魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

暴発前夜

2024年05月28日 | 星の流れに

中国のやりたい放題に、アメリカはほぼ沈黙している。イスラエルやウクライナを抱えているから間単に動けない。中国はそれを承知で強気なのだろうが、アメリカの焦燥を見くびっている。
天王星84年周期。84年前、日本のやりたい放題にアメリカが爆発寸前になっていることに、日本は気づいていなかった。
日本は堪忍袋の緒が切れて真珠湾攻撃をしたと思っているが、アメリカの「覚悟の」強硬姿勢を見誤った。
日頃、強気な人間が沈黙するときは一番怖いときだ。それを、俺を恐れておとなしくなったと勘違いする幼稚さ。旧日本軍も中国共産党も思慮の無いわんぱく坊主だ。

1941年5月26日、木星が双子座に入り、8月には天王星が双子座に入った。
奇しくも今年、2024年5月26日、木星が双子座に入った。天王星が双子座に入るのは来年の7月だが、影響圏には既に入っている。
つまり、今は第二次大戦初期の状態に入っている。他の惑星の配置が異なるので、同じ結果にはならないが、似たような状況は生まれる。現に生まれている。
ドイツがロシアに、日本が中国に置き換わったような状態だ。
80余年前、ドイツの圧迫を受ける欧州の悲鳴を聞きながら、アメリカは『もう、ヤルしか無いのか』と心理的に追い詰められていた。誰だって戦争は嫌だ。

木星が自分の星座に来ると、それまでの成果が出る。受験生は合格、婚約者は結婚、サラリーマンは昇進し、商売人は新店舗をオープンしたりする。卵から雛がかえる時だから、苦しい状態からの解放を意味する。しかし、それは本当の試練に出会うことを意味している。
1941年。日本人は理解しなかったが、耐えに耐えたアメリカは、日本の真珠湾攻撃により、一気に動き出した。人間の心理は、耐えるより行動の方が楽になる。
2024年。これまでアメリカは国内外の政経状況で追い詰められ、我慢を重ねてきた。今年の大統領選挙は、不満からの解放になるだろう。少なくとも、アメリカ人にはそう感じられる。どちらに転ぶにせよ、とにかく動き始める。
中国は今、戦前の日本のように、このアメリカの不満を理解していない。相手のリアクションに対し自分が折れるなど念頭に無い。それどころか、独善的な被害者意識で反発している。そして同様に、国民もそう信じている。

日本の真珠湾攻撃は、ハルノートでも、アメリカの陰謀でもない。戦争を覚悟して妥協を迫るアメリカの真意を、「横暴」と見誤ったためだ。今の中国も、全くの独善思考で、WINWINの夢しかなく、痛み分けの共存共栄を理解していない。
バイデンのEV100%関税は、選挙対策とみられているが、アメリカの総意の「覚悟」と見るべきだろう。それがアメリカ国民の求めることだからだ。

80余年前、天秤座の日本が真珠湾攻撃に成功したと喜んだのは、木星が双子座の吉角にあったからだが、当の双子座アメリカにとっては、対人を表す射手座の12月にとんでもない来客があったことになる。そして、半年後の6月5のミッドウェーでは、双子座の木星に加え、天王星、水星、太陽の力で一気に形勢を逆転した。木星は栄誉、天王星は集中力とハプニング、水星は情報と判断、太陽は活力とやる気を表す。なをこの時、戦闘の火星は天秤座日本にとって凶角のカニ座にあり、顕著な失敗を表す。作戦想起自体が、この火星の影響と考えられる。

まさかこの時代に米中戦争が起きるとは考えられないが、コロナ禍を引き起こしても居直るバカが何をするかは解らない。何よりも、被害者が皆怒っている。戦争か経済戦争かは別にして、ミッドウェーの再来は迫っている。


宝刀切口

2024年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

NHKは何かとLGBT問題を取り上げ、ドラマ化にも熱心だが、これまでどれも「異議あり!」と言いたくなるような勘違いが含まれていた。それは、当事者を含め世間一般のLGBT、ジェンダー認識の浅さ同様に表面的な事柄に終始しているからだ。
究極の「人権」や「人格」が、どこかに忘れられてきた。
ところが、今回の『VRおじさんの初恋』は、ほぼ完璧だった。

原作を無視したドラマや映画が問題になり、原作者が自殺する事件まで起きた。
しかし、原作の思いというものは、リメイク作品に必ず残ると信じている。
フィクションが嫌いで、大人になってからは、ほとんど読まない。小説など、他人の世界を強制的に聞かされる気がするからだ。
飛ばし読みや拾い読みでは、ストーリーは解っても、作者の思いは解らないから、活字のストーリーは一言一句、作者の気持ちを推量しながら読むので、疑義があってもその世界から抜けられない。だから結局、読まない。

ところが、よく知っている小説が映像になると、原作のイメージとは異なる世界なのに、テーマだけはちゃんと存在している。なぜか、どんな表現方法でも原作の思いは伝わってくる。映画やドラマとしては粗雑なものであっても、制作者が理解していれば、あるいは、その作者や作品に惚れ込んでいれば、原作がそこにある。
だから、イメージが壊れるから映像は見ないという人は、作者とどんな会話をしているのか不思議に思う。

他のジャンルのリメイクに作者の思いが残るのは、おそらく、原作者が切り取ったモチーフこそが、作品の存在理由そのものだからなのだろう。
『VRおじさんの初恋』は、原作者ともしっかりコンタクトをとりながら、かなり丁寧に作られたそうで、原作にはなかった話まで加えられたようだ。NHKらしい余計な配慮だと思うが、シュガーを入れなければコーヒーを飲めない人もいるから、これはこれで良かったと思う。

仮想現実によってジェンダーを剥ぎ取り、「人格と人格」が直接ふれ合うということがどういうことか、これほど解りやすく見せてくれた作品はこれまで無かったのではなかろうか。原作のマンガを見ていないので、何とも言えないが、原作では読みたい人しか読まなかったかもしれない。
朝ドラ同様、NHKお得意の世間話化で、誰でもが視聴し続け、あからさまなジェンダーを掲げることなく、おおいに世の認識を新たにしたのではないか。

この作品は、関係者の気合いもさることながら、やはり、原作者の切り取った断面が鋭かったのだろう。原作者がどう目論んでいたのかは解らないが、八岐大蛇から出てきた剣のように、意図せずしてとんでもない宝を切り出したような気がする。


家元本山

2024年05月22日 | 新鎖国論

再びの焼け野原
未来は無から生まれるわけではない。失われた30年で凝り固まった日本でも、未来への小さな萌芽は無数に芽生えていたが、既存技術だけに目が向けられてきた。
トラック輸送や宅配、季節無視の温室栽培のように、化石燃料や原発など高度成長期の遺産に拘泥し、コストカットの派遣労働や海外生産など、過去の売り食いばかりで、未来への投資、人、技術、産業の育成を怠ってきた。
既存技術をゴテゴテと満載し、何も訴えるモノのない家電やハイテク機器の陰で、技術者の試みはことごとく押さえ込まれた。太陽光パネル、有機EL、曲がる液晶など、開発した新技術も、他国が売って見せて初めて手を出す臆病経営が日本を腐らせた。

もはや、未来への扉は閉ざされ、庭の芽は枯れ果て、外国の技術や人を移植する有様だ。それも当座はやむを得ないとしても、重要なことは、そこにどんな気概があるかだ。明治の初め、立ち後れた日本は外国の人と技術を取り入れたが、あくまで自主独立の魂胆を秘めていた。その日本方式から「学んだ」中国は大成功を収め、海外侵略まで踏襲しているが当然、同様の失敗に終わる。

日本が再び維新を考えるなら柳の下にドジョウはいない。明治維新や、戦後成長には、「追いつき追い越せ」の気概、0からのハングリー精神があったが、日本はこの期に及んでも一等国の誇りにしがみついている。
今さら、時代錯誤な国家競争を激するのではない。むしろ、そういう古い一等国感覚が足かせになっている。未来の道は国家競争を捨てるか、誇りを捨てるかだ。
国家競争で勝とうと思うなら、日本は金や技術など、海外援助などしている場合ではない。誇りを捨て、落ちぶれた貧乏人として福祉政策などかなぐり捨てて、這い上がるしかない。

未来の超国家ビジネス
しかし、未来は明らかに近代国家の枠の向こうにある。日本が勝ち上がろうと思うなら、むしろ逆説的に、勝ち負けの原点である、国家意識を捨てることだ。
世界の未来を提案する商品は、超国家のグローバリズム商品だ。GAFAなどと言われたアメリカ発のビジネスが世界を席巻し、日本にそれができなかったのは、民族国家的閉鎖性のためだ。バイデンの言葉は失言ではない。日本は閉鎖的だ。
日本が成功するには、国家を超える産業に着目すべきだし、実は、日本には他国にはない逆説的な絶対パワーがある。

日本ほど孤独な歴史を歩んできた文明国は、世界にはない。日本は一人っ子であり、兄弟姉妹で競り合って来た世界には絶対にマネできない個性がある。汲んでも尽きない独創文化がある。
狭くなる地球に求められるものは、狭い国土で育んできた孤独で自由な日本の価値観であり、譲り合いや自粛の精神だ。出る杭を打つ日本の欠点は、国家競争では短所だが、競走相手のない孤独な人類には貴重なルールになる。また、神仏習合の経験は宗教戦争解消へのヒントになるし、幕藩体制の参勤交代も国家間競争や大国主義を無効にするヒントになる。

現在の国連は、室町幕府のような大名依存であり戦乱の芽を摘めないが、江戸幕府のように、各国の自主権を認めながら、強力な世界貢献に導けば、国家の特色を残しながら世界は均質化し統一する。
新しい日本のヒット商品は、この世界秩序イメージから生まれるはずだ。
産業革命パラダイムは物の競争であり、GAFAの成功はその仕上げとなる情報インフラの拡張だったが、情報化の未来は価値の競争になる。

本山家元
この点で日本が他にないモノを持っているとすれば、「家元」のような、宗教方式のブランド流布だろう。ブランド商品のようにイメージだけではなく、一神教のように排他的な囲い込みでもない。
美意識や道徳意識に基づいた生活様式の提案であり、既にゲームやアニメで一定の条件は整っている。しかし、中国や韓国のようにソフト産業で現金に儲けようとすれば、元も子も失う。あくまで、日本文化の伝達を目的とし、島国の日本人自身が必要とする教養と娯楽に徹することだ。これにより、日本という不動のワンダーランドへの憧れが生まれる。
そして、そこへは簡単には入れないようにする。つまり、日本に入国するには一定の条件や審査をし、日本文化を学ぼうとする一定のリスペクトを持った人しか受け入れない。観光客ではなく、日本学校の学生や修行者なら受け入れる。ビザの厳格化で、相互主義により日本人も気楽に出にくくなるが、その分、自国への認識と愛情が深まるだろう。 

日本は観光地ではなく、「本山」になるのだ。そのためには、日本にあるすべての世界遺産(=与えられた価値観)の返上をして、日本そのものが唯一無二の価値になる。しかし、一神教のように価値の押しつけはしない。むしろ、世界のあらゆる価値観を日本に誘致する。宗教であれば、各宗教の大学を誘致し、純粋に学問的な宗教の交流環境をつくる。
学術芸術に関しても同様に交流環境をつくるが知的財産権などには関わらない。自由でオープンな場であることが重要で、特にサブカルチャーなどに参加したい人は理解者、学徒と見なして受け入れる。

とにかく、野次馬的観光客を閉め出し、はっきり価値観と目的を持った人だけを受け入れる。
オーバーツーリズムは、単なる好奇心や慰安、刺激を求めて来る人々によって起こる。
物見遊山の観光を拒否し、知的発信の家元、本山になることによって、世界平和と未来の生き方を発信する。大事なことは、決して世界に押しつけたり売り込んだりしない。柔道は広めようと出て行った結果、日本のものではなくなった。空手はテコンドウにパクられた。
外でどんなにモノマネをされようと、動かない。徹底して内向きでいることにより、向こうから寄ってくる。世界遺産など他人の価値観に一切媚びず、日本方式を貫く。
日本食が広がり、多様な亜流が生まれたが、気にせずにいることで、結局、関心は日本に回帰してくる。マンガやアニメなども、技術はマネできても日本の生活文化環境や発想はマネできない。

わびさびや、まこと、譲り合いやもったいないなどの、孤独な島国の日本史から生まれた「縮みに広がる大きな世界」の精神を世界に広めることが日本ビジネスになり、そして小さな地球の人類に貢献することになる。
今は、コンテンツビジネスと言えば知的財産権のことだが、これから日本が売るべきは権利ではなく精神であり、骨董品ではなく美の価値観だ。そしてそれは日本宗家、日本本山にしかない深淵の世界から生まれるものであり続けなければならない。
くどいが、あえて解らない人のために言えば、大本山があってこそ門前町の商売が成り立つ。

 


夢無き子

2024年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

円安物価高の中、薄利多売の低価格志向から脱却するため、企業は国内外の富裕層やプチ贅沢をターゲットに付加価値戦略を始めた。
日本企業は、もう、本当にダメだと思う。
戦後の日本企業が伸びたのは、客へのゴマすりではない。金持ちの財布からかすめ取ろうとするような、姑息で情けない詐欺根性ではない。一生懸命なのは解るが、詐欺や泥棒だって一生懸命に変わりない。

戦後の躍進はすべて、人生や社会への革命提案だった。
バイクも自動車も、トランジスターラジオもテレビも、洗濯機も冷蔵庫もクーラーも、それまで無かった生活や体験、新しい世界を提案する物だった。そして、それがウォークマンで終わると、『プロジェクトX』の思い出話を聞きながら、日本は老化していった。
若者は老人の手柄話の前で、「俺たちにはもうすることがない」とヒガむか、耳を塞ぐだけになった。今、その若者が企業のトップや中堅だ。

戦中・戦後派が生死の瀬戸際で渇望した新しい世界の夢は、高度成長の原動力になったが、バブルと崩壊の中で成長した日本人は、徹底的な喪失でもない、デフレの飼い殺しの中で、生死をかけた野生を知らない、家畜のようになってしまった。しかもその自覚がない。
何をするにも、柵や囲いの範囲でしか考えられない。柵が無くても出ようとしない。出ようとする者を押さえ込む。
偏差値による受験戦争で、テーマ内の問題解決の訓練しか知らず、与えられた範囲で、認可を詐称し、下請けを絞り、客の顔色ばかりを見る。
だから、商品開発も抜本的な提案ではなく、ちょっとした色づけで客のご機嫌を取ろうとし、外国の後追いや依存しか思いつかない。

もし、本気で日本企業がそして日本が、生き残ろうとするなら、柵内で命を長らえることではなく、客のほお面をひっぱたき、「これが欲しければ売ってやろうか!」と言える、野生的な、無からの新製品を出して見せることだ。
そして、それができるのは未来のビジョンからであり、未来は柵の外にある。凝り固まった日本の常識、美しくそびえ立つ柵の破壊の上でなければ描けない。


情緒の嵐

2024年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム

イスラエルとハマスの戦争が起こった昨10月、この戦争の勝敗はイスラエルの大義を世界が認めるかどうかだと思ったが、案の定、イスラエルに逆風が吹き始めた。
(→江戸の敵
なぜハマスは、一見勝ち目の無い、無謀な襲撃を始めたのか理解に苦しむように見えるが、イスラエルの出方を承知の上で「仕掛けた」PK狙いの突入だろう。

中東の歴史は複雑すぎて理解しきれない。
しかし、その歴史の結果生まれた「駆け引き文化」は、サッカーの試合を見れば良く解る。「中東の笛」は、裏工作を含め、駆け引きこそが真の戦いであり、観客や審判を巻き込み、判定勝ちすることが目的だ。
見えるところでは大げさに倒れ、さも痛そうに七転八倒する一方、見えないところでは、相手に致命的な反則をする。不利な判定にはいかにも不当な判定の被害者のように抗議する。しかも、しつこく粘り強い。
潔さを美とする日本人には、全く理解できない行動だが、これこそが彼らにとっては誠実(一生懸命)に生きることだ。

同じ中東の出身ではあるが、差別の世界で生き抜いてきたユダヤ人は、同情や判定を期待しない。徹底した現実主義であり、誰にどう思われようと自らの力で結果を出そうとする。しかし、逆にこれが弱点になり、イスラエルの建国が世界の同情によって可能になった側面を軽く見て、実力さえあれば勝てると信じている。
これを見抜いているのが、長年イスラエルと接してきたハマスだ。

今回のように不当な戦いを仕掛ければ、イスラエルは大義を得たと必ず徹底的な反撃を始める。そこで大きな被害を目にする観客が、逆にイスラエルを非難し、イスラエルの存在を否定し始める・・・かどうか、
イスラエル国家が世界に普遍化するドタン場で、ハマスの仕掛けた大博奕だ。実際、見た目に反応する人々や、ピュアーな善を信じる学生達が、大きく反応している。

少なくとも現場にいない限り、戦争に善悪などない。何はともあれ、止めさせることが第一で、喧嘩両成敗を前提に、双方に割って入るしかない。サッカーなら、レッドが出た段階で、どちらの責任に関係なく没収試合とするようなものだ。どちらにも不満が残るが、それ以上の被害者は出ない。
ウクライナにせよパレスチナにせよ、一方的な被害者とみれば、争いを止められない。双方の責任を承知の上でなければ、加害者を説得できない。

あえて言うなら、ウクライナはロシアとの妥協を拒否して、何が何でも西側に行きたいと叫びまくり、ハマスもイスラエルを敵とすることで存在してきた。
台湾がかろうじて戦争を避けてこられたのは、ウクライナのような騒ぎかたをしないからであり、賢明な統治機構があるからだ。
この事実を見ないで、可哀想だからと感情的に関われば、火に油を注ぐことになる。そして、残念なことに、世界はこうした情緒の嵐の中で進んでいく。