No.968
世の中には、多くの疑惑の事件や、疑惑の歴史がある。
ある人は白だと言い、ある人は黒だと言う。
こんな論争が続くのは、誰かに利害がある場合だ。
あるいは、自分を正当化するために、確かめようのないデータを、自分の都合の良いように並べ替える場合だ。
こういう論争に関わる必要はない。関わっては危ない。
物事の条理より、「利害」という問答無用で力ずくの闘争が根底にあるからだ。結局は力が強い方が勝つので、条理を正すことは永久にない。「力が強い」とは、しつこさや、嘘のうまさも含む。
どんな話しでも、わざわざ複雑にし、訳のわからない話しにする人は、初めから自分の利益を企んでいる。条理を正すための細分化ではなく、ただ複雑にするために、様々な別次元のデータを並べたてる。
これは、対等に認め合う関係ではなく、何が何でも相手を押さえつけ、自分が上になろうとする、魂胆のある煙幕だ。
「我」の飛び交うネット上は、やむを得ないかも知れないが、マスコミという社会機能は、飯の種として意図的にそれを行う。
それに煽られ、自分が確かめたわけでもないのに、渦中の人を非難したり、ああだこうだと叫ぶ人は、まやかし教祖の奴隷になっている。
事実、真実、真相、真理・・・それぞれ別の意味を持ち、別の働きをするものだが、それを、すり替えた論理にごまかされ、納得して、軽挙妄動してしまう。
つじつまの合う、もっともらしい話が、最も危ない。
「本当のところ」を説明するには、膨大な資料と整理が必要であり、簡単に説明が付くはずがないからだ。
「本当のところ」とは、説明が付かなくても、漠然と存在する単純な真実だ。
だれでも、様々な経験を積んで、ある種の自然の原理を体得している。目を閉じて静かに考えれば、自分の中にある原理に気づく。
それに照らして考えれば単純に解ることなのに、目の前の現象に惑わされ、巧みな言葉に翻弄され、動揺し、興奮して、叫びを上げて走り出す。
人の言葉も、目の前で起こる現象も、それが真実を伝えるものではない。まずは自分に内在する原理に照らし合わせてみる。
それは漠然とした基準だから、当然、判断も漠然としたものだ。
言葉に出して、他人に伝えられるようなものではないかも知れない。
だが、それで良いのだ。まずは自分が、惑わされないことが大切だ。
「本当のところ」が、どの程度のものであったか。噂やマスコミはおろか、小説も映画も銅像もジオラマも、はては一次資料と称するものも、自分の原理で判断する、対象でしかない。
個人が体得した、素朴な自然の摂理で考える素朴な姿こそが、原点から考える原点思考だ。