魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

港の上海

2012年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

由紀さおりの「1969」を聞いていると、ピンクマルティニの良さを再認識する。主催のトーマス・ローダーデールという人は音楽家と言うより、ジョブズと同じような、プロデュースの天才かも知れない。

あるいは、彼が特に天才と言うより、題材の取り上げ方が、カバー曲の定石にハマったのかも知れない。
カバー曲」で、生まれる前後のイメージが、誰でも身体に染みこんでいる話をした。映画では、「三丁目の夕日」の監督も、舞台となる昭和30年代を、生まれる前後で体験した人だ。

歌だけではなく、自覚無自覚にかかわらず、生まれた時代は、その10年ぐらい前を含めて、誰にとっても、「ノスタルジー」の時代になる。直接聞いたことに加え、親の青春が、子供に強く影響を与えているからだ。

生まれた頃は、音楽のみならず、政治経済、あらゆる世相が無自覚な記憶になる。70年生まれのトーマスの場合もこれに当たるし、おそらく彼自身のマルチな好奇心が、現代人の求める、エキゾチシズムのシェアという、グローバル感覚にマッチしたのだろう。
そこに、当時の「かたりべ」由紀さおりを、そのまま素材として使えたことは、それなりの刺激になったと思われる。

港の上海
由紀さおりにとっては、「1969」はノスタルジーではなく、いわば自分自身だが、同年代の、ちあきなおみが歌った「港が見える丘」こそは、カバーの定石、「生まれた頃の流行歌」のカバー集だ。

アルバムタイトルにもなっている「港が見える丘」は、今も残る横浜「港が見える丘公園」が命名された程のヒット曲で、ちあきが生まれた昭和22年の歌だ。

このアルバムの選曲は、80年代初頭のアルバムから集めた、まさに、ちあきノスタルジックワールドで、子供の頃から舞台で歌っていた彼女なら、実際に歌っていたかも知れない。
それが、ちあきの中で完璧に昇華されている。特別にちあきなおみのファンでは無かったが、このアルバムには泣かされた。

その中には、「上海帰りのリル」もある。昭和26年のこの歌を、ちあきで聞いていると、戦前に生きた日本人の喪失感が実感できる。
終戦当時、ほとんどの日本人が身寄りを失い、毎日「尋ね人」も放送されていたが、リルは、それ以上に大きな喪失感を象徴している。
リルとは、帝国時代の夢のことではなかろうか。

四半世紀後の昭和50年。「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は、このやるせない喪失感を、そのままモチーフにして甦った。
作詞の阿木耀子も、また昭和20年生まれで、当然、リルも聞いていたはずだ。

この、リルとヨーコ「親子」の大ヒットは、いずれも卯年、つまり、木星牡羊座の年であり、昭和26年は天王星カニ座、昭和50年は同じくカニ座に土星がいる。
天王星はブーム、土星は再来を意味するが、カニ座は水辺だから、上海と港で、いずれも同じ水辺になる。

ところで、アルバム「港の見える丘」のamazonのレビューには、編曲がボロクソに言われていたが、どうだろう。
ピンクマルティーニの「1969」や、「菊千代と申します」を聴くと、むしろ、先見性を感じるのだが。


地相天相 追記

2012年04月29日 | 星の流れに

「火星180゜海王星」の影響は、ますます広がっているようだ。
京都の事故以後も、登校児童に車が突っ込む事故が続き、いずれも、
運転手は「ボーッとしていた」と証言している。
今日29日も、関越自動車道で大きなバス事故が起こった。ブレーキ痕がないそうだ。

海王星の影響である居眠り、意識障害などの「意識朦朧」の事故であり、前回でも記したように、観光や学校、職場環境が絡んでいる。
京都に与えた影響から、日本全体の問題に広がっている。


地相天相

2012年04月25日 | 星の流れに

このところ京都で立て続けに大きな交通事故、と言うより、事件が起こった。

これはどういう星の吹き回しだろうか。
「蝎に来た」でも言ったように、天秤座から去りかけた災いの土星が、4月末からまた天秤に悪影響を及ぼし始める、天秤座は国で言えば日本だが、その日本の中でも、地域で言えば京都だ。

12日の祇園の事故は、まだハッキリ土星は天秤座に影響していなかったから、京都であることより大きな事故であることの方が目立った。
ところが、23日に亀岡でまた大事故が起こると、京都での大事故が印象的になる。だんだん土星が効き始めている。

では、この事故はどういう現象かと観れば、乙女座の火星が停止、順行を始める、最も影響が強い時期に相次いだ。
乙女座の火星180゜には魚座の海王星がいる。乙女座は医療や職場、学校を表し、魚座&海王星は意識障害や睡眠、慰安観光、胎児を表す。
もちろん、火星は事故や傷害。

さらに、魚と乙女の変容宮での180゜は、双子と射手にも悪影響する。
射手と、双子は宇宙、情報、交通であり、13日には北朝鮮のミサイルも失敗した。もし、日本上空で失敗して、破片を撃ち落とすことになっていたら、これも失敗していただろう(これを心配していた)。

今回の連続交通事件に共通するのは、どちらも・・・
「運転資格のない者が、混雑する道で、意識朦朧として起こした」
つまり、事故そのものの様相は、火星の順行に伴った事件と言える。
火星の影響では、19日に、九州で元暴対担当警部が撃たれた。

変容宮の火星の影響は続き、24日の月が双子座の日。偶々通りがかった街には事故が溢れていた。30分走っている間に、6件の事故を見かけた。あくまで偶々だが。

火星と海王星の事件は、結果として、土星、天秤座に影響する。京都観光を考えていた人の中には、『何か嫌だなあ』と思った人もいるかも知れない。

地相天相、小さな事件で知る大きな動き
一方、星の影響は当然、世界的にも起こっている。
20日には、パキスタンで737が墜落し全員死亡。
最もお騒がせは北朝鮮のミサイルだが、イラン、シリア情勢の方が影響が大きく、連れてガソリン高が世界経済に影響を与えている。
日経平均も3月に1万円を超えた後、4月に入ってまた下がり、円高も再燃気味で、原発再稼働の勢いも合わせ、土星の再来を感じさせる。

円高や原発再開、消費税など、日本観光に与える影響も少なくないだろう。
ただ、6月には木星が双子座に移動するので、明るい話題も見えてくる。と言っても、土星がまた順行するうえ、7月には火星が天秤座に入る。
一難去ってまた一難。この夏一杯、まだまだ日本の苦境は続く。


あしらう

2012年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

明石家さんまのイジリで、「否定せい!」というのがある。
ほめておいて、相手が、それを気にせず話題を移そうとすると、

(そんなことは無いです、と)「否定せいや!」と、突っ込む。

これが世間にも広がって、ほめられたら、必ず否定しなければならないことが常識のような雰囲気になっている。

これはおかしい。
さんまのみならず、お笑い芸人は大方が弟妹型だから、人の様子をよく観察している。
何故そうなのかではなく、外見パターンとして「そういうものだ」と理解しているから、その常識のズレを指摘することで笑いを誘う。

つまり、世間一般も、ものごとを外見パターンで捕らえているから、笑いになる。現象や人の行動を、相手(この場合褒める人)の立場になって、言葉の意味や理由を考える人は極めて少ない。
では、それが解る人は笑わないかと言えばそうでもない。
世間一般の常識を思い出して笑う。これは苦笑いに近い。

確かに、日本人は褒められると謙遜して「そんなことはありません」と言う。しかし、外国では多にして、喜んでみせる。
どちらが良いかは解らないが、確かなことは、褒められた人は、褒めた人の見解を知るはずがないと言うことだ。

相手がどう言う意味、見解で褒めているかも確認せず、否定するのは、謙遜しているようで、実は、肯定している。
「褒められたら否定するもの」ということは、実際はどうかを検討しない反射的な行動だ。つまり、真の否定ではない。

真の否定は、「どこがどういう風に?」と確認した上で、「それは買いかぶりです」とか、「確かにこういう部分ではそうかも知れませんね」とか、正確に答える中で、結果的に否定することがある。

反射的に否定することは、例え事実であっても「否定するものだ」というパターンにしたがって否定しているだけで、「事実であっても」の部分の含みを残している。
つまり、否定することで、「いいえ、そんなことはあります」と言っているようなものだ。

そんなことを言っていたら話が弾まない。と言われるかも知れない。
しかし、ほめ言葉を否定する方が、よほど話が弾まない。
褒めてる相手の意味やつもりが解らない時は、「ありがとうございます」と、褒めてくれたことに直接礼を言えば良いだけの話で、礼を言ったところで認めたわけではない。
わざとらしい否定は、むしろ自意識過剰が鼻につく。

それよりも質が悪いのが、過剰な卑下だ。
会話の中で、「頭が悪いので」とか「お金がないので」とか、「ブサイクなので」とか、一々付け加える人がいる。
こう言われた時、黙っていると、それを認めたことになってしまう。
つまり、「そんなことはありませんよ!」という言葉を、強制していることに気が付いていない。

また、中には本気でそう思って言っている人もいるが、これは、優劣意識でものを考える人のコンプレックスであり、これもまた、冷静な対話ができなくなり、何も知ることができなくなってしまう。

いずれにしても、過剰な卑下は、対話に何のプラスにもならない。
さんまの餌食になる、「おだての無視」は、むしろ、そうは思わない場合に困っての態度で、正直な人に多く、否定されるべきではないと思う。

おだてのことを「お上手」と言う。おだても言えず、言われても適当にあしらうこともできないことは「お下手」と言うのだろうか。


真打登場

2012年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

「毛が生えた」(南京玉すだれの節で踊る座敷歌)
♪ ァ、変なところに毛が生えた、切っても、刈っても、擦っても、剃っても、毛が生えた・・・毛が生えた、毛が生えた
(延々、身振りを付けて繰り返す)

天王星の牡羊座時代には、頭に関することが話題になり、発毛の画期的な技術が生まれる。
牡羊座2010~2018年」「牡羊座の兆候1」「ハゲに朗報

天王星・牡羊座時代も佳境にさしかかってきたが、どうやら発毛の真打ちが登場してきたようだ。

東京理科大の辻孝教授らのチームが、毛包の幹細胞を培養して、自然な再生を、マウス段階で成功させ、科学誌ネーチャーに発表した。

毛髪を欲しいと思っている人には、「重大ニュース」だろう。
今回こそ、時代的にも、頭髪再生の決定打になると思われる。
これが物になったとすれば、経済的には相当なインパクトだが、これはいったい、ノーベル賞がもらえるような事柄だろうか。その方が興味がある。

アク抜き
人は、サルから進化する過程で、体毛が減少してきた。若ハゲも、進化の一つだと思うのだが、あえてサル的退化を求めるより、進化に合わせた美意識の創造こそがニュータイプへの道ではなかろうか。
頭の毛は欲しがるのに、脇や足の毛は除去する矛盾。

ゲイやノンセックスも、進化であり、子供の作り方の変化に伴い、妊娠、出産もやがて無くなるはずだ。そうなると、セックスに導くための「魅力」は不要になる。もちろん、性的快楽も自在に創ることができる。

髪型や衣装や臭い(香料)など、差別化を図るものも、全て無い方が好都合であり、その段階で、初めて人間は、知性や人格というものを知ることができるだろう。

動物的好き嫌いの情で、ものを考える限り、相当高度な知識を持つ人でも、本当の意味で、人権などと言うものは理解できないだろう。
貧富の差や戦争も、決して無くならない。これらは元々、動物的生存欲、繁殖欲に伴うものだからだ。

見た目が良くて、声も良く、香しい・・・動物としては理想の姿だが、宇宙時代には、むしろ邪魔ものになるだろう。

魅力の退化か、無機質の進化か


文化成金(2)

2012年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

[ 文化におよぶ大転換 ]

改革開放前の中国人は、美人論議になるとキョトンとしていた。
「美人って?心根の優しい人のことかなあ」と言っていた。
それが、今の中国のネット論議を見ていると、40年前に自由主義圏で交わされていた会話と同じ、姿、形を語っている。

美人コンテストが代表的な例だが、大量生産の産業革命パラダイムは、すべてを規格化しようとする。魅力も形で論じられる。
アメリカの美は、コスメやマッチョで、ギリシャ規格の量産だ。

完璧な規格製品
産業革命パラダイムが押し寄せる前の中国人は、形態には無頓着だったようだ。中国伝統の美人観はあるものの、庶民にはこれといった基準は無かったように思える。それは日本も同じで、昔の物語に美人はいても、それがどのような美人かは、あまり掘り下げられていない。

東洋の美女には、黄金比のような美の基準がほとんど出てこない。
せいぜい、緑なす黒髪とか、柳腰とか、一種のフェチであって、論理的、体系的な美には関心が無かったようだ。
八重歯をカワイイと思う日本のフェチと、「製品」を目指す欧米の産革パラダイムの人工美人とは、始めから次元が異なっている。

近年の日本の「カワイイ」は、非合理なフェチの集大成であり、それが、規格品に疲れた欧米人に、新鮮な驚きを与えている。
「J-POP」に便乗した呼称の「K-POP」だが、完璧さで日本より上だと売り込んでいる。工業製品ならそれで良いかも知れない。
しかし、AKBなど日本の「カワイイ」文化は、脱「完璧」の世界だ。

東西の融合
産革パラダイムの大転換の時代。欧米の価値観も転換しつつある。
「カワイイ」「もえ」など、日本の価値観が新鮮に映るのは、袋小路に溜まった日本文化が東洋の結晶となっているからだ。つまり、日本文化には東洋が詰まっている。

中国人が、東洋文化は中国が本家なのに、欧米では日本ばかり注目されると憤慨していたが、物も心も、既に中国では失われたものが、日本では完璧に昇華され、花開き、見事に陳列されているのだ。
また、中国では日本文化は古代中国文化の保存品だという見方も多いが、これも見当違いだ。日本文化は1000年かけた発展形なのだ。

だから日本が上だとか言うつもりは無い。ただ、行き止まりの日本は西欧の価値観も取り込んで、再び、新しい結晶を結実させている。
朝鮮半島が通り道なら、中国は広場だ。あらゆるものが出入りして止まるが、モザイク遺産であり、醸成されることがない。

果たして中国は、この先、西欧文明をどう取り入れていくのだろう。
実利主義中国での仏教の位置が、産革パラダイムの未来を物語っているような気がする。とうてい、共産中国が、産業革命パラダイムに替わる、新しい経済システムを生み出す「場」とは思えない。

そして何よりも、グローバル化の世界は、どこかの国や地域が中心になると言うことは無く、国家競争そのものが地域の足かせになっていくだろう。自国中心の経済競争をする国家は、一時的には成功するが、砂上の楼閣のように消え去ることになる。

経済、政治、文化は、常に一体のものだ。完全な政治は存在しないとしても、文化は政治経済の「質」を物語るものと言えるだろう。


文化成金(1)

2012年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム

[ 美人は文化 ]

日本の女優が、わざわざ八重歯のつけ歯をしていることに、アメリカ人がブログで驚いていた。
昔から、文化による美人の基準には興味があったので、外国人に会うたびに、どういう顔を美人と思うか聞いてみた。

日本人でも、時代によって、美人の基準は大きく変わるから、一概には言えない。高度成長期には、日本でも白人的な顔に憧れる傾向があったが、近年は西洋かぶれが消え、多様な美のあり方が認められるようになってきた。

日本でも、整形や歯の矯正が流行しているが、必ずしも白人的な容姿を求めなくなった。経済的な成功による自信が生まれた後、日本独自の伝統的な「美」に目覚めてきているようだ。

40年前、色々な国の人が集まっている場で、どこの国が美人かという話になった。
当時のことだから、発展途上国の人はアメリカが美人だという。何と言っても北欧だというドイツ人もいれば、東洋人が良いというラテン系もいる。

で、アメリカより、やはりヨーロッパだと言うと、カナダ人が訳をたずねるから、「アメリカ人は人工的だが、ヨーロッパ人には”静けさ”がある」。そう言うと、カナダ人、アメリカ人ともに、悲しそうな顔で、納得した。
新大陸には、ヨーロッパに対するコンプレックスがあると、実感した。それは、今日の東京人の、京都や小京都に対する感情に似ている。

文化成金
姿、形ではどうにもならない文化的な価値は、物欲に生きている人ほど欲しがる。そして、物のように手に入ると思っている。
素直な人は文物集めに走るが、文化を礼儀作法であると思い込んだ人は、形式的な礼儀作法にこだわり、作法を知らない人を軽蔑する。

しかし、礼儀作法にこだわる人は、それが「文化成金」であることに気がつかない。

文化に生きる人は、礼儀作法も身につけているかも知れないが、それ以上に、奥ゆかしさや思いやりのような、人間としての「ゆとり」を大切にしている。物や形は結果であって、文化の本質ではない。
それは、生来の金持ちが、金を見せびらかすことを、恥ずかしいこと危険なことと考えるのと同じことだ。

近年、中国人は、中国の横暴に対する日本の反発を、経済力で抜かれた不快感からだと思い込んでいるが、それこそが、長年不遇に耐えてきた中国人の、悲しいコンプレックスに他ならない。

小国日本はむしろ、経済大国であることを面はゆく感じてきた。
三位になったことで、なにかシックリ落ち着いた観さえある。
しかし、だからといって中国に命令されることを当然とは思えない。二位の時に、日本は中国に命令したことは無い。敬愛する中国には、そこを解って欲しいのだ。


フランス

2012年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム

ショッピングモールで「アーティスト」をやっていたから、久しぶりに劇場で映画を観た。シニア割りはありがたい。
平日の最終21:25からのせいか、自分を含めて3人しかいなかった。
シニア割りの年寄りは、もっと映画館に足を運ぶべきだと思った。

白黒無声映画とは言うが、どの程度の徹底ぶりか、どう扱っているのか興味があった。
結論から言えば、「素晴らしい」の一言だ。
久々に良い映画を観た満足感に満たされた。

古き良き時代を知る人から、白黒映画など観たことも無い若者まで、おそらく誰もが納得できるだろう。アカデミー賞も伊逹では無い。

近年の機器の発達と、製作技術の向上は、創造行為を、映画館を含めるハイテク製品の単なる「コンテンツ」にしてしまった。
寸分隙の無いストーリー構成と、目を奪う演出は、全神経を集中するゲームのように、一瞬も目を離せない集中と興奮はあるものの、何か重大なものが欠落している。

近年の不可解な現象として、韓流ドラマと由紀さおりの「1969」があり、ナショナリズムの具になっているが、今回の「アーティスト」にも相通じる真理がある。

人が創造に求めるものは、単なる五官の刺激では無い。
理解や納得による哲学だ。人は、なぜ、いかに生きるかを知りたがっている。近年のドラマや映画にはそれが完全に欠落している。

だからこそ、アニメが受けるのだ。
映像刺激なら、アニメの方が無限大だ。始めから自由な表現には、「意志」がなければ、存在理由が成り立たない。

フランスの魂
「アーティスト」は、素朴で単純なメロドラマだ。こんな話を今の映画でやったら、陳腐で20分も持たないだろう。
ところが、無声と白黒という「不自由」のために、真剣にストーリーに集中する。

冷静に考えれば持って回った展開なのに、素直に感動し、「こころ」が動く。ハイテク映画による五官の刺激と違い、情報不足の白黒無声映画では、五官を自ら刺激しながら真剣に観る。
神経を集中することで、感情も敏感になり、精神全体の「満足感」が生まれる。つまり大きく感動するのだ。

昔の日本ドラマを模倣したと言われる韓流ドラマも、忘れられた40年前の歌謡曲も、心の中に一つの「世界」を生み出す。
心地良いメロディーや、古風な価値観のストーリーは、否応なく、安定した世界に浸る仕掛けとなる。

「アーティスト」は、ハリウッド創生期の映画を、ふんだんに織り込んだストーリーで、チャップリンや、バレンチノ、フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャースなどの名前を思い出す。

また、「しのび泣き」や「モンパルナスの灯」などのフランス映画得意の悲恋と、ハリウッドのハッピーエンドを上手く取り合わせて、古き良きストーリーが楽しめ、すっかり、当時の観客の気分になれる。

しかも、トーキー出現の衝撃や、「芸術とは何か」まで、改めて気づかせてくれる。映像転換期に投じられた、極めて大きな一石ではあるまいか。フランスの魂は死んではいなかった。

(断っておくと、さすがのジジイも、これらの映画をリアルタイムで観たわけでは無い)


ビキニ雲

2012年04月15日 | 写真

大飯原発再稼働
賛成では無いが、今さら驚かない。
むしろ、今反対している人は十年前、どう言っていたか聞きたい。
家では風呂を何で沸かしているか聞きたい。
夏はどうしているのか聞きたい。
せめて、十年前から自然エネルギーに向かっていれば、今日のようなことは無かったはずだ。

再稼働の大飯原発。もう一つ並べてみた。
どういうイタズラか、ビキニ水爆実験の爆発雲とそっくりだ。

Photo


クロネコ

2012年04月14日 | 写真

昨日は、13日の金曜日。
何を狙ったのか北朝鮮は、わざわざこの日に打ち上げて失敗した。
13日の金曜日はキリスト教の迷信だから、凶事にしてやろうと思ったのだろうか。
結局、タタられたのは北朝鮮のようだ。

そんなにこの日が好きなら、北朝鮮は、今後はクロネコヤマトに頼んだら良いだろう。

遅ればせながら、せっかく咲いた桜に雨。これも北のタタリだろうか。

人知らぬ花見の穴場も今日限り

Sakuranamiki


春うらら

2012年04月12日 | 日記・エッセイ・コラム

つくし、さくら、こでまり・・・春が、あっという間にやってきた。

今年の春は少し遅かった。ツバメがやってきたのも4月6日。
これまで一番早かった3月23日より、半月も遅い。しかも、その後の寒さで、翌日からそれっきり来なくなった。今日もまだいない。

若い頃は春が嫌いだった。何が嫌いというわけでもなかったが、世の中が、春だ春だと浮かれるのが腹立たしかった。
春が来たからと言って何も変わらない。また学校に行かなければならない。友達とは、遊びに行けば会える・・・新学期なんか要らない

ところが、老いて冬の寒さを覚えるようになってからは、春が待ち遠しくなった。四十を過ぎた頃から、山川草木がありがたくなった。
なんでも素直に、カワイイ、きれいだ、と思えるようになった。
よろよろと生きながら、生かされていることを実感するようになった。

人間は、五十までの上り坂は、体力が気力を養っているが、下り坂に入ると、体力は気力と分離して、どんどん下に転がり始め、かろうじて、気力が体力を引き上げている。
「お前は既に死んでいる」と言われたら、そうかも知れない。
気を緩めたとたん、体力、気力もろともに、奈落の底に落ち込んでしまう。それが終わりだ。

年々、幽体離脱が進み、生きながらにして、浮遊していく感覚がある。さながら、千の風の仲間になって、木立を通り、草原を渡るようで、「ああ、自然は何と美しいのだろう」と、喜びが広がる。

視力が衰え、耳は遠くなり、だんだん世の有様に腹も立たなくなり、
「これでいいのだ・・・バガボンボン」

霞たなびき
山が萌え、霞に包まれた春の陽気の中で、ニュースが遠くの喧噪のように聞こえてくる。近づいて聞けば、腹も立ち、興奮もするかも知れないが、バカげた騒ぎは今に始まったことではない。

今年に入って下がり始めた円が、また上がり始め、株は下がり始めた。株の曲線を見ていると、日本をめぐる星のバロメーターだ。好調は一筋縄ではいかない。桜が咲けば花冷えがある。

北のロケット騒ぎは、アメリカのトラップではなかろうか。
あれだけやられながら、またも北に騙されるようなアメリカだろうか。ネズミだって学習する。ミッキーの方がドブネズミより賢いはずだ。

平和の使者ハトは、相当頭が悪い。以前、餌に群がる鳩の群れの後ろから、じっと見ていた嘴太カラスが、そうっと近づくと、一気に首をへし折って食べてしまう映像があった。可愛がられることだけでいい気になって餌に群がるハトは、脳のサイズが小さいのだそうだ。

ダルビッシュには、やっぱり外国の血がある。外国人は日本人より興奮症だ。外人の助っ人選手にもよくあるが、ここ一番の気負いがあると変になる。WBCの時に、韓国戦で何故か変調をきたしたことがあったので、心配していたら案の定だった。この先はガンバって欲しい。

ソニーが青息吐息だ。
ソニーの衰退はフラットテレビから始まっていた。大企業を目標にして就職した優等生社員が、中堅になった頃から運命は決まっていた。過去の巨艦巨砲主義に陥った戦艦ヤマトの最後は哀れだった。ウオークマンに関わった一員だと、役員が英雄のようにテレビに出てきた時に、「終わった」と思った。

その前後から、当たり前のようにユーザー情報を要求しだした。
そして、多くの日本企業がそれに追随した。このメンタリティーが、おかしいと思えない企業は、衰退しかない。

一太郎が一気に広がったのは、コピーフリーにしたからだったが、今、ジャストシステムは執拗にユーザー登録を要求する。
ユーザー登録の要求は不遜であり、「攻め」の放棄だが、日本中の企業が麻痺してしまっている


発掘記事

2012年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム

昨年、同じ時期に書いて、上げなかった記事が残っていた。
日本が大震災で喘ぐ最中に、周辺国が日本に揺さぶりをかけてきたことで、日本中が怒り、動揺していた時に書いた。

自分も、冷静ではないかも知れないと思い、少し躊躇して上げなかったが、一年経って読み返してみても、状況も気持ちもほとんど変わっていないので、「もう、いいかな」と、そのまま上げることにした。
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<本気なら> 2011/4/7
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昔から、何か言って、まともに相手にされたことがない。
大抵「アホか」という顔をされる。
しかし、いずれも2~30年後には現実になった。N.Y.が文化の中心になる。農業が見直される。電話が主要産業になる・・・等々。
当時、世の中にそんな気配はなかったから、相手にされなかった。

だから、どう思われても良いのだが・・・
「百年を見据えた外交を考えるなら、領土問題を前面に出すことは、得策だとは思わない。」

中露ともに核を持ち、半島は南北とも核武装をしたがっている。
こんな連中を相手に、満員電車で「どっちが足を踏んだ」と言って関われば、怪我をせずに済む話ではない。

「怪我を恐れるか、腰抜け」と言われるかも知れないが、拳銃やナイフを持った連中に、素手で「正義」は貫けない。
だから、ここで「お前が足を踏んだ」と言うことは、直ちに銃を持つ覚悟を意味する。

現実問題、アメリカは「領土問題は知らん」と言っているわけだし、
「正義」を貫こうと思うなら、最低限、次の駅で飛び出したら、公安官が待機しているぐらいの保証がなければ、声は出せない。
と言うことは、憲法改正をして核武装をし、NATOに加盟するぐらいのことはしておかなければ「正義」は主張できない。

しかし、NATOだって、領土問題には関わらない。
領土主張は、まるで「昭和残侠伝」だ。何の生産性もない古き「散華の美学」であって、現実外交やビジネスとは、真反対の生き方だ。

狭い地球はサッカー場
武士は、商人を最も賤しい存在と見たが、鎖国体制の閉ざされた世界では、結局、商人が一番力を持った。
狭くなる地球は閉ざされた世界だ。武力は飾り物になり、流通が本体になる。

300年の産業革命パラダイムが終わろうとしている。すでにグローバル化していることは、リーマンショックでも、今回の災害でもはっきりした。今後、グローバル化はさらに形を変えて進展するだろう。
産革パラダイムの屋台骨である、国家概念や軍事力は無意味になり、商売の地歩を固めた者がその地を事実上支配する。

平和憲法の最大短所は逆説的に言えば、軍事力(武力解決)を持たないことだ。
つまり、「チクショウ、軍事力さえあればこんな事にはならないのに」と思う、コンプレックスに囚われて、負けて勝つ、損して得取る事に頭が回らなくなる。(格闘技の有段者は喧嘩を避ける)

「足を踏んだのは向こうだ」と、下を見て繰り返しつぶやきながら、喧嘩ばかり考え、最後の勝者になることを忘れてしまう。

子供の頃、ソ連や南鮮に、日本船が銃撃を受け、多くの漁民が殺され拿捕された悔しさは、父の怒りの形相とともに鮮明に覚えている。
中国の主張や行状の不条理も腹に据えかねる。

しかし、「本気で勝つ」気なら、黙って相手の裏に回るのが、賢明というものではあるまいか。筋道論では、勝者になれない。

中露韓とも、既にこちらの裏に回ろうとしている時に、
日本は外交サッカーで、「領土ウオッチャー」になっている。


天文人文

2012年04月06日 | 占いばなし

NHKの公式ツイートで、エイプリルフールをやったら、抗議が来て、NHKが謝罪したそうだ。
エイプリルフールは大好きなので、昔から真面目に参加してきた。
あまり、やり過ぎたので、近頃はむしろ、「だまされないぞ」と構えている人に、何も嘘をつかないことをネタにして楽しんでいる。

日本では、エイプリルフールを楽しまずに、抗議する人がいる。
これが良いか悪いかは、何とも言えない。

エイプリルフールなど、外国の風習に、日本の国営放送が毛唐のまねをやるとはけしからん。と言うのなら、それも解らないでは無い。
欧米の報道機関が熱心にエイプリルフールに「勤め」ているからと言って、日本には日本の価値観やモラルがある。そういうことだろうか。

しかし、もしそういう理由でエイプリルフールを楽しめないのなら、抗議をした人は、クリスマスを祝わず、洋式では結婚しないのだろうか。洋服を着ず、下駄で外出するのだろうか。書類は今でも毛筆だろうか。そもそも、抗議したツイートをどうして知ったのだろうか。

否でも応でも、西欧化の中で暮らしている以上、西欧の文化にもっと寛容でも良いはずだ。それとも単に、イチャモンが趣味なだけなのだろうか。

文化も価値観も、知識によって変わってくる
今年の、5月21日は、日本列島ほぼ全域で金環食が観られる。
これだけ大規模な日食は滅多に無く、今生きている人は日本列島では同条件で二度と見ることは無いそうだ。

日食の知識は、星占いとほぼ同時にあったようで、理屈が解れば、楽しい自然のイベントであり、「恐れおののく」ようなことではない。
古代文明ではとっくに予測できていた日食だが、日本列島では卑弥呼の時代でもまだ、恐れおののいていた。

日本神話の天岩戸神話は、卑弥呼の時代に起こった日食が織り込まれていると言われているが、卑弥呼の時代と言えば、三国志の時代だ。
いかに日本が辺境の地であったかと言うことだが、これだけ発展した文明社会でも、日食に何か特別な力がある「神秘」としてみる人々がいる。

日食に関して、星占いには、ドラゴンヘッドやドラゴンテールなどあるが、天文計算の名残で、それが特に何か影響するとは思えない。
日食と言えども新月と大差ないが、そういう意味では逆に、新月満月(朔望)と同様の影響はある。

歴史上の事件の場に日食があったことは多々あるが、インパクトのある現象だから記録に残っているので、毎月起こる朔望と同じ現象を引き起こしているに過ぎない。(人心の異常心理による事件の多発)

しかし、同じ朔望月でも、他の惑星との関係で、事相は変わってくる。
ちなみに、5月21日の金環食(新月)は双子座0゜で、牡牛座25゜の木星とも近く、魚座3゜の海王星とは90゜だ。
何れも変容宮なので、精神錯乱や、交通・通信コミュニケーションに関わる事件が起こりやすく、国で言えば米国や海洋国、日本なら、神戸、名古屋、東京などの変容宮の地域。

地震の可能性もあるが、朔望の瞬間には起こらないと言われている。
繰り返して言うが、これは日食によるものでは無く、新月満月の一般的影響の話だ。

日食によって、運を強くするとか、パワーを得るとか削がれるとか、そういう話は占いとは関係なく、前世や来世の話と同様、信じる人の心の問題であり、天変地異に抱く原始時代からの素朴な感情だろう。

もっとも、日食を正確に予測できる現代では、それを当て込んだ経済活動もあり、天体ショーを見ようと走り回る人のドタバタ騒動もあるから、当然、ただの新月以上の事件も多発するだろう。
しかし、これは天の為せるわざではなく、人文の為せるわざだ。


m(__)m

2012年04月06日 | 星の流れに

当分、休むか、もう止めようと思っていたのですが、コメントやメールを頂き、こんなブログでも、ご愛読いただいている方があることを知り、励まされました。ありがとうございます。

1000回目の時に、「これで休みます」と言いながら、もう、400回以上も書いてしまいました。もしかして、「依存症」ではないかと心配になり、とりあえず、止めてみようと思った次第です。

ブログを休んでみると、やるべき事が山積みになっていました。
残り少ない人生なので、全部というわけにはいかないけれど、「できることからコツコツと」やっていこうと思います。

そんなわけで、毎日とはいきませんが、できるだけ、ブログも続けようと思います。
コメントやメールには、直接お返事はできませんが、本文のきっかけやネタにさせていただきます。
直接お答えすると、生来の無礼者のため、失礼なことを言いかねません。一般論なら、独りよがりと笑って許してもらえるのではと期待してのことです。ご了承下さい。