魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

レンコン

2024年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

兵庫知事の問題は、ある種のイジメと感じたので、見たくもなく、詳しい経緯は知らない。森元総理や麻生元総理の時と同じで、空気を読まない個人を集団がはじき出す、免疫反応のようなものだろう。
少年期にイジメられた経験から、イジメを受ける側にも問題があると思っている。
これに気づくまでに成長期の大半を費やした。

すべての人間は不完全であり、それを知るのは覚めた人であり、知らなくても他者に逆らわないのは才長けた人だ。自らの不明に気づかないのは運の良い人だ。
誰でも出遭う障害に遭遇せず、無傷で過ごせる人を運が良いと言うが、様々な努力の末に成功した人を、努力も成功もしない人が「運の良い人だ」と決めつけて納得し、一方、本当に運良く過ごした人には、自分が努力した結果だと思っている人が多い。

たまたま、自分の能力と生き方が時代の表街道にマッチして、しかるべき結果を得た人は、その道を歩めない人々のことを理解できない。これを世間知らずという。
すべてとは言わないが、多くの優等生は偶々その社会の求めるものと自分の才能や環境がマッチした人であり、異なる原理、異なる次元の人の思考を想像することさえできない。
子供社会にイジメが多いのは、社会性の形成期に、未熟な子供が遭遇するからで、それまで恵まれた環境で育った場合が多い。イジメられた子の親を見ていると、やさしく物わかり良く、理路整然と語る人が多いが、残念ながら、世の中は不条理であり、社会性とは不条理との兼ね合いを知ることをいう。

兵庫県知事を見ていると、恵まれた人生を送ってきた人にありがちな世間知らずで、ただ問題を解くことしか知らない人のようだ。決して悪意はないのだが、不条理を知らないから不条理を我慢できない。
そうでなくても、役所のような組織は変化を嫌う。自分自身役人で、地方にも出向したようだが、中央官庁の威光をまとった立場と、地方公務員は視線が違う。知事となれば出向より立場が上のように見えるが、沼で花を咲かせる蓮は、根を下ろすドロとしっかり一体化しなければならない。ドロの中のレンコンがなければ花も咲かせないし、自分の理念も保てない。

政治家と言われる人にも地方の首長向きと、代議員向きがあり、首長は世間知らずでは務まらないが、逆に要領だけで務まる人もいる。斉藤氏の場合、国会議員なら務まっていただろう。国会議員は相当な欠陥人間でもまかり通っている。


まぬけ役

2024年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム

中国歴史ドラマは終始、権謀術数の話しで展開する。それが中国の視聴者の常識と好みにマッチするのだろう。兵法「戦わずして勝つ」の駆け引きこそがお国柄だ。
ところが、日本のドラマは、徳や誠が必ず勝つことを前提に話が作られる。それが行われない不条理な展開の物語は、最後に殴り込みをかける。
同じ事が起こっても、見方や受け止め方は文化で全く異なることを、その国の物語はよく表している。

中国で日本人学校の小学生が殺されると、それまで頑として譲らなかった日本産海産物の輸入禁止を、突然、「条件付き」で容認すると発表した。
記者会見で、この二つの事柄は関係あるのかと問われると、これまで長い協議を続けてきた結果で、児童殺人事件は異常者の起こした単なる事件であり、輸入許可とは関係はないと言い切った。
中国ドラマなら当然、関係がある。関係なければストーリーが成り立たない。つまり、それが中国の常識であり、思考法だ。
そして、中国ドラマでは、いかに堂々と嘘をつき、シラを切るかが見せ所だ。

中国がこれまで政権批判のガス抜きツールとして、反日教育や反日映画を垂れ流し、習政権でそれがさらに強まった事はよく知られている。
その結果、不況で社会的不満がたまると、日本人が狙われる事件が続発する事態になった。当然、思い当たる中国政権は、慌てて手を打った。
反日事件として扱わないことで国内の模倣犯や反日衝動に気を配り、同時に、反日印象を打ち消そうと、日本に対する「賄賂」代わりの解禁カードを切った。と言うより、チラつかせた。

これは、中国アルアルで、今に始まったことではない。問題は、ここからだ。
日本にとっても、決して日中関係を悪化させることは好ましいことではない。外交は事を荒立てないが鉄則であり、中国側の打つ手に協力的であること自体は何ら問題はない。問題は、「相手の痛いところを突かない」日本の美徳は、中国文化ではただの愚者に過ぎない。痛いところを気遣うような顔をして、徹底的に突くのが華流だ。

児童殺害という痛ましい人柱を、日本政府は逆に中国に利用されていないか心配だ。水産物解禁という「貢ぎ物」を装った中国の窮地脱出策を、得意げに発表した。今更、手土産にもならない腐ったカードだ。水産業は苦労してようやくメドが立ち始めていた。
水産物輸入禁止は中国内の水産業を滞らせることになり、中国自身が上げた拳のやり場に困っていた案件だ。解禁をチラつかせて折れたように見せながらWINWINを演出しようとする外交策を、さも大人の対応のように受け入れる日本は、中国ドラマの間抜け役と言うか、中国ドラマの間抜け役なら、もっと歯ごたえのある策士でなければ物語にさえならない。これを受け入れる日本には、むしろ中国側が驚き、却って疑うのではないかと思えるほどの極楽世界だ。

ここは、裏取引で、尖閣問題と差し替えるぐらいのチャンスなのだが、果たして中国の傍若無人な行状が収まるのか見物だ。腐れカード以外、何も起こらないのであれば、日本は中国の属国であり、いくら痛めつけられても、黙々と人柱を立てる朝貢国と見られても仕方がない。


出た狼男

2024年09月18日 | 星の流れに

9月17日は、旧暦8月15日で中秋の名月だったが、実際の満月は18日(11:34)になる。
満月になると早速、オオカミ男達が昼間から正体を現した。北朝鮮がミサイルを発射し、中国の空母は日本の接続水域を航行し、深セン市では日本人学校の児童が刺された。
5日から火星がカニ座に入っているので、カニ座の中国はイライラしているところに、魚座-乙女座の満月で、憂さ晴らしをしたのだろう。本当に困ったものだ。
一方では、カニ座の大谷翔平も5試合ぶりに48-48のホームランを打った。

通常、火星通過は2ヶ月ぐらいだが、今年のカニ座の火星は、獅子座を出入りしながら半年ぐらい長居する。これで一番迷惑するのは天秤座の日本だが、双子座に天王星と木星の大チャンスでもあるから、大いに利用して災いを福に転じれば良い。


時代劇だ

2024年09月17日 | 星の流れに

双子座に惑星が集中し、天秤座に大きなチャンスが来ている。
「SHOGUN」がエミー賞を総なめにしたのは、天秤座の真田広之と天秤座の日本がダブルで効いたからだろう。
いろいろな背景があって、この状況に至ったのだが、つまりそれが、星の流れだ。

最大の理由はアメリカ人が字幕を読むようになったことだそうだ。元々、異文化への関心はあったが、独善的なエキゾティシズムが中心で、文化人類学もそのツールになっていた。しかし、多様性ブームで、より本当の異文化に関心が生まれてきた。
さらに映像技術の革新で、かなり、何でもできるようになったこともある。

映像AIでディープフェイクも氾濫している。素人でも人をだませるのだから、プロならデジタルカラー化などで喜んでないで、昔の名作シリーズの新作や、名優共演の映画などを制作してはどうか。カーク船長やハン・ソロが昔のまま活躍する宇宙ものや、グレタ・ガルボやヴァレンティノの現代劇共演など見てみたい。

まあ、そんな映画がリアルに可能になるのはもう少し先になりそうだが、「SHOGUN」のヒットを機に、日本の映画会社は古い時代劇名作や映像を、現代好みに再編集して海外に売り出すチャンスではなかろうか。
著作権や版権は製作会社ならどうにでも成りそうな気がするのだが、どうなのだろう。
海外に売り出すと、勝手に編集されてしまうことは知られているが、そうなら、初めからテンポやストーリーなど、現代の若者が解りやすい、全く新しい作品として、新素材も加えて編集すれば、低コストで新商品が生まれる。さらにAIで役者の演技を補足すれば、昔の名優が全く違う世界で演じることになるので、日本人としても新しい。

おそらく日本の映画会社だけでは技術的に無理だろうから、ハリウッドと協力すればコンテンツとしての完成度も上がり、WINWINだ。
魚座の土星は映画界に「過去」が来ることを表すから「時代劇」がヒットした。日本の時代劇も掘り起こせば使える。天王星、双子座時代は日本のチャンスだが、成果を得るのは努力とヤル気だ。


自ら差別

2024年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、なぜか「差別された」と煽り立てるメディア記事が多くなったような気がする。
ことに、原爆に関する欧米のニュースや、スポーツでの不利などを始め、海外在住者の逸話など、欧米からアジア人が差別されたと取り上げられる話が目立つ。
常に思うことだが、差別を論う人自身の深層には根深い差別意識がある。自分自身のタテ型序列思考に当てはめ、何事も先ず、どちらが上か下かに着目する。

これは、アジアの秩序思考の伝統で、戦後しばらくは日本社会にもタテ型秩序、差別意識が残っていたが、戦後の混乱とアメリカナイズ、それに続く経済成長で日本が世界に認められるとともに、国内の差別意識も対外コンプレックスも消えかけていた。
ところが、バブル崩壊後の不況停滞の中で、偏差値や学歴主義が成長し、同時に、関西芸人による序列の布教、宇宙「軍」やスポーツアニメの序列、白馬の王子様や玉の輿など、世相文化として「タテ型秩序」が自然に復活していった。先輩、後輩がうるさく言われるようになり、偏差値序列が社会基準になり、宝塚や少女漫画のお姫様から、韓国ドラマの王宮物語まで、階級物語が流行るような時代になった。
格差を論ずること自体が、階級を肯定していることにさえ気づかなくなったのだ。

30年続いた経済停滞の中で、経済地位の低下とともに敗北感が潜在化し、日本人のコンプレックスが、「本当はスゴイニッポン」や「クールジャパン」などの自慰行為に定着していった。その結果、中韓に見られる植民地時代からの欧米コンプレックスのような視点まで持つ人が、日本にも現れてきたらしい。
特に、メディアにおける欧米の差別批判の煽りを見ていると、日本人はここまで情けない根性に落ちぶれたのかと、暗澹たる思いにかられる。

東西の差別意識
一方で、欧州のスポーツ界では差別問題がよく話題になり、選手やファンが有色人種を動物扱いしたり、東洋人をつり目で表現したとして処罰されたりする。そして、それに対して差別された側が怒ったり、東洋メディア、特に韓国メディアが騒ぎ、近頃は日本のメディアも同じように騒ぎ始めた。
韓国の反応は韓流でいいだろう。しかし、日本のメディアまでが追随、同調する様は情けない。メディアとは一体どんな人たちなのだろう。

韓国と比べれば、中国は欧米を蔑視し、日本も明治維新までは大陸や欧米に、憧れはあっても劣等感は無かった。中国との違いは、中国が「相手を利用する」とあくまで上から目線なのに対し、日本は上下ではなく「他人の良いところを見習う」好悪の気持ちで来た。中国は多人数兄弟の長子の目線であり、日本は一人っ子目線だ。両者に共通なのは、差別される立場の、下から目線が理解できない。
これに対し、韓国は古代より下から目線で、日本の遣唐使に対し新羅の方が上だと席次争いを仕掛けたが、これは下の立場の朝貢国としての順位争いで、域外の日本には朝貢の意識は無かっただろう。

欧州での、差別排除動向は、それ自体が欧州人の根底にある差別の反映だが、彼らの葛藤に便乗し「差別はけしからん」と騒ぐのは、差別を容認し、自ら差別されることを認めることになる。
韓国のサッカー選手が日本に対してサルのジェスチャーをして、韓国内で批判されたが、日本側には何の反応もなかった。その選手が旭日旗を見たと言い訳したことで起こった旭日旗排除運動の方が、むしろ、日本人を実際に困惑させた。

日本人をサル扱いにすることは韓国内の常識かも知れないが、日本人にはその前提がないから反応しなかった。まさに、差別反対は自分の中の差別意識から始まる。
古今東西、自分たちの基準で始まるのが差別だが、その意識が無い他者には意味が無い。だから、相手が自分を差別してきても、それが、狭視野で愚かな行為であることを笑えばいい。それに対して怒るのは相手の差別世界を認め、自分を否定することになる。
具体的な不利益があり、逃げられないのであれば、戦うしかないが、先ずは相手の無認識を静かに気づかせることも必要だ。そのどちらもしたくないのであれば、ニコニコと笑っておくか、第三者に解る皮肉を言えばいい。
東洋メディアは欧米の差別葛藤事件を、上から目線で笑えば良いのだ。

差別に怒ることは、自ら進んで差別されることになる。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」
(ルカの福音書)


サラミス

2024年09月06日 | 星の流れに

このところ、南シナ海ではフィリピンと中国の「海戦」が勃発している。
魚座の土星は、魚座の「海洋」国フィリピンに「昔」が帰ってきたことを表すが、大統領のマルコスは昔のマルコス大統領の息子で、米国に再接近し、中国と古代方式の海戦を繰り広げている。
これは誰がどう見ても中国の無法だが、中国という国は古代そのもの「勝てば官軍」天に選ばれし者が正史を書く兵法の国、軍事ゾンビらしい。

魚座の土星は、中国にとっては第九室の理想と哲学であり、「古代認識の再来」になる。「シナ海」という名称だけを根拠に自国領土を主張する中華人民共和国は、「支那」の呼称を認めていない。「支那」の語源は「秦」が有力らしいが、毛沢東も習近平も始皇帝を気取っていることだけは事実のようだ。
そして、その中国が南シナ海で、まさに古代の体当たり海戦を仕掛けている。
一見、警備上の小競り合いに見えるが、サラミ作戦でじりじりと事実上の侵略を繰り返す現実主義の中国は、おそらくこれを戦争と捉えているだろう。そしてその戦法は古代サラミスの海戦のような「体当たり」戦法であり、巨艦がものを言う。
以前から、中国海警は大艦を建造して、「体当たりすれば、小さな船など海の藻屑にできる」と豪語しており、日本の海保も6,500トン級の大型巡視船を建造せざるを得なくなった。衝角(ram)も忘れずに付けただろうか。

欧米から、日本は宣戦布告無しに戦争を始める国とされていたが、これは東洋の現実主義で、元よりその本家は中国だ。
海保の凌ぎ合いなら、航空機による衝突はないから、表面上は「軍事衝突」によらない、事実上の領土拡大には、古代海戦が極めて有効だ、と中国は考えているのだろう。
この恐ろしいゾンビの狙いには当然、東「シナ海」も含まれる。
Clear and Present Danger
今は、まさに戦時中だ。


世相祭り

2024年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム

近年、スポーツ番組は音を消して観ている。実況アナウンスを聞いていると、思わず「ウルサい!」と言いたくなる。特に、流れの速いサッカーなどは、状況が悪くなると過剰に悲観的になったり、過剰に希望的なことを言い出す。試合終了近くなると、試合が終わったことを前提に話し出す。
実況放送なのだから、状況に反応するのは当然で、それが臨場感を伝える実況放送の価値なのかもしれないが、状況ばかりが見えて実体が見えなくなる。

音を消して光景だけ観ていると、様々なものが見えてくる。選手や審判の動きや心理、会場の環境や観客の反応、それら一つ一つが冷静に見渡せ、何が起こっているかが良くわかる。一緒になって興奮することはないが、大声が無くとも選手のすご技やドラマティックな展開には本気で感動できる。むしろ自分の心底からの実感で納得いく。

酒飲みは、酒を飲まずに酒席に付き合う人間を嫌がるが、飲まなくても酒席の好きな人もいる。飲んでいる方は、一緒に酔っ払ってないと共感できない、自分だけ馬鹿みたいだと思うが、飲んでも酔わない人もいれば、飲まなくても場の雰囲気に酔う人もいる。
祭りに参加するより、祭りの意味を知り、自分なりに祈りたい。

祭りは、共同体の共感と結束のため、神様という酒に酔う酒席のようなもので、本気で酔う人もいれば、責任感で段取り進行を考える人、祝詞をあげる神職もいる。それぞれの捉え方で参加し、それぞれの仕方で喜んでいる。
スポーツ観戦も、祭りのようなものだ。沈黙の中で観ることも一つの楽しみ方で、これはこれで楽しい。

食レポを聞いて食べたいと思い、美味しいと思う人もいれば、どんなに評判が良くても自分の口に合わなければ食べない人も居る。
料理人や料理研究家の中には、あからさまにグルメ番組を嫌う人がいるし、星幾つ認定と声を掛けてくるグルメ本を「結構です」と断る店も少なくない。勝手に評価を下すような輩に牛耳られたくないからだ。

テレビの親分
日々刻々動く世界を伝えるニュース報道で、われわれも世界の動きの中にいることを実感する。報道がなければ世界の動きを知ることはできないが、報道は実況放送だ。
起こった事実とともに発せられる言葉や、映像の映し方で、スポーツ実況と同様に無意味に感情をかき立てられ、怒り悲しむ。
報道が無ければ、起こったことや動きを知ることはできないが、そこにある事実と伝え方は切り離して受け止めなければ、何も見えなくなる。

「親分、てえへんだ!てえへんだ!」と子分が飛び込んでくるのは、捕物帖の定番だが、たいていの親分はすぐには反応しない。静かに聞いている。
メディアが「てえへんだ!てえへんだ!」と騒ぐニュースは、黙って静かに聞いて、要は、何が起こっているのか、「てえへん!」かそうでないかを聞き分け、おっちょこちょいメディアの親分になって、静かに聞いて考えたい。


百周記念

2024年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

甲子園100周年に韓国系の京都国際高校が優勝し、韓国では大統領を始め国全体で祝福の声が上がった。ハングルの校歌をめぐり物議が起こったが、これを良しとするかどうかは、高野連の考え方次第だろう。昔から、英語が入った校歌は少なからずある。校歌の問題ではない。
日本の高校と限定するのか、この年代の学校の野球とするのか、括り方一つで是非は変わってくる。

日本の高校と限定するなら、定義の問題が残り、狭い論争が起こるだろうが、この年代の学校と考えれば何も問題はない。むしろ甲子園100年をもって、世界大会に切り替えれば、これからの時代にふさわしいものになるだろう。
WBSCのワールドカップやオリンピックとは別に、日本の高校野球に参加して貰う形なら、海外出身の力士がいる相撲のように、日本方式の野球を広めることができるし、日本が少年野球のメッカになり、WBSCに影響を与えることができるかもしれない。

ワールドカップと違うところは、高校単位で毎年だから、国選抜とは違い、クラブチームのような面白さと、教育交流にもなる。しかも基本的には、徹底したアマチアリズムだから、ワールドカップのように、金に汚染されることも少ないだろう。
韓国は国策として芸能輸出に成功したが、日本は膨大なサブカルチャーコンテンツを持ちながら、政治は尻馬に乗るだけで、本質的なバックアップをする気がない。何かすればバカな規制を掛けるぐらいだ。

アメリカ発祥の野球も、日本球界はリスペクトするばかりで日本野球を世界に広めることなど考えもつかない。
柔道は今やフランスのものになっており、本家日本はそれに従っている。世界は本家方式をリスペクトなどしない。日本は競技も無くなるかもしれないようなオリンピックには参加せず、独自の世界大会で本来の日本柔道を世界に広めてはどうか。

ワールド甲子園
逆説的に、日本の野球もフランス柔道のように、あるいは韓国芸能のように、見習ったものでも積極的に自分のものとして広め、世界の高校に高校野球の門戸を開くべきだろう。輸入していた自動車も鉄道も海外に売っているではないか。
国家代表1校に来て貰うことにして、初めは希望各国から1校招待でも良い。始まれば、我も我もと参加してくるだろう。第1回大会参加中学校は10校だった。

これに成功すれば、メジャーの球質だって変わるかもしれないし、高校野球ももっと合理的になるかもしれない。温暖化の真夏に「♪雲はわき~」と歌っている場合ではない。基本の設定から変える時だ。
最もネックになるのは、またも日本の利権組織、高野連だろうが。


4040

2024年08月26日 | 自動車人間学

大谷翔平がまたも偉業「40ー40」を、40号サヨナラ満塁弾で決めた。
しかし、「大谷翔平はチャンスに弱い」の反証とは言えない。むしろ、エンジンは「流れの中で活躍する」の証明になる。
同点、9回裏2アウト満塁でホームランは、チャンスでの大仕事だが、実はプロで初めてだった。本人はとっくに経験していると思っていて、初めてと聞かされ驚いていた。
もし、これまでの通常の試合なら、打てていたかどうかわからない。

この日、大谷は40-40の掛かる試合で、一方の課題40盗塁を決めたばかりで、勢いに乗っていた。そこで迎えた9回の打席は、絶好のチャンスだが、仮に三振しても負ける訳ではなく幾分気楽なうえ、自分自身は勢いのまま、40-40を決めてやろうと集中していた。つまり、これが流れの中の勢いで活躍するエンジンだ。さらに、誰かが打ったりすると、「オレも!」と続くのもエンジンだ。
エンジンは「集中して頑張る」のが信条で、アクセルやブレーキやハンドルさばきなど考えていない。責任や各方面の思惑などを考えた途端、神通力を失う。
周りは色々に語るだろうが、大谷本人は「ガンバった、良かった!」以外のことは考えないだろう。エンジンは英雄ではなく好漢だ。

勢いに乗る大谷は、翌日も早々にホームランを打ったが、延長10回、タイブレークで2点先行されて、3塁1アウト、起死回生の1打同点の場面ではフライに倒れた。


おNHK

2024年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

NHKの中国語放送で、中国人担当者が中国主張通りの愛国発言をして大問題になった。
この責任はNHKにあるが、当の中国人に責任はない。「漢」の国の中国人として信条を貫いただけだ。NHKの責任は日本の放送局として認識と判断を誤ったことにある。
NHKは正論のリーダーと自負しているが、これは、おごりと盲目、裸の王様になる。
かなり以前、NHKラジオの建築相談コーナーの担当者の経歴詐称を全く確かめずに採用していたことがあった。京都大学建築科出身は真っ赤な嘘で、それを確かめなかった経緯は分からずじまいだったが、今回の事件に通じるところがある。

最大の原因は外注にあるのだろうが、NHKに入局を志す人の価値観から始まっている。どう取り繕おうと、放送「局」のNHKには国営放送のイメージがあり、そこに入りたい人の多くには潜在的な権威志向があるのだろう。「お堅い」NHKはその「官」意識の反映で、しかも官ではないのだから、どうしてもエセ官のいやらしさ「かまとと」だけが目立つようになる。
放送においても、世相に乗り遅れまいと、様々なトレンドを取り入れようとするが、在野の視点は無く、定見も無くアメリカメディアの視点などを情報権威として追随し、ただの代理人、旗振り役になる。分断や格差、人種問題、障害者やLGBTなど、トレンドに対する評価ではなく、トレンドの解説や奨励番組を流し周知に務めて、トレンドの権威、情報の「官」のつもりでいる。

どの程度の人が感じているか知らないが、NHKドラマの中では、唐突に同性愛や人種問題、障害者問題が頻繁に出てくる。それを否定するわけではないが、それが鼻につくのは、やはり、善意とトレンドの権威を自負する「おNHK様」の「かまとと」なのだろう。
NHKカラーとも言える「駄じゃれ」も、思考停止の象徴で、意見の無い人、あるいは意見の持てない時代は、しゃれや掛詞で埋め尽くされる。和歌のうまさと言われる掛詞は萬葉以前には少なく、平安の古今集以後に盛んになった。江戸時代になると物語にいたるまで、読む気が失せるほどに埋め尽くされている。同じ事は、中国の西遊記などもすべての言葉運びに陰陽五行が絡んでいる。
余談だが、近年のファクトとエビデンス至上主義も、西遊記時代の陰陽五行に似た、ある種の思考停止と言えるだろう。

表現に、しゃれや掛詞、権威の常套句を絡ませるのは、礼儀作法と同じく、感性や意思に反比例することで、何の意見も実体も無い「道具」揃えの駄文になる。駄じゃれをオヤジギャグと呼ぶのは、ウイットの無いただの知識遊びに無駄を感じ、居ても居なくても良いような、主張の枯渇したオヤジにふさわしいからだろう。
駄じゃれNHKは、定見の無い発信の象徴で、それが見識ぶると、外国メディアの受け売りを熱心に発信する。

今回の、中国の愛国者に発信の場を提供したNHKも、「国際感覚」エリートの自負が、逆に、外国人が持つナショナリズムに盲目であったことの結果だ。NHKの国際至上主義が「外国人性善説」となり、契約が無視されることは無いと信じ込んでいた。これは、京都大学建築科卒と聞いただけで、その実態を調査する意思を持たない、権威主義から出たものだ。


外交の具

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

卓球の早田ひなのことはよく知らないが、特攻資料館に行きたいと言ったら、それまで親しくしていた中国の選手陣から、フォロワーを外すなど、一斉に拒否された。早田のみならず、日本の卓球選手が「中国共産党が戦犯指定している」神社に参ったことなどを理由に、やはり拒否された。
特攻資料館や神社の些細や卓球選手の思想信条がどうであれ、
「中国共産党指定」に反するとして中国人選手が一斉に拒否し、中国国内から非難されるという状況は、今に始まったことではないが、スポーツ選手、あるいは国民が、共産党の下に完全管理、あるいは洗脳されていることを、改めて確認させるできごとだ。

中国人の価値観では、国民が国を愛するのは当たり前だから、中国人が中国を愛するように、日本人が日本国を愛することは当然で、それ自体を否定するのではなく、共産党が定義した「軍国日本」を愛する日本人は、仲間ではないと言う論理なのだろう。
この論理で、終戦時、売国中国人と思われていた李香蘭は、日本人と判明して命拾いをした。

中国共産党が、日本の国会議員の靖国参拝に抗議することは、政治家だから容認できる。しかし、言論が自由な国の「民間」のスポーツ選手の思想信条に関わる問題にまで、専制国家の中国基準に正そうとする中国の圧力は断じて受け入れるべきではない。
選手が可哀そうとか、どちらが正しいとかではない。国家があるかぎり主権の問題だ。

中国はピンポン外交やパンダ外交で世界に接近した。つまりは、卓球選手もパンダも中国共産党の「道具」であることを、この際、世界の人々は再確認し、重く受け止めるべきで、彼らが昨日まで親しげにしていた日本選手を、本人から何の説明も聞かずバッサリと拒絶したように、明確な政治の具であるパンダは、熨斗を付けて早々に送り返すべきだろう。ハニートラップは人間だけではない。


夢の再生

2024年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

日本は海外初の金20個、3位の快挙を遂げた。オリンピック大好きな努力の国日本ならではのご褒美だ。しかし、ロシアは参加していない。
マスコミの盛り上げる賑わいから離れ、冷静に見渡せば、
今回のオリンピック、パリ大会は笑うほどのグダグダ大会、百年の総決算だった。
料理や施設の不備、ドブ川セーヌ、ワケの解らない判定や教会の抗議。ミュンヘン大会のような悲劇は無いものの、ドタバタ、チグハグの様は、東京大会に続く「やらずもがな」大会となった。
選手は人生をかけ、神聖な気持ちで臨んでいるが、興行主は儲かれば何でも良い。取引相手の地元施主やスポンサーこそが商売相手だ。選手は替えの効く商品に過ぎない。

日本人は小学校の頃からオリンピック精神を聞かされ、オリンピックに惚れ込んでいる。しかし、クーベルタンの理想が存在したのは成立までだ。1924年の第2回パリ大会以後はマラソンの距離も定まり、「使える」ようになったオリンピックは、金と政治の道具と化していった。戦争を止める理想とは逆に、戦争で中止やボイコットをした時点で理想は失われた。その後は、国威発揚、経済利用のための種目やルールの変更、選手を使い捨てる利権の興行に化していき、百年目のパリに、俗悪の雪だるまとなって帰ってきた。

俗悪興行に堕落した最大の理由は、国家対抗戦だ。
平和を求める理想は、国を超越し、人類の発展と個人の尊厳を見いだすことにあったはずだ。さらに言えば、科学などの道具によらない純粋素朴な肉体の発露で、ドーピングなど論外だ。科学と国は、近代戦争と環境破壊の根本要因であり、科学技術の発展が国家競争をもたらした。
当然のことながら、国家対抗戦には代理戦争として、科学と金がつぎ込まれ、オリンピックは産業革命パラダイムのゴミ溜めと化した。メダル数を喜ぶ日本からも「オリンピックは参加することに意味がある」の掛け声は聞こえなくなった。

夢の再生
ギリシャ時代のオリンピックは、ポリス国家共通の神、ゼウスに捧げる神事だったから、戦争さえ中断することができた。しかし、今の国際社会に共通の神などない。クーベルタンも時代の子、始めから前提を間違えていたのは責められない。しかし、2世紀も経て、間違いのままゾンビ興行に化したオリンピックに、もはや、拘るべきではないだろう。
クーベルタンの夢をかなえるには、国家と無縁の、素朴な個人競技からやり直すしかない。
現在の国際組織はそのままで良いとして、
もう一度、ゼロから、国家を超えたスポーツ人有志の交流会のような、素朴な運動会を、ギリシャか小さな島国など「固定の場所」(願わくば日本)で、質素に始めれば、小さな種も大きく育つだろう。

ネットによるスポーツ版のLiveAidとして、スポーツバラエティ番組のように、記録より面白さ楽しさ中心の競技でネット配信すれば、いきなり大きな大会を、意味のあるAidやチャリティーとして開催することも可能かもしれない。
個人参加を基本とし、団体競技も同好クラブで、人間の判断レベルの判定にとどめ、見た目が同時なら同着とするような、情熱や努力を尊重する人間の祭典だ。
0.0・・・で着順を決めたり、VAR判定やデジタルスロットなど、人間が科学に操られるのでは、本来の「人間性回帰」の真逆だ。

一応、エリア別の予選をしても、国対抗ではなく、他エリアからの予選参加も可とすれば、実力別の上位者が残りやすいだろう。
こうした、グローバル時代の脱国際の祭典なら、初めは冗談に見えても。必ず、意義のある大きな大会に成長していき、新しい時代の価値観にもマッチするのではなかろうか。

未来社会の人類共通の神が何かは解らないが、科学による宇宙認識が新しい神だろう。科学も神の真理を求めるところから生まれた。
宇宙観に基づく神は、森羅万象へ敬意をこめた「固とネットワーク」の醸す力であり、科学を超える生命崇拝、人間崇拝の極致となるかもしれない。


知の蒙昧

2024年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム

8月8日夕刻、宮崎県沖の日向灘でM7.1の地震が起こったことで、気象庁は南海トラフ「巨大地震注意」を初めて発表した。
この新事態での気象庁とメディアのやりとりを聞いていて、笑い事ではないのだが、笑ってしまった。
科学信仰の、ファクトやエビデンスへの拘りが、数値なくしては納得できない、現代の不毛をさらけ出していた。

気象庁は「南海トラフがいよいよ安心できなくなったかも」と言いたいのだが、そんな言い方では誰も納得してくれない。なんとか科学的語法で説明しようとするのだが、悲しいかな、そこまで予知技術が発達しているわけでもない。あくまで危険の「漠然度」の説明しかできない。期待の言葉を聞けないメディアは「何が言いたいんだ」とばかり詰め寄るが、自分たちの理解力が無くなっていることに気づいていない。

知の蒙昧
現代人は数値がなければ納得できない。逆に、数値を聞かされると解ったような気がするが、ただ納得するだけで、却って何も見えなくなっている。
巧妙な詐欺はファクトとエビデンスと数値を羅列する。一度も会ったこともない有名人が「実際に」メールや電話をしてくると間単に信じる人がいるのは、社会インフラとしてのメディアを、自然環境のように信じているからだ。
そんな人を笑う教養人も、自分の知識にある「確かな」情報と思えば信じ込む。成績優秀な人がオウムを信じたのも、自分の信じる知識を、想定外の論理で展開する麻原のデタラメな「新しい」知に魅了されたからであり、これが詐欺の世界だ。

情報社会では、知識こそが真実の入り口だと信じられている。
歴史が繰り返す理由の一つに、社会認識の老化による思考停止がある。情報飽和の中で知識の認識法が定まると、その社会は他の視点や進んだ視点を持てなくなり、やがて老化した常識を超える現実によって崩壊し、再びゼロから認識を築くことを繰り返す。

こうした思考停止への警鐘が「色即是空」であり、情報飽和による停滞は古代から繰り返されてきた。真理は情報や価値観の外、「無」にあると言うのだが、情報社会に埋没した現代人は、科学的に説明できない「無」は、理解も納得もできない。
ちなみに、生老病死の苦の受け止め方も、価値観によって変わる。欲を捨てよとは、価値観が誘発する欲のことであって、基本的な生命欲のことではない。

地震という苦から、情報と科学で逃れようとする欲は、現代の煩悩であり、コロナワクチン同様の科学信仰の免罪符だ。科学の成果は偉大だが、その前に大切なことは、自然災害やパンデミックへの悟りと姿勢だ。先ず、逃れられないものを受け入れ、その上で、向上への営みを続ける。

生老病死から逃れられないように、自然災害からも逃れられない。その認識こそが科学的努力を生み、災害への対処を生む。
科学が何とかしてくれると偶像化するのは、雨乞いとかわらない。個々は自分の認識と判断で行動する覚悟を持ってこそ救われる。科学の最前線にある人はそれを認識しているが、科学の成果だけを求める人は、ネットで買い物をするように答えと救いを求め、期待外れだと己の欲を忘れ怒り出す。

周章狼狽
気象庁の気持ちが伝わらなかった日本社会は、心がけではなく処置をした。
テレビは24時間災害テロップを映し、首相は出国を止め、電車は運転を見合わせ、催しは中止された。さらに悪いことに、伊豆や北海道で大きめの地震が続いた。この状況に震え上がった人々は、旅行、宿泊のキャンセルをし、膨大な経済損失を出す結果になった。
この責任はメディアの蒙昧にあるが、厚顔メディアは不都合になれば科学者たたきに変わるだけだ。

日本は災害列島だ。一時たりとも地震から逃れられないが、日頃はそれを忘れて暮らしている。日夜地震と向かい合っている科学者が首をかしげただけで、突然、地震だと騒ぎ出す。警戒をすることは良いことだが、あたかも、今だけ特別な事態になったように騒ぐのは、日頃、いかに現実に目を背けているかということだ。それが、原発災害や多くの死者をだした。
日本列島は大ナマズだ、何時どこで動くかより、何時動かれても振り落とされない常在戦場の心がけがなければ、日本列島にはとうてい住めない。


AI対話 2

2024年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム

AI対話」で蘇とチーズのつながりの可能性を問い、かなり手応えを感じたので、十代から抱き続けてきた疑問を問うてみた。長くなるので結論だけ言うと・・・

<疑問>
日本語の「櫂」と「カヤック」の語源は同じで、水や、その上を渡ること、それにまつわるものは「ka」や「ca」と言ったのではないか(ka ke ca ce sa se)。
さらに、「sea」や「sail」の語源とも超太古でつながつていたのではないか。
・・・
この疑問についてChatGPTと対話を繰り返し、ほぼ確信に至った。

<概要>
少なくとも環太平洋地域では、水上を渡るものは、カヌーやカヤックなど、「ka」や「ca」「qa」、「か」の音のイメージで伝わってきた。
また、印欧語の「s」が、他言語で「k」に対応することもあり、「sea」が「ka」に対応する可能性は否定できない。
このことから、個人的独断として、海と舟は超古代に人類が海に出遭い、それを渡った時から、変わらぬイメージとして生きてきた。


以下、ChatGPTに提示された単語。(※は私的注釈)
環太平洋地域の言語
1. 日本語
 櫂(kai): 船を進めるための道具。※舵、掻く、漕ぐ等も
 海(umi): 海洋。
 舟(fune): 水上を移動するための乗り物。
  ※umiは、うつろなど、とりとめのないものを指す「u」の音感?
   funeは出自不明だが、umiやukuと関連?

2. ポリネシア諸語
 カヌー(Canoe): 伝統的な舟。
 マオリ語(ニュージーランド): waka - 舟。
 ハワイ語: waʻa - カヌー。
  ※日本の古語では海を(wada、wata。渡るも関連)
   wakaは wada+ka ?
3. アボリジニ諸語(オーストラリア)
 カヤック(Kayak): 小型の舟。
 ユランダジ語: yuk - カヌー。※Kayakの訛り
4. アステカ語(ナワトル語)
 アトラカ(Atlaca): 水を渡る人(舟で渡ることを指す)。
 アトル(Atl): 水。
    ※大西洋の語源はラテン語Atlanticus aquaラテン語の水
     古代米大陸とヨーロッパのつながりを連想させる
5. インドネシア語
 Kapal: 船。
 Kano: カヌー。
6. フィリピン諸語(タガログ語)
 Bangka: ボート。
 Sakay: 乗る(船に乗ることを含む)。
7. マレー語
 Perahu: ボート、舟。
 Sampan: 小舟。
8. 韓国語
 배 (Bae): 舟、船。
    ※出自不明。ロシア語では水をвода (voda)。タガログ語Bangka
その他の地域の関連単語
9. エスキモー・アレウト語族(イヌピアック語)
 Qajaq: カヤック。


持ってる

2024年08月05日 | 星の流れに

オリンピックのサッカー、スペイン戦で、細谷真大の劇的同点弾がVAR判定で取り消され、「三苫の1ミリ」との対比で「細谷の1ミリ」と言われた。
細谷は確かに良い選手のようだし、それだけの実績と信頼があるのだろう。ずっと使い続けられてきた。しかし、今回の大会、何かと不運だ。
生年月日を観て、「やっぱり!」と嘆息した。乙女座だった。

このところ、ことあるごとに書いているが、変容宮はちぐはぐな不運に見舞われる。
魚座の土星、双子座の木星、火星、それに天王星の影響まで加わり、好事魔多しのようなことばかりになる。中でも乙女座は、これまで牡牛座の天王星と山羊座の冥王星に支えられ、幸運に恵まれてきただけに、その神通力が無くなり、不運が目立つことになる。

天王星が来た星座は大いに目立つが、それが通り過ぎるといつの間にか消えていく。このところ女子サッカーで牡牛座が目立ってきたように、10年前の天王星・牡羊座時代は男子サッカーでは監督のザッケローニを始め、牡羊座が目立っていた。
天王星通過の星座は異常に目立つが、その星座と好相性の星座は幸運に恵まれ、努力次第で、実力+αの結果が出せる。これまで乙女座がそうだったが、今は天秤座に入れ替わった。日本は天秤座だ。

占星術の観点からは、実績は必ずしもアテにできない。ラッキーボーイやシンデレラは惑星が来た「持ってる」人物の中から生まれる。
選手起用には占いも加味すれば良いのだが、科学時代だから証明できない基準などありえない。事件捜査など人権が絡む問題には決して用いてはならないが、勝負事などには、一つの余興として考えても良いのではなかろうか。