魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

危機症状

2017年04月29日 | 星の流れに

火星が来た星座は、イライラ、カッカして、熱や病気、怪我、トラブルに縁あり。
火星は4月21日から6月5日まで、双子座にいる。
双子座の国はアメリカ。トランプ、習近平は1日違いの双子座。


おにぎり 2

2017年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

不寛容社会

電車の中で、ものを食べるなと言う人がいる。もちろん、対座シートの場合まで言っているのではないのかもしれない。確かにベンチシートでは、立っている人に迷惑を掛ける可能性がある。しかし、人には様々な事情がある。乗車時間しか食べられない人。何か食べないと血糖値が下がってしまう人。そんな、やむを得ない事情だけではなく、行楽にベンチシートの電車しかない時など、景色を見ながらおにぎりやサンドイッチぐらい食べても良いのではなかろうか。駅弁ならなおさらだ。
もちろん、食べている姿が他人の目に入るから、よほどの強心臓か、やむを得ない人しか食べないだろう。だから、その強心臓か、よほどの事情に免じて受け入れて上げて欲しい。

電車で、あれこれするなと、当然のようにクレームを付ける人は、物理的正当性からではない、自分の精神的な理由だ。
確かに、混み合った電車では迷惑をかけることもあるが、ガラガラの電車で化粧をしても誰にも物理的迷惑を掛けない。
にもかかわらず、誹謗する人が多くなった。これは、他人に迷惑を掛けないという一般モラルが、いつの間にか電車など公共の場での「大義名分」となって、あたかも、規則のようになってしまったことにある。

ことに電車の中での、「息もするな」と言わんばかりの堅苦しい雰囲気は、「車内での携帯電話はご遠慮下さい」の、アナウンスが始まってから広まった。
この環境で育った人が既に成人して、この陰湿な束縛が、社会の当然のように思われている。だから、自分が我慢しているのに、平気でやっているやつは許せないと思うようになる。
それだけではない。海外の人が驚く日本の電車の静寂を、誇らしい気持ちで受け止めているようだ。

海外の人が日本に来て驚くのは、物珍しさであって、敬服しているわけではない。旅行者は外国かぶれになりやすいから、出合ったものを何でも素晴らしいと思いたい。だから、この異様な光景さえ「スゴイ、スゴイ」と褒め称える人もいるかも知れない。

しかし、人間の本質から考えれば、これは不自然であり、異常な空間だ。人が集まれば、言葉を交わし、笑い、興ずるのが自然であり、それを受け入れるのが平和な社会の大人ではないのか。自分が話さないのは勝手だが、他人の言動にまで注文できると思い込むのは、価値観の押し付けであり、それこそが自己中というものだ。
こうした一方的な正義がはびこる時は、「非国民!」と同じで、ほぼ社会が死んでいると知るべきだ。

4月22日、たまたま見かけたTVのスペシャル番組で、バブル時代の回顧番組を観て、若いタレントが、「今、あんなことをしたら、抗議殺到だよ!」と、奔放さに驚いていた。
バブル時代が良かったとも思わないが、映像には高度成長期のイケイケ精神があふれていた。
みんな、もっと自由になろう! いい加減になろう!
そして、日本の元気を取り戻そう!!


おにぎり

2017年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

昨秋、午後1時頃、竹田で乗り換え、近鉄の奈良行き急行に乗った。平日だが、観光客と通勤、通学客が乗り合わせるので、何時も込んでいる。
その上、この線はよく揺れるから、つり革を頼りに、外の景色を見ていた。宇治川や木津川を越えて奈良に向かう歴史の山河は、目にするだけで、わくわくする。

ふと下を見ると、前に座った30代の、田中裕子風の紺スーツの女性が、真っ白い大きななおにぎりを取り出した。小型のビジネスバッグのどこに入っていたんだろうと、改めて見比べた。おもむろにサランラップをめくると、黙々と食べ始める。小さな顔の半分もありそうだ。
ペットボトルのお茶を飲みながら、リスのように上からかじるが、なかなか減りそうもない。

きっと仕事で忙しく、せっかく作ったおにぎりなのに、昼食の間が無かったのだろう。移動の合間に食べているのに違いない。
しかし、それにしても、どこまでも真っ白なおにぎりだ、のりさえ巻いてない。何かおかずもあるのかも知れないが、混み合った電車のベンチシートでは、それを出せるゆとりはない。大きなおにぎりを半分ぐらい食べても、梅干しさえ出てこない。塩だけのようだ。

見ていると、昔懐かしいおにぎりの味を思い出し、本当に美味しそうだ。近頃のコンビニおにぎりは、「食品」になっているが、本来のおにぎりは、塩で握っただけで、じゅうぶん贅沢で、「米を食べる」幸せが、おにぎりにあった。
小学校の時、教室の後ろ一杯に貼られた年表の平安時代に、ポツンと一行、「おにぎりが発明される」とあって、ものすごく不思議に思った。何であんな簡単なものが「発明」なんだろうと、ずっと気になっていたが、古典で「乾し飯」というものを知り、おにぎりに至るまでの人々の食を思い、感動した。

和食が世界でブームになっている一方で、日本の米消費量は下降線を辿っている。和食は米食と言っても良いぐらい、日本文化は米によって成り立っている。
豊葦原水穂国に2000年も暮らしてきた日本人は、骨の髄まで米を求めている。日本人が米を食べなくなれば和食は消える。それどころか、もう神社も天皇も要らないことになる。
米ばかり崇める文化は、軍隊の麦飯を拒否した森鴎外の失敗のように、栄養バランスの観点からは良いこととは言えないが、米のうまさを忘れるようでは、日本文化の継承など語ることはできない。しかし一方で、米を崇めることと、日本人の本当の食とは必ずしも同じではない。

五穀と言われるように、日本人の実際の食生活は、米以外の穀物によって支えられていた。何事もそうだが、一つの呼び名が、一つの姿を現すものとは限らない。近頃は規律やモラルを叫ぶ人が増えたが、正確や正しさにこだわる人ほど、得てして本質を見失うものだ。
アブナイ、アブナイ


どっちが

2017年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム

安倍首相は、北朝鮮の危険性について、「サリンを弾頭につけて着弾させる能力をすでに保有している可能性がある」と言ったが、サリンの話題性と刺激性に便乗しているだけで、もっと重大な問題には言及しない。
北朝鮮は核弾頭でなくても、今、直ぐ発射できる単純なミサイル数十発を、日本の原子力発電所に打ち込み、日本中をフクシマにすることができる。サリンとどっちが重大危機なのか。

この事実は、原子力発電推進には都合が悪いのだろう。誰も言わない。


真央引退

2017年04月11日 | 星の流れに

浅田真央が引退した。
木星が自分の星座に来ると、「環境改善」される。それまでの成果が出る時であると言えると共に、それまでの苦労から解放される時でもある。別の言い方をすれば、それまでの「経緯の結果」が出る時だ。
したがって、この時、悪いことが起こるのは、それまでの行いが間違いだったことになる。

浅田真央の場合で言えば、木星が自分の星座、天秤座に来たことで、自分自身から解放されたと言うことだろう。
浅田真央は、どういう因果か、日本人好みの「悲劇の」ヒロインになった。その経緯は周知の通りだが、不運と愚直さがまた、日本人の心に響く。
発表が、満月にさしかかる天秤の月だったことからも、その心境は察するに余りある。

天秤に木星が来たのは、昨年後半だが、影響圏内に入ったのは夏からだ。
天秤座やほぼ天秤の人や国は、メイ(英)、プーチン、麻生、安倍、どうでも良いところで渡部建、国なら日本。


問答無用

2017年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム

出たっ!トランプ
話し合い、話し合いと、言うだけの中国。協議して声明を出すだけの国連。
時間だけが過ぎて、何も解決しなかった。それどころか、状況は益々悪化した。
オバマ時代に明白になった、シリアの化学兵器問題さえ、中露は反政府勢力が犯人だと、話をかき混ぜて時間稼ぎをする。
腐りきった情勢に、トランプは、いきなりメスを入れた。
このオペレーションの結果は分からない。大量の膿が吹き出すかも知れない。手足を切断しなければならないかも知れない。
しかし、これまでのように塗り薬を塗り続けていれば、間違いなく死に至る。
中国をにらみ、ロシアをにらみ、国内のロシア癒着説を覆す、絶妙のタイミングのジョーカーだ。
誰も戦争は望まない。しかし、オバマの単純な平和主義が、中露の横暴を招き、北朝鮮の暴走を招いた。
メディアは、証拠もないのにトランプが行動に出たと、非難だけしている。法治の通用しない相手に、どんな証拠を見せれば良いのだろう。
蛇の道は蛇。中露にはトランプだ。


五分咲き

2017年04月05日 | 京都&ケンミン文化

4日は、京都の上空をヘリコプターが飛び交っていた。京都は日頃からヘリコプターが飛び回っている。訪日賓客や遺跡・名所など、ひっきりなしに取材ネタがあるので、京都市民はほとんど麻痺しているだろうが、やっぱり、うるさい。
これだけ飛ばなければならないのなら、静かな飛行船にして欲しい。そうでなければ、これからはドローンで取材すべきだ。

京都市民は、ヘリコプターがうるさいと、「今日は、誰が来てはるんや?」と、話し合う。
しかし、4日は、「桜写しに来てるんなやな、まだ咲いてへんで」と、言う人が多かった。
本当に今年の桜は遅い。
5日。例年なら、もう花吹雪が舞っていてもおかしくないのに、希に日当たりの良いところに、八分咲きが一本ある程度で、天気続きなのに、ほとんどが二、三分で、寒々しい。
何だか、観光客に申し訳ないような気がする。
早咲きのしだれ桜が咲いている寺などには、観光客が押しかけているが、ソメイヨシノはまだ眠っている。

十年ぐらい前にも、ずいぶん遅れたことがあって、その時は、遅咲きも早咲きも、小手毬も菜ノ花もまとまって咲いたから、京都中が都踊りの舞台のように花盛りになった。
今年もそうなるのかも知れないが、外国人観光客には喜ばれても、「満開」は日本人には、何とも味気ない。



P.S.
6日、今にも降りそうな雲の下ながら、京の桜も、ほぼ満開になった。明日は雨だろう
世の中にたえて桜のなかりせば・・・かな


グダグダ

2017年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム

豊洲、森友学園、朴クネ、トランプ・・・訳の解らないグダグダが世界を覆っている。
互いに関係のない問題だが、この現象を一括りにすれば、「メタボ社会」現象だろう。
一つの価値観、一つのシステムが過度に蔓延したために、そこから複合的な弊害が漏れ出してきた。そんな症状だ。個々の症状は多様でも、これは同じ病気なのだ。

東京の豊満経理、安倍一強のイケイケ右翼、愛憎と強権の韓国、観念先行のオバマ政治・・・いずれも、「行き過ぎ」の結果だ。
ややこしい話ばかりだが、どれも同じ原理なので、最も目立っている森友学園についてだけ言えば、事足りそうだ。

お稚児さん
安倍政権が一強になったのは、安倍政治が優れているからではない。他の政治家が余りにも不甲斐ないからで、これが、全ての問題に通じる背景だ。
物やエネルギーが不足している時代は、シンプルな方法が有効で、小さな発明、ささやかなパワーが実際に世の中を動かした。古代においてそうであり、戦後の荒廃の中でもそうであった。
しかし、世の中が発展し細分化し、あらゆる分野での完成度が高まってくると、全体をまとめて引っぱって行く法則や力が無力化する。世の中が船頭だらけになるからだ。

すると、船頭だらけで動かない船は、逆に、大声を上げて名乗り出た者にやらせておこうと言うことになる。
もう、誰もが高等教育を受けた時代だから、特に信頼しなくても、聞こえの良いことを言えば、それで良いんじゃないかと、安易な選択をする。これは、大人が、賢そうな稚児に采配させるのが無難と考えるのと同じで、「政治ごっこ」でも、大方は通用する。実際は全て大人が運営しているからだ。

ところが実は、個々の大人に運営されている社会には、統一性がなく、あちこちで綻びが出てくると、収拾が付かなくなる。このリーダーシップの欠如の中で、大きな問題が起きると、誰にも対処できなくなり、本当に導いてくれる人が必要になる。しかし、前例や常識で解決できない新手の問題なのだから、もう、どの船頭にも解決できない。
ここで登場するのが、自分が解決できると叫ぶ、誇大妄想のナルシストだ。
そして、名乗り出る者がいない事態に、皆そのナルシストに飛びつき、その結果、社会が破壊される。
やがて、全てが荒廃し、全てが不足した社会の中で、初めて、シンプルな方法で社会を導くリーダーが出現する。こうして歴史は繰り返す。

腐ったタイはもっタイないか
安倍政権は、何れの段階でもなく、逆に、全てでもある。それは、日本が、高度成長期のシステムを保ったまま荒廃した社会、腐った鯛だからだ。腐った鯛は、鯛であっても食べられない。
腐った鯛を料理する料理人は、いかに上手そうに料理をしてみせるかが重要で、鯛を捨てて、新鮮なイワシを仕入れてくることはできない。
安倍政権は民主党の失敗の後始末を装いながら、同時に、腐った鯛をいつまでもまな板に載せている。国民はいかにも巨匠のような振る舞いに、絶品料理を期待するから、人気ばかり上がる。

腐った鯛を、捨てないことで人気が上がるから、益々することがなくなって、パフォーマンスだけが派手になる。その、空騒ぎの実体が現れたのが、森友問題だ。
安倍政権の空騒ぎで、最も呆れたのは、三原順子が「八紘一宇を見直してはどうか」と国会質問したことだった。定見の無い広告塔が、こんなことを言い出したくなるムードが、政権に溢れていることの表れだ。

真相にばかり注目が集まる森友問題だが、そんなことは「どうでも良い」。森友問題の核心は、安倍政権のイケイケ右翼ムードの、悪ノリがハッキリ露呈したことだ。火元がどうであれ、確かに、見える煙が出ていることに意味がある。

残念ながら、現在の政界に、安倍に替わって任せられるような人物が見当たらない。何しろオバマと同じで、稚児集団の中では、パフォーマンスの達人だ。もし、イワシを料理すると言い出す料理人がいたとしても、鯛を待つ国民は、拒否するだろう。
日本は現在、自立反転上昇の始まりにある。誰がどういう政治をやろうと、似たような上昇ムードになっていただろう。ただ、腐った鯛を囲んで待つ期待と、新鮮なイワシを食べようと頭を切り換えて過ごす意識は、いざ、食事の時に、異なる結果となって表れる。鯛料理は結局、食べられない。
豊洲問題ばかり注目される東京だが、オリンピックはどうなんだろう。


フェイク

2017年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は4月1日。正直者が待ちに待った「嘘の日」だ。この日しか嘘をつけないと信じている人は、今日こそ嘘をつくぞと考えても、慣れないことは直ぐにはできない。

そこに行くと、メディアは自由自在だ。建前上、嘘はつかないことになっているだけに、嘘をかぎ分け、本当を創り上げる技に長けている。つまり、嘘が仕事の現場でもある。
メディアがその気になれば、どんな嘘でもまことしやかに流すことができる。
だから、欧米では、エイプリルフールにお祭り騒ぎをするメディアが少なくない。

そのメディアが、前日に、今年は嘘をつきませんと宣言した。その理由は、近頃横行しているフェイク・ニュースに、真実の放送として利用されるからだという。
放送が信用されている時代には、エイプリルフールに、正直者として嘘がつけたが、フェイク・ニュースで報道が信用されなくなりつつある現在では、フェイク・ニュースではありませんというポーズを取ることで、何とか、メディア自身の信用を保とうとしている。

だが、今更そんなことをしても、世の中のコンセンサスとして、報道そのものに対し、「どうせ」の意識が蔓延している。だからこそ、逆に、フェイク・ニュースがそれなりに受け入れられて、それほど大きな拒絶反応が出ない。真偽の差が小さくなっているからだ。

メディアには生まれたときから背徳性がある。金のために報道している以上、客が喜び売れることを報道する。メディアが没落するのは、受け手の視野が広がるからで、情報源が増えれば、どんな笛を吹いても、客が関心を示さなくなる。
フェイク・ニュースが流行るのは、メディアを信用しない人々が、自分で情報を収集しようとするからだ。

メディアが町に立てられる高札なら、ネット情報は巷の噂話だ。お上の情報が信用成らないとき、庶民は噂話や裏情報に敏感になる。「ここだけの話」や吐露された話が、より信用できそうに錯覚する。嘘と解ったような話でも、そこに何らかの気配を感じ取ろうとする。だから、フェイクであっても、逆説的に読む手がかりになる。
問題は、メディアであろうが、フェイクであろうが、何でも「まんま」を真に受ける人の方が今も多いと言うことだ。

ともあれ、フェイク・ニュースが横行するのも、それが儲かるからだ。ビックリするような話でさえあれば、期待する答えでさえあれば、アクセスが増え、広告で儲かる。原理はメディアと変わらない。相当儲かるらしい。
これからは、儲からないようなブログを書いているより、フェイク・ニュースで一儲けする方が良さそうだから、明日から「真実ニュース」サイトを開催します。よろしくご愛読下さい。
・・・
2017年4月1日。今日のご報告でした。