タカタの会長も、東芝の社長も、同じ顔をしている。目が死んでいる。
シャープ、三菱自動車・・・皆同じだ。
東芝のフラッシュメモリー開発の桝岡氏が、「今更、技術流出など心配しない。既に、全部サムスンに渡してしまっている」と、諦めムードで話していた。
言葉の端々に、いかに会社のため日本のためにと開発したか、悔しさがにじみ出ていた。価値を評価できない経営陣に対する、絶望感。そこから得た、悟りのようなものさえ漂っていた。
相次ぐ大企業の破綻の度に、創業者ではない日本の経営者の無能さを、見せつけられる。家業としての小企業なら、養育段階から、跡継ぎに生業の意味を叩き込み、代々生き抜いていくことができるかも知れないが、システム化された企業では、「一族の生き残り」という鉄の使命、つまりは、企業の命は、全く配慮されない。
産業革命パラダイムは大量生産で、希少であるべきものまで、普及品のコモディティにしてしまう。この産革パラダイムのシステム教育で製造された、コモディティ「優等生」の成れの果てが経営に当たるのだから、つじつま合わせの月並み回答しか得られない。
さらに、タカタのように、跡継ぎ社長であっても、このシステム社会で、一般的なお金持ち教育を受けて育てば、無能に加えて、無目的という「でくの坊」が製造される。トヨタと真逆の家庭環境が想像できる。一族の成長期の社会環境も影響したのかもしれない。
日本の大企業が次々と破綻していく度に、中韓は喝采する。
それは、直接間接に中韓の策略が功を奏したからでもある。さながら、今川、武田、北条が、時代の流れに取り残され、織田、徳川などの新興勢力に呑み込まれていく過程のようだ。既存の大勢力は、自分たちが衰退していくことに気づかないし、また気づいたとしても、旧弊を捨てて新体制に改革することは難しい。新興勢力は、既存の方式をたたき台にしながら、時代に合わせて一から体制を整えることができる
日の丸船団に護られて成長した日本企業が、次々に沈没していくのは、日の丸軍団の旗艦もコモディティ化しているからだ。官僚と、官僚出身による政治家が、こぢんまりと、旧態維持のつじつま合わせに固執し、保守・革新すらサビ付いてしまった。
面白いのは、バブル崩壊後、曲がりなりにも景気を良くしたのは、タマタマ世襲で議員になった、優等生とは言いがたい宰相達だった。
新しい時代が来ると、常識が通用しなくなる。常識のエリートにはできない非常識を断行できるのは、学校に染まりきっていなかった人物だ。
選挙によって選ばれる政治家は、少しずつでも、時代に合わせて刷新されるが、大企業の経営者は、結局の所、要領の良いつじつま合わせがトップに成り上がる。だから成績が悪ければ、偽装や隠蔽に走る。挙げ句の果てに、行き詰まったら、企業生命の存続より、美しい精算が仕事だと考える。
これが日本の大企業のドミノ倒しだ。