魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

不満が生む不幸

2008年10月31日 | 占いばなし

占いで「良いことが起こります」とか「良いことがありましたね」と言うと、たいていの人が「何にもありません」と言う。
ところが、悪いことに関しては、「あったあった」と、たいていの人が同意する。

運の波が来ても、幸運をつかめる人とつかめない人がいる。
逆に、凶運が来ても、上手に避ける人がいる。
だから、必ずしも同じ結果にはならないが、幸、不幸の神様は、必ずノックをしている。
それをつかまえるか逃すかは、才能しだいだ。
(それも運のうちだが)

同生年月日の同時刻生まれでも、同じ結果にはならない。
しかし、「同じ意味」にはなっている。
たとえば、一方が総理大臣になったとき、片方は町内会長になるといった具合に、ある側面で一致する。
つまり、同じ運命の波でも、使い方で大きさが違うと言うことだ。
占いを知って得するとすれば、この点だろうか。

生時が同じ人は数多いる。
スケールを変えるのはDNAなどの資質だろうが、それでも占いを知れば多少は変えられる。

「幸、不幸」の話にもどそう
人間は幸運には鈍感で、不幸には敏感だ。
良いことは当然で、悪いことは不当だと思う。

バブル崩壊で、株価も物価も低迷している時、役人の友人が
「給料が下がるからやっていけない」とぼやいていたので、思わず
「株価は1/4で、世間はリストラの嵐が吹いているのに、何を悠長なことを言ってるんだ」と、思わず甲高い声になった。

官僚から木っ端役人に至るまで、役人根性とはそんなものだ。
官僚の天下り論を聞いていると、どんな嵐でも自分の船は不沈艦で当然だと思っている。
破綻状態の大阪府でも、知事に噛みつく役人の論理は同じだ。
自分たちは当然だと思って堂々と述べているが、それが非常識であることすら気づいていない。

役人は典型的だが、国という大きな組織の中にいる国民も、実は大差ない。
幸福は保障されるのが当然だと思い、少しでも不都合が起きれば大騒ぎをする。
この国民心理をとらえて食い物にするのがマスコミだから、希望的なことより、悲観的なことばかりを騒ぎたてる。

当然、その方が反応が大きいからだが、それにつられて騒いでいると、
トンビや漁師に、ごっそりやられる


どこへ転換

2008年10月30日 | 大転換

冥王星→山羊座は、ワットの蒸気機関から250年目の大転換だが、じゃあ、どこへどう転換するのだろう。

原子力が再評価されてにぎわっているが、日本経済が怪我の功名で
消去法の評価で円高になったのと同じだ。

他に選択肢がないから人気しているが、考えてみれば、原子力といっても、現在の原子力発電は蒸気機関の発想と何も変わらない。
原子炉の熱で蒸気タービンを回して発電するだけだ。
爆発を直接エネルギーにするガソリンエンジンより旧式だ。

原子爆発を直接エネルギーにするロケットは研究中だそうだが、何時のことやら。
もし、原子力が次世代エネルギーになるとすればこのあたりだろうが、それでも燃料問題は解決しないし、リスクが大きすぎる。

今から出てくるものは、この250年の方法を一気に転換する新技術か、あるいは逆に、新技術に頼らない生き方だ。

新技術の可能性として考えられるのは、「核融合」だろう。
これからの20年で、かなり目鼻が付きそうだ。
百年ぐらいしたら、核融合電池みたいなものをポケットに入れて歩くかもしれない。

別の生き方
画期的な発明がなくても、心を入れ替えれば、人類はスローライフで生きられる。
石油があるから、自動車や飛行機を思いついたが、悪事から更生する時がきた。

その気になれば、自動車は太陽光で走れるし、飛行機も飛行船にすべきだろう。
自動車を否定はしないが、今の北京をみていれば、ちょっと前の「自転車の北京」の方が、はるかに美しかった。
移動の基本を公共交通機関として、徹底した工夫をすれば充分まにあうはずだ。

飛行機は太陽電池に覆われた飛行船に換え、気流を利用して飛べば意外に便利だろう。成層圏に宇宙基地ができるかもしれない。
電気は月からレーザーで送れば太陽エネルギーも利用できる。

まあ、素人には夢の話だが、科学者にはもっと大きな構想があるだろう。
夢をかなえるには、「ケツに火がつく」ことが必要だ。

今、人類のケツがぼうぼう燃えている。


PTSD

2008年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

リーマンショックで、日本の株価は実体経済に比べて落ち過ぎだ。
マスコミが煽り立てるのは常のことだが、
インチキ経済の張本人のアメリカより下落率がひどいそうだ。

リーマンショックから一月もたたないうちに、世間はすっかり、実体経済がダメッジを受けてしまったかのようなムードが漂っている。
マスコミが「ああなるゾ、こうなるゾ」と先走っても、日本以外では、いまだ半信半疑でいるにもかかわらず・・・

日本中が緊縮生活に突入した。高級品が売れず、タクシーは空車ばかり。
確かに、今年はみるみる物価が上がり、景気減速が目立ち始めてはいたが、そこにリーマンがきたから、と言っても激しすぎる。

他の国に比べ、日本だけが過激な反応をするのは、
日本人には「バブル崩壊のPTSD」が根深いからだろう。

羮に懲りて膾を吹く
何ごとも水に流して、喉元過ぎれば熱さを忘れる日本人でも、失われた十年は、よほどショックがきつかったのだろう。

日本文化はA型だ。事態の詳細より感情が残る。
事態の詳細を見極めるより「おおコワッ」と穴に逃げ込む。
敗戦のショックは60年余の今日でも、お祈り平和主義のままだ。

そうかと思えば、落語の「岸柳島」ではないが、企業は流れる川で落とした悔しいチャンスを拾いに行こうとする。
柳の下にドジョウはいない。
経済の川は常に流れているし、ビジネスチャンスも同じところにはいない。日本企業は現実を見極めているのだろうか。

かと言って、経済に科学が通じるかと言えば、うまくいくはずの経済が、幾度となく破綻する。資本主義も共産主義も変わらない。

行く河の流れは絶えずしてまたもとの水にあらず
河とは何かを理解するには、水を分析する経済科学より、流れを俯瞰する占いの方が、よほど確かに形が見えるかもしれない。


横町のご隠居

2008年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム

縁もゆかりもないが、どういうワケか、北野武とは常に意見が合う。27日も、タックルで年金のことを、ややこしすぎると言っていたが、このブログでも前から言っているように「老後を路頭に迷わせません」の一点で良いのだ。

北野武が映画作りを始める以前に、映画について論じているのを聞いて、同感し、『これはすごい、映画が解っているなあ』と感心して、ことあるごとに「タケシはすごい」と話していたら、お笑い芸人に何でそこまで入れあげるのか、怪訝な顔をされた。

その後、映画作りを始めて、賞をもらったりしたら、世間はみな、御大扱いをするようになった。
そうなると今度は、素直に「タケシはすごい」と言いにくくなった。
タケシは好きでも、「世界の北野武」だから好きなわけではないからだ。それに、お笑いとしてはそれほどおもしろいとも思わないし、タレントや芸人としては滑舌が悪すぎる。

タケシに共感するのは、おそらく反骨精神だろう。
末っ子のハチャメチャや、マザコンのせいもあるかもしれないが、
ストリップ小屋でのお笑い修行や、軍団を率いての殴り込みは、常に自分の殻を破る挑戦であり、おそらくは、自分の常識やモラルを超える実践なのだろう。
お笑いは常識の裏返しだが、タケシの基本はきわめて常識的であり、すべてが、その重圧から逃れるための発想と行動のように思える。

権威や秩序の意識にとらわれるから、常にそれをぶちこわそうとする。

江戸っ子
タケシの良さはそれだけではない。江戸っ子の素直さと偏屈さだ。
地方出身の有名人のような、立身出世という中央コンプレックスが全くない。
TVに出たりすることは、町内会の演芸会ぐらいにしか思っていない。

上下意識がないから、偉ぶったり恐れ入ったりしない。
東京出身のほとんどの有名人がそうだ。
中には親が地方出身で、かなり勘違いな人もいるが、大方は、暑苦しい存在感がなく、淡々としている。小賢しさがなくお人好しだ。
ことに、タケシのような下町育ちになると、立て前や体裁とはえんのない本音と人情がむき出しになる。

同時に、地方の人間のような、立身出世の権勢欲がないから、政治に意見はあっても、やる気はない。


好事魔

2008年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム

宝くじ殺人の熊谷甚一容疑者はかなりのタレ目だ。
タレ目」については去年も書いたが、かわいらしく優しそうに見えるので異性問題も多い。うまくいっていた会社が何で倒産し、なぜ再起を図れないのか興味深い。

それにしても、宝くじに当たっても身近な人に話したらろくなことがない。もし話すなら、大々的に公表して即座に使い切る方がいい。

だいたい、宝くじ当選者の多くは、あまり良い結果にならない。
これは、木星などの惑星がやってきた時の現象と同じで、
酒の勢いを現実と錯覚する人間の弱さと同じだろう。

思いがけない幸運は、あくまでボーナスだ。
酒を飲んで気持ちよくなっても、覚めれば日常が続いている。
日常を快適に過ごすために酒でリフレッシュする人と、日常を逃れるために酒におぼれる人の違いなのだが、たいていの人は酒で失敗をする。偶然の幸運は人生設計に加えるものではない。

宝くじの主催者は、ただ当選金を出したり、預金させたりするだけではなく、当選者のために、「内緒の」ファイナンシャルプラン相談をすべきだろう。


〈(;。;)〉

2008年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム

風邪の神さん、ようやく出て行ったけど、
まだ、門のあたりでウロウロしているみたい
(@@;)

お見舞いやら、励ましやら頂き、ありがとうございます。
思いがけず読んでくださる方があることに驚き、感謝しています。
相変わらず、マイペースのパクパクなので、
ご期待には添えませんが
これからも、よろしく


お休み

2008年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム

貧乏神が風邪の神さんを呼んで酒盛りを始めたので、
ブログどころではなくなった
しばらくは接待で忙しくなりそうだ。

やれやれ、どななたか引き取ってくだされ
グスー

昔の話は、
「ふとした風邪がもとで・・・」死んでしまう
今なら、数多の病名が付くだろうが、死ぬ時は、やっぱり死ぬ
どうせ死ぬなら、
ふとした風邪の方が、面倒が無くていい


土下座

2008年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム

ドラマと言えば
今回の朝ドラ「だんだん」には、ウンザリするほど「土下座」が出てくる。

朝ドラはほとんど見ない。
「だんだん」は京都と松江という観光名所に興味があって少し見たが、やっぱり見ていられない。朝ドラは設定を変えても、結局、同じパターンに収斂していく。

国民番組のような朝ドラの性質上、やむを得ないのかも知れないが、あり得ないようなドラマ設定でも、月並みな価値観で決着する。
あり得ないような設定なら、極端な価値観や結末が有ってもよさそうなものだが、すべて、八つあん熊さんのハッピー話にしてしまう。

だからダメだと言うのではないが、多様な生き様が単なる「変わり者」で片づけられるのなら、ドラマでなくても世間話でいい。
まあ、だから親しみを持って気楽に見られるのだろう。
朝ドラで、連続殺人鬼の物語というわけにも行かない。

それにしても、「おしん」の頃まではまだ、リアリティーがあった。
近年、朝ドラに限らず、ドラマ全般が講談や落語になった。

マンガ的展開
いつの頃からか、ドラマは漫画やアニメの実写版のようになった。
手塚治虫が、映画を漫画に取り入れてから半世紀以上経って、いまや、映画やTVドラマが、マンガになっている。

スパーマンが映画になった頃には、コミックは同一サイズの画面で、淡々と映画のような展開をしていたが、
日本で発展したマンガには、時空のダイナミズムがある。

世界を説明する神話の時代から、日本人は物語そのものの中に遊ぶ感性を発展させた。
千夜一夜や聊斎志異なども面白いが、表現が単純だ。それにくらべ、日本の絵巻物や浮世絵には、観念世界を無限に拡げる伝統がある。、

春画の男根を見た欧米人は、日本人はこんなに大きいのかと思い込み、日本男児が良くもてたという、本当かウソか判らないような説があるが、遠近法にこだわる欧米人には、巨大なデフォルメは理解できなかっただろう。

世界的なマンガ、アニメブームは、日本の観念世界の面白さだ。
その新鮮さが世界的に興味を持たれているが、これはどんなに真似をしようとしても、おそらく一朝一夕には真似できない資質だろう。

しかし、どんな芸術にもパターンがあって、アニメも例外ではない。
例えば、「土下座」も約束事の一つだ。
マンガには他のジャンルにはない表現力があるが、逆にどうしても表現できない、苦手なものがある。それが、時間に制約のあるアニメになると、ますます顕著な様式になった。

映画や小説は、細やかな感情を表現できるが、動かない絵で表現するマンガにはかなりむづかしい。(もちろん達人はいるが)
すると、どうしてもインパクトのある表現に走りがちになり、行動様式もストーリー展開も大げさになる。

その良い例が土下座だ。やたら多用されるために、現実社会でも、土下座が一つの常識になった。詫びの最上級の形が土下座とされると、一方で、土下座が最大の恥辱とも理解されるようになった。

形は心ではない
ここで、土下座の歴史的背景や、恥辱の程度や意味合いについて論じ始めると際限が無くなるので、結論だけ言うと、
土下座というタイソウな様式によって、本当に懺悔し詫びるということが解らなくなっている。

つまり、懺悔や詫びは形によって表されるものではなく、自分の内面を強く痛めつけるものだ。
昔の映画やドラマには、軽々しく土下座は出てこなかった。
そういう臭い演技ではなく、沈黙や、目の動きで悔恨や苦悩を表現した。また、それを感じ取れる観客がいた。

様々な仮想空間の発達により、現代人は自己を失っている。
内面の喪失は、外面を実体と見るようになり、
動きの大きい物しか理解できなくなった。
それが劇場型社会と呼ばれるものの正体だろう。

ジム・キャリーや竹中直人が役者として評価されるのも、今の時代ならではとうなずける。

マンガからアニメへ、アニメからドラマへと波及した虚構空間は、ついに現実社会へ及び、あり得ないような事件が多発するようになった。

しかし先日、留学仲介の「ゲートウェイ21」の社長が土下座をして見せたことで、かえって「土下座」の虚構と無意味さが証明されたようで、少し安心した。

土下座に真剣な詫びの心など無い。
安易に詫びない人の方が、心底後悔している場合も多い。
土下座を要求したり、安易に土下座をしたりする文化は育って欲しくないものだ。


顔 2

2008年10月19日 | 占いばなし

「顔」の話で、TVに同じような顔がいるのは、美男美女の基準が偏るからではと書いたが、
もっと顕著なのは、一つのドラマに同類の顔が集まることだ。

キャスティングは誰がやるのか知らないが、おそらくその権限を持っている人の好みが反映するのだろう。
たいていのドラマにその傾向が見られるが、今回また笑ってしまったのは、NHKの土曜時代劇「陽炎の辻2」だ。
山本耕史、中越典子、近藤正臣は、ほぼまったく一族の顔で
あとも、おおかた同じ人種だ。
一言で言えば、顴骨高く、口が小さい。鼻の先がちょこんと出て丸い。

似たような顔が集まると言っても、ここまで似たようなキャスティングだと、どんな良い芝居をしていても、村芝居を見ているような気がして、おかしくて見ていられない。

良い監督やプロデューサーは役に合わせて役者を選ぶだろうが、自分の好みに合わせて役者を選んだとすれば、それは制作以前の幼児性で、選んだ張本人の顔さえ見えるような気がする。

美人の星美人のDNA


「格」不拡散

2008年10月18日 | 星の流れに

これから時代は」で、魚座時代の感情的な対立現象として
」という言葉の流行を挙げたが、格付け会社の横暴が金融マネーと連動して、世界経済をかき回した。

「格」という虚構が、正義のように世の中を闊歩する。
そういう、魚座の世相が、いよいよ末期を迎えている。
格付け会社や金融証券といった魑魅魍魎は、
成敗されなければならない。
日本の金融機関は、今ごろ、その抜け殻を拾い集めている。

「何を信じて良いのか解らない」時代が終われば、
「一から始める」時代が来る。
情報を信じるのではなく、自分を信じなければならない時代が来る。
それができない人は、信じる人について行く。

おひつじ座時代が来れば、さまざまなリーダーが現れる。
天国に導くリーダー、地獄に導くリーダー

昔の人は言う
世の中は目くら千人目あき千人


餓鬼の文明

2008年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

NHKで食糧危機の特集をやっていた。
「何を今更」と思ったが、案外、一般には耳新しいことなのかも知れない。
こんなことは30年以上前から解っていたし、言われ続けていたことだ。それでも、目の前で起こるまで、誰も考えようとはしない。

30年前に、進路相談を受けた。子供のできが悪いので農業高校にしか進学できない、とお母さんが悩んでいた。
その時、嘆くことはありません。これからは農業の時代が来ます。
今は、人気がありませんが、これはチャンスですから、むしろ高校に入って勉強して、できれば農業大学に進学したら良いじゃありませんか。そう言うと、でも、うちは農家じゃありませんし、と言うので、何も自作農だけが農業じゃありません。と話した。
その後、農学部に進学したとのことだった。

なぜ、世間の人は目の前しか見ないのだろう。
今起こっていることを、歴史に照らしてみれば、どうなるか簡単に解りそうなものだ。

工業生産に浮かれて食糧自給率を落とせばどうなるか。
終戦直後、都市生活者は、百姓、百姓とバカにしていた農家にすがりつくしかなかった。
力を背景に他国に入り込んで築いた新世界は、力を失ったとたん、すべてを失った。
グローバル化さえ進めば、工業製品で食料が買えるという、つじつま合わせで命は守れない。
動物は先ず自分の命が優先する。

誰も疑わないのだろうかと不思議に思うのは
海外事業とか海外生産とか、勇敢に?展開していることだ。サハリン2の例もある。

東大教授が、今回の食糧危機に、世界中が簡単に食料輸出制限をしたことに驚いていたが、
本気で言っているのだとすれば、人間に夢を見すぎているとしか思えない。


巨大な影

2008年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

15日の夜は澄みきった満月で、家々の屋根も草木も、白々と輝き、闇に暮らした古の人々の、月夜によせる想いが偲ばれた。

明けて16日、株価はまた大暴落。街に出ると、救急車、消防車、パトカー・・・あらゆる種類のサイレンが鳴り渡っていた。
これもまた、満月の「逆噴射」だ。

満月には狼男が出ると恐れられていたが、
現代の狼男はブロッケンマンだ。
プロジェクターで雲に投射し、スピーカーでがなり立て、TVでわめき、ネットを駆けめぐる。
すると、世界中が狼男になる。
自分を失い、目の前のことも見えなくなる。

災いの元が自分であることが解らなくなる


逃れよ逃れよ

2008年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム

資本主義経済。ことに、近年の金融マネーの野放しは、世界中を賭場にしてしまっていると言ってきたが、

その間も、日本の政治経済の場では、博打打ちマネーを導入しなければ、日本が滅びるかのような論調が大手を振って歩いていた。

そこに、突然のパニックがおこると(占いでは予定通りだが)、
TVでご託宣を述べていた連中が、こんなのは博打経済だ、と言い出した。
一月ほど前は何と言っていたか、忘れたらしい。

とにかく、マスコミ専門家というものがいかに信用ならないものか、
併せて露呈した。
もう一つ言えば、政府系ファンドを叫んでいたような、蒙昧政治家を再選させるべきではない。

経済のグローバル化とは、とりもなおさず、世界の賭場化だ。
現代は、金融なしでは生産も成り立たない。
実体経済も金融の子だ。

産業革命後の常識を疑う
金融によって、生産に翼をつけて飛翔する。それによって、不可能だったハズの高度で現代人は暮らしている。
だが、金融の翼が折れると、たちまち墜落する。
むろん、おかげで月まで行くこともできたし、人口も増えた。
しかし同時に、殺し合いも、地球環境の破壊も拡大した。

金融という他人の金をアテにした金儲けは、根本的に博打の金儲けと同じだ。
実際、博打で儲けた人間は派手に使うが、負けることは忘れている。

手工業時代の商売にも、博打精神は必要だった。しかし、設備による大量生産が加わることで、博打のスケールは桁違いに拡大した。
そしてさらに、その「博打の勝ち負け」に賭けるヤツが出てきた時から、パンドラの箱は開いてしまった。

このまま行けば、人類は自滅する。
一刻も早く博打から足を洗うか、スッカラカンで出直すしかない。

足を洗って、地産地消の経済へ、パラダイムシフトだ。
要らない物を作るな。要らない物は買うまい。


土星が天秤座に

2008年10月13日 | 星の流れに

大恐慌にはまだ微妙に早い。
地鳴りが聞こえる乱高下) 

と言うことは、もっと恐ろしい崖が待っていることになる。

1929年の大恐慌から、84年周期の天王星が回帰する時、
天秤座の日本には、ちょうど土星が来ている。

2009年10月末、土星→天秤座 3年間
天秤座は日本で、活動宮
活動宮は(日本、中国、インド、EU)

2010年5月末、天王星→牡羊座 7年間
牡羊座はEU(英仏独)で、これも活動宮

今から1年後ぐらいから、崖っぷちだ。
主役はもはやアメリカではない。
活動宮の国々だ。

今の状況から考えられる
21世紀の大恐慌
バクチ打達がみなフンドシ一丁で帰った後、
日本と中国との差しの勝負になって、
勝った方が、帰り道に襲われる。
結局、みんなスッカラカンになり、
にぎりめしの奪い合いが始まる。

1929年の大恐慌の後、各国が独自の経済復興策を打ちだし、どの国も一時的に活況になった。
しかし、汚れた好景気には悪魔が潜んでいる。
大恐慌後の偽景気は、第二次大戦につながった。

ともあれ、大破綻の前には「最後の輝き」がある。

心配事
2009年10月末からの土星で、日本は意固地で怒りやすくなる。
前に土星が来た1950年 1980年から考えると、
本格的な再軍備も考えられる。


打ち出の小槌

2008年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム

ヤミ賭博は必ず密告者が出て捕まる。
儲けるつもりで参加して、損をしたら腹いせにタレ込む。
バクチで儲けようという根性は、始めからそんなものだ。

アメリカは公的資金注入に、国民の反対が強くなかなか踏み切れなかった。日本のバブル崩壊時の国民とまったく同じ反応だ。

当時、初めから、公的資金注入しかないと思っていたから、
日本人は資本主義になれてないから、経済全体が理解できないのだと思った。
しかし、アメリカでも、まったく同じで、目先のお金と感情でしか考えない。
結局、資本主義の本家さえ、ほとんどの人が経済原理を理解しないで、自分の財布ばかり覗いている、それがよく解った。

経済社会のマネーロンダリング
ある意味では、アメリカ人より、日本人の方がよほど経済原理を解っているのかも知れない。

日本では「風が吹いたら桶屋が儲かる」という落語が生まれ、それをみな笑いながらも理解する。
これは高度な経済原理を含んだ笑い話だ。

経済社会では、互いに関係しないお金の動きはない。
何時までもあると思うな親と金。悪銭身に付かず・・・
お金にまつわるコトワザは数多くあるが、
こつこつ稼いだ金も、賄賂で貰った金も、
お金はお金だ。

越後屋がお代官様を接待すれば、御茶屋が儲かり、御茶屋が食材を買えば百姓や漁師が生きられる。

バブルでさんざん儲けて、経営失敗で損をした証券会社や銀行を、何で税金で救ってやる必要があるのか。そういう意見が大半だったし、アメリカもまた同じだ。

しかし、バブルで儲けたのは証券会社だけではなかった。回り回って、株とは何の関係もないサラリーマンも、給料が上がり、貯金しておくだけで預金は増えた。もちろん、商店もよく売れた。

上流で水汲み水車が回って、飲み水が来ているのに、水車が壊れたから修理費を払えと言われたら、
「水車なんか見たこともさわったこともない。なんで、ウチらが修理費払わんならんのか」と、払おうとしない。
そのうち、水が来なくなって、水車の管理人のおやじが堪らず修理してしてしまうと、金を返せ、水が来なくなった損失を弁償しろと騒ぐ。

実際、証券会社や不動産屋のお金はどこに消えたんだと騒がれたが、
多くは、バブル期に増えた国民の収入となって、銀行に眠っていた。
税金は投入されたが、国民の預金から払われたわけではない。
払わないでいるうちに、土地は下がり、ローンは焦げ付き、銀行や保険会社は倒産し、結果、強制的に払わされた。

結局、国民の勝手な声の、ご機嫌取りをしているうちに土台から崩れた。
それを見て良く知っているはずのアメリカが、動けないでいる。
資本主義だけではない、民主主義も問われている。