魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

詐欺時代

2022年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

詐欺師はダマそうとして嘘をついているケースは少ない。自分自身がそう信じているから他人がダマされる。ドラマや小説の作者が、書いているうちに登場人物に引っ張られるのも、人物の背景や資質が定まれば自ずと、その現実感に引き込まれるからだ。
詐欺師も状況の中で、その人物に成りきる。
都民ファーストの木下富美子が無免許事故で、あたかも政治試練かのような態度をとったのも「成りきり」の一つだ。ただ、自分でも解っていたので成りきれなかったのだろう。そこがやはり素人だ。
政治家は、大衆を納得させる役者の資質が必要だ。役者は役作りでドラマの人物に成りきろうとするが、政治家は紛れもない本人であり、役に酔えばポピュリズムに陥る。

第二次大戦後75年。朝鮮、ベトナム、中東と冷戦の混乱の中で築き上げた、経済や平和の財産を、今世紀のポピュリズムが食い尽くした。
この20年の世界の政治家は、前世紀の遺産をバラ蒔いた道化役者であり詐欺師達だ。ある意味では、無限の荒野を創造してくれたとも言える。
何もしない組織は腐る。大戦後生まれた国連などの世界のあらゆる組織が、事実上無意味になった。科学、産業の進化の中で環境が激変し、新たな脅威が生まれたが、無意味なランク付けや宣言しかできない。実態も実効性もない言葉ばかり飛び交う。
フランス革命があったから、「ラ・マルセーズ」が生まれ、独立戦争があったから「星条旗よ永遠慣れ」が生まれた。実働の中で歌が生まれたので、歌によって革命や独立が成ったのではない。歌やデモや、宣言では何も生まれない。

日本のポピュリズム
世紀末の夢を見ている世界で、各国の政治家も無意味な言葉遊びを続ける。
先日、菅直人元総理が維新の橋下徹をヒトラーに例え物議を醸し、安倍晋三元総理が佐渡金山で韓国と論争すべしと檄を飛ばした。
菅直人は学生運動出身だが、過激派ではなく、現実的な穏健派で市川房枝を押し立てた、いわば、体制内反体制の人で、おそらく、過激派のような挫折経験はないだろう。
一方、安倍晋三は言うまでもなく、体制保守の御曹司だ。方向性にかかわらず、二人とも体制内の人だ。これに対し、橋下徹は全く異次元の、在野の人と言える。

ヒトラーは政治体制を利用して成り上がった体制内反体制が原点だ。菅がヒトラーを例えに出すのは、自身が理解しやすい思考次元だからであり、橋下には当たらない。
また、執拗な韓国に、ガツンと言ってやりたいのは、多くの日本人の本音だろうが、軍艦島の申請時、日本は論争ではなく曖昧な取引で決着し、禍根を残すことになった。しかし、これは安倍政権下だったはずだ。拉致問題、慰安婦問題、そして今回の世界遺産登録問題。言うことは立派だが、何も結果を残さず、むしろ問題を広げ、ドタンバでは居なくなる。

世界中で、体制に安住した無責任な政治や組織がまかり通り、多くの人がそれを歓迎した。サイバー時代の現実感喪失も寄与しているだろう。
詐欺にかかっている人は、自分が欺されているとは決して信じない。
前世紀の夢の中で、惰眠をむさぼる世界に冷水を浴びせたのがコロナだった。
今世紀も早、20年が過ぎた。もう、寝ているわけにはいかなくなった。

超越見識


大人国民

2022年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム

三回目の接種が遅いとか少ないとか、メディアや野党が騒ぎ、与党は大慌てで「やってるやってる」と騒ぐ。
ところがフタを開けてみると、希望者が集まらない。
これは、馬鹿メディアや政治家より、国民がいかに冷静かを表す、素晴らしい結果だ。
国民もそろそろ、オオカミ少年に気づいてきた。
慌てる人騒ぐ人は何時でもいる。しかし、多くの日本国民は、黙って判断をしている。
日本人は、マスク反対暴動を起こしたりしないが、時間が経てば、冷静に見極める。

ワクチン関係者は、銘柄が気に入らないからだろうと、重ねて馬鹿な見方をしているが、これまで、銘柄にこだわる人はほとんどいなかった。メディアや野党は摂取率が進まないことを手際の悪さとして責めているが、国民が醒めているのだ。接種する人の多くも、真面目な義務感からだろう。
オミクロンに、政治のバランスを考えず、相変わらず数値抑えのマン防やワクチンに頼ろうとする中央・地方の政治家の無能に、国民が静かに拒否をし、やがて政治家が従う。
メディア、政治家の無能、無責任を国民が一番よく知っているようだ。反応の遅い日本人だが、長い目で見れば捨てたものではない。
裸の措置


総くずれ

2022年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

コロナのおかげでと言うか、長生きしたおかげで歴史的パニックを体験した。
相場やオイルショックは、命まで取ろうという話ではないが、パンデミックは全ての人に死を突きつけるから、他人事ではいられない。

集団や組織の機能が、個々に失われ、全体の有機的機能が停止することを「総崩れ」と言い、個人戦にはない。柔道などの各階級がみな負けたりすると「総崩れ」と言うが、種目全体を一つの組織とみたものだ。
サッカーなどで、負けるハズのないチームが、何かの弾みに、あれよあれよと失点を重ねるときは、総崩れが起こっている。
一人一人はスゴイ能力なのに、意外な失点など何かのショックで、連携が狂い、集団としての能力が全く機能しなくなる。
これは、互いの意識空間、意識の場が消えるからで、コンセンサスへの不安が生れると、安心して本来の行動がとれなくなる。互いに何をして良いか解らなくなり、機能の連携が失われ、全体としての能力が消える。

人の身体もサッカーチームによく似ている。個々の器官の機能が連携して、そこから生まれる意識を支え、同時に意識が器官を動かす。個々の器官がどんなに優秀でも意識が低下すると連携が失われ、それがまた器官を衰弱させる。
「病は気から」とは、「病気ではない気のせいだ」ではなく、気持ちさえ強ければ病気にはならないという意味でもない。気持ち次第で治癒も悪化も進むことを教えている。
自分の身体に対する不安が生まれると、身体コントロール意欲が低下し、個々の器官の維持力が低下する。するとますます不安になり、正常ではない行動を取り始める。寝込んだり、食べなくなったりし、やがて実際に症状が現れ、悪化が始まる。

複層的な能力の集合体なら、社会も人体やサッカーチームに似ている。
コロナのような得体の知れない不安が起こると、健康の素である社会の意欲=相互信頼が失われる。一点に注目すれば、他の機能が相対的にストップし、社会全体が衰弱する。社会の健康の基本は社会信頼であり、政治経済への安心感が細胞である個人の意欲と能力を生む。だが、意識が個々の健康だけに向けられると、相互機能が停止する。
コロナで個々の危機が煽られ、社会維持の指針は完全に忘れられた。身体は器官に多少の不具合が生じても意識がしっかりしていれば、全体の機能によって修復が可能だ。サッカーで一人退場になっても逆転勝ちしたりするのは全体の意識が高まるからだ。

多少泳げる人でも溺れるのは、一瞬の呼吸困難に意識が集中し、泳ぎながら呼吸を整えるという、二つのことが同時にできなくなるからだ。
子供の頃、溺れかけたことがある。一旦、息を止めれば良いはずなのだが、身体は水を吐き出そうとする、意識は泳ごうとする。これをしばらく繰り返し、やがて泳ぐことができなくなり、大量の水を飲む。コロナが水なら、呼吸は医療、泳ごうとするのは社会経済だ。
パニックは、常態が小さく失われた時、それを正常に戻そうとして起こり、悪循環によって全てが破綻する。非常事態の時には、誰がどう騒ごうと、取捨選択から考えなければならない。それをやったのが中国であり、溺れたのが民主主義国だ。
しかし、水が引いて足が届くようになっているのに、同じ事を続けていると、本当に死んでしまう。中国は強制呼吸停止で、民主主義国は水深30㎝で。

サッカーも人も社会も、局所の問題に囚われると、全体の機能が失われ敗北する。
オミクロン大発生の英国などが、警戒措置を止めたのは卓見だ。


たとえ話

2022年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

オミクロン拡大の状況を何に例えればいいのだろう。
外来スズメバチの大発生で多くの人が刺されて、みな窓を閉めて家に閉じこもった。少しでも隙間を開ければハチが飛び込んでくる。怖い怖い。
しばらくするとハチはどっかに行ってしまった。
やれやれと、恐る恐る窓を開けた瞬間、再びゴーッと黒い群れが押し寄せた。
また、一斉に窓を閉めようとしているが、飛んで来たのはミツバチの群れだった。
ミツバチもハチには違いないが、注意すればやみくもには刺されない。刺されたら痛いが、めったに重症にはならない。かと言って、窓を開けてミツバチの群れが充満すると、注意にも限界がある。あちこちで刺されると、病院に駆け込む人も増えるから、街も病院も大混乱になる。
ミツバチぐらいで死なないからと言っても、痛い!、腫れが!と、どうしても病院に行かなければ安心できない人がいる。そうなると、医療崩壊が起きて他の重病患者の治療ができなくなる。
結局、一斉窓締め措置が出る。
こうなると、「ハチよりも、窓締めで息苦しい」と言って窓を開けると、近所から白い目で見られて、無法者の烙印を押される。

科学の空気
例え話をすると、それとこれとは別問題だという人がいる。中には、関係ない話をするな、と怒り出す人もいる。
古聖賢を始め、昔は何事も例え話で話し、聴く人もそれを理解し納得した。寓話やことわざもその一つだ。別の話と比較することで、目の前の現実問題に内在する、本質的な問題を浮き上がらせる。現象に惑わされないための理解法だ。

ところが、近頃は、例え話そのものを、現実から目をそらせるごまかしだと受け止める人が多くなった。もちろん、的外れの例え話は時間の無駄だが、現象が異なれば別問題だと、「科学的」思考でしか理解できない人が増えた。ただ、本当の科学者は常に多様な原理に目を向けているので、こんなことはないのだが、科学時代の空気だけを吸っている人は、物や現象の違いしか理解できない。多様な姿から「犬」というものを判別できるAIよりもデジタル化してしまっている。複層的な事象から別の姿を理解できない創造力の低下、思考の劣化が起こっている。

コロナ禍は、この「科学禍」の空気の中で生まれた。物、現象、数値だけでは、「こと」は理解できない。「こと」とは、目に見えない実体であり、普遍的な「ことわり」道理だ。
手段の「目的」であり、本末の「本」であり、森羅万象を貫く「法」のことだ。
「こりゃあ、ことだぜ!」の「こと」は、言葉では表せない問答無用の重大事を意味するが、本質的で重要なことは物理的には把握できない。観念でしか理解できない世界だ。
アリは鳥の世界を知らない。眼に映る物だけで世界を理解すると全体が見えなくなる。
木を見て森を見ず。コロナ騒動は大局を見失った「科学禍」の悲喜劇だ。
コロナが土星水瓶座の影響とすれば、そろそろ終わりそうだ。
→「風も爆弾」20210808


裸の措置

2022年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

これまでのコロナ禍では、電車に乗っても鼻をすする人も、小さな咳をする人も全くいなかった。
ところが、このところ電車に乗っていると、マスクの下で鼻をすする音や小さくむせている人を少なからず見かける。まるでコロナ以前の冬の風物詩が戻ってきたようだ。
これは、おそらくオミクロンだろう。オミクロンはすぐ感染し、無自覚のうちに次々と感染する。この分だと、検査していない無症状の人は発表の数倍、あるいは数十倍いることが考えられる。

とすれば、まん防に何の意味があるのだろう。
おそらく、専門家や政府筋もまん延状況を認識しているのだろう、様々な規制より注意喚起を重点にしている。ブレークスルーの拡大、軽症化、手に負えない事実上の拡散にもかかわらず、野党やメディアは、未だに検査やワクチンを争点にしているが、もはや意味が無い。
まん延してしまえば自然収束すると、うすうす誰もが思っているが、中央も地方も日本の「ことなかれ」の立場上、「やってる感」を出さなければ色々うるさい。
誰も守ろうとは思わない軽犯罪法のようなもので、立前は犯罪ですよと、「オレ言ったよねえ」だ。みんなで感染して早く集団免疫つくりましょうとは、まさか言えない。
まん防措置は、みんな本当は解っている裸の王様だ。


超越見識

2022年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム

ほんとうに、やめてほしい
軍艦島に懲りず、佐渡金山を世界遺産にして貰おうと、卑しいヨダレを垂らしている。
韓国はまたも好機到来と、タナボタにワクワクしている。

世界遺産やオリンピック。なんで自らに自信が持てないのだろう。知恵が無いのだろう。
人に褒めて貰ったり、人のフンドシを借りなければ成り立たない日本だろうか。
世界遺産やオリンピックがなくても、日本は十分注目されている。
国民栄誉賞を断ったイチローや大谷は立派だ。自分を信じ、卑しさを超越している。

何度も言うことだが、世界遺産など堂々と全面返上し、日本自体を「別格世界遺産」であると、世界に知らしめるべきだ。
→「場外達人」20180907
→「かぐや姫」20151014
→「日本遺産」20150708
→「世界遺産」20150705


海の支配

2022年01月17日 | 大転換

トンガの海底火山爆発で日本でも少なからぬ津波被害を受けた。
このところ続いている太平洋全域の地震や噴火は、東日本大震災や小笠原西之島などを含め、地球の営みだが、占星術的には海王星・魚座時代と言える。
海王星は海洋や大災害を表す。ネプチューン(ポセイドン)は海底にいて日頃は見えないが、天変地異には、ヌッと海から現れる姿がよく描かれる。日頃気づかない巨大な力が現れるのが自然災害だ。

魚座の古典的支配星は木星だったが、海王星発見で入れ替わり、不思議なほどよく当てはまっている。魚座の影響圏に入った頃から、大津波が目立ち始め、東日本大震災はほぼ魚座入宮に当たる。「世界津波の日」の元になった「稲むらの火」の、安政海南地震の1854年も海王星が魚座にいた。まさに今は幕末の最中だ。
今の日本を洗濯するには、与党野党に関わらず既存の国政システムではできないということだ。
さらに、今は産業革命パラダイムの終焉が重なっている。全く新しい、世界の夜明けを目指す動乱の時だ。

動乱と言えば、火器戦争をイメージするのはもう古い。秩序が乱れるのが動乱なら、今の世界秩序では情報と経済が主戦場だ。この点、デジタルも経済も仮死状態の日本は、皮肉にも、大けがをしないで済むかも知れない。
しかし、動乱よりもっと大きな大転換の最中であることを見落とすと、全てを失うことになる。
15世紀、18世紀、そして21世紀の大転換は、それまでの状況から生まれた、ゲームチェンジャーによってもたらされる。
新大陸、内燃機関、そして???
色々考えられるが、300年にわたる時代を支配するものは、月と火星の開拓なのではなかろうか。技術も経済も、国際秩序も人類の常識も変えるのは宇宙開拓だ。
この点、日本はまんざらでもない位置取りにいるようだから、後は、駆け引きと勇気次第だろう。


何を言う

2022年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

もう、オカシイんじゃないか。
オミクロンについて、現場の医師は軽い風邪並みか無症状が多いと言い。WHOも各国の研究者も軽症だと報告している。
にもかかわらず、メディアはこれを伝える一方で、「驚くべき感染力!」とか、「感染を拡大しないために」とか、「早くワクチンを」とか悲壮感を盛り上げている。一体、何のために何を言いたいんだろう。
患者が増えれば医療逼迫が起こる。そりゃ、そうだろう。初期の重症コロナなら医療機関に頼るしかない。
だが、コロナと名が付いているからと言って、コロナはもう元のコロナではない。
日本と大日本帝国を同一視する韓国のような、味噌クソの思い込みは、自らの首を絞める。
過ぎたるは及ばざるがごとし。何事も、現状を直視して当たらないと、無策で始めたコロナ初期の、逆の失敗を繰り返すことになる。

風邪並みの症状であれば、風邪に準ずる療養法があるはずだ。
主体性のない日本政府さえ隔離政策を見直し始めている時に、何が何でも「テエヘンだ!テエヘンだ!」と騒ぐだけのメディアは、第四の権力にもなり得ない、無責任な野次馬だ。
メディアがやるべきことは、軽症化したWithコロナに勝つ健康作りや、どんなときに病院に行かなければならないか、自宅療養の判断基準やその方法などを周知し、国民が安心できる情報を提供することだ。
芸能人スキャンダルのように、ただ騒いで火を大きくすることしか知らないメディアは、裁く人がいないことを良いことに、煽ることしか考えていない。

御身苦労


食われる

2022年01月11日 | 話の畑

中国のユニクロで、コラボTシャツの奪い合い殴り合いの争奪戦が起きたが、日本ではそれほどの混乱はなかった。
中国の混乱は、あくまで転売目的の客だ。値上がりしそうだから是非手に入れたいので、殴り合いになる、
中国人は極めて現実的と言われる。食の国中国の挨拶は、「飯食ったか?」だそうだ。
衣食足りて礼節を知るものだが、食で止まっている。

欧州も日本も、特に豊かな国ではないが、何故か食以外のものに関心を持ってきたところを見ると、中国の環境が厳しかったからと言うわけではないだろう。安定した時代もあったし、芸術が盛んな時代もあった。にもかかわらず、どう考えても中国の美意識には心が動かない。
美は調和から生まれるが、多様なもの多様な心が無ければ、調和の欲求も生まれない。
陰陽、何事も二者択一にする中国には調和が生まれない。
あれだけの人が住む中国だから、美の才能も豊富なはずだが、文化を規制する今の中共の動きを見ていると、なるほど、不毛の地であることが納得できる。

ユニクロで奪い合う「デザイン」は、美の渇望では一切なく、金金金だ。金だけが人生の目的。つまり、食うことしか関心がなく、物量の豊富なこと、それを得る力だけにしか価値を見いだせない。そんな社会が豊かになれば、次のものを求めて侵略を始める。
中国の侵略動機は、貧困でも石油でも世界統一でもない。ただ、欲しい。それだけだ。
説得しても止まらないマシンを止めるには、エネルギーを断つしかない。
中国から美味い汁が吸えると考えている企業は、やがて、フォアグラか豚マンにされるだろう。


雪に舞う

2022年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

雪やこんこん・・・犬は喜び庭かけまわる
犬でなくても、雪はなぜか、多くの人の心をかき立てる。「あっ、雨だ!」と、喜ぶ人は少ないが、「あっ、雪だ!」と言う時は、どこか高揚感がある。
様々な気象災害のなかで、雪そのものは豪雨や強風ほどの予測不能な恐怖感は少ない。雪による大きな事故は風を伴うもので、そのほかの雪災害は突発性がなく、ある程度、心がけや工夫で避けられる。「花見」や「雪見」はあるが、「雨見」や「嵐見」は無い。
とは言え、豪雪の夜、地鳴りのような雪起こしに降り積もる雪の、重苦しい恐怖は体験した者しかわからないかも知れない。

雪に心が騒ぐのは、気圧や湿度もあるだろうが、何よりも別世界の浮遊感だ。夢の中にいるように我を忘れる。わけもなく心が浮き立ち、悲しい時にはなお悲しくなる。
「トンネルを抜けると雪国だった」、「雪は降る、あなたは来ない」
こんな一言で、パッと情景に引き込まれる。雪の浮遊感が深く記憶されているからだろう。雪を見たことがない南国の人でも、本物の雪には感動、興奮する。大雪を大変そうに伝えるニュースも、どこか楽しそうだ。
東京の雪に踊る人の映像を見て、ふと思った。


不思議だ

2022年01月05日 | 占いばなし

不思議と言うか、当然と言うか、「トラ」歳には「虎」の話題が出る。(豚年射年2019)
今年も早速、虎に噛まれた話題が立て続けに出た。
年末、アメリカの動物園の清掃員が手を檻のトラに引き込まれ、スマホで助けを求め、駆けつけた警官にトラは撃ち殺された。
5日には那須サファリパークで飼育員が三人噛まれた。
よりによって、何でだろう


御身苦労

2022年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム

オミクロン株を、デルタ株以前と同じように感染数で見るのは、思考停止の誤りだ。
空気のようにどこにでも侵入するオミクロン株を気にするより、発症者対策に集中するのが先ではなかろうか。
(ちょうど、これを書いている時、首相年頭会見で現実的な方針が出されて、やや安心したが)

ワクチンをしてもブレークスルー感染が多発している。一方で、オミクロン株に至っては重傷者が極めて少ない。無論、オミクロンでも重傷者や死者は出るが、体質や体力、環境次第で、どんなきっかけでも死に至る人は常にいる。寒暖差だけでも高齢者には死者が出る。
どう考えても、オミクロン株は集団免疫を可能にする、締めのウイルスとして現れた福音としか思えない。

科学信仰の現代、特にイスラエルのような国を筆頭に、ワクチンを国民の義務のようにして摂取し、それでコロナを抑えられたと信じているが、果たしてワクチンの効果だろうか。インド、韓国、日本の、それぞれ極端な例を見ていると、そうは思えない。雑な環境ではウイルスは拡散し、潔癖主義では広がらない。一方、広がり切れば感染は止まる。単にそういうことではなかろうか。
コロナワクチンはまさに、科学信仰の免罪符なのかも知れない。。

アメリカの調査会社は、ゼロコロナ政策の中国リスクを挙げている。中国はオミクロン株にも厳しくロックダウンをしているが、政策によって起こる経済破綻の方がリスクだ。初期段階の成功体験で、中国はこの政策を改められないだろう。
オミクロンに対する柔軟対応で、欧米に出遅れた日本は、「先進国?」として、この際むしろ先鋭的に、オミクロン解放宣言を発し、ワクチン接種とオミクロン抗体を同格に扱うことにしてはどうか(まあ、無理だろうが)。

ワクチンによる様々な副作用は、ほぼ全く公表されないが、オミクロン症状は患者の背景に関係なく大々的にニュースになる。医療関係者の不安、メディアの柳ドジョウ探しは解るが、そろそろ頭を切り替えても良さそうだ。
「米国、一日100万人超!」の大見出しは、感染と考えるより、自然ワクチン接種と受け止めた方が良いのではないか。コロナ初期のような重傷者も死者も出ていない。声高に告げたいメディアだが、告げたくてもネタが無い。
子供を無菌室で育てると、一生どこにも出せなくなる。人間は無菌では生きられない。

入国制限」20211201、「ラクチン」20211221


盆栽野球

2022年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム

大谷翔平の大活躍を導いたのは栗山英樹であり、メジャーへの道を開拓し、広げたのは野茂とイチローで、その二人を導いたのは仰木彬だ。
極論すれば、この二人の監督がいなければ、今日のような日本選手のメジャー活躍は無かっただろう。
栗山英樹と仰木彬はともに牡牛座で堅実だ。タイプは真逆だが、野球が人生の目的ではなかったことが共通している。
おそらく、野球に対して固定概念が無く、常に第三者的観点を持てる人なのではなかろうか。

今日でも、野球の大御所と言われる人たちを見ると、メジャーに対して、憧れの別世界のような固定概念を持っている。また、それを伝えるメディアも同類だ。
何事も、一つの環境で打ち込んだ人は、他の土俵を同じものだとは考えられない。ことに野球のようにポジションが定まった、がんじがらめのルールの世界では、細部が注目され、意識が萎縮し固定化され、いわゆる「常識」が膨らみやすい。

自由な発想のアメリカさえ、大谷翔平の二刀流に驚いた。近年、誰も二刀流を試みなかったのは、野球と言うスポーツがいかに常識に陥りやすいかを示している。メジャーが王貞治の記録を認めようとしなかったのも、逆説的に日本球界と同様、日米には差があると思い込んでいたからだ。
世界で野球がサッカーのように広まらないのも、この、ルールと常識を前提にする「楽屋落ち」的なスポーツに、娯楽としての、とっつきにくさがあるからだろう。

結晶と干物
アメリカは、何でもありの国だけに、何事も結晶化しやすい。何かを行う時、そこに特化したルールやツールが生まれる。干渉が無いから、手段が先鋭化する。
互いに干渉し合って結晶化を拒む日本とは真逆に、とりあえず行くところまで行って、凝り固まると、それを砕くハンマーを使う。
日本の場合、結晶化しないまま全体がコチコチの干物になり、外部から黒船ハンマーが現れるまで、自らはハンマーも包丁も作れない。

アメリカの極端な結晶化は、様々な発明や変革をもたらしたが、歯止めが無いから行くとこまで行く。大恐慌、禁酒法、赤狩り、核爆弾から、自動車社会、ネット社会、グローバル化や中国怪獣に至るまで、歯止め無く膨張した結果のブーメランで、自分が苦しむ。
一方、スポーツでは野球のようにルールを細かくして、細部のテクニックや戦術がどんどん先鋭化する。投球制限とか専門ポジションの発想は、マシンの戦いで、スポーツ本来の人間を忘れてしまっている。根性主義の日本野球とは真逆だ。

日本の根性主義で、ノーアウト満塁を抑えきる松坂のような投手が、アメリカのシステム野球では死んでしまう。逆に根性主義に苦しんだ野茂やイチローは、アメリカで心理的に解放され、やりたいようにやって能力を開花させた。この、自由にやることの可能性を知っていたのが仰木彬ということになる。それは、生い立ちが、球界に憧れて心酔していた人ではなく、たまたまの就職先だったからだろう。だから、球界の圧力を取り払ってやれば活躍できる選手を、冷静に見抜くことができた。

この真逆が野村克也だ。ID野球と称し、あたかもメジャーのような野球観を提唱していたが、根底には人情根性があり、IDは人間を活かす手段だった。再生工場と言われたのも、システムから落ちこぼれた選手の長所を活用できたからだ。声高のIDには、日本野球が中途半端にデータ利用をすることを皮肉った面もあるような気がする。
ピッチャー新庄、「マー君神の子」など、どこまでも選手に対する人情と信頼に基づいていたように思う。つまり、真の人間野球だった。

人間を機械部品のように考えるメジャーに、人間で考える日本野球が加わることで、意外な結果を出したが、メジャーでは余りに異質で理解できず、面白い、使えるぐらいに見ていただろう。そこに、メジャーの基準をも満たす大谷が現れたことで、メジャープラスアルファとして受け入れられた。大谷のゴミ拾いや謙虚さなど、日本野球の精神主義、野球道にも目が向けられ始めたようだ。

その大谷登場の立役者は栗山英樹だ。直接、メジャーを目指していた大谷に二刀流を提示して日本に引き留め、実際に二刀流を開花させたのは栗山であり、もし、大谷がいきなりメジャーに行っていたら、それなりに成功はしたかも知れないが、今日の二刀流は無かっただろう。ただの優秀選手で、ヘタをすれば、それさえ無かったかも知れない。
パワー選手ならメジャーにはいくらでもいるからだ。
大谷の二刀流は、日本の人間野球だからこそ育てることができた盆栽であり、アメリカの大地に植え替えてそのまま成長した。
今後、可能性に気づいたメジャーでは次々と二刀流が現れるだろうが、同時に、二刀流潰しも進化する。
ビーチサンダルに生まれ変わった草履のように、文化の出会いはイノベーションを生む。日本野球がシステム野球を取り入れたように、メジャーにも野球道が加われば、さらに面白いものになるかもしれない。
ただ、その前に、近代スポーツ全体が、どこまで同じスタイルで続けられるものなのか、ローマの歴史に問うてみたい。


正月2日

2022年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム

今年も既に2日過ぎた。半年目ぐらいに、「早いなあ!」と思うのは普通だが、案外、冬至や正月後の1、2日目には、日々の経過に焦りを感じる。
日頃、価値ある生活をしている世間の人々にとっては、有意義な休日でも、年中だらだらと過ごすぐうたら者は、「既に2日!」と、鐘を叩かれたような衝撃を受ける。

とは言え、日頃の心がけに関係なく、正月に気が緩むのは世の常らしく、暴飲暴食や思わぬ事故が多発する。昔の正月は特別で、小学校の冬休み明けに、担任の先生がお腹を壊して休んでしまったのには驚いた。五年生だったから、お人好しの先生が断り切れず、年末年始に暴飲暴食をしたのは容易に想像できた。既に高度成長期で、戦時に食べられなかった日本中の人々が豊食に酔っていた。冬のこの時期は身体の機能が低下することを、先生は身をもって教えてくれた。

正月のたびに、正月が宗教行事であることを思い起こすのだが、コロナで正月をしない人が増えている。収まればまた始まるが、やはり、コロナは時代の鐘だ。既に起こっていたことに、ハッキリ区切りを付けた。改宗はしないが信仰心はなくなる。
テレワーク、人口移動、物流、基幹産業、脱炭素・・・技術革新によって既に始まっていた21世紀への「脱皮」の皮が破れたのだ。もう引き返せない。
正月行事はまた始まるだろうが、人々の意識は変わる。旧暦から新暦に変わり、尺貫法からメートル法に変わった頃、10年ぐらいは混乱が続いたが、今では旧暦も一銭も解る人がいなくなった。名前は初春でも真冬であり、2個1円のアメ玉1個は買えなくなった。

東京に進学就職し、満員電車で通勤し、酔っ払って終電で帰るストーリーが完全に終演した。10年ぐらいは余韻があるかも知れないが、いつまでも利権にしがみつきモタモタしている人は、帰りの電車に乗り遅れる。
現在の政官財のトップにいるような人には、事態が全く見えないだろう。彼らは終わったストーリのヒーローだからだ。
高度成長、バブル崩壊は一つの戦後物語であり、もうこれ以上何度回しても新しい話は始まらない。アベノミクスは規制の利権を崩すことなくただのバラマキ、派手な花火のフィナーレで終わった。
結局、戦後物語を捨てて一から始めるしかないが、黒船か「ゆとり世代」の成長を待つしかないだろう。
なぜなら、日本は戦後モデルの抜け殻にしがみつき、単一価値観に染められた死体になっているからだ。