魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

冥王星が射手座に逆入

2008年06月30日 | 星の流れに

6月14日から、冥王星がまた射手座に戻ってきた。(4/2から逆行)
基本的には山羊座時代に入っているから、大した意味はないが、射手座のなごりが表れる。射手座の人も事柄も憂鬱の蒸し返しだ。

当然、双児のアメリカは去年までの幻想に再び灯がともる。テロ国家指定解除がそれだ。一方で、中国は小康状態に入った。

それにしても、このブッシュ大統領という人は、わざわざ業績作りをしなくても、「アメリカ史に燦然と輝く」おばか大統領だ。
人間的には、同じカニ座の福田よりかわいげがあるが、かわいげではすまない立場だから困る。

闇雲にイラクに突入したかと思えば、今度は闇雲に妥協している。
あと4年、任期があれば、確実に北朝鮮に突入するだろう。
おそらく、当人としてはほぞを噛む思いで妥協しているだろうから、北がちょっとでも「なめたマネ」をしたら、パンクする。
幸い、もうすぐいなくなるが、後釜もアブナイ、アブナイ。

不穏な星の動きをふまえ、うがって考えると、
もしかしたら、アメリカ、ブッシュは「しかるべき覚悟」をして、北朝鮮を泳がせているのかも知れない。当然、中国を巻き込み、次期大統領への布石を込めてだが、
いいかげん北朝鮮はこのあたりで手を打っておかないと、元も子もなくなるが、それがわかるほどのギャンブラーだろうか。

この20年、アメリカという腕白坊主を野放しにしたら、世界中がとんでもないことになってしまった。
ライバルのソ連がいた冷戦時代。暗い時代だったが、パンドラの箱が開かれたような現在からすれば、まだ解りやすかった。
本当は今の方がもっと暗いのかも知れない。
これも巡り合わせだが、一体、人類に明るい時代などあったのだろうか。やっぱり、人類の道はきびしい。いつもイバラ道で四苦八苦だ。

冥王星は9/9に順行を始め、11月末にはまた山羊座に入る。
今年前半の動きが、小康の後、秋からいよいよ本格化する。

投機マネーと国家の戦い。税の国家間争奪。FTAなど関税協定によるブロック化・・・国家と金にまつわるシステム転換
食と資源とエネルギーなど、生活の基礎の奪い合い
など、徐々にだが動いていくだろう。


東西の日本 2

2008年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

西が東を活かす
九州と近畿では、九州の方がさらに過激だが、西のアピール主義には変わりない。
その西の阪神大震災ですら、外国から見れば慎ましく見えた。
日本全体に浸透した、東の武士道と職人気質こそが、日本のイメージを作り上げている。

しかし、面白いことに、葉隠は九州で書かれ、東芝の前身創業者の天才からくり職人・田中久重も九州だ。
ただ、これは江戸時代であり、東の価値観がすでに全国に行き渡った後で、それを西流に「形」にしたものといえるだろう。
さかのぼれば同じように、奈良以前の大陸文化に対し、平安以後は明らかに東国の運命論的、涙といやしの感性が融合している。

関東・東北は何事も自然現象のように受け入れ、自分たちをアピールすることはない。
赤いものは見たとおり赤なのに、なぜそれを、わざわざ「赤い」と言う必要があるのか・・・そういう感性だ。

一方、西の大陸型「かけ引き」では、相手に関心が無くても「赤い」と知らせ、「赤い」と認めさせて、初めて「赤い」ものの存在意義が生まれる・・・そう考える。

商売でも西は、売る時と買う時では、同じ人でも、立場によって違う人間になると考え、東は、売るのも買うのも同じ人間じゃないかと考える。だから西から見れば、東は「売ってやる」的な態度に見える。

西は古来より、洗脳、押しつけを得意としてきた。
九州から近畿に進出して、神話によって大和朝廷を権威づけした古代。
朝廷権威を利用して政権を取った明治維新。
それに対して、東の鎌倉幕府も江戸幕府も実力統治を前提にし、既存の朝廷を自然環境のように受け入れ、利用することも滅ぼすこともなかった。

世界の中で、特異と言われる日本のスタイルは、この東の生き方がベースになっている。
説明下手、反応の鈍さ、かけ引き外交下手、アピールより品質、黙々と信用を築くこと、博打嫌い・・・

しかし、明治以降、今日の日本を引っ張ってきたのは明らかに西の「駆け引きと博打」精神だ。
仮に、東の政権なら、日清、日露の戦争もなかっただろうし、また逆に、日本はどうなっていたかわからない。
また、その逆に、東京が首都になっていなければ、太平洋戦争はなかったかも知れない。信仰とも言える融通性のない軍国主義は、その後の東京で形成された。

西は世界原理に通じ、東は日本らしさを醸成してきた。
いわば、東が原石なら西は彫金師だ。西が世界と勝負するために東の資質が役に立った。

複層の日本
戦後の日本経済は技術力と信用で世界に売り出したが、工業生産からソフトビジネスの時代に入り、知的所有権やM&A、金融マネーのような、「かけ引き」や「抜け目なさ」が物を言う時代に入って、東の日本原理が通用しなくなり、孫正義のような素早い西が現れてきた。

日本企業は閉鎖的だと非難され、このままだと自滅してしまうと心配されている。確かに、時流に照らせば株主無視だ。
しかし、技術と信用を基本とする日本の企業は永続性が命であり、M&Aのようなマネーの手段とは相容れない。
したがって、ホリエモンの言うように、上場という手段そのものが間違っているのかも知れない。

「外資を導入しなければ、設備投資などに後れをとり、経済全体が沈下する」・・・もっともな意見だ。
しかし、果たして外資なるものに、どれほどの信頼性があるのだろう。
グローバル化を囁く博打打ちから金を借りて、安心してもの作りができるだろうか。世界の物価高騰の主犯も、明らかに投機マネーだ。
発展途上国なら、どんな借金もやむを得ないかも知れないが、日本は、とりあえず焦ることはないはずだ。

うまくすれば、
株式市場の活性化と、企業防衛は両立するかも知れない。

日本経済と東証の沈滞は、企業の東京化が原因だ。
内向き保守の東日本の感性が、維新の軍隊を後に軍国主義化し、官僚の宦官化を招いたように、東京は金融機関はもとより、関西系の企業をも宗教集団化し、第二の敗戦であるバブル崩壊を招いた。

現実感と創造的「機敏さ」を失った東日本の信仰心では、ソフト時代の市場原理には対応できない。
商売には、早さと要領も必要であり、日本の貿易も創生期は関西だった。現在の東西企業文化の顕著な例は、docomo対softbankだ。

東京市場の沈滞は、多様な企業理念や業態を、一つの市場で取引していることも原因かも知れない。
早い話、ジャスダックと東証の「立場」を入れ替えたらどうだろう。

資金調達の場として上場する企業は動物市場。ステータスとして上場している企業は植物市場とにでも、別けたらわかりやすい。

植物市場は、出資者と経営者が同士的結束で企業を育てようと考える会社を扱う。本来、上場の必要もないが、同士の参加に門戸を開く意味で上場する企業であり、企業間の融通市場ともなり、安定資産として考える株主にも価値がある。

動物市場は、何でもありの格闘技場として解放すれば活性化は間違いない。

日本はやはり、もう一度、関西をエンジンにすべきで、それは九州でも良い。連邦制にすれば、自動的にそうなるかも知れない。
ただその場合、東西の亀裂は深まるだろう。


東西の日本 1

2008年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

岩手宮城内陸地震の映像には驚かされる。死者の数が少ないのはむしろ奇跡的で、あの被害を考えるとやはり大きい地震だ。

日本の大災害はまだまだこれからだ。考えられる直近のフォーカスも2009~2011年に迫っており、どれほど用心しても、し過ぎと言うことはないだろう。
阪神、新潟、富山、岩手はまだ、ミシ、ミシというきしみ音だ。
予知やメカニズムを論じるより、対策の整備こそが、いかに大切か、近頃の世界の大災害が証明している。

東北の日本
阪神大震災の時、被災者が騒ぎ立てないのを見て世界中が驚いた。
人間の営みに災害は避けることはできない。だから、いかなる災害も優劣はない。百万人死のうが、一人死のうが、個々の不幸は等しい。
しかし、その反応は人様々、文化地域により様々だ。

日本は何事も自己説明、自己主張が足りないと言われている。これは確かに不利なことだが、日本人の「慎み」文化に起因するものだ。
そして、これはおそらく、武士道精神によるものであり、その武士道精神にはまた、東日本の感性が反映されている。

関東、東北は寒いだけではない。縄文以前の狩猟生活が、自然に従う生き方だったからであり、自然への敬意と諦めが、何事も運命に従う保守的な感性と従順さを生んでいる。

戦国時代の長い混乱で、人も文化も相当に入り交じったはずの今日でも、東西文化には大きな違いがある。
御巣鷹山の日航機事故の時、東西の空港の情景には極端な差があった。羽田の沈鬱な空気に対し、伊丹は怒声が飛び交っていた。
東西が同時に関わる事故は少ないので、この違いは鮮烈だった。

感情発散型の西に対し、内にためる東は一見、無表情に見える。
しかし、発散しない東型には、実は強い情念がある。
高校野球などの試合直前のベンチの風景にもそれが現れる。関東甲信越出身のスポーツ選手は全体に淡々としている。掛布や中田英寿などが典型だ。ただし、海洋文化の安房や相模は陽気な例外だ。

知られてなんぼ
西日本には大陸的な、人と人の「かけ引き」文化が強く、人心を揺さぶる「気合い」が重視される。
大声を上げ、多言を労し、愛想と威嚇を機敏に入れ替える。
何事も、どう在るかではなく、どう思えるかであり、不幸すら、形にしなければ収まらない。

雲仙の火山災害の時、多くの被害者はわざわざやって来た人や逃げられたはずの人であり、しかも、災害をもたらす火山は昔からそこにあった
だから、災害の持続性や派手さの中で、普遍的な不幸以上に、被害を訴える動きの方が突出して見えた。
その最中、北海道の奥尻島で200人の死者を出す津波があった。
地震など想像もできない穏やかな土地で、住民は一瞬に壊滅状態の災害に見舞われた。
すると、雲仙の被害者達が、悲しみと沈黙に沈む現地に、同じ被災者として見舞いに行った。この時のかみ合わないコントラストも目に残る。
ほぼ同時期の災害でありながら、今日、恐らく、全く無垢で多数の被害者を出した奥尻島より、雲仙普賢岳の方が一般の記憶に残っていることだろう。
このところ続いている北陸、東北の災害も、感情をうちに閉ざす我慢強い人達が被災者であることを、あらためて思いおこしたい。


後期高齢者と公器後礼者

2008年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

「後期高齢者」とはよくも名付けたものだ。「死に損ない」の方がまだ笑って聞ける。
「このじじい」「このばばあ」「この死に損ない」と口にする時は、悪態ではあるが、どこかに暖かみがある。日本文化は、子供や年寄りを大切にしてきたからだ。

明治からの西欧化、戦後の小家族民法を経て、個人主義の発達とともに「いたわり合い」の文化が消えてゆき、ついに合理主義は人間を規格別けするまでに至った。これを率先して行った役人は「公器後礼者」と呼ばれるべきだ。

「若い世代が多くの年寄りを背負わなければならない」という思いこみが、被害者意識をかき立て、合理的うば捨て山制度をつくった。
「後期高齢者」という言葉には、エリート役人の血も涙もない合理主義と、年寄りに対する嫌悪感がにじみ出ている。この言葉の冷血さに気づかないことが、何よりの証拠だ。

確かに、これまでの制度や慣習のままでは、年寄りは若い世代のお荷物になる。
しかし、だから、年寄りには自分の墓穴を掘らせて、早く死んでもらおうと思うのは、旧態への甘えだ。知恵がない。
時代が変わったように、年寄りも変わっているのだ。

村の船頭さんは「♪今年60のおじいさん」と歌っているが、当時は子供も10代で自活していた。今やこれは80歳のことだ。
80歳ぐらいまでは、何らかの形でじゅうぶん労働力として使えるし、責任を持って働いている人は通院率も低くなる。
ただし、老人の社会参加には、老人自身も含めた、社会通念の変革が必要だ。

老人医療費がかさむのは、小家族化時代に、年寄りの不安対策がないからだ。年寄りが病院をたまり場にするのは、寂しさと不安からだ。
病院に行かせないために金を取る・・・なんと、知恵がない!
病院に行かなくても良い環境を造るべきではないのか。

多くの年寄りは、年齢に関係なく働きたい。高齢によるさまざまなハンデはあるだろう。ハンデのある人が働ける環境をつくるのは社会的負担ではなく、利益でなければならないはずだ。もし、障害者と高齢者は別だというなら、それは障害者に対する親切ごかしの逆差別だ。
働きたい人が等しく働ける社会こそが、活力を生む。

生き甲斐と自活環境づくりに平行して、健康の安心環境が必要だ。
年寄りは体調不良が常態と言っても良いぐらいで、その多くは加齢によるものだ。日々発生する不具合に、いちいち病院に行くから医療費がかさむ。日常的にちょっと相談できる医療関係者がいれば、恐らく通院は激減するだろう。
かかりつけ医制度はこのあたりを考えたのだろうが、ちょっと相談するのは医者でなくても、看護師OBなどで充分だ。いわば総合病院の受付のように、受診科や症状の重篤度を判断する。

そうした、ちょっとした相談ができる環境をつくるために、医療関係者を軸とする様々なクラブやサークル推進も必要だ。
もしくは、病院とは別に、保健所と病院窓口が合体したような、健康相談所や町内ネットワークでもいい。

「そりゃ歳のせいだよ」の一言で、年寄りの通院は半減する。

そして、実は重要なことはもう一つ。死ぬことへの安心を保障することだ。昔は、ぽっくり寺信仰のようなものが機能していたが、今は、そうした心の病院の方が先に死んでしまった。


ネズミの夜

2008年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

訪問していたお宅を、夜遅く辞そうとしていると、
「おなか空いたでしょ、食べていってください」
と、冷やしそうめんを山盛り出された。
確かに、小腹は空いていたが、何より、ゆでて仕舞ったそうめんを断るのも悪いような気がして、頂くことにした。
久々のそうめんは、ことのほか美味しく、山盛りをサッと流し込む。

帰ると、疲れていたので、シャワーもそこそこに寝てしまった。

『食べてすぐ寝てはいけません』
(特に、子供や年寄りは)

明け方、腹痛で目を覚ました。
水を飲んだり、梅干しをかじったりしているうちに、うとうと微睡む。
・・・
「おい、豪快に行こうぜ」と、声をかけられ、見ると、
仲間のネズミが、並べられた伸し餅をタテにかじって棒状にし、端からガツガツかじっている。いつの間にかネズミになっている。
やがて、
女性のナレーション
「おやおや、大変です。昔の人はこれを『デッチカイギ(丁稚会議)』と呼んでいました。盗み食いはいけませんね」
昭和30年代のモノクロのニュース映画になり、
餅の乾燥場で、大量のネズミが腹を膨らませて、重なり合って悶えている。
「せっかくの豊作を食い荒らす、憎っくきネズミですが、お百姓さん達は、千載一遇のチャンスとばかり、大量のネズミを集めて焼却処分しました。」
刈田で燃え上がる焚き火。♪楽しいBGM

ナンノコッチャ?

目を覚ますと、腹痛は治まっていた。


サマータイム、反対!

2008年06月14日 | 占いばなし

干支60年周期で、今年は昭和23年に当たる。
占領下の日本で、アメリカ式のサマータイムが取り入れられた年だ。61年目の同じ戊子年に、洞爺湖サミットをきっかけに再燃した。

幸い、立ち消えたようだが、今後とも日本にサマータイムを導入することには大反対だ。
60年前に導入して、実際に、日本にはなじまなかった。

占い師としても大迷惑な歴史だ。実施された昭和23年から26年までの生まれの人は、生まれた日時を確認し直さなければならない。
だから、占いを学び始めた時から、サマータイムの愚かしさは知っていた。

一日を均等時間に分けるのは、定時法と言い、暦や天文学の発展で始まった科学的思考で、中国からもたらされた干支術でも、二十四節気を始め、時刻も正しく均等割りにしていた。

ところが日本ではなじまず、不定時法と呼ばれる、季節に合わせたアバウトタイムが使われるようになった。
不定時法は、昼が長くなると比例して昼間の一刻が徐々に長くなり、短くなると徐々に短くなる。
日本では、自然に従う暮らしを明治まで続けていたわけだ。

自然にしたがう
年をとるほど、四季折々、飽きることのない日本の自然をありがたく思う。
中国や西欧のように、大陸型の厳しい自然や闇に閉ざされた長い冬に暮らす人達にとって、観念的な時刻割りはむしろ便利だったことだろう。それを礎にして合理主義も発達した。
そして、それが、非人間的な人間主義、つまり、現実感を失った人間の独善を生んだ。

西欧と比べ、日本の科学には古来よりの自然観を伴っている。
東洋的自然観による自然依存とともに、豊かな自然に恵まれたゆとりが、縄文土器のような遊び心を持って、西洋の合理主義を取り入れた。

東洋的自然依存とは、既存概念を活かす「パクリ」精神であり、遊び合理主義とは、必要を超えた技術の追求、クオリティーの追求だ。
鉄砲から自動車まで、日本の科学精神が反映されているし、あるいは、ノーベル賞にもこうした傾向が現れている。
地動説や進化論、大陸移動説や相対性理論のような、とてつもない概念破壊より、気の利いたヒラメキとでも言うような革新が得意だ。

自然に寄り添って生きる日本に、欧米式の合理時間は要らない。
不定時法とサマータイムは一見似ているが、全く逆だ。

不定時法が人間生活を季節に合わせるのに対し、サマータイムは人間の勝手な合理主義、均等割の定時法を、季節に対抗するため、つまり、季節をごまかすために、強引に設定する時間だ。
これは、合理主義経済が、自然のリズムを無視し、人間を働く機械にしてトコトン搾り取ろうとする、悪魔に魂を売った人の所業だ。

欧米かぶれの人々は、サマータイムを導入してないのは日本だけだと言う。
「大いに結構だ!」
定時法を採用しながらも、日本人はどうにか季節感を忘れないでいる。
世界が非人間的精神に流れていく時、日本は独り孤塁を守るべきだ。そして、世界に日本的生き方を提唱すべき使命がある。自然に寄り添って生きるのは、むしろ環境問題の根幹ではないのか。


予報と対策

2008年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム

秋葉原の無差別殺人事件以来、心理学者や哲学者が色々語っているが、科学の限界のようなものを感じる。
何とか、原因と結果を結びつけようとするから、無理な理由付けや無意味なコメントばかり聞く。
マスコミも、情報を並べ立てて、強引に答えを出そうとする。

非科学的態度で見ると、答えは簡単だ。
予言の成就のように、なるべくしてなっているのだから、予定の現象のいずれであるかを確認するだけだ。
道で転んだのは、石につまずいたのでもなければ、悩み事でぼんやりしていたからでもない。「転ぶ時が来たから転んだ」のだ。

それじゃあ、何も対策がないのかと言えば、そうでもない。
科学が原因を探し、その原因に直接対策を打とうとするのに対し、
占いのような非科学は根拠や原因にこだわらない。
「理由はともあれ、とにかくこうすれば解決する」という方法を考える。「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫がよい猫だ」の発想だ。

しかし、根拠が要らないとなると、祈祷や聖水で「効きます」と宣言して、金だけぶったくる輩が続出し、占い全てがまやかしであるとされてしまう。

そんな中にあっても、占いびいきとしては、何とか占いの効用を引き出したい。
縄文土器での調理は、高級鍋より美味しいかも知れないのだ。

占い的解決
世相や事件が、必然的なものだとしたら、事件の背景、原因を具体的な事柄に求めても意味がない。個々の対策は、年金問題のモグラたたきのように、忙しいだけで何も解決しない。

もし、理由に関係なく、世相が必然的に変化するのなら、人心を具体的に変化させることだけ考えればいいわけだ。
それは、薬や酒で変化させることではない。社会全体がその変化を認識することが重要となる。

例えば、現在が「魚座の錯乱時代」であることを、社会的に認識していたなら、
個々の事件の因果関係をあれこれ言うより、対策として、錯乱のメカニズムや物事の信憑性などを、いきなり解説すればいい。
世の中に確かなものなど無いことを周知し、完璧より「ベターな」選択をする価値観を提案することで、緩和することができるだろう。

今の世相問題は「確かなもの」を求めることが原因だ。
「オレオレ詐欺」は確かに違いないと思うからやられる。
年金は国を信用しているから、役人のいい加減さに腹が立つ。
勉強すれば成功するはずだと思うから、予想外だと我慢できない。
キャリアになれば権利を享受できると思っているから賄賂に墜ち、死ぬまで安泰の天下りを当然と思う。
医学を信じるから何でもかんでも病院に行く。
「お墨付き」を信じるから食品偽装や使い回しを食べさせられる。

こういうことは、法律や制度では解決しない。社会的、文化的な価値観や慣習を啓蒙することが先決だ。
四択で必ず答えが出るような勉強ではなく、ああとも言えればこうとも考えられることを教育することが必要だ。


加藤の乱

2008年06月08日 | 星の流れに

秋葉原の無差別殺人。満月でも新月でもない。
月と火星の0゜、海王星との180゜など、色々に説明は付くが、これは事件と言うより、世相として考えるべきだろう。

「世の中が嫌になった」から無差別殺人。何でそうなるんだと、誰でも思うかも知れない。
しかし、天王星/魚座時代の世相現象そのものだ。

魚座=海王星の虚構世界では、自分の存在が解らなくなる。
命の尊さとは、自分個人の命なのか、他人と共有する類的、社会的な命なのか解らなくなり、自分の命=他人の命、という感覚になる。

「他人を殺してみたい」のは、自分の命の大切さを、他人を殺すことによってしか理解できないからだ。自分を殺せばすべてが終わってしまうので、他人を殺して、命の実感を確かめたい。
同じ事は
自殺したいのに、自分では死ねない。死ねないなら、そこで命の大切さに気づきそうなものだが、他人によって殺して貰えば、死ねないはずの大切な自分の命も、自分を越えて、殺すことができる。
そこで、集団自殺や、死刑願望が出てくる。
「人を殺せば死刑にして貰えると思った」・・・となる。

もちろん、これらの動機は、世の中の人が気づかない以上に、本人は無自覚だ。

「星の流れに」で縷々説明しているが、魚座は鏡だ。主客が錯乱する。対極の乙女座に土星が入ってから、ますます社会的に錯乱現象がひどくなっている。(バラバラ、ガスなどの事件も)
またも海王星の7

「秋」葉原は、やはり乙女座なのだろう。元々「家電」で知られた。
魚座時代に「メイド」や、「萌え」など魚座現象で脚光を浴びたが、土星が入ってからはネガティブ事件ばかりだ。


行く河の流れ

2008年06月06日 | 占いばなし

アメリカ大統領選。民主党はオバマで決着した。
有利な立場*にもかかわらず、ここまでもつれてようやく決定したのは、逆にオバマの実力レベルを物語っている。*男と女2
「チェンジ」のかけ声だけでは、いくら民主党でも候補までは行くまいと、希望的にぎりぎりでも「ヒラリーか」と思ったが、やってしまった。
本戦でも、オバマが勝つようなことがあると、アメリカは本当に「チェンジ」が始まる。もちろん衰退へのチェンジだ。

もとより、日本にとって民主党は疫病神だ。
アメリカの民主党と言えば、名前から、平和や人権主義をもたらすように錯覚しやすいが、外国に対しては共和党と何ら変わりない。
むしろ、理想主義である分、机上論者で情がない。
第二次大戦も、原爆投下も、ベトナム戦争も、スーパー301条も、すべて民主党だ。

だから、ヒラリーの応援をするわけではない。
しかし、占いで考えると、世界の支配権を「三碧」のオバマが握ることには恐怖を感じる。
三碧はジャーナリストやタレントには最高だが、信念、忍耐、大局観といった、「表に現れないリーダーの資質」には欠けるところがある。
ヴィジョンはあるが、持続性と裏付けがない。目先のカッコ良さに自分も他人も酔ってしまう。
三碧は「若者」だから、教育問題には成功するかも知れないが、現実処理には年寄りの知恵が必要だ。

現在の政治家で、三碧と言えばプーチンだ。
三碧得意のマスコミと若者操作で、国民を洗脳しつつある。
経済が好転したのはプーチンの手腕ではない。実は、環境の好転に便乗して「ええとこ取り」をしているだけだ。カッコ良く笛を鳴らして進む先はどこか知らないが、恐ろしいことだ。

オバマも、勝利の原動力は若者だった。「チェンジ」の合い言葉で熱狂的に若者の支持を集め、流れをつくった。
若者の熱狂は、ロックバンドのブームのように、理屈ではない、見た目のカッコ良さや、刺激的な言葉に触発される。
ネットによる若者中心のブームで、泡沫候補が当選するパターンが世界的に広まっているが、盧武鉉など、短時間のうちに惨憺たる結果に終わった。

もしオバマが、一歳年下の二黒なら、かなり期待するが、ロシア、アメリカともに、三碧のリーダーというようなことになれば、世界はぐちゃぐちゃになってしまう。

しかし、冷厳な運命の流れが、本当に「大転換」に進むのなら、それはまた、予定のステージなのかも知れない。


長子と弟妹 3

2008年06月02日 | 兄弟関係

ひょうきん者」が末っ子の生きる術だ。
方法論や持論を主張するより、敵を作らないことが、はるかに得すると悟っている。
それは、兄姉によって、どうしようもない力関係を学んでいるからだ。
勝てない相手には気に入られて、ついでに相手の力も利用する方が賢明であり、自分もそうするのだから、他の人もそうしているのだろうし、そうあるべきだと考える。

その結果、相手を笑わせ和ませるのが最良の策となり、「ひょうきん」を身につけ、同時に、力関係、上下関係に従うことが人間に最も大切なことだと信じるようになる。

お笑い界が異常なほど上下関係にうるさいのは、「ひょうきん者」の社会だからだ。
お笑いは、社会風刺はするが社会建設をするわけではない。

長子的な原理主義で、あれこれうるさい方法論を熱弁していると、
「いやーあ、この話になると鼻の穴が倍ふくらみますなあ。鼻くそ大丈夫ですか」などと茶々を入れたり、
「そうだ、その通り!お前もよう聴いとけ」などと、真剣さを薄めてしまう。
確かに場は和むが、真面目な議論や創造はそこで終わる。

弟妹型は、ガチンコの議論より、場の主導権を握ることで、自分自身の売り込みや「利得」に切り替える。

お笑い芸人の政治家
人気投票のような政治制度では、お笑い芸人が政治家になるのは極めて簡単だ。多くの人が、面白くもない話より、目先の「なごみ」を求めるからだ。

しかし、お笑い芸人にまともな政治ができないのは過去が証明している。多くの場合、最後まで人気はあるが、辞めた後にはとんでもない荒野が残っている。人気取りだけで、建設がなかったからだ。

議員など、大勢の中の一人なら良いが、首長の場合、大阪のノック、東京の青島のように、はっきり結果が出る。
今人気の宮崎も冷静に考えれば、CMタレントとして以外、中身は何もない。悪いことをするよりはましだという、究極の選択の結果だ。

芸人でなくとも、弟妹型の小泉純一郎は、いまだに人気があるが、今頃になって国民は、何が行われていたのか、ようやく気づき始めている。

歴史的に、人気先行の政治家で良い政治が行われたことはない。
むしろ、目立たなくとも信頼と尊敬を集める政治家こそが善政のあかしで、支持率や人気に左右されるような政治システムは本来、間違っているのかも知れない。
「カエルの王様」では、神様が最初にくれた丸太の王様に不満を言ったカエル達が、美しい鷺の王様に全部食べられてしまう。

おそらく、良い政治家とは、昼行灯で、いざという時に、先頭に躍り出る大石内蔵助のような型だろう。ちなみに、大石は長男だ。

亀田「四」兄弟
亀田一家も兄弟関係の典型だ。
都合悪いと黙っている中間児の大毅と、日頃は、たいそうな末っ子型の親父が、責任をとれなくなると、長男の興毅が親父に代わって責任を買って出た。
親子が逆であっても、長子と弟妹の関係が表れた例としておもしろい。