魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

世相凝固

2008年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

現代の若者が「やる気がない」などと言うのは老視だ。
若者はいつの時代も情熱に燃えているが、それを発揮できる環境や、方向性が違うだけだ。

昔のように、大声を上げて走り回らないからと言って、何もしていないわけではない。
むしろ、昔と比べればはるかに遠くまで、ネット上を走り回っている。

しかし、何れの時代にも、特有のカセ(枷)とバイアスがある。
現代の若者のカセは情報システムだ。
人類は新しい能力を身につけるたびに、その環境になれるため、制限を受けて苦しむ。

背伸びをした現代人
情報システムは、二足歩行や、文字の発明と同じように、進歩は、同時に束縛となっている。
情報システムに頼りすぎて、五感による認識を忘れ、動物として身につけた数億年の能力に封印をする。
皮膚感から生まれるコミュニケーション能力に、カセを掛けるのだ。

また、時代のバイアスとなっているものは、閉塞感だ。
自分たちには出口がない。という思い込みが創造にフタをしている。
この出口のない閉塞感は、一朝一夕に生まれたものではない。

チャップリンの「モダンタイムス」のように、産業革命後の人間疎外が根底にあって、さらに、その上に、現代のスピードや人間を超える能力が、人間の尊厳を貶めている。

「ハイテクによる認識」に追いつけない現代社会は、実は、自信を喪失しているが、若者は、それでも無自覚に果敢に、それを乗り越えようとしている。
それが若者への希望であり、同時に危うさでもある。

アニメ空間に閉じこめられた現代
アニメが発展していく過程で、一貫して気になっていたことは、絵面や声優ではない。ストーリー背景にあるタテ型社会だ。

先輩・後輩の人間関係、人物設定にまつわる出自や経歴。
伝説のヒーロー・・・など、
登場人物が、ほとんど固定したタテ型社会で表現されており、対等で自由な、出自に関係ないストーリー展開がない(少ない)。

初めの頃は、宇宙戦争などの軍隊モノに目立ったが、いまではアニメの根底は全面的に固定社会になっている。
これは、アニメだけでもなく、アメリカ製のスタートレック等にも顕著にでている。

昔、社会がタテ型だった頃には、むしろ無かった設定が、
タテ型社会が失われた環境の中で、意識して現れた。おそらく、軍隊「らしい」展開をするために強調された演出ではなかったかと思う。

ところが、それを見て育った人たちに、タテ型の秩序が住み着いてしまった。今では現実の中にタテ社会を持ち込み、自らそれに縛られている。これも新しい閉塞状況だ。
スタートレックにしても、最初の60年代カークの頃には軍隊といえどもタテ社会は希薄だったが、80年代のピカードでは俄然、タテ型の縁懇社会になっていた。

悪平等はタテ型価値観の裏返し
現在の人は、当たり前すぎておそらく気づかないと思うが、戦後の一時期と比べれば、きわめて先輩・後輩の意識が強く、出自に対する意識が強い。
悪平等と言われる一方で、タテ社会が非常に堅固にできあがってしまっている。何でも平等にしなければならないのは、タテ型潜在意識からの強迫観念だ。

イジメ、玉の輿、逆玉、お嬢様、御曹司、伝説の、前世、格差、上から目線・・・
これらは、タテ型の固定社会ならではの言葉だ。

これが、若者の意識のバイアスになっている。
先輩や上の世代を批判するわりには、ぶち破ろうとしない。
上の世代を無視して自分たちの主義主張を掲げ、自分たちの中からリーダーをたてるような動きが見られない。

上の世代に存在を誇示するわりには、上の世代を無視できない。その結果、自分たちに都合が良い夢を語る大人をリーダーに求める。
いまさらのマルクスブームもその変形だろう。

歴史は、忘れた頃にやってくる。

ヒトラー・ユーゲント
毛沢東・紅衛兵
プーチン・ファンクラブ・ナーシ
盧武鉉・ネチズン
オバマ・???


修学旅行

2008年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

タイの空港で足止めを食らった観光客が
「誰が責任をとってくれるんだ」「もうタイはゴメンだ」・・・
など、口々にぼやいていたが、ぼやく前に学ぶべきだ。
海外旅行は、何とかランドに行くのとはわけが違う。
(あ、タイランドか!)

旅は、人々の生活の場に侵入する、肩身の狭い異邦人になることだ。
観光ビジネスが、旅を「旅行ショー」に変えてから、異境に入る覚悟が要らないような錯覚が生まれた。

動物園のライオンと、野生保護区でライオンを見ることはまったく違うが、車から出て噛まれる観光客が後を絶たない。

パック旅行といえども、異境に入ることは、この野生保護区に入ることと同じだ。勝手な思い込みが通用する場ではない。

同時にまた、「旅の恥はかき捨て」と言われたような無責任な関係でもない。
北海道の高校生が、ロスで集団万引きをしたようなことは、一頃のオヤジ族の買春ツアーや、口説けば簡単に落ちると言われる日本女の評判など、直接間接に日本のイメージに影響する。
しかも、国のイメージというものは一人歩きして、国益に直接響いてくる、これも皮肉なグローバル社会だ。

オヤジやネエチャンは手遅れでも、修学旅行なら行く前にこういうことを教育するのが学校だ。
「海外に行くことは一人一人が国のイメージを背負った大使なのだ」と、高校生には教えれば学ぶ。それも上意下達ではなく、一人一人が考えるための議論をさせることだ。

うちも修学旅行は海外だ、と、いい気になって浮かれているだけでは
学校ではない。生徒を停学にする前に、教師が懲戒されるべきだ。

どんな海外旅行も、よそ様のお宅に上がらせてもらう気持ちが大切だ。
くだらない礼儀作法より、よほど大切な心がけだと思う。
動物園には見に行くのではない、実は、見てもらいに行くのだ。

観光の「観」は、歓楽の「歓」ではない。
何かを学ぼうという意識こそが大切だ。
タイだけではない。海外では何が起こるかわからないと言うことを、学んだだろうか。


冥王星→日本

2008年11月28日 | 星の流れに

冥王星→天秤座(1971~1983)
冥王星の影響は、日常の事件には直接現れない。
長い歴史的な時間の中で位置づけられるような「意味」に影響する。
われわれ日本人にとって、比較的わかりやすいのは、冥王星が来た時、日本にどんな影響を及ぼしたか・・・と言うことだろう。

日本を天秤座とすれば、250年に一度の再会は1971~1983年の12年間。影響圏を含めれば、ざっと、15年ぐらいだろうか。
遡れば、1720~年頃、ちょうど将軍吉宗の時代だ。
さらに遡れば、応仁の乱の後の復興時代になる。

70年代から80年代は日本にとって何だったのだろう。

天秤座の前の、冥王星→乙女座は、混乱期だ。
乙女座は魚座の真反対に位置し、表裏の関係となる。
いずれも、それまでの秩序が乱れる時になり、120年続いた形態が崩れる時となる。

吉宗の前に家康の将軍家が崩れ、吉宗が復興者として現れた。
足利体制が崩れて応仁の乱が起こり、荒廃の京都に復興の気運が生まれた。
乙女座の混乱の後で生まれる「疲れた平和」が、冥王星→天秤座だ。

70年代は戦後の混乱が完全に収束した時でもあるが、
日本が黒船以来120年の武闘から、文化国家に生まれ変わった時とは言えないだろうか。

もちろん、冥王星は世界にも影響を及ぼしている。
明治維新後の世界は、武闘の連続だった。
乙女座時代のベトナム戦争は、武力による国益獲得の転換点となった。
ベトナム戦争によって世界中の人が、戦争に大儀のないことを知った。
その後の戦争は国家間の争いではなく、民族紛争やテロなど、病との戦いとなった。

70年代は、大転換の冥王星が、平和の天秤座に来ることによって、250年に一度の、平和への思想転換が起こった。

そして、冥王星による日本そのものの変化は、日本が完全に天秤座としてのアイデンティティーを確立したことだろう。
アニメなど経済成長に伴う文化はこの時期に築かれた。

日本には豊富な素材がありながら、明治以来、世界の混乱に巻き込まれ、その素材をまとめ上げることができなかったが、ベトナム戦争後の、沈滞の平和のおかげで、日本は自分を取り戻せた。

日本が、文化の天秤座に当たることは幸せだ。
冥王星は今、何事にも厳しい山羊座にいる。最後の砦を表すインドの人は、いつも極限の運命にいるということだろうか。


冥王と天王

2008年11月27日 | 世相史観

目を覚まして、『そうそう、今日は冥王星が山羊座に再入宮する日だ』と思いだし、ブログを書こうと起きてみたら、すでにムンバイで大事件が起きていた。

書こうと思ったことは、
「日本時間27日の10時に、冥王星が山羊座に再入宮するが、これ自体はたいした事件にはならない。むしろ、28日の1時に天王星が魚座で順行を始めるほうが大きい」
と言うことだった。

つまり、今回のムンバイ・テロは、長期的に見て、山羊座のインドに運命的な変化をもたらすが、この事件そのものは、魚座にいる天王星が逆行から順行に移る停止状態で起こっている。

惑星が停止すると、最大のエネルギーを発揮する。
天王星の働き、魚座の事柄と影響については、「世相史観」「星の流れに」で執拗に語ってきたが、今回また、顕現したわけだ。

天王星は革命と爆発。魚座は宗教や映画。
魚座はインドの映画産業「ボリウッド」を表し、イスラム(宗教)過激派によるテロだ。しかも、カシミール独立という国境(魚座)問題も絡んでいるようだ。
ムンバイは、もとボンベイ(Bombay)だが、Bombbayなら、爆弾湾だ。(天王星は爆発、湾は蟹座や魚座)

さらに、タイは魚座の国だが、ここもごらんの通りで、やはり危機が迫っている。

こういうことは、朝から晩まで星の動きを考えていれば容易に思いつくことだが、歳のせいか、
あまりにもいろいろ事件を見ていると、「そやし、どやねん」という諦めのような気持ちが先に立って、「ああ、やっぱり」ぐらいしか心が動かない。
事件は次から次に、「起きる時には起きる」

重要なことは
事件が何時起きるかではなく、それがどういう意味を持ち、何に向かっていくか・・・だ。
そして、われわれは何をしなければならないのか
それを考えることこそが重要だ。

占いで考えない人も、現代の情報化社会で、事件に麻痺している。
何十年も前に井上陽水が「傘がない」と歌ったように、驚きが無くなると意欲を失う。

占いは、「それは、こうなる」と、漠然ながらある程度、先を照らす。
事件の意味するものが見えたら、それを少しでも良い方向に変えなければと、意欲がわくかもしれない。

しかし、運命が固定で、悲惨な未来から逃れられないような誤解をすると、絶望しか残らない。


構造腐敗

2008年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム

何年前か忘れたが、地デジ機器を初めて買ったら、[B-CAS]カードが付いていて、その存在を知り、
「こんな、国民総背番号制か、あるいはそれ以上の、個人情報収集システムを、当たり前のように強制するのはとんでもないことだ」と思って、消費者センターに電話をした。

すると、電話に出てきたオバチャン(あえてそう呼びたい)は、その存在を知らず、当然、そのわけの解らないものによって起こる「プライバシーの侵害」の仕組みも理解できないから、
「何をワケのわからないことを言っているネン」という態度でめんどくさそうに聞いていた。

「そんなモン聞いたことがない。聞いたこともないようなモノが害をなすワケがない」のようなことを言うから、
「ですから、ことほど左様に周知されないままに、個人データーを集める仕組みを強制することの問題を話しているんです」と言うと、専門家の自分が知らないことをバカにされたとでも思ったのか、
「そんなに重大なことなら、自分も聞いているはずだが、聞いてないじゃないか」と逆ギレしたので、
「とにかく、B-CASのクレームがあったと、伝えておいてください」と電話を終えた。

コピーワンスや、B-CASという、ひどい条件を付けながら、デジタルに切り替えるのだと、キャンペーンを張っている連中の厚顔を思いながら、電波放送時代の終焉が来るのかなあと、悶々としていた。

今年、ようやく、妥協策の「ダビング10」が出てきたが、B-CASはそのままだった。この秋、B-CASにもようやくメスが入るとの話を聞いたが、「いまさら」と、あきらめている。

新しい仕組みが生まれる前から、利権、利権、利権と、がんじがらめにとりつくような社会では、何を始めても成長しない。
この経緯を見ていると、
やっぱり、デジタル化は、利権構造のなれの果てとしか思えない。

この時代は構造腐敗している。
ものごとの仕組みを根底的に変えない限り、自動的に大崩壊する。
しかし、大転換を人間が意識的に成し遂げた試しはない。
革命と言われるものも、結局は、時の流れの産物だ。
その証拠に、
革命は革命によって革命される。
(革命が一世代で収まったことはない)

結局、この社会の大崩壊を、われわれは指をくわえて見ているしかないのだろうか。

この思いが、ネット世代の若者を駆り立て、世界の多くの国で新政権が生まれている。
しかし、残念なことに、若者自身のリーダーが若者の中から現れていない。怪しげな大人の応援団として、動いているだけだ。
このことが、なおさらに、将来を不安にさせる。


救急車

2008年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

中学の時に家で、カンナを持ったら刃がストンと落ちて、足の中指の先が、厚さ5mm弱、直径が10mm弱ほど飛んでしまった。
誰もいないし、床は血だらけになるし、痛いしで気が動転した。

指が切れても、すぐ医者に持って行けばくっつくという話を思い出して、骨は関係ないからつくかもしれないと思い、元の位置通りに貼り付けて押さえて包帯をした。

今みると、貼り合わせた部分が微妙にずれて、軽く溝になっているがほとんど判らないぐらいうまく一体化している。
もう数ミリずれていたら、こうはいかなかっただろう。不幸中の幸いとしか言いようがない。

結局、医者には行かなかった。
当時、救急車という物はなかった。
今、ちょっとしたことで救急車が出動させられ、肝心な重症患者のときに間に合わないような事態になっている。

中学の時のようなこんな怪我をしたら、救急車を呼ぶべきだろうか、呼ばなくても良いだろうか。
自分ではたぶん呼ばないと思うが、
周りに人がいたら呼ぶ人がいるだろう。

いずれにしても、救急車を呼んで全治一週間以内と診断されたら、タクシー料金の倍払いをすることにしてはどうだろう。
当然、救急車には大きめの料金メータを取り付ける。


歌ごころ

2008年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

演歌が好きなわけでもないし、カラオケが好きでもない。
しかし、歌は言葉が命だと思う。
アジアの日本人としては、メロディーは言葉を美しく伝えるためにあるのだと思う。

近頃は、楽器としての歌手しかいないような気がして、こんな歌なら歌なしの音楽だけを聴いている方がよほど良いと思っていた。
ラップも言葉のための音楽ではなく、音楽のための言葉で、これも思わず「うるせぇ」と言いたくなる。
しかも、いずれも、無国籍風にするために、わざとなまった言葉にして歌う。つまりグチャグチャにすることがミュージックのようになっていた。

ところが、ジェロが現れて、若い人が演歌に興味を持ち始めた。
演歌と考えるからおかしいので、歌本来のメッセージを伝える手段と考えれば、演歌と言われるものの中に、「歌垣」の心がかろうじて生き残っていただけのことだ。

言葉を伝えるために節を付けるのは、歌垣だけではなく、コーランや声明なども、民族的な歌の源にもなっている。
中東の流行歌を聴いていると、コーランを詠んでいるのと区別がつかない。

人が声で歌う歌は、楽器としての声楽はそれで良いとして、やっぱり言葉だ。
バブル期というものは、「何でも良いジャン」、「イケイケどんどん」のような気分になっているから、メッセージを聞く気がなかった。

しかし、不景気で、熱気が冷めて正気になると、人には「言葉」が必要になる。
一頃のフォークの再来や、カバー曲ブーム、そして、こんどの演歌の兆しは、世の中がメッセージを求めている。言葉を聞きたがっている。
人間本来の心を取り返そうとしている。
そう思える。


また「小」

2008年11月23日 | 星の流れに

小泉丼」で近頃「」の付く名前が目立つと言ったが、
その後も「小室哲哉」(笑えない)など、やはりあちこちの事件で「」の字が目立っていた。これについては「このところ」で少し考えてみた。
今度もまた「小泉」だ。この報道をしているレポーターが偶々、また小林だった。

もう一つ、「市川」も近頃目立つが、これは何を意味するんだろう?


情報と実体

2008年11月22日 | 占いばなし

オバマはヒラリーを国務長官に選んだ。
いかにも、いかにも「三碧」だ。
なぜ副大統領候補にしないのか不思議だったが、初めからこの手を考えていたのだろう。ここまでの計算は想像しなかった。

三碧は「ちゃっかり屋」だ。何かに便乗して自分が主体になる。
マスコミである三碧は、実体を報道することで、自分が主体になる。
実体あってこその情報屋だ。

プーチンはエリツィンに便乗して大統領になり、今度は傀儡大統領のメドヴェージェフを立てて行動している。
ヒトラーにはゲッベルスがおり、逆に小室哲哉の陰で木村隆が暗躍していた。
情報で生きるマスコミは、責任者=実体になることを嫌い、横でまことしやかな話をして利益を上げる。

オバマは、ヒラリーとの対決の中で、ヒラリーの力を見抜き、来たるべき右腕に決めていたのだろう。話もできていたのかも知れない。
三碧にとって、これほど使える「実体」はない。
ヒラリーが国務長官になれば、アメリカには大統領が三人いるようなものだ。
三碧のオバマは、クリントン夫妻に任せっきりで、自分はそれに便乗して、舞台でど派手なショーがやれる。

三碧が三碧のみでリーダになることは難しい。だからどうなることかと思っていたが、これなら実体はクリントン政権になる。

だからと言って、喜べない。クリントン時代に起こった悪いことは三碧によって増幅される。民主党は観念的で情け容赦ない。
大統領の立場ではできないような過激な思想も、三碧のスピーカーによって容易に実現する。

ちなみに、ゲッベルスもヒラリーもサソリ座だ。
ヒトラーとゲッベルスは牡牛座とサソリ座の関係で、うまくいきすぎたが、オバマとヒラリーは獅子座とサソリ座でギクシャクする。ビルも獅子座だから、どういう関係か想像は付くだろう。


知が生む無知

2008年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム

室町時代の言葉が残る狂言では、犬は「びょうびょう」と鳴く。
と言っても、「び・よ・う」と今の音のようには発声しない。

狂言が生まれた頃、既に犬は「びょうびょう」と鳴くものということになっていたのかも知れないし、狂言師が現代の漫画のように面白くリアルに表現しただけかも知れない。

室町時代も今日も、犬の鳴き声に大きな違いはないだろう。
犬は「わんわん」とも「びょうびょう」とも鳴いているわけではない。犬は犬語で鳴いている。

おそらく、「わんわん」は近くで鳴いている声で、「びょうびょう」は遠吠えか、かなり離れた位置からの鳴き声ではなかろうか。
日本の犬が「わんわん」と聞こえる距離で暮らすようになったのはそう昔のことではなく、室町時代は飼い犬より、野良犬の方が主流だっただろう。

「びょうびょう」が「ぅう゛ぉ、ぉ、ぉ~」のような犬の遠吠えを表現したとすれば想像がつく。
「犬の遠吠え」と言うと、遠くの犬同士の連絡もあるが、これは、離れた位置から敵を威嚇する鳴き声だろう。

何の先入観もなく、室町時代の子供になって考えれば、「びょうびょう」と聞いただけで、犬の鳴き声が容易に聞こえてくる。

知的理解
しかし、知識の積み重ねで物事を理解する学問は、こんな感覚的には考えない。
文献を探り、時代別の発声や言葉を比較し、そこから導かれる推測を検証して、時代の持つ言葉の傾向や変化の仕方、人々の感性や暮らしぶりを浮かび上がらせていく。

学問的な方法は、人間の知の拡大に大きく貢献してきた。
自然科学的な方法が、文化研究にも適用され、確かに成果も上げてはいるが、はたしてどこまで、受け入れられるものなのだろう。
近頃の世相を見ていると、むしろ、弊害の危険を思ってしまう。

人間の錯覚による思い込みも危険だが、学問信仰による思い込みの方が根が深いこともある。

犬が「びょうびょう」と鳴く文献や狂言が残っていたとしても、それをどう解釈するかによって、次の文献を見る目は違ってくる。

近頃、日本も世界も、教養が非常に高くなった。知の用い方が正しく原則的になってきた。何かと言えば、情報の裏付けにこだわる。
そして、それを確認すれば納得する。
ところが、この方法は、情報の全てが正しかったとしても、一つの情報が欠けていれば土台から崩れてしまう。

情報の上に情報を重ねる危険が拡大している。
自分は引っかからないと思っている詐欺に引っかかるのは、
情報と情報が、極めてうまくつながっているからだ。
そして、その情報を知っているという自信、それをつなぐ論理を理解できるという自信・・・
それが、「欠けている情報」に対する気配りと想像力を失わせる。

サブプライム・ローンに世界の専門家が引っかかったのは、
「王様は裸だ」と言えなかったからだ。
単純素朴な直観で考えなかったからだ。

金融商品に替わって現れる大嘘つきは、政治リーダーだろう、
情報化で、世界中が頭が良くなったような気がしているからだ。


雑苦場乱

2008年11月20日 | 兄弟関係

麻生人気が急落している。予想外の経済状況などの不運もあるが、漢字の誤読は意外と影響していると思う。

森喜朗の時は、弱い英語伝説が一人歩きした。
ブッシュの場合もそうだが、言葉遣いがハチャメチャで、失言の連発も共通している。

これは長子の特徴だ。
長子には手本が無いから、すべてが我流で、他人にどう思われるかより、「要するにどういうことか」という、ものごとの本質の方を重視する。
外見やしきたりを気にしないから、ザックバランで「個性」的になる。

ところが、人気が重要な現代の民主政治では、「個性的」は好まれるが、「個性」は嫌われる。

「個性的」とは、大衆がイメージできる範囲の、自分たちを超えたものであって、自分たちのイメージを壊す「ど外れた個性」は受け付けない。
伝説の宮本武蔵にはあこがれても、実際の宮本武蔵が現れたら、汚くて臭くて、早く帰ってもらいたくなる。

見習えない
長男の甚六と言われるように、実際、長子の多くは、学業・スポーツなどの「でき」が悪い。
「見習う」習慣がないから、自分流に習得しようとして、出遅れる。細かなチェックが行き届かないから、漢字や単語、計算に弱い。
(親が強く指導した場合や、勉強にハマった場合は別)

これは、教育を「読み書きソロバン」と考えてきた、日本の学校では極めて不利になる。
さらに、こういう日本の学校教育を受けた日本人は、読み書きソロバン能力が劣る人を「頭が悪い」と考える。本人でさえそう思い込んでいる人もいる。

だから、麻生や森がいかにものごとの本質を見抜いていても、その見抜いている本質は、国民には見えないだけに、表現のいい加減さが異様に目立つ。
突拍子もないことを言いだし、しかも、その言葉遣いが整っていないから、国民には人格崩壊に見える。

これは、ブッシュも同じだが、アメリカ人はそんなことは大して気にしない。肝心なことは、実際どんな結果を出すかだ。
8年をもらいながら、この結果だから人気が落ちただけだ。

その点、どさくさの急場しのぎに引っ張り出された、森内閣も、麻生内閣も気の毒な気がする。
「困った時の長子頼み」は、鈴木善幸もそうだったが、引き受け手がない時、買って出る責任感が長子だ。
大石内蔵助のように、平和な時代で、仕事が決まっていれば良かったのだが、金融問題のような不測の大事件が勃発したのでは、御家断絶解散だけでは済まなくなってしまった。

長子は、人を喜ばせたり、「らしさ」を演出するのは苦手で、実質で勝負しようとする。麻生内閣にはその時間がない。

しかし、オバマの場合は三碧であり、言葉の「らしさ」そのものが実質なのだから、はてさて、この先どうなりますことやら。


益々・・・きた

2008年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム

天王星84年周期。益々、世相が当時に似てきた。
軍人が独善的になり、暗殺が世相化する空気が漂ってきた。

この数十年。こんなこと(天誅)は歴史の彼方に消えたことのような気がしていた。
しかし、運命周期からは、やはり逃れられないのだろうか。

時代や文明は変わっても、世相や人心は変わらない。
文明が進歩しても、人間が進化したわけではないと言うことだ。

元厚生幹部の暗殺
この事件を聞いて、「やっぱり」と思った人は多いだろう。
被害者自身も「夫が危ない」と、認識していた。

年金に対する怒りは日本中に渦巻いている。行政がけしからんと誰でも思っているだろう。
だから、テロリストは「天誅」の機が満ちたと思った。
テロリストは、社会の道理の「つもり」で動く。
社会の怒りの代理人として、つまり、天に代わって悪を討つ、自分は正義だと信じている。

このような思い込みが芽生える社会背景には、伝統の価値観がある。
日本人には、「敵討ち」の心情が残っている。いまだに忠臣蔵は好まれるし、被害者は必ず、犯人の極刑を望む(あるいはマスコミがそう言わせる)。

「目には目を」という古典的道理、白黒をつけるという二者択一の情緒的判断が、日本文化の特徴でもある。
生か死かという短絡が、潔いとされる。
近頃の、「誰でも良かった殺人」も自殺の増加も、短絡的に答えを求める文化背景が負の形で現れたものだ。

こういう社会には、怒りの気持ちを短絡的に実現させる「暗殺」の深層心理がある。「必殺シリーズ」は大人気した。

政治家は血相変えて怒っている。当然だ。法治社会ではあってはならないことだ。
しかしまた、彼ら自身が知っている。
政治家こそが、何ら、打開策を打たず、国民の怒りを増大してきた真犯人であることを。

本当の責任者は、役人ではない。政治家だ。
法治国家の立法府が、日本の国を「放置国家」にしてしまっている。

犯人に厳正に対処することは当然だ。
しかし、その前に、政治家の仕事としてすることがあるだろう。

行政の不正を厳罰で処断し、それが生まれる法律の不備を正すべきだ。そうでなければテロを容認する背景が生まれる。
そしてなによりも重要なことは、
一刻も早く、年金はやめて、だれでも解る老後保障法を作ることだ。

政治家が無能であれば法治国家は崩壊する。

このまま行けば「戦前」の再来だ。


基軸通貨

2008年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム

ドル基軸体制によるグローバル化ショーが終わった。
ドルというチップを使うカジノがパンクしたわけだ。

19人の博打打ちが集まって胴元と協議した。
チップを換金できないのでは、元も子もなくなるからだが、
みんな本音は、自分さえ助かればいいと思っているから、周りの顔色ばかりうかがっていて、きれい事しか言わない。

ビギナーズラックで大当たりをした、新興国と言われる連中が、今度はオレに胴元をやらせろとか、せっかく儲けてたのに胴元はどうしてくれるんだ、とか・・・
いまだに事態が見えてない。
もうすぐ警察のガサ入れが始まるぞ!

ドルの終わりは20世紀の終わり
何度も言うが、「お金」で世界を動かす時代は終わるのだ。
大量生産をして売りさばく。そのこと自体が間違っていたことに気づくには、どうも、もう100年ほどかかりそうだ。

経済成長とか、経済発展とか、右肩上がりだとか・・・
昔から、何を言っているのか解らなかった。
どう考えても、水の上を歩く話と同じとしか思えなかった。
「右足が落ちないうちに左足を出し、左足が落ちないうちに右足を出せば水の上を歩ける」
この、落語のバカ話と同じだ。

G20で、先進国が落ちかけたら、新興国が踏み出す・・・そんなことにはならない。

新興国は先進国と同じやり方で金を稼いだ。先進国が新興国の市場となって、一見、サイクルが回るように見えた。
しかし、経済成長などという略奪経済は、タコの足食いだ。
地球という限られた世界で、資源や人を食い物にして、何時までも生きられるわけがない。

経済成長が止まれば、たちまち青ざめるような生き方は、根本的に改めなければ、遅かれ早かれ、破綻する。

やはり、世界はやがて、金のない世界に変わるしかない。

中国の大学教授が「次の基軸通貨は元にすべきだ」と言っていた。
まったく解ってない。時代遅れの田舎学者だ。
こういう覇権時代の夢を見ている国と、どうやって新しい経済モデルを作っていくことができるのか、これこそが問題だ。

重要なことは、産業革命後のパラダイムを捨てて、
調和と共生のユートピアを描くことだが、
この仕事はむしろ、アトムの夢のように、芸術家にかかっている。


KYK (KY関係ねぇ)

2008年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム

また、おもしろい人に遭遇した。

昨日、家電量販店の駐車場でスタートしようとしたら、
BMWが真ん前に止まって、出られなくなった。
中から、おネエさんが髪をかき上げながら、「マッタ」のそぶりで平手を突き出し、こっちに飛び出して来た。
窓を降ろすと、荒い鼻息でいきなりしゃべり始めたので、
聞いていると、どうも、道を尋ねているらしい。

と、今度は突然、紙を出す。
手書きの地図らしいが、現在地との位置関係が解らない。
よく見れば、こちらから見て逆になっている。

目的地名は『どこかで聞いたような』気はするが、そんな建物はこのあたりには無い。
そのうち、地図を見て、はたと思い出した。
マークした建物の中に、そんな店があったような気がして、
「OOじゃありませんか」と、建物の名前を聞くとそうだと言う。
「あ、それじゃあ・・・」と説明すると、
「あそこから出られますか」と、今、自分が入ってきた駐車場の出入り口を指す。

また、ブンブンと興奮音を残して行ってしまったので、
ようやく解放されて、車を出せた。 ふーっ;

これは、典型的なO型の興奮だ。(ほかの要因も含めて)
ブッシュのイラク突入と同じで、
自分の目的意識のために、周りが見えなくなってしまう。

何も、道を塞いで、捕まえて白状させなくても、逃げやしないし、駐車場に人がいなければ、店に入って聞けばいいのだが、
自分がせっぱ詰まっていると、周りの人も緊急事態だと思ってしまう。

周りが見えなくなるのは、O型とは限らない。
「今、売り上げ強化月間なので買って下さいっ!」と言う営業が、時々いる。客には何の関係もないことを忘れている。
たいていは、若い社員が、会社のことで頭がいっぱいになっているケースだが、組織が何のための組織だったのか、忘れるとこうなる。
物販会社は客にものを買ってもらうためにある。
会社内の秩序や調和が目的ではない。

役所は国民や住民のためにある。組織を守るためにあるのではない。
政治家も国民のためにある。党派や自分の保身が目的ではない。


休めない

2008年11月12日 | スタンス

しばらく休もうと思っていたら、
気になるニュースがあったのでチョット一言。

岐阜で、車が転落して、運転していた人が3日目に助けられた。
その捜査をしている最中、100mほど離れたところに別の車が転落していて、やはり死後10日ほど経った人が見つかった。

こういう事件があると、転落死した人の霊が、道連れを引っ張ろうとしたとか、自分を見つけて欲しくて呼んだのだとか、
すぐ、因縁話にして人をおどしたり、ついでに便乗して、金儲けのネタにする「怪しげな」人が出てくる。

こういう偶然は、いかにも不思議で、
何らかの必然的な力があったに違いない、と思いたいものだ。

これは、現象に隠された原理を解明したい、科学につながる人間の論理思考のあらわれだが、
何もわからない古代の人は、「霊」や「神」の力でそれを説明しようとした。

思い込みを排除して、事実の積み重ねで原理を解明する科学が発達してからは、霊や神の影が薄くなっていたが、
あまりにも高度になった科学に、ついて行けなくなった人々の中に、スピリチャリズムが息を吹き返してきた。

必ず答えを求めようとするのは、子供の「なんで、どうして」と同じで、悪いことではないが、科学的視点では「分からないものは分からないもの」として残しておくものだ。

偶然に起こった不思議なことを、「霊」の仕業にすれば手っ取り早い。お祓いをすれば問題が解決すると思えるからだ。
理由が分からないままにしておくと、また災いが起こるのでは、と不安になるからだ。そこで、その不安につけ込んで儲ける人が出てくる。

神の声
転落事故は、偶然かも知れないし、必然かも知れない。
しかし、「霊」とするのは短絡的すぎる。
事故の連続は、道路の形状や季節的条件、気候的状況が重なって起こったとしても不思議ではない。ただし、これを科学的に解明するのは容易ではない。

これと同じように、身の回りで起こる不思議なこと、不安なことにつけ込み、「お祓い」で解決しようと言う人がいれば、
これは「振り込め詐欺」とまったく同じ手口だ。無いものを有ると言ってお金を出させようとしているからだ。

こんなことを、占い師が言うのはおかしいと思われるだろう。
それは、占いと称して、「振り込め詐欺」のようなことをしている連中があまりにも多く。世間一般常識として、占いと、拝み屋が同じものと思われているからだ。

占いは、霊との因果関係を説明するものではない。
拝んで運を変えられるものでもない。
森羅万象を動かす原理に従って生きようとするものだ。

占い原理で考えれば、岐阜海津市南濃町で、起こるであろうことが起こるべくして起こったと考える。

科学が、積み重ねで原理を見いだそうとするのに対して、
原理を想定して現象を見て行こうとする、科学の真反対にいるものだが、神の声を求める心では同類のものだ。そうありたい。

ここで言う「神」とは、願いを聞いてくれたり、お告げを下したりする「霊」的な「神さん」のことではない。

運命予報


人間的な霊とは違い、「神」は科学の上にでも存在することができる。
人間と霊は対等だが、すべてを超越した存在を「神」と呼ぶからだ。
ついでに、あえて「仏」について言えば、神を知る存在だろうか。