魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

正月宗教

2020年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
♪帰ろかな~帰るのよそうかな~「かえろかな」昭和40年、北島三郎。
コロナ禍で「上を向いて歩こう」を歌う人がいたが、永六輔、中村八代の歌は、「かえろかな」とセットになったようだ。
♪帰れない~帰ればにらまれる~

盆正月にはふるさとに帰る。高度成長期から、「♪僕の恋人東京にイッチッチ」と、日本中の若者を東京に集めて、「恋人よ・・・ぼくは ぼくは帰れな」くなった青年は、それでも盆正月に家族のもとに帰ることで、アイデンティティを確認してきた。
盆正月の満員電車や大渋滞は、個人的な参勤交代として、江戸の名残を見せていた。
しかし、その世代が東京圏に根付き、地方との繋がりが薄れていくにしたがい、節季渋滞の中身は海外旅行などの慰安旅行に変わっていった。

コロナは終に、この風景に終止符をうつ。ガラガラの交通機関は、今回だけの特殊事情ではない。コロナ後は、これをきっかけに、半世紀をかけて、日本の風景が生まれ変わるだろう。学業と仕事のあり方が変わり、東京一極集中が無くなるから、半世紀以上続いた、盆正月の帰省ラッシュも消える。初詣も昔のように、近所の神社が見直されるだろう。
既に、リモートワークの経験が、個人や企業の東京脱出を加速しているし、地元に帰りたい人は、地元で働くことを模索し始めている。

正月は「海の日」と同じ
この季節になると、正月のことを書くことが多くなるが、今年はその価値がありそうだ。
多くの人は、正月を一年の初めと信じているが、これは全く人為的な決めごとで、夏に「海の日」を定めたように、社会や政治の都合で定めた約束事に過ぎない。
自然に基づいて一年の初めを定めるなら、冬至か春分、あるいはその中間点の立春が妥当だろうが、様々な事情や都合で、今の一月一日が定まった。
だから、新春にこころを新たにするのは、約束事にしたがって自分が変わると信じる、一つの宗教だ。

正月に親の顔を見に帰ったり、神社に参ったりするのは、それ自体が宗教行事であり、年の初めとは何の関係もない。自然の流れにしたがって、こころ新たにするなら、春分、秋分の墓参りの方が、よほど敬虔な行為だ。
近年、宗教としての正月はかなり影が薄くなっていたが、とうとうコロナで終わりの鐘が鳴った。

今年は、新しい習慣の試金石で、正月に帰省しなくても、初詣に行かなくても、どうってこともないと経験する年になる。もちろん、コロナが収まれば、倍返しする人は増えるだろうが、今年の経験が、後年にもたらす影響は小さくない。
お寺や神社に参るのは、そうしたいと思った時にするもので、西暦の初詣はまた別の宗教だ。強いて本当の初詣をするとすれば、冬至か立春だろう。
親の顔を見たいと思うなら、始めから、ふるさとを出ないのがいい。これからはそれが可能になる。

権力行使

2020年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
近代以降、メディアと戦争は切り離せない。反戦を盛り上げるのもメディアなら、戦争を仕掛けるのもメディアだ。  
メディアが起こした戦争で有名なものは19世紀末の米西戦争がある。太平洋戦争でも日本のメディアの責任は大きい。
メディアは司法・立法・行政に次ぐ、第四の権力と言われてきた。中国は、日本政府にメディア報道を何とかしろと注文をつけるが、ものすごい認識不足か勘違いだ。でなければ、露骨な恫喝だ。

メディアを党の宣伝機関とする、ナチスや中国共産党なら成り立つ意見かもしれないが、民主主義社会ではメディアは国民のツールとして存在する・・・ことになっている。
メディアは民間の組織であり、独立しているからこそ第四の権力の側面を持つ。
しかし実は、この力に、メディア自身が溺れ、利益のために定見無く国民を煽る。その弊害の最たるものが戦争扇動だ。
現在なら視聴率、新聞時代は販売部数のために、ひたすら扇情的に報道を垂れ流す。しかも、メディア報道は、あたかも知的考察のようにふるまい、都合の良い情報を列挙するから始末が悪い。

噂を信じるのは、日頃よく知る人から聞くからだが、その伝える人もまた、馴染みの人から聞いてきた。メディア情報を信じるのもこれと同じで、現代人は、学校や本を通して、自分が確かめたこともない情報を信じる習慣が身についている。
そのメディアは、テレビの普及で活字媒体が劣化し、さらに、ネットの普及で影の薄くなった電波メディアは視聴率に追われ、報道精神が失われる一方で、第四権力の座を取り違え、揚げ足取りの、愚劣で独善的な制裁を正義だと信じ込み、ますます堕落している。

情報の国アメリカ
メディアの思い上りがあからさまに行使されたのは、今回のアメリカ大統領選挙だ。
メディア、IT業界は、総掛かりでトランプの妨害をした。トランプは初めからアメリカ立前社会のヒールであり、まさかのトランプ大統領に、感情的に反発してきた。
自分たちが信じる知性の安寧のためには、何が何でもトランプを退治しなければならず、そのためにはどんな下品な対抗策も許されると信じている。
日本のメディアも、アメリカメディアに追随し、一方的なスタンスで情報を垂れ流した。

このアメリカ立前社会は裸の王様を信じる大人であり、トランプは「王様は裸だ」と叫んだ子供だ。アメリカの分断は、現実を直視しなくなった大人と、上手く説明出来ないが現実を見ている子供との断絶であり、中国の現実に気づかされた大人も態度を変え始めた。
分断分断と騒がれるトランプ現象は、アメリカ民主主義の知性が偏狭な世界に入り込んでいることに対する、現実感の反乱だ。

「売り家と唐様で書く三代目」(学芸道楽の果てに家がつぶれた)
人は満ち足りると現実を忘れ、観念や知識に支配されるようになる。優しいお姫様は強盗の恐ろしさを知らない。衣食足りて礼節を知った先進国は、強盗に追い銭をする。
温暖化が事実でも、CO2の排出を抑えれば解決すると考えるのは短絡だ。温暖化の原因はCO2だけではないし、排出の抑制より利用の道もある。このような現実を見ない偏った知識信仰が、過剰な運動や排斥を生んでいる。差別を無くすつもりで、逆差別を生み、途上国や弱者を救うつもりで自分の首を絞め、結果的に、ウイグルやチベットのように、弱者を追い詰めている。

アメリカは、教育、新聞、ラジオ、テレビ、ネットの国だ。
広大な国土に見知らぬ者が集まれば、必然的に共存のツールとして発達し、当然のことながら、世界共存のツールとして普及した。
しかし、古くからの一体感がある国は、ナチや中共のように、むしろナショナリズムなどの潜在意識を、利用する道具として使う。

上から目線の野次馬
日本も一体感の国だが、ドイツや中国より遙かに一体感が強く、メディアは高札の「お知らせ」であり、事実広報として受け止められる。高札を引き抜いたりすれば処罰された。したがって、日本のメディアは自身の正当性をアピールする必要がない。メディアは意図せずとも権力の座にある。
民衆と共に考える立場ではなく、民衆に迎合し民衆を煽り、国家権力に媚びながら、さも、正当な見識かのように粗探しに明け暮れ、視聴率や販売数を稼ぐ。

トランプを支持するわけではない。コロナ防疫を否定するわけでもない。
ただ、分断や、コロナパニックを演出しているのは、この定見のないメディアそのものであることは、忘れてはならないだろう。

戦時狂想

2020年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
夏に「暑い暑い」、冬に「寒い寒い」は、止めようと思っても、やっぱり言ってしまうのが、人情というものだろうか。

コロナ漬けで、どこを向いても、「コロナコロナ」、「ころなかのなか」と繰り返されると、どうしても「違うだろう」と言いたくなる。
寒暖は物理的な問題だが、今のコロナは体感温度だ。体感温度も確かに生死に関わるが、外に出ない、風に当たらないと、心がけ一つで緩和できる。
コロナの体感は、実体を遙かに超えている。暑い日に、「暑い暑い」と大騒ぎして、ふうふうと真っ赤になっているようなものだ。

暑い日は暑いものであり、暑いからと言って、全戸がクーラーを全開すれば、街全体の温度が上がる。今はヒートアイランド化した街で、さらにクーラーをフル回転している。
地震でもなければ、ニュースの前半はコロナのみだ。
密集した群衆の中で、「爆弾だ、逃げろ!」と叫べば、それだけで多数の死者が出る。
英国で、コロナの変異種が出たと再び大騒ぎだ。

笑いや怒りは、ネタをたたみかけられると、悶絶する。いったん火の付いた感情はコントロールがきかなくなり、恐怖が恐怖を呼ぶ。
変異種の特徴は、「感染力が強くなった」ことで、症状が悪化するとは言われてない。
もともと、このコロナの死亡率について、一般的な風邪やインフルエンザとの差を、詳しく比較する話を聞いたことがなく、ネガティブ情報だけ報道される。
感染率、発症率、死亡率の対比検証より、「感染が!感染が!」と、感染そのものを騒ぎ立て、その結果、感染への差別まで起こしている。戦時中、率先して自警団を率いて 「非国民!」と叫んだ人は、政府広報を信じる最も善良な人たちだった。

テキトーに聞き流す
現在、死者約3000人で感染者20万人となっているが、これは死亡率1.5%だから、因果関係の明らかだった当初、見られた0.6%以下と考えれば、実際の感染者は50万人以上いておかしくない。当然、さらに加速する。
今さら、感染を騒いで国民の自粛を求めるより、感染症指定の変更や、医療現場の緩和に向けた知恵を総動員すべきだ。無症状の感染者による「感感看護」や有償ボランティアなど、現実的な手が打てないのだとすれば、これこそ政治の責任だ。

情報が交錯し、聞けば聞くほど解らなくなり、恐怖だけが膨らむ。コロナがどんな病気かより、何が何でも、ただ、「怖い、怖い」で、全てを投げ出して走り出し、ドッと人雪崩(社会経済の崩壊)が起こる。この方が、よほど怖い。

コロナも、変異種もどれほどのものか解らない。しかし、冷静に考えれば、日本のコロナ死は自殺者数より圧倒的に少なく、近年激減した交通事故死と同程度だ。もちろん、米国の銃による死者より、圧倒的に少ない。ちなみに、近年の年間総死者数は130万人余だ。

変異種の感染力が強まったと言うことは、逆にそれだけ、コロナ自身の生存危機が迫り、何としても生き残ろうとしていることになりはしないか。
やっと取り憑いた宿主が死んでしまっては、繁栄出来ない。薄く広く、一刻も早く拡散しようとしている。波紋は広がるほど弱くなる。

ウイルスもバランスをとって生き残ろうとしている。人間もバランス感覚を持って、ウイルスに対処しなければ、自滅する。
テーヘンだ!テーヘンだ!とまくし立てる、メディアの情報はテキトーに聞き流し、淡々、粛々と、日々を送って行こうと思う。

陽は昇る

2020年12月21日 | 星の流れに
一陽来復の冬至。今日からじわじわと陽光が復活する。
月が水瓶座を通過し、土星、木星が水瓶座に入った17~19日は、まるで挨拶のように地震が相次いだ。
いよいよ、木星による水瓶座の年が始まった。水瓶座は十二支では丑を表すから、丑年が始まったことになる。今回の辛丑年は土星も水瓶座に同居しているので、庚子に続き相当、強烈な丑年になる。

水瓶座は、天秤座にとってはチャンスになる。しかし、その水瓶座に対しては牡牛座の天王星が揺さぶりをかけている。
水瓶座はロシア。ロシアにとって足下に当たる牡牛座に異変が起こることを表しているので、内政と経済、領土に関する想定外の事態が起こり、混乱を招く(既に始まっている)。
天秤座の日本と、双子座のアメリカにとって、これがチャンスになる。
日本もアメリカも、ロシアにいい顔をする理由は何もないのだが、米中経済戦争の突破口にすべきだろう。
また、その星座の人はもちろんだが、この分野にも同様の影響がある。
水瓶座は、政治経済労働の組織、科学、発明、飛行機など。天秤座は、社交、婚礼、芸術、書籍など、双子座は基礎教育、地域移動、テレビなどだ。
逆に、水瓶座が障害になる星座は、牡牛、獅子、サソリ。

ところで、牡牛座の天王星に加えて、2020年、木星土星が山羊座にいたことで、チャンスが多かったのは、乙女座だ。
こう言うと語弊があるので控えていたが、木星土星が山羊座から去ったので、ほとぼりが冷めるだろうから、触れておきたい。
乙女座は医療であり、2019年から医療が脚光を浴びる。医療は始めから大変なのだが、コロナで大々的に注目され、医療の厳しさの理解が進み、英雄視までされた。患者が減って、病院経営に支障が出ている話も、他の産業との比較ではない。
一方で、医療サイドの意見が無条件で優先し、医療基準の政策が社会を疲弊させた。
乙女座は労働現場も表すが、労働者の意見と利益だけを優先すると、会社は倒産する。

ちなみに、なぜ労働現場と医療が同じ分類に入るかと言えば、農業を含む産業の本体は生産現場であり、人間活動の基本は健康、ことに、栄養吸収の消化器官が元になるからだ。(乙女座の人体部位は腸)

立ち往生

2020年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム
大雪で、また大量の車が動けなくなった。メディアは一斉に「車が立ち往生している」と報道した。テロップに「立往生」と表示され、「たちおうじょう」、「たちおうじょう」と連呼されると、大変なことなのだが、何か微笑ましい気がする。
近年、事務的で堅苦しい用語が日常に浸透し、世間に情が通わず、融通の利かない、寛容性の無い社会になっているが、そのことに、みな気づいているのだろうか。

例えば、「お使いください」を、「ご使用ください」と言う。意味はわかるが、その様が浮かばない。「つかう」は、幅広いイメージを含むアバウトな言葉だが、「使用」は、語意を限定した意味だけ強調する、いわゆる、木で鼻をくくったような漢語だ。
「つかう」は大局の現実を把握し、深く理解、納得ができる。「魔法使い」は行為も人も含むが、「魔法使用」と言えば、目的のある行為に限定される。
昔は、職人などが訪問先で手弁当を食べる時、「弁当をつかわせてください」のように、「つかう」を遣った。とにかく、和語の言葉遣いは曖昧なだけに、一言で意思の核心が理解できた。 
「人使い」と「人使用」では含む幅が違うし、腰づかいを腰しようとは言わない。

「往生」も漢語だが、長く仏教と共に行き渡っているので、逝去や物故のような、限定的で改まった意味ではなく、ほぼ「死ぬ」に等しい和語の感覚で根付いている。
「死ぬほど困る」という意味で、関西では「往生するわ!」が常套句だから、漫才の大木こだま・ひびきの「~往生しまっせ」も、すんなり笑いにつながる。
納得のいく死に方を、わざわざ「大」往生と言うほど、往生は死ぬと同化している。
また、往生際が悪いのように、諦めて終わりにすることなど、死から終わりまで幅広い。

「立ち往生」は、弁慶が死んでも立っていた故事から、特別な出来事を強調する訴求力がある。
大量の車が「死ぬほど難儀している」は大げさだが、「往生している」と言えば車も運転手も困っていることが伝わる。それを、さらに、「たちおうじょう」と言えば、状況から当事者の心境まで、大変なことが一言で把握できる。
昨今の、漢語や外語だらけの殺伐とした世界に、「たちおうじょう」は、ポンと咲いた蓮の花のように聞こえるから、大変なことなのに、何かほっこりする。
メディアも言いながら、よほどなじむのだろう、やたら連呼するメディアのはしゃぎ様が伝わってくる。
「往生」は元々、あの世に「往き」あの世に「生まれ」かわることで、弁慶は立ったまま往ってしまったが、
どこにも往けない大量の車は往生もできない
~往生しまっせ!?

社会家族

2020年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム
テクノロジー大爆発
婚姻や家族をどう変えようと、親と子の関係が存在するのはまだ、現在の科学技術を前提にした話だ。今、押し寄せているテクノロジーの大波は、その前提を全て覆す。
ロボットとAIによる生産、臓器培養、人工子宮など、生産労働と生殖出産の基本が変われば、人間の行動が変わり意識が変わり、社会が変わり、生産のための人口はむしろ障害になる。これは、SFの遠い未来ではない。

人の寿命は延び、生産労働から解放され、環境マネージメント(政治)や、認識アレンジメント(科学や芸術)などの創造分野の知的労働のみが残り、ベーシックインカムやポイント付与のような生活保障で、将来は、人生そのものが余暇になる。
不老不死に近づけば、子供を産む必要がなくなり、出産は無くなるが、子供を「生産」することは続くかもしれない。性的快楽は別の手段に替わるが、動物である限り子供が欲しい衝動は残るだろうし、類の活性化には必要だからだ。
もしかすると、今ある技術、あるいはその萌芽を見れば、現在の子供たちが生きているうちに実現する可能性すらある。

ただ、それを選択する社会のコンセンサスが定まらなければ、実現しないので、それなりの時間は必要だろうが、性行為や妊娠によらない子供は確実に出現する。出来れば培養器にして欲しいが、豚などに代理出産させる可能性もある。
どういう技術によるかは別にして、そうなると、血縁の親子関係など無意味になり、強いて言えば、個々のアイデンティティーは、DNAのトレーサビリティー次第になる。代を重ねれば、血縁の親は完全に消滅し、動物的な「親子」の概念そのものもなくなるだろう。
親と子の関係は、社会と子供の関係に変わる。社会という大きな家族が子供を育てる、社会家族の時代になるだろう。

未来志向の政治
今考える未来投資は、こうした途方もない時代を念頭に、力点を配分すべきだろう。つまり、想像を絶する未来ではなく、その移行期への投資だ。
人口対策のための、妊活支援や婚活支援、移民政策は時代に逆行している。今急がれるのは、ロボットやAIによる労働代替を整え、農業輸出より食糧自給を優先して、自己完結型の循環生産を基本にすることだ。食糧自給率の回復は一刻の猶予もない。
教育は、知識・技術教育より創造教育で国全体の知力・思考力を高め、文化・知力貿易で、知の発信地を目指す。

過去、産業革命パラダイムで必要とされた、人間のロボット化を目的とする、読み書きそろばんの学校教育は、情報機器の発達で不要になる。むしろ、それを使いこなす能力=発想力こそが必要だ。
様々なものに興味を持ち、自由なヒラメキが湧く能力は「遊び」が育てるから、これからの学校は、上質な遊び場でなければならない。情報機器も有効だが、重要なのは、自然の中での体感を通した、好奇心と人格形成だ。道徳は教室で教えるものではない。
この学校には、子供だけでなく、時間とゆとりの出来た大人も参加すべきだろうし、逆に、現在の親の職場見学のように、子供が大人社会を常に見学出来る仕組みも必要だ。

こうした将来が見えていても、二番煎じで型式重視の日本は、結局、どこかの国が先行して、成功するまでは動かないのだろう。「出る杭は打たれる」が国是の国だから。

人類の曙

2020年12月16日 | 結婚コン
森は草原になった
コロナ後の経済構造転換の志は良いが、一方で、政府は妊活を応援している。これは見当違いの無駄金だ。GOTO同様、現状維持のための浪費と徒労は、前政権の後遺症なのかもしれない。

妊活支援は現状やむを得ないが、長期的にはロボットやAIで、人口による生産は終わる。大人口はむしろ障害になるだろう。
現代は、百年、二百年前とは、人間の関係性や価値観が全く変わってしまった。社会システムの根幹である婚姻制度を変える時が来ている。
明治に一夫一妻が固定化され、80年後の敗戦で大家族制が消滅した。その周期で見れば、今また、ちょうど大きく婚姻制度、家族の概念が変わる時だ。

妊活では、事実婚夫婦にも補助金を出すそうで、少しでも、現実に近づこうとする気持ちは涙ぐましい。折から、夫婦別姓の議論も、これまでになく積極的だ。
しかし、現実はそんな次元をとっくに超えている。
産業革命パラダイム250年で、古代から続く家族の森は失われ、人類は、新環境となる社会システムの草原に降り立つ時を迎えている。新人類の黎明が始まるのだ。

婚姻による出産、子を養育する親の義務と保護・・・この大前提をもとに構成される徴税と社会保障制度。これが全て、機能不全に陥っている。それが少子化の最大原因だ。
婚姻の歴史は、原始的な集団への組み込み、氏族の結合、文明社会の家=大家族を経て、近代の個人=核家族が生まれた。
これらは、いずれも、子孫を残すための装置だったが、生殖がDNAの配合のためにあると解った現代では、その配合のためだけの、婚姻の必然を感じなくなった。葬儀の縮小にも家の消滅が表れている。
「自分の血筋を残す」衝動より、漠然と、類的営みとしての認識が大きくなっている。

家族から個の社会へ
核家族が浸透すると、それ以前のような集団の束縛がなくなり、恋愛同様、簡単に離れる。
「結婚を前提に付き合って下さい」は結婚がゴールだが、現代の結婚は「離婚を前提に結婚してください」であり、独身が出発であり、ゴールだ。
個人意識の強い現代だから、古い社会の結婚による職業ハンデを負った上に、離別後の保証のない婚姻など、誰も望まない。特に女性は。
加えて、親が子供を養育することを大前提とする社会では、離婚後の保証のない結婚と出産は博打であり、生まれてくる子供への責任を考えると、ますます子供を産めない。
妊活しようと思う人は、よほど夫婦仲を信じるか、経済力に自信のある人だろう。

今の保育施設は、現行の婚姻制度が前提であり、核家族の補助だが、もはや、そんな時代ではない。
むしろ、社会による施設での保育を大前提として、自分で育てたい人、育てる余裕のある人が手元で育てる、逆転の発想でなければ間に合わない。
「育メン」などというトレンディ語に騙されてはいけない。これは、子供は男女だけで育てるものという古代幻想を守るためのマヤカシに過ぎない。男女で子供を育てる婚姻は、本来、役割分担を前提としていた。

これから、さらに個人主義が成熟すれば、子供は産んだ母親のものであり、社会全体でそれを無条件で保護すべきものだ。父親の存在意義があるのは父系社会であり、オスがメスを保護する、一般的な哺乳類の生態を引きずっている。
一匹のオスがメスを保護することを前提にしながら、同時に育児もするのは、基本的に不可能であり、その前に、男女関係と婚姻、社会そのものを変えなければならない。
オスがメス同様に育児をするには、総合的で豊かな社会生産の上に、オス同士の競争のない、恵まれた環境でなければならないが、生産環境は整ってきていても、社会慣習や通念に基づく婚姻制度が、まだ古代のままなのだ。

不言黙行

2020年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム
気持ち悪い
人間誰しも「助平」だが、むっつり助平は嫌われる。何をするか分からない沈黙は「気持ち悪い」、つまり怖い。
助平ごころの成就には、先ず、コミュニケーションがなければならない。相手と「コト」を行うには、相手の了解が必要だ。相手が納得しないで「ヤル」と、大反撃を受ける。
相手に納得してもらうには、真摯で丁寧な解説より、実際には、調子のいいウソの方が効果が大きい。
お笑い芸人がモテるのは、笑いで麻痺させ、口八丁で誘導するからで、商売も、真実より客を信じさせるとよく売れる。どんなにモノが良くても無名品を買う人は少ないが、ブランド品なら高値でよく売れる。

田中、中曽根、安倍の一白政権が大人気したのも、客(国民)を喜ばせ信じさせたからだ。
一白は「穴」であり、人体でいえば下半身。秘密やウソ、企みを表し、酒場や風俗の欺しテクニックなどもこれで、ほとんどの人が、それに欺される。『なんか、怪しいけど、まっ、いいか』と、雰囲気に飲まれる。
どんなに良い人でも、突然、「コト」に及べば、犯罪者だ。口下手なオッサンは即!セクハラになるが、口達者であれば、若いイケメンでなくても容易に不倫?に持ち込める。

菅政権は、はじめは期待されたが、支持率がガクンと落ちた。
GOTO&コロナと、理由は山ほどあるが、なんといっても、口下手の「むっつり助平」が災いしている。GOTO停止も「むっつり」だ。いきなりだから、不満しか聞こえてこないが、その代わりプロセスのもめごとは無い。恋のさや当ては避けるわけだ。
コロナ事態を治めるのは、天才的な手八丁口八丁でなければ出来ないことで、口八丁の安倍一白政権さえ、さすがに尻尾を巻いた。
コロナ事態を逆手にとれるのは、ヒトラーのような天才で、それを知ってか、ドイツのメルケル首相はついに、ヒトラーばりの緊急演説をした。文楽人形のような無表情の菅総理にはできない相談だ。

しかし、いろいろ言われているものの、菅政権の、今回の経済対策73兆円には見るものがある。コロナ後の経済構造転換を厚くしたのは、従来のポピュリズム、その場しのぎのお為ごかし政策とは一線を画している。むっつり助平ならではの黙ってヤル、管政権の真骨頂だ。
これも説明がないから、目先、不審がられて評価はされないだろうが、後で効いてくる「米百俵」だ。ただし、新しい利権に食らい付こうと集ってくる餓鬼や、魑魅魍魎を払いのけるのは難しいだろう。
それでも、時代と環境が変われば、一から始める方が、あらゆる面で負担が少ないことは確かだ。新しき器に注ぐ新しき酒を期待したいところだが。はてさて、むっつりでは?

人気芝居

2020年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム
12月は忠臣蔵の季節だ。
この物語は何の疑いもなく、極悪人吉良上野介を討つ話だが、吉良上野介の立場や気持ちは、全く考えられることはない。
よくもここまで一方的な物語だと感心するが、日本人は何の疑いも持たずにきた。近年、上野介の立場を解説する言説も、ちらほら見かけるようになったが、吉良上野介の立場を少しでも認めたら、この話は全く成り立たなくなる。

吉良家の側から見れば、完全な逆恨みの被害者だ。赤穂に製塩を伝授し、世間知らずの若い領主のお役目が上手く行くように気配りしたことが、裏目に出て逆恨みされ、さらに末代までの汚名を着せられた。

韓国の反日は、日本人からすれば、全く理解出来ないが、韓国では日本はまさに極悪非道の吉良上野介であり、愛国者であれば絶対に仇討ちしなければならない、忠臣蔵の世界なのだ。国中がこの芝居にどっぷりはまっているから、考え直す余地はない。
芝居や小説、映画や歌というものは、仮想現実、ファンタジーの世界だが、これを思考の肥やしと考える人は少数で、ほとんどの人が、その世界を現実のものと思い込んでしまう。
ストーリーのディテールが細かいほど、設定そのものの真偽は忘れられる。

忠臣蔵は、その筋書きを真実とした上で、派生する物語が多く加わり、物語そのものの原点の真偽など完全にすっ飛んでいる。そんな芝居フアンに、本当は吉良上野介は良い人だったんだよ、などと言っても聞く耳を持たないし、意味もない。
吉良上野介の立場など考えたら、これまで払った木戸銭は何だったんだと言うことになる。流した涙を返してくれと言うことになる。
それどころか、吉良の領民でも、この芝居を見れば、上野介のせいで吉良が悪く思われるようになったと思い、赤穂の人に謝るかもしれない。

反日の韓国は日本の嫌韓を徹底的に非難するが、「嫌」は拒否ではない。しかし、「反」は敵視であり拒否だ。
吉良は浅野を敵視していなかったから、仇として敵対してくる浅野家臣に、積極的反撃ではなく、防備しかしなかったために、襲撃され汚名まで着せられた。
吉良家は積極的に情宣活動をすべきだったのだろうが、家柄のプライドと教養が邪魔をしたのかもしれない。


コロナ年

2020年12月09日 | 星の流れに
デカンショ節2020
♪コロナコロナで半年くらしゃ、後の半年ゃマスクマン
ヨーイ、ヨーイ、ディスタンス ???

コロナに猛暑、2020年の思い出って・・・、ある意味、記憶に残る強烈な年だった。

2019年末から、木星が土星と冥王星と共に山羊座に入って、山羊座の意味する「恐怖心」が大爆発した。木星は「風」を表し、風はどこにでも入り込んで行くものの象徴で、木星の支配性である射手座と、魚座のうち、魚座の「感染」の意味が出た。
何度も言うことだが、コロナ騒ぎは、実態より恐怖が先に立っている。また、山羊座は意味としての「死」を表すので、やたら「死」が強調される。(肉体の死はサソリ座)
今は、いかなる死もコロナに関わっていれば、全てコロナ死に換算されているが、これがパニックによるバイアスだ。
木星土星とも、山羊座から完全に抜ければ、世界は冷静さを取り戻すだろう。

逆行の間1大変な年(1)

風神の時

2020年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
コロナは「風邪」ではない。吹き荒れる「風」だ。
今世界を覆っているコロナ禍は、病の軽重にかかわらず、世界の景色を変える「春一番」、あるいは「木枯らし一号」だ。
暴風や竜巻は、好天の時に突然起こることが多いので、驚かされるが、台風のような壊滅的な被害はない。しかし、春一番が春を告げるように、コロナの風は世界を変える。

春一番が吹くのは、季節環境が変わってきたからだが、コロナ・ショックも時代環境が変わってきていることを告げている。
目先の風の強さに驚くより、何故それが起こっているのかを考えると、今何を覚り、何をしなければならないかが見えてくる。
強い風に慌てふためくより、今やるべきことは春支度、次の時代への備えだ。
コロナ禍は、産業革命パラダイムが爛熟し、不適切に拡張したことにある。産業革命テクノロジーが域外にメルトダウンをしたのだ。

産業革命テクノロジーのゆりかご
産業革命は、長い時間をかけて、一神教のモラルと教育が生んだ科学技術の結果であり、大戦争や公害など、様々な葛藤を抱えながらも、調整をしながら発展してきた。
日本が、いち早く参加できたのは、神に代わる精神的規範を天皇とし、法治主義のモラルを、技術と共に導入したからであり、技術だけ導入したわけではなかったからだ。

ところが、産業革命パラダイムが飽和状態になると、中国のような全く異次元の世界に技術が流れ込み、モラルや法治の無い運用が無制限に拡大した。
悠久の古代帝国中国に、産業革命パラダイムのモラルを受け入れる余地など無い。技術を手に入れれば、古代からの動きを再開するだけだ。
これは、映画「BIG」の大人子供に、宝くじが当たったようなものだ。大金を持った子供が日頃の夢を叶えるために、兵器のおもちゃを山のように買い、札束を持って近所の子を子分にしようとしている。
覇権帝国の周辺国への威圧が、今では世界の脅威になった。
そして、古代の生活様式がコロナを生み、札束がコロナを運んだ。まさにコロナは時節を告げる、季節風なのだ。

ノストラダムスは告げていた
コロナが日本に気づかせてくれたことは、社会経済の「老化」だ。春が来るのに、日本はまだ冬の厚着のまま、布団に潜り込んでいる。
欧米先進諸国が気付いたことは、「異世界」の訪れだ。これは歴史上の潜在的「東の脅威」、まさに、ノストラダムスの1999年「7の月=かに座=中国」。
21世紀に、アンゴルモアの大王は蘇っていたのだ。
はたして、コロナの「風」は春一番なのか、北風一号なのか。
日本は先進国なのか、アンゴルモアの臣民なのか。

地味な要

2020年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム
GOTOがもめている。
対処療法にばかり金を使う、前政権の後遺症だから仕方がないが、こんな大きな節目こそ、「米百俵」の精神が必要だ。目先の救済より将来への投資こそ生き金となる。
今、金を出すべきは、IT分野であり、教育投資と環境整備だ。観光、飲食等の三次産業は環境次第でどのようにも姿を変えられる。炎に水をかけるより、火元が重要だ。
将来への投資はブルー・オーシャンとなり、新規事業参入者がどっと出てくる。日本の活性化にもなる。
曲がり角1」、「曲がり角2」、「曲がり角3

また、規制改革は、不言実行むっつり助平の菅政権としては、メディアが食いつく学術会議のようなものは後回しにして、得意のまめさで、数多ある地味で小さな利権から削り、外堀から埋めていくべきだろう。
あらゆる公共の通知や手続きは、オンラインに替え、操作のできない人には役所か、登録した郵便局に代行窓口を設置する(難癖封じこそ重要)。
申請や認可の膨大な手間も、ハンコ行政の廃止とオンライン申請だけでも、手続きの簡素化で、医薬品のムダやバスの走らないバス停など、日本の景色まで変わるだろう。
規制には利権業者がガチガチに絡みついているので、民主主義の正攻法では、どうにもならないが、むっつり助平の菅政権なら、中国共産党方式で「いつの間にか」掃除されているかもしれない。
さらに、選挙のネット投票も、期日前投票のオプションとして加えてはどうだろう。これは選挙区問題より重大な変化を招くが、表面上は抵抗が少ない。