魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

公演中止

2014年05月27日 | 占いばなし

たまたま映った番組(チャンネルも未確認)で、元官僚、エイベックスの岸博幸氏が、ポール・マッカートニーの公演中止について、語っていた
近頃、世界の大会場の公演を埋められるのは、年寄りのアーティストばかりだ。音楽業会はもっとがんばって、若手を育てなければ・・・大体そんな趣旨だったと思う。

聞きながら、『チョット違うかも』と、思った。
ミュージシャンは育てたり、創ったりするものではないだろうし、それ以上に、その年寄りたちの世代が、あまりにも偉大だったことの証明ではなかろうか。

以前にも書いたが、時代や世代の波は、様々な分野でそれぞれに起伏がある。芸術分野でも、世紀単位の興隆期があり、1970年頃はそのピークだった。
それが、その当時の生き残りの年寄りが、今でも人を呼ぶ理由だろう。

音楽の楽しみ方が変わったという見方もあるだろうが、音楽の持つ扇動性、別の言い方をすれば、集団催眠、一世風靡の力を持ってこそ、時代を動かす偉大な芸術と言える。
その観点で見れば、やはり、創る者と聴く者が一体になって創造した、世紀の時代と言えるのではなかろうか。


一抜けた

2014年05月26日 | 新鎖国論

やはり時代は、昭和初期に巡ってきている。ただし、歴史は繰り返すが、同じ事を繰り返すわけではない。今度のアジアの主役は、日本ではなく中国だ。

CICA(アジア信頼醸成措置会議)で、習近平は「アジアの安全はアジアで守る」と、集まった周辺国の前で、中華皇帝のように振る舞って見せた。
「力によらない」と言う習近平の言葉を、集まった周辺国の首脳はどう思いながら聞いていたのだろう。

天王星84年周期では、現在は昭和4、5年頃にあたり、5年が午年だが、漠然と「この頃」と考えた方が良いだろう。
切羽詰まった大日本帝国が、米英と対抗するため、日独伊三国同盟や、日ソ中立条約を画策するのは、まだ先のことだが、最終的に大東亜共栄圏構想へと続く、鼻息の荒い大日本帝国を彷彿させる。
日本も、この頃はまだ、欧米とも表面的には良好な関係だった。

今もまた、政治的に対立する中で、中国企業がアメリカに上場し、アメリカは大歓迎している。自由主義経済のグローバル化はアメリカの理想だが、中国共産党の理想はそうではない。
領土、覇権、経済、ナショナリズム・・・世界は綾なす糸のように絡み合って、先が全く見えなくなってきた。

84年前と比べれば、世界の人口はすでに4倍に近づいている、それでも人口が足りないと思い込み、誰も抑制的な未来社会を考えない。

極まれば転ずる
世界秩序の動揺に、誰もが感じる大混乱の予兆は、人間の「サガ」を知る人間自身だからこそ、感じるものだ。
誰も止まろうとしない、止まろうとしても押し流される。もう人間自らでは止められないエネルギーで走り続けていく欲望列車だ。
このままでは、必ず、脱線転覆し激突する。

この弾丸特急を止めるには、エネルーギーを断つことだが、誰もがガス欠だけを恐れている。そして、運転の権利を得るためにエネルギー争奪戦を始めた。
「一抜けた」と、飛び降りたくても、このスピードでは降りられない。
しかし、「われわれは降りる、下ろしてくれ」と叫ぶことはできる。

先頭車両に乗っていた日本が、「降りるー」と叫びながら、後ろに走って行けば、「しめた!」と思う人もいるだろうが、「そうか!」と気づく人も出るだろう。そういう人が最後尾車両に集まって、連結を切り離すこともできるかも知れない。

時代は再び、ブロック経済時代の様相を帯びてきた。
不況、不作、恐慌、生産消費圏の確保、戦争・・・は、産業革命パラダイムの「構造」そのものだ。ここにいる限り、避けることはできない。

新鎖国主義
狭い地球で、地産地消の鎖国は今や不可能だ。
何かを売って物を買わなければ、生きていけないのなら、日本は食糧自給率100%の独立採算の上で、資源に関わらないもの、学術、芸術、娯楽を売って、物を買えばいい。
さらに言えば、付加価値製品を排除する思想も必要だ。
今、世界中が欲しがる、「豪華な刺激物」をよく見れば、バカらしさの象徴そのものだ。

人口と資源に依存した、暴走列車から、どこに降りるのか考える時だが、誰かが、実際に降りて見せなければ、誰も降りようとしない。
元来、資源もなく、人口減少も進む日本こそが、それを実現させなければならない。

今もし、「日本列島以外全部沈没」したとしても、日本は生きて行かれるはずだ。その時どんな暮らしをするのか、原点に帰るべきだろう。
外界と全てを共有しなければ生きられないと思うのは、大航海が生んだ国、アメリカの黒船によってもたらされた強迫観念だ。
「資源の無い日本は加工貿易でなければ生きていけない」という言葉は、日本人の胸を打つが、それは黒船後のことだ。

日本が、限られた資源で、知性にあふれる豊かな蓬莱の島を実現すれば、それは狭い地球で暮らす人類の、手本になる。
日本人は、日本文化は、小さな地球に手本を示す責任を負っている。
そして、それを示す宣言と行為は、日本は軍国主義だと自己投影する国への、大きな反証となるだろう。

産業革命パラダイムからの脱却。永世中立、国民皆兵、食料自給、学芸文化、観光立国・・・
\(^O^)/ \(^O^)/ \(^O^)/


オバマ魂

2014年05月21日 | 星の流れに

アメリカは、サイバー攻撃を理由に中国軍官をアメリカで訴追した。
「何が目的や?」
多くの人がそう思ったのではなかろうか。

逮捕できない人物を訴追するのは、象徴的行為に他ならない。
では何の象徴なのかの疑問に、軍事的スパイとは関係なく、中国の国家ぐるみの産業スパイ行為に、自由主義経済の旗頭が警告した。
容認できないボーダーを示した・・・と、考えられている。

当然、中国は根も葉も無いとシラを切り、アメリカこそ情報スパイ国ではないかと反論した。
アメリカが、アメリカのスパイ行為と、中国のスパイ行為は意味が違うと言ってみたところで、世界の多くの「一般人」は、少なくとも、これに関しては、中国の言い分が正しいと思うだろう。

オバマ政権のアメリカは、次々と馬鹿なことをしている。
と言うより、Obamaの正しい発音は、オバカなの?と思ってしまう。
昨今の日本も同じなのだが、法治の机上論にばかりとらわれて、現実的処理が疎かになっている。

CHINALLENGE
ここで、木星が「カニ座の中国」に強く影響する年を振り返って見よう

1996年ヤギ座。木星がカニ座の「相手」を表すヤギ座の時、中国は台湾の総選挙を牽制するため軍事演習で威嚇した。これに対し、アメリカが台湾海峡に空母を送り込み、結局、中国は引き下がった。

2001年カニ座。今度は木星が180゜移動し、中国自身を表すカニ座に来ると、自ら海南島事件を起こし、アメリカに挑戦した。

2008年ヤギ座。木星ヤギ座では、今度は台湾ではなく、チベットとウイグルの対応に追われ、世界から批難された。言うまでもなく、オリンピックと四川大地震の年でもある。

2013年カニ座。そして、昨年から今年2014年。再び木星がカニ座に巡ってくると、中国は再び、アメリカに挑戦している。

1996年、台湾海峡に黙って空母を送ったアメリカは、今や、中国官人の訴追のような、犬の遠吠えしかできなくなっている。あるいはそのガッツが無くなったのだろうか。

とにかく、これでは、Challengeする中国に、ますます甘く見られることだろう。中国は直ちに、Windows8の公的使用を禁止した。嫌がらせ程度なら、いくらでも嫌がらせで対抗できると言うことだ。

オバマ政権のガッツの無さへの批判なのか、20日、第二次大戦で東京初空襲の「ドゥーリトル隊」の兵士に、米上院は「議会金メダル」を授与することを決めた。この作戦は、アメリカのガッツの象徴であり、皮肉なことに、中共軍との連携作戦でもあった。

木星双子座は、アメリカの年でもあるが、この東京初空襲の二月後に、アメリカはミッドウェーで大勝利を収めた。

木星カニ座の中国の年の海南島事件では、当時の米中の力関係から観れば、中国の判定勝ちと言えるかも知れないし、現在のカニ座も、中国の不戦勝になりそうな雰囲気だ。


異界の人

2014年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

ハリウッド版ゴジラが人気らしい。
リメイク版では第一弾と違い、本作はオリジナルのイメージを活かしているとのことだ。

韓国のポスターで、伝説となったゴジラの表現として、しばしば用いられてきた光条(陽光)を背景にしたところ、「戦犯旭日旗だ」と騒ぎになり、配給会社が謝罪して取り替えた。

おそらく、韓国国内のノイズ・マーケッティングだろうが、世界中で旭日旗物議を誘発させて、マケドニアの国旗にまで噛みついたそうだ。少しでも旭日旗の雰囲気があれば、何にでも抗議しているらしいが、先日、メジャーリーグの芝生が、ホームベースから明瞭な放射状の模様に整えられていたが、どうしたんだろう。

アメリカ帰り
今年はゴジラの還暦で、昭和29年から60年の甲午の年だが、九星は四緑だから全く同じではない。29年は一白だった。
この年生まれの安倍総理は、欧米では極右軍国主義者のレッテルが貼られているが、ゴジラと同じで、あくまで怖い映画に過ぎない。
基本は、寄らばアメリカの影で、ゴジラも、アメリカの原爆や核実験の投影だった。

当時、日本で大人気したゴジラは、アメリカで上映され、やはり人気を博したが、そのアメリカ版が、日本に帰ってきてまた上映された。
それを観に行って、何ともエキゾティックな体験をした記憶がある。

日本では見たこともない、吹き替え版を初めて見た珍しさに加え、日本人が全員、英語を話している不思議さは、吹き替えに慣れた今の人には想像が付かないかも知れない。
父と観に行ったのだが、吹き替えを子供に説明しながら、父自身が新体験をしていることが、その表情で解った。

当時は、子供でも、字幕を追いながら、映画を見る習慣が付いていたから、特に、日本人が英語を話していた記憶は無いのだが、不思議な感覚だけは憶えている。

日本人的感覚からすれば、日本人が外国人を全くの異界の人と見るように、外国人も日本人を異界の人として見ていると思っていたので、アメリカ人の目で日本映画を見ることのボーダレスな感覚を初めて体験した。

当時はまだ、日本映画を勝手にアメリカのものにしているような、屈辱的な受け止め方もあったと思うが、このあたりを契機に、日本人の偏狭な垣根が取れていったと考えても良いのだろう。

今では、映画館でも吹き替えが当たり前になっているが、これは良くも悪くもアメリカ化で、異文化の同一視は相互理解であると同時に、異文化への冒涜と無理解につながる。解ったつもりになるから、却って解らなくなる。

世界中で巻き起こっている、ナショナリズムの衝突は、この吹き替えや、ネット翻訳によって、互いに相手のことが良く解っているつもりになっていることもあるのかも知れない。

相手と自分たちの価値観が同じだと錯覚し、その同じハズの人間がとんでもない言動をとると、短絡的に怒ることが原因だろう。
映画はやっぱり、原語で、生の声を聞きながら、観るべきだ。
海賊版で原語の日本アニメを観ている中国人には、親日派が多いようだ。


年寄念仏(2)

2014年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

「繰り言」の中に『何か』を発見するのは、聴き手の問題だが、話す事はもっと難しい。
言葉で表現できないことを、解って貰うには、本当は何も言わないのが一番かも知れない。目に見えることについて話せば話すほど、誤解が広がっていく。

硬くて、甘くて、砕けて、溶けて、形があって、時に形が無い・・・
何じゃそれは? 色々言っているが、結局、矛盾したことをウダウダ言っているだけじゃないか。

硬いと言うが何と比べて硬いんだ。甘いは辛いとどう違い、どの程度違うんだ。硬いものがなぜ砕けるんだ。しまいには溶けるだと?・・・話せば話すほど、際限無く疑問が広がる。

砂糖を全く知らない人に、角砂糖について説明しようとすれば、おそらく百万言を尽くしても理解されないだろう。
最初の説明だけで、角砂糖と解るとすれば、砂糖を知っており、角砂糖も知っているからだ。

想像力が豊で、一を聞いて十を知る、行間を読めるような人なら、最初の言葉でイメージするだろうが、言葉にこだわる論理的な人ほど、疑問の迷路に入り込み、挙げ句、「バカも休み休み言え」となる。
多くを語ることは、決して上策ではない。雄弁は銀だ。

沈黙が金なのは、少なくとも、他者に疑問や葛藤を生じさせない。相手の思い込みを乱さない。黙っているだけで、結果的に「あなたの考えは正しい」と言っている事になるから、気に入られる。
他人と葛藤を生じてまで、言わなければならないことなど、実は、世の中には無い。信号程度の鳴き声だけで、複雑な言葉を持たない動物は、黙っていてもコミュニケーションがとれている。

ナショナリズムは短絡自己中
しかし、人類は言葉を持つことで生活圏を広げ、繁栄した。
言葉の効用は、客観認識の共有だろう。他人が、体験していないことを伝達することで、人類として巨大な体験知を持つ。それが人類に、脳のサイズ以上の力を持たせた。

さらに、文字によって、知は時間の壁まで越えたが、映像の出現によって、それは、一時的な退化をもたらしている。
目に見えるものだけの理解は、動物と同じで、他人が体験する内面への想像力を劣化させる。言葉に対して、「聴く耳」を持たなくする。

近年、ネット上での諍いが拡大し、言語圏同士の争いが拡大しているのは、映像時代の中で、言葉に対する想像力が劣化しているからだ。
言葉の裏を読む力が無ければ、表に出た言葉だけでしか理解できず、『何か』を理解できない。相手が何故、何のためにそれを言っているのか、真意を考えようとしない。

乳房を切り自殺する
先日、背の低い人の方が長生きをするという研究結果が発表されたが、例えば、このような情報を聞くと、「身長を測れば寿命がわかる」と短絡する。DNAに乳がん遺伝子があるから乳房を切り取るのも、同じ発想だ。将来をはかなみ、自殺する人まで現れる。

こういう情報は、断片的な情報に過ぎず、これらの知識の集大成の背後に、初めて、『何か』が見えてくるのであって、そのことが解らない人が増えている。

しかも、そういう人ほど言葉には、即物的に敏感で、「背の低い人が長生きする」と、さまざまに証明しようとする研究者に、「背の高い俺が早死にするというのか、このデタラメ野郎め」と罵り始める。

言葉による情報を、言葉だけしか理解しない人は、「お前の母ちゃんデベソ」と言う人の言葉に激高する。
『この人は何故こういうことを言うのか』までは考えたとしても、もしかして、自分も同じ事を言っているのではないのか、とまでは考えようとはしない。それが、ネットの諍いだ。


年寄念仏(1)

2014年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

念仏
「念仏のように唱える」と言うと、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・と唱えるように、同じ事を繰り返して言うことだが、南無妙法蓮華経も同じように繰り返すから、正確には「念仏のように」ではないかも知れない。

大体、お経というものは、繰り返しを重視する。有名な大経典でも繰り返しを多用するし、ポピュラーな観音経・偈文などでも念彼観音力を十回以上繰り返す。そもそも、偈文そのものがその前段の要約の繰り返しでもある。

お経の繰り返し技法は、単純には読誦のリズムの良さで、憶えやすいことだが、釈迦の精神の間接的な継承ではないかと思う。
人を見て法を説けという言葉があるし、また、お釈迦さんはたとえ話の名人だと言った人もある。

お釈迦さんの仰りたいことは一つだが、人と状況が違えば、同じように解いても理解されないから、さまざまに説かれた。だから、表面上の言葉だけ比較すると、矛盾だらけと思う人もいる。

しかし、その矛盾だらけの言葉を全部並べてみると、どの言葉にも共通する、そして、どの言葉でも説明できない世界が見えてくる。見えなくても、総てを繰り返し唱えていると、何かそのようなものを感じることができる。

繰り言
お経とは関係ないが、「繰り言」という言葉もある。これは言っても仕方ないことを繰り返して言うことで、「世迷い言」を意味する。
しかし、本来の意味は単に、繰り返して言うことだから、仕方ないこと、無意味なこととは限らない。

年寄りは心配性だから、同じ事を何度も言う。その上、昔話をしたがるから、どんな話も繰り言に聞こえる。
好奇心で生きる若者には、同じ話はくどいだけで、無意味に感じる。「その話は聞いた」と、聞く耳を持たない。

年寄りが同じ事を言うのは、若い頃、解ったつもりでいたことが実は少しも解っていなかった、思いがあるからだろう。
だから、自分自身も解らない『何か』を解って貰おうとするのだが、それは一言で解るようなことではない。自分でもうまく説明できないから、「あなたも年取れば解る」と言う人もいる。

年寄りの繰り言も、百に一つぐらいは価値があるし、全体を通して聴いていると、気づきや発見をすることもある。
読書の達人が口をそろえて言うのは、「大方の本はどこかで聞いたようなことで埋め尽くされているが、たった一言でも新しい知に出会えれば、その本には価値がある」だ。

また、本でも、映画でも、繰り返して読んだり観たりすることで、新しい発見をする。昔読んで、残酷な話だと思っていたものが、読み返してみると慈愛に満ちた話だったりする。

自分で会得
年寄りの話にも、根底には漠然とした悟りがある。
お釈迦さんの話が矛盾だらけに聞こえるように、言葉にとらわれて聞いては、その本質が解らない。言葉を聞くのではなく、聴く行為によって、自分自身が『何か』を発見をすることに意味がある。
たとえ話に意味があるのは、その話と現実との間にある、『何か』を発見することだ。

占いでも、星と現象の一致(的中)に意味があるのではなく、『何か』の存在に気づき、それを会得して、生きる指針とすることに意味がある。
このブログは、それを会得してもらえればと書いている「繰り言」だ。


タラの地

2014年05月17日 | 動物

猫の話を書いた後、カルフォルニアの忠猫の話が話題になった。
映像を見て驚いた。どう見てもハッキリ、男の子のために突撃している。
犬が飼い主のために体を張る話は珍しくないが、猫が、ここまで命がけになる話は滅多に聞かない。猫と言えば、勝手者のイメージがあるからだ。

しかし、猫科の動物が他の動物を救った話は、無いわけではない。
ライオンが鹿を救った映像を見たことがある。
あれと、今回の出来事を重ねて考えると、猫科の場合、犬のような忠義や仲間意識とは、少し違うのではなかろうか。

犬の場合は、コミュニケーションをとれる相手を仲間とし、その集団で糧を得ようとするので、ある種の、合理性や知性で動いている。
猫の場合、先ず自分がいて、外界への対応で生きている。だから、自分自身の生存圏であるテリトリーを必要とし、そのテリトリーに共存できるのは、自分の分身である、家族だけだ。

犬が飼い主と共に行動しようとし、猫が都合の良い時だけ懐いてくるのは、基本的にそのせいだろう。
では、なぜ、ライオンが鹿を救い、カルフォルニアの猫は飼い主を守ったのか。
これも、身内とテリトリーで説明が付きそうだ。

カルフォルニアの猫は、同家で6年飼われており、助けられた子供は4歳だ。この猫にとって、自分より後で生まれた子供は、兄弟か子供のような、身内として意識されていたのだろう。
家の周辺は自分のテリトリーであり、そこにいるのは当然、身内だけだから、身内が襲われそうになったら、集団的自衛権を発動する。

猫が、突撃した後、深追いをせず、特に子供のところに駆け寄る様子もないまま引き替えし、駆けつけた母親は、後で映像を見るまで猫に助けられたことに気づかなかったというから、やはり、この「猫の恩返し」の大きな動機の一つには、テリトリー意識もあったのではなかろうか。

振り返って、鹿を助けたライオンも、鹿を助けようとしたと言うより、自分の猟場を守ろうとしたと考えれば、説明がつけやすい。しかも、その時は、満腹だった。(猛獣も満腹なら、めったやたらと襲わない)

昔から、「犬は人に付き、猫は家に付く」と言う。
猫も飼い主を助けるんだと勘違いして、護衛のつもりで連れ回っても、犬のように、どこでも守ってもらえると思ったら大間違いだ。
出先で、猫に子供の番をしてもらおうなど、努々あるまじき。

ところで、カルフォルニアの忠猫の名前は「タラ」だそうだ。
「風と共に去りぬ」の「タラの地」と同じ名前だろうか。だとすれば、守るべきテリトリーと言う点で共通性があり、木星カニ座らしい話題として面白い。「タラ」は、作者も物語もサソリ座の、理想の到達点としての九室、カニ座を表す名前ということになる。


今日の朝

2014年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

雑草が生い茂る河原を突ききり、向こう岸に渡らなければならない。
手にした剣で、なぎ払いながら進んでいくと、突然、ザザッと雑草が動く気配がした。何かいる! 思わず、二、三歩退く。
すると、巨大なバッタの足のようなものが見えた。
プラスチックのように、テラテラ光る緑の棒が出ている。何かの足だと直感した。
じっとしているので、思い切って、その上にかかった草をなぎ払うと、中に、緑のピーターパン人形が寝ている。
「なに、どうしたの?」と、言いながら、 眠そうに起きてきた。

・・・
目が覚めて、何で、こんな夢を見たのか、考えてみた。
河原の草むらは、すぐ思い当たった。
先日、橋の上から下の河原を見ていると、菜の花が生い茂った間を、灰色のネコがゆっくり歩いて来る。のんびり歩いていたのが、突然、立ち止まり、姿勢を低くした。
見渡すと、菜の花の茂みの反対側に、やはり姿勢を低くした白黒のブチネコがいる。

双方は姿が見えないらしく、菜の花の合間を、一歩一歩、詰めていく。
時々、一瞬立ち止まっては様子をうかがい、また少し進む。
距離が1mぐらいになった時、双方とも静止した。まだ見えないらしい。
ネコは、すっかりライオンのつもりだ。

やがて、灰色の方が慎重に、菜の花の根元に一歩踏み込んだ。
とたん、ブチが飛びかかった、ように見えたが、双方の叫き声より先に、姿が見えなくなった。灰色の方は4、5m後ろに跳び退き、そこから改めて小走りで引き返し始めた。
ブチの方は橋の下に跳んだのか姿が消えた。

灰色ネコは、それから、何事も無かったように、河原の水際まで行き、水を舐めている。ビックリして、喉がカラカラなのかも知れない。
たぶん、縄張りなのだろう。ネコにとっても、縄張りを守るのは簡単なことではないようだ。

中国のあからさまな領土拡大は、日本を「普通の国」に追い込み、南シナ海では、アメリカも国務長官が「挑発的だ」と、懸念を表明した。
2001年の「海南島事件」より、事態は明らかに悪化しているが、アメリカは中途半端な踏み込み方をしている。威嚇は手遅れになると、実力行使しかなくなる。民主党政権下で、意外に開戦が多い理由かも。
踏み込んだとたん、互いに跳び退いてくれれば良いのだが。

夢の中で雑草を薙いでいた草薙剣は、六甲の山火事で思い出したのだと思うが、たまたま寝る前に観た「キングダム」の剣かも知れない。
それにしても、バーベキューの炭を、水も掛けずに山に捨てるか!?

ところで、シーズン2の「キングダム」だが、どうも新しい人物画は理解できない。何であんなに不自然にどぎつくしたのだろう。もしかすると、これまでの少女漫画ベースの華麗なアニメからの脱却を意図しているのだろうか。

まあ、そんなことはどうでも良いのだが、どうにも解らないのが、ピーターパンだ。バッタのような光沢のあるグリーンで、人工的な姿は、ピノキオとも重なっている。仮面ライダーのような怖い顔ではない。
なんだろう???

P.S.
翌日の朝、足がつって、半日経ってもまともに歩けない。プラスチックの足はこれだったのか
(>_<)


死活問題

2014年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム

車を処分し、運転を止めて、かれこれ2年になる。物を運ぶのにどうしても必要な時があるから、その時はレンタカーを借りる。たまに乗るから、とても緊張するが、たぶんその方が慎重運転で良いのだろう。

50代でも高速を逆走した人がいる話を聞いて、ボケる前に止めようと考えたものの、昔たばこを止めた時より悩んだ。
しかし、実際に止めてみると、日常生活にはほとんど必要ない。
何よりも、車を持たないことの気楽さに初めて気づいた。

一番気楽になったのは、これで加害者にならなくてすむことだった。無自覚でいたが、実は、その不安の緊張状態で暮らしていた。車を手放した時の、得も言われぬ開放感で、初めてそのことに気づいた。

次に気づいた気楽さは、あらゆる手続きの心配をしなくて良いことだ。点検、車検、保険の三ケン。税金、駐禁、駐車料金の三キン・・・
三権分立参勤交代・・・小学生のように叫んでサヨナラだ。

習い性で気づかないでいたことを発見した。運転することで見落としてきた時間と空間の景色を取り戻した。
徒歩、自転車、公共交通機関で見える空間は、なんと豊で楽しいものか。公共交通機関は、発着時間の心配さえすれば、後は寝ていられる。

今はとにかく、良いことだらけのノンカー生活だが、この先、ヘタに長生きして体が動かなくなり、買い物に行けない、いわゆる生活弱者になったらどうするか。

隣りの90近い独居女性は、腰の手術を何度かして、ようやく立てる程度だが、軽を運転しているから不自由がない。年寄りこそ、実は、足回りの心配をしなければならない。
一刻も早く、行き先を告げたら勝手に運んでくれるような、自動運転の車を売り出して欲しいものだ。

少子高齢化は、運転者が減り物流が滞る、今そこにある危機だ。
戦争中は、殺人のために、驚くべきスピードで技術革新が進むが、物流の麻痺は社会の死であり、戦争と変わらない死活問題だ。
今や、産官学総掛かりで、自動運転自動交通システムに傾注すべき時だろう。

二輪サイズの四輪車」「バスシステム


桜に吹雪

2014年05月11日 | 星の流れに

年をとると、あっという間に時が過ぎる。
天秤座に8ヶ月滞在している火星も、一年滞在する木星も、あと2ヶ月ほどで、次に移る。
天秤の火星でアベノミクスは燃え尽き、プーチンは発火した。
木星は中国風船をめいっぱい膨らませ、周囲の国はみな耳を押さえておっかなびっくり見守っている。

一方、土星がサソリ座に入ってから、朝鮮半島は金正日の死に始まり、次々と、絵に描いたような不幸が起こっている。
天秤座の土星で、日本がボロボロになっていた時、すでに、次は朝鮮半島であることが約束されていた。
→「ガマンだ

家父長国家である朝鮮半島は、成功者が絶対権力を握り、力を失えば石持て追われ、何か問題が起これば指導者の責任になる。
したがって、リーダーの不幸は国の不幸を意味する。

日本の松下幸之助や、アメリカのフォードが死んでも、惜しむ人はいても、国に打撃を与えたことはない。しかし、韓国の大企業創始者が死ねば、日本などとは別のことを意味するだろう。

火星は、7月末にはサソリ座に移り、土星と同居することになる。
3年前の日本の惨状はいまだ記憶に新しいが、現在の火星はせっかく咲いた桜に雪が降ったようなものだ。桜の頃はまだ寒く、難しい季節だ。

その土星と火星が同居すれば、相当ひどいことが起こりそうだが、真冬の吹雪は当たり前だから、案外、何も感じないかも知れない。


占い手法

2014年05月08日 | 占いばなし

このところ大きな話題の韓国船沈没だが、日本のJTB社員の遠足妨害とは、何の関係もないように見える。
しかし、星の影響、森羅万象を覆う「時のカラー」が同じであることは、長年お付き合いいただいた方なら、瞬時に解ると思う。

星の影響、時のトレンド、森羅万象を貫く共時性は、巨大な現象から小さな小石の転がり方まで、磁石の針が同じ方向を指すように、同じ現象となって表れる。
この場合、同じ現象と言っても、結果が同じなのではない。意味する様相が同じで、星が戦争を示しても、必ず戦争が起こるわけではない。戦争映画の大ブームに終わることもある。

歴史と現在を俯瞰することで、星の影響と思われる共通性を見いだして類型化し、他の星との関係を考慮しながら、星の機能を特定し、サイクル現象を特定する。
そのことで、将来、その星の巡る時にどんな影響が起こるかを推測し、具体的な現象をイメージする。当然のことながら、その星だけで現象は起こらない。別の個性を持つ他の星との関係も配慮する。
一つの類型だけが、結果に影響するものではない。

星の現象
現在、天秤座を通過中の火星は、他の惑星との大十字状態で、火星の悪影響の方が表れやすい。
火星は、若者であり、事故ハプニングの天王星と180゜、旅行の木星と90゜、大量死や暗黒を表す冥王星とも90゜だ。

韓国船沈没と、JTB社員の事件は、両方とも、高校生の集団旅行に関わる事件であり、様相も内容も全く違うように見えるが、若者が被害に遭う同じ星の影響といえる。
さらに同じ時、アフリカでは女子高生がテロリストに集団誘拐されている。これも全く同じ現象であり、否定しては、占いは始まらない。

このような相似的現象は、事件として知られていない隅々にも起こっているはずで、各自の周辺を見渡せば、若者の小さな問題が転がっているかも知れない。

韓国で極端に現れたのは、土星通過中のサソリ座と相互互換にある、ヤギ座の冥王星の影響だろう。
また、一連の事件に共通しているのは、海王星の影響だ。
海王星は、もちろん、海運を表すが、旅行、宗教、嘘も意味する。
教育を意味する木星も凶角で加わり、アフリカの誘拐事件では、イスラム過激派の言い分は、女に教育はいらないであり、韓国では修学旅行廃止論になった。


心に宿る

2014年05月06日 | 占いばなし

韓国で相次ぐ事故や事件に、対馬で盗んだ仏像のタタリだとの声が多い。本当に、そうとしか思えないぐらい、不幸続きだ。

しかし、そう考えることこそ罰当たりかも知れない。
仏様は人を罰するような狭い了見はお持ちではない。
だから、「仏罰」などという言葉も、邪道から生まれた言葉であり、
呪詛など見当違いのハズなのだが、様々な地域を経て伝わった日本の仏教では、こういう考え方も主流の一つになってきた。

如心偈というお経に、「心造諸如来」という言葉がある。
文字通り、仏は人の心が造るものであり、別の解釈をすれば、仏は心に宿るものと言うことになる。すべては心が造り出すものであると。

これは近代哲学にも通じるし、また、占いを考察する上でも意義深い。
哲学のような難しい話は解らないが、運の良し悪しの意味を考える上では、示唆に富む。

運の良し悪し
運が良い人は心が清らかであり、運の悪い人は濁っている・・・と、言えば語弊があるかも知れない。
心が清らかでも、不運続きの人もいれば、極悪非道とも思えるような人でも、恵まれた人生を送るのが、現実だからだ。

しかし、開運の心得としては、基本的に的を射ている。
心清らかとは、欲を持たないことであり、あるがままを受け入れることだから、何が起こっても不満に感じず、したがって不幸に感じることがない。
一方、心が欲で濁っていると、拒否したいものも多くなり、葛藤が生じ、不満となり、不幸を感じる。

ここに、運の良し悪しとは何かの、一つの答えがある。
例えば、金や地位という世俗の価値を得ることが運の良いことだと考えれば、それを求める欲で心は濁り、同時に、それに反するものは受け入れがたい不幸の種となる。欲望は常に対価を伴う諸刃の剣だ。

そして、目的のために、都合良く行く時が運の良い時であり、そうでない時が運の悪い時になる。
しかし、もし、金や地位のような我欲を持たなければ、運の良い時も悪い時も無く、何が起ころうと、ただの巡り合わせに過ぎない。

運の良し悪しや開運とは、我欲であり、仮に大当たりの開運をしても、時が経てば、対価として、必ず受け入れがたいことが発生する。
それは無理の結果だから、始めから約束された対価だ。フルパワーで上昇する飛行機は、やがて、失速するか燃料切れになる。

では、心さえ清ければ良いのかと言えば、これも違う。
我欲のない人は、急上昇することはないし、他人の羨むような成功もない。そのうえ、何もしないでいれば、我欲で走る人に突き飛ばされて、どんどん沈んでいく。

しかし、我欲を捨てて、世のため人のために一生懸命歩んでいると、いつか浮かび上がっている。なぜなら、世のためとは、自分が拠って立っている社会のため、つまりは自分のためだからだ。
本当に無心で世のために働いている人を、安定社会であれば放置しない。それは社会にとって役に立ち、都合が良い人だからだ。

自分は世のために働いているつもりでも、不幸続きだとすれば、それはどこかに、例えば独善イデオロギーのような我欲や、偽善だったりするのかも知れない。
どんな理想も、社会の流れと大きく外れては、善にはならない。
人は時代の子としてしか生きられないということだ。

では、動乱期はどうか。これもやはり、目的意識よりも、誠心誠意が幸運の基になる。激情や盲信で動けば、一時的には脚光を浴びることもあるが、やがて時代の捨て石になる。
歴史に逆らい、時代を動かそうとすることは、始めから、運の良し悪しとは無縁であり、人としてはすでに存在しない、時代のエネルギーだ。いわば鬼であり、有名無名にかかわらず、歴史そのものになる。

また、家族の死や自らの病などは、不幸ではない。これは単に自然の姿であり、そこから逃れようとする我欲の方が災いを大きくする。
聖典や極意書は、本当に生きたいなら、いたずらに死を恐れるなと、さまざまに説いている。生死の片方にこだわれば両方を失う。生死は常に表裏一体のものだからだ。

生きる努力はしなければならないが、生きることだけにこだわることは、本当に生を大切にしていることにはならない。生命欲にとらわれているだけであり、それが幸運を遠ざける。大切なことは、何故の命かだ。
生命維持装置は、必ずしも人を生かす装置ではない。

人を呪わば穴二つ
清い心は幸運の基であり、濁った我欲は不幸の基となる。
もし、タタリと思えるような、何らかの原因による不幸があるとすれば、タタリ神がタタるのではなく、その神に対するような、日頃の自分のあり方が問題なのだろう。

あるべき誠心誠意の生き方を捨て、我欲を求め敵を作って生きれば、やがて、必然的に自滅する。
原因がわからないまま、そうして、自滅していく姿は、あたかも何かのタタリのように見えるが、それは神仏とは何の関係も無い、欲望の対価なのだ。

他人の不幸をタタリと考えることもまた、他者の手による復讐と考えることであり、自分の隠れた怨念のあらわれだから、これもまた、やがては自分に降りかかってくる対価となる。

クワバラ クワバラ


貴重な人

2014年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム

名古屋のJTB社員が遠足バスの手配を忘れ、生徒になりすました手紙で遠足を中止させようとした事件。
かなり、笑ってしまった。

よく、世間では、ゆとり世代を馬鹿にしているが、これは、むしろその上の、ゆとり世代を馬鹿にしている世代だろうと思った。
いわゆる、ゆとり世代について、個人的には、そんな変な世代だとは思わない。

意外と、俯瞰的な目を持ち、目的意識が高く、日本を救える世代ではないかという印象さえある。
能力が早く開花するスポーツ界などの人物を見ていてもそう思うし、成人式の言葉を聞いても、そう思った。一言で言えば、自分がある。

むしろ、「ゆとり世代は・・・」と馬鹿にする人々こそは、社会の価値観を信じ、社会の波に乗ることが大人としての正しい生き方だと思い込み、そして、社会に翻弄されているのではないか。

その人達から見れば、若者なら誰でもあるような、世間知らずの言動を、「ゆとり」だからと思い、世間に歩調を合わせる気のない態度を「ゆとり」だからと言う。
自分たち就職氷河期世代が、苦労して順応している社会を、愚弄している・・・ように見える。
「お、お前・・・ぶ、部長になんていう態度だ

年寄りから見れば、ロスジェネと言われる氷河期世代も、ゆとり世代も、似たようなもので、伝統的な日本とは、相当、かけ離れているが、この世代間に限定してみれば、確かに、互いは相当違うのだろう。

自意識の強さは同じだが、両者の出方は逆のようだ。
世間の中で自分の立場、プライドを守りたい人と、世間を無視してプライドに賭けて自分を打ち出したい人では、真逆になる。

若い店長
いろいろ聞いているこの世代の話だが、似たような体験がある。
あるチェーン店の価格設定に矛盾があり、店側のマニュアルに無い買い方をしたため、思いがけない値段になり、疑義を唱えたら、30歳ぐらいの店長が答えられなくなってしまった。
(この内容は非常に複雑なので、ここでは省略する)

矛盾を説明できないなら、急がないから本部に問い合わせてくれと言うことで帰ったが、1週間後くらいに店長から電話があって、
あの価格はどうにもならないから、別の割引キャンペーンで値段調整するのでどうでしょう?と言ってきた。

こちらとすれば、お金の問題ではなく、矛盾した売り方が疑問なのだが、これ以上追求するのはかわいそうな気がして、割損だが了解した。
電話をして品物を取りに行くと、店長は「急用」で席を外していた。

電話を貰った段階で、『本部に問い合わすことができなかったな』と、思ったが、そのことはもう追求する気になれなかった。
彼なりにプライドを賭けて、自分の持ち場を守ろうとしているのだろう。それが、かわいそうに思えた。

会社の方針に従おうとし、かつ、自分の能力で解決しようとする。
本部に矛盾を問い合わせれば、店長なのにそんなことも処理できないのかと思われる。そう思ったのだろう。
しかし、それは自分のプライドを守ることであって、会社の欠陥をそのまま放置することになるとは、思いが及ばないらしい。

その会社がどうなろうと、こちらの知ったことではないから、目の前の店長が、彼なりに、苦労をしていることが、かわいそうに思えた。
買い手市場で、彼を良しとして選択したのは、会社なのだから。

考えようによれば、彼は飲み込みが良く、職責に忠実であり、様々な方策を考えつく優秀な人材であり、自分もそう思っているだろう。
そのように一生懸命に生きている人から見れば、自分の目的のために生きている「ゆとり」世代は、ダメな連中になる。

救世主は落ちこぼれ
しかし、どうだろう、日本の企業体質が硬直化し、復元力を失っているのは、受験教育という従順教育を受け、企業で再教育された企業戦士が、また、その目で新兵を採用する悪循環ではないだろうか。
為替や貿易協定で売り上げが一時回復しても、最後の輝きに過ぎず、日本企業の命が尽きかけていることに変わりはない。

今、マスコミやCM、ネットなど、日本の日常にあふれる風景は、こうした硬直化した価値観で成り立っているし、多くの日本人は、それをまともな価値観、常識だと信じている。

件の店長の会社は、新しい会社だが、そんな若い企業でも、中身が硬直教育を受けた人材だとしたら、日本社会が生まれ変わることは不可能と言っても良いだろう。

だからこそ、この流れから外れた、ゆとり世代に光明を感じる。
硬直化し消滅していく古い企業と入れ替わり、起業や、組織内での独自展開で、新しい60年企業として成長していく中核となるのではなかろうか。

偽手紙で自分の失敗を取り繕おうとしたJTB社員が30歳と聞いて、本部に問い合わせられなかった店長を思い出した。また、上司を信じて動いた小保方氏が浮かんだ。