魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

被害者は

2011年05月31日 | 兄弟関係

スーパーで、小一ぐらいの女の子が何かをねだっているが、承諾しない母親は、子供がふて腐れていても相手にしない。黙って見ている。
二人とも、静かに我慢くらべをしている。

両者とも長子の親子だろう。母親は既に不承諾の理由を子供に話し、子供も理解しているが、感情的に納得できない。子供の気持ちの整理が付くまで、親はじっと待っている・・・
おそらく、そういうことだろうか。

長子は、出たとこ勝負の、状況次第で行動を変えない。
理解し、納得して行動を決める。だから、相手の理解を期待し、説得し、納得するまで待とうとする。

長子の人生は、何をするにも、初体験であり、前例を参照することが出来ない。何があっても、誰かのせいに出来ないから、始める前によくよく考えようとする。当然、スロースターターになる。

しかし弟妹は、初めから手本があり、それを真似たり利用すればいい。
しかも、失敗の責任を問う人物が、初めからいる。
だから、安心して行動を起こせるので、無鉄砲で行動が早い。

長子は弟妹に対して怒ることはあるが、弟妹のせいにはしない。
弟妹は、手柄は自分で責任は他人、が当たり前だと思っているから、何かあると、責任者を挙げて、徹底的に追求する。医療ミスや事件の責任を追求するのは、たいてい弟妹だ。

しかし、長子にも弟妹の様な人がいたり、弟妹にも長子のような人がいる。これは、その親が、長子か弟妹かで違ってくる。
長子の親は、子供の内面に注目するので、比較的我慢強く子供に対するため、弟妹でも熟慮型になる。ただし、接触時間の長い親の影響だから、多くは母親の場合だ。

弟妹は子供の時から、何かあるとすぐ泣き、叱られそうになるとゴマをする。弟妹に子供の頃の話を聞くと、惨めな体験や、誰かの被害者だったと言い、可哀相なシンデレラの話を聞くことが多い。
世の中、弟妹が主人公の話は、おしなべて、兄姉のためにひどい目に遭っている。もちろん、この作者は弟妹か、末っ子をかわいがる親だろう。長子がこんな物語を思いつくわけがない。

典型的な末っ子話のシンデレラも、被害者はシンデレラで、最も優れているのもシンデレラだ。これは、末っ子の思いをそのまま語っている物語だ。悪いのは兄姉で、手柄は自分ということになる。

何歳であろうと、どんな偉い人であろうと、この見方は変わらない。
弟妹型の人が偉くなると、優秀でも長子のような「空気の読めない」人間を嫌い、空気の読める人間を周囲において排斥する。

長子は、自分の成果も他人の成果も「完璧な物など無い」と思っているから、自慢もしなければ褒めもしない。
弟妹は、物も業績も既成のものを「手に入れた」と考える。人生は出会いだと考え、地位や成績など、人から評価された業績は、その気になって自慢する。

誰かから手に入れた知識や技術を疑わないから、それを教えたがるが、懐疑的な長子は自慢もしないし、教えたがらない。
しかし、相手の反応お構いなしの、傍若無人の長子型の言動を見て、弟妹型はそれを自慢していると受け止め、押しつけと受け止める。

長子、一人っ子の日本から見ると、全く理解できない朝鮮半島の原理や言い分は、東アジアの末っ子と考えると、ほとんどピッタリ当てはまるし、対処法が簡単に解る。

さらに、興味深いのは、韓流に没頭する人や、新興宗教に傾倒する人は弟妹型が多く、しかも、何かの拍子にコロリと宗旨を変えて、徹底的に嫌いになる。これも、選択的生き方の表れだ。
日本神話の成功者が、みな末っ子であると言うことは、一体、何を意味しているのだろう。

ところで、この種の話は、兄弟姉妹、両者の立場で話しても、褒められる話でない限り、弟妹型は否定するだろう。

占いの眼


亡国の宴

2011年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

野党は内閣不信任案を出すそうだ。与党の一部も応じる勢いだ。
一体この国の政治屋は、あるいは、それに呼応する国民は、何を考えているのだろう。

菅内閣が良いとか悪いとかの問題ではない。政局しか考えられないことが問題なのだ。
203高地攻めの乃木軍のように、状況がどう変わっても同じ事しかできない。これを、「一つ覚え」と言う。

半年かけて6万の死傷者を出しても陥落しなかった要塞を、児玉源太郎が見て、28センチ砲を取り寄せ、1日で陥落させた。
筋道論や観念論より、現実直視の発想と行動こそが国難を打破する。

しかし、この国の情緒は、児玉源太郎より、乃木将軍を愛し崇拝する。
菅下ろしの大合唱の中で、政界には「菅は嫌なやつだ」と言う声があるそうだ。人には好き好きがあって当然だが、ここはそういう問題ではないだろうと思うのだが、実際は、こういうムードが案外、歴史を動かす。

政界は、自動車人間で言えばボディーの世界だ。
ボディーとシャーシは相性が良いが、エンジンとは相性が悪い。
エンジンの政治家と言えば、鈴木宗男、麻生太郎、森喜朗・・・
ガンバリ屋だが、がさつで脇が甘く、尊敬されない。

ボディー鳩山、シャーシ小沢、エンジン菅。
水瓶、双児、天秤の「風の星座」で政権交代を果たしたものの、
鳩山・小沢と、菅は相性が悪い。
何事も、相性の悪い人間が力を合わせてこそ、強力になるが、一度狂い始めると収拾が付かなくなるのが悪相性。原子力制御と同じだ。

与党は権力闘争、野党の失地回復・・・ここまでトコトンの連中は、まとめて捨ててしまいたい。一体何様だと思っているんだろう。
うたを忘れたカナリアは・・・
「鳴かぬなら・・・・・・・ホトトギス」

維新だ、維新だ
もし、万が一、内閣不信任、解散総選挙のような、バカげたことになったら、地域連合による反既成政党と言う党を結成して、憲法改正、政治制度革新をスローガンにして戦えば、圧勝しそうだ。
ネーミングは「勤民党」かな

橋下知事ではないが、国会議員など50人でいい。反既成政党で圧勝した後、憲法改正で50人にし、連邦制の議員に還元し振り分ける。

まあ、宇宙人でも来ない限り、そんなことは、起こらないだろうが、ここまで統治意識が落ちれば、他国に支配されるよりは、クーデターの方がましだ、ということになるかも知れない。

・・・そんな妄想をさせないで欲しい
「先生」方は、自分が何のためにそこにいるのか、もう一度顔を洗い、天を仰いで考えて欲しい。
繁栄の極みで亡んだ国は少なくないのだ。


犬の人生

2011年05月29日 | 話の畑

先日の「はてなの」ような、トンチンカンなことによく遭遇する。
信じてもらえない話」「バッテリー」「微妙に・・・

ちょっと、人には言えない話も少なくないが、高校の頃の友達のように、自ら進んで飛び込んだ冒険や武勇伝のような、「勇気」の結果ではない。ボーッと歩いていたら棒に当たった、オトボケ事件ばかりだ。

日頃はすっかり忘れているのだが、何かあるたびに、『そういえば』と思い出す。しかし、あまりにもウソ臭いので、前後の経緯から話さなければ、信じてもらえず、あまり、人に話す気にはならない。

もともと、自分自身が疑い深く、人の話を真に受けない。
人の話というものは、「事実+印象+思い込み」の結果だから、話を聞きながら、それぞれに分解して、事実を推察する。
そうすることで、その人の、思考方法や思いが理解でき、こちらが話す、別の観点を理解してもらうことが出来る。

世の中には、変わった事件にばかり遭遇する、というより、朝から晩まで、事件の連続の人がいる。
こういう人のことを嘘つき人間だと怒る人がいるが、これは病気だ。
体験をうかつに話すと、この種の病気を疑われる危険もある。

だから、体験談を話す時は、誤解を避けるために、なるべく詳しく情報開示しなければならないと思う。当然、「長い話」になる。
思い出すたびに話そうとしても、長い話は、話す気にならず、聞く気にもならない。第一、たいていはくだらない話だ。
そう思うと、話す前に、忘れてしまう。

そんな、くだらない話を一つ思い出した。なるべく短く話してみたい。

16の時、バイクの免許を取った。うちにはバイクは無かったので、親戚から借りて、練習のため郊外に遠乗りした。
そうとう走ったので、田園地帯の国道脇にあるガソリンスタンドで、帰りのガソリンを満タンにした。

国道の横の田んぼに突き出たスタンドから、国道に出るため左右を見回していると、国道の下の田んぼで農作業をしていた30代位のおばさんが、田んぼの端に来て、背中を向け、モンペをズラして前かがみで、立ちションを始めた。知ってか知らずか、大きな尻が10mもない、目と鼻の先だ。視力は2.0。

当時は、法律もなかったから、ヘルメットもかぶっていない。
16の少年にとっては、非常事態だ。 ウ~ ウ~ ウ~

見たいが見られない。去るべきだが立ち去れない。止まって見ているのを、知られるのも恥ずかしい。
『行け、でも・・・』と葛藤するが、見るに見られない方向から音だけ聞こえてくる。
永遠にも感じられる一瞬の躊躇の後、思い切ってブーンと立ち去った。

近頃のAVには「放尿・・」などあるが、年寄りにはくだらなくても、少年には、お宝であると、よく解る。


早い者勝

2011年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

原発には反対だが、研究開発そのものに反対ではない。将来、太陽系から離れてする旅には、自然エネルギーは使えないからだ。
はじけた

しかし、現在の原発は将来の宇宙船には全く使えないだろう。
原子力電池など、もっと直接的で、画期的なエネルギーでなければならないが、そのたたき台としての原子力研究は必要だ。

だが、そんな未来の話はゆっくり考えるとしても、近未来の、産業政策としてのエネルギーは、何としても、自然の恵みに調和することが賢明だと信じている。

エネルギーのあり方こそが時代のパラダイムであり、化石燃料が形作ってきた、過去250年の産革パラダイムは、もう、終わりにさしかかっている。原子力発電所にしても、蒸気発電の延長であり、ワットの蒸気機関のパラダイムに過ぎない。

ニューパラダイムは、力任せの若造が、周りの人=環境のお蔭に気づき、一つ大人になった人類が、周囲と調和して新しい営みを築いていく時代だ。
自然環境に感謝し、周りの環境を活かしながら生きていく、賢人社会を作らなければならない。

太陽電池は早とちり
今すぐ、脱原発から自然エネルギーと言えば、目の前にある道具だけ見て、「それ!太陽電池だ!」と飛びつく人が出て来る。
目先の利に目ざとい、ソンサンや、サムソンは直ちに、メガソーラーや太陽電池工場に大投資を始めた。

自動車人間で言えば、ソンサンはカンサンと同じ、エンジンだ。
カンサンは政治家だから、「見せ場」で損するが、ソンサンは商売人だから、行動力だけで勝負できる。だが、即物的であることには変わりない。深慮遠謀に欠ける。

どうも、このところ、「S」の字は危ないようだ。
東電の清水社長。三洋、ソニー。もしかすると、ソーラー電池に賭ける、サムソンやソンサン、シャープも、危ないのかも知れない。

みんなが、「太陽電池だ!」と言い出したなら、むしろ、別のメを考えてみる必要がある。もし太陽電池がそんなに使える物なら、なぜ今までさしたる進歩をしなかったのか。

今の原理の太陽電池で生産拡大、利用拡大を考えている人の裏で、
ほんの、ちょっとした発想の転換が、大きく主導権を握る可能性は無いことはない。

ガソリン自動車が電気自動車に勝ったように、新しいパラダイムは、主導権の早い者勝ちという実績はあるが、先行技術が勝者になるとは限らない。


はてなの

2011年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ、スキャナの良いのが欲しいのだが、帯に短したすきに長しで、ピッタリの物が無く、古いスキャナもあるので買わないでいた。

昨日、Y電機の閉店間際に行くと、EPSONのGT-F730の17800円の値札の上に、「27日まで/他店調査済み」として「9500円+10%ポイント」と、貼ってあった。
『ギョギョッ!』と、さかなクンになったが、『慌てる乞食はもらいが少ない』と、閉店にもなったし、買わないで帰った。

帰って、価格comを見ると、最安値が14686円
帯には短いが、「この際、買わなければ」と、翌日、慌てて、Y電気に駆けつけた。

念のため、店員に「何で、こんなに安いんですか?新製品でも出るんですか?」と聞くと、
しばらく考えていた店員が、9500円の値札を剥がし始めた。

『えっ、えっ、何をする』と思っていると、
「すみません、間違ってました。すみません」と言いながら、
隣のGT-S630の、9800円の上に貼った。

『なあ~んや、それ?!』と、思ったら、それまで思い詰めていた、「買うぞ買うぞ」モードの糸が切れて、笑いが止まらなくなった。

店員があまりにも恐縮するので、笑いをコラえてその場を去り、車に帰るなり大爆笑をした。

というのも、米朝落語「はてなの茶碗」の、前振りの「壷の値段」とダブったので、おかしさが倍になってしまった。

※「壷の値段」
大きい壷より小さい壷がなぜ高いか不思議がり、よく見ればなるほど値打ちが違うなあ、と思った時、係が来て「すみません値札間違えてました。」と入れ替える小話


廻り灯籠

2011年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム

天王星おひつじ座、昭和初期。大恐慌の時代だ。
大恐慌はまだ始まっていない。日本が軍国化するとも思えない。
しかし、地球的観点では、どこかの国が暴走してもおかしくない。
昭和初期を、イメージ的に語れば、
「アジアの新興国が権益を求めて戦争を始めた」と言うことになる。

昭和初期の日本の暴走は、政府や天皇の意志ではない。軍事システムの暴走を、政治が押さえられなかった。
そして、その背景は、軍事力で成立した国が、思想も機構も軍事を優先してきた結果であり、事実上の軍独裁だった。

このイメージは、全く、今の中国に当てはまる。
中国が表向き主張するように、政治的には戦争をする気がないのは事実だろう。しかし、昭和初期の日本が、政治の意志に反して、戦争を始めたのは、事実上の軍独裁があったからだ。

今でも、軍を押さえきれない中国指導部だが、次世代の指導部は二世の温室育ちであり、軍を押さえられるとは思えない。
その上、中国軍は軍備強化し、軍の指導部自体が、これも、二世、三世で現実感を欠いている。昭和初期の日本の軍部と同じ、戦争を知らない観念論者だ。

日清戦争の時、中国は新鋭巨大軍艦をドイツに発注購入すると、強気になり、周辺国を威嚇して回った。清国当時の中国軍より、現在の中国軍は圧倒的に強力だろうが、中国文化における軍の感性は変わっていないだろう。つまり、武器を手に入れると強気になる。

その表れが、昨年の尖閣事件であり、アメリカとの軍事バランスを考慮して、とりあえず、和平派が収めているが、この先、さらに軍備増強すれば、ますます横暴になるだろう。

84年前のアジアの新興国は、今は、中国に入れ替わっている。
時代が違うから、昔と同じにはならないが、中国自体が変わらない限り、「同じような」道を辿ることになる。

ここで、間違えてはいけないのは、軍事に軍事で立ち向かおうとすることだ。中国への対抗策は、中国の思想を逆手に取ることであり、同時に、その裏をかくことだ。

一言で言えば、覇権国家を小さく君臨させることであり、昨年のような、杓子定規な日本の出方はその逆となり、結果的に、中国の君臨域を拡大させてしまった。そして、その弟分達を活気づかせることになった。

日本は、もっと大人になって、中国を懐柔する視点を持たなければならないのだが・・・


現実処理

2011年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

くどいのだが、
占いの目で見るには、見えるものを見てはいけない。
現象の背景にある、本質や意味を見なければ、次に現れる現象は見えない。
文章で言えば、「行間を読む」ことだろうか。

この、「行間」に焦点を当てた話しをすると、たいていの人が、
「なんじゃ、それ」とか、「また、ワケの解らない、的はずれなことを」と思う。
しかし、この、的はずれこそが、運気と言われるコトの本質だ。

例えが少々違うが、似たような例を挙げると、
自動翻訳で翻訳された結果を、理解することに似ている。
グーグルなどの自動翻訳で訳された日本語は、そのまま忠実に読むと、単語や文節がバラバラで、意味不明だ。

しかし、全体を見渡して、おおよその意味を想定してから、単語をつなぎ合わせ、文節を修正していけば、頭の中で、立派な文章ができあがる。このためには、文節の矛盾や陳腐さを気にしてはいけない。
同じ事は、モザイク画を見る時にも言える。一つ一つの色の断片を見ていては、絵の全体像は見えない。

占いのように、人や、世の中の複雑な流れを予想するには、先ず正確さを捨て、方向性を見極める。枝葉末節は大局を把握してから考える。
機械技術の発達した近年、人間の能力を超える「正確さ」が可能になり、正確であることを前提に思考する傾向がある。

しかし、この正確さが生み出す全体構造は、実は虚構であることを忘れてはいけない。
透視図法は、「真実らしく」見せる方法であり、それを進化させた「3D」は、どこまで行っても虚構であることを、忘れがちになる。
最近こうした、正確な虚構が社会に蔓延し、正確さにこだわる閉塞状況がうまれ、何もできなくなっていた。

ざっくりアバウトいい加減
近頃流行の、「ざっくり」という言葉は、その前に流行った「アバウト」と同じで、足かせを解いて現実思考を進める言葉だ。
「アバウト」が、否定的だったのに対し、「ざっくり」は思考を進める意志を含んでいる。

また、近頃 B型が人気しているのも、この、いい加減な「現実感」が、求められているせいかもしれない。

今回の大災害で、今現在、「ざっくり」と「正確さ」のせめぎ合いが起こっているが、現実的処理には、「ざっくり」「いい加減」で行かなければ、何も解決しないだろう。

正確さが通用するのは、恵まれて、安定した社会であり、もともと、閉鎖的に安定している島国だから、緻密な文化が成立した日本だが、世界は常に乱世だ。

大災害の動乱時には、正確なつじつま合わせより、先ず方向性が先だが、いまだ、日本の閉塞気分が抜けていないとすれば、絵に描いた餅を求めて、飢え死ぬことになるだろう。


隔世の感

2011年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

確か、アポロ11号の頃だったと思うが、(だから40年以上昔)
子供電話相談室に「宇宙人って、いるんですか?」と、小学生から質問があった。

すると、科学担当の大学教授が、ムキになって、
「そんなものはいません!」「第一、いたとしても、遙か彼方で、来ることができません」。『バカなことを言うもんじゃない!』と、叱りつけるように話すので、小学生がしょんぼりしていた。

ラジオを聞きながら、何かこの先生、個人的なイラ立ちがあるんだろうなあと思った。
世間のUFO騒ぎに、『無知な素人が害毒を流してケシカラン』と、日頃から、怒っていたのかも知れない。
あの小学生も、もう50歳を超えているし、先生は亡くなっただろう。

昨今の宇宙科学は、宇宙生命の存在が常識のようだ。
生命観の発展も寄与していると思われるが、隔世の感がある。

何はともあれ、産業革命パラダイムは、離陸する飛行機だ。窓の景色が変わり、あっと気づけば、人類は空に舞い上がろうとしている。

今この瞬間、離陸時が一番危険なのかも知れない。環境が激変する瞬間に、われわれはまだ、心の準備も身体の準備もできていない。

種子島
飛行機と言えば、今でも、飛行機が怖くて嫌いな人がいる。
代表は金正日だが、飛行機嫌いと高所恐怖症は必ずしも一致しない。
高所恐怖症は、直接「落ちる現実」が目の前にあるから怖いのだが、飛行機嫌いは、他力で「あり得ない状態」に置かれることが我慢できない。他力を信用できない。

高所恐怖症は、落ちてしまうかも知れない自分を信用できないのだが、飛行機嫌いは他力を信用できない。
しかし、どこまでを他力と考えるかは、慣れの問題がありそうだ。
金正日は鉄道なら怖くないらしいが、鉄道ができた頃には、ヨーロッパの文化人は鉄道嫌いが相当いた。当時の人にとっては、鉄道のスピードが、今の飛行機並みに「ありえない」ものだったようだ。

文明の利器が、新世界をもたらすと、それを受け入れられない人が必ずいる。似たようなタイプは、車に乗ったまま洗車機に入れない人で、
肉体的に対応できそうなことは怖くないが、自分の力ではどうにもならないものは怖い。(ウイルスや放射能なども)

こういうタイプは、既存のスーパー・パワーは信じるが、未知の仕組みは、それが手にはいると言われても、受け付けない。
時代の変わり目でも、感情的な反対派に回る。

種子島を知っていても、騎馬にこだわった武田軍のような人々だ。
頼りない種子島のような自然エネルギーは、使い物にならないとバカにして、討ち死にしても認めない。


トコトン

2011年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム

日本は、もう本当に、ダメじゃないかと思えてくる。

先日から、たまたま見かけたテレビで、
日本のことを好意的に、外からの目で見る人達が、異口同音に、
同じ事を言っていた。

ようするに、
日本の政治家の誰か一人に、頼れるような人はいない。
総理を誰にするかではなく、自分ならこうすると、知恵と行動を以て、積極的に参加すべきだ(政局の時ではない)

  国際人権団体日本代表/土井香苗
  国際政治学者/ジェラルド・カーティス
  米国務省前日本部長/ケビン・メア
  他にも経済評論家など、見かけた人、全てが言っていた・・・

それぞれ言葉は違うが、非常にイラだって、日本を憂いていた。

日本の外からの視点で見れば、(占いもアウトサイダー)
誰でも、「日本は何をやっているんだ!」という思いに駆られる。
この期に及んで、またも、総理おろしで騒いでいる。

原発責任にしても、誰が推進して、今の状況を造ってきたのか、
対応の問題以前に、もし、テロや北のミサイルに狙われていたら、対応もクソもない。原発を危険物のまま設置してきた張本人達が、扱いが悪いからと言えば責任を免れると思っている。

責任追及より、全てのことに早い対処であり、遅くなっているのは総理の責任以前に、足を引っ張る政局バカのせいだ。
そして、マスコミがそれを煽り立て、国民もそれに乗せられる。

この状況は、最悪だ、日本が目を覚まして立ち直れるとは思えない。
しかし、占いでは、上昇することになっている。
と言うことは、もっと大きなことがあるのか、
それとも、日本国が解体して、再生するのか、

確かなことは、今の政党や政治家、御用マスコミが消滅しない限り、救いは無いと言うことだ。
彼らに鉄槌を下せるのは、国民か、それとも、黒船なのか


天秤牡羊

2011年05月21日 | 星の流れに

土星が来た天秤座には、180゜の牡羊座に、木星・天王星がいて、最悪だ。木星のおかげで天秤=日本の評価は上がったり下がったり。
それでも、来月6月4日の虫歯予防デーには、木星が牡牛座に抜けるから、多少静かになるだろう。

ただし、土星はまだ、来年まで天秤座にいるし、天王星は数年居続けるから、木星が去ることによって、むしろ暗い現実が浮かび上がってくる。

天秤座と言えば、もちろん、日本、京都、などの場所のほか、平和、結婚、芸術、などの事柄にも関係する。

人で言えば、代表は菅総理だが、桜塚やっくん、浅田真央、ワタミ社長・・・そうそうたる不運の面々だ。ただ、不運続きの人や政治家には、むしろ不幸中の幸いになる。菅総理や石原都知事などがその例だが、大災害の影響で、近年、停滞していた結婚産業も活気づいているそうだ。(占い的には、結婚観が古風になるから)

一方、天王星が来ている牡羊座も、やはり不運だが、興奮している分だけ、表面的には良さそうな人もいる。
国は英仏独やEU。事柄は軍隊、戦争、建設業、火と鉄の商売だ。
人で言えば、田中好子、島田紳助、坂本冬美など・・・
(牡羊座でのロイヤルウエディングが、天秤座の結婚産業を活性化)

一方、天秤座と牡羊座の180゜関係が、幸いするのは、他の男性星座だ。双児、獅子、射手、水瓶の人で、大チャンスの時期。
逆に、不幸に見舞われるのは活動宮で、カニ座、山羊座は、周囲のとばっちりを食らう。

山羊座に冥王星がいることで、カニ座は悪い友達と付き合い、山羊座は自分が生まれ変わることになる。
カニ座の中国は、北朝鮮と縁が切れず、近頃はパキスタンとも親交を深めている。

一方、山羊座のインドは経済発展の一方、中国やパキスタンの不穏な動きで軍事強化に動き、十年後には存在理由が変わるだろうし、
イスラエルも周辺の環境変化で、生まれ変わることになるだろう。

ちなみに、冥王星が天秤座にいたのは、1970年代から80年代にかけてだったが、この間、日本は経済大国に変貌した。

中国は今回もアメリカで、「中国は自ら戦争を仕掛けることはない」と言っていたが、去年の態度や、このところの軍備強化を見れば誰も信じない。軍一党独裁体制を改めない限り、軍事面で、インドがアジアの盟主になる可能性が大きい。

日本にとっては、中国に軍事大国になられるより、よほど有り難いことだ。


浮世風呂

2011年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

礼儀作法
銭湯が好きで、スーパー銭湯によく行く。だだっ広い開放感がいい。
人間を観るのも、動物園の猿山のようで面白い。
もちろん、自分もサルの一員なのだが・・・

昔の銭湯の作法、というか常識は、タオルで前を隠すことだったが、近頃、前を隠している人をあまり見かけなくなった。
外人も良く来ているが、当然、隠していない。

しかし、地域や年代によっては、隠している人が多い時もある。
以前、80代の女の人が、近頃の子は前を隠さないと、呆れているのを聞いたことがある。女風呂も似たような状況らしい。

誰も隠していないような洗い場で、一人だけ恥ずかしそうに前を隠して歩いていると、かえってみっともない。前を押さえて歩けば、どうしてもへっぴり腰になり、おかまスタイルになるからだ。

しかし、何時から昔のしきたりが薄れ、前を隠さなくなったのだろう。
一つ考えられることは、内風呂が普及して、修学旅行のお風呂も入れないぐらい、公衆浴場に疎遠になった。

そこに、銭湯ブームや温泉ブームが起こって、外人と同じように、初体験として銭湯に入るから、礼儀として前を押さえるようなことは知らない。みんなも隠してないから、隠さないのが当たり前になる。
・・・そういうことかも知れない。
しかし、もう一つの別の理由だとしたら、もっと大きな問題だ。

知識は解放
前を隠す。つまり性器を隠す事が常識であった時代。日本人はむしろ、肌の露出に羞恥心がなかった。男はフンドシ、女は腰巻きでもろチチが普通で、誰もおかしいと思わなかった。ほとんど露出しているから、股間だけが、重要な局所として特別視された。

これは、気候の変化の影響もあり、時代によっては、全体を隠している時代もあれば、露出が普通の時代もあった。また、古代日本の支配層の服装から見れば、やはり、寒い国から来たと考えられるが、基本的には日本人は温帯、亜熱帯の海洋民俗であり、肌の露出が当たり前で、それにともなう性器フェチになったと思われる。

だから、みんなが裸で入る風呂も、大切な所は恥ずかしいから隠し、それが礼儀となった。まして、混浴が普通だっただけに、それは必要な礼儀だったのだろう。

こうした、こだわりは、因習の常識として身につく。
因習に囚われるのは、社会が閉鎖的で、価値観が固定化されているからだが、原始的であるほど、世界が狭く、集団の価値観を絶対と信じ、「恥」や「畏れ」から逃れられない。

しかし、他の集団から見れば、全くどうでも良い問題だ。
また、教養が高くなると、多様な視点を知ることになり、こだわりが薄くなる。その結果、情報の多い現代の日本人は、前を隠す事の必然性を感じなくなり、「威風堂々の風呂マナー」になったのだろう。

日本文化が評価されると、風呂文化にも関心が持たれるようになり、欧米人は文化体験として憧れるが、中国人は混浴だけを妄想する。
この差は結局、知識や情報の、量と接し方の違いであり、教養レベルの差が思考に現れる。

日本人も、半世紀前まで(今でも)異文化にさまざまな妄想をしたし、終戦直後、日本に来た米兵は、温泉に入って、
「パンフレット写真の、女の人がいない!」と、怒ったそうだ。

人心の砂状化
羞恥心や礼儀作法のような、価値観の変化は、知識、情報、教養のレベルが高くなるほど曖昧になり、こだわりが無くなる。
礼儀作法を形でうるさく言うことは、因習であり、真の礼儀は思いやりが優先し、形にはこだわらない。形は文化背景で違うからだ。

民俗や国家という、概念や立前は、知れば知るほど、曖昧で、かりそめのものであることが解ってくる。
一面だけの情報で、概念ができあがっていると、その概念を前提に、さまざまな論理が成り立ってしまう。

その結果、「反国家的」「売国奴」「非国民」「民俗の恥」などの脅迫の言葉がすんなり有効になり、タオルで前を隠すのと同じように、あたかも当然の義務のように、個人の行動を縛り付ける。

大阪府は、国歌起立条例を採択するそうだ。職員の義務の履行を目的にしたものだそうだが、それなら別な形の条例もあり得るので、結果的にはやはり、国家主義の強制になる。

ここで論じたいのは、国家主義ではない。むしろ、この条例のきっかけになった、国旗国歌に反対する職員の方の問題だ。
式典そのものに反対するのではなく、国家が国旗国歌を強制することに反対して、式典に協力しないことは、国家システムの学校その式典、さらにそこで働く自分自身を否定するものであり、矛盾する。

国旗国歌を強制する側も、否定する側も、国家という概念を前提にしている因習の人々だ。いずれも、心ではなく形にこだわっている。

こういう国家概念は、産業革命パラダイムの「因習」であり、今滅び去ろうとしているものだ。
古い国家概念が崩れ去ろうとすれば、当然、それを取り繕おうとする働きが起こり、一時的には盛んになる。

しかし、世界は動いていく。
今言われている、世界の人心の砂状化は、知識情報が行き渡る結果、個人が、何かに属する意識が希薄化していく現象であり、ウイキリークスやNGOなど、国家や民族に囚われた人々との、葛藤と代替わりに進んでいく。

銭湯で前を隠さない人を非難している年寄りがいなくなれば、
銭湯の風景もルールも変わるだろう。


大阪の役

2011年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

江戸幕府の参勤交代は、他にちょっと例を見ない、良い仕組みではないかと思う。

事実上の連邦国で各地の独自性を保ち、電話もない時代ながら、隅々まで相互に情報を行き渡らせ、産業の発展を促した。
しかも、各々の地域で、互いに認め合う気風があったようだ。

渡来文化の名残がある平安王朝以前は、中央集権で、中央が地方をおろそかにして搾取する事が当たり前だったが、
鎌倉、江戸の武家政権が、複式の国家、複層の国を造ったことで、日本は、均等に生活と文化が向上した。他国からの脅威が少ない、島国の幸運だろう。

島国の幸運とはいえ、一方で自然災害からは逃れられなかったが、隔絶した環境で、長い時間をかけて試行錯誤したおかげで、災害に向き合う姿勢を、民族性として身につけた。
災害は試練ではあるが、異民族支配よりは、付き合いやすい。

異民族とよそ者
世界には、日本と全く逆の環境が多い。
自然災害がなくても、常に異民族との葛藤の中で暮らしてきた人々は、日本人が災害を前にして、むしろ元気になるように、異民族を前にすると、むしろ元気になる。
異民族や異国に警戒するが、一方で、利用することを考える。異民族に溶け込むことに抵抗がない。

日本も、鎖国以前はずいぶん積極的に海外に出ていたようだが、江戸を通して、箱入り娘になってしまった。

日本人は、異民族には無警戒で、そのくせ、溶け込もうとはしない。
好奇心は強いが、相手に合わせて自分を変えることを嫌う。異民族と溶け込むためには、自分の生活も発想も変えなければならないが、江戸時代の鎖国と、狭い藩内暮らしで、「自分を変えないで異国を取り入れる」ことに慣れてしまった。

これも、一人っ子国家、日本の特徴だ。一人っ子は、自分を変えることが苦手だが、他人に興味を持ち、良いところは自分なりに取り入れようとする。人をおだてて利用することは苦手だが、人の良いところは認める。自分に適した物だけ真似て、コツコツ磨き上げ、邪魔が入ることを嫌う。

日本人が移民の受け入れを嫌い、積極的には出たがらないのは、生活や発想を変えても、自分が自分でいられる自信がないからだ。
なにしろ、1500年間、そういう生き方をしていない。

日本人は昔から、海外情報に関心が強く、海外旅行や国際交流には熱心だが、それは、向上心と好奇心のためだ。
しかし、自分を変えてまで「異民族」にどっぷり溶け込むことを恐れ、進んで入り込んでくる「よそ者」は、閉め出そうとする。

地球幕府
「だから日本人はダメなんだ」と言うのではない。むしろ、日本方式の方が、世界はうまくいくのではないかと思う。

今は、参勤交代の代わりに、情報ネットワークで、居ながらにしてローカルの活性化ができる。世界中が地元で世界の情報を共有し、アレコレ思っているだけで、物流もスムーズなら、侵略の必要はないし、互いの国を思いやり、協力し合うこともできる。

国境問題は、強い権限を持った幕府、国際司法機関が生まれれば解決するが、そのためには先ず、豊臣の五大老のような拒否権を持つ常任理事国を止める必要がある。

その第一ステップが、関ヶ原の合戦にあたる東西冷戦だが、中国の台頭は、大坂の役になる。
一党独裁の中国は、共産主義の国ではない。古代家父長主義の国だ。

豊臣家の血筋と、徳川連合政権(近代民主主義)の、大阪の役が起これば、日本はどの大名になるのだろう。


旬の復活

2011年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム

イチゴの消費量が減少しているそうだ。
これについて、今年の初め、経済記者がイチゴが高くて買えない家庭が増えたからであり、個人所得の減少が原因だとしていた。

そんな捉え方をするから、日本の農業は良くならない。
バブル期以来、特にひどくなったが、農業も工業化に流れ、
必要のための生産ではなく、金儲けのための生産になった。

工業生産優先で、カロリー自給率を無視した、おざなり農業政策で、農業も、石油に頼る工業式の、付加価値競争になった。
その結果、少しでも早く出荷しようとする悪循環で、初夏のはずのイチゴの季節が真冬になり、初夏がスイカの季節になった。

イチゴのなる頃青い空、麦わら帽子をかぶりましょ・・・
歌のように、季節と供に生き、季節に感動する生活サイクルが奪われた。
季節の食べ物は、身体に最も必要なものを与えてくれる。だから、旬の物が美味しいのだ。

冬にイチゴを食べたいわけじゃないし、食べたい初夏には店頭にない。
甘くしようが、大きくしようが、欲しくない季節には要らない。
これでは、消費量が減るのは当たり前だ。
本当に美味しいのは、空きっ腹の時だ。食べたい時が美味い時。

バブルを経て、何もかもが狂ってしまっていた。
しかし、電力不足が現実問題になった今、燃料は無駄には出来ない。
あの手この手の日本の高級果物も、風評放射能で外国に売れない。

もし、日本が本当に目を覚ますものならば、
付加価値農業も、心を入れ替えて欲しい。野菜も果物も、季節を告げるものであって欲しい。
曲がったキュウリも人形大根も、お店で見て笑いたい。

目に青葉山ホトトギス初鰹
春にはイチゴ、夏にはスイカ、秋には新米・・・
どれも、近頃、マイナーになった。

無駄な照明、冷房、暖房、エレベーター
徒然草は言う、「家の作りやうは、夏をむねとすべし」

エネルギーを使う家ではなく、自然に調和する家を考えるべきだ。
家相の良否も、人工エネルギーなど全く想定していない。
風水や家相を気にするなら、まず、自然光と風の家が大前提だ。


伝統の祭

2011年05月17日 | 京都&ケンミン文化

ようやく五月晴れになった。
京都三大祭りで、最も伝統のある葵祭も晴天に恵まれた。
頭に葵の葉をさす、古人の自然観をそのまま残す由緒ある祭りだ。
もっとも、葵の葉で飾るようになったのは江戸時代と言うことだから、おそらく、その時、古式を再現したものと思われる。

頭に木の枝を挿して、神と一体化する素朴な喜びは、
ヤマトタケルの歌にも残るほど、日本人の感性の原点であり、
先月の近江日吉大社の山王祭でも、桂の小枝を右耳に挿していた。
これも、江戸時代に再現したものかも知れない。

今年の葵祭を観に行った人から聞いた話だが、
河原町丸太町の交差点で、数人の見物客が、歩道の柵の外に出て歩道の縁石に腰掛けていた。
そこに交通整理の警官が、危ないから柵の中に入るように促し、皆、中に入ったが、一人だけ、カメラを持った30前後の女の人が座り続けていた。

警官は、何度も何度も丁寧に、入るように促すのだが、聞こえないようなふりをして、座り続けている。警官が危ないからとジェスチャー混じりで話しているところを見ると外国人らしい。

その問答を見ているうちに、柵の中の見物人達がイラだって、
「入れ」と言いだした。言葉が通じないから、英語混じりで怒鳴っている人もいる。
すると、今度は、その女の人が、文句を言っている見物人に向きなおって、怒鳴り始めた。

今にもつかみ合いになりかねない剣幕に、今度は警官が焦って、双方をなだめる・・・
そうこうしているうちに、肝心な行列は行ってしまったので、見物人達も、そのお姉さんもいなくなってしまった。

なんだろう、あれは?
と驚いていたが、先ず間違いなく中国人だろう。
日本通の中国人は、こういう中国人に対して、ものすごく恥ずかしく思うそうだが、それは、日本かぶれしているからだ。

一方、怒り出した人達は、日本人なら「ありえない」態度に、嫌悪感を抱いたのだろうが、これがカルチャーショックというものだ。
ただ、「郷にいれば郷に従い」のような言葉は世界中にあるから、この場合はいくぶん見物人に道理があることになるかも知れない。

しかし、何でも「イエスマン」と言われる日本人には、マネはできないまでも、こういう生き方もあることを知り、学んでも良いと思う。
自分が正しいと思うことは(間違っていたのだが)、相手が誰であろうと貫く。これは、世界で生きていく、一つの姿勢だ。
しかも、状況に応じて、コロリと態度を変える。そこが肝心なところだ。

日本人は、直情的な態度は取らないが、プライドや立前にこだわる。
そして、外交駆け引きにおいて、実利を失う。
中国人の雑で稚拙に見える態度が、大局的には外交の実利を得るのと正反対だ。

昨今の、中露韓の動きには、嫌悪感を持たずにはいられないが、個人でも国でも、相手の嫌なところというものは、得てして、自分には無い「能力」である場合が多い。


懲りない

2011年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

亡国前夜
NGOで国際活動をしている人が、TVで、日本の状況に、
「日本には、これでは足りなかったと言うことだろうか・・・」
と、思わず言いかけた。
全くそう思う。 「おいうち」「災い転じ

この状況で、積極協力せず、政局しか考えられない、政治屋やマスコミ。また、もしそれに同調する国民がいるのなら、この国は終わりだ。

日本の状況は、外から見れば、信じられないような混乱だ。
周辺の国は、これをチャンスと、あからさまに日本崩しを始めている。

最もひどいのは韓国で、ぐらぐらになっている日本の屋台骨を
「ここか、ここか」と、叩き回っている。
そのぐらつきぶりを見て、中ロがスキを窺っている。

欧米がビックリして、日本回避をしたのは解るが、事情を見極めて冷静になろうとしている。
しかし、情け容赦なくスキを突いてきているのは韓国であり、
火事場泥棒という言葉など、無い国なのだろう。

韓国が大声で、日本のミスをわめき立てるのを見て、
中国は、『そう言えば、そうだな』と思い。
ロシアは、『なんかいいことありそうだ』と思う。
中国は、放射能測定を口実に太平洋側の「調査」をすると宣言した。

韓国に悪意があってのことではないだろう。何でもかんでも反応する、中ロの噛ませ犬だ。
かつては、日本の噛ませ犬であり、アメリカにも飼われてきた。
キリストではないが、
「神よお許し下さい、彼らは自分が何をしているのか知らないのです」

しかし
今、日本は、併合前夜の韓国のようになろうとしている。
危機を前に、国論が割れれば、周辺国の餌食になるのだ。

今は、首相の足を引っ張っているような時ではない。
非常事態には、手続き論よりも、具体的に各々が何をするかだ。
「電話で言うような話か」などと言ってないで、むしろ積極的に入閣を働きかけてでも、協力し、実効性のある政策で、与党を食ってしまう方が、株も上がるというものだ。

政治を、選挙だけでしか考えられない、腐った政治屋根性。
与野党を問わず、こういう連中に同調してはいけないのだが、マスコミに煽られる多くの国民も、また、混乱に荷担することになる。

ほんとうに、
日本が目を覚ますには、東日本大震災では足りないと言うことなのだろうか。これを書きながら、泣きそうになった。

いまもし
「東海、東南海、南海」の大地震が起こって、地震ではなく、津波で死ぬ人があったとすれば、東日本の犠牲者と同列に、同情できるだろうか。
また、原発事故が起これば、世界は日本をどう思うだろうか。