魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

放送効果

2016年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

土曜日、NHKの終戦ドラマ池畑俊策脚本の「百合子さんの絵本」を放送した。以前、握りつぶされた小野寺武官の情報のドキュメントを観たが、そのドラマ化だった。観念でする戦争は、今の中国軍部の動きに全く当てはまる。
放送の翌日、都知事選で、「百合子さん」が都知事になった。

小池百合子当選はこのドラマとは関係ないが、面白い一致だ。小池百合子になるのは、始めから見えていたことで、ここでも、アメリカ大統領選ではないが、「マシなもの」の選択になった。政治の腐敗と言うより、既存の政治システムへの不信が世界中を覆っている。

世界の大転換の最中、どこに転換すれば良いのか、誰にも解らない。ただ、既存のものへの不満しか表せない。
こういう、五里霧中の時代には、人は大声に付いていく、誰かに大声を上げてもらいたいのだが、1世紀前がそうだったように、今頃聞こえてくる大声は、大抵、ろくな声ではない。


猫ウナギ

2016年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム

今年もまた土用の丑の日が来た。
ウナギの枯渇で、近畿大学が「ウナギ味のナマズ」を出し、話題になっている。
これは、このブログで何度も言ってきたことだが、ナマズは結構イケることに専門家が気づいたようだ。
しかし、何も「ウナギ味」にしなくても、ナマズはそれ自体美味い。それに、ウナギと違い、簡単に養殖できる。アメリカでは専門業者や名産地がある。(キャットフィッシュ)

ところが、ニュースで知った人が話しているのを聞くと、
「うえー!」「とんでもない、ウナギを食べない位ならナマズなんか、絶対いらん」
など、明らかに先入観で、食わず嫌いの会話をしていた。

食習慣というものは、文字通り習慣で、最も保守的なものだ。食は生死に関わるものだから、保守的になるのは当然だが、逆に、知らなければ何でも食べるものでもある。
毒でも薬だと信じれば好んで食べるし、ウンコだと言われれば、味噌を食べる人はいない。
グルメだと言われれば、自分の舌より講釈を信じる。蜂が体内に蓄えて吐きだした蜂蜜を集めて好んで食べても、蜂の子や蜂の天ぷらには抵抗がある。今、食糧難に備えて、昆虫食が提唱されているが、大抵の人は、積極的に食べる気にはなれない。

「絶対ナマズなんか食べへん!」と言っていた人も、回転寿司では、聞いたことの無い地球の裏側の魚を食べてるだろうし、食糧難になれば、ナマズを喜んで、涙を流して食べるだろう。

所詮、食わず嫌いとはその程度のものだから、中途半端に「ウナギ味」などと言わない方が良い。この試みと名前が既に、ナマズの価値を貶めている。
堂々と、大都会のど真ん中に、トレンディーな店構えで、日本初上陸「もっちりフィッシュ・バーガー」などと銘打って売り出せば、きっとバカウケする。
ウナギ病


うっかり

2016年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

栃木県で、父親が二歳の子供を保育園に送るのを忘れ、炎天下の車に放置し死亡させてしまった。
何よりも死んだ子供がかわいそうだが、親もかわいそうだ。
「子供を忘れるなんて無責任な」と、非難されるだろうが、これは起こりうることだ。
父親はすっかり忘れて、そのまま仕事をしていたらしい。
日頃と違うパターンの行動を取る時など、特に起こりうる。
有名な話しでは、長嶋茂雄が、連れてきた子供を忘れて帰った話しがある。

実は、自分自身、10歳ぐらいの頃、母親の仕事に付いて行き、河原で遊んでいたのだが、大変な交渉をようやく終えた母は、一目散で帰宅し、帰ってから子供を忘れてきたことに気がついた。後々、この時の交渉が如何に大変だったかの、武勇伝のおまけとして何度も聞かされたが、自分としては、暗くなってお腹が空いても母が迎えに来ないので、怒ったことをかすかに憶えている程度だ。

長島でなくても、仕事に没頭していると、子供のことを忘れる。母親でさえ忘れるのだから、長島のように、毎日連れてくるわけでもない子供のことは、仕事に没頭していれば忘れる。
栃木の父親が、毎日子供を送っていたのか、たまたま連れて行ったのかは解らないが、仕事のことで頭がいっぱいだったのだろう。
世の中にはパチンコをするために、意図的に子供を車内に放置する親もいる。そんな親と比べれば、明らかに過失だ。自分の子供を車庫入れなどで轢いてしまった親と、同じように、同情を禁じ得ない。


虚々実々

2016年07月27日 | 星の流れに

障害者に対する大量殺人事件。色々思うところはあるが、心情は抜きにして、星と社会現象だけ考えてみたい。
このところ世界中で起こっている、動機のよく解らない殺人事件は、テロや戦争と捉えられているし、ISも便乗して「我が戦士の戦果」と吹聴している。
また、アメリカでは、人種差別問題や銃器規制問題として捉えられている。

確かにいずれも、直接の犯行理由はそういう問題かも知れないが、これは世界中が悪いガスに包まれていて、それに堪えきれず、反応した人間が起こした現象と考えた方が解りやすい。つまり、様相は違っても原因は一つだ。だから、世界的に同時多発している。

このところの事件を見ていると、大量殺人は、銃が無くてもできることが印象づけられた。銃や、大型車、包丁、何でもありだ。実は中国でのダム放流も同じ現象に当たる。
また、今回の相模原もそうだが、犯行の動機が、偏狭で宗教的な思い込みというところが共通しており、一見、理路整然と犯行に及んでいる。

理路整然としていることが、如何に非現実的かということを理解できないのは、ネット社会、デジタル社会で育った人間ではやむを得ないことだが、そうでなくても、受験勉強も思考一元化訓練だ。
こうした環境で育つことで、一端、一つのプログラム回路に入ると、他の不要なデータを無視するようになる。特に、集中力のある若者は、色々な可能性や視点があることを、敢えて見なくなる。
ネット上の炎上にしても、「まあ、そうは言っても・・・」という、ゆとりや寛容を全く受け付けない。ゆとりや寛容は、合理性とは相反するものだからだ。

一連の大量殺人は、犯人自身が狂気であることを念頭に置かなければ、原因も対策も考えられない。つまり、なぜ狂気に至ったのかが重要で、事件の衝撃に興奮するより、狂気と正気の意味、人間とは何か、社会とは何かが問われている。まさに、変容宮クロスによる虚々実々の時代だ。
夢の産物


忠告する

2016年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

中国は、国際仲裁裁判所の裁定に対し、裁判官の指名を日本人が行ったから日本の陰謀だと言い、5人中4人まで西洋人だと言い、公平ではないと叫んだ。
国内の中国人には説得力のある言い分だ。情実による人治で成り立っている中国では、こんな論理がもっともだと思える。

しかも、これは中国だけではなく、中華文明の影響を受けた東アジア全域に及んでいる。アメリカの商人がそれを見て、アジアとの付き合い方をしてきたのがロッキード事件だ。今、どれほど日本が、浄化されたかは知らない。しかし、アジアの体質、アジアの常識が今も健在であることを、中国は身を以て実行している。
今回の南シナ海裁判の火消しに、中国は膨大な実弾(軍事演習と現金)でASEANに圧力を掛け、成功した。そして、勝ち誇ったように日本の外相に対し、余計なことを言わないように「忠告する」と言い放った。

しかし、実弾は、その場を収めるには効果があるが、長い目で見れば逆効果だ。
また、内庭の日本を叩くのは簡単でも、アジアはアジア人の手でと、中国中心のアジア秩序を叫び、欧州人の裁判官だから従わないなどと言っていたのでは、早晩、欧米から遠ざけられる。もう、その気配が漂い始めている。
中国の金に目が眩んだ欧州も、中国が左前になれば、金の切れ目が縁の切れ目と四散するだろう。

何よりも、盗賊集団である中国共産党の幹部自身が、人民から盗むだけ盗んで国外逃亡を図ろうと、着々と準備をしている。
中国人の心情は2000年経っても変わらない。あれだけ支持を得た項羽も、人心を失えば、一気に追い詰められ、終いには八つ裂きにされた。それを最もよく知っているのは、古代に憧れる共産党幹部だ。

大統領選で忙しいアメリカだが、そろそろ中国との経済戦争の準備を始めたようだ。
中国叩きをするトランプが、あれだけ支持されれば、誰が大統領になろうと、中国を見逃す訳にはいかなくなる。それに、もし中国共産党幹部が、財産を持ち逃げするのなら、移民大国は喜んで受け入れる。中国ツブしと、中国マネーの一挙両得だ。

中国と対立する安倍政権も、結局、誰が得をするのか、よくよく見極めないと、関ヶ原の大谷勢や宇喜多勢になってしまうかも知れない。


あちおく

2016年07月25日 | 京都&ケンミン文化

京都に「東奥」という姓があって、「あちおく」と読むそうだ。どういうルーツだろうかと検索したら、青森県に結構ある。「そうか、青森か」と思ったら、「とうおう」だった。
青森に東奥があるのは当たり前で、「あちおく」とは関係なさそうだ。

丹波に、東奥(あちおく)という地名があるから、どうもここと関係ありそうだ。
しかし、ここの電話帳には「東奥」さんは無い。東奥さんは全国でも100人もいないらしいが、ここに出自があっても、もう全員、出てしまったのかも知れない。

その経緯は分からないが、この地名の読み方は不思議だ。何かを基点にして東の奥のことだろうが、東を「あち」と読むのはなぜだろう。この謎に詳しい専門家もいるのかも知れないが、その専門家を知らないから、勝手に妄想してみる。

東を意味する日本の言葉には、「ひがし」、「あずま」、「あがり」、「ひで」、「もと」、「こち」など色々あるが、一様に、日が昇り明るくなる方向を表している。「ひがし」も日に向かうの意味から出ている。

しかし、この中で、「こち」だけは性質が違っている。
「東風(こち)ふかばにほひをこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ」のように、東風のことを「こち」と言うのは、もしかしたら「あち」と関係あるのかも知れない。

「あずま」は日本武尊が妻を偲んで「吾妻はや」と言ったのが語源だとされているが、実はこれは後付けの説明で、もともと、東のことを「あがる」や「あける」のような意味の音で呼んでいたのではなかろうか。例えば出ると明けるを併せた「あずる」のような言葉があったのかも知れない。沖縄では今も東を「あがり」と言う。

超古代は、東を「あずま」、「あがり」のような意味の「あ」音で表現していたのではなかろうか。「アジア」の語源も東を意味する。
もし、東を「あち」と意識していたとすれば、そこから吹いてくる風を「こち」と呼んだのかも知れない。
普通、東風と言えば東から吹いてくる風と決まっているが、裏を返せば西に吹いていく風でもある。
彼方(あち)らから吹いてくる風よりも、此方(こち)らに吹いてくる風と考える方が皮膚感で考えれば先に思いつく。コチに吹いてくる風とはアチから来る東風のこと。

この場合、最大の問題は、彼方(あち)の「あ」が、東を表す「あ」と、どう一体化しているのかということだが、遠くを表す「あち」らは、指さして表現しなければならないほど、注目を喚起する表現だ。驚いた時に出る声も「あ」だ。
朝、太陽が昇り目が覚める。朝の「あ」、明るいの「あ」、開けるの「あ」・・・みな驚きを持って眺めることを「あ」で表現する。
根源的な意識を表現する音として、東も彼方も「あち」だったのかも知れない。


王道邪道

2016年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、ポケモンのロゴを確かめようと公式サイトを見たら、当然のことながら『』で『Pokémon GO』『ポケモンGO』と表記してあった。
本や映画のタイトルは『』で囲むことは知ってはいるが、自分ではあまり使わない。

『』は、実際に言葉が音になる「」に対し、音の出ない言葉のイメージがあるため、内心、脳内、心の言葉のような場合に限定したいからだ。
確かに、タイトルも人間が発する音ではないから、『』で囲むのが理に適っているかも知れないが、「ポケモンで遊んだ」と言う場合、実際の会話には「」も『』も無い。音が出るか出ないかの違いしか無いのだから、タイトルも、音で発生されて始めて世に現れる。

どうも、ややこしい話になったが、要は、タイトルを『』で表現すれば、柴犬にリボンを付けたようで、存在感が薄くなるような気がするのだ。
だから、日頃は「」で表現しているが、必要に応じて””や<>、[]を使う。

ただ、『ポケモGO』の場合、公式サイトで『』を使っていれば、それは『』とセットでタイトルだから、そのまま使うしかない。そう考えて、世間の常識にも合致する『』で表記した。

しかし、言葉も文章も、文法に従って話すのは文化的ではないと思う。
一つには、言葉は生き物であり、人によって声色が違うように、人や集団による個性が付け加えられることで、生きた文化を支えている。
例えば、外国人が話す日本語が、どことなく不自然なのは、アクセントの問題だけではない。文法通り型どおりの言葉だからだ。

実際のネイティブが話す母国語は変化に富んでいる。文法はその生きた言葉を解析し、法則性を見つけたものだから生きた言葉ではない。だから、文法通りに話せば、むしろ窮屈で不自然になる。言葉を含め、人間の行動は機械のようなものではない。
カラオケでも、上手い人が歌えば高得点が出ず、どう聞いてもへたくそな歌に100点が出る。

言葉も、少し不自然な遊びがあってこそ楽しめるものだ。聞く側もその遊びの幅を推量しながら、対話するから思考が広がり、そこに文化が生まれる。
20代の頃、酔っ払った50代の雑誌の編集者が、こっちが話す言葉が納得できず、「おかしい?、おかしい?」と言い続けていた。
言葉の定義に関して、「大体そういう意味」と言うところを、「その界隈」と言ったのが、50代の編集者にとっては、初めて聞いた言い回しだったので、「おかしい」と言ったものの、意味的には外れていない。だが何かおかしい。酔っ払ってるから整理が付かない。「おかしい?、おかしい?」

聞き慣れない言葉使いに、編集者としてどうしても引っかかったのだろうが、あらゆる場面でこういうやり取りをしながら、言葉というものは変化していく。多くの作家も造語や独自の言い回しをしている。

どこかで、タイトルに「」を使った人に対し、『』を使うことも知らんのかと、内容よりも文法を攻撃している人がいたが、これこそが、近年の国語教育、受験教育の弊害ではないだろうか。


社会現象

2016年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム

『ポケモンGO』、今度のゲームは良いゲームだと思う。これまでのゲームによる弊害が解消される。
当然また、新しい問題も起こっているが、社会全体に及ぼす影響はプラスの方が大きい。
コンピューターゲームが始まって、ざっと40年。子供の外遊びによるコミュニケーション訓練の場が失われていった。

その結果が、今日の社会であり、ゲームで育った50代以下の世代によって構成されている、ほぼ日本の実体と言ってもいい。
当事者は何も感じていないかも知れないが、社会全体が、狭視野で直接接触を嫌い、ネットなどでコミュニケーションできていると錯覚し、自己中で孤独になり、それでいて、個性の発揮を主張することも認めることもできない、無機質社会になっている。
日本の企業が、生命力を失い競争に負け始めたのは、この世代が中堅となり、実権を握り始めた頃からだ。
もちろん、この基準に当てはまらない、生命力に溢れた人もいるが、それは珍しい例外で、そういう人によって、かろうじて日本は持ちこたえている。

ゲームのブームは、何も日本だけではないから、ゲームだけが原因では無い。受験競争とか、縦型社会とか、既存の社会背景と合わさったことで、起こった、日本独自の症状だ。
だが、それにしても、やはり従来のゲームがもたらした弊害は小さくない。

そのマイナスを、今回のゲームは補う要素がある。何より大きいのは家を出ることだ、ただ家から出るだけなら、携帯ゲームもスマホゲームも可能だったが、今回は出かけなければ遊べないところが大きな違いだ。しかも、場合によっては見知らぬ人と会話することもある。精神的にも肉体的にも健康的だ。

まだ始まったばかりで、これから色々と新たな展開があると思うが、ファミコンで世界をゲームに引きずり込んだ任天堂が、生まれ変わって、自ら遊び方の改革を始めたことは非情に意義深い。
「任天堂」は水瓶座の名前だが、また、歴史を動かす天王星のサプライズで現れた。

夜、街に出ると、至る所でスマホを覗き込んだ人が、歩いたり立ち止まったりしている。
狭い道で、向こうから走ってきた自転車に、ぶつかられそうになった。それでもスマホを覗き込んでいる。
『Bokémon GO』だ。


天下の秋

2016年07月21日 | 星の流れに

おひつじ座、今度は大橋巨泉が亡くなった。実際には永六輔と4日の差で、同じ時と言える。
レッドソックスの上原浩治も故障者リストに入ったそうだ。
こういう時、必ず浮かぶのは
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」だ。
時代はまさに変わろうとしている

大橋巨泉も永六輔も東京出身だ。東京出身でなければできない、放送界のベースのような役割を担っていた。黒柳徹子も東京だが、放送や芸能という華やかな世界を目的としているのではなく、生活の一部のような感覚で、内庭のように出入りする人達の存在が無ければ、軍隊や政界のように、権力争いの場と化し、日本の文化は戦前のようになっていたかも知れない。また逆に、戦後だったからこそ、こういうタイプの人が活躍できたとも言える。


荒えびす

2016年07月20日 | 京都&ケンミン文化

電車を降りるとエレベーターがあって、80ぐらいの男の人が乗ろうとしている。大きな荷物を持っていたので、反射的に乗らなくてはと、走って飛び込んだ。
「すみません」と、声を掛けながら勢いのまま奥まで入ると、
こちらの乱れたアクションに気を使って、間を取ろうと思ってもらったのだろう。
振り向きながら、
「今日は暑うおましたなあ」
そう言う顔が、本当に真に迫って、しんどそうだ。
「ええ、本当に暑かったですなあ」と、駆け込んだ勢いで大声で答えた。
すると、それに続けて
「まだ、四、五んちは続きそうですが、その後はまた涼しくなるでしょう・・・」
と言いかけたので、
「いやあ、まだ、これからドンドン暑くなりますよ」と、また大声で言ってしまった。
「そりゃあ、8月になりゃあ、そうでしょうが・・・」
そう言いいながら、ドアが開いたので、その人は出ていき、後に続いた。

どうもこういう会話が苦手な上に、駆け込んで息の整わない間の出来事だったので、申し訳ないことをしてしまったと、後味の悪い思いをした。
これが京都人なら、「そうですなあ、暑いのは応えますなあ、でも、まあ、ちょっとの辛抱ですわ」などと、相手の意向に逆らわないで、共鳴空間を作るのだが、何十年住んでも根が田舎者、適当なことが言えない。

育休宣言をして、不倫で辞職した議員が、京都で当選したのは、ある意味、自然だったのかもしれない。京都人は個々の自我も強いが、集団の和を大切にするから、大いに批判精神を持ちながらも、結局は当たり障りの無いきれい事で収める。チャラ男はきれい事の専門家だから、府民の総意に合致したのかも知れない。

会話の清涼剤のつもりで言葉を掛けた京都人としては、行きずりの社交辞令を心得ない無粋の輩の反応に、
『あかん、田舎もんやった、えらいことしてしもうた』そう思ったにちがいない。
「そりゃあ、8月になりゃあ、そうでしょうが・・・」の言葉の裏に、
『せっかく我慢して、涼しゅうなるのを祈っとるのに、そんなこと言わんといてくれや』がにじみ出ていた。
身も蓋もない直言に、熱湯を掛けられたように思っただろう。解ってはいるのだが、できないところが荒夷の悲しさだ。


死と再生

2016年07月19日 | 占いばなし

以前、日産が無くなったと言ったら、今もあるじゃないかと叱られた。このブログでも、雪印が消滅したと言ったら、即座に「今もあるんですが」と突っ込みのコメントが入った。
この時、意味的に消滅したと返したら、かえって激高されたので、それ以上答えなかった。

占いでの「異変」を、無くなると言ってしまうから、誤解を受ける。日本は7世紀から綿々と日本だが、支配体系は何度も変化した。ほぼ定期的に政権交代が起こり、北条政権も、足利政権も徳川政権も亡んだが、それを、日本が無くなったと言えばやはり叱られる。だが、それまでの実体が無くなったことは事実だ。

時代時代で、日本の姿は変わり、海外からも違うものとしてみられた。足利政権のように対外貿易に熱心な時代もあれば、徳川政権のように鎖国政策をとった時代もあった。
名前は日本でも、違う国と言っても良いくらいの変化だった。

日産も雪印も名前が無くなったわけではないが、周知の通り会社の実体は既に別物だ。
これが占いでいう波の影響、栄枯盛衰で、もちろん名前ごと消えることもあるが、要は実体の入れ替わりこそが、組織の死と再生だ。

この意味で、天王星が水瓶に来た時、任天堂は無くなると言っていたのだが、結局、任天堂は今もあるし、今回、爆発的な大ヒットをしている。しかし、天王星通過後、木村社長は亡くなり、ゲーム機に頼る業態は行き詰まった。
そして今回の大復活は、ハードを捨てたモバイルゲームであり、ゲーム機時代のキャラクター遺産を活かした業態として、生まれ変わった。今回の大ブームは、逆に過去の任天堂の死を確定したとも言える、新しい任天堂の始まりを告げるものとなった。


電車祭り

2016年07月18日 | 探訪・紀行

また、奈良1dayチケットで奈良に行ってきた。京都市地下鉄から1630円、大阪市交通局から1650円など、圧倒的にお得だ。
奈良に行くという人がいたので、1dayチケットをアピールしたところ、喜ばれたが、その相棒の人は奈良までの往復の方が1630円より安いから、1dayは要らないと頑なに拒否。結局、一人だけが1dayチケットを買って行った。

後で聞いたところでは、1dayを買わなかった人は、口には出さないものの後悔していたそうだ。何しろ、奈良市内のバスも乗り放題だし、様々な施設の割引も付いている。京都に帰ってきてからも、地下鉄全線が乗り放題になるから、相当使える。

今回は、これまで行ったことのない生駒山に登ったが、このケーブル料金も無料だ。見晴らしは良かったが、遊園地の他、特に観るものも無かったので、次の下りで降り、これも行ったことがなかった、隣駅の石切神社に行ってみた。近鉄の石切を降りると、話しに聞いていた門前町の下り坂をドンドン下りることになったが、下りの坂道は案外応えて、ふくらはぎが痙りそうになった。
面白いことに、心配していた帰りの登りは、かえって気持ちが良いくらい、全く応えなかった。

1日で、京都、奈良、大阪と行って帰ってくると、各地の人の顔の違いが歴然だ。
ファッションの違いもあるが、顔の表情がまるで違う。大阪は中身が丸出しになっている感じで、何事にも反応が早そうだ。奈良は同じように中身を晒しているが、正直そうでちょっと受け身、大阪のように反応が早くない感じがする。京都は何か見えないベールを被ったように、本音が見えない感じで、良く言えば、はんなりだ。

京都人のこの見えないベールは、海外から帰ってきた時に感じる日本人の表情と同じで、何か仏像の表情のような得体の知れない取り付きにくさがある。
おそらく、海外から来日した観光客も、日本人に対してこの印象を持つのだろうが、実際に接した時の当たりの良さで、仏様のような印象を受けるのかも知れない。

宵山ラッシュ
京都に向かう帰りの電車は、通勤客と祇園祭の宵山に出かける人で、かなり込んでいた。奈良の始発から乗ったので、座れていたが、乗換駅で乗り込んで来て前に立った26、7の小柄なお姉さんがハイテンションで、連れと話している。最初にチラッと顔が見えたが、後は下を向いていたので、表情は見えない。
「おかんにな、○○ちゃんところで晩ご飯食べる言うて出てきたんや。でも、格好見たらわかってるかもな。バッチリ決めてきたんや。ハハハハハ」
黒のサルエルパンツの上の方から早口が聞こえてくる。
パンツの名前は、本人がファッション解説をしているので分かった。
「しゃあけど、宿題でけへんなあ。賢い組は数学の宿題は無いらしいで」
ここで、思わず頭を上げて顔を見てしまった。
『何歳や?!』
顔を見ると、顔の面積の割に、妙にくっきり小ぢんまりした目鼻立ちに、ガムランダンス並の厚化粧だ。やっぱりどう見ても26、7に見えるのだが、話していることは中学生だ。相棒の子はモロ中学生で、親子だと言われれば納得してしまうところだ。
「今日はな、□□ちゃんが屋台に出てるから、ついでに会いに行くんや。テキ屋のフェイスブックで、全国の屋台の出る日と場所が分かるんや、便利やで・・・」
確かに、江戸時代なら15、6は適齢期だ。
♪ 祭りだ祭りだ祭りだ豊年祭り


夢の産物

2016年07月14日 | 星の流れに

このところ、世の中やっぱり不穏だ。海王星、土星、木星それに火星と、変容宮での十字砲火だ。
巷ではバラバラ殺人や不可解な殺人。世界では人種問題、難民問題、海洋問題。英国EU離脱、為替変動、米中露の大国衝突・・・
決定的な大事件と言うより、先行き不安をあおる事象の続発で、それがまた、他の事象に連鎖する。

ほとんどすべての原因が「不安」だ。
これは変容宮の、実体を伴わない「逃げ腰」の心理が、様々な事象に過剰反応することから起こる。
変容宮は季節の「変わり目」にあり、前者でも後者でもない、片足状態の季節なので、人心がウワつく。
解りやすく、四つの変容宮を代表的な業界に例えると、
双子座はテレビ、乙女座は医療、射手座は乗り物、魚座は映像になる。
テレビは実態を確認しない噂話。医療は生死の狭間。乗り物はどちらの土地でもない。映像は実体のない虚像。
この実体のない状態にある人も事象も時節も、些細なことに敏感で過剰に反応する。

今世界を覆っている状況は「疑心暗鬼」であり、最大の背景は夢を表す魚座の海王星の舞台上にある。すべてが思い込みによる過剰反応で起こっている。

唯一確かな実体である、中国による南シナ海の建造物も、もともとは、中華人民共和国建国時の妄想、「世界制覇」の夢の産物であり、当時はただの夢だから、幾らでも白髪三千丈の大風呂敷を広げることができた。
それを、経済力の実体が生まれた今も見直すことなく、実現を試みたに過ぎない。まさに、夢の「砂上の楼閣」なのだ。


曲がり角

2016年07月12日 | 星の流れに

南シナ海での中国の主張が、否定された。中国は無視すると言っているが、世界は無視しない。
山羊座の冥王星とともに、中国のピークが過ぎてゆく。
大転換3

また、天王星84年の再来は、丸々当時の日本に入れ替わった中国だ。
昭和初期日本は、満州国、リットン調査団、国際連盟脱退と、今の中国のような暴走をしていた。中国は歴史を学んでいるだろうか。日本より賢いだろうか。


なが生き

2016年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム

永六輔、ザ・ピーナッツ、ともにおひつじ座が、亡くなった。土星が来ると死ぬ人が多いが、天王星も凶星だから、奮闘の末に亡くなる。この数年、有名人で真っ先に亡くなったのが、キャンディーズのスーちゃん(田中好子)だが、その後、亡くならなくても、色々さんざんな目に遭っている人が多い。色々というのは、良い事でも目立った人がいるし、それがまた急転直下、悪評になったりする。

永六輔、ザ・ピーナッツと言えば、60年代のテレビ全盛期を担った人々で、昨年亡くなった野坂昭如などと並び、一つの時代が終わったことを強く印象づける。
昭和天皇の後を追うように、美空ひばりや手塚治虫が亡くなった時のことを思い出す。あれからもう、すでに30年近い。

この歳になると、10年20年が、あっという間だ。先日、鶴瓶が、「一ヶ月がメチャメチャ早い」と言っていたが、鶴瓶ほど忙しくなくても、やっぱり早い。
年寄りが40年使っていた扇風機が火を吹くような事故。信じられないような話しだが、近頃、自分も用心しなければと思う。

時が過ぎれば、知らない間に物事が逆転している。
今回の参院選で、自民党が圧勝した。18歳からの選挙に若者の多くは自民党支持だった。昔、若者は圧倒的に反自民だったから、与党自民党は若者の多い都会の選挙区票の格差是正に消極的だった。しかし、今回の傾向でも解るように、今なら、大都会に割り振る方が自民党にとっては得策かも知れない。

今回の1人区の勝敗で、東北がほぼ野党で占められ、西日本は自民党が圧勝した。
昔とまるで真反対のような図柄だ。
これを見ると、自民党と反自民党の意味が、逆転したのではなかろうかと思う。

昔、ある運動を全国の該当グループに呼びかけたところ、ほとんどの地域から賛同と参加の返信が届いたが、半年経っても東北からは皆無だったことに、愕然とし、東北の感性の保守性を思い知らされた。ちなみに、真っ先に返信が来たのは沖縄だった。
蝦夷は大和朝廷に従わず、伊達政宗もすぐには秀吉に従わず、明治維新ではあの悲劇に見舞われた。

その東北が今回、反自民に染まっている。今、政策にかかわらず、野党のだらしなさは野党支持者まで認めるところだが、その今、東北が野党支持をしていることの意味は、時の趨勢という観点から見れば、自民の方がダイナミズムのトレンドと言うことだろうか。

なぜこういう逆転が起きたのか、色々な要因があるだろうが、やはり、時代の空気、周期律による、必然なのだろう。
長生きはするものであり、長生きはしたくないものだ。