魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

やっぱり

2008年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム

大笑いだ
「節分」で、中国も日本も「鬼は外!」と書いたが、
案の定の案の定

中国は「うちのせいじゃない」と言いだした。
初めから公安などを送り込んできたことから、中国はスキを見つけて日本のせいにする気だなと思っていたら、はやくも声を上げ始めた。

いったい、日本の当局関係者はどの程度、この魂胆を認識して対応していたのだろう。

中国の体制は、帝政が共産党に入れ替わっただけで、言論の自由や、情報公開など民主主義の根幹が、夢のまた夢であることは周知の事実だ。
事実を客観的に評価する、などという問題解決法は考えない。
「意志と策略」だけで解決しようとする。
状況さえ許せば、言ったモン勝ちであることを知っているから、先ず公安を送り込んでスキをうかがい、「調査の結果、日本の犯罪である」と宣言して、あとは何を言われようが「ちゃんと公安的捜査もした」と突っ張るつもりだ。
ヘタをすれば、これを対日カードにでも使われかねない。
いや、始めからそのつもりだ、あわよくばキズを飾りに仕立てようというのだから、まさに孫子の国だ。

現代情報世界では、こういうやり方が通用しないことを解らせるべきだが、世界への働きかけでも、おそらく中国に先を越されるだろう。
日本は何よりも、捜査状況を世界に情宣すべきだ。
それも、直接訴えるのではなく、各国のマスコミに働きかける。
毒がどこで入ったかという水掛け論では、中国の思うつぼだから、中国の「驚くべき」出方と動きを、面白情報として積極提供すべきだろう。(世界の笑いものにする)

中国が国内で勝手に主張するのは放っておけばいい。要は、黙々と取引先を転換し、世界が相手にしなくなれば、困るのは中国であることを認識させるべきだ。

さらに、もし日本が大人の対応をとろうと思うなら、中国も日本も傷つかない解決策を提案してあげれば、中国に貸しを作ることもできる。
中国は失敗を重々解っているから、頑ななので、こういう時は裏で助け船を出すべきだろう。中国は朝鮮半島とは違い、義理堅い。
ケンカはどちらの得にもならない。

※この際の助け船とは
日本側は、日本管理の日本方式の生産方法では安全であることを認定し、中国側は、中国国内の反日テロ分子の限定犯罪を中国当局が厳に取り押さえたことにする。
この案を日本側が持ち出すことによって、双方の「面子と儲け」戦略的互恵関係とやらが成り立つのではあるまいか。


28年

2008年02月25日 | 星の流れに

西洋占星術では、生後の一日を人生の1年と考える見方がある。
東洋の干支術でも、年と月の関係は日と時刻の関係に一致する。

月が一回りする28日が28年となり、人生は28年で繰り返す。
3歳で起こったことは、31歳で起こり、59歳でも起こる。
ただし、
まったく同じ事が起こるわけではない。生後の31日目と59日目では、太陽を始め、他の惑星も移動しているからだ。
細かい分析をするより、漠然と周期と考えておく方が人生にはプラスになる。

以前にも話した、この話を持ち出したのは、
またも出てきた「三浦さん」が面白いからだ。
27年目のロス疑惑だが、計画を立てた時から考えれば28年目にあたるのだろう。
28年前なら土星も乙女座で、現在と同じ位置になる。
事件の3年前には木星が獅子座で、自分の星座であり、前述の「因果応報」でも話したように、自分の星座に木星が来て始めたことの結果が出る時で、しかもこの間、土星は獅子座の「三浦さん」の財産室=乙女座にあったから経済的にも困窮していた。
おそらく、79年に始めたことがうまく行かず、ロス疑惑となったのだろう。

日本での犯罪をブラジルで裁いている。これが無罪になったら、日本人はどう感じるだろう。
ロス疑惑は、日本人の犯罪だから、アメリカは日本を立ててゆだねた。そして無罪になった。犯罪は属地主義のアメリカにとって「おさまらない」話しだ。
日本人の多くも「三浦さん」は黒だと思っているだろう。

日本の裁判結果に対する主権侵害だというなら、米兵事件の裁判権に文句を言えなくなる。

ややこしい話しだ。


因果応報

2008年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

このところサソリ座に問題が多い。
サソリ座のヒラリーも苦戦している。
軍隊、警察はサソリ座だ。
沖縄の米軍、日本の自衛隊、軍事政権の衰退。相次ぐ警官の自殺。
韓国の政権交代、クルドとトルコ軍、コソボ独立(バルカン半島*)
*バルカンは鍛冶屋の神で、火星の牡羊座、サソリ座を表す

サソリ座に木星が入ったのが2005→6。この時の動きの結果が、今出ていると考えるべきだろう。

惑星が入ると、その星座に動きが起こり、その結果は惑星が出て行く時か、2つめの星座ぐらいに表れる。
もちろん、最大は180゜の位置であり、一周が終わるまで影響は残るが、時代の中で因果関係を思い出せるのは2つ目ぐらいまでだ。

結果の善し悪しは、
最初に惑星が入った時に、悪いことが起こって受け身で対処したのなら良い結果になるし、何もないから良くしようと、積極的に起こしたことなら悪い結果になる。と言っても、改善のための方向転換ともなるから、悪いとも言えない。つまり、塞翁が馬

殴られるのも天災
そもそも、運命に、良い悪いはない。様相があるのみだ。
ものごとは捉えようだ。悲観的に捉えたり、過剰反応をすれば火を煽ることになる。何よりもいけないのは、表面の派手さに惑わされることだ。
911の時、歴史的に俯瞰して考えたなら、イラク攻撃、それにつづく世界の経済混乱はなかっただろう。大局的に見れば、アメリカはアルカイダに大敗北した。
もっとバカげた反応は、1914年のサラエボ事件では、世界を戦渦に巻き込んだ。この時の教訓がいまだに生きていない。

国の威信などという抽象概念が、数千万の死をもたらすのも、人間が中途半端に高等だからだ。
毎日、事故や事件で何人も死んでいるが、二人死んで第一次大戦になった。アメリカは一人死んでも報復をする国だから、3000という数の前で、何もしないわけにはいかなかった。

しかし、30万以上もの死傷者が出たスマトラ津波は、相手がいないから、戦争でそれ以上の人が死ぬことはない。
もし、911を天災として捉えたらどうだっただろう。
予知、対策、反省しかできないから、アルカイダ現象を生む環境対策を考えただろうし、それに施す資金は、巡ってアメリカ自身を潤おしただろう。

「右の頬を打たれたら・・・」と言うのは、いかにも西欧的発想で、災いは人がもたらすものと考え、報復を当然と考えるからキリストの言葉が生きてくる。
東洋的自然観で、すべては自然の災いととらえる運命論では主体性が失われるが、争うこともない。(それ故に西洋に支配されたのだが)

いよいよ、東洋的悟りと、西洋的積極性が融合しなければならない時が来ているのだろう。


中間児

2008年02月22日 | 兄弟関係

中間児の長
お稽古ごとの先生が、弟子に乗っ取られそうになって困っていた。
良くできる弟子で、師範代を任せると、どんどんこなして、出稽古やカルチャー教室の契約なども積極的に進めていく。
他の弟子が心配して『先生、乗っ取られますよ』と言ってくれるが、信頼関係で任せているから心配ないと言っていたものの、最近、不安になって、
「うちの看板で契約したカルチャーの経理はちゃんと報告して貰わなければ困る」と言うと、
「何でですか、私にも生活があります」と言われ、思わず絶句した。

この先生は中間児で、聞けば、有力な弟子はみな長子だった。
中間児は長子に弱い。それは無意識に長子に依存しているからだ。

長子はマイペース
長子は何事も自力で開拓していく。だから、誰かに習うお稽古ごとでも、全て言う通りにはしない。自分なりに解釈して「学ぶ」。
末っ子が素早く形をマネて、すぐ披露するのに比べ、長子は常に自分流を加えていく。だから進度が遅いこともあるが、師匠の手を離れてもやっていける。
末っ子が鉄人28号なら、長子はアトムだ。

中間児は元来、末っ子だから、自分と同じように、師匠がいなければ全てをやれるわけがないだろうと、高をくくっていた。
しかし、長子は人について行くことは苦手だが、一度、自分のものにすれば、むしろ、師匠が居ない方が良いくらいだから師範代などお手の物だ。

しかし、同時に、客観論=スジ道を重視するから、秩序には敏感で長子は「義理堅い」。
この点、末っ子は、自分の立場は他人に制限されているから、自分から見た上下関係に敏感で、親分子分の関係が好きだ。
力が逆転したり、他の親分が出てくると、ごく自然に上下関係を切り替える。つまり、結果的にあっさり「裏切る」。

長子の陰に隠れる中間児
件の長子の弟子がやりたい放題やり始めたのは、一々言わなくてもどんどんこなしていく便利さに、中間児の先生が甘えたからだ。
加えて、問題が起きるたびに、直ちには抗議しない中間児の「様子見」が、弟子の長子に「無問題」と受け止められた。

長子の基本は一人っ子だから、障害がなければ他人に配慮や遠慮はしない。だから、「私にも生活が」と反論したものの、義理堅いから次からは報告を始めた。

要は、先生が愚痴しか言えないことが問題だ。
中間児のクセで、言い出しかねている間に、長子の弟子はどんどん先に行ってしまい、手遅れが重なってしまったのだ。

問題の弟子が末っ子なら、周りに愚痴を言えば、長子を始めとして誰かが動いてくれるのだが、周りがみな長子で、かつ自分が先生では「長が言うのがスジでしょ」と思うから、誰も動いてくれない。

長子は自分が先生の立場なら、すぐ意見を言うし、黙っているなら愚痴は言わない。だれにも相談や泣きつきをしない。
だから問題の長子の弟子も、「何も言われないのだから問題ないのだろう」と思ったまでだ。

また、他の長子の弟子が、「乗っ取られますよ」と言ったのは、「先生(長)の責任として、言うべき事を言うべきだ」と、長子らしい責任論を言ったまでで、焚きつけてやろうと思って言ったわけではない。

しかし、中間児は、自分なら人が動いてくれることを期待して言うから、何かを焚きつけられているのでは、と受け止め、動けば損をすると、ますます動かなかった。

長子は長子同士、中間児は中間児同士
同じ生い立ち同士はだいたい馬が合うが、逆に魂胆も解るので、当たらず障らず、君子の交わりになる。
しかし、末っ子同士は良いときと悪いときが極端になる。問題が起こったとき、二人だけでは解決できない。

長子は他人にしてやられたとは思わないし、他人にどう思われているかあまり気にしない。
しかし、中間児や末っ子は「ひどい目に遭わされた」と思いやすい。だから、心の許せる相手には愚痴を言いたがる。

長子は、ほめられたり、おだてられたりするのがあまり好きではなく、どちらかと言えば困ってしまうのは、自分の評価は自分でするからだ。
だから、下の子からみると、やたら自慢しているように見える自惚れの言葉は、実は自分を鼓舞している内向きの言葉だ。
これとは逆に、
中間児や末っ子は、おだてに弱い。他人に評価されて実感を持てるからだ。
ここで面白い関係が生ずる。
中間児、末っ子が長子をいくらおだてても、それほどの効果がないのに対し、長子は人をほめない。長子は人格を尊重する意識からほめないのだが、下の子は、長子に嫌われているとか、冷たいとか思って、恨んでしまう。

「ほめて伸ばそう」というのも、
下の子にはべたぼめも有効だが、長子にはほめる根拠をハッキリしなければ返って拒否される。
「これのこの部分がなかなか良い」のように。

中間児は明け透けではない。用心深く複雑だ。
ところが、おだてにはめっぽう弱い。
だから、トコトンバカになって迎合し、おだてれば自由に操れる。
長子にはできないが、末っ子は得意中の得意だ。作為的と言うより、その時はそれなりに本気でほめる。
また、中間児同士は、当たり障りのないおだて合いを楽しむことができる。


でくの坊

2008年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

防衛省になったら名前や建前はどうあれ軍隊だ。
始めから莫大な金もかけている。
その日本の軍隊は、あきれるばかりのでくの坊だ。

汚職は古今東西あるが、情報漏洩などは軍事力の根幹に関わる問題だ。
その上、今回のイージス艦事故は恐るべき大失態だ。
被害にあった漁船にはお気の毒だが、
最先端と豪語しているイージス艦が、うっかりポッカリ、小舟を見落とし衝突をするなど、兵器の欠陥を世界にさらしたものだ。
どんな優秀な兵器も、使う人間次第で全く役に立たないことを証明したのだ。
もし、小型の漁船に紛れて接近し、魚雷を発射したり体当たりすれば、簡単に攻撃できるということだ。機雷だって解らない。

「そんなの居るわけねえ」と、言えるわけねえだろう。
テロテロと言いながら軍備増強してきたのだから、まさに、そんなのが当面の敵のはずだ。

世界の戦史の中で、小が大に打ち勝つ理由は「士気」のみと言っていい。
世界最強のイージス艦などと、慢心している張り子のトラでは、シ-シェパードでも乗り込まれてしまうだろう。こんな軍隊はいらない
北の将軍様の高速艇や潜水艦ならあっさりやられて不思議ではない。

金ばかりかけて、漁船一つ発見できない無能をさらした軍隊は、存在の意味がない。
その上、大臣への報告が2時間も遅れるなど、文民統制を無視している。何をしでかすか解らない組織なのだ。

丸腰で、「撃てるものなら撃ってみろ」と言っている方がよほど攻撃しにくい。


携帯 (プロとマニア2)

2008年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

SoftBankは契約の客が行列をしていた。近くのDocomoでは店員が世間話をしている。
完全に「犬」負けだ。

DocomoのCMが面白さもインパクトもないのに比べ、SoftBank のCMの面白さは結局、経営組織の若さと自由さが出ているのだろう。
代理店がどんなに良い企画を持ってきても、スポンサーのセンスや価値観が貧困、固陋であれば、どこまでも、つまらないものになる。
正直なところ、いまDocomoのCMを思い出せない。

CMはその会社の体質を表す顔だ。
彼ら自身も気づいていない本音や姿が現れる。
公務員体質をいまだにぬぐい去れないDocomoは、大金を投じたCMが、ほぼ全くドブ金になっている。

思い出せないからホームページでCMを見てみた。つまらない。
「CMとはこんなものです」と、お座なり用紙に、名前だけ入れ替えた、埋め込み回答だ。見ているとイライラしてくる。
SoftBankが、ギャグのエスプリが活きているのに対し、Docomoは、いわばオヤジギャクのダジャレだ。創造性が全くない。
早い話、Docomoは金がもったいないからCMを止めた方がいい。
その分、少しでも安くして、情報吟味が可能なネット上で、サービスキャンペーンでもやったらどうだ。

何の効果もないCMを垂れ流すのは、箱物行政の役人そのままだ。商品企画も全く同じで、常に魅力がない。905シリーズが売れてDocomo自身が驚いているが、おそらく、彼らにはその理由はわからないだろう。だから、905の進歩も期待できない。

携帯に望むこと
・チップ交換のオプション方式
・モバイルPCであること

しかしまた、
面白いCMだからといって
面白さと誠実さは一致しない。時には反比例する。
CMは「カタリ」だ。「語り」を「騙り」にするのは聞く側の責任だ。
何事もそうだが、真面目な人ほど騙されやすい。日本人も、ドイツ人も、ロシア人も根が真面目だ。スローガンに導かれてひどい目にあった。

NOVAウサギではないが、CM熱心な企業は気をつけた方がいい。
SoftBankも、いろいろ前科がある。また動物だ。
外人・動物・子供は、ごまかしCM三種の神器だ。正確な言葉を伝えないキャラが出てきただけで要注意だ。


プロとマニア

2008年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

ある分野に通じているのは、プロかマニアだ。
知識や技術では、マニアの方が勝っていることがある。
しかし、マニアでは商売にならない。
もし、マニアが商売を始めるなら、プロにならなければならない。

では、プロはマニアとどこが違うのだろう。
一言で言えば、プロには客がいる。

マニアは自分の興味に任せてすべてやるが、プロは客の喜ぶことをする。もちろんマニアを客とする商売もあるし、興味に任せた行為自体が価値を生むものもある。
例えば、山下清はマニアで、岡本太郎はマニア的あり方を目指したプロだ。

今日、2月16日、東芝がついにHDDVDから撤退を決めた。
ブルーレイとの覇権争いに敗れたワケだが、βのSONYと比べれば、初期での潔い撤退を賞賛したい。

しかし、東芝が敗れたのは必然のような気がする。
SONYやPanaが優れていたと言うより、商戦に敗れたのだろう。
日本の伝統的な企業は、もの作り、技術力で大きくなったが、結局は、ビジネスに目覚めた会社が世界制覇した。

SONYは技術とニーズがたまたま一致した時代、新しい技術が何でも商売になった時代に恵まれていただけだが、ハード的技術が飽和状態になると行き詰まって、ニーズをかぎ取る能力がモノを言うようになった。VHSに負けたのは、画質より録画時間の長さだった。

すると、SONYは今度は目先、売れる物ばかりをつくるようになってとりあえず成功したが、結局、本体(原型と信念)を失ってしまった。
一方で、SONYが世界で本体を失っていく中、頑固に技術にこだわり続ける会社は取り残されていった。東芝、日産、富士重工など日本的な技術会社は行き詰まりを繰り返した。

東芝はマニアには嬉しいモノを出す。ところが、素人が素朴に欲しいものに対する配慮が欠けている。
DVDレコーダーの取説に索引がないので「索引はどこにあるんですか」と電話すると『何のこと?』という反応で、初めから読んでいけば解るはずだという信念?を感じた。
作る側の思考に従うべきだと言う発想が色濃い。これこそが技術屋の発想だ。

今、日本の携帯は海外で外国勢に押されている。
技術屋的発想で、「こんなことや、こんなことや、こんなこともできるんだゾー」と、一生懸命作るのだろうが、客はそんなことは望んでいない。

「出来ること」と、「して良いこと」は違うのだ


男と女 2

2008年02月14日 | 兄弟関係

現在の男社会では、女のリーダーは男以上に男原理を強いられる。
近くは、サッチャーのフォークランド戦争が記憶に新しい。

今年、アメリカは、初の女性大統領かアフリカ系大統領かが話題になっている。ヒラリーとオバマだ。
圧倒的に、ヒラリーが有利とされていたが、「能力が五分」なら、アメリカ人は「男」を選ぶだろう。

アメリカと言えば「ladies first」の国と思われているが、実はこれは「強い男が女を守る」という女性蔑視の欺瞞であり、アメリカは開拓魂に根ざす徹底的な男社会だ。(欧州の騎士道と微妙に違う)だからこそ、女性の権利が叫ばれる。
そういう原理が働く国で、女に頼ることは、国民の潜在意識が拒否をする。
やはり、腰に「一挺」下げてなければ不安なのだろう。

一方で、アメリカには狂信的人種差別者が存在する。アメリカのベクトルは、実は、自らのネガティブ・ベクトルを否定するために、反作用として表面化する。
女性運動もそうだが、宗教の自由や人権問題も、自分たちの恥部を否定するために、他国に対してまで声高に叫ぶ。

そのアメリカは、女性の権利を理由に戦争を仕掛けたことはないが、利害、宗教、人種差別では前科がある。
利害は言うまでもないが、イラク戦争などは本質的に宗教戦争で、米西戦争や日米戦争は人道と言いながらも、根底に人種問題があった。

アメリカの面白いのは、他人を非難すれば自らが浄化されると思っていることだが、これは末っ子的な朝鮮半島にも言えるので、「国別兄弟関係」でも話したように、やはり、アメリカは出稼ぎに出て一旗揚げた次・三男だろう。
長子というのは案外、悩み込んで自己批判し、徹底性に欠けるところがあるが、次・三男や末っ子は向こう意気が強く、スケープゴートは徹底的に叩く。そのくせ逆に、みんなに非難されると弱気になる。

この、他人非難は、何も米韓だけのことではなく、世界の大原則は相手非難であることは言うまでもない。
日本は、むしろ例外的にこの要素が欠けている。それも日本の特殊性なのだろう。
島国の孤児、日本はやはり一人っ子だ。対人関係という「相対的なパワーバランス感覚」がない。つまり外交下手で、引いたり押したりができない。ガマンを重ねて爆発する。

昭和30年代以後の世代は、形だけは世界のマネをできるようになったが、やはりまだ、世界基準の駆け引きが理解できていない。外国の日本非難に対して本気で怒ったりする。
今後の日本人は「飛び込んで」長期の海外経験をした人たちに期待したい。(代理店による留学などは意味がない)

アメリカの良心
さて、そういうアメリカは、「女」にはついて行けない一方で、人種問題には必要以上に進歩的であろうとする。これは、奴隷制への原罪意識と、人種のルツボという環境からくるのだろう。
人種問題は、日本人が「お前それでも日本人か」と言われると弱いように、「お前それでもアメリカ人か」と言われそうな強迫観念がある。
アメリカ人にとって、人種差別の克服は「良い子」の証になる。
つまり、アメリカ内部に人種差別が存在する以上、良識的であろうとするアメリカ人は、オバマがアフリカ系ゆえに、むしろ、積極的に支持する(しなければならない)。
だから、支持しながらも、アフリカ系暗殺への恐怖感も同居する。
この悲壮感が、さらにオバマ支持に回る。
皮肉に考えれば、この悲壮感こそが、内在する恥部。差別意識なのだ。

ありていに言えば、
良識あるアメリカ人は、偏狭な人種差別者による迫害に立ち向かって大統領を目指す「勇気」を支持し、アメリカが世界で最も人権に開かれた国であることを証明しなければならない・・・

こういう「感傷」が働けば、政治手腕や政策など吹っ飛んでしまう。
内容ではなく「姿」が支持を高めることになる。

いま、前世紀打開の動きとして、世界的に選挙での逆転が起こっている。事情は国により様々だが、とにかく、大転換の胎動が始まっている。しかし、そうは単純には進まない。まだ始まったばかりだ。

ところで、アメリカ大統領、占い的には、正統が消えるという点でどちらがなっても矛盾はない。
ヒラリーの方が優秀だが、オバマの方が役者が上だ。加えてアフリカ系という、良識的アメリカ人が抗えないセールスポイントを持ち、しかも若い「男」だ。

この二人がアメリカ大統領になると、甲乙つけがたい危惧がある。
オバマは安倍や、盧武鉉のように人気先行で、脈絡のない政治になるし、ヒラリーなら重大問題で「キレる」だろう。ヒラリーはサッチャーと同じくサソリ座だ。(ただし、ビルとセットなので緩和される)
それに、共和党に負ける可能性もある。
何しろ共和党は「負けん候補」だと言っている?

どちらになっても、やはり世界は・・・どうにも星のとうりに進んでいくらしい。

★ 歴代アメリカ大統領 メモ ★

星座
だいたい均等だが、天秤・水瓶・魚が、各々6人でやや多い。

九星
一白3人・二黒9人・三碧2人・四緑4人・五黄2人・六白4人・七赤7人・八白7人・九紫6人

二黒が圧倒的に多く、七赤・八白がつづく。
二黒は地味だが、エネルギッシュでバランスがとれた人格であり、
土星と金星が多数を占めるところが、いかにもアメリカ人の堅実性を物語っている。

特記すべき事は、今人気のオバマは三碧で、2人しかいない上に
両者とも、偶然性の強い大統領で、しかも、弾劾をうけたり党から除名されたりしている。(10代ジョン・タイラー、17代アンドリュー・ジョンソン)
三碧はアジテーターで宣伝上手だが脈絡が無く、指導者には不向き。
ヒラリー 八白・サソリ座(北方謙三と同日)
オバマ  三碧・獅子座(羽賀研二と半月違い)
マケイン 一白・乙女座


男と女 1

2008年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

「女が死んでいる」と連絡を受け、警官が駆けつけると、路上に血を流した中年女が倒れており、そこから女性が逃げ出した。

こんなTVニュースはない。
女と女性(一)・()」でも言ったように、言葉は衣装だ。印象を変える、しかし実体が変わるわけではない。

にもかかわらず、
言葉狩りをする人は、その人自身の意識に差別がある。自分の差別意識を無いことにするためには、他人を非難するのが手っ取り早い。
例えば、いやらしい言葉を口に出せないのは、その人がその言葉のいやらしさを知っているからだ。他人が言うと「なんて事言うんですか!」と反応する。
アホ言うモンがアホ」と同じ原理だ。
人は、自分に内在する恥部を隠すために、声高に他人を攻撃する。

ドイツのバスの中で、ドイツ青年に「哲学者のカントはドイツ語ではなんと言うんですか」と聞いたら、聞こえないふりをするので、「日本語ではカントと言うんですが」とカント、カントと繰り返していると、真っ赤になって小さな声で「その言葉は僕は恥ずかしいんです」という。すぐ察して、他の話しに切り替えた。
これを読んでいる人も、察しは良いと思う・・・
どんな言葉でも、「刷り込み」があれば恥ずかしいのだ。

最初の「女の事件」。現代のジェンダー環境の実体であり、報道のご都合主義を物語るものでもある。

女の都
もし、世界の政治を全部、女が行えばどうだろう。
今、世界の議員に女性の占める比率を何パーセントにしろとか言う動きが真面目にあるが、バカげている。

なぜなら、男社会を認めた上で、そこに女を参加させろという発想だからだ。いくら男女協賛社会といっても、現在の基本は男原理であり、動物的な力の原理が変わるわけではなく、女がおこなってもしまいには力関係の政治に堕ちいらざるを得ない。

古今東西、女のリーダーは結果的に戦争を起こしやすい。
おそらく、男社会の中で周囲を認めさせるためには、外政は結局、男以上に男原理を示さねばならなくなるからだろう。(西太后のように内政も暴政になる場合もある)
だから、単に女性比率を云々という話しでは、世界はおさまらない。

女原理
世界の政治を女にまかすには、全世界が、女原理になる必要がある。そして、それは可能になりつつある。
男社会は、動物秩序であり、腕力による「原始力」社会だ。
しかし、科学の発達により、原始力はスポーツぐらいにしか役立たなくなった。
また、出産やホルモンバランスによる判断ミスなども、男優位の言い訳にはならなくなった。

物理的ハンデが解消すれば、男と女の違いは気質的性差だけになり、どちらの特質がより政治に適しているかということになる。

男社会でも女社会でもない、「完全に人権が理解される社会」があるとすれば、おそらくマネージメント適性は女の方があるだろう。もちろん相対的にだが。

女原理は現実的だ。現状維持にはおそらく高度な管理能力を発揮し、平和で豊かな社会を実現するだろう。
ただ、管理はうまく行ったとしても、天変地異など、前例のない非常事態に上手く対応できるか不安が残る。
いやいや、非常事態にもおそらく女の方が強いだろう。
種の絶滅の危機にはメスが増える、あるいはメスだけになる。

しかし、これは保守的な緊急避難であって、新しい環境への適応ということではむしろ逆だ。第一、生命力が政治力と同じとは言えない。
原始時代に環境変動が起こった時、土地を捨てて偵察に言ったのは男だろう。女は残っていたに違いない。
男の存在は基本的に「遊び」であり、女に代わる「死に役」だ。
この点、アダムとイブの肋骨の話しはむしろ逆で、男の方が女のオマケだろう。つまり、オスは新環境へ対応する「捨て石」だ。

オスの存在理由は遺伝子の試行錯誤にあるようだ、多様な可能性の競い合いによって環境適性を高めていくために存在している。だからオス原理というものはどうしても闘争が宿命づけられ、人間社会では生存競争の縄張り争いである戦争が無くならない。
ということは、戦争や破壊は、個にとっては悲惨だが、DNAにとっては、限りない進歩のプロセスに過ぎないということかもしれない。

生存競争で、さんざん殺し合ったり、経済暴走で環境破壊をして絶滅状態になったりして、それでもさらに生き残るヤツが「えらばれし者」なのだろう。それが人間かどうかは分からないが。


平成維新

2008年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム

大阪で最年少38歳の橋下知事が登場した。
福田総理やブッシュ大統領と同じカニ座で、今の時期では良かったとは言えない。
もう一つ言うと、資金疑惑で再選を取りやめた太田前知事もカニ座で、やはり良い時期ではない。だいいち、大阪自体がカニ座だ。

カニ座は秩序指向の目立ちたがりで、いわば刑事ドラマのヒーローやお笑いになりたがる。あまり創造的な政治は期待できない。
大阪という土地柄を考えても、ノックと言い、前知事と言い、この先、橋下知事も心配だ。

しかし、様子を見ていて思った。
こりゃあ、何はともあれ若い人にやってもらう方が良いな、と。

若い人は怖いもの知らずだから、わけ知りや遠慮がない。とにかくことが動く。サッカーもシュートしなければ点は入らない。
旧弊に埋没しているような世の中で、足の引っ張り合いばかりしていても、問題ばかり山積で、年寄りには解決できない。

明治維新のように、膠着した組織をぶちこわせるのは若い力だ。古い常識から見ればとんでもない連中ばかりだが、若さには適応力がある。
もう、いっそのこと政治家の年齢制限をして40歳以下にした方が良いのじゃなかろうか。
年寄りは補佐役に回ってアドバイスに専念すればいい。
何も知らなくても、やる気さえあれば、実践の中でたちまち学習する。
むしろ、中途半端に政経塾などで勉強していない方がいい。

バブルの夢に青春を過ごした40代が、偏差値思考から抜け出せず、
上の世代を問題にしたり、世代交代を要求するなど、創造性に欠けるつじつま合わせをしているのに比べれば、
団塊ジュニアと言われる人たちは、不況期に20代を過ごして現実を学習した。ライブドアのようにハチャメチャではあっても、世代交代は奪い取るものだと心得ている。

どの世代でもひどいのはいるが、問題は成長力だ。
20代30代は変貌の可能性を持っている。政治家が全部30代以下にならないかぎり、平成維新などありえない。
ただし、小泉チルドレンと言われるような乳母日傘のパンダでは、いくら若くても意味ないが。


クジラ

2008年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

」でも少し触れたが、捕鯨反対はご都合主義の動物愛護だ。畜産マネーも仕掛人だろう。畜産国ほど熱心だ。
だが、日本の態度も解せない。

漁業資源、捕鯨技術の伝承、食肉資源の確保・・・
解らないではないが、相手は単なる多数派ではない、狂信者だ。
宗教に対して正面から挑めば、まさにスケープゴートになる。
外交戦略として賢明とは言えない。

クジラ信仰は欧米人の「大きいものは偉大」という「ギガント信仰」だと思う。
相撲の海外巡業で、子供達に人気するのは、小錦や曙など大きい力士だ。欧米のスポーツにハンデがあるのも「大きい者、強い者は当然強い」という素朴な物理感覚があるからだ。
余談だが、
山本五十六が、一発目に叩きつぶせば可能性なきにしもあらずと考えたのは、良くアメリカ人を知っていたからだと思う。
「こりゃ、どうにもかなわねえ」と印象づけることで、戦意を喪失させ、講和に持ち込もうという算段だった。
日露戦争も、日米戦争の時も、現場の憂国の士は勝てるとは思っていなかった。

日本がどうしても鯨を食べたいなら、経済水域で、鯨の放牧をやれば良いだろう。
鯨はダメだが牛を食べても良い理由として、牛は始めから人間が食べるために種付けをして育てているからだと言う論理があるからだ。

いや、実際にやらなくても、捕鯨を止めて飼育すると宣言すればいい。
必ずや反対するだろうから、そこで畜産の是非について大いに議論すれば良い。これは肉食文化の根本を問う対等の議論になる。

「そうですね、肉食は残酷ですね、だったら全部止めましょうよ」
と、現実を見つめさせ、妥協を認めさせることだ。
捕鯨云々はその次だ。

まあ、近々、バイオ技術が進めば動物を殺す必要はなくなるだろうから、ガンバって人工食肉を開発すべきだろう。

でも、そうなると、100年後のグルメブームは、自分の肉を増殖させてステーキにして食べるのが一番うまい・・・てなことに
だいたい、グルメブームなどと言うものは、これと大して変わらない


日本埋没 3

2008年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和30年代。日本がアメリカナイズに向かっていた頃
日本の風俗が拒否され、全て恥ずかしいこととして取り上げられた。
映画、社長シリーズや駅前シリーズでも、日本風俗を笑いのネタとし、登場人物の「恥ずかしい」振る舞いを笑いものにした。飛行機の中でタクアンを食べたり、ホテルで越中褌を干したりする古い日本人を、観る人達は実際に想像できるから笑った。

しかし、今観ると、実はストーリーの骨格をなす背景自体が古い日本であり、異様で恥ずかしい。
セクハラ、パワハラ、賄賂、軍隊魂・・・実におおらかなものだが、今では通用しない。

当時、新聞などで槍玉に挙がったのが、長距離列車でステテコ姿になって酒盛りを始める旅行客だ。
これが大合唱になるほど、実際、全国的に見られた光景だった。
「旅の恥はかき捨て」は日本だけではない。しかし、定着型の村社会で暮らしてきた日本人と、遊牧型の移動文化で暮らしてきた西欧とは異郷に対する心がけが始めから違う。

東京の人間はちょっとした買い物に行くのにも外出姿になる。これは西欧化の街だからだ。今では全国的にこの傾向があるだろう。つまり、家の内と外をはっきり分ける。
欧米の場合、靴を脱ぐまでは外であり、ベッドまで脱がない。

幕末に来日した外国人は、日本の整備された旅行環境に驚いた。江戸時代に当たるヨーロッパでは、旅行は文字通り草枕であり、諸国行脚のマイスター修行なども基本は野宿だったからだ。
20世紀になって、野宿のできない子供達の宿泊施設としてわざわざユースホステルが考案されたほどである。

整った環境で旅行する江戸人にとって、すでに、旅は旅行になっていた。病気や泥棒の心配以外、それほどの覚悟はいらない。
「♪旅~行けばあ~」と気楽なものであったから、芭蕉のたいそうな覚悟は、欧米人が現実を見れば笑ってしまうだろう。
この頃から、今日のパックツアーにいたるまで、日本人の旅行は、村生活と何ら変わりない空間移動だったから、団体で列車に乗れば、直ちに村の宴会が始まった。今日、沖縄などで見られる食事の団欒は全国の標準だったが、国際知識人たる人たちは、日本の恥として毛嫌いした。

そして今日では、各地の村でも少なくなった、伝統的日本の暮らしをほとんど全く知らない若者が、似たような外国の風習を奇異に感じて毛嫌いしたり、逆に、非常に新鮮に感じてのめり込んだりしている。

ほんの半世紀ほど前に、礼儀やしきたり伝統行事とともに、それは日本に確かにあった風俗と生活であり、美しい伝統だけが存在したわけではない。宝石は原石から生まれる。

是非知って貰いたいのは、半世紀前の様々なトイレや冷暖房、お風呂など、日常に欠かせない設備や、その使い方だ。

戦前の貧しい農家にはこんなトイレがあった。
一坪ほどの小屋に、板が渡してあり、その上から太い荒縄が下がっている。真ん中まで行って、縄につかまってウンチをして、終わったらその荒縄で始末をする。・・・想像してみてください。一坪ウンコ。
少しゆとりのある家は板二枚。無い家は一本橋。灯りなど無い。

キーワード
野ツボ、ウジ虫、もらい水、ハエ、カヤ、寄生虫


日本埋没 2

2008年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

わいせつ (裸2)
タブーを公開すれば「わいせつ(猥褻)」となる。

ハレの場にケ(褻)を持ち出してはいけない。立て前の世界に本音を出してはいけない。ならいとして見えない物は、見せてはいけない。

たまたま見えなければ、見たくなるのが人間の好奇心だ。
日常的に見えないものは、常に好奇心の対象となり、やがて、特別な意味を持ち、見てはいけないものになる。
寒い国の人間にとっては二の腕でも珍しく、タブーになるが、暑い国の人間にはヘソなど珍しくない。

砂嵐と日差し・寒暖を避けて布をまとう砂漠地帯では顔までタブーになる。
中東では乳房などもってのほかで、以前、中東の街で、ポスターの乳頭に小さなマスクが掛かっていて、それ自体がわいせつで、思わず笑ってしまった。

それ自体がわいせつとは、ありふれたグラビアの乳頭をポイントすることで、それがタブーであることを強調し、それを見たいと渇望している人の目線を、疑似体験するからだ。
つまり、本来、何も感じないものを「特別」の目で見れば、なるほど新鮮な感覚を知ることができる。

現代日本人の「裸」感覚は、疑似体験が真性化したものだ。
古来、日本人が持ち合わせていなかった「裸」に対する「わいせつの目」を、西欧人から体得してしまったのだ。

こう言うと、反論があるだろう。ミニスカートやトップレスは欧米から来たものではないかと。
その通りだ。肌の強調は、彼ら北の民にとって、強調すべき意味のあるものであり、ファッションのアピールポイントとして特別に効果的なものなのだ。欧米人にとって潜在的に、肌の露出はエキゾティシズムであり、進歩・解放の象徴だ。

現代日本人の感覚も、ほとんど欧米化されているが、全く失われているわけではないようだ。
「裸」が基本の日本人は、欧米人と逆に、着ることがアピールになる。十二単は極端な例だが、着物の伝統は重ね着だ。
その変形と言うか、欧米感覚とのコラボレーションが、一頃、流行った若者の、腰パンや見せパンだ*。
欧米に洗脳されている大人の常識からすれば、とんでもないが、
日本の伝統のこころが、現代の婆娑羅に生きている。伝統の洒落をかいま見て、ニタッと嬉しくなる。
*(腰パンは米産でも中南米系だろう。ずらすことで衣服を強調するスタイルは、日本人には受け入れやすく、進化させている)

ここでまた余談だが、
女性は本来「け(褻)」性であり、それゆえに晴れを求めるのではなかろうか。男性と比べ、出産、生理など、嫌でも本音を見つめさせられる。それだけに「晴れ」を求める。
男どもが「口説くのに、飯を食わせてプレゼントせにゃならん」と嘆くのは、財産能力の証明ではなく「晴れ」の提供が求められているのではなかろうか。つまり、ケの実行にはハレとのバランスが必要ということだ。
もっとも、舌先三寸で「ハレ」を演出できる魔術師もいる。

ハレとケは色々むずかしく言われるが、占いでは陽と陰だ。
陰性ほど陽を求め、陽性は陰を求める。
陰は非力で目立たない日常だが、芯は陽より強くしぶとい。
陽は華やかで立派だが、虹のように儚い。
女性は陰性であり、男性は陽性であって、陰性は陽性を求める。
女性をその気にさせるのは「虹」だから
女をその気にさせるのは、
スター(うわさの光源氏)、豪華な××、結婚式・・・
のように、文化による非日常であって、ウソっぽい言葉や夢の演出だ。

男性をその気にさせるのは・・・現実直視だから
男は文化による「秘部」を見たがり、タブーを犯したがる。
と言っても、本来は男は常在戦場、何時でもその気なのだが、近頃そうでもなくなってきていることは、文化としての男が失われつつあることであり、文化そのものの消滅を思わせる。


節分

2008年02月03日 | 星の流れに

明日から子年、寅月。
農薬餃子は事件らしいが、農薬事件と言えば帝銀事件。
昭和23年1月だから、今年と全く同じ「戊子年」節入り前になる。しかも、前年から事件の複線がある。この時、最初に捜査されたのも、中国にからむ731部隊。結局、不可解な結果になった。

中国も日本も「鬼は外

60年周期としてはよくできている。しかし、星占いでは木星はまだ射手座で、土星もまだ獅子座。各々、一星座遅れている。
今後の動きは、どちらで考えるべきか?昭和25年ぐらいまでの世相を合わせて考える必要がある。

しかし、山羊座の事件ではあるが、薬物、農薬と、センセーションは天王星・魚座が勝っている。
今回の事件、魚座に関わる名前を見てみると

食品←洋
JTフーズ←日本たばこ産業←魚座のタバコは受難の時代
       (麻薬系の酒やタバコは魚座)
日食料←双日は双魚宮に重なる
底夢路←天洋食品工場長(底は尻、夢路も魚座)
春風←輸出入食品安全局副局長(春は魚座の季節)

(太字は、これまでも魚座の名前例で挙げている)

なお、
生活協同組合は カニ座


日本埋没 1

2008年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム

50歳近い渡辺謙が、玉砕を知らなかったことで驚いた。
昭和30年以前の日本と、日本人の感性を、ありのままに伝える義務があるような気がしてきた。

「昔が良かった」とは思わない。
ただ、近頃の日本文化ブームで肝心なことが忘れられ、外人観光客のように、思い込みで日本を美化することに、日本人として不安を感じる。

ありのままの日本人の感性。そこを誇りに思いたい。
日本人は農耕民であり、騎馬民族であり、南の海洋民族だ。

現代日本人が忘れている感性
日本人は「裸」を失礼とか恥ずかしいとは思わない。
日本人は「プライバシー」の意識を持たない。
日本人は「宝石」に関心がない。
日本人は「性」より「食」が神聖。
日本人は「子供」のために生きる。
日本人は「音」より「言葉」に注目する。

いくらでもあるが、思いつくままに話していきたい。


日本人は温帯で暮らしている。日本人の基本的な衣服は「褌と腰巻き」であり、これは南のモンゴリアンのほとんどすべてがそうしている。
北からきた西欧文化のマネをして、長袖やネクタイのような窮屈な格好を正装としているのは悲しく不合理なことだ。

古代の貫頭衣は下が抜け、今日の和服も下が抜け、前がはだけられる。
おそらく、日本は海洋文化の最北端になるだろう。
古代の衣装といえば埴輪スタイルの神武天皇や大国主命を思い浮かべるが、明らかに北方騎馬民族、渡来人の格好だ。
泥田に入ったり、丸木船に乗るには洗濯が大変だ。それに、暑くてやりきれない。
渡来人が途絶えて後、明治までの絵の中では、ほとんどの庶民が裸同然の姿をしている。支配層は格式をつけるために、無理に衣装を着ているが、南の島の腰巻や褌が失礼ではないように、日本でも裸は恥ずかしいことではなかった。
明治維新の西欧化によって、混浴や裸が禁じられ、西欧の「北のみだしなみ」が一般化したが、昭和30年頃までは庶民には江戸以前の感性が残っていた。

夕涼みよくぞ男に生まれけり
という句もあるように、男は褌一つで家前の床机で涼んでいた。
女も公衆の面前での赤ん坊への授乳は当然で、誇らしげであり、乳出しや腰巻き一つで洗濯をしたりしていた。
しかも誰も、これを見て劣情をもよおしたり、恥ずかしいとかケシカランとか思いもつかなかった。当たり前のことだからだ。
このことを言うと、昔の人の中には「そんなのは見たことがない」と言う人がいる。
つまり、自分は上層階級で、そういう下々の暮らしは知らないと言いたいわけだ。これは時代の証言者として非常に腹が立つ。
以前、江戸の再現というTV番組で、長屋の井戸端で、4~5人のかみさんが、腰巻きだけで洗濯や馬鹿話をしているシーンがあった。
この時代考証には感服した。ウケねらいもあったのだろうが、乳出しスタイルがない時代劇はウソものだ。

確かに存在した文化
昭和30年代まで、特に漁村などに行くと、暑い日には若いお嫁さんでも腰巻きだけで洗濯している姿を見かけた。
日本人は性器フェチだと言われている。それは、乳房がありふれたものであり、特別に興味をそそらなかったからだ。
やはり、昭和30年頃、「外人はとっさの時に胸を隠して下を隠さないらしい」と異文化について興味津々でよく書かれていた。
おそらく、今の若い日本女性も外人感覚ではなかろうか。

先日、貴重な映像を運良く録画した。
NHK教育「10mini」の「川を見る」で、昭和22年のカスリン台風で氾濫した川を呆然と見ている人々の映像の中に、若いお母さんが上半身裸で赤ん坊を抱いている。隣の女の人はちゃんとワンピースを着ている。着るものがないわけではないが、誰も不思議には思っていない。
今の女の人が台風でずぶ濡れになっても決して上半身裸にはならないだろう。たとえ70歳でも。  

昔の日本について、解ってもらおうといくら力説しても、わざと極端なことを言っているとしか思われない。
もちろん、昔でも普段、腰巻き一つで写真や映画に写されることはないし、仮にあったとしても放映されるようなことも滅多にない。だから極めて貴重なショットだが、これを指摘したことで、良い子チャンぶるNHKがカットしてしまうことを恐れる。
ミスかも知れない放映だが、歴史はありのままに伝えるものであり、流石NHKと讃えたい。
著作権もあるからここには上げないが、もしNHKがカットしたら上げなければならないだろう。

「おまえは何を言いたいのだ」と言われるかも知れない。
ハワイの乳出しフラダンスや、サーフィンは、西欧の宣教師によって抹殺された。日本では明治政府の西欧化で、混浴や裸の文化が押しつぶされ、洋館でナイフとフォークで食事することが上等とされた。
食卓で刃物を振り回す野蛮を考えたことはあるだろうか。しかも実は、近代まで、彼らの基本は手づかみだった。
洗脳の結果、温暖化で亜熱帯になろうとする日本で、いまだにネクタイ・長袖スーツを捨てがたく、その上、エアコンを使っている。

西欧でもギリシャローマなど、温暖の海洋文明が盛んな頃には裸が悪いことではなかった。北の野蛮人によって厚着に征服されたのだ。
逆の話しをしよう
日本の仏教で、僧衣の上に袈裟をかける。袈裟はもともと、暑いインドの衣服を形だけまねたものだ。
インドの必然的なデザインも、寒い国では象徴になったように、今、南国には半袖・短パンに蝶ネクタイの役人がいる。
袈裟は宗教儀礼化して形が残ったが、温暖化の世界のなかで長袖スーツネやクタイを残すのは西欧文明の宗教化だ。
褌で国際会議をしろと言っているわけではない。
衣服や暮らし向きは、環境に従うべきであって、力の支配や洗脳による「礼儀」に従う理由はない。温暖化も進んでいる。