魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

進行中

2006年12月22日 | 星の流れに

今日「これから時代は」で、ロシアも再び怪しげな動きと書いたばかりだが、NHKの「ロシア・蘇る大国」を観て暗澹たる思いがした。

国際報道で聞いてはいたものの、国内の高支持率を裏付ける若者組織は初めて知った。
まるでヒトラーユーゲントだ。

ドイツも国家破綻の中でヒトラーが現れ、一時的に成功して見せた。
プーチンは初め、名前からラスプーチンの再来かと思ったが、むしろスターリンかも知れない。
ヒトラーにせよスターリンにせよ、独裁者はお人好しの権力者を駆逐して現れる。
あるいは、善意(お人好し)のルールを逆手にとることで勝利する。

彼らが、国際社会をいかに裏切ったか思い起こせば、
金正日如き三下に目を奪われている時ではないかも知れない。


これから時代は

2006年12月22日 | 世相史観

現在は天王星/魚座時代だが、2010年から牡羊座2018年から牡牛座に入る。双子座以後戦後60年で既に上げたが、現在の魚座から牡牛座に至るまでのこの先20年の、「84年前」はどうだったのだろう。

魚 座
1919/4(T8)~1927/4(S2) = 2003/3(H15)~2010/5(H22)
現在に当たるのは、大正8年~昭和2年だ。
第一次大戦バブル崩壊と、関東大震災による不況が続いた時代だから、すこしずれているような観もあるが、世界情勢をみればやはり影が重なる

1919年、朝鮮で3.1独立運動が起こる→84年後、盧武鉉政権が誕生し反米反日が高まる。アフガニスタン戦争で英国から独立→2004年アフガニスタン新政権発足・・・やっぱり似ている。

この時代(1919~27)、第一次大戦によるヨーロッパの疲弊で、世界の中心はアメリカに移った。1922年アメリカ提唱のワシントン会議で、日本の歯止めと中国の権益保障を行い、自由貿易の環境作りが指向された。
共産主義、全体主義が盛んになり、スターリンとヒトラーが登場する。
無声映画の絶頂期に加え、ラジオ放送、報道写真の普及などにより世界認識が大きく変わり始めた。
ジュネーブ議定書で毒ガス・細菌兵器禁止。アメリカで禁酒法、日本で未成年者禁酒法成立。

現在と比較すると・・・・
冷戦後の世界秩序の崩壊で、EU、中国、インドなど新勢力の勃興、アメリカに陰りが見え、6カ国協議も中国に頼らざるを得なくなる。イスラム原理主義が台頭しロシアも再び怪しげな動き。中国は権益拡大中。
FTA(自由貿易協定)を拡大させる動きが盛ん。
映画産業は飽和状態で多極化し、インターネット、映像技術のデジタル化により世界認識が大きく変わり始めた。
テロリスト集団・国家による毒ガス・細菌兵器の恐怖が顕在化し、 イラン、北朝鮮の出現でNPTが馬脚を現した。
世界的に飲酒運転や認知症の運転者が問題になっている。

この他
いかにも魚座らしい共通点は、支配と階級の問題だ。
紐でつながれた二匹の魚は巴であり、互いに依存しながら対立する。
84年前、第一次大戦とロシア革命の混乱で欧米では難民、移民が増大し、感情的民族対立や共産主義との戦争がうまれた。
現在、格差社会や難民、出稼ぎ労働者、不法移民問題が世界的に注目され、一方ではテロとの戦争。ほとんど相似していると言っていいだろう。
これは、
理解より対立意識に流れるもので、感情的な魚座時代のムードが先立っている。「国家の品格」とか「格差社会」のキャッチフレーズが人気するのは、世の中全体が感情的な対立を求めているからだ。
「格」とは差異に基づくが、この場合タテ型の差異だけが意識されている。「格差をなくせ」と言う時には、タテ思考で物事を捉えている。「不足を補え」でも良いはずだ。つまり、わざわざ対立関係で物事を見るわけで、時代全体がそう捉えたがっているわけだ。

牡羊座
1927/4(S2)~1934/6(S9) =   2010/5~2018/5
昭和2年~昭和9年。金融恐慌から日中戦争、国際連盟脱退にいたる、見るに忍びない時代だ。

牡牛座
1934/6(S9)~1941/8(S16) = 2018/5~2025/6
昭和9年~昭和16年。もう、言うまでもないだろう

― 牡羊座牡牛座はまた改めて書きたい。 ―

というわけで、個々は同じではないが、傾向は見える。「ピッタリ同じではないではないか」と言われれば困ってしまうが、是非に及ばず。
この比較で、わかることは、この先20年が明るくなさそうだと言うことだ。しかし、それでも、昭和20年への道を、もし知っていたなら、もう少し賢い生き方ができたかも知れない。
魚座(今)の時代はまさに「過去84年を胸に刻み、次の84年の序曲」を聴く時だ。


メモ1220

2006年12月20日 | 占いばなし

今日は射手座の新月(旧暦11月1日)。太陽・月・木星・火星・水星が同居(合)する新月だが、土星(獅子)・海王星(宝瓶)と良い角度なので、先日の満月同様、派手な事故でも重大事件にはならない。ただ、個々の人生にはエポックメーキングなことが起きる。また、双子座のアメリカにとっては興奮の時。角度は良いから下手な交渉はしないと思うが。

ところで、今話題の本間正明・政府税制調査会会長は笑える。
1944年3月11日生まれ=魚座、二黒、申酉空亡(六星の金星)
魚座が時の人であることは何度も触れたが、魚座の後半生まれが目立つ時。二黒は実質主義(ケチ)、セコイ事をして失敗する。国家公務員官舎を借りたのが2003年秋、申酉空亡にかかる年で、空亡が終わったとたん発覚。
この人、以前、官舎の撤廃を自ら掲げたそうだが、まさにアホ言うもんがアホの理屈があてはまる。人は自分の視野でしか理解できない。無人販売所を見て「盗られるよ!」と思う人には泥棒思考が潜んでいる、わいせつ物を取り締まる警官は何をわいせつと判断するのかw。
四柱推命で見るとかなり環境依存型で、元気の良い末っ子的性格、九星傾斜でも自分の非を認めない乾宮。
また、学者や役人の持つ問題気質ということもあるだろう。←世間の荒波を知らない机上論者。
(学校や役所という隔離階級社会が先か、人間が先かは、鶏と卵)
なお、楽天の三木谷浩史会長も3月11日生まれ。年の差で眼光の違いはあれど目つきは似ている。


兄弟関係 補足 1

2006年12月18日 | 兄弟関係

兄弟関係については、類型化の基本型は実際には存在しないことを念頭に、あくまで一要因として参考にしてもらえたらと思う。
また、「人格に至るプロセスや思考の原理」といった考察は長子には理解しやすいが、末っ子にはあまり意味のない話しだ。

長子が方法論や原理という武器を持って荒野に旅立つ時、末っ子や中間児はローマへと続く道を、何に乗って行くのが早いか考えている。つまり、生まれた世界が違えば人生観も違う。
長子にとって人生は、地雷原を確認しながら進むものだが、下の子にとって人生はガンバルものだ。長子にとってのライフワークは責任遂行と、好きなことの追求だが、下の子にとってはチャレンジであり、生存競争、勝ち残りの追求だ。人生は勝負なのだ。
しかし、長子は根が一人っ子で勝ち負けが苦手だから、下からの突き上げからは逃れたい。長子が下と争う場合は「立場を守る」ためだが、下からは権利を守ろうとしているとしか思えない。(立場は名誉。権利は利得)

また、荒野の長子が、想定外の嵐や雷を受け入れる心の準備があるのに対し、高速道路を走る下の子には心の準備はない。陥没穴に落ちて事故にあったらその責任追及をする。「責任者出てこい!」

そう言うわけで、兄弟関係がどうのこうのという話自体
末っ子にとっては「それはどう役に立つんだ」という問題であり、中間児にとっては「それは自分に都合が良いのか悪いのか」と言う問題だ。
つまり、長子にとっての考える資料は、下の子にとっては使えるかどうかというチョイスの対象だ。
ちなみに、すべてが既成の社会に育った世代は、下の子のチョイスと長子の遠慮を併せ持っているように見える。

ところで、長子がスターになると、後で下の子がデビューすることは良くあるが、その逆は少ない。仮に出てきても大抵は長子本人の意志ではない。こういうことも、長子がマイペースなのに対し、下の子は上への負けん気が強いことを表している。

ある二人姉妹の妹が、「姉は私のやっていたことを後からマネしてやり始めた」と言っていた。これなどまさに意識の違いで、長子は常にマネされて来ているからこういうとらえ方をしない。たまたま妹のやっていることに興味を持っただけなのだろうし、まさか妹がそう思っているとは考えてもいないだろう。
それと、良くあることなのでもう一つ穿って考えると、実は当初、姉が始めて中断していたのを妹がその専門家になり、後で姉がもう一度始めたというケースだ。そもそも下の子には先人がいたという意識はない。先人とは当たり前の環境だからだ。
似たようなケースでは、親の商売を発展させた下の子が「一人で築き上げた」と言うことなども良く見かける。


メモ1215

2006年12月15日 | 星の流れに

5日の満月の日は大事件は起きなかったが変容宮らしい事故があった。
阪神高速から甲子園球場前に海洋工事の足場が落下。これはみな変容宮だ。

高速道路=射手座&双子座(輸送と乗り物)
甲子園球場=射手座(スポーツ)野球=乙女座
海洋工事の足場=魚座  3トンの鉄箱3=射手座

大惨事ではなかったが、意外な事故だったのでTVは大々的に取り上げた。

木星/射手座と言えば、阪神大震災も木星が射手座だったが、12年前は「天王星、海王星、太陽」に対する満月だった。今回、重大事件が起こるとすれば、2月始めか3月始めだろう。

射手座は満開中だが、北海道のバンエイ競馬が、廃止から一転、再生へなど、天王星/射手座でJRAが誕生したことと通じることで面白い。


兄弟関係

2006年12月13日 | 兄弟関係

「兄弟は他人の始まり」という。親は保護者だが、兄弟はむき出しの欲望がぶつかる競争関係であり、初めての社会関係だ。したがって性格形成には大いに影響するようだ。三つ子の魂はどんな立派な人にも生きている。
子供は様々な環境の中で生まれるから、もちろん同じではないが、傾向としてはおもしろい。長年の対話の中で見えてきた兄弟関係の図をあげてみたい。ただ、人格は多様な要因の複合体で、無限のバリエーションがあることは言うまでもない。兄弟関係だけでも、性別、年齢差、人数など多様な要因がある。ここではかなり漠然とした基本形だけをあげる。
兄弟関係による人格は、様々な状況に現れる。親子でも末っ子の親が長子の我が子を頼りにしたり、中間児の上司が部下の長子の気勢をそいだりということが起きる。うまくいかない相手を理解する上で、生い立ちの兄弟関係を知れば何かの役に立つかも知れない。

第一子
長子はまず、一人っ子として生まれる。逆に長子以外は皆、末っ子として生まれる。互いに相手の立場を知らない。
長子=一人っ子+α 中間児=末っ子+α )

一人っ子     (森のプーさん)
一人っ子が生まれると周りは大人ばかりだ。大人は子供には思いやりがあり、無茶な攻撃を仕掛けないし、静かにお願いすれば、大抵のことは聞いてくれる。それでも大人が聞いてくれないことは、きっと良くないことなのだろうと納得し自制できるようになる。時間と空間にゆとりがあり、大人は辛抱強く説得もしてくれるからだ。何かわらないことが起きれば先ず大人に聞くが、やがて何ごとも自分で考えるようになる。考えを実行して、大人が止めず、実際に問題が起こらなければそれ以上、人間関係などは考えない。もし、初めてのことに遭遇し、それが理解できないなら立ち止まり、考え、対応に時間的余裕がなければ退く。
つまり、何事も自分なりに理解しようとする。また、大人が示す思いやりを見習い、自分も他人に対して思いやりで接しようとする。
人間を信頼し、意見の違いがあれば「話せばわかる」と考える。そして、自分の頑固さには気づかず、気長に説得しようとする。とかく、大人に好かれる良い子になろうとする。自分の間違いを過剰に認めるのも、いい人、ものわかりのいい人になりたいからだ。攻撃的になるより自分の中に修正点を探そうとする。
話し合いもなく問答無用で強制されても、方向転換できない。現実的に臨機応変とはいかず、協調性に欠ける。自分の考えがまとまらなければまず譲るので、いじめられやすい。
冷静を保とうとし、人付き合い、競争は苦手だが、孤独には強い。自分の世界でいつまでも一人遊びができる。何事もよく観察し、考え想像し、掘り下げていく。思慮深く独創的な発想を持っている。やさしいオタク型

長 子   (トムソーヤ 雄弁は銀)
一人っ子に弟妹ができると長子となる。年子のように近い場合と、幼稚園以上の社会生活経験のある場合とでは相当違ってくる。社会性を持った年で弟妹ができると、自分も弟妹に対して大人になる努力をするし、家族以外の人間関係があるから弟妹に対して躍起にならない。競争する気もない。理屈の解らない弟妹達との面倒くさい関係からは逃れ、無視しようとする。反面、親から長子の責任を託されることもあって、大人意識から、自分の都合次第、気分次第で弟妹に対して積極的に面倒を見ようとする。面倒を見てやろうという気持ちが、自分の方法の押しつけになり、うるさいことを言う。そうかと思うと、自分の不満をぶつける憂さ晴らしの相手にする場合もある。一人っ子は憂さ晴らしの相手がいないが、長子には弟妹という弱者がいるので独善性が強くなる。ただし、年子で弟妹が生まれると、一人っ子的要素より末っ子的闘争性が加わる。
成長して、弟妹と衝突するようになると、自分の社会生活に逃避する。この場合、弟妹との経験から、外では一人っ子より用心深く、様子を見るために構えるので沈黙がちになり、自分の主張の場を探る。いったん意見を言い出したら、相手の意見を認めても自分の意見を放棄することはない。頑固だが鷹揚だ。

末っ子   (牛に乗ったねずみ)
長子以外は誰でも末っ子経験者だ。末っ子が生まれてみると、大人とは別の兄姉という者がいる。大人はどうも、兄姉と同等に扱っているらしいが、必ず差をつける。兄姉には与えられる物が、なぜか自分には与えられない。同じ「子供」なのに「お兄ちゃんばっかり」「お姉ちゃんばっかり」に初めての物が与えられる。ものごころ付いた時からすべてがそうだ。そういう思いが、親兄姉に対する不満となる。
成長段階が異なれば与えられるものが違うという理屈は、まったく理解できないまま、この被害者意識は焼き付いてしまう。
そこで、赤ん坊の時には不満を泣き叫ぶ。すると、親は不憫に思い、同じものは与えられなくても、何か代わりに満足させるものを提供しようとする。時にはムダ覚悟で同じものを与えることもあるが、大抵は長子が同じ年にはもらえなかったお菓子や玩具になる。ここで、「叩けよさらば開かれん」ということを憶える。そして、長子が感じることのなかった「不足に目覚める」わけだ。(長子が一人っ子の時には、自分とは別な存在の大人のものは求めず、他の家の大きな子供の物には情報を持たず、興味も感じなかった)
何かを与えられても、兄姉と同じものをもらったわけではないから、ごまかされたという悪感情の方が残り、もらったものに対する感謝や満足はない。その結果、何もしてもらってないと思い込む(実は余録にありついていても)。長子と年が離れている場合、多くは尊敬や思慕になるが、年が近いと仲間意識と共に競争心や敵意になる。
長子が何をするにも自分で考え判断しようとし、自省的であるのにたいし、末っ子は無謀で攻撃的だ。たとえ、自分で考えようとしてもそれを実行させてもらえない。兄姉の都合で壊されてしまうからだ。加えて、自分で試行錯誤するより、兄姉と同じ事をした方が参加できるし、兄姉の検証済みで失敗がない。お古というすぐ使える道具もある。(長子は求めなければ何も無いし、必ず買ってもらえるとは限らない)
また、仮に親に叱られるようなことがあっても兄姉のせいにできる。普通、親は兄姉に監督責任を問うからだ。
末っ子が身につける特性は、とりあえず主張する。人の様子を観察する。手本になる行動や考えを求め、同時にライバルを必要とする。長子が対人関係を煩わしがるのに対し、むしろ積極的に人との絡みをつくろうとする。そこで人を喜ばせる術やチャレンジ精神を体得する。ただし、一旦、自分の役に立たないとなると、あっさり切り捨てる。
長子が、原理や方法論にこだわるのに対し、外見的な「・・・らしさ」を追求する。長子が「他人は他人」と考えるのに対し、目立つ他人は常に自分の比較や尊敬の対象になり、お近づきになりたいと思ったり敵意を燃やしたりする。(関係ないはずの人にでも)
では、物まねはどちらがうまいかと言えば、長子の方がうまい。なぜなら、対象の本質を理解してまねようとするからだが、末っ子の場合、対象の面白さ「らしさ」に着眼する。面白さでは末っ子の方がうける。絵の初心者がデッサンをしても、長子は正確だが、末っ子は雰囲気をつかむ。
コツとトレーニングがものを言うスポーツの世界では、迷いのない末っ子の方が上達する。特に、サッカーのような、関係の中で状況に対応するゲームに強い。また、野球のような持ち場が決まっているスポーツでも、指導者や監督に恵まれると末っ子は上達する。スポーツ界、特に野球で姉さん女房が多いのは、常に指導者を必要とするからだろう。

- 若貴ギャップ -
さて近年、長子と末っ子の関係が最も顕著に出た話題は若貴兄弟だ。若乃花が横綱らしからぬ個人に生きたのに対し、貴乃花は横綱「らしさ」に徹した。スポーツで成功したのは弟の貴乃花だったが、指導者として頼ってきた父親が死んだとたん、弟はどうして良いか解らなくなった。
末っ子は指針や心の支えを失うと、暴走する場合がある。糸の切れたタコではなく、新しい指針を求めるために当たりをつける行動だ。迷路に放り込まれたマウスは先ずウロウロする。自動制御ロボットはスイッチを入れると情報収集のためにしばらく不規則な動きをする。とりあえず大騒ぎをしているうちに、歩ける道と歩けない道が見えてくる。
貴乃花がワケのわからない言動をしているとき、誰か「エライ」人がバシッと叱ってやれば良かったのだが、本人がすでにエライ人になってしまっているので、全くの「裸の王様」になってしまった。
明らかな「エライ」人がいない場合、末っ子は攻撃的な力試しをする。つまり、障害と限界を探っているのだ。長子のように立ち止まって、沈思黙考し自分なりの答えを求める習性は身に付いていない。親兄姉という障害と、どうやって折り合いをつけるかというコツと技を磨いて成長したからだ。
貴乃花は大人の言葉で話してはいたが、すっかり子供の末っ子になっていた。末っ子はどうして良いか解らない時、なりふり構わない。「なりふり」は、他人に対する自意識だが、末っ子にとっては、他人にどう思われるかより、相手が自分にどう出るかの方が重要な問題だ。周囲の反応によって自分のポジション、態度を決める。
一方、長子の若乃花には客観性がある。子供の頃から、適当なところで無視する習慣は付いていただろうが、公の場となると少しでも事態を拡げたくない。取りあえば限界まで争ってくることが解っているので、耐えて沈黙に徹した。
成長段階が進んでいる長子は、理屈の通じない幼い弟妹には、なるべく関わらないように心がける。何か言うと必ず食らいついてくる存在を、避けるコツが身についている。問題解決には、大人である親と話す方が早いことも知っている。

中間児   (アリババ 沈黙は金)
末っ子に弟妹ができると中間児になる。攻撃的に文句を言っていれば、余録にありつけた末っ子の立場は奪われる。親は幼い弟妹に忙しく、長子のようには一目おいてくれない。親兄姉の圧力は相変わらずある上に、新しく、まとわりつく存在の弟妹がいる。何とも悲しい立場である。
だが、ここで、中間児は極めて複雑な「超サバイバル能力」を身につける。形勢を見極め、ウザイやつを避ける能力だ。(ただし、弟妹と10歳以上も離れている場合は末っ子のまま)
まず、甘えもワメキも通じないから、自分で何とかする。姿を消して油揚げを狙うステルス・トンビになる。兄弟姉妹のスキを徹底的に窺い、黙ってサッと手に入れる。兄弟姉妹の失敗は見逃さずチェックし、自分が責任追及された時の反論材料にする。
長子が自論を唱え、末っ子が叫びたてるのに対し、中間児は沈黙する。
長子の沈黙は思案中だが、中間児の沈黙は観察中だ。筋道論の長子が議論の末、考えを変えたり謝ったりするのに対し、末っ子はワメいて通じなければコロリと主張を捨て忘れてしまう。しかし、中間児はどちらでもない。
始めから負ける喧嘩はしない。全体の論調や流れの中で、一番有利なところに立場を定め、「始めからそう主張していた」ことにする。
能力の劣る幼い弟妹にはアメとムチを使い分け、適当に親しくしながら利用する。自分も末っ子経験者だからツボはよく解る。
長子の道義や主張より「実利と生き残り」を追求するわけだ。得られるものだけを狙い、無駄なことは言わない。責任は上下にかぶせる。非難ではなく、自分は正しい側だったことをさりげなくアピールする。主張するより逃げ腰なのだ。もし自分が責められると、必死に反論し責任を認めない。なすり付ける相手がいなければ第三者のせいにする。
積極的に主張する場合は、記録のない過去を根拠にしたり、死者や幼児などの代弁者として、証拠がないものを根拠に意見を言うこともある。
ニコやかで周囲からは「いい人」と思われる「沈黙は金」を体得している。実際、自分の立場が守られている時は争いを好まず、誰にでも優しい。
しかし、誰かが弱気で素直な時には、すかさず立場を押さえる。「こんなの知らなかった!」と誰かが感動していると、「そんなの、誰でも知ってるよ」等と、自分も初めて聞いたことでも、相手の弱みをとりあえず叩いておく。主張はしないが、相手の力を用いて少し上になっておき、弱みは見せない。
冷や飯を食った生い立ちから、脳天気なやつには腹が立つ。管理と防衛の習性から、無意識のうちに排斥の根回しをする。末っ子はたきつけやすい。ニコニコと物静かだが辣腕の猛獣使いで、特に軽挙盲動する末っ子の扱いは抜群だ。
家族の関心が薄いということは自由であるということで、得意の世渡り術で外部に人間関係をつくり、独自の努力を黙々と重ね、家族とは別の生き方をする。また、逆に、だまって後継者となることもある。


東(笑)西

2006年12月08日 | 京都&ケンミン文化

TVを入れると何の番組か、関東出身のお笑い芸人ばかりが楽屋で「身体の一部をサイボーグにするなら」と話していた。脳を替えるとどうなるとかで盛り上がろうとしているところに、遅れてやってきた関西芸人「う~ん、オレなら陰毛やな」の一言で、パーンとひっくり返してしまった。

関東の笑いは、元来、理屈っぽい。「星の王子様です」とか「うちのばあやが」など、秩序概念の裏返しに過ぎない。上沼恵美子がNHKで関東にうけたのも、この関東流の笑いを「うちの大阪城」などと破天荒に拡大したまでだ。これにくらべ、関西は「面白けりゃエエんかい」の世界だ。

笑いというものは固定概念の崩壊にある。いかに固定概念を崩すかだから、お笑い芸人とはむしろ固定概念の塊であり、価値観は極めて保守的だ。自分の中の固定概念をひっくり返すことで笑いに変えている。
小さなひっくり返しはダジャレだが、関東の笑いは「バカヤロウ」を連発する偽悪や。論理のひっくり返しだ。つまり、関東はもともと論理と秩序が支配している。
しかし、大阪のように笑いを追求する町では、生半可なぶち壊しでは通用しない。論理を超えるシュールな空間こそが関西の笑いだ。
昔は、真面目な関東人にはこの笑いが通用しなかったが、TV社会で関東人にもかなり解るようになってきた。しかしそれでもコテコテの関西芸人はいまだに理解されないだろう。

サンマがうけたのは、いじり芸でTVの中の人物をいじり、解りやすかったからだ。九州人のタモリは芸能界(村)をいじった。
タケシの笑いは実際のところ関西人には理解できない。関西ではタケシのことを、始めからお笑い界の重鎮として遇していた。つまりそうとしか認めることができなかったからだろう。有名な「赤信号みんなでわたれば怖くない」も、論理の実体を問うもので、やはり理屈だ。

極論すれば関東には笑いがない。関西人が笑いに癒しを求めるのに対し、関東で好まれてきたものは人情話や美談など、涙の癒しだ。関西人の夢は庶民の平和だが、関東人の生き甲斐は自然や権力など、秩序へ馴染むことへの納得だ。だからぶち壊しの笑いは生まれない。

 

東男に京女
そうした関東人に重要なものとして「男気」がある。これは九州男児のように声高な看板ではない。武士道の静かな源流だ。人は自分にないものを理想やスローガンとして声高に叫ぶが、西に行くほど「男、男」とよく耳にする。関東人は男や武士道をあまり口にしない。実体がすでに男の世界だからだ。

では男の世界とは何かと言えば、単純、沈黙、無愛想、誠意・・・といった不器用者の世界だ。集団より個人を重んじ、金や名誉の欲がない。勝海舟には薩長の重鎮のような人間くささや郎党意識がない。それどころか、江戸っ子に限定すれば、存在を消すのが江戸の美意識だ。「田舎者」には解らないことだが、立身出世など恥ずかしいことなのだ。江戸っ子が世に出るのは出ようとしてではない。自分の道を追求した結果だ。エラくなっても決してエラぶらない。江戸っ子が偉そうに見えるとしたら、見る側の眼鏡の問題だ。

関東人の男同士の世界、長屋の悪ガキのような世界は・・・例が多すぎるので止めるが、声が小さくサッパリしていて臭いがない。タケシや唐沢寿明など「格」意識ではなく、男同士に生きる典型だ。
もちろん、この感性は女も同じで、集団におもねらない個人の心意気は「いいやつ」の印象が強く、因習的な「女」のいやらしさが無い。高木美保、天海祐希はどちらも獅子座だが、顔立ちが似ていて浮世絵の美人画のようだから、きっと江戸美人とはこうした顔だったのだろうと思う。

美人と言えば「京女」のようなイメージがあるが、これはビミョウだ。東男に京女は外見のことではない。東男の「男気」に対して、京女は「芯」の強さだ。栄枯盛衰、千年無常の都で、実利を見極めて生き抜いてきたおなごの生命力こそが京女の真骨頂。魅力だ。
京女の典型は横田早紀江さんだ。どういう人かは知らないが、外見、態度、言葉・・・京のろうじ小路のどこにでもいそうなフッツウーの京都人だ。声を荒らげず、あくまで夫を押し立てながら正念場で絶対に引かない。こんな事件がなければかわいい冗談を言いながら穏やかな人生を送っていたはずだ。ブッシュに「グレート・マザー」と言わしめたのは、決して政治的駆け引きだけではないだろう。


満月

2006年12月04日 | 星の流れに

先日、さんま御殿で、日頃面白くないホリケンがミョウに可笑しかった。特に新しいことをしているわけでもない。アレッと思って調べたらやっぱり射手座だ。ノッているお笑い芸人は、いるだけで笑えてくるものだが、木星の来ている射手座は今そういう状態=ウケにある。特に射手座の始めの人がそうで、徐々に後半に巡っていく。ホリケンは11月28日。

とにかくモテモテ状態で興奮中。自分の目に付くものも多いし、人からも注目される。あれこれ手を出して、既にズッコケている射手座や、今にも転びそうな人。アブナイアブナイ。もっとも今は、グイッと一杯引っかけたような状態なので痛くない。4日から月が双児座に入り満月で超危険。事件・事故も増加。
こういう時に、要注意と言って嫌われたことがよくある。酒で気勢を上げる人を止めるのはむずかしい。
クドくなるが、木星が来る時は「発芽」。まいた種しか芽を出さない。双葉を大切に育てる時。当然ながら、種をまいてなければ芽を出さない。切り花に目移りすればすぐ枯れる。

南米も反米連合で気勢を上げている。去年からの朝鮮半島のようにならなければいいが。

元KGBスパイ、リトビネンコ氏の暗殺で出てきたのがポロニウム210=3、射手座の数。(ただし、スパイも核物質もサソリ座なので事件そのものはサソリ座の後遺症)
未履修問題の教科は、世界史、情報、日本史・・・みな射手座の教科だ。

ところで、
天王星の入っている星座(今は魚座)は、なかなか体験できないことに遭遇するが、ジェットコースターのように上下動が激しい。この一年の上昇からいきなり急降下中。慌てないことが波乗りのコツ。客観的にはまだ好調なのだから。