魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

焼き直し

2018年04月19日 | 星の流れに

昔は、同じ内容で再制作されるリメイク映画は、フイルム現像から「焼き直し」と言った。模倣や、二番煎じの意味もある。

いよいよ、5月に天王星が牡牛座に入る。前回、牡牛座に入ったのは、1934年6月。昭和9年は、たまたま戌年で、甲戌三碧の年だった。三碧の年で、この年生まれの人は名声に縁があり、芸能界で活躍する人が多く、「昭和9年会」なるものがあるそうだ。
三碧の芸能人は他にも多いが、特に「昭和9年」が多かったのは、やはり牡牛座の天王星が影響したと考えられる。
牡牛座は物理的な美を表し、声や姿の心地よさを醸し出す。さらに、戌年は木星が天秤座かサソリ座にあるのだが、この時は天秤座で、精神的な美をも強調し、二刀流の「美」が芸術・芸能関係者を多く輩出したのだろう。実際、この年生まれの有名人をチェックすると、驚くばかりだ。(天王星は許容範囲が広いので、木星が中心)

それはともあれ、牡牛座のヒトラーは、まさに、30年代の天王星の生み出した、「時の人」だった。
今また(既に始まっているが)、良きにつけ悪しきにつけ、牡牛座が目立つようになる。同時に、木星がいるサソリ座も目立つ。1934年の場合は秋以降にサソリ座に入ったので、現在に似ているのは秋以降と言う事になる。面白いのは秋にベーブ・ルースらが来日して話題になり、今、大谷が渡米してベーブ・ルースが話題になっているが、二人ともこの星座ではない。
注目すべきは日米関係の方であり、ベーブらは軍事危機時の平和の模索で、満州国成立もこの年だ。今は、東洋の勃興国が中国に入れ替わったと考えれば一致するし、何より、満州も中国だった。北朝鮮とも近い。

牡牛座とサソリ座の影響と言えば、財務省のバタバタなども、それだろう。牡牛座は財政を表し、サソリ座は蓄財を表す。音声は牡牛座で、セックスはサソリ座だ。
牡牛座とサソリ座は表と裏に当たり、影響し合う。財務省にセクハラは致命傷になる。財務次官は音声だけで辞任になった。
また、サソリ座の表す原発に反対していた新潟の知事も、買春疑惑で辞任した。
サソリ座と牡牛座。沈黙のサソリ座を刺激すると牡牛座で声が出る。わかるね!


国家兄弟(6)終

2018年04月15日 | 兄弟関係

東アジアの国々の挙動を見ていると、兄弟のパターンが見えてくる。
国や地域、民族は複雑で、多様な人々によって構成されているにもかかわらず、まるで個人のような姿を見せる。

改めて言うまでもないが、
個々の人間は複雑ではあるが、同時に、単純な類型化にも当てはまる。動物である人間の行動は、しょせん限られているから、表面的な比較は簡単だ。速い人や遅い人、強い人や弱い人など、自ずと別れてくる。資質や環境で生まれる類型は誰も否定できないだろう。
同じ人間でありながら、個々の異なる行動の理由は様々だが、兄弟関係による影響にも、明らかなパターンが認められる。

民族や国民という膨大な人口も、一つの文化の塊としての行動には、やはり個性がある。自然環境や遺伝的特性もあるだろうが、長い歴史的なせめぎ合いの中で、兄弟の生い立ちのように、互いに影響してきたのだろう。
国家集団が、個人のような兄弟パターンを持つことを念頭に置けば、国を見て、兄弟の行動原理を知り、個人の兄弟関係を見て、国の出方を予測できる。

中国はなぜ横柄なのか、朝鮮はなぜ騒がしいのか、ロシアはなぜズル賢そうなのか、日本はなぜ変わっているのか・・・
国でも個人でも、互いに腹立たしい態度が、生い立ちの影響であると解れば、心情が理解できて、寛容になれるし、次にどう出るかも予想でき、思いがけない言動に驚くこともない。そして、どう接するべきかのヒントにもなる。

長子の横暴には、相手の意見を尊重しながら話せば、話しを聞いてもらえる。
中間児の猜疑心には、権威のある裏付けで安心させながら話せば、聞いてもらえる。
末っ子には、おだてと賛同で聞きながら、反論は毅然として言い切り、議論を避ける。
長子は自分の思い込みから、話のスジが通らないことを怒るが、裏切りはない。
長子は意外にも、誠実であれば異論を聞こうとするが、弟妹はとにかく「反論」そのものを嫌う。解ってもらおうと、事情や手の内を説明するのは逆効果。単純化した結論に納得するが、成り行き次第で裏切る・・・などなど、個人にも国にも当てはまる。

弟妹社会に浮く長子
今の中国の態度は、実は、一世紀前の日本に似ている。勝手な判断と「思い」だけで突っ走り、誰も説得する人がいないから、独善と思い上がりで腕力(軍)が暴走する。
弟妹で成り立つ世界は、力「関係」が重要な原理であって、一人っ子や長子のように、互いを尊重しながら話し合うことはない。出る杭は問答無用で押さえようとする。
誰も説得せず、力で押さえられると爆発するのが長子だ。
弟妹は、先ず力関係を見て、全体の空気を見て動くから、日本や中国のような、長子の独りよがりを説得する気は無い。力でものを言おうとする。

現代史の中で、長子の失敗経験を持つのは日本だけだ。ドイツの場合、親兄姉にあたる「神」の下での弟妹争いであり、敗戦すると、全てナチスのせいにしてスルリと他人事にしてしまった。過去を無かったことにできるのは、「関係性」で生きる弟妹の能力だ。
弟妹のいない長子、一人っ子の日本は自我が強く、過去も今も同じ自分だと考えるから、ドイツのように「関係を切り替える」だけの変わり身で、反省の儀式ができない。それが、いつまでも非を認めないように見られる。実は、最も過去に「懲りている」のは、日本人自身だ。

中国も、根底は日本と同じように自我が強く、無責任な変わり身ができない。ただ、政権が変わることで、新しくなったと考えて生きる。一見、ドイツの「ナチスのせい」に似ているが、中国の場合は、被害者が自分たち自身であり、誰かに見せるための反省ではないところに、政権を超えた自省がある。

力関係だけで行動を迫られる弟妹型の世界では、中国は、やがて日本のように爆発する。
中国に対し、「領土拡張のような帝国主義的経済活動より、グローバル経済の発展の中で、中国は充分しかるべき立場を得られるではないですか」と、中国を理解して説得できるのは、日本だけなのかも知れない。
ただ、残念なことは、現代の日本が、皮肉にも、弟妹原理の民主主義に従って生きていることだ。相手を徳に従って説得することはせず、ルールに従って付き合うべきと考えている。そして日本人は、ルールが人によって作られることを忘れがちになる。
(了)


国家兄弟(5)

2018年04月14日 | 兄弟関係

親兄姉を見て育つ弟妹は、下の子に接する兄姉のマネをしたいが、末っ子には弟妹がいない。そのため、小さな子を集めて大将になったり、ペットを飼いたがったりする。しかし、親兄姉の責任意識を理解していないから、責任のことは念頭にない。
他人の子供なら責任者の親がいるが、ペットは飼い主が責任者だ。子分のつもりで飼い始めたペットを、投げ出すことが少なくない。兄姉と一緒に暮らしている時は、大抵は親兄姉が面倒を見ることになるが、そのことには無自覚で、親兄姉が餌やりや散歩をしなかったと、怒り出すことさえある。
その点、猫は犬ほどの責任がなく、また、勝手気ままな様子が末っ子には共感ができ、付き合いやすく、猫好きが多い。犬の場合でも、散歩の手間も掛からない室内犬など小型洋犬が好まれる。

親兄姉に憧れる弟妹は大将になりたがり、大将のような言動を取るが、大将としての忍耐や寛容を知らない。(ちなみに、同い年の大統領、ブッシュは長子だが、トランプは弟妹)
喜怒哀楽が激しく、目下を作りたがり、大言壮語の割に、困れば兄姉に助けを求める。
長い間、中国の属国だった朝鮮は、国内問題が手に負えなくなるたびに、中国に援軍を頼んでいる。
また、弟妹のいない末っ子としての朝鮮は、近所の子の日本を格下と考えて、中国が朝鮮に対するように振る舞って、兄貴分であると思い込んできた。

一方、日本は、朝鮮も中国も大陸勢として客観的に見ていたので、朝鮮の文物は中国のお下がりであることを認識していたが、手近であったことで、頻繁に取り入れ、終いには、高句麗や百済など、丸ごと日本に流れ込んだ。一人っ子日本の生い立ちは色々な血が混ざり込んでいる。(古代アメリカ

中国と朝鮮の違い
長子中国は一人で悩んで大きくなった。その過程は、混乱、独善、横暴であり、それを見ていた弟妹の朝鮮は、そのように振る舞うことが一人前であることだと理解してきた。
そして、「エラそうにし、強引に出て、都合次第で愛想良くする」態度が身についた。
実際、中国の態度はその通りで、朝鮮は兄貴分の中国を超えて、さらにその「らしい態度」が徹底している。
しかし、末っ子は、長子の内面の葛藤を知らない。
何事にも手本のない長子は、常に用心深く、手探りで始めるから、徹底性に欠ける。弟妹の手前、自信ある態度に見えるが、おっかなびっくりで、マズイと思えば直ぐ手を引くし、常に折れそうになりながら進んでいる。

何か異変が起こった時、末っ子は直ぐ騒ぎ、とりあえず大声を出す。しかし、長子は一瞬沈黙する。事の成り行きを確認し、自分の原理と照らし合わせて方策を出す。中間児は、黙って辺りを見回す。
弟妹は、感触の良い方に流れるが、長子は自分の原則に従おうとし、融通の効かない行動を取る。末っ子が先ず大声を出したり、自分の状況を人に話したがるのは、他人の反応を知り、時には助けてもらいたいからだ。

長子中国は何かあると、しばらく、報道が出なくなる。末っ子朝鮮は、事実と関係なく、矛盾するような報道が連発される。中間児ロシアは、何事においても、自ら新情報を出すことがなく、黙って行動する。
一人っ子日本は、世界で起こることに付いていけず、常に、一歩先を行ったり、後手に回ったり、自分のペースでしか動けない。


国家兄弟(4)

2018年04月13日 | 兄弟関係

末っ子の視線
長子より後で生まれたら、とりあえず末っ子になる。中間児も元は末っ子だ。
末っ子に話しを聞くと、必ずと言っていいほど、かわいそうな生い立ちの話が出る。
新しいものは何一つ買ってもらえず、兄姉のお下がりばかり。兄姉には様々な物や環境が与えられるが、自分は放って置かれた。
兄姉よりも成功した人は、「だから、自分はガンバッた」と言い、そうでない人は、「だから、不利な自分は何をやっても上手く行かない」と言う。いずれも発想の原点は「被害者」だが、確かに、多産動物の末っ子(遅い孵化や発育不全)は、兄姉に取り残され命を落とすケースも多く、親にとっては事故死する子の補欠に過ぎない。

しかし、順次生んでいく人間は、むしろ強者として安定したゾウのような社会だ。先に生まれた兄姉が、親とともに弟妹を育て、兄姉には親のような責任意識が育つ。
社会が貧困な時代には、長子は、自らを犠牲にして弟妹を育てていた。
核家族化の今日でも、長子が生まれる頃は、親は生活苦に追われ、弟妹が生まれる頃にようやく安定する家庭も多い。
末っ子がいだく差別感は、実は、成長期の差に過ぎず、年相応の物が与えられる過程に、「何で自分にはもらえないのか」と、客観性のない「不足」感が、積もり積もったものだ。

無論、良くしてくれた長子に感謝し慕っている弟妹もいるし、常に手本となった長子を尊敬している弟妹も少なくない。
また、中には逆に、親に溺愛される末っ子もいる。そういう人からは愚痴は出ないが、かなり「虫が良い」人が多く、強者に対する取り入り方も身についているので、チャンスに恵まれ、案外、調子よく世渡りをする。
親が末っ子を溺愛するケースは、長子にしてやれなかったことを、末っ子に託すこともあるし、大人として対等になった上の子に比べ、「子供」として可愛がれるからでもある。
また、親自身の生い立ちの兄弟関係も影響する。長子だった親は「可愛げ」だけで子供を見ないが、弟妹だった親は、偉そうな態度の長子は煙たく「可愛げが無い」と感じる。虐待の背景にも、この点の調査が必要だろう。

末っ子の特長は、喜怒哀楽が激しい。他の兄姉と比べると、賑やかで愛想が良く、何事も「らしく」振る舞い、常に人を喜ばそうとする。幼い時には何かと言えば泣いているが、兄姉と比べ上手く話せない、弱者の言語と言える。
末っ子に限らず、弟妹は、瞬発的に反論する。長子は考えて言おうとするので、反応が鈍く言葉を発するのが遅い。ただ、弟妹の多い長子の場合は、弟妹の「反発力」に対抗するために、始めから、大声で決めつけた言い方をする人がいる。中間児の場合、日頃は沈黙勝ちだが、思いがけない「新説」を聞くと、突然、反論する。

弟妹の瞬発的な反応は、相手が言った瞬間、早口で「とりあえず」反論を言い切る。この場合、論理など関係ない。とにかく、意見の「槍」を防ぐ「盾」として異を唱える。親兄姉の圧力で立場を失い続けた、弟妹の自己防御だ。用心深い中間児は、反論を疑問文や例外提示にする。
この、とりあえずの反論に、長子は無視するか、強い断言で押し切るが、弟妹の防御反撃を体験したことのない一人っ子は、激しく戸惑う。
一人っ子は、思いがけない反論に、何とか解ってもらおうとするが、「新説」が中心の一人っ子の意見には、何処まで行っても反論が出てくるので、終いには爆発するか逃げ出す。

本来、恋愛における長子と弟妹は相性が良い。ピッチャーとバッターのような、互いを必要とする好敵手だ。
ところが、長子の原点である一人っ子は、弟妹から見ると、かねて知っている長子のように見えるが、駆け引きの妙を心得ないピッチングマシーンだ。いくら駆け引きをしようとしても態度を変えない。高度な要求をすれば、どんどんスピードを上げて、終いには壊れてしまう。弟妹のいる長子なら、限度を超えると適当なところで厳しい変化球を投げてくるから、対決の面白さがあるが、一人っ子を、どんなに刺激しても変化がなく、末っ子は、トコトン刺激した挙げ句に、飽きてしまう。元来、末っ子と一人っ子は、互いの立場を経験したことも見たこともない関係だ。
日本と朝鮮半島は、この末っ子と一人っ子の関係にあたる。


国家兄弟(3)

2018年04月12日 | 兄弟関係

弟妹の世界
世界は弟妹の原理で動いている。
長子は先ず自分で原則を探り、その原則に従って動いては失敗する。しかし、弟妹には原則が無い。良く言えば現実的、悪く言えば場当たりだ。
親兄姉の強権力に押さえられながら育った弟妹は、自分で原理原則を求めても、何の役にも立たないと知っている。どうしようもない大きな力の前では、自分が何を決めようとブチ壊されるからだ。

人類は自然の大きな力の前では無力であり、自然にどう対処し、どう利用して生きるかを考えてきた。これは、大きな力の下に生まれた弟妹の立場と同じであり、か弱い存在としてのあきらめから出発する。
人の歴史の中で、か弱い存在として泣きわめく人は、神に救いを求め、それでも何とかしようとする人は、状況をよく見極めようとする。それが学問だ。
信仰と学問とは真逆のように見えるが、どちらも弱者として、神を崇拝し見上げる視点から始まっている。学問の先にあるのは、自然あるいはその創造者たる神(普遍性)だ。

歴史的に長子だったような国には、実用主義的「知恵」は生まれたが、従うべき神も科学も生まれなかった。中国にもインドにもエジプトにも、人のような精霊はいても、絶対的な他者のルールである神への信仰は無く、一人っ子である日本にも絶対神はいない。
誰にも邪魔されない、怖い物知らずの長子は、弱者の立場から、ものを考える必要が無い。長子国とは成立時に、大きな敵がいなかった国だ。
一神教は、弱者である奴隷のユダヤ人から生まれ、弱体化したローマを感化し世界に広まった。科学もやはり、興亡を繰り返す中東から生まれ、一神教の国で成長した。世界は弟妹の弱者原理の方が馴染みやすいということだろう。

長子の目線
世界で、おそらく唯一、長子の生き残りである中国は、この弟妹型の世界を取り入れながらも、苦々しく思っている。中国の態度は、長子そのものだ。始めから他国を見下している。他国のどんな言動も幼稚だと思いたがる。相手の優れたところを見ると、子供なのに「大したものだ」という観点で評価する。
他国、他人から正しい指摘を受けても、「ちょっと自分が成功したら、上から目線でエラそうに」と受け止める。それが、中国人がすぐ、「中国人をバカにしている」と怒り出す背景だ。自分が上だと思っているから、立場が弱いと逆に、コンプレックスになる。

中国ですぐ出る、他国に「学ぶ」という発想は、「例え子供の言動であっても」、良いことは認め、教訓とすべきだ・・・の意味で、あくまで、「上から目線」を止められない。これが長子の悲しい性だ。弟妹と同じ立場、同じ目線に立って考えれば、背負うことのない苦労を背負い、自らに足枷を掛け、その結果、他者にストレスを与える。
南シナ海も台湾も、北朝鮮も尖閣も、全て自分でつくり出した中国自身の「足枷」だ。


国家兄弟(2)

2018年04月11日 | 兄弟関係

各国を兄弟関係に見立てるのは、兄弟関係のパターンで、優劣をつけるためではない。兄弟関係のような地勢関係から、逆に、個人の兄弟関係タイプを学ぶためだ。
だから、レベルの上下など全く関係ない。力や立場関係が生み出す、視点や認識、行動のパターンの普遍性を探るためのものだ。兄弟関係による優劣はない。それぞれの長短があるのみだ。

長子の孤独
歴史を振り返れば、大陸の長子が中国であることは揺るぎなく、政権が変わっても、個人の長子と極めて似た言動を取る。
長子は何事も、始めから「自分が中心」の大前提で考え、責任意識から、横暴と思い遣り、決断と反省を繰り返す。他者に従うことができず、間違いを指摘されても改められないが、代わりに、別の方法で、間違いは無かったことにする。こういう、「メンツ」を気にする行動は、「自分が中心でなければならない」という長子の強迫観念であり、それが、国民の上から下まで染みこんでいる。
日本でも江戸っ子が、中心意識から「てやんでい、江戸っ子でい」と言うように、何の根拠も無く、始めから中心だっただけの立場にすがり、そのプライドに固執するようなものだ。

「自分は良いが、お前はイカン」は、先に成長した者の特権意識であり、責任意識でもある。
独立独歩、手本のない成長をしてきたことで、自我や自省心は強く、試行錯誤による失敗は、表には出さないが冷静に反省する。また、どんなに困っても、他人に相談せず、報告さえもしない。苦労して学んだ自分の方法論だから、最善の方法と考え、弟妹にも押し付けようとする。「お前はイカン」は自分勝手だが、失敗は自分がするものだと信じる、弟妹への思い遣りでもある。(これも勝手なのだが)

中国は、どんなに困っている時も、決して他国に「お願い」できない。相手から言い出した援助は受けることができるので、誘い水は出す。
これに対し、末っ子の朝鮮半島は歴史上、幾度となく大国に助けを頼み、その結果、大国同士の戦争が勃発している。兄姉を見て、気持ちは人一倍自立していても、根底で他人頼みなのが末っ子であり、長子は、日頃は弟妹を制止しながらも、結局、それに巻き込まれることが多い。
無茶な亭主に苦労させられる女房の話は、大抵が、末っ子の亭主と長子の妻だ。

日本は、大陸から離れた一人っ子であり、中国兄さんに助けを求めたことはない。
むしろ、朝鮮半島がらみで、隣家の中国兄さんに何度も痛い目に遭っている。
一人っ子は弟妹関係の苦労は知らないが、独立独歩で試行錯誤をしながら生きてきた、長子の原点だ。
したがって、直接関わらなければ、中国とは長子同士の「間」を持つことができる。ただし、弟妹型の朝鮮やロシア、そしてアメリカのような、弟妹型のお節介で「愛想の良い」国を信じて接触していると、兄弟関係の葛藤に巻き込まれる。日本が今日まで絡まれる歴史問題は、何が切っ掛けだったのか、よくよく考えてみれば、弟妹に翻弄され、身の程をわきまえない錯覚をしたことにあったと気づくだろう。日清・日露戦争に負けなかったのは、あくまで、防衛の範囲だったからだ。


国家兄弟(1)

2018年04月10日 | 兄弟関係

地域、国家の兄弟関係について書いた時、関係国らしき人から、色々とご意見を頂いた。
朝鮮半島を東アジアの末っ子と見たら、日本が末っ子だろうと言われたので、日本は大陸一家から離れた一人っ子であることを追記した。
ちなみに、大陸兄弟の長子は中国、中間児はロシア、朝鮮半島は末っ子。

この時、日本が、兄弟関係において、朝鮮半島より上だと言ったつもりは全く無いが、コメントを入れた人は、気質の違いよりも、とにかく上下が気になったようだ。
何事においても、物事は多様であり、形の違いはあっても、上下は無いと考えている。

なお、東南アジアの国は、大陸とやや隔たりがあり、インド、太平洋の一家と考えた方が良さそうでもあり、良く解らないので、兄弟関係観察では除外するが、縄文以前の日本のルーツは、むしろ東南アジア・環太平洋の方が近いのかも知れない。

東アジアの中で、島国日本は歴史的に隔絶されてきた。縄文人の地に流れ込んできた大陸難民との融合で、独特の文化を育んできたが、少なくとも7世紀以後、大陸に蹂躙されることなく、独立国として歩んでくることができた。これは、島国の幸運だ。
この結果、日本文化は、大陸兄弟とは住まいを異にする、隣家の一人っ子となった。

一人っ子の特長は、
独りよがり。お人好し。付き合い下手。空気が読めない。怖い物知らず。自立自尊。好奇心の探求。夢とアイデアの宝庫。等々だが、まさにそういう民族性が育まれたようだ。
一人っ子は、人とはそれぞれ自分のことしか関心がないと思っている。だから、他人からあれこれ干渉されることが理解できず、誹謗中傷が最も苦手で、対処法など考えたこともない。イジメに対して、極めて脇が甘い。

しかし兄弟でもまれてきた人は、習性として競争を好み、人と争い、上下を決めようとする。中間児は黙って様子を見ているが、チャンスとみれば総取りを狙っている。
日本の大陸進出は、国家「関係」を知らない独りよがりからで、これが大失敗だった。
大陸に手を出したことで、兄弟関係の葛藤に巻き込まれ、今も悩まされている。兄弟は、もめることが日常で、むしろそれによって活力を得ているが、一人っ子には、もめ事は激しい消耗となる。攻撃が続くと、終いには、閉じこもるか爆発する。南蛮の風を恐れて鎖国し、列強の圧力には無謀な戦争を起こした。

一人っ子の生きる道
一人っ子が他人と付き合う場合、絶対に競争や争いは避けるべきだ。競争のセンスも概念も持ち合わせていない。                                          
他人の争いには、一切関係せず、自分の家に皆を招き、常に楽しいことだけ提供するように心掛けた方が得策だ。
島の領土問題のような争いの種は、所有権を叫ぶより、歴史的経緯をさりげなくしっかりと宣伝しておけば、サロンに集う人々が勝手に牽制し合ってくれる。ただし、ハリネズミ的自己防衛は前提だ。ハリネズミは、怖い針山を持ちながら可愛がられている。自己防衛は、するかしないかの二者択一だ。ハムスターやウサギ、中にはナマケモノのような生き方もある。

南シナ海問題にアメリカが関心を寄せるのも、ベトナムやフィリピンに頼まれたからではない。米中間のパワーバランス、自己目的からだ。
中国やロシアを相手に、どんなにがんばっても力で奪うことはできないが、もし、日本が世界中の人気者であれば、それぞれの大国が、日本と親しい顔をするため、家の外で勝手に牽制し合う。美人は自ら喧嘩して勝たなくても、周囲からプレゼント攻勢に合うものだ。


国家兄弟(序)

2018年04月09日 | 兄弟関係

かなり前になるが、国や地域を血液型や兄弟関係として考えてみた。これは、今でも通用と言うより、ますます確信するようになった。兄弟関係を理解する逆説的な方法として見て、面白い。

東アジアの「お名前」
ところで、東アジアの国々を呼ぶのは非常に厄介だ。
国の名は、世界的な呼称と、自国の呼称とは、一致しないことが多い。
自国の国号はその体制の自称だが、世界に伝統的に認知されている呼称は、その国が知られた時の国名に由来する。
昭和の人間にとっては、ロシアよりもソ連の方が自然だが、ソ連時代においてもソ連人とは呼ばず、ロシア人と呼んでいたし、英語ではずっとRUSSIAで、007の「ロシアより愛を込めて」など、何の違和感もなかった。今、再びロシアとなり、ホットしている。

中国のCHINAの由来は支那であり、当時は中国人が誇りを持って称していた名前なのに、今日の中国人は蔑称として嫌っている。これは、他者からの侮蔑を容認するものだ。
個人的には「倭人」と呼ばれようが「ジャップ」と呼ばれようが、一向気にならない。相手がどう思おうが、自分が変わるわけではないと思うのだが。
朝鮮半島のKOREAは高麗で、これは高麗人参など、今日でも使われているが、朝鮮も韓国もKOREAとはかけ離れた音だ。CHINAの場合は、清とも類似性があったが、中国とはやや遠い。
中韓ともに、CHINA、KOREAは全く異論無く受け入れながら、古い漢字呼称は使うなと言う。

現在、世界共通の呼称では、中国はチャイナ、朝鮮半島はコリアだ。
漢字文化の日本で略して書く時には、例えば、「米露中韓北」と書くが、英語をカタカナ表記すれば、「アロチココ」のようなことになり、とても分かりにくい。ことに、双方が自称を主張している朝鮮と韓国では、どちらを採用しても抗議される。
公平を期そうと思えば、KOREAか高麗しかないが、高麗が亡んで500年以上も朝鮮が続いた。実際、韓国では盛んに朝鮮通信使を取り上げるが、日本人の学者が朝鮮半島と言った途端、韓国の学者がすかさず、「韓半島」と訂正していた。一体、どう呼べば良いのか、難儀と言うほかない。

KOREAは、世界では略して、南北コリアと呼んでいるが、日本では朝鮮通信使時代以前からの伝統的呼称から南北朝鮮と呼んでいる。朝鮮は古朝鮮からある伝統名で、何ら問題ないと思うのだが、中国が支那を嫌うように、他者の視点を容認してしまっているから仕方がない。朝鮮を自称する北朝鮮は、ある意味立派だと思う。
土地の形状を見て日本列島同様に、半島と呼んでも良いと思うが、おそらく最も異論が無さそうなのはKOREAの「高麗」だろう。「南北統一旗」などと言わずに「高麗統一旗」と
呼べば良さそうなものだが、そこにもそれなりの難しさがあるのだろう。

そんなこんなで、CHINAのことは中国、KOREAのことは半島ないしは朝鮮と呼び、南北限定の場合、韓国、北朝鮮と呼ぶことにしている。
もう、とにかくややこしくて、できれば一切呼びたくないが、それでは話ができない


カッコウ

2018年04月08日 | 星の流れに

南シナ海問題で、国際機関の指摘を「紙くずだ」と言い切った中国が、トランプの貿易圧力には、WTOときた。
「中国にはトランプだ」。警察をなめている暴力団には、警察権力は役に立たないと、暴力団抗争が始まった。

国際ルールの盲点を突き、フェアな貿易世界を汚して儲ける中国のやり方に対し、これまで世界は無力だった。技術供与や国策強要に、例え危険と解っていても、喜んで餌に食いつき、釣られる国や企業ばかりだった。そして、この傍若無人の中国組に、老舗のアメリカ組がマッタを掛けた。周辺住民は流れ弾を恐れている。

冥王星は山羊座の21度。いよいよ中国も「曲がり角」にさしかかかった。
21世紀にかけてアメリカの絶頂が過ぎ、今また、中国の絶頂が過ぎつつある。
資本主義は火事のようなものだ。生産・消費を繰り返すうちに近隣に延焼し燃え尽きる。名前ばかりの共産党も、延焼した資本主義原理を燃やせば、遅かれ早かれ燃え尽きる。
共産党政権の資本主義が、あたかも大成功のように見えるのは、世界が欲に眩んだこともあるが、金持ち先進国のお花畑の夢が、中国共産党の正体を見誤っていたからでもある。

国際社会は英知の結晶だと思ったら大間違いだ。むしろ愚の結晶に近い。大局的観点もなければ、詳細な分析、冷徹な判断もない。大国の思惑や、偶然に近い人間関係のコネで成り立つ国際機関、それらが表面的な情報による感情的反応で動いている。
日本の立場だけでも首をかしげたくなる、反捕鯨や、女性の権利、慰安婦問題、など、日本のことをほぼ何も解らずに、いきなり決めつけてくる。是非以前の問題だ。

歴史的な大失敗は、イスラエルの承認であり、それが今日まで、世界を悩ませている。ユダヤ人に対するホロコーストへの同情から、感情的に決められた侵略の承認だ。
そうしておきながら、トランプのエルサレム承認には異議を唱える。
強盗に銃を持たせて、引き金は引くなと言っているようなものだ。

衆愚の国際社会が、大きく育てた第二のイスラエルは中国だ。カッコウは他の鳥の卵に混ぜて自分の子の卵を育てさせる。托卵の被害に遭った親鳥は、自分の卵を全て失っても、大きくなったカッコウの子を育てている。
おそらく、欺されている親鳥は、子を育てる良い事をしている思いだけで、現実を見ないのだろう。
是非や目的はともかく、トランプはその巣を壊そうとするカラスであり、親鳥は当然抵抗するが、果たして何が良いことなのだろうか。

戦前、ナチス全盛時代の米国映画、「ニノチカ」の中で、共産党員がナチスを仲間と間違える下りがある。経済復興、言論統制、軍事拡大・・・現在の中国は、当事者がどう言おうと、ナチス政権、あるいは選挙制度も無い、それ以上の独裁国家であり、軍国主義に向かっている。世界が、きれい事の夢を見ている時、中国は何を夢見ているのだろう。


男女の事

2018年04月06日 | 日記・エッセイ・コラム

土俵上で倒れた舞鶴市長の救命に駆けつけた医療関係者の女性に、土俵から降りるようにアナウンスがあり、物議を醸している。
その最中、今度は、宝塚市長が女性だからと拒否され、土俵下で挨拶をし、「女性である前に人間だ」「悔しい」と訴えた。
神事と一体化しているとする相撲を国技とすることの是非も、もう一度考えて見る問題だが、その前に、「なんかおかしい」気がする。

ジェンダー問題は、性差を排除することが目的であるはずなのに、ともすれば、男女の性差の「転換」と混同しているような人達がいる。男性・女性の個性を尊重することと、職能に性を持ち込む必要とは関係ない。むしろ戒めるべきではないのか。
職能に「女」を付けることを排除する為に、看護婦を看護師と呼び、保母を保育士と呼ぶようにしているのではないのか。

「女医」さんと、何やら意味ありげな呼び方をしていたのは、昔の差別意識からだが、今でも同じように呼ぶことが多い。同様に、女性市長と報道が呼び、市長自身も「自分は人間だ」の次元を論じた。
職能は物理的違いのある人間次元ではなく、基本は、役割・能力の権化としてあるのではないのか。

土俵に上がるのは、男性市長でも、女性市長でもなく、「市長」であり、将来そういうことになれば、AIロボット市長が上がっても良いのだ。愛ちゃんにも是非、市長になってもらいたい。
舞鶴市長の救命に駆けつけたのは、「女性」ではなく、職能そのものなのだ。
女性だから、男性だからと論ずるのは、男性の立場からも止めてもらいたい。

ついでに、もう一つ、女性専用列車に反対はしないが、同時に必ず、男性専用列車も繋いでもらいたい。