魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

牡牛座2018~2025年

2007年03月31日 | 世相史観

天王星 牡牛座 <女性星座>
1934/6(S9)~1941/8(S16)=2018/5~2025/6

今から10年後、2018/5~2025/6に当たるのは、
昭和9年~昭和16年
牡牛座は離乳した幼児。自活。人体では首と喉。衣食住の始まり。
国は、スイス、スエーデン、アイルランド、イラン・・・?*

前の牡羊座時代に現れたリーダーが暴走を始める。ことに、牡牛座のヒトラーは大興奮。当初は、牡羊座の末期から神通力を発揮し大成功で人気を得るが、神通力が薄れ暴走に変わる。(個人一辺倒の危険例)
ちなみに、昭和天皇も牡牛座で、ゾルゲ事件の尾崎秀実と同生年月日。(立場はまったく異なるが、「運気」の観点からは興味深い)

牡牛座は「生きるための所有」。まず自分の生活を守る。
「ブロック経済」の時代と呼ばれ、世界中で経済権益の縄張り作りが盛んになり、戦争に発展。日本でも「満蒙は日本の生命線」や「大東亜共栄圏」という言葉が踊る。
世界的に牡牛座の「自分が食うためには当然」の論理が蔓延した時代。
現在、盛んなFTAの10年後の姿を暗示している。危険性の予防策を考える必要があるだろう。

牡牛座の支配星は愛と美の金星。
ラジオ、映画、レコードなど五感に訴えるものが流行る。日本ではメロドラマ映画「愛染かつら」が主題歌と共に大ヒット。政治も世界的に映像を意識した大プロパガンダが流行った。

*イランは獅子座ではと考える


悪夢

2007年03月27日 | 占いばなし

悪夢を見ない人はいるのだろうか。夢を見ない人はいるそうだが、実際は覚えていないだけで、誰でも夢は見るらしい。だから、悪夢を見ても覚えてない人はいるだろう。
人生上、記憶に残る夢はどうも悪夢だけだ。どういう夢だったか覚えてなくても、目覚めて、冷や汗びっしょりでハアハア言っていたことは憶えている。

確実に憶えている悪夢の一つが、自分の胸が透けて見え、肺胞の一つ一つにゴキブリが住んでいる。「ウギャーッ」と目が覚めた。二十代だった。
もっと怖い夢もいろいろ見たが、何ともシュールで、殿堂入りしている。

もう一つ殿堂入りしているのは・・・
寝ていると窓から入ってきた男が布団の上に仁王立ちになり、いきなり胸のあたりにジャアジャアと小便を始めた。気持ち悪いわ布団が重くなるわで「何するんじゃ!」と起きあがって目が覚めた。ハアハアしながら水を飲んでいると、ガガガガガッと来た。阪神大震災だった。

24日の夜。突然、肩が凝ってきたので、風呂に入ってラジオ深夜便を聞くと、「富山県の民話」を語っていた。ようやく眠ったのが5時。9時に起きたらもう眠られず、ゴロゴロしていると、グラグラ・・・。

ひょっとして、修行すれば、ナマズ仙人になれるかも知れない。昔から頭痛持ちだが、異常にエレキバンが効く。静電気も激しくて、薄暗がりで握手しようとして、触れる前に稲妻放電で互いにビックリしたこともある。

神がかり的なことは嫌いだが、地震前にナマズや猫と同じように体調に異常をきたす人は相当いるのではなかろうか。これを研究すれば心理学的にも地震学的にも価値があると思う。
ちなみに、「魯生のパクパク」を始めて半年。23~25日は訪問者が突然増えて、平常の6倍になった。偶然?
もう一つ付け加えると
日常的に起こることだが、同じ星座の人が何人も同時に電話をしてくることがある。一番多いのは変容宮だ。偶然?


命のバランス

2007年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム

生命は死の特殊な状態だ。
死ぬことは生が無くなることではなく、むしろ、生まれることが死を失うこととも言える。
宇宙を満たす死の世界を平和な日常とすれば、生は地域戦争の最前線だ。戦場の兵士は戦死する者もいれば老いて退役する者もいる。
平和な日常に帰ることは喜ばしいはずなのだが、戦闘の興奮や、仲間を残して去るなごりで、平和な日常に帰ることが忌まわしいことのように思える。帰還を説得するために「神様のもとへ」とか「天国のお花畑」とか喩えるのだが、神様もお花畑もない。帰って行く天国は今ここにある。単なる物質に帰るのが死の世界なら、生と死は同居している。

自分の命の大切さ
ここで勘違いをすると、「だから、生を特別に大切にすることはない」となり、生命軽視の風潮があらわれる。
これは、「自分の命が特別に大切なものではない」という科学知識を納得するために、他の命を軽視し、「自分だけじゃない」みんな大した命じゃないんだ、と安心したいからだ。

命のはかなさや空しさを知ったとき、命に依存している自我は狼狽する。
何とか命を超えて生き続けたいと願う。そこで「魂」が生まれた。
「魂」だけを命の本質とする独善的な自我の死生観に立つと、「生きる」ことの追求は「自我」の追求に変わり、オームのような本末転倒の宗教になる。
本末転倒とは、生命に課せられた使命(=自然の存在)を無視し、ひたすら魂の成就を求めることだ。これはオームだけでもなく、宗教と言われるものが陥りやすい側面でもある。

生の意味を説く思想は、対比として死を語るが、死が目的ではない。あくまで生の姿、生のダイナミズムを説くのが目的だ。
ところが、面白いことに、歴史の中では実に多くの生を否定する宗教が現れる。結構「大手」の宗派や聖者と言われる人の中にもみうけられる。
これは宗教が形骸化であることの証明とも言える。宗教のために宗教を学べば、教義や言葉をひねくり回した上で取り違える、自然に起こる曲解だ。

混乱を断つ思想は、「いかに生きるか」を説く。自分の命の尊さを説く。聖典を言葉だけで理解しようとすれば混乱するが、思想の原点が「生の勧め」であると信じて読めば、きわめて単純な答えが見えてくる。

現代の混乱は、自分の命の大切さがわからなくなっていることだ。
雑多な情報混乱の中では、何が大切なことなのかわからなくなる。情報の優先度や、テーマが埋没する。
自分の命の大切さがわかれば、他の命の大切さもわかる。それがわかってこそ命より大切なものも見えてくる。
命の大切さを言葉だけで理解すると、動物愛護やクジラ保護を言いながらステーキを食べる、摩訶不思議なアメリカ人になる。ベジタリアンや自然回帰運動、釣りのリリースも同族だ。
肉を食べるのが問題ではない。バランスを欠いた愛護意識のウソが問題であり、もっと大きな問題は、偽善に無自覚なことだ。

人間が自然の中の存在であるとは、サルに帰ることでもなければ、神のようなサルになることでもない。ガイアの一部として、宇宙の一部としての「進化」を続けることこそが人類の使命ではかろうか。その結果、人類でなくなる日が来るとしても。


千の風になって 2

2007年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム

原題は「Do not stand at my grave and weep」
この詩に多くの人が共感するのは、現代の共通認識があるからだ。

死んだらどこに行くのか
現代の科学文明が示す死生観は、みな解っているのだが、旧概念がじゃまをして直視できない。積極的な人たちは散骨や、宇宙葬をするが、しかし、それでもまだ核心には触れないようにしている。
本当は、
現代人はみなわかっている。「死ねば終わり、何も無い」ということ。あの世も来世も神様も無いということ。生命は化学的機械だという事実だ。しかし、科学以前の死生観にとらわれ、だれも事実に目を背けている。「自分の魂」の行くところがなければ困るからだ。現代の心の空洞はここにある。

新しい地図
科学的な理解は信仰心の放棄ではない。
ところが、宗教であれ科学であれ、勝手な結論を急ぐ人たちは、知識だけで、原理主義宗教や生命軽視に陥ってしまう。それは世界的な傾向だ。
近頃、ネット上でよく見かける「いちゃもん」に、「事実が不正確だ」「もっと勉強しなさい」というのがある。
しかし、情報の示す大局的な意味が理解できなければ単なるデータバンクだ。知識偏重教育の弊害が、情報空間のネットで、突出して来たように思われる。言葉尻だけとらえる読解力のなさにはあきれるばかりだ。

近年の、教条だけにとらわれた宗教ブームや、若者犯罪の「人を殺してみたい症候群」は、知の飽和状態を整理する「新原理」が無いために生まれた、道なき彷徨だ。

宗教は新知識の飽和状態に現れる。古い原理が、新しい事実を整理できなくなる時、それを説明する考え方、統合する原理が生まれてくる。
宗教は初めから宗教ではない。時代の混乱を捌くダイナミズムで生まれてきた思想が、形骸化して宗教になる。
思想ラッシュから2500年。そろそろ新思想が現れても良い頃だ。


千の風になって

2007年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム

10年ぐらい前だったと思う。ニューヨークの友だちが「死んだら近くの墓にしよう」と調子の良いことを言うから、
「死んだら土に帰り元素に帰る。元素になれば地球の至る所を風に吹かれて行き来できるのだから、墓なんてどうでもいいよ」とメールした。
その時は、「千の風になって」の存在はまったく知らなかったが、最近のブームでビックリした。自分の考えと同じと思えたからだ。
それと同時に、世間やマスコミのとらえ方は、原作の意図と少しずれているような気がする。
風を、個人の霊魂のようにとらえているからだ。
訳詞・作曲した人も、どうも良く解らなかったようなことを言っていた。
たしかに、墓や葬式を前提に考えると、理解できないだろう。だから、この詩があるのだが、訳詞に曲が付けばフィーリングだけになる。
結局、わかりやすい昔ながらの概念で、みな何となく理解しているようだ。

魂の消滅
これまでの死生観は、霊魂、あの世この世、前世、来世、神様仏様・・・のように、個人的な命を前提としていた。しかし、この詩はそれを否定し、むしろ逆の、個は全体の一部であると語っている。
人間も自然の一部という概念だ。
現代科学が到達しつつある結論と、東洋的自然観の融合から「ガイア」のイメージは生まれたと思うが、この詩の示す死生観は、その延長にある宇宙観、生と死の融合だ。
昔の人は「土に帰す」と言ったが、現代人なら「光に帰す」とでも言うのだろう。
昔は「肉体は土に帰すとも霊魂は不滅」だったのに対し、霊魂という独立した存在ではなく、宇宙という「不滅生命に帰って行く」という認識が広がっている。

(2)へつづく


射手座&魚座は続く

2007年03月14日 | 星の流れに

また、できすぎ
西武の不正スカウト問題。相手が東京ガスと早稲田。
これも射手座のスポーツ問題だが、西武はライオン。「自分占い」で獅子座の柳澤厚生労働大臣と清原の件を話したように、獅子座は土星の影響で「苦難」続き。今度はライオンズとは。
しかも相手が東京「ガス」ときた。ガスは魚座だ。早稲田は稲だから単純には乙女座と見てもつじつまが合うが(射手座と凶角)、都の『西北』は射手座の位置だし大学も射手座。
いずれにせよ、ドラフト制度の問題にまで発展するところが、木星・射手座の時期ならでは。

ところで、獅子座の清原は、やっぱり西武ライオンズが運命のチームだったということでしょうな。

13日の全日空機胴体着陸。素晴らしい操縦に感動!
怪我の功名?
これも射手座事件だ。飛行機は水瓶座だが、交通は射手座。飛行機の「足」が出ない。もちろん足は射手座。
カナダのボンバルディア製。カナダは双児座のアメリカの隣で射手座ではないかと考えているが、今回の件には三菱重工が関係しているような気がする。
占星術的には便名や型番も興味深いが、細かすぎるので割愛する。

その他、タミフル(薬事)問題、クジラの事故はもちろん魚座。


牡羊座2010~2018年

2007年03月11日 | 世相史観

天王星 牡羊座 <男性星座>
1927/4(S2)~1934/6(S9) = 2010/5~2018/5

今から3年後の、2010~2018年に当たるのは、
昭和2年昭和9年
牡羊座は生まれたての赤ん坊。人体では部。唯我独尊。荒野に立つ若者。開拓精神。プロメティウスの火・・・ものごとの「始まり」を表す。
支配星の火星は、闘争、炎と銅、粗野、男性本能を表す。
国は英仏独。独立心とリーダーシップ、革命の発祥地だからか。今後はEUと考えたらいいかも知れない。

1927年、天王星が魚座を過ぎて牡羊座にはいると魚座の芥川龍之介が自殺した。双子座が終わった1948年には、双子座の太宰治が自殺している。天王星が去ると神通力が失われ、目立っていた人ほど、落ち込んだり失敗したりする。(木星の影響でも似たようなことが起きる)
牡羊座時代には「荒野」が生まれ、力の解決が図られる。闘争と暗殺時代。
世界大恐慌。世界的な「荒野」の中に、さまざまなリーダーが現れた。
蒋介石、毛沢東、ルーズベルト、スターリン、ヒトラー・・・
道を失った大衆が、一人のリーダーについて行こうとする時代。リーダーの資質によって道が分かれる。もう一つ前の牡羊座時代にはフランスにナポレオン3世が登場。
政治だけではなく、学問文化などでも権威や創始者が現れる。価値の偏る時代とも言える。

牡羊座時代は世界初、日本初など「初めて」(新)に注目が集まる。
リンドバーグ大西洋横断。日本初地下鉄。岩波文庫創刊。普通選挙。ミッキーマウス登場。冥王星発見。第1回FIFAワールドカップ。羽田開港。宝塚誕生。ベニス国際映画祭・・・

 

2010年(実質2009)以降の牡羊座時代を考えると
気候変動による農業の破綻→世界的経済混乱。新技術導入。新政策の始まり。新思想原理の提唱。リーダーへの依存・・・など、さまざまな「行き詰まりの打破」が始まる。特にEUが主導するが、日本との関係が深まり摩擦が起こる。中国は強引にでて、内憂外患になる。世界は東西対立と言うより、東西南北対立になる。
論理の偏りが起こり、互いに衝突する。(既にネットにはその兆候が見られる)
頭に関する話題が増える(脳改造、発毛、理容美容業界など)。
ブランド志向が消えて、新ファッションが現れる。

 

※その後の記事
もうすぐ牡羊座()、() 「新」が始まる 豊年満作 突然の客 牡羊の新月 維新の新


占いの俯瞰 2

2007年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム

占いで、政治家や経営者に向くのは山羊座だ。山羊座の支配星は土星で「時」と「冷徹」、人体の「骨」をあらわす。占いの星でもある。
浮世絵の英泉は骸骨と抱き合う牡丹灯籠を描き「色香の実態は骸骨だ」と言った。それを受けてか、「骨まで愛して」という歌があった。
言葉や正義もしょせん色香。色香に惑わされてことを行えば、結局、すべてを失う。
真実や正義は幾通りもあると、現代の教養人は知っている。では何に基づいて行動するのかと問えば、結局はまた情報であり、自分の判断力だ。そしてその判断力は、また他動的ならざるを得ない。
こういう情報混乱、世相の色香の中で、骨を見て動くのが山羊座の土星だ。山羊座には本質を見抜く資質がある。それが過ぎると「なんと言うても銭やで」という人も出る。しかし、それでも本質からはブレない。そういう見据える目と決断が、政治や経営には必要だ。

現実とは不条理だらけだ。ウサギの正論は肉食獣には聞こえない。生き残るには正論より知恵であり、それが政治力というものだ。薩長双方の筋道論を越えて実利を説いたのは山羊座の坂本龍馬だった。
飢えと血の中で生死を迫られ、きれい事を言えない体験をすれば、筋道論は吹っ飛んでしまう。
悔しい思いを押し殺して心にもないことを言う。さもなくば逃げる。それができない精神論は、死に突撃するしかない若気というものだ。
日本人の清廉潔白な潔さは、鎖国の平和で培われた観念論の美しさだろう。今、平和な高度成長時代に育った世代は再び、美しいが、危なっかしい「観念論」に染まっていることに自覚がない。
現実の厳しさを知らないことによって起こる現象は
命の軽視と、逆に過剰ないたわり。過剰防衛。ガラスのプライド。論理と知識へのこだわり。階級意識。・・・(これらは詳解しない方が無難だろう)
観念論は、安倍政権にも、前原民主党にも見られる。前原民主党が「世代交代」を主張して現れた時、すでに現実感のなさを露呈していた。世代交代とは結果であって、エスカレーター儀式ではないからだ。

近未来は明るくない。腹と知恵が必要だ。
ほんとにタノムよ m(__)m


占いの俯瞰

2007年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム

占いの目でみていると、世間の誰からも理解してもらえないところに立っている。運命の大河は、流れがどう荒ぼうと大局に向かって流れていく。
現実から引いて大河を俯瞰すれば、川面のせめぎ合いとはまったく違うものが見える。だから、うかつに見たままを言うと、上下左右からふくろたたきに遭う。
しかし、それでも大河は流れていく。

現在の社会・政治の状況は、40年目の「断絶」だ。
大まかに、昭和30年≒50歳で溝がある。戦争の影をまったく知らない高度成長下の昭和30年以降の生まれと、それ以前との間には「現実感」の違いがある。
社会状況は複雑だが、政治は舞台上のマツリゴトだから解りやすい。
安倍政権は、失敗した前原民主党と同じ要因を持っている。安倍首相は昭和29年だが、おぼっちゃまで次の世代寄りのようだ。
高度成長下で育った人たちは、昔ならエエトコの子だ。物理的には満たされながら帝王学は学んでいない。もちろん苦境を知らない。だから小さなことが大問題になる。
長所は優しさと向学心。短所は観念論者。
たしか司馬遼太郎が、敗戦への道を軍部官僚の観念化と言っていたと思うが、今の中堅と言われる世代は同じ事を繰り返している。
「いつか来た道」という言葉が影を潜め、戦争の臭いも知らない世代が「平和ボケ!」と平和を罵る今こそ、本当に「いつか来た道」を歩み始めている。
従軍慰安婦問題も、安倍政権の言いたいことは良く解る。しかし、政治は論理を正すものではない。清濁併せ呑み実利をはかるものだ。
論理を正して語るに落ち、策を弄して策略の餌食になる・・・
それが解らなければ、「石田三成」だ。


すぐできる自分占い

2007年03月05日 | 占いばなし

占いを知らなくても自分の運気がわかる方法がある。
自分の誕生日と同じ有名人をチェックしておき、その人の情報を見ていれば、「今、調子良いか悪いか」判断できる。
そんなの当たり前だ、と思う人や、有名人と無名の自分はすでに違うじゃないかと思う人がいると思う。また、今のことがわかっても意味無いジャンと思う人もいると思う。
そう思うのは素人の・・・・・

占いは怖いと言う人も、逆に、占い嫌いも含め、みな神秘的な運命幻想にとらわれすぎだ。占いは上手に活用すればいい。
また、今のことがわかっても仕方がない、と思う人は人生を誤解している。人生は自ら切り開くもので、運命を寝て待つものではない。現在の決断の積み重ねが運命を築いていく。

有名人の状況はわかりやすい。土星の悪影響例として「大転換3」で柳澤厚生労働大臣の件を話したが、オリックスの清原も誕生日が同じだ。現象は違うが「苦難」は同じ。
誕生日が同じ人や近い人は、彼らにアドバイスするつもりで、自分に言い聞かせるといい。さしずめ『無理するなよ』ということだろうか。
なお、誕生日が自分より少し前の人の方が、次に自分に起こる問題として用心することができる。

悪い状況は有名人でも自分のことでもすぐわかるが、良さそうな話はムズカシイ。
焦りや野心、慢心から、無理をして打って出たことで、一時的に良い結果に見えることもあるからだ。当然この結果は何もしないより悪いことになる。つまり、アブナイ橋なのだ!
有名人の話題の場合、それが積極的に動いた結果か、実績が評価された結果かがポイントだ。例えばコンサートを開くとか、何かを突然始めた話題は危険信号と見た方がいい。(もちろん同じ誕生日の人にとっても)

積極的に出て悪い結果になった例として、森進一をみると。
サソリ座の森進一は離婚(挫折と解放)の後、吉星の木星がサソリ座に来てやる気を出し、2005年暮れの紅白に「お袋さんの森進一を」アピールして好評だったので、さらに「森進一のお袋さん」を、すでに木星の去った2006年にも続けて歌った。
2005年は実績評価だが、2006年は慢心と野心だ。その結果が今のもめ事になっている。
一方で、突然、怒り出した川内康範は魚座だ。著作権問題を主張しているが、森進一は30年前から台詞をつけていたそうで、本音の所は著作権より、天王星の影響による自己主張だろう。これも「何かを突然始めた」ケースに当たる。アブナイ。


女と女性 (二)

2007年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム

日本つぶし
アメリカの状況から生まれた「格差」と言う標語は、今や世界的なトレンドだが、そもそも、何でもアメリカの動向や流行を安易に持ち込み、日本の実情に合わないものや、無用なものまで流行らせようとすることが問題だ。そういうことを60年も続けているうちに、実際、アメリカと同じ状況が生まれてきた。
アメリカの真似をするのは良いとしても、少なくとも日本語に置き換えて考えるべきだ(直訳ではなくて)。そうすれば、日本の文化、伝統の中で考えることもできるだろう。アメリカから持ち込んだ、言葉と問題意識が、むしろ、日本の伝統的理解と解決を崩壊させている。
近年だけ、ちょっと思い浮かべても・・・
セクハラ、パワハラ。PTSD、心のケア。ストーカー。DV・・・そして、格差社会だ。
こういうものは日本にも昔からあった。ただ、とらえ方、対処の仕方はアメリカ式である必要はないはずだ。

昔の伊映画「ナポリと女と泥棒達」で、聖堂に飾られた宝を強奪しようと、アメリカの泥棒が地元の悪党と手を組む。ハイテクを駆使するアメリカ人がどうにも盗めないものを、地元の悪党は簡単に持ち出してしまう。
地元で盗まれなかったのは、盗めないからではなく、信仰心という文化に守られ誰も盗もうとしないからで、地元の悪党も単に高報酬につられただけだった。

ヨーロッパがアメリカに対して批判的、嘲笑的なのに対し、日本は二者択一だ。
極端な拝米か国粋に振れる。
現代がアメリカ化していることは事実だが、日本の底流にある伝統文化も失せてはいない。日本に起こる問題には日本人なりの解決策があるはずだ。
例えば、児童虐待の概念やその対策もアメリカ式だ。核家族化してしまっている以上、同じ現象が起きるのはやむを得ないとしても、違った対策があって良いはずだ。近頃はお地蔵さんまで盗むやつが現れたが、日本はそれでもまだ、51番目の州ではないからだ。

言葉狩り
男と女を、女性と男性に改めさせようという風潮は、日本(文化)撲滅運動だ。
言葉に否定的側面があるからと言って、言葉そのものを取り替えようというのは整形手術の発想で、「臭い物に蓋」にすぎない。「格差」という標語を掲げて、問題の本質を置き去りにすることと同じだ。
問題のある人間を次々と死刑にしたら誰もいなくなる。戦時中の英語禁止と同じ感情論では逆効果だ。
言葉の問題は使い方と意識が問題なのだ。人間も適材適所、無駄な人はいないし、ブサイクが個性として光っている「美人」もいる。

映画「男と女」を「男性と女性」と訳したら、理科の教材になってしまう。つまり、そういうばかげたことを強制するムードがあることが問題なのだ。
確かに「男」「女」は、「・・・のくせに」のような差別概念を伴って使われてきた。しかし、呼び方を変えても、根本意識と使い方が同じなら何の変わりもない。認識は名詞で変わるものではない。「女性のくせに」と5年ほど使えば、差別に何の違和感もなくなるだろう。言葉の置き換えは際限のない「おみおつけ」現象だ。
「男と女」、この奥深く味わいある言葉を、日本人として愛でようではないか。

(おみおつけ:慣れた言葉では失礼だと思い、丁寧を上乗せしていく言い換え。ご飯の付け汁=付け→御付け→御御付け→御御御付け)

女と女性(一)


女と女性 (一)

2007年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は「女の子」の日だ
近頃、「おんな」と言って、慌てて「じょせい」と言い直す「だんせい」がいる。
誰かに非難されたのか、少なくとも、「おんな」と言っては何かまずいと感じているらしい。タレントは軒並み「じょせい」と言っている。
だから、今日はたぶん「女性」の日と呼ぶべきなのだろうが、でもその前に、女性差別の象徴である3月3日であることが許されない。5日後の3月8日「国際女性デー」であるべきなのだ。
ジェンダーフリーという大義名分が、また新たな魔女狩りを生んでいる。

さかさま
弱者の立場からの攻撃は善意の相手をひるませる。しかも、失うものがないと思い込んだ弱者の攻撃は、背水の陣の苛烈さがあり、相手への思いやりを持たない。
日本の敗戦で、旧秩序が崩壊した時、弱者だった側の反転攻撃があった。明治維新の廃仏毀釈のように、行きすぎた旧秩序迫害や権利主張、中には略奪もあった。そういう過程で生まれた新秩序は、弱い者が強者であるという単なる立場の交代になってしまった。
「弱者の立場で主張すれば相手が何も言えなくなってしまう」状況が60年も続くと、弱者という強者の横暴や、弱者体制そのものの崩壊が起こる。(自ら弱者の立場を食い物にしてしまった)
いじめの場合、いじめられた子供や、その親を見ていると、相手の立場を考えようとする善意の人たちばかりだ。つまり、だからいじめられる。
ということは、いじめの背景には、善意の人たちのために、本来「制御され封印されるべき何か」が自由になっている社会があるのではないのか。
思いやりを知らない人と、思いやりのある人が対等に同居すれば、思いやりのある人の「譲り」がつけ込まれ、抑圧されるのは当然だ。
いじめの温床が逆差別社会にある一例として、いじめた側の親は人前に出てこない。さらし者になっているのは善良な被害者側だ。
強者と弱者の元祖差別時代には、「弱きを助け強きをくじく」という言葉があったが、逆差別では成り立たない。

ゆりもどしの固定化
近年、その逆差別の秩序に対する新たな反作用が起きつつある。
弱者保護の各種法律の見直し。弱者優先の無視。反日の無視。侵略の正当化。若者の右傾化・・・。
これは、ある種、旧強者の失地回復の動きだ。
一方で、
格差問題を叫んでいる人を、よく見ると何と、彼ら自身が言うところの格上の人達ではないか。これは「差別のない明るい社会をつくりましょう」という標語と同じで、差別はいけないと言いながら、実際はかけ声だけで何もせず、逆差別の圧力のみ受け入れるという「社会構造の固定化」をはかる態度と同じだ。
少しわかりにくいかも知れない。つまり、弱者を単純に優遇することは、臭いものに蓋をして、逆に暗黙の差別意識を温存し増長することだ。
「おおこわぁ~」と言いながら逆らわず褒め殺しにするような、ずるい回避策なのだ。

「格差」はいけないと叫び続ける限り、「格差」意識は定着していき、格差が実在化する。そして、逆差別のみの受け入れと同様に、格差固定化のモルヒネとして、またバラマキ行政が起こる。
差別や格差と言う前に、社会機能の足らざるところを具体的に提起すればよいのであって、「格差」と名付けて感情的対立構造を煽る必要はないはずだ

女と女性(二)