魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

未来古都

2010年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

No.973

長崎平戸で昨年、死者12人を出した第11大栄丸の、遺族の女子高生が、古典の「方丈記」授業で、教師が無常観を解説する際、「人はいつ死ぬかわからない」と言ったことを、「親が死んだのは風流だ」と言われて適応障害になったと訴え、県弁護士会人権擁護委員会に人権救済として受理された。
教師は「風流とは言ってない」と、否定している。

実際、どんな授業だったか解らないが、無常観を説明するのに人の死を語らないわけにはいかないだろう。
理解力のない高校生が、無情と風流を取り違えたのかも知れないし、教師の解説が下手だったのかも知れない。

宮崎の口蹄疫問題でも、九州の自己主張の話を上げたばかりだが、ここでも、九州文化を思い起こす。
事故家族の悲惨は全国どこでも同じはずだが、自分の不幸を他者への攻撃権と同格に考える文化があるようだ。

災害事故の互いの気遣いが、気遣う人への感謝から一歩踏みだし、誰でも自分に気遣うのが当然だろう。と、いうことになるらしい。
長崎市長が暗殺された弔い選挙で、娘婿が落選すると、娘は「伊藤一長への思いはこんなものだったのか!」と怒りをぶちまけた。

人情と現実政治の区別がつかない感情論を、公の場でぶちまけられる、文化環境に感心した。一方で、長崎市民の賢明さにも感心した。
賢明な認識と判断力があっても、強い情緒があれば、自制や諦めより自己主張に向かう。

雪に閉ざされた東北の文化が、我慢や諦めに向かうのに対し、暖かく雨風が強い地域では社会全体が、前向きな自己主張を前提にしている。
しかし、これが世界標準で、世界に接している九州の地勢的なものだろう。日本全体の自制文化の方が、むしろ変わり種だ。

自己主張を前提とする文化は、感情をストレートに発散する。
被害に遭えばみんなで励まし、被害者は「犯人を死刑にしてください!」と素直に叫ぶ。
そうした環境の中で、父親が事故死した女子高生が、整理できない悲しみを、自制と諦めではなく、犯人捜しや八つ当たりで、怒りの発散に向かうのは、むしろ自然なのかも知れない。
だから、県の弁護士会も賛同した。

世界に向き合っている、沖縄、九州、朝鮮が、世界原理の自己主張では同じでも、それぞれの趣は違う。
沖縄はDNA的にも近い東北・北海道に似た、諦めがあるが、
九州は諦めない。何とか打開しようとする。
朝鮮はどこまでも自分を曲げず諦めないから「恨」になる。

日本が世界に互していくパワーは、西にある。
黙々と「ものづくり」をする職人マインドは日本の奥深くにある。
それをミックスしたのが東京だが、東京に集中しすぎたのが、現在の停滞原因だ。
地方分権のために、やはり、象徴的「都」として、近畿に首都移転した方が良さそうだ。