魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

原点思考(3)

2010年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

No.968

世の中には、多くの疑惑の事件や、疑惑の歴史がある。
ある人は白だと言い、ある人は黒だと言う。

こんな論争が続くのは、誰かに利害がある場合だ。
あるいは、自分を正当化するために、確かめようのないデータを、自分の都合の良いように並べ替える場合だ。

こういう論争に関わる必要はない。関わっては危ない。
物事の条理より、「利害」という問答無用で力ずくの闘争が根底にあるからだ。結局は力が強い方が勝つので、条理を正すことは永久にない。「力が強い」とは、しつこさや、嘘のうまさも含む。

どんな話しでも、わざわざ複雑にし、訳のわからない話しにする人は、初めから自分の利益を企んでいる。条理を正すための細分化ではなく、ただ複雑にするために、様々な別次元のデータを並べたてる。
これは、対等に認め合う関係ではなく、何が何でも相手を押さえつけ、自分が上になろうとする、魂胆のある煙幕だ。

「我」の飛び交うネット上は、やむを得ないかも知れないが、マスコミという社会機能は、飯の種として意図的にそれを行う。
それに煽られ、自分が確かめたわけでもないのに、渦中の人を非難したり、ああだこうだと叫ぶ人は、まやかし教祖の奴隷になっている。

事実、真実、真相、真理・・・それぞれ別の意味を持ち、別の働きをするものだが、それを、すり替えた論理にごまかされ、納得して、軽挙妄動してしまう。

つじつまの合う、もっともらしい話が、最も危ない。
「本当のところ」を説明するには、膨大な資料と整理が必要であり、簡単に説明が付くはずがないからだ。

「本当のところ」とは、説明が付かなくても、漠然と存在する単純な真実だ。
だれでも、様々な経験を積んで、ある種の自然の原理を体得している。目を閉じて静かに考えれば、自分の中にある原理に気づく。
それに照らして考えれば単純に解ることなのに、目の前の現象に惑わされ、巧みな言葉に翻弄され、動揺し、興奮して、叫びを上げて走り出す。

人の言葉も、目の前で起こる現象も、それが真実を伝えるものではない。まずは自分に内在する原理に照らし合わせてみる。
それは漠然とした基準だから、当然、判断も漠然としたものだ。
言葉に出して、他人に伝えられるようなものではないかも知れない。
だが、それで良いのだ。まずは自分が、惑わされないことが大切だ。

「本当のところ」が、どの程度のものであったか。噂やマスコミはおろか、小説も映画も銅像もジオラマも、はては一次資料と称するものも、自分の原理で判断する、対象でしかない。
個人が体得した、素朴な自然の摂理で考える素朴な姿こそが、原点から考える原点思考だ。


原点思考(2)

2010年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

No.967

何事も、信じる信じないの前に、その実体を考えてみる。
人でも、社会のルールでもそうだ。

「偉い人」と恐れ入る前に、そもそもその人の何が偉いのか。何でその人はそういうことになったのか。その動機は何だったのか。そして、その人自身は、現在、その自分をどう考えているのか。

また、「偉い」とはどういうことか。偉いとか偉くないとかの指標となる、社会の価値観やルールはどこから出てきたものなのか。そしてそれは、本当に認めるべき価値あるルールと言えるのか。

そのルールと、価値観に対して、当の本人はどう考えているのか。

そうしたことを検討してみた上で、その人が本当に尊敬できる人かどうか、それとも、形だけ立てておく人なのか、自分で決める。

偉い人なのだからと、やたら恐れ入るような人は、時に、「裏切りの心」を抱えている人だ。
あくまで自分の生き残りだけが目的で、相手の人格など見ていない。本当に尊敬できる人とはどういう人か・・・など、考えない。

例えば、「お前、00さんになんていう態度を取るんだ」などと言う人は、00さんを理解し尊敬しているわけではない。社会的状況に従っているだけで、外面だけの人だ。(そういう社会や国もある)
内心は『何時か、オレもそうなってやる』ぐらいにしか思っていない。そして、自分がそういう立場になると威張り散らす。

何に追いつめられているのか
受験、就職、結婚、子供、病気・・・人生は苦労だらけだ。
しかし、元々、こういうことは何なのか。
今求めているものは、どうしても得なければならないものか。
また、今思い描いている姿でなければならないものなのか。

原始時代から、今日まで、人間はほとんど変わっていない。
人間の作り出してきた、社会文化が変わっているだけだ。社会文化や、その理想は常に変わっていく。

悩みの理由は、人間の本質のことか、社会文化からくるものか考えてみる必要がある。
文化に基づくものであれば、絶対に無ければならないものではない。
時代や考え方、自分の生き方が変われば何の問題もない。
生死など、人間の基本で、誰でも避けられないものであれば、悩んでみても仕方がない。生老病死は誰も逃れられない通過点だ。

受験や就職に必死になって、願いかなわず落ち込んでいる人は、人間が生きていくために、本当に、道はそれしかないのだろうか。他人に選ばれなくても、自分が切り開く道はないのだろうか。
結婚したいとか、しなければならないと思っている人は、何のためか、誰のためか、先ずハッキリさせる必要がある。
その上で、最重要項目から満たしていくべきだ。
もしかしたら、何の必要もないかも知れないのだ。


原点思考(1)

2010年07月17日 | 占いばなし

No.966

占いのように、学問的な体系が無いか、あるいは散逸してしまっている学術は、これといった方法論がない。
バラバラの文献や、信憑性の薄い書物の端々から、核心を捉えようとすれば、あらゆる先入観を捨てて、ゼロから考えなければならない。

すべての情報に対して、「いったい元の姿は何だったのか?」と考えてみる。

例えば、姓名判断の画数とは何かと考えると、漢字の源である甲骨文字や篆書まで遡れば、現在の漢字の画数とは関係ない。
それどころか、旧字体、新字体だけでも画数が異なる。
したがって、画数は、文字の意味や音の霊力?とは関係ない。
梵字の種子字のように、仏や菩薩を象徴するようなものでもない。

では、実際に画数が持つ神秘力とは、何の影響力のことか。
無理に考えれば、おそらく、漢字を書く「行為」の大小や調和などが自他に及ぼす心理的な影響・・・のようなことだろうか。

一方、漢字圏の東洋の占いとして生まれてきたことを考えれば、他の占いと同様に、陰陽五行説の「数理」が基なのかもしれない。
数そのものが陰陽五行に割り振られている「干支術」を考慮すれば、画数と六十干支との関係、ということも考えられる。

しかし元来、陰陽五行の成り立ち自体が、日月星辰から暦をつくり、自然に従って生活や社会の秩序を整えようとしたものだ。
つまり、自然観察から導き出した法則を、数理化し、その数理そのものが、森羅万象を動かす原理であると考えている。

したがって、あらゆるものが、数理に支配されていると考えるから、姓名を書く行為、画数を数理的に分類し、そこから逆に、実像ととらえ、名前の持つ資質と傾向と見なす・・・そういう理屈だろうか。

ところが、ここに二つの問題が起こる。
先ず、本当に、名前は実体と一体化した、同じものと言えるのか。
次に、そもそも、どういう流れ(運命)の中で命名されたのか。

つまり、名前そのものの分類ができたとしても、名前という衣服と本人は、どこまで一体化しているものなのか、また、名前そのものにしても、元々、星占いのような自然観察から始まっているものであれば、初めから星占いで、考える方が、有効ではないのか。

そんな風に考えれば、画数による姓名判断が無意味とは言えないが、星占いなどの、本人をとらえる占いの方が、より、優先的と言うことにはならないか・・・

様々なタイプの、占いの内容と成り立ちを、素朴な視点から考え、相互の関係を考慮して、有効性や影響力を考え、常に疑問符を残したままで用いる。それにより、迷信や思い込みを減らし、過ちを減らし可能性を高めることができる・・・かも知れない。

占いの本にそう書いてある、だけでは、信じるわけにはいかないのだ。


ガソリン(1)

2010年07月16日 | 自動車人間学

No.965

中村俊輔が引退するという。天才と言われながら、檜舞台のワールドカップでは、どうにも不運としか言いようがない。
2002年にはトルシエに外され、2006年は一勝もなく敗退。今回の南ア大会はほとんど出番無し。つまり、俊輔がいない大会の方が成績が良かった。

サッカーの素人には何がどうなっているのかよく解らないが、占い的には想像が可能だ。
今回の南ア大会の流れの中で、2002年トルシエが俊輔を外した理由がよく解ったような気がした。

ガソリン中村俊輔は紛れもなく天才と言えるだろう。
しかし、フランスのチーム崩壊を始め、今大会ほど、チームの結束力の重要性を解らせてくれた大会も少ない。団体競技は頭抜けた一人より、バランスの良い結束がものを言う。

では、俊輔はチームワークを乱すのかと言えば、そうではない。
むしろ、チームの雰囲気にピッタリ波長を合わせるはずだ。チームが燃えれば自分も燃え、チームが上手ければ自分も上手くなる。

子供の純真さと可能性を表すガソリンは、状況次第で変化する。
学者の子供は賢そうで、商売人の子供は口達者なように、能力のある人に囲まれて尊重されていれば、実力以上の働きをする。
しかし、重要なことは、リーダーではないということだ。

どんなに賢そうな子供も、大人の鏡として賢そうなのであり、賢い子供の言葉を、大人がヒントにして活かせば価値があるが、子供をリーダにしては、組織はつぶれる。
(歴史上、人気選挙でガソリンを選び、破綻した集団は多い)

サッカーの場合。実力がありながら、低迷しているようなチームに、助っ人として加われば、起爆剤として能力を発揮する。
不幸続きで沈んでいる村に賢い子供が現れれば、みんな元気になる。
失われた10年の後現れた、ガソリン小泉純一郎のようなものだ。

しかし、やる気満々でポジション争いをしているような集団に、子供が加われば、どんな賢い子供もじゃまになる。
一方で、その集団のレベルが低ければ、そのレベル以上には活躍できない。

トルシエが俊輔を外したのは、才能がありながらも、集団の力を引き上げるタイプではない俊輔が、むしろ凡庸な集団にはじゃまになると見たのだろう。みなが俊輔を立てていたのでは共倒れになる。

今回の、南ア大会で、岡田ジャパンは、俊輔を軸に組んで結果を出せず、本戦でいきなり俊輔を外した戦法に切り替えて大成功をした。
何処まで、偶然か意図的かは語るべき問題ではないと思うが、始めから俊輔を冷遇していたわけではない。

中村俊輔の不運は、サッカーが個人競技ではなかったと言うことだ。

ガソリン(2)


日本の絆

2010年07月15日 | 日記・エッセイ・コラム

No.964

若い女の子が二人、腕を組んで歩いていた。
一人が一方的に絡めていたが、信号を渡り始めると、今度は、絡められていた方が、手を引っ張って走り始めた。

今の子でもこういうことをするんだ。と、何か妙な感慨があった。
昔、「男女七歳にして席を同じゅうせず」の頃は、男女が別れて行動していたから、男女とも同性同士のスキンシップが多かった。

女同士が腕を組む一方、男同士は、何かと言えば肩を組んでいた。
もちろん今でも、酔っぱらって、男同士で肩を組んでいる人を見かける。しかし、昔ほど、男同士が肩を組む光景が見られなくなった。

昭和15年の西条八十作詞「誰か故郷を思わざる」にも・・・

花摘む野辺に日は落ちて
みんなで肩を組みながら
唄を歌った帰り道
幼馴染のあの友この友
ああ誰か故郷を想わざる

・・・と、歌われているが、もちろん男同士のことだ。
出典を思い出せないが、外国人が日本人について書いた本にも、男同士が頻繁に肩を組む、と、特殊なことのように書いていた。

よくわからないが、確かに外国では、ラグビーのスクラムのような、目的のある機能以外では、あまり肩を組む光景を見ないような気がする。

肩を組むことによる一体感は、日本人の場合、特に強く影響する。
汗と熱を避けたい南方系の文化のせいだと思うが、日常的にキスや抱擁のスキンシップが薄い。それだけに、日本人は身体が触れあい、互いの力や体温を感じることに、強いインパクトを感じるようだ。
逆に北方系は、抱擁やほおずりをしながら、平気で暗殺する。

日本式のスポーツとなった「野球」では、頻繁に円陣を組むが、サッカーでは少なかったそうで、今回は念入りに円陣を組んだことがチームワークの要になったということだった。

サムライブルーが復活した鍵は、チーム一丸になったことだった。
日本の特質は、良くも悪くも一体感だ。近年の日本の衰退は、一体感の喪失にある。今更、年功序列や終身雇用は復活できないとしても、企業、学校、地域、それぞれの集団でチーム固めの道はあるはずだ。

おそらく、肩を組むようなスキンシップとして、様々な「だらしない」付き合いが必要なのだと思う。ともに、飲み食いをしたり、集団同志が競争をする祭りのような・・・「同じ釜の飯を食う」付き合いが

チーム


エンジン

2010年07月14日 | 自動車人間学

No.963

参院選で民主党が惨敗した。
占い的には当然なのだが、そう言ってしまっては面白くない。

あまりの負け方に、有権者の方が面食らっている様だ。
状況を、占い的に少し考えてみたい。
消費税だけで負けたということになっているが、そんな単純なことではないと思う。小沢鳩山前体制との協合惨敗だろう。

「自動車人間」と「星座・九星」
●鳩山=ボディー    八白
●小沢=シャーシ    四緑
▲菅 =エンジン    九紫
▲枝野=ハンドル    九紫

先ず面白いのは、全員、風の星座だ。(風まかせ
火と風の星座は、男性星座で理想主義。革新的で軽い。
ことに、風の星座は知の星座で、存在感と性的魅力に欠ける。

性的魅力に欠けると言えば語弊があるが、マリリンモンローも双子座だ。それに、小沢一郎が存在感に欠けると言えば、そんなことはないと言われるだろう。
これは、小沢の存在感もモンローのセクシーも、知的意図的に作り出されたものであることの逆証明と言える。

性について深刻に考える人は、性を売り物にはできない。
しかし、知的教養レベルの高い人ほど、価値観の多様性を理解し、性にもアッケラカンと開放的になる。

社会的にも文化レベルと性の解放は比例する。知識と言論が解放された社会は多様な価値を認めるから、因習に囚われない性文化を許容する。性以上に多様なものへの関心が生まれるからで、性欲が強くなるわけではない。むしろその逆だ。ネット社会と少子化も比例する。(ネット化が進めば少子化が進む)

風の星座は知的合理性で生きているから、セックスや肉体的パワーに特別な意味を感じない。だから、因習めいたセックスや力の支配に対して「扱うもの」ぐらいにしか思っていない。
それが、作為的なモンローのセックスアピールや、小沢の権力支配を、成功させている。

民主党政権が風の星座であると言うことは、頭でっかちで実利に疎いことを表す。知的で合理的な考えでは優れていても、有権者を感心納得させる信頼感が生まれない。

とにかく合理的なので、何もしない安心感より、次々と行動(話)して不安感を生んでしまう。

考えに忠実(合理的)に行動するという点で、
シャーシの小沢は、とにかく選挙のためには手段を選ばず、バラマキやタレント候補、複数区の候補二人擁立など、単純、強引を実行した。
ボディーの鳩山は、良い子ぶりたい一心で、「国外、県外」と言い過ぎた。

エンジンの菅は、「対処」一辺倒で、財政悪化には消費税とばかり、結論から話を始め、出てくる反撃に、対処、対処とシャベりまくり、選挙戦を火だるまにしてしまった。

エンジンは、出てくる現象に直ちに対処しようとするから、言論攻撃に反撃しまくって、矢折れ弾尽きて憤死する。すぐ謝るのも一つの対処で、素直さは評価されるものの、信頼性は薄くなる。

エンジンは、言葉や態度で評価されるのは苦手で、行動が持ち味だから、黙っていればいいのに、言弾(ことだま)にすぐ応戦して、巻き込まれてしまうのが弱点だ。

豊臣秀吉は次々現れる逆境難問を、智恵とひらめき、行動と人たらしで乗り越えて行ったが、演説や選挙や支持率というものがあったら、太閤には成れなかっただろう。


放任主義

2010年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム

No.962

子供を見るのは面白い。様々な経験の中で、自分なりに色々と考えながら成長している。

キックスケーターで横断歩道を渡った10歳ぐらいの男の子が、しょっていたナップサックを前に掛け直した。
キックする姿勢と動きの関係で、じゃまになったのだろう。
前に掛ければ、安定してぶら下がった状態になり、走りやすいと考えたようだ。

誰に教えられたわけでもなく、走りながら考えたのだろう。
その姿で、坂道を上っていった。

他愛のない風景だが、放っておけば、子供は必要に応じて工夫する。
日頃から、ああしなさいこうしなさいと言われていれば、例え思いついても、言われたことと違うことをするには、多少、勇気が要る。
また、大方の子供は、親や先生に言われたことを良く守る。

日本の教育は、左利きの矯正、漢字の書き順、箸の持ち方、鉛筆の持ち方・・・スポーツでは、フォームや姿勢の矯正・・・に拘る。
それはそれで、美しい日本、美しい日本人をつくっているのかも知れないが、自分で工夫する、創造的発想、独創的行動や決断が死んでしまう。言われたことしかできなくなる。

他人への評価も、少しでも変わった人間は、アウンの呼吸で集団排斥する。子供の時から、細かなことまで指示されて育った人間は、少しでも、規格外れな人間を見ると我慢できない。
そうして、互いに監視し合う社会が、閉塞感の悪循環を生んでいる。

終戦直後、敗戦による価値観の崩壊から流行ったのが「放任主義」教育だった。その教育を受けて育った団塊世代が、現在の若者の無秩序の元凶と信じられているが、果たしてそうだろうか。

今の若者に、問題があるとすれば、(単純にそうは思わないが)むしろ、偏差値教育や悪平等教育が問題ではないのだろうか。画一教育と自由個人主義の矛盾が、現在の若者を育んだのではなかろうか。

世代は3年でも変わるから、一括りにはできないが、
団塊世代が若者に、口をそろえて言うのは、
「なんで、やってみようとしないんだ」


タコ占い

2010年07月12日 | 占いばなし

No.961

とうとう、タコのパウル君のサッカー占いが、100%的中した。
世界中が、タコに注目して、負けた国では、タコを食べてしまえと怒りが沸騰した。

こうなると、占いブログとしては、やはり、一言コメントしておかなければならないだろう。

勝ち負けを的中させたのはパウル君ではない。
水族館の係員だ。サッカーの勝敗をパウル君に占わせようと思いつくぐらいだから、この係員はサッカーもパウル君も大好きに違いない。

係員はパウル君の性質を熟知しており、どうすれば、どこのふたを開けるか知っている。そして、サッカーの本場だから当然、サッカーも熟知している。

だったら、彼自身が予想すれば良さそうなものだが、それが、そういうものではない。
もし彼が予想したら、むしろ、100%外れていただろう。

ここが、占いというものの妙味なのだ。

先ず、彼の性格を考えてみよう、水族館でタコに愛情を注ぐような、優しく控えめで、少し変わった性格だろう。
サッカーに熱い国で、うかつに勝敗を口にするだけで、総攻撃をくらう。ましてや、自国の負けなど口にするだけでも危険なのに、本当に負けたら、タコ並みに八つ当たりされ、命も危ない。

占う者は、常に依頼者に都合の良い答えを求められ、どう転んでも良い結果は待っていない。
和気清麻呂は称徳天皇(孝謙)の命で、宇佐八幡のお告げを聞きに行き、気に入らない答えを持ち帰っただけで、ひどい目にあった。

そこで、昔から、自分が言うのではないという姿勢で話す。巫女の神懸かりであったり、筮竹であったり、タロットであったり・・・
実際、予知力があるような人は、とても世間にのさばるようなパワーがない、影の薄い人間だ。だからこそ、違うパワーに共鳴する。

サッカー好きなタコの係員はおそらく、どちらが勝つか予知していただろうが、自分の口を通して言えるようなことではない。それどころか、彼自身、とてもそんな能力が自分にあるとは思ってない。

で、「タコに占わせてみます」と、タコを介して、自分の潜在意識を代行させる。もちろん、自分が操作している意識はない。
誰に遠慮もない判断なのだ。

もし、このことを見抜き、彼に直接言わせようとすれば、元々、気の優しい人間だから、周囲を気遣って言うことが変わってくる。その結果、ほとんど、当たらなくなる。

占いの妙味とは、人間世界の生存競争の外にある事実を、人間ではない次元で感知することだ。
係員とタコと偶然性。この三者が一体になって、一つの答えが出る。

八本足のタコが、八試合を当てて「パー」フェクト
「サッカーって何ですか?」タコ


生活グッズ

2010年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム

No.960

昨日は、久しぶりに晴れたと思ったら、今日は土砂降りだ。
一週間、傘マークが並んでいる。

近頃は、天気予報をほぼ100%信用している。天気予報が外れる方が驚く。
「え、天気予報では晴れだって言ってたのに!」と、怒る人までいる。
子供の頃は、
「あ、降ってきた。天気予報の言った通りだ!」と、驚く大人の会話を、よく聞いた。

設備やデータ量が増えたこともあるが、パーセンテージ予報も、信頼性を高めているような気がする。断言ではなく、個々の裁量で聞くようになったことから、許容範囲が広がり、結果に納得できるようになったのだろう。

近頃は、金を出せば、ピンポイント予報まで解るようになったが、個人的には予報時計を信頼している。
気圧計がついた時計で、「晴れ」に向かう、「雨」に向かうと教えてくれる。かなりの的中率だ。

気圧計を観ていても良いのだが、狂いを調節するのが面倒で、相対的に表示してくれる方が解りやすい。
20年ほど前に買った、エンペックス社の時計は、気圧の推移のグラフを表示して、天気の傾向を絵表示してくれる。

街におじさんが立っている。曇りに向かうと、雲が現れ、降りそうになるとおじさんは傘を持ち雲に雨が降り出す。雨になると当然、差している。
晴れに向かうとおじさんは犬を散歩させ、晴れだと、さらに太陽が照っている。

おじさんがどうしているか、観るのが楽しみなのだが、古いので、電波時計ではない。また、月の満ち欠け表示はありがたいのだが、湿度計もついていない。

新しい電波時計で、この手の時計を探すのだが、液晶の絵柄表記に太陽と雲は出ても、おじさんや犬が出てこないので、つまらない。気圧変化のグラフも出ない。

電波時計で温度・湿度のついた物は多いが、気圧がついた物は少ない。
また、時計についている湿度計ほどアテにならない物はない。
大抵は誤差を+-10%にしているので、幾つか時計を並べると、20%以上の開きがある。結局、高低の目安程度にしか使えない。

装飾品の時計には興味ないが、日常生活を楽しくしてくれる実用時計は、もっと高機能の物があっても良いと思う。
デザインをまかせてもらえるなら、色々アイデアはあるのだが。

Photo


映画教材

2010年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム

No.959

イギリス誌で「7人の侍」が、「史上最高世界映画100」の1位にあげられた。
そこで、何十年かぶりに観てみた。やっぱり、面白い。
ただ、残念なのは、DVDの、音声だけでもリマスターしておいて欲しかった。蔵出しのフィルムをそのまま見せられているようで、苦しかった。

映像も、かなり苦しかったが、昔の映画館を思い出して、それはそれで良かった。

面白いことに、白黒映画の記憶は、白黒で記憶されていない。
白黒映画だったことは憶えているが、ほぼ、色彩を理解していた。
昭和12年生まれの女の人が、若い頃に観た鶴田浩二の「ハワイの夜」の印象を「きれいやったわー」と言っていたが、後で調べると、白黒だった。

1953年当時、既にカラー映画はあったが、日本映画の多くは白黒だった。「7人の侍」も、「ゴジラ」も、1954年の白黒だ。
白黒映画を観ていた時代の人間の頭の中は、想像力が生きていた。
今、3Dでなくても十分、空間を想像できるが、3Dが一般化すれば、人の想像力はさらに、劣化するのだろうか。

近頃の、若い人はマニアをのぞけば、白黒映画を耐えて観ていることが、相当、辛いようだ。始めから観ない人が多い。洋画の字幕も読めなくなっているそうだ。

が、それでも、白黒時代の日本の名作は、日本人の教養として(いまや娯楽ではない)、何としてでも観ておいて欲しい。
何とか、学校の授業として、強制的にでも観せておくべきだろう。
既に行われているのなら良いのだが、どうなのだろう。

小説はなかなか2時間で完読はできないが、映画は人生ドラマが2時間で観られる。人間性理解の上で、道徳などを語って聞かせるより、よほど効果的だ。

白黒映画でもやむなく観だせば、面白い。昔の映画が良いのは、目先の刺激だけで見せようとするのではなく、じっくりと時間を掛けて解らせようとすることだ。何とか、名作だけでも見やすいデジタルリマスターをして欲しい。教材としても。
しかし、マンガなら、白黒でもかまわないのだから。むしろ、観方の工夫が必要なのかも知れない。


3D時代

2010年07月09日 | 日記・エッセイ・コラム

No.958

立体写真という物に初めてであったのは、小学雑誌の付録に、赤青のメガネが付いていて、雑誌の赤青の写真印刷を見るものだった。
紙も印刷も悪く、何を見ているのかよく解らない代物だった。

中学生の付録はもっと高度だった。紙ボックスを組み立てて、二個のレンズを通して見る「覗き箱」で、二面の立体写真や図が付いていた。
完璧な立体に驚いたが、写真の数が少なかった。

同じ頃、観光地の土産物屋で、同じレンズ方式の立体写真セットを発見し、中学生には高かったが、写真が多いので買って帰った。
風景観光写真だが、どういうワケか、ほとんど、風景の前にヌードのお姉さんがポーズをとっている。

思いがけない「掘り出し物」に、中学生は大興奮
店頭では、とにかく立体写真であることに興奮して、焦って買ったので、ここまでの「宝の山」とは気づかなかった。(本当で~す

じっくりヌード・・・いや、立体写真を見ていると、立体写真のすごさの意味が解かってきた。
ただの白黒写真にはないリアリティーだ。山や木立の遠近感が分かり、風景のスケール感が実感できる。もちろん、お姉さんのスケールも。

そして、ついに発見したのだ
大自然の前で、片ヒザを抱えたお姉さんのくつろぎポーズから、チョロッと一本、はみ出ているものを。

直接見ると見えない。しかし、立体ボックスをのぞき込むと確実に存在する。この不思議。
何度も何度も、片目だけで見たり、裸眼で見たりするのだが見えない。
なのに、立体になると認識できるのだ。ちなみに、当時の視力は2.0以上あった。

それ以来、立体写真のおもしろさに取り憑かれ、実際に自分でも立体写真を写してみたりした。一台のカメラでやるので、動く物は撮れなかったが、そこそこの成果を収めた。

最近、アバターなど、また、3Dが盛んだ。
日本のテレビ製造業界は、液晶で奪われたシェアを取り返そうと3Dに期待をかけているが、はたして、思惑通りに行くだろうか。

何よりも、3Dにどれほどの、一般的な商品価値があるか疑問だ。
3Dそのものは、無いよりある方が良いが、問題はメガネを掛けなければならない技術的初期段階に「付加価値」があるか?だ。

もっと大きな問題は、「物作り技術」だけで勝ち抜けると思う、日本企業の前世紀的な、技術主導のビジネスセンスだ。
変わった物(体験)を見せれば、世の中の人が飛びつくような時代ではない。大量生産の産革パラダイムは、飽和状態なのだ。

「生活スタイルの新提案」こそが商品なのであって、メガネを掛けるような「生活後退」を、消費者が受け入れると思っている時点で、初めから負けている。世界は、物好きな中学生ばかりではないのだ。


毎日毎日

2010年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム

No.957

♪毎日毎日ボクらは鉄板の~
世界経済、国際競争、情報戦争・・・
グローバル化が進むほど、地球の現実から、誰一人逃れられなくなっている。

中国を利用しているつもりだった、西側経済先進国が、中国の逆襲に誰も対処できない。

低価格でゴミの回収作業を引き受けてくれる回収屋に、お任せで依存しているうちに、回収屋の方が金持ちになり、しかも、出口を握る回収屋のルールに従わなければ、生産も生活もできない。
ゴミの処理方法にも抗議できない。

中国は公海に文句はないはずだと、軍艦・潜水艦を連ねて、沖縄を堂々と横断しながら、黄海の公海上に米空母が入ってくることに、異常に敏感になっている。
明らかに、ご都合主義の覇権意識だ。

中国では、中国軍は共産党軍であると、最近改めて確認していた。
それ故に起こった、東西冷戦。中国経済が開放されても、共産党軍が国家の中核である以上、第二の冷戦への道は避けられない。

時は今、昭和初期。不況が引き金で、世界中で権益争いが起こった。
冷戦(トルーマン・ドクトリン)からは62年目だ。

これ以上、ゴミ回収を中国に依存してはいけないはずだが、世界中が中国の消費に期待している。オバマ政権も、中国に進出する企業の援助をすると言う。

一方で、中国は儲けた金を、本体である共産党軍の軍事力に集中させている。果たして、中国が欲しい物はミルクやオムツだろうか。


七月七日

2010年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

No.956

笹の葉サーラサラ
七夕は旧暦なら晴れる頃だが、新暦になってから、たいてい雨にたたられている。

たたられると言えば、悪いことが起こるように思うが、
実は、元来の意味は、神が現れて何かをすることで、良いこともしてくれたらしい。むしろ、良いことの方が多かったようだ。
悪い意味になったのは、人間自身が悪いことをして、神さんを怒らせるようになったからだろう。

「たたる」と言うのは、神がそばに「立たれる」と言う意味らしい。

世界乱戦時代
これからも、外惑星のグランドクロスが続く。
サッカーは、欧州の衰退と騒いでいたが、結局、欧州対決だ。
参院選挙は12政党が届け出ているそうだから、12星座選挙だ。
TVでは、九党首の顔写真を並べて、方位盤の家族あわせみたいだ。何がなにやらワケのわからない論戦をしている。

民主党が投げかけた消費税がもっぱら基軸で、扇風機のようにまわっている。菅内閣の支持率が一気に落ちたのも、民主党の軸から、八方の羽根に支持が分散したから当然だ。ますます争点が解らない。
暑いはずなのに、 ふ~ 涼しい、涼しい

相撲産革パラダイム250年の一つの形だが、天王星84年周期でみると、NHKが放送を始めて、82年目にして初めて中継を取りやめるそうだ。公共放送と相撲興行にとっても、一つの節目、再スタートの時と言える。

◇世界が平和でありますように・・・と、書いておこう


博打精神(3)

2010年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

No.955

肉食獣から、ハイエナ、コンドル、山犬にまで、
博打打ちどもの「くいもの」にされている草食動物、ニッポン。

「立ち上がれ」と言っても、もう、手も足も食いちぎられている。
今や、最後の時が迫っている。
生き物は、最後の時には、分散して生き延びる。

世界に飛び出し、遺伝子を残せるものは残せ
逃れられない本体は、死んだふりで、変身せよ

新鎖国主義
鎖国じゃあ、鎖国じゃあ・・・
(隣の生徒にのぞかせるな)

生産販売は外国で、日本DNAは列島の奥深く、埋めて秘めるべし。
表向きは美しい観光ニッポン、国際会議、国際観光の中心地。
内では、研究開発、芸術文化の醸成・・・
スイスやフランスが、美しい表情の内側で、黙々としっかり技術開発をしてきたように、老成先進国としての、高機能コンパクト化だ。

美しい観光ニッポンと、農業立国とは両立する。自給率100%以上。
奥深く醸成される、日本のコアな成果は、海外で活躍する日系グローバル企業の核心技術として使う。
学術研究の場の充実はアメリカ方式を見習う。

肉食博打打ちのグローバル世界で、生き延びるには
肉食獣にも草食獣にもならないことだ。
いち早く、第三の生物に進化する。恐竜から鳥になる。

物を作って売るのではなく、金融で稼ぐのでもなく、

知の発信国、美の発信国、社交の場になろう。
世界中から人を呼んで、価値観のカオスを目指す。

物作りから、いかに早く脱出するかが、日本の生き残りに掛かっている。


博打精神(2)

2010年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

No.954

狩猟・遊牧民族の博打精神=泥棒精神とは、肉食獣の生き方だ。
草食動物が植物を化学変化させて成長した身体を、そのまま、横取りする。

草食動物は、常時食べ続ける。歩き続け、噛み続け、長い腸にためておく。要領は要らない。黙々と真面目にしか生きられない。
肉食獣は毎日食べる必要はない。その代わりチャンスは逃さない。草食獣が太るのを待って餌食にする。

狩猟民は肉食獣そのままだが、遊牧民は、さらに効率よく太らせる技術を持っている。
食べるためにうまく飼育する、それが植民地主義だ。

ところが、逃げた家畜が野生化した種族というのがある。
山に行くと、オオカミより怖いのが山犬の群れだ。人間に飼われていただけに、人間の怖さと弱点を熟知している。だから、狼のようにひたすら避けるわけではない。隙あらば襲いかかろうと狙っている。

人で言えば、強大国の周辺で、征服されたり解放されたりを繰り返してきた民族だ。そういう歴史の中で生き延びた民族性は、家畜のような顔をしていたかと思うと、突如、山犬になって襲いかかってくる。

中国は、この征服と被征服を繰り返してきた。その結果、あらゆる種類の動物が一つの囲いの中で、家畜として大人しく暮らしているかと思えば、柵が朽ちれば大混乱になる。

日本は、逃げた山羊が大繁殖した小笠原のような島だ。
次々と逃げてくる集団が、小競り合いの後、また、昔から仲間のような顔をして暮らしている、主のいない良質の牧場だった。

ところが、山犬にとっては、これほど入りやすい島はない。
「僕は無害な牧羊犬ですよ~♪」
そんなこ顔をして、島に上がり込んでくると、突然、牙をむき始めた。
2000年前に起こったことだが、今では、すっかり入り交じって、犬も山羊も解らない。お互いを食べる対象とは思わない極楽島になった。

こんな美味しい島はないから、19世紀、肉食獣が奪い合った。おかげで、かえって救われた。

肉食獣到来の黒船以降、一致団結して、肉食獣のマネをしてみたが、やっぱり、コツコツ地道な草食暮らしが一番だと思うようになった。
コツコツ草をはんで、みな丸々太った頃。突然、待っていた肉食獣に襲いかかられた。
プラザ合意→円高バブル→バブル崩壊→失われた20年

極楽島の山羊は、根こそぎ肉食獣の餌食になり、横で虎視眈々狙っていたハイエナ山犬までもが襲いかかり、ボロボロになりかけている。