魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

祖先の国

2010年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

No.948

パラグアイ戦の前に、パラグアイの日系家庭の様子が紹介されていたが、その家の四世がメチャクチャ日本語が上手く、日本育ちだろうかと、不思議に思った。

7月1日、産経新聞の、
<日系社会「世界一堪能」なパラグアイ 日本語教育の危機>
という、記事を見て、なるほどと思う反面、複雑な心境になった。

パラグアイの場合、いわば、陸の孤島的に日本語が残っていて、その堪能な日本語が、活用されていない。日本語が南米スペイン語圏に浸透していくような、関わり方もしていないようだ。

彼らはスペイン語・日本語のバイリンガルだから、日本のスペイン語教育や、日本企業や日本文化のスペイン語圏への橋渡しに大いに役に立つはずだ。

発展する南米に、先手を打った中国の抜け目ない外交に、南米全体が取り込まれつつある。
そのなかで、世界でも数少ない反中国家パラグアイと仲良くすることは、中国との関係を良くする上でも、逆に、切り札となる。

ただ、南米諸国の成り立ちは複雑で、一概に、どこかの国に肩入れするわけにも行かない。国家としての安定性が欠けているから、中国のような実利主義での付き合いが賢明なのかも知れない。

しかし、それにしても、今日まで、南米の片隅で日系人としての誇りや文化を守ってきた人達の思いは、報われても良いはずだ。

今度の、ワールドカップも、何かの縁だ。日本はブラジルやペルーだけではなく、南米外交の拠点として、希少なパラグアイをもっと活用すべきではないだろうか。
そうなれば、陸の孤島の日系社会にも日の目が当たるだろうし、日本と南米全体との絆が、より深くなるはずだ。

ブラジルの日系人を、労働力としか見ないような付き合い方を改めて、海外移民を外国人と認めた上で、日本文化を伝えた功績を賞賛し、かつ、対等な協力者として、もっと、有効な交流ができないものだろうか。

海外移民を、その国の人であると認めることは、アイデンティティーを尊重することだ。
その上で、彼らの持つ祖先の国への親近感を相互協力に活かせば、日本にとっても彼らの国にとっても、プラスとなり、初めて、移民の歴史が報われることになる。