく疑うものではないが、政治は、不条理の懐刀を呑むような者でなければ、捌けない。

このところ、政界は西に傾いている。何度も触れたように、日本の風は西から東に吹く。窮地に追い詰められると西の原理が機能し出す。
もう、田中や中曽根、福田、小沢の時代ではない。

しかし、では、鳥取かと言えば首をかしげたくなる。
島根県は、古代から大国主の出雲族の地であり、若槻礼次郎や竹下登など、総理大臣を輩出する土壌がある。
ところが鳥取という土地は、実に微妙な土地柄だ。
出雲勢力と大和勢力の端境にあり、政治情勢に敏感で、血気盛んな割に、歴史的に「中途半端」に終わる。

後醍醐天皇に従った名和長年や、毛利の盾となって、秀吉の鳥取城攻めに最後まで抵抗した吉川経家(島根)など、何れも悲劇的な最期になるが、意外と知られていないのが、明治維新で薩長土肥の後に続くのは「因」だったという事だ。いつの間にか欠落してしまった。

幕末、鳥取藩の若手も相当血気にはやって家老を京都で暗殺するなどしたが、藩主が将軍の兄だったことで、維新の中核になれず、中途半端な結果になった。(因幡二十士事件=本圀寺事件)

とにかく、血気は良いのだが、「腹」が無い。始めがあって終わりがない。そのせいか、大物事業家も芸人も出ない。洒落の分からないクソ真面目な土地柄だ。出雲の阿国や安来節など無い。
石破も前原も鉄道が趣味で、意気投合したと言うから、笑った。
融通の利かない同士、一本線だ。石ころ一つで転びそうだ。

民主自民、いずれになろうと、国民は条理一辺倒の人物を求める。
日本人は、窮地に立たされると、思考停止し、神風だけ待つようになる。もう、そこまで来てしまったのだろうか。


運命の星(2)

2011年08月24日 | 大転換

インターネットによる情報の普遍化により、人類共有の認識が生まれつつある。
地政学的な利害を越えて、人類全体としての利害認識が、漠然とではあるが、人類を統一に向かわせている。

マネーの暴走が、国家の希薄化、通貨の希薄化を招き、為替の終焉が始まる。同時に、軍事力の国防的な価値も希薄化し、何れも新しい原理で再構築されるべきものになっていく。

「マネー」と言われるものも、元々、産革パラダイムの落とし子であり、付加価値が生んだ偽の価値だから、巨大な存在も実は虚像であり、プロジェクターが壊れた瞬間に、消え失せる。
ブランド品や預金や証券のような財産は、虚構であり、世界経済が破綻すれば、一瞬で消える。

産革パラダイムを信じる人は、プロジェクターの存在を忘れて、映像の中で、怪獣と格闘している。
そろそろ、250年の上映時間も終わりに近づいてきた。
ごく少数の賢明な人は、帰りの混乱に巻き込まれないように帰り支度を始めている・・・

これらのことは、おそらく、冥王星が牡羊座に至る、これからの半世紀をかけて進行していくのだろうが、もちろん紆余曲折がある。
その中で、今回の土星の試練は、「凶事を持って吉と為す」ことが可能な、日本に与えられたチャンスでもある。

通貨や為替が、ただの数字になる前に、日本は円高を利用して欧米の企業を買いまくるといい。
工業生産を海外に移し、日本列島には、地産地消の自己完結型社会を築き、新鎖国主義で、世界から経済の永世中立を果たす。
学術文化の「知業立国」に転換する、絶好のチャンスだ。そして国家や民族の時代の、最後のチャンスになるだろう。

暗い時代を前向きに
今からの30年。世界は戦前のような状況になる。と言っても、直ちに軍事衝突と考えるのは単純すぎる。
「国家エゴの衝突による大崩壊」には違いないが、もはや工業生産力を競う戦争ではなく、通貨や為替の大崩壊に至る経済戦争であり、その主導権争いになるだろう。

どういう結末が待っているのかは解らないが、アメリカと中国のように、債権で抱き合っている国は心中するしかないし、日本も膨大な米債権国だ。

超大恐慌により、世界が通貨の総破綻をすれば、人と物だけが残る。
アメリカには人材が残り、中国には人が残り、日本には道徳が残る。

大航海時代に始まった、750年の「人類統合パラダイム」は、第二幕の、産革時代を終えようとしている。
次の250年、第三幕には国境も民俗もない、宇宙進出の準備時代になるのだろう。
直ちに国家は無くならないとしても、これからの50年は、第三幕にどう生きるのかを念頭に置かなければ、淘汰される側になるだけだ。


運命の星(1)

2011年08月23日 | 大転換

中国という大人口の国が、大量生産、大量消費に参加した時から、産業革命パラダイムの終わりが始まった。
過剰生産は中国の内需でどうにかなるような話ではない。
中国製品が質的にも向上してくれば、先進国の生産は行き場を失う。

世界的な生産過剰と需給バランスの崩壊による不況が、繰り返し金融危機を招き、通貨の価値が低下し続けている。これは通貨消滅の一過程なのかも知れないが、もちろん、そう簡単には通貨は無くならない。

今、円の独歩高が懸念されているが、土星のサイクルを逆読みすれば、これは日本の大チャンスだ。
天秤座に土星が来た後、日本は好景気になる。ただし、毒が含まれていることは忘れてはいけない。エンジン絶好調でも、崖に向かって走っている事もある。

朝鮮特需で日本が発展したと、朝鮮半島ではこれも恨みのネタにしているが、事はそんな単純な問題ではない。
朝鮮特需によって日本が得たものは、表向き産業の活性化だが、内実は、軍需大国旧日本の復活だった。

東西冷戦の固定化では、アメリカが旧日本の工業力を巻き込むことで力とし、それが、その後の日本工業の発展につながった。アメリカの資本主義経済の一翼を担うことで、日本はソ連崩壊にも協力したことになる。

日本経済の発展は、当然、アメリカに軍事力を依存していた身軽さもあるが、一方で、着実に軍事力の復活も計られてきた。
軍事的に「ゼロ」になったはずの日本が、土星が来るたびに軍事力の存在を固めてきたのは、これもやはり運命の必然としか思えない。

土星と日本の軍事化
土星の来た年を振り返ると、それぞれ大きな曲がり角を曲がっている。

1)誕生:昭和25年(1950)→警察予備隊。
2)成長:昭和55年(1980)→リムパック初参加。
3)認知:平成20年(2009)→民主党政権

民主党政権がなぜ曲がり角になるかと言えば、非現実的な軍事観が、かえって、現実的な軍事ニーズを表面化させたからだ。
沖縄問題、尖閣問題等の、大局観のない非現実的な対応が、むしろ国民に軍事力の必要を思い起こさせ、さらに、東日本大震災の災害全面出動によって、「兵隊さん」の有り難さを決定づけた。

道というものは、3回曲がると元の道に向かう。
今は昭和初期。確実に昭和25年に向かって歩み始めている。
つまり、今こそが、日本人の英知をためされる正念場なのだが、どうも、同じ愚を犯しているとしか思えない。

ただ、84年前とは違い、いきなり戦争に向かうほど、世界も浪漫的でもないし、兵器の巨大化や情報の普遍化で、戦争は不可能になっている。そういう意味でも国家は希薄化している。

大転換3」「嫌な記憶」「仏の顔も三度」「乱高下


君子外交(2)

2011年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム

江戸時代まで、日本人は中国や朝鮮に尊敬の念を持っていた。
しかし、西欧文明を取り入れて、実力が勝り始めると、バカにするようになった。
一つには、価値観や生き方を変えた日本に対し、清や朝鮮が拒否反応を示したことも、日本人の感情的反発を招いたし、その上、西欧方式により、実力的にも勝ったので、日本人の優越感が決定的になった。

日本が東アジアに対し、優越意識で接すれば、当然、それまで日本を目下(文化的下流)と見ていた国々は受け入れられないから、よけい反発が生まれる。
戦時中、日本が目下あつかいした、他のアジアの国々が、今日の中韓ほど日本に反感を持たないのは、これらの国々は過去に、日本との関わりも薄く、特に目下とも思ったことがないからだ。

今、日中韓の感情的反発は、世界から見れば、滑稽なぐらい激しい。
これは、この200年の間に、東アジアの置かれた状況がめまぐるしく変化した名残であるし、いまも、そのもつれに囚われているからだ。
罵り合いが罵り合いを生んでいる。

江戸時代以前、日本と大陸との関係が比較的良好だったのは、相手が、見下していても、日本が敬意を払っていたことにあるだろう。
ことに、中国は日本を属国とは見なしていなかったから、よく解らない相手として、大人の付き合いができた。

人づきあい
人間同士でも、こちらをバカにしたり、嫌ったりする相手を好きになることは、まず無いだろう。
イヤな奴と思っても、相手がこちらを好きなら、好きになることはなくても、嫌いにはなれない。
ただし、「好きだ好きだ」と言いながら、嫌なことをする相手は嫌いになる。

問題はこの「嫌なこと」が何かだが、自分が気に入って部屋に飾っている絵に、ケチをつけたり汚したりすれば腹が立つ。
たとえそれが、他人の絵を勝手に飾っていても、あからさまに指摘すれば腹を立てる。自慢している最中に、「これは私の絵ですが」と言えば、立場がないから「デタラメダだ!」と、逆上する。
かと言って主張しなければ、認めたことになる。

こういう場合は、腕力が無くても、少し賢い人なら、一切、見なかったことにして、着々と証拠作りをし、常に所有権の記録を公機関に申請して、周囲の人には静かに事情を説明して解ってもらっておき、何時でも裁判ができるようにしておく。事が起きるまで、日頃は、表だって声を上げないのが大人の対応だ。
声を上げた方が負けだが、相手があまり図々しいと思わず、声を上げたくなる。しかし、正念場でもないのに、挑発に乗ってチョコチョコ意思表示をしていたら、他人から見れば同じバカになる。

逆に「嫌なこと」をされても、大人なら、笑っていられる。
内心どう思ったとしても、感情を表さず、相手の良いところを探して、誉めていれば、増長するかも知れないが、既得権にさえ気を配っていれば、何の不利益もなく、相手の方もこちらに好感を持ち始める。
非常に良い関係になってからなら、話し合いの余地も出るかも知れない。そうならなくても、最後の手段が残る。
ガンマンは相手が抜くまで抜かない。

個人の付き合いも、国同士の付き合いも、馬鹿な人は、常に感情的な喧嘩を繰り返すが、賢い人はむやみに喧嘩をしない。喧嘩はしないが、冷静に相手を観察し、相手の短所には警戒し、長所を探しては上手に誉める。それも敬意を持って本気で誉める。

それでも、喧嘩しか仕掛けてこないような相手には「君子危うきに近寄らず」で関わらない。
どうも、今の日本は、この逆ばかりをやっている。猫なで声に鼻の下を伸ばし、暴力団にすぐ上納する。

一方、現実を直視できる大人なら、こちらさえ大人になれば、認め合うことができる。
どこの国でもバカはいるが、中国の「学習」は、相手を認めようとする文化でもある。願望や期待、感情的な対応などの「甘え」を廃した上で、認め合えば、中国とは大人の良い付き合いが可能だと思う。

中国とつき合えないのは、こちらに大人の度量・風格が無いからではなかろうか。政治家やマスコミが、大局の利害を忘れ、小さなことを一々問題にして口に出し、つじつまを合わせようとする。
これは、決して間違ってはいないが、真面目な小学生だ。ナメられても仕方がない。

君子外交(1)


昭和の種

2011年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム

前世紀。若者は、人生の目的のように自動車に憧れた
自動車のような、大規模工業生産が社会の原動力となった時代には、人間の造り出す、早い強い美しい「物」が、社会の価値観だった。

しかし、大量生産の行き詰まりによる不況で、「物」から目覚め、「人間」に回帰し始めた現代の若者にとって、自動車は単なる「道具」となり、憧れの対象ではなくなった。
その心の変化を知らない前世紀の大人達は、何とかもう一度「車の魅力」を引き出そうとしたが、明らかに勘違いであった。

慢性不況、ガソリン高騰、環境問題などもあって、車の売れない時代に、軽自動車だけが伸びている。
世界でも、インドのタタなど、低所得地域のニーズもあるが、それ以上に先進国では、日本と同様に、車に対して冷め始めている。

物に振り回されていた時代から、「地球と調和する人間社会」を目指す願望が広がり始めた。人間のあるべき姿に向けて、物を作っていく時代になった。車の為に高速道路を作るのではなく、人間サイズに適した工業開発が考えられるようになりつつある。

情報通信の発達が、闇雲に出かけていく必要を減らし、高齢化も、運転人口を減少させる。個々が運転して遠出することは、社会設計としても無意味になるから、当然、公共交通のさらなる高度化が必要になる。

近距離移動用の超小型車と、遠距離移動の鉄道を組合せ、駅前のレンタル自転車のような使い方や、鉄道に車ごと乗り込める仕組みの、ソフト面の智恵が必要になる。
これからは、経済も生活も福祉も、物や金ではなく、「智恵」の時代になる。

狭い日本、ガソリン振りまき何処に行く
軽自動車は、日本だけで磨き続けた、特異な技術資源である事に、自動車業界もようやく気づき始めた。
30年以上前、確か、自動車工学の樋口健治氏が、軽自動車は日本独自の技術であり、将来大きく発展する・・・のような事を言っていた記憶がある。
ようやく今、その予言が成就しようとしている。

これからはさらに、EVなどの環境技術も加わり、日本の軽自動車が世界をリードするオンリーワンとして花開くだろう。
軽を愛する者として、ワクワクする。

しかし、周りにはハイエナやハゲタカが待ち構えている。
日本の軽自動車技術が、ますます発展する為には、先ず国内から、大型車に規制を掛け、軽の規制をさらに緩和して、可能性を広げて欲しい。

税制、交通規制等によって、車社会の質的転換を進め、その交通社会モデルを輸出すれば、次世代の大きな産業にもつながる。
物はマネできても、システム全体は、一朝一夕にはマネできない。
今回の中国高速鉄道事故は、日本にとっても大きなヒントになった。

前世紀の価値観や、利権構造で考えていては、世界とともに経済破綻の大洪水に飲まれる。箱船ニッポン新鎖国主義だ。

明日へ舞い上がれ」「二輪サイズの四輪車


ナマズ頭

2011年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

夏バテで、風邪気味だ。
喉や鼻の様子がおかしいので、栄養を取ったり、休んだりしているが、19日の7時頃、目が覚めると、やたら後頭部が痛く、頭の中が蝉時雨のような耳鳴りで、寝むれない。
『風邪が悪化したか』と、思いながら、努めて寝るようにしていた。
それでも、2~3時間眠ったようで、11時頃起きると、頭痛は治まっていた。

やっぱり、風邪なのかな、睡眠が少し効いたようだ。と思っていたら、
14:36、福島県沖でM6.8の地震があった。

昨年暮れ頃から、やたら、頭痛に悩まされている。311の時は、吐き気まで伴う不調が続いた。
その後、余震がこれだけ続くと、地震と頭痛の関係は、ほぼ確信するようになった。

後頭部が痛い時は比較的遠隔地、頭頂周辺は300km前後、前頭部は100kmくらい。意外にも地元だと、ほとんど気づかない。
ただ、頭痛ではないが目の周りが固まったような不快感がある。
頭痛が治まって、1~4時間ぐらいで、約M4以上の地震が起こる。

しかし、今回のように、疲労など明らかな体調不良がある時には区別がつかないし、もともと、そういう特殊能力があるかのような思い込みには、自分でも極めて批判的に警戒しているので、頭が痛いからといって、「地震が起こる」などとは公言できない。

痛さもまちまちで、一瞬、ズキンとするようなものや、長時間ずっと悩まされるものもある。軽いものの場合、寝ている時には気づかないし、忙しくしている時には忘れてしまう事も多い。最近のように地震が連続すると、気にしない事に努めているから、なおさら忘れる。

昔から頭痛に悩まされてきたが、頭痛薬は飲まない事にしている。
今でも症状が記憶に残るぐらい、激しい頭痛に襲われた事があるが、その時は何も考えていなかったので、もし調べたら、地震と連動していたのかも知れない。しかし、正確に何時だったかが記憶にない。

専門家が聞けば脳腫瘍など疑うかも知れないが、例えそうであっても、とりあえずこの年まで生きてきたから、治す気はない。
理由がどうであれ、異常がセンサー効果をもたらしているとすれば、むしろその方が、価値があるので、病院でも、治療する事だけでなく、頭痛を訴える人と地震の相関関係を、一度、調べて見てはどうだろう。


電網孤独

2011年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

秋葉原殺人事件も、ノルウェーテロも根は同じ、妄想の肥大化だ。
ネット時代、人と人とのコミュニケーションが、ほとんど断絶に近いぐらい希薄になった。
だれも、「そんなことはない、むしろ昔より、コミュニケーションが広がった」と言うだろう。

確かに、意志や知識にふれあう機会は、桁違いに拡大した。
しかし、ネット上の対話は、極端に言えば自動販売機の「アリガトウゴザイマシタ」や、おみくじの吉凶程度で、本当の意味での対話ではない。

人間同士のコミュニケーションでは、言葉はほんの一部に過ぎない。
対話の祭には、互いの肉体的要因や、表情、ジェスチャーなどの膨大な情報に加え、目に見えない文化的な作用も働く。

聞いているのが嫌になっても、途中で止めて、他の事を始めるわけには行かない。大なり小なりの気遣いも必要だし、発音やイントネーションなどから推測(あるいは誤解)する人間性など、生身の人間をあいてにしてこその鍛錬ができる。

そうした鍛錬をしながらの対話では、相手の意見の背景を考えたり、自分の理解や判断を修正する事ができる。
ところが、「アリガトウゴザイマシタ」と言う自動販売機には、
気分次第で「うるせえ!」と言い返す事ができる。
ここで、『うるせえ!』と思っても、口に出さないでいると、『まあまあ、でもね』と思い直す。
人間を目の前にしての対話とは、そういう状態の積み重ねだ。

生身の人との対話は、多元的で豊かな思考の育成になるが、一方的に「見て」判断するネット上の理解は、常に独断であり、情報知識に接すれば接するほど、思い込みを確信していく事になる。
何しろ、自分の判断の裏付けになる事しか認める必要が無いからだ。

加えて、ネットに接する時間と、人間との接触時間は反比例するから、ますます思考が偏狭になる。
チャットなど、ネット上の対話は、暴言やバカ丁寧で、生身の手加減がない。だから一度、気に入らない事が起こると、相手の人格や気持ちに関係なく無神経に攻撃を始める。

こうした、人間味の欠けた世界にいると、人間が存在しなくなり、他人の存在はただの事柄になってしまう。
だから思い通りにならない社会は、リセットしたくなる。

実は、人間味を失った自分をリセットすべきなのだが、ロボットの思考では、自分の論理やアルゴリズムで動かない「人間」は、壊れているから、解体しなければならないと考える。
それが、秋葉原やノルウェーの森事件になった。

集団自己中
事件ほど、極端ではないとしても、世界に広がるネットナショナリズムは、こうした「思い込み」の集団化であり、それぞれの言語世界にとって、納得しやすい、自己正当化の知識や論理だけが受け入れられ、(異見は炎上)、少しでも受け入れられない他国の情報には、集団ヒステリー状態になる。

ネットは便利なツールではあるが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」。思考はネット情報ではなく、「人」と自分の足で養うべきものだろう。
「人」とは本や映画にまとめられたものも含むし、自分の足とは、無心で現地の人に会ったり、時代の資料にあたって見る事だ。

現物には解説がない。それを判断するのは自分であり、そこに当たる過程で、現物でなければ得られない発見もある。
まずは、外に出てみよう。できれば地の果てまでも・・・


ディスプレー上に小さなクモが降りてきた、いくら追っても逃げないと思ったら、カーソルで追っていた。
いけない、いけない そろそろ外に出かけよう


右往左往  

2011年08月17日 | 星の流れに

先日、韓流ドラマばかりはおかしいとツイートした俳優が、プロダクションを事実上解雇された事はおかしいと思ったが、(「異国の風」)
今度は、長万部のゆるキャラ「まんべくん」が戦争発言をして炎上し解雇されて、町長が謝罪したそうだ。

この問題は、公の立場に成り切って、個人的意見をツイートをした事にあるが、むしろ、驚くべき事は、ほとんどがその内容の方に反応した事だった。
これが、もし、日本は素晴らしい正義の戦いをした、と言った内容だったら、果たして抗議が殺到していただろうか。むしろ賞賛されていたような気がする。

今の日本は、反動の反動がピークに達している。終戦直後、それまでの政治や社会に対する反動から、いわゆる自虐史観と言われる極端な左傾化が起こった。それが30年続くと、今度は逆に徐々に右傾化し始め、長引く不況の閉塞感とともに、今や右傾化が常態化して、日本に対する冷静な批判さえ、躊躇されるほどの状況になってきた。

占い的には、左傾化も右傾化もサイクルだ。何事も「極まれば転ずる」。変化を求めるという意味では、左右にかかわらず、始まりは革新的だ。

右や左の定義は難しいが、要は、開放的か閉鎖的かということだろう。
占い的に言えば、肉体的皮膚感に基づく現実思考か、観念的イメージに基づく理想思考かに別れ、前者が女性星座、後者が男性星座となる。

女性星座が影響すると皮膚感で思考するようになるから、身近な現実に基づいて思考し、家族や地元、民俗主義やナショナリズムが、世相を覆う。
男性星座が影響すると、知識や好奇心で思考するようになるから、現実離れをした、それまで無かったような生き方が求められるようになる。

今現在は、天王星が男性星座の牡羊座に入ったばかりで、まだ、魚座の影響が残っているし、海王星が魚座、冥王星が山羊座と、女性星座に覆われているから、全体には天王星の影響があっても、女性星座的な価値観の世相が続く。

昭和の始めには、やはり天王星が牡羊座にいたわけだが、冥王星がカニ座、海王星が乙女座と、やはり女性星座にいた。
この先、天王星が牡牛座に移る2018年頃は昭和9年頃で、満州国建国にあたる。

当時の軍部の暴走は、今なら官僚の暴走で、何れも利権屋が絡んでいる。84年周期の一方では、60干支周期もあるから、徐々に好景気に向かう。
合わせて考えると、どこに向かっているかは別として、転換指向により、日本は上昇モードに入ったと言えそうだ。


別れた人

2011年08月16日 | 兄弟関係

別れた人にあった 渋谷の街であった・・・別れても好きな人

元カレ・元カノに対する思いは、長子と弟妹では真逆ぐらい違う。
まず、恋愛行動の基本が違う。
長子は何事もよく考えてやろうとするから、奥手であり、プライドが高いから、なかなか自分からは声を掛けられない。
弟妹型は、状況主義だから、常にダメもと精神で、とりあえず声を掛けてみる。

弟妹型同士は盛り上がるのも早いが、別れるのも早い。それでいて、もとのさやに収まったりする。とにかく、基本ルールがない。
長子同士は、静かに始まり静かに続く。別れる時も静かに別れる。
遠距離恋愛が成り立つのも長子同士だ。

長子同士は、ある程度話し合いができるので、別れる場合も二人で解決するが、弟妹型同士は、弁護士であれ、友達であれ、第三者を必要とする。
恋愛相談した相手と付き合い出すようなケースもたいてい弟妹型だ。ただし、相談を受けた長子がいつの間にか乗り換えられているという事はある。

弟妹型にとって、長子は簡単だ。声を掛けると、長子は頭から拒否するか、そうでなければ、ほとんど乗ってくる。
声を掛けられたり、働きかけられると、長子は自分の都合さえ許せば、とりあえず話を聞く。ただし、いきなり恋愛とは考えない。どういうつもりなのか考えながら応対する。

弟妹型の場合、異性から声が掛かれば、ほとんど「そのつもり」で対応する。だから、当て外れで気を悪くする事もよくある。しかし、状況主義だから、傷つく事はない。

長子は、様子を見て考えたすえに恋愛モードに入るから、勘違いだったり、相手の気が変わったりすると深く傷つく。

心変わり
長子と弟妹型の恋愛は、長子は義理堅いが、弟妹型は成り行きでどうにでも変化し、始めは激しく強引に近づいて、長子がその気になると、親兄姉の束縛を感じて、うっとうしくなる。

一方で、弟妹型は、長子の誰でも相手にする八方美人で、自分が構って貰えないと、心変わりと判断する。親兄姉が忙しい時、ゴネても相手にされないと、ふて腐れて外に遊びに行こうとする。
そこで、新しい目標ができると、そちらに飛びつき、今度はウルサイ長子の恋愛原則がジャマになるから、アッサリ別れる。、時間が経つとまた、気分次第で長子に声を掛ける。
しかし、長子は振られた時に、自分の恋愛原則の修正を迫られるから、長時間葛藤したすえ、相手の事を完全整理する。

気楽に声を掛けてくる弟妹型に対し、長子は元のような恋愛感情を持てない。しかし、歴史を捨てない長子は、過去の人に対して、邪険にはしない。
例えば、何かに困っているのではないかと、いかにも長子らしい責任感で応対するが、相手が昔のような感情を要求すると、「どの面下げて」と腹を立てる。が、怒る事もしない。もう整理された他人だからだ。

焼けぼっくり
弟妹型同士なら、いつまでも相手の事を恨んでいるかと思うと、冒頭に上げた歌のように、ふとしたきっかけで「焼け木杭に火が付く」。弟妹型は無原則で状況次第だからだ。
しかし、長子同士は、別れる事も少ないし、仮に別れた者同士が出会っても、他人として接する。原則論同士だからだ。

長子と弟妹は不可思議な関係になる。長子は他人として接するが、弟妹型は昔の感情のリプレイになり、『♪別れても好きな人』と、無邪気に昔に帰ろうとする。
長子は、珍しさで、一度ぐらいは付き合うかも知れないが、恋愛を再燃させる気はない。

恋愛トラブルには、こうした兄弟関係も大いに関係しているので、注意してみる必要がある。


生きる事

2011年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

今日はお盆だ。死んだ人が帰ってくる事になっている。
子供の頃は、ご先祖様を迎えに行くように言われて、表で「おがら」を焚いて、家の中まで迎え入れた。
その頃には、その行為をする事で、本当にご先祖様が一緒に来たような気がした。

しかし、大人になるにしたがい、魂や霊について考えるうちに、
千の風」ではないが、土に帰り風に帰る、自然に一体化するものだと思うようになった。

しかし、かと言って、墓を潰したり、お盆の行事を否定しようとも思わない。墓や仏事は、霊や仏の為にあるのではなく、それを行う人の為にあるからだ。
天国も地獄も、あってもなくても良いが、それを前提とする事で、生きる事の映し鏡になる。

死を知らなければ、生きる事がわからない。
生きている「この状態」は、必ず無くなると知る事で、生の大切さを知る。

中一の時、イジメにあった。毎日、死ぬ事ばかり考えていた。
もう死ぬしかないと思うのだが、死とはどういうことかが解らない。
おそらくこの一年間で、人生観が決まったのだと思う。

20ぐらいの頃、30ぐらいの人が、「人間は何で死ぬんだろう」と言っていたので、思わず、「生きている方が不思議とは思いませんか」と、言ったら、「生意気な事を言う」と、猛烈に罵られた。まだイジメられるクセは治っていなかった。

中学以後、痛い苦しいのは嫌だが、自分の存在の消滅である「死」そのものは怖くなくなった。同時に、命ある限り生きなければならないと思うようになった。
この世から「自分がいなくなる」事にはこだわらないが、ここにいるのは、何らかの使命があるからだ。と思うようになった。

生きとし生けるものは、その命の大小にかかわらず、何らかの使命がある。だから、命尽きるまで、生きようとしなければならない。
小さな路傍の石にも、そこに在るワケがある。自分の思いとは違っていたとしても、気づかない理由でそこに在る。たとえ不条理に置かれたとしても、それが自分の役であり、世界を支える使命を果たしている。

無論、不条理に堪えられず、死んだとしても、それも一つの使命を果たしたことにはなるが、死の何たるか、生の何たるかを突き詰めて考えない事の方が不幸ではなかろうか・・・そう思うようになった。

世の中には生きて死んでいる人もいれば、生きようとして死ぬ人もいる。自分の思いしか受け入れられない人は、先祖がいたから自分がいるという事を、もう一度考えてみてはどうだろう。
                              合掌


明日の陽

2011年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

電力不安にたたみ掛けるように、株価は乱高下し、前人未踏の円高時代が来ると、経済界ではパニックになっている。素早い企業はもう既に韓国や中国に拠点を移動している。
傾城大陸

円高時代などそう長くは続かないが、マネー爆発による大崩壊なら考えられる。運命の呪縛から逃れられるほど人類は賢明ではない。
84年前の、昭和初期と同じような風景が見えてきた。
マネーゲーム、生産過剰、気候変動、食糧不足、無能政治・・・
これらが絡み合って、世界経済の屋台骨が崩れる。
土星が天秤座に

これから先の「いつか来た道」は、産業革命パラダイム故に、必ず起こる定期的な矛盾の精算だが、今回はもっと大きな精算をしなければならなくなるだろう。産革パラダイムそのものの精算であり、250年に一度の、パラダイムの大転換になる。

燃やすエネルギーから再生可能エネルギーへ
産革パラダイムは、ワットの蒸気機関に始まる時代であり、化石燃料を「燃やして」廃棄物を垂れ流した時代だが、次の時代は何も廃棄しないエネルギーと、資源の循環利用のクリーン時代になる。

原子力は、一見クリーンに見えるが、今回の事故で思い知ったように、トンでもない物を出すエネルギーであり、いわば「コウモリ」エネルギーだ。だまされてはいけない。

もっと早くから真剣に研究発展させるべきであったものを、コウモリを可愛がりすぎて、太陽光などの新エネルギーを片隅に追いやり、惨めなシンデレラにしてしまった。
日本は、トップランナーになるチャンスを失うかもしれない。

新パラダイムは始まったばかりだ、今からでも遅くはない。
大企業には海外に出てもらい、国内には研究開発及びその付帯産業としての学術機関、文化施設を充実させ、その他は食料生産に労働シフトして、基本的に自給自足の農業国に戻す。
再来再見

新エネルギーの徹底した研究開発により、技術を売り、国内エネルギー需要の充足はもとより、電力を海外に売る。
原発を停止すべき理由は、危ないからではない。国内原発の一斉停止という劇薬は、苦汁ではあるが、日本に劇的な変革をもたらす。
寒い寒いと言っていては、新しい服に着替えられない。

やはり新鎖国主義
世界が産革パラダイムから抜けられずにいるうちに、日本は先ず、グローバル化の輪廻から解脱し、自給自足しながら知のメッカを創出する。そのためには、何と言っても「新鎖国主義」で、自己完結型の経済を確立する。(江戸のような物理的鎖国ではない)

そんなことは不可能だと誰もが思うだろうが、大量生産によって無用なものを無理に売りつける、産革パラダイムから、一歩離れれば、金は儲からないが、ゆとりのある社会に暮らせる。

時計や車が無くても、まったく困らないことに気づけば、簡単に実現する。

このことに気づけるのは、酸いも甘いも体験した、先進国だけなのだ。
新興国の物欲を見ていれば、その空しさがよく解る。

上品国(1)」