生命は死の特殊な状態だ。
死ぬことは生が無くなることではなく、むしろ、生まれることが死を失うこととも言える。
宇宙を満たす死の世界を平和な日常とすれば、生は地域戦争の最前線だ。戦場の兵士は戦死する者もいれば老いて退役する者もいる。
平和な日常に帰ることは喜ばしいはずなのだが、戦闘の興奮や、仲間を残して去るなごりで、平和な日常に帰ることが忌まわしいことのように思える。帰還を説得するために「神様のもとへ」とか「天国のお花畑」とか喩えるのだが、神様もお花畑もない。帰って行く天国は今ここにある。単なる物質に帰るのが死の世界なら、生と死は同居している。
自分の命の大切さ
ここで勘違いをすると、「だから、生を特別に大切にすることはない」となり、生命軽視の風潮があらわれる。
これは、「自分の命が特別に大切なものではない」という科学知識を納得するために、他の命を軽視し、「自分だけじゃない」みんな大した命じゃないんだ、と安心したいからだ。
命のはかなさや空しさを知ったとき、命に依存している自我は狼狽する。
何とか命を超えて生き続けたいと願う。そこで「魂」が生まれた。
「魂」だけを命の本質とする独善的な自我の死生観に立つと、「生きる」ことの追求は「自我」の追求に変わり、オームのような本末転倒の宗教になる。
本末転倒とは、生命に課せられた使命(=自然の存在)を無視し、ひたすら魂の成就を求めることだ。これはオームだけでもなく、宗教と言われるものが陥りやすい側面でもある。
生の意味を説く思想は、対比として死を語るが、死が目的ではない。あくまで生の姿、生のダイナミズムを説くのが目的だ。
ところが、面白いことに、歴史の中では実に多くの生を否定する宗教が現れる。結構「大手」の宗派や聖者と言われる人の中にもみうけられる。
これは宗教が形骸化であることの証明とも言える。宗教のために宗教を学べば、教義や言葉をひねくり回した上で取り違える、自然に起こる曲解だ。
混乱を断つ思想は、「いかに生きるか」を説く。自分の命の尊さを説く。聖典を言葉だけで理解しようとすれば混乱するが、思想の原点が「生の勧め」であると信じて読めば、きわめて単純な答えが見えてくる。
現代の混乱は、自分の命の大切さがわからなくなっていることだ。
雑多な情報混乱の中では、何が大切なことなのかわからなくなる。情報の優先度や、テーマが埋没する。
自分の命の大切さがわかれば、他の命の大切さもわかる。それがわかってこそ命より大切なものも見えてくる。
命の大切さを言葉だけで理解すると、動物愛護やクジラ保護を言いながらステーキを食べる、摩訶不思議なアメリカ人になる。ベジタリアンや自然回帰運動、釣りのリリースも同族だ。
肉を食べるのが問題ではない。バランスを欠いた愛護意識のウソが問題であり、もっと大きな問題は、偽善に無自覚なことだ。
人間が自然の中の存在であるとは、サルに帰ることでもなければ、神のようなサルになることでもない。ガイアの一部として、宇宙の一部としての「進化」を続けることこそが人類の使命ではかろうか。その結果、人類でなくなる日が来るとしても。